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消えた遊廓・赤線跡をゆく? 大連編

台風11号が近づいて、週末は家から出るに出られずなBJのぶです。
今は雨は止んだものの、風はけっこう強くて自転車に乗っとったら突然の突風でグラっと倒れそうになります。
せやけど土曜日と日曜の午前はものすごい大雨、家から数百メートルのコンビニへ行くのにも、ある意味命がけです。
俺が住んでる地域のすぐ近くの地域は、土砂崩れの可能性があると市から避難勧告が出てたんやけど(俺が住んでるとこはギリギリ出てません)、確かに近くの川は氾濫しそうなくらいの大量の水が流れとります。
せやけど、台風はある日突然大阪上空に発生したわけちゃうさかい、週末の「ひきこもり」生活に備えて食料を買い込んできとります。おかげさまで「ひきこもり」生活をエンジョイしとります(笑

で、ふと資料収集も兼ねて、久しぶりに国会図書館のデジタルライブラリにアクセスしてみました。
そして何の目的もなく、
「おもろい資料ないかな~?」
と超テキトーに検索して超テキトーに資料を見てたら、昔の大連の写真集みたいなものが出てきました。
大連?日本にそんな街あったっけ?と思う人は少ないと思うけど、そりゃそうや、大連は海外にある街なんやから。
今回の「消えた遊廓・赤線跡をゆく」は突然海を超え、国をも超えてしまいます。

2014081001

大連は中国北部にある、遼東半島というところの端っこにある都市です。
中国の都市の中でも、都市規模は北京や上海とかには及ばないものの、上に書いたよーに日本の租借地やった関係で日本人も多く住んでいました。「大連」ときたらどこか懐かしい、ノスタルジーを感じる人もおるはず。よく考えたら、今でも80歳以上の人やったら大連で生まれ育った人もおるはずやさかい、記憶の中ではまだ「現役」な街でもあります。
せやさかい、日本人の中やと北京・上海などの中国都市の横綱と、十分がっぷり四つに組める知名度であります。
大連は元々ロシア人が作った街で、「ダーリヌィー」(遠い)っちゅー形容詞から来たのが由来です。どこを基準に「遠い」ねん!?というと、当時のロシア帝国の首都、ペトログラード(今のサンクト・ペテルブルク)からなんは言うまでもありません。まあそりゃ遠いけど、名前の付け方がかなり安直すぎる(笑
大連ってどこ?何それおいしいの?と思う人でも、「旅順」言うたらピンとくる人も多いはず。日露戦争の激戦地である203高地がある旅順は大連の隣にある街で、大連とは双子のような街であります。中華人民共和国が出来た時は、この2つがくっついで「旅大市」が出来たんやけど、中国人的には旅順より大連の方が格式があるんか、大連が旅順を呑み込む形で合併し、現在も行政区分的には旅順は大連の一部になっとります。

そんな街を日露戦争のポーツマス条約により、租借権をロシアからGETした日本が本格的に都市開発を開始しました。それと同時に名前も「ダーリヌィー」を漢字に当てはめた「大連」にし、それが現在に至っとるちゅー感じです。
余談やけど、都市の名前で同じよーな変遷で定着しとるところに、台湾の高雄があります。
高雄は元々は原住民の言葉で「ターカオー」か「ダーガオ」と呼ばれとって、それを漢族が「打狗」(ダーゴウ)と漢字にはめとりました。
せやけどこの「打狗」、中国語がわかる人やったらわかるよーに、漢字を直訳したら「犬をぶちのめす」って意味になるんですわ。それを、
「なんじゃそんなお下品な名前は!」
とでも思った日本人が、より雅で街の名前にふさわしい京都の高雄を持ってきて、「高雄」になり現在に至っとります。せやけど、中華民国が台湾にやって来た後も漢字が残って発音が北京語で「カオシオン」(台湾語じゃ「コーヒィオン」ね)になったせいで、元々あった「ターカオ」が消えてしもたという、予想外の(?)展開になってしもたというオチです。ちなみに、日本統治時代を知ってて、もちろん日本語ベラベラの台湾人のおじいちゃんに、
「日本時代は『高雄』ってどう発音しとったの?」
と聞いてみると、
「いや、そのまま『たかお』だよ」
とのことでした。

それはさておき、大連はロシア人が作った土台をベースに日本人によって本格的に開発され、近代的で合理的な町並みが田舎の寒村に出来上がりました。
大連にゃ俺も何回か行ったことがあるけど、今はだいぶ取り壊されたものの、昔は日本時代そのままの町並みがタイムカプセルのように残っとりました。正直、外国いうより「ただいま」という感覚の方が強くて、少なくても空気が全然中国やなかったような感じが残ってました。はじめて大連に行った20年前は、日本統治時代を知ってる人もけっこうおって、日本語で話しかけてきた人も多かったです。住んでるんは今でこそ中国人やけど、日本語で「すんませーん!」と叫んだら、ひょっこり着物を来たご婦人が現れてきそうな空気やったことを、今でも覚えとります。
昔の大連には日本人が数万人単位で住んどりました。大連には日本人街と、中国人街である郊外の「小崗子」に分かれとったけど、厳密に区別されたわけでもなく、実態は雑居みたいな感じでした。
せやさかい、昔からイメージだけやないリアルな日本人と接してる中国人(他満州族等の民族)が多く、戦争中も抗日団体がなんぼ反日を唱えても煽っても、ドラクエ風に書くと「しかしなにもおこらなかった」そうです。また、記憶に新しい近年の「反日暴動」も、大連だけは全く起こらんかった事実もあります。

日本人が住んでたところは、中国でもやっぱし俺に懐かしさを感じさせる空気は残っとるみたいです。もうかなり前になるけど上海に住んでた時に、今の市内北部にあった旧日本人街を訪ね歩いた時も、大連と同じニオイがしました。
そのブログはサイト自体消えてしもたけど、上海の日本人の跡を訪ねる旅はアーカイブとして移転してあるさかい、ヒマやったら読んでみて下さいな。「消えた遊廓・赤線跡をゆく」の原点みたいなもんやさかい。

上海租界散歩 日本人の足跡を訪ねて 第一章
上海租界散歩 日本人の足跡を訪ねて 第ニ章
上海租界散歩 日本人の足跡を訪ねて 第三章
上海租界散歩 日本人の足跡を訪ねて 第四章
上海租界散歩 日本人の足跡を訪ねて 第五章
上海租界散歩 日本人の足跡を訪ねて 第六章

上のブログを書いたんはブログなるツールを知った初年に書いたもんやさかい、ブログを書き始めてもう今年で10年やったんか、と新しい発見がありました。
ブロガーとしての節目の10周年記念やのに、ブログサボってる場合やあらへんな(笑
さて、そんな大連にもちゃんと遊廓が存在しとりました。
大連に遊廓があったことはさほどマイナーでもないんやけど、ネットで検索してみても取り上げとる人はそれほど多くない。俺も「あった」ちゅーことは知ってても、いかんせん外国やさかい半分くらいはスルーしとりました。
せやけど、偶然見つけた大連の写真集に遊廓の写真が残ってたのが何かのご縁、写真を見とるうちにメラメラと好奇心が湧き出てまいました(笑

14081002

これが大連の写真集に残っとった、大連の遊廓の写真です。
大連の遊廓は「逢坂(おおさか)町」というところにあって、大連の市街から南の外れにありました。

14081003

1919(大正8)年の大連市の地図を見たら、逢坂町の部分にくっきりと「遊廓」と書かれとることが見えますね。ここは大連の中でも南の外れで、出来た時は「(市街地から)遠すぎ!」と苦情が来たそーです。せやけど、時代が下って1930年代になると、今度は「近すぎ!」と苦情が来たそうです。人間ってホンマ勝手やな(笑
こんな風に、遊廓は昔の地図をほじくり出すと、地図に表記されとることも多かったりします。全部が全部やないことはもちろんやけど、遊廓がどこにあったんかを特定するには、まずは古地図で調べてみるという作業が鉄板やったりします。
せやけど、当時日本統治下やったとは言え、まさか異国の大連の地図にもくっきり「遊廓」と書かれとったとは、これまた予想外でした。

大連には、「関東都督府」という行政機関が公認した遊廓が2つ存在しとりました。
一つは「逢坂町」、もう一つは「小崗子」、前者は日本人用で働く娼妓も日本人、後者は中国人用に分かれていたみたいです。「小崗子」の方は地図で見てみても「遊廓」とは書かれてませんでした。ちゅーか、「小崗子」って大連郊外の地名やさかい。
せやさかい、今回は「逢坂町」だけにスポットを当てようと思います。

「逢坂町遊廓」は、1905年の日露戦争が終結した後、12月26日に当時の関東州から遊廓として指定されました。それまでは市内に娼家がバラバラにあった状態やったんやけど、一つに集約させることによって取り締まりも管理になるということは、日本でも異国でも同じことです。それと同時に、関東州独自の「娼妓取締規則」「貸座敷取締規則」も作られとります。
指定地に決定したんは1905年やけど、他のデータは例外なく1907年に出来たと書かれとります。この2年のギャップは何やねんということやけど、1905年から街なかの娼家が移動開始→遊廓としてオープンしたんが1907年と考えたら、なんの不思議もありませんわな。
なお、移動が完全に完了したんが、指定されて移動命令が出た6年後の1911年、何で6年もかかってんねん!?という疑問が湧いてきます。日本国内やったら「移動せよ!」と命令が出たら翌年には「移動完了!」なことが多いけど、大陸らしくダラダラのんびりと、ゆっくりズムやったんやろな~と(笑

『日本遊廓案内』にも逢坂町が紹介されとって、このように書かれとります。

●場所
関東州大連市逢坂町
●交通
満鉄線大連駅で下車すれば東西へ約五十丁の位置である。市電は 春日町又は大門町で下車すれば宜しい。
●規模
逢坂町には現在七十軒ある。芸娼妓の数も、小崗子は二百五十人であるのに、逢坂 町には約九百人居つて、規模に於て、又其の発展振りに於て、 到底逢坂町の比では無い。芸娼九百人の内芸娼妓が四百 人、娼妓(当地では酌婦と云ふ)が五百人居る。
●特徴
大連市には二大遊廓 があつて、一は小崗子であり、一は此の逢坂町である。
茲が明治四十年(※1907年)に最初創設された 当時は、僅々十戸に過ぎなかつたものであるが、今日の盛大 さから当時を回顧したならば、其の急激な発展振りには実に 感慨無量に打たれる事だらう。
●方式
店は写真制で陰店は張つて居ない。芸娼共に居稼ぎ制で送り 込み制はやらない。遊興は時間制だから廻しは取らない。当 地の芸妓は二枚鑑札と同様で娼妓と同様な仕事をも公然とや る事に成つて居て、御定りの甲が芸妓で一泊が十三円、乙が 酌婦で六円、一時間遊びが酌婦二円と云ふ相場である。
●女性
朝鮮人が百五十人居る。他は全部内地人で九州、中国地方の女が多い。
●妓楼
遊楼は、松竹、大斗、清川、一力楼、だるま、第四豊栄楼、芙蓉 楼、一富士、勇楼、舞鶴、第二千代喜家、三好楼、東雲、恵 比須楼、開盛楼、いろは、小富士、千代喜家、末広、音羽楼、 第二豊栄楼、神吉、一福、浮舟、大幸、香月楼、曙、菊水、 万花、魚藤、吉平、第一豊栄楼、太平楽、花園、常盤、快楽、 松市、相生楼、寿楼、八千代、正木亭、愛媛楼、藤栄楼、大 和家、恋敷、三田尻楼、美人館、喜笑楼、喜楽、開春楼、吾 妻楼、富田家、第五豊栄楼、第二末広、橘楼、代加楼、逢坂 楼、品川楼、万盛楼、満花楼、松月、山陽楼、第二逢坂楼、 安州館、大連館、日新亭、米山楼、紅梅楼、華山楼、逢川楼 等。



14081003

当時の地図を見てみても、『日本遊廓案内』の記述に概ね間違いはなさそうです。この『日本遊廓案内』は我々みたいな遊廓に興味ある人やったらバイブル的な一次資料やけど、何せこの本、記述間違いが非常に多くて鵜呑みは禁物な書物でもあります。場合によっちゃ「間違い探し」に時間をかけることもあります(笑
日本人は良くも悪くも疑うってことを知らんさかい、つい鵜呑みにしてまうことが多いけど、『日本遊廓案内』をソースにする時は裏を取るのをワスレズニ~。
『日本遊廓案内』には「鉄道が通ってる」って書いてても、実際は廃止になったりしてなかったりする「間違い」があったりするけど、逢坂町の場合の「市電」は間違いなく、それは地図からも確認が取れます。

14081004

1920年代の絵葉書らしいけど、この写真を見たら遊廓の入り口まで市電が走っとることがわかります。

14081005

いろんな角度から調べてみると、当時の地図ではこの方向から撮影しとるみたいです。
そこで、ちょっと話は外れて、写真の左端にある、地図では「午砲臺(台)」と書かれとることにちょっと注目してみましょ。この「午砲臺」で写真の角度と位置が特定できたわけなんやけど、そもそも「午砲臺」って何?って疑問が湧くと思います。
「午砲」って、近代以降に時報を知らせるために毎時決まった時間に空砲を鳴らしとった大砲のことで、街中に知らせなあかんさかい、山の上などに置かれたことが多かったんです。そこを「午砲台」と言います。
これは午砲台を管理しとった陸軍の経費削減や、空砲言うてもかなりうるさいさかい、「サイレンでええやん」という声が高まった昭和初期には完全に廃止になったんやけど、まだ「午砲」が存在しとった頃の時代が地図に出てることも興味深いと思います。

『日本遊廓案内』の記述にある、
「娼妓(当地では酌婦と云ふ)」
というところが、大連の遊廓を語る上での重要なキーワードになったりします。
大連は租借地(厳密に言うと「植民地」とはちょっと違い、香港もイギリスの「租借地」です)とは言うてもいちおう外国、「娼妓」と表記するんは外国に対する体裁上、ちょっとよろしくないということになったそーです。
「酌婦」とは、くだけた言い方したら、飲み屋で男の隣に座ってお酒とかを注いでくれるおねーちゃんの法的な言い方です。せやけど、昔は1階の「飲み屋」でお酒を注ぎつつ、2階で「オプションサービス」で売春を・・・って事が多かったさかい、「酌婦」とは事実上の娼婦(※遊廓の娼妓とは区別する必要があります)でもありました。
国内なら合法やさかいさておき、海外じゃ海外の目もあるさかい、建前上は「飲み屋のねーちゃん」にして目眩ましをした、ということですやろな。
ちなみに、当時世界有数の国際都市上海にもあったという遊廓でも、「娼妓」っていい方はせんと「第二種芸妓」「特種芸妓」って言い方をしとったそうです。
せやさかい、俺の分類上で言えばれっきとした遊廓というより、遊廓と堂々と看板立てるより、私娼窟扱いにして名目上は遊廓やない「準遊廓」扱いになるんかな!?と思ったりします。

14081008

逢坂町遊廓の入り口の写真やけど、わずかに市電の線路が見えて、入り口であることを示すアーチがあったこともわかります。

14081006

世にも珍しいカラー写真・・・やなくて、水彩画の絵葉書であります。
せやけど、カラーになると臨場感がかなり浮き上がってきますね。PCの画面いっぱいに表示すると、まるで自分がそこに立っとるかのような錯覚さえ感じます。

さて、いままで遊廓の写真を見てると、大連の遊廓にはちょっとした違和感も感じます。
「何かがちゃう・・・」
と、遊廓に興味がある人も何かピンとくるかもしれません。
そう、建物が全然「和」やないということですね~。
遊廓とくれば、木造の和風の建物が道の両脇にズラリと並んでるってのが、ふつうのイメージやと思うけど、ここは大陸の遊廓、やっぱし「遊廓」って名前がついてても趣がちゃうことは当たり前でしょう。
それは、大連の気候とも関係します。大連は満洲の中でも、気温の数字だけ見てたら冬もかなり温かいんやけど、実際の体感温度はかなり低かったりします。俺も真冬の大連に行った時があるけど、港町で海風がダイレクトに吹き付けてくるせいか、体感温度はマイナス30℃以下やったハルピンより寒かった覚えがあります(冬のハルピンは風がほとんど吹かんさかい)。そん時の大連はマイナス5℃やったけど、あまりに寒くて泣きそうになり、その涙も凍りかねん寒さでした。その後同じマイナス5℃くらいの北京に行ったら、同じくらいの温度やのに「あったかさ」さえ感じたくらいでした。大連のいちばん強烈な思い出は、あの寒さやったと断言できます(笑
そんな大連に住むにゃ、やっぱ暖房が命綱となります。建物のつくりはしっかりして暖房のあたたかい空気を逃さんよーにし、窓も二重窓になっとります。大連に和風な木造な家作ったら、風通しが良すぎて冬になったら家の中で凍死するやろな。

で、当時の逢坂町が今の大連のどこに位置するかというと、

14081008

地図の上の方が、今も昔も街の中心部やさかい、かなり南の方に位置しとることがわかります。

14081009

逢坂町があったとこをアップしてみると、逢坂町は今は「武昌街」という名前になっとることがわかります。せやけど、名前は変わっても道筋は当時の地図と比較しても変わってへんことがわかります。1919年の地図と比較しても逢坂町の近くにあった「貯水池」も、そのまま残ってますな。
この「武昌街」から南へ尻尾のように伸びてる道路があります。今は「武昌南街」という名前やけど、ここの端から撮ったと思われる写真が残っとります。

14081010

このアングルやけど、おそらくそうやないかなーと思います。

実際に今の逢坂町遊廓がどうなっとるんか、この目で見てみたいもんやけど、さすがに大連は
「よし、来週末に行ってみるか♪」
という距離やありません。そもそも、「遊廓・赤線跡をゆく」っても実際に行ってへんし(笑
せやさかい、今回は遠慮してタイトルに「?」をつけさせてもろたわけで。
せやけど、せめてネットで調べてみるだけ調べてみるか~!と、中国の検索サイトの「百度」の画像検索で、中国語で調べてみたものの・・・どうも武昌街はマンションが並ぶ住宅街になっとるみたいで、往年の姿をとどめる写真は存在しませんでした。
Google earthで上空から眺めてみても、

14081011

うーん、当時の建物が残っとる気配はほとんどなさそうですな。
あと10年早く気づいとったら、中国に住んでたさかい週末に飛行機で飛んで実地調査に行ってたし、建物も残ってたに違いないやろうけど、これは今更後悔してもしゃーない。
それより、こないして大連のことを書いてたら、なんだか大連に行きたくなってきた。今やったら中国行く人も少ないやろし、中国行きのチケットが安い予感がする・・・久しぶりの海外や~!だんだんと違う意味で血が騒いできました。久しぶりの海外やったらもっと他のとこ行けよ!と自分でも思ったりするんやけど、やっぱ中国とは腐れ縁なのかもねん(笑

せやけど、台風による「ひきこもり」で「逢坂町」でやたら検索したせいか、「おおさか」と入力したら常に始めに「大阪」やなくて「逢坂」が出てまう副作用も引き起こしとります。
いざ「大阪」と入力したくても、出てくるんはことごとく「逢坂」ばっかし。
「『逢坂』やのーて『大阪』や!」
と少しイライラしながら入力しても、コンピュータは俺の気持ちを理解してくれず。今日も「逢坂」と闘いながら書き続けております(笑

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