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天王寺駅の怪 前編

さて、好奇心のアンテナを限度いっぱいに広げとると、身近な場所や物でも、さりげなく「???」と思う謎があったりします。そして、それそれを掘り下げてみると、意外なものが見つかったり、わかったりすることがあります。
個人のことを例に取ったら、毎日通勤でさりげなく使っとるJRの阪和線。
ここにも色々と謎があったりしますんやわ。

以前、砂川奇勝とアレの奇妙な関係ってブログの中でチョロっと書いたんやけど、阪和線は以前は阪和電気鉄道って言う私鉄やったことに触れました。
「阪和電気鉄道」としての歴史は短かったせいか、地元の鉄道やのに意外に知らんかったことが多いんやけど、いつも使っとる駅も落ち着いて観察しとったら、「おや?」と思うことがあります。

例えば、阪和線の天王寺駅。
ここは元々阪和電鉄のターミナル駅として作られたもんで、当時は私鉄やさかい大阪環状線とかとはつながってませんでした。今でも私鉄のターミナル駅のような、終端式のホームが私鉄時代の面影を残しとります。
ここのホームに、ちょっとした謎が隠されとります。

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これは、7~8番ホーム。


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これは今は降車専用になっとる5~6番ホームです。
ちと撮影角度が悪いせいでわからんかもしれへんけど、この2つのホームを比べてみたら、なんか変なんです。

そう、7~8番ホームと比べて5~6番ホームの幅が異様に広いということ。
これは、毎日この駅を使っとる人でも、意識せん限り疑問にすら思わんことやろーけど、このアンバランスは一体なんやろ?

そしてもう一点。

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これは7番ホームから和歌山の方向を写したもんやけど、途中でレールがグニャッと不自然に曲がっとります。
まっすぐにした方が効率ええのに、何でわざわざこんな非効率な曲がり方しとるんやろ?
これも、毎日使っとってもなかなか気づかん疑問やと思います。
せやけど、こう書いたらなんか不思議に思いません?
俺はごっつい不思議に思うんですけどね(笑
で、思ったことは、

「こんな非効率な曲がり方には、何らかの理由があるに違いない」

ちゅーことでした。
そこで、名づけて「天王寺駅の怪」を解くべく、ヒマやさかい調べてみることにしました。


と本題に入る前に、まず説明せなあかんのが、阪和線の前身の阪和電気鉄道です。

阪和線は今は大阪の天王寺駅と和歌山駅とを結ぶJRの路線で、今は関西空港へのアクセスラインとしても知られとります。
せやけど、ここが元々は私鉄やったことは知ってても、京阪電車の系列やったって知る人は、毎日通勤通学で使っとる人でも知ってる人は少ないと思います。
今は「おけいはん」って名前で知られとる京阪電鉄やけど、戦前は相当羽振りがよかったらしく、当時の鉄道省や政党にもコネがあって政治力は関西最強の私鉄でした。今の阪急京都線も元々は「新おけいはん」ならぬ「新京阪電鉄」って名前やったし。
その代わり、大阪最強、私鉄にとっちゃ「最凶」の交通機関、大阪市交通局にかなりいじめられとったことも確かでした。まあ、関西の私鉄はほとんどが大阪市の公権力パワハラの被害に遭って、南海なんか「お前今でも恨んでるやろ」的なダイヤを組んだりしてくるんやけど(ええ例が、高野線の中百舌鳥駅の急行の通過とかね)、「おけいはん」は特に標的にされとったそーな。


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昭和14年(1939)頃と言われとる、阪和電気鉄道時代の天王寺駅です。Wikipediaにも掲載されとる、けっこう広まってる写真やけど、私鉄時代を語る貴重な写真でもあります。
当時は、「阪和天王寺駅」と言うとって、阿倍野橋北詰交差点(今の天王寺駅前交差点)の東南角にあったそーです。
駅の看板にある広告から、たぶん秋頃の写真やと思います。

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交差点の東南角にあったって記述を元にして、平成26年(2014)の現在の姿をたぶん同じよーな角度で撮ったらこんな感じになりました。
当時の面影なんてま~~ったくございません。というかごちゃごちゃしすぎて写真撮られへん(笑

せやけど、私鉄時代の駅の写真を、フォトショップで拡大して見たりしとると、看板広告のバラエティの豊かさに驚きます。

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まずは、阪和電鉄の名物列車、「超特急」の看板です。

「ワカ山マデ超急四十五分」

と書かれておって、関西の私鉄のターミナル駅には当たり前のよーにあった、看板列車の宣伝ですな。「超特急」が「超急」と略されて呼ばれとったことも、この看板からわかります。まあ、それが市民権を得てたかどーかは別として。
阪和電鉄は私鉄としては非常に短命やったさかい、そのまま忘れ去られて歴史のゴミの山に埋もれたままもおかしくなかったんやけど、この「超特急」の存在で阪和電気鉄道の名前が知る人ぞ知る的な存在たらしめとります。
「超特急」ってネーミングだけでも強烈やけど、もっと強烈やったんはその速度でした。
和歌山まで45分って、今じゃ同じ区間を「くろしお」が最短40分くらいで走ってるさかい、何のことはないと思われがちやけど、それは今の常識と列車の性能での話であって、当時はまさに弾丸列車・・・というかジェットーコースター列車でした(笑
半分伝説扱いなものの、最高で130km/hくらい出していたと言われとります。当時の常識の130km/h言うたら新幹線並みと思って結構で、「超特急」に使われた列車も、並の車両が130km/hなんか出したら空中分解するさかい、一私鉄にしてはスペックオーバーな化け物並の性能の電車を導入しとりました。
その「天王寺-和歌山45分」がどれだけすごかったかというと、「超特急」が人々の記憶から消え去った後、45分の数字を戻すのに27年、45分を抜くのには40年、国鉄がJRになる寸前までかかっとるからも、この「45分」が化け物な数字なことがわかることでしょう。


で、看板の話に戻ってと。

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以前のブログで紹介した「砂川遊園」の広告や、

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今でも太公望の皆さんにゃお馴染みの南紀方面の魚釣りや、

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みかん狩りの案内や、

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今でも観光客が多い、何故か外国人旅行者にも最近、穴場としてマークされとる白浜温泉の看板もあります。
今でも阪和線を通って白浜方面に特急の「くろしお」が走っとるけど、その歴史は私鉄時代の戦前にまでさかのぼります。昭和8年(1933)に登場した「黒潮号」は、土曜日の午後に天王寺を出発して日曜の午後に白浜を出るという、週末は白浜温泉でゆったりと、という観光客を狙った列車でした。当時は特急でも急行でもなく、「準急」という今のJRにはない種別やったんやけど、急行でも列車に名前がついてへんかった時代に、たかが準急に名前がつけられたのは超特例で、暴走超特急と共に阪和電鉄の看板列車でした。ちなみに、「黒潮」は客車やったさかい、阪和電鉄内は超特急の後ろに連結され、超特急が電気機関車代わりになってました。

昭和14年言うたら、世の中は日中戦争が泥沼化して「非常時」という言葉が流行った時でもあります。簡単に言うたら「贅沢は敵だ!」のスローガンが流れとった時代やと、学校の歴史ではそうなっとります。
また、陸軍が「精神力強化に男はみんな丸坊主、女はパーマ禁止」と言い出して、聯合艦隊司令長官の山本五十六に
「髪型変えただけで精神力が強くなるかい!(笑」
と鼻で笑われたのも、この昭和14年であります。
せやけど「みかん狩り」に「魚釣り」に「白浜温泉」・・・陸軍が見たら激怒しそーな看板ばっかしやん(笑 
ただ、砂川遊園の看板には、「撃って体位向上」ってスローガンがあるさかい、これも時代やなーと感じます。

少なくても、看板や写真に写っとる人の服装なんかを見ても、とても「贅沢は敵だ!」の時代とは思われへん、のどかな日常のよーな光景やと思うんやけどね~。

で、ちょっと見つけてまいりました、貴重な写真を。

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阪和電鉄がまだ建設中の写真で、場所はどこかわからんけど、最初から高架やった天王寺~美章園のどっかやと思います。

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そしてこれまた珍しい写真やと思うんやけど、「臨南寺前駅」の建設写真です。
「臨南寺前駅」ってどこやねん!?と思う方も多いはず。「臨南寺前駅」は今の長居駅やったりします。


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そして昭和4年7月18日に開業しました。
ここで、ジモピーなら「あれ???」と思うはず。
「阪和線って・・・和歌山までちゃうのん?」
と。
そう、実は最初は「天王寺~和泉府中」の間の開業やったんです。
なんでか言うたら、天王寺駅からの高架に金かかりすぎて資金が足りへんよーになったから。おまけに当時は学校でも習う世界大恐慌まっただ中で資金が上手く調達できず、和歌山までは和泉山脈を越えんとあかんさかい、大きなトンネルを作らんとあきません。今も昔もトンネル掘るにゃ莫大な資金が要るさかい、まずは暫定的に開業しまひょか、ということになったよーです。
俺はこれを知った時は高校生の時やったんやけど、
「もしかして、阪和線の『和』って和歌山やのーて、『和泉』の『和』ちゃうんか?」
という仮説を立てたことがあります。でもそれは俺の深読みすぎでした(笑

おいおい、ちゃんと和歌山まで開通するんやろな?
と当時の人は心配したんかどーか知らんけど、そこは心配ご無用♪

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翌年、ちゃんと和歌山まで開通しとります。
当時の新聞記事によると、東和歌山駅(今の和歌山駅)で全通セレモニーが行われて、鉄道大臣に大阪府・和歌山県知事など600人が出席して盛大に祝ったそーな。
開通当時の運賃は、天王寺からは

土生郷(今の東岸和田):42銭
熊取駅:52銭
信達駅(同和泉砂川):64銭
東和歌山(同和歌山):96銭


だそうです。
これが今の物価やといくらになるか・・・この計算がけっこう難しいんやけど、政府が公式に出してる数値に、
「消費者物価指数」
ちゅーのがあります。
最新のデータである平成24年の指数が1,731.1で、阪和線開通時の昭和5年が0.885であります。
これを元に計算してみると、
1,731.1÷0.885=約1956
ちゅーことで、当時のお金に1956を掛けたら、目安的に今の価格に換算できます。
ちゅーわけで、阪和電鉄の天王寺~和歌山間の運賃でやってみると、

0.96(96銭)×1956=¥1877.76(1877円76銭)

今のJRの運賃が¥840やさかい、理屈としての計算上は倍以上になっとるやん。
参考までに、「自称遊廓・赤線のインディー・ジョーンズ」らしく、当時の遊廓で換算すると、大阪の遊廓で遊んだ場合、遊女とのお遊び代(玉代)が平均で1円30銭/h、お泊りが平均6~7円。天王寺~和歌山を往復したら1時間遊べるって計算になります。
そして更に、同じ時期の阪急百貨店の名物食堂の、ウエイトレスのおねーさまの日給(10時間労働)が、なんと80銭でした。上の公定指数に直したら、時給やなくて日給が¥1564、時給に直したら¥173.7円!ブラック企業もビックリの安さです(笑
まあそれはさておき、消費者物価指数はあくまで机上の理論値やさかい、今の感覚やと4~5000円やと思いますわ。何せ天下の阪急百貨店の食堂のおねーたんたちが、フルタイムで働いた日給より高いんやから(汗


順風満帆に見えた阪和電鉄やけど、全線開通から2ヶ月後、とんでもない事故をしでかします。
その新聞記事がこれ。

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ちょっとニュースの原稿風に書いてみましょか(笑

昭和5年8月23日午後5時15分頃、大阪の阪和電気鉄道の杉本町~仁徳御陵前(※1)で架線故障が発生し、天王寺発東和歌山行き各駅停車が停止信号に従って緊急停車しました。
そこへ後続を走っていた、天王寺発阪和浜寺(今の東羽衣)行き臨時急行が停止信号を無視して追突、重軽傷者47人を出し近くの病院に搬送されました。なお、全員命に別状はない模様です。

※1:Q1:「あれ?浅香に堺市に三国ヶ丘駅は?」 A1:「当時はありません~、以上」 
   Q2:「仁徳御陵前ってそんな駅ないで?」 A2:「今の百舌鳥駅です」


これだけでもかなりの大事故、死者が出ーへんかっただけが幸いやったけど、警察が来る前に阪和電鉄が電車を車庫に送ってしもたり割れたガラスを掃除したりと、それが「悪質な証拠隠滅」と見なされて警察から大目玉を喰らったそうです。

「超特急」に「黒潮」にと、何かと話題をさらった阪和電鉄やけど、中身はかなりの赤字やったそーです。
今でこそ阪和線沿線って関西でも屈指の通勤路線+混雑率のドル箱路線、沿線はギッシリ住宅が並んでるって感じやけど、開通した当時は天王寺を離れたらまさに畑や原野の中に線路を敷いたが如く。
今の鳳駅より南を走る電車の写真を見たことがあるけど、ホンマに家一つあらへんし。上に書いた運賃以前に、乗ってくれる客自体がおらへんちゃうの?というくらいの有様でした。

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この長居駅の写真を出してみてもわかるよーに、周りにゃ何もない・・・。なんだか80年後に生きてる俺も「大丈夫か?」と心配になってくるくらいに(笑)

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たぶん、同じ方向から撮ってると思う角度のGoogle mapのストリートビューを切り抜いてきました。
金網で囲まれた部分が地上時代の長居駅でした。今は高架になっとるけど、その分、上の写真と似たような角度が家にいながら見れるってわけで。


大阪の南の方は紀州街道沿いに町が栄えとったさかい、そこは南海電鉄(今の南海本線)が既に独占、阪和線は人口密度がほとんどない無人の野を走ることになりました。せやけどその分、まっすぐに線路を敷く→スピードが出せる→阪和間を高速で結べる、というメリットもあります。阪和線ってけっこう直線区間が多いんやけど、これは「スピード出せるように」なのと、「障害物がなかったから土地買収が楽やった」という理由があります。
おまけにここぞとばかりに地盤も硬くして「高速志向」に拍車をかけました。だからこそ「超特急」を走らせたんやろと。
「超特急」はライバルの南海電鉄を相当刺激させたらしく、負けじと南海もスピードで勝負しようとしたものの、集客力優先で紀州街道の町を縫うように作られた南海は、スピードやと100%絶対に敵いません。さっさと白旗を振って退散。
せやけどこのまま引き下がる南海じゃございません、「これでどないや!」と、とんだ最終兵器を投入しました。
それが冷房車

今でこそ電車に冷房ついてるなんか当たり前やけど、当時冷房車なんてほとんどなかった時代、それも特急とかの特別車にしかついてなく、一般庶民にゃ縁がない。それも故障続発でほとんど役に立たず。一般の車両に、今の冷房方式を積んだのは南海が史上初(世界初とも言われとります)で、「電車に冷房を積む」自体革命的な試みでした。
せやけど、冷房車に客が殺到して非冷房車より暑かったとか、電気代も革命的に食ったらしくて南海の社長が「これなら客全員にコーヒー一杯おごりの方が安いわ!」と涙目やったとか、結局軍部に「贅沢じゃ!」とダメ出しされて1年で中止になったとか、革命的名車というより、悲劇的「迷車」として鉄道史に刻まれとります。

せやけど、この冷房車はけっこう有名な話でもあります。むしろビックリするのはこれから。
このエアコンは、設立10年ほどの地元のベンチャー企業やった「大阪金属工業」というメーカーが作ってました。こんな会社聞いたことも見たこともないって?そりゃそーでしょ。ほな、「ダイキン」って書いたら「あ!!!」と思うはず。
そう、伝説の「珍車」を彩ったエアコン、実はダイキン製やったんです。「大阪金属工業」略して「大金(ダイキン)」と昔から呼ばれとったんでしょう、「大阪金属工業」が「ダイキン工業」に名前が変わったのは、東京オリンピックがあった前の年の昭和38年です。ちなみに、中国語じゃ「大金」と書くさかい、「大阪金属工業」の面影がチラリと残っとります。
鉄道史では「迷車」扱いされそうな日本初の冷房車やったけど、日本技術史から見たらダイキンの公式社史にも載ってるくらいの重大事でした。それにしても、ダイキンってこんな昔からエアコン作ってたのねん、と驚いた人も多いはず。

阪和vs南海の仁義なき闘いはまだ続きます。
今じゃ臨海工業地帯になって信じられへんと思うけど、南海本線沿線はかつては「東洋一」と呼ばれた天然の海水浴場でした。ウソと思うなら、地元の60歳以上の人なら誰でも知ってるさかい、一度聞いてみてね〜。ちなみに70歳を越えてるうちのオヤジは覚えてるどころか、毎年泳いでたそーです。でも埋めたてられる昭和30年代はかなり汚かったそうで、同じく記憶にある母上は、(あまりに汚いから)泳ぐ気にならんかったそーです。
それはさておき、毎年夏になったら関西中から海水浴客が訪れ、輸送を独占しとった南海はウハウハやったそうです。
そんな左うちわな南海の喉元に大鉈を突きつけてきたのが阪和電鉄で、その「大鉈」が、今は「東羽衣線」って言われとる支線です。

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今はJRになっとる線路に「東羽衣」という駅があります。
地図で見たら、まるで南海にナイフ突きつけて、「斬るぞ!」って配置になってますやろ?(笑
阪和電鉄の宣戦布告に南海は激怒、毎年夏になると客の取り合いが始まり、仁義なき闘いは阪和電鉄と南海電鉄の社員の殴り合いが始まるという「場外乱闘」まで起こったそうです。また、東羽衣駅には戦前は天王寺からダイレクトに電車がやってきとったんやけど、それが着くや南海は羽衣駅を通過する電車ですらわざとトロトロ走らせ、開かずの踏切にして通せんぼしたとかいう伝説が残ってます。
せやけど、やることがヤクザな阪和もさることながら、南海もやることが実にセコい(笑

ちょっと話が外れたけど、無人の原野を爆走するだけじゃ経営が火の車な阪和電鉄、手をこまねいて我慢しとるだけやなく、涙も枯れる経営努力を模索し始めます。

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まずは、沿線に何もあらへんことを幸いに、ピクニック場を作ったり、ゴルフ場を作ったり、「◯◯狩り」を開催したりと、とにかく電車に乗ってもらおうと、色んなイベントを計画したりしました。

そして、前のブログの砂川奇勝とアレの奇妙な関係でも書いた「砂川遊園」もその一つ。

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砂川遊園のパンフを発掘して、遊園の全貌がだいたいわかってきました。

これを平成26年のGoogle mapで見てみると!

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Goole mapを逆にして見たら、パンフの角度と同じっぽくなって比較しやすくなります。
池も当時と形がほとんど変わってへんさかい、池を目印にしてGoogle mapの上に位置を書いてみると、在りし日の謎の遊園地の全貌が見えてきました♪
今まで「謎」とか言われとったのを自分で調べて解いていくのって、けっこうカ・イ・カ・ン(笑

そして砂川遊園の最後を飾るのは、やっぱ「あれ」でしょ、「あれ」。前のブログで宿題として残してあったのを、どっかから発掘してまいりました。
そう、ネットでもほとんど見ることはない、「あれ」の証拠をここに!

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そう、砂川遊園のマスコットキャラは「あれ」やったんです!
仮に、いや万が一ディズニーの許可をもらっとったら、
「忘れられた幻のディズ◯ーランド」
「第ゼロ号ディズ◯ーランド」
になるとこやけど、ライセンスなんてもらってるわけないか(笑


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そしてなんと、阪和電鉄は直営の射撃場まで作っとります。なんぼ経営努力言うてもそこまでせんでええやん(笑)と思うんやけど、それほど必死やったんやろなと思います。
それがあった場所は、

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ここあたり・・・やなくてまさにここです。はい間違いございません。
何で今回はここまで断定できるかと言うと・・・実はわたくし、射撃場の跡にある学校出身で、学校の授業でも「かつては射撃場やった」って社会の授業で習って(副読本に書いてたよーな気が)、地元の人から話も聞いてたからです。
30年前に聞いた記憶が、上の地図を見てふと蘇りました。せやけど、これが阪和電鉄経営のやったとは。今の今まで知りませんでしたわ。

・・・と書いたんやけど、月日が経って改めて射撃場の場所を精査してみることにしました。
射撃場が出来たのは昭和13(1937)年やさかい、それ以降の地図を見た場所の特定なんて楽勝楽勝♪
と軽い気分で堺市立図書館へ向かったものの、その地図がありそーで全くなし!予想外の収穫なしになってしまいました。そもそも射撃場の地区が「堺市」になったのは昭和17年のことで、それまでは「泉北郡」でした。だから余計に見つからん。さすがの堺市立図書館もここぞという時に役に立ちませぬ(笑
せやけど、かろうじて戦後、ここあたりに団地が建つ前の地図はあったさかい、地図上に痕跡くらいは・・・と期待はしたものの、これも収穫はなし。
こりゃもう万事急須・・・やない、休す・・・と思っとったところ、思わぬところからヘルプの手が。国土地理院がネットで公開しとる航空写真を教えてもらって見てみたところ、昭和20~30年代の航空写真に人工的な長方形を発見しました。

射撃場跡(当時)

場所が場所だけに、これは射撃場の跡に違いない。そこで何種類かの写真と現在の地図を照らしあわせた結果は!

射撃場跡(確定)

だいたいここあたりで間違いありません、Maybe。
せやけど、当時の航空写真という確固たる証拠がある上に、今回はマップ上に線を引いたりデジタルなのかアナログなのかわからん作業も行って、より精密に確定作業したさかい、ほぼファイナルアンサーで間違いないでしょう。
せやけど、今でこそ津久野駅もあるしバスも通ってるけど、当時はホンマに何もなし。射撃場までの交通手段なんてまったくなかったに違いない。こんな田んぼしかないところにタクシーもないやろし、車で来てたことは容易に想像できるけど、車はもちろん一般庶民がおいそれとGETできる代物やありません。かなりのブルジョアを客層にした設定やったんやろうと思います。
あとは、射撃場がいつなくなったかなんやけど、戦争の激化で止めたか、それとも戦争前には「贅沢は敵だ」となくなってたのか・・・ああ、これはもうええわ、キリあらへん(笑

阪和電鉄は他の私鉄の例に漏れず、住宅地の開発にも手を出しとりました。
これは元々阪急の小林一三の独創なんやけど、阪和電鉄も沿線に何もない分、逆に人口を増やしていけるチャンスでもありました。
阪和電鉄が開発した住宅地は主に3つでした。
・上野芝向ヶ丘・霞ヶ丘・旭ヶ丘(上野芝駅周辺)
・信太聖ヶ岡(北信太駅前)
・泉ヶ丘(泉北のやありません、東佐野駅前のこと)

こないして見たら、全部「◯◯ヶ丘(岡)」とついてますな。

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この3つは今でも静かで道筋もきれいに整備された、家一軒がけっこうデカい住宅街になっとるけど、元々はこういう歴史があったんですわ。阪和電鉄の社長は上野芝の霞ヶ丘住宅地に住んでて、旧宅は今でもあるそうです。
せやけど、阪和電鉄も住宅経営のノウハウに乏しかったせいで、上野芝の向ヶ丘住宅は新築やのに2年で雨漏りするわ、飲料水は濁って飲めんわ、おまけに電気は通ってへんわ、今やったらとんだ欠陥住宅もので、自治会が電鉄側に抗議したことが記録に残っとります。
ちなみに、天王寺駅の次の駅の「美章園」も、阪和電鉄開業後に開発された住宅街なんやけど、これは鉄道が通る→不動産価格が上がる→ウハウハと踏んだ個人が土地を買い占めて不動産会社を作ったさかい、電鉄直営やありませーん。

こないな血と涙の(?)経営努力が実ったんか、どうにか数年後には黒字になった阪和電鉄やけど、今度は戦争というどうしようもない大波によって、揺れに揺れます。
上にも書いたよーに、「非常時」に娯楽なんてけしからん!とどんどんレジャーが縮小されていき、看板列車やった「黒潮」も廃止、また経営が悪化した阪和電鉄は、昭和16年になんと宿命のライバルの南海に吸収合併されてしまいます。最近でも阪神と阪急が経営統合したけど、これは経営統合やなくて吸収合併、阪神タイガースが「阪急タイガース」になるくらいの衝撃でした。
この時点で阪和電気鉄道は消滅、「南海山手線」として再スタートします。ちなみに、今の三国ヶ丘駅は合併後に、同じく合併された高野山電気鉄道(南海高野線)との連絡駅として作られました。
そして波乱はまだ続きます。
戦争まっただ中の昭和19年、「南海山手線」は、南海の言い分を借りたら国家権力で有無を言わさず「強奪」されて「国鉄阪和線」となり、国鉄→JRになって今に至ります。
これ、今でも南海は不法行為として認めておらず、確か戦後に「阪和線返せ!」とかなり国に抗議したらしいけどあえなく却下。その腹いせか、三国ヶ丘駅にはJRは快速が止まるのに南海は急行ガン無視。利用者にとっちゃ不便極まりないんやけど、「我が社のプライドにかけて全力で通過します!お客様のご要望?そんなものには興味ありません!」とばかりに、今日も絶賛通過中です(笑
南海は大阪市にいじめられ、国にいじめられ、けっこうひどい目に遭ってるんは同情するけど、利用者からしたらせめて区間急行くらいは止めて~な~、なんば方面は準急あるからまだええけど、高野山方面(中百舌鳥より先)が行きにくくてしゃーないし!と切に願います(笑

というわけで、阪和電気鉄道は人間で言うたらかなり波乱の人生やけど、たかが鉄道と侮るなかれ。たった一つの、毎日通勤で使っとる路線でもこれだけ書ける・・・もとい歴史が詰まっとるんですわ。
いや~、歴史って、ほんとうに面白いですね! byミズノ春男(笑

というわけで、天王寺駅の謎は次の章で。
天王寺駅にまつわる、忘れ去られた歴史を是非お見逃しなく!

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Comment

続き
現在も、杉本町南踏切辺りに痕跡が残っていますが、大阪商科大学(現在の大阪市立大学)校内へ、引き込み線があったようです。
また、堺市駅(元・金岡駅)からも、現在の警察学校(当時は軍部が管理)までも、軍需物資か戦争の負傷者の輸送の為か、引き込み線があったみたいです。
また、現在はショッピングセンターアリオ鳳になっていますが、以前は東急車輛があって、元の帝国車輛時代は、こちらで車輛も新造されていた為、鳳電車区から帝国車輛にも引き込み線がありました。
また、羽衣線は、阪和電鉄時代は、天王寺から阪和濱寺まで、おっしゃる通り、直通急行が走っていた関係で、元々は複線でした。
そのせいか、現在の高架になる前、まだ地べたを走っている当時は、単線なのに、やけに線路幅が広く、終点の東羽衣駅も向かいのホームに、後から作った土台のホームを継ぎ足していました。
私が子供の頃は、現在のように、最終の羽衣線の車輛を鳳電車区へ格納するのではなく、現在は消滅した、6番線へそのまま留置する形でした。
今は残っているかどうか知りませんが、鳳駅の上り4番ホームから見ると、羽衣線から少し分かれて、行き止まりになっている線路がありました。
もっと前は、そこへ留置していたかも知れませんね。
あと、上野芝駅からは、昔、阪和電鉄直営のバス(阪和バス)が、直営の分譲地へ走っていたようで、後に、上野芝から神野~家原寺~八田寺~鈴の宮辺りまでの路線も、ありました。
このコースは、近年、後に南海電鉄バスが、堺東駅~津久野駅~平岡町~平岡南~八田寺町~鈴の宮~八田北町(現在は廃止)と言う形で、受け継がれたようです。
第2団地が出来た当時は、堀上緑町一丁ゆきのバスも、現在のように団地まわりを一周してなくて、当時の平岡幼稚園(廃園)辺りが終点でした。
また、北野田駅前~浜寺公園まで走っていた、南海電鉄バスも、昔は、鳳の駅前まで入っていました。
ブログを見て感心しました
はじめまして、私も平岡幼稚園、平岡小学校、上野芝中学校出身の50歳です。
生まれも育ちも現在も、向ヶ丘第2団地で、第2団地も建設してから、約50年が経ちました。
現在は、第2団地も敷地の半分をURが民間のフジ住宅に売却し、一戸建ての新しい住宅が出来始めています。
ちなみに私も、阪和射撃場については、どの辺りにあったのか、ずっと疑問に感じておりました。
現在の堀上緑町一丁バス停やタクシーのりばや、第2団地のショッピングセンター辺りが、丁度、谷状になっていて、その辺りから平岡小学校の校庭辺りまで、続いていたのではと推測します。
Re: タイトルなし
>市ヶ谷四機さん

はじめまして、コメントおおきにですm(_ _)m

射撃場は、小学校5年の時の社会の授業でやったはずなんです。使ってた教科書(郷土史のやつ?)にも射撃場のパンフか写真が載ってましたし。そして、担任の先生が郷土史に力を入れて歴史クラブみたいなのも作っとって、俺も参加してました。
もっとちなみに、江戸時代は平岡小学校あたりは田安家(田安徳川家)の領地やったそうで、これも社会の時に言ってて思い出して最近裏を取って確認しました。
だから、阪和電鉄の射撃場のことを知った時、あれって阪和電鉄のやったのか!と本文に書いてるよーに思い出しました。

> 平岡小学校は今年開校50年だそうです。

今年12月に何かの式典をやるそうですよ。まだ日程とかは決まってないみたいなんで、決まったら某SNSの方でお知らせします(笑
  • 2015-07-18│23:09 |
  • BJのぶ URL│
  • [edit]
向ヶ丘第二団地で生まれ育ち、平岡小学校にも1年生の約半年行ってましたが、阪和電鉄の射撃場は平岡小学校の場所にあったとは知りませんでした。
第二団地が射撃場跡とは聞いていましたが。
平岡小学校でもそのように教えていたのですね。
平岡小学校は今年開校50年だそうです。
  • 2015-07-18│19:44 |
  • 市ヶ谷四機 URL│
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こんにちは、はじめまして堺市に住んでいるものです。
35年前まで阪和線の津久野駅ちかくの団地に住んでいました。
射撃場跡にたてられた平岡小の近くの家原寺小学校に通っていました。
阪和電鉄の広告や経営を見てみると、今を見てみるとモダンですね。
経営陣は必死で焦っていたのでしょう。
  • 2014-08-20│14:57 |
  • 45歳男 URL│
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Re: 天王寺駅
>Tommyさん


> 学生時代の1970年後半、天王寺駅の一番南側のホームには天下茶屋行き?だったでしょうか?、南海電鉄の電車がよく止まっていました。

南海天王寺支線ですね。これは俺も覚えてますよ。
いつの間にか天下茶屋まで行かんよーになって、いつの間にか廃止になったけど、今の天王寺mioの真下にホームがありましたね。今でも残ってるかな?とたまに18番ホームから奥を覗いたりします(笑
  • 2014-07-01│21:23 |
  • BJのぶ URL│
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Re: 天王寺駅きたー!笑
>ちむさん

身近な天王寺駅のこと、お楽しみいただけましたか?

天王寺言うたら、泥々と、ゴミゴミと、大阪らしい賑やかさが同居してたような街でしたけど、すっかり「スマート」になりましたね。悪く言うたら、梅田とかと何がちゃうの?という感じになったような気はしますけどね(汗)
でも、阿倍野駅まで行ったら、まだ下町の雰囲気は残してますよ。


> 過去のブログを読んでいたときから不思議だったんですが、昔天王寺駅周辺はペンペン草が生えてるような場所だったんですよね?
> 天王寺駅ができた理由って不動産の開拓のせいなんですかね?

いい質問です(笑
元々は四天王寺への参拝のためもあるけど、四天王寺を中心にお寺とかが集まってる場所でもありました。
それやったら、四天王寺の近くに作ったらええやんか!
と思うでしょ?
でも、当時の鉄道はとんだ「厄介者」で、中心部に鉄道を作るなんてとんでもない!と反対する方が多かったんです。
今のJR大阪駅も、実は元々は当時の大阪の密集地やった堂島か船場に作るはずやったんです。
今の淀屋橋駅と本町駅の間くらいかな。
でも、「鉄道なんて絶対に入れへんで!」と地元が反対して、「埋田(梅田)」という荒地の真ん中に作らざるを得なかったんです。

あと、本文にもチョロっと書いたよーに、大阪市が「大阪市の中心部には、大阪市営交通以外絶対入れへんで!」というポリシーがあって、これを「大阪市営モンロー主義」と言います。
今の私鉄ターミナルになってる、梅田・難波・上本町、天王寺(阿倍野橋)、京阪の元ターミナルの天満橋は、出来た当時はみんな「郊外」やったんです。
「そこから先へは私鉄なんて電車一本、バス一台入れへんで!」
というのが「大阪市営モンロー主義」で、昭和40年代の大阪万博まで続きました。

だから、天王寺駅も、もしかして元々はもっと北に作るはずやったんやけど、四天王寺とかの反対で今の場所に、しゃーなしに作ったって可能性もあります。
  • 2014-07-01│21:21 |
  • BJのぶ URL│
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天王寺駅
学生時代の1970年後半、天王寺駅の一番南側のホームには天下茶屋行き?だったでしょうか?、南海電鉄の電車がよく止まっていました。
いつの頃から無くなり、10年ほど前に仕事で夜中に大きな仕事で搬入に使いましたが、天王寺Mioの地下搬入路がおそらくそのホーム跡だったのでは無いかと当時想ったりしました。
  • 2014-06-16│20:53 |
  • Tommy URL│
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天王寺駅きたー!笑
ブログ更新お疲れ様でした!
楽しみにしてましたー^_^

今回は天王寺駅ということで、私とも切っても切れない駅です。
最近は阿倍野筋のレトロな商店街も姿を消してしまい違和感がありますがf^_^;)
何か無理してる感が…笑
若者の街というような印象じゃなかったのに、すっかり様変わりしましたね。

過去のブログを読んでいたときから不思議だったんですが、昔天王寺駅周辺はペンペン草が生えてるような場所だったんですよね?
天王寺駅ができた理由って不動産の開拓のせいなんですかね?
それとも新世界辺りでの万博に関係があるとか?

阪和線って和泉府中までやったんですね!
でも、たった1年で和歌山まで開通させたのはすごいですね!
今回のブログも新しいことを知れておもしろかったです^_^
後半も楽しみにしてます(*´╰╯`๓)♬
  • 2014-06-14│23:25 |
  • ちむ URL│
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