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BEのぶ

  • Author:BEのぶ
  • 自称「ブログエッセイスト」ことBEのぶです。
    昭和史をライフワークにしていますが、平成ももうすぐ30年経ち、昭和が遠い過去になりつつあります。
    昭和も遺産・遺物を探れば立派な「考古学」となります。題して「昭和考古学」。ジャンルは遊郭・赤線跡から鉄道、そしてすっかり忘れ去られた歴史を掘る「昭和の考古学者」として、昭和の名残りを通して考察する旅を続けています。

    基本は標準語で書きますが、エッセイは大阪弁で書いていきます。

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■■■夢に終わったユートピア 伽羅橋

すっかり夏の暑さもどこへやら、やっとエアコンガンガンから解放されそうなBJのぶです。
そして、すっかりブログ更新もご無沙汰してしまいました。

今回も、趣向をこらしてちょいと違う文体をお楽しみ下さい。



伽羅橋と聞けば、何か匂うような、香ばしさを感じる。
伝説によると、戦国時代も終わりの頃に豊臣秀吉が紀州の雑賀衆征伐の帰りに小休止し、橋の上で煙草の火を落とすと、何やら香ばしい香りがした。その橋は高級な木である伽羅で作られた、贅沢極まりない建造物であったのである。それが伽羅橋という名前ののゆえんである。
もちろん、その橋は今はない。地名にも残らず、ただ鉄道の駅名にのみその伝説を留めている。

大阪と和歌山を結ぶ南海本線の羽衣駅から、盲腸のように支線が南に向かって垂れている。南海高師浜支線である。
二両編成の電車が、羽衣と高師浜間を行ったり来たりしている大阪のローカル線の途中に、その伽羅橋駅がある。
駅の周辺は、閑静な住宅街である。良くも悪くも、カステラで有名な「銀装」の本社工場以外何もない。歴史を知らない人は、
「何故こんなとこにこんな鉄道を作ったのだろう?」
と不思議に思うかもしれない。

そこにかつて、「ユートピア」を造ろうとした男がいた。

その男の名前を、山川逸郎といった。

* * *
かれは江戸時代より今の高石市周辺の庄屋を勤めていた山川家の御曹司で、明治時代に初代高石村長を務めたこともある山川和正(1834~1918)を父に持ち、若いころアメリカに留学していたこともある。当時としては非常なるインテリである、大阪弁でいう典型的な”ボンボン”でもあった。

逸郎は、アメリカで自動車に興味を持った。
元々は堺中学(現在の大阪府立三国ヶ丘高校)から関西学院へ、その後兵庫県立工業学校(現在の兵庫県立工業高校)の機械科を卒業したかれは、当時の最新技術であった自動車に強い関心を示したのも、自然の流れであったであろう。
大正8年(1919)に帰国した逸郎は、何故か自動車ではなく住宅建築に走った。おそらく、逸郎が米国遊学で強い感銘を受けたのは、自動車以上に当時アメリカ各地に作られていた、広々とした敷地の新興住宅地であったのかもしれない。

しかし、かれが住宅経営に乗り出す地盤はあった。
逸郎がアメリカより帰国する1年前の大正七年(1918)に、南海高師浜線は伽羅橋まで開通した。翌年には高師浜まで開通し、今の高師浜線のルートがこの時代に出来上がった。
高師浜線のレールを敷いた理由は、沿線の土地開発のためであった。

おほともの 高師浜の松ケ根を

枕きぬれど 家し偲ばれ


(『万葉集』 置始東人)


沖つ浪 高師浜の浜松の

名にこそ君を 待ち渡りつれ


(『古今和歌集』 紀貫之)

と、古くから歌にも詠まれた高師浜は、遠浅の海岸沿いに松の木が並ぶ景勝の地であった。今では浜寺公園に生える松林以外、歌人が歌に詠んだ面影は何も残っていないが、昔は駅のすぐ近くにまで海が迫り、駅を降りると潮の香りがぷんぷんと漂っていたであろう。高師浜は立地、知名度ともに高級住宅地・別荘地として、最良の条件を備えていた。

高師浜界隈の土地開発のために、高師浜線開通と相前後して南海土地建物株式会社という不動産会社がつくられた。
そこの役員の一人に、山川七左衛門という名前がある。逸郎の兄にあたる。
七左衛門は地元の開発のために高師浜線を誘致し、土地を提供した一人でもあり、伽羅橋駅もかれが所有する土地を提供してつくられたものであった。
逸郎は、そこに現実の楽園、つまり「ユートピア」を創り、彼の夢をそこで実現させようとしたのである。
その名は、キヤラバシ(キャラバシ)園と言った。


私は今回、伽羅橋駅ではなく、本線の羽衣駅で降り、本来は電車で行くところを歩いて行くことにした。
理由は、ここが私の生まれ故郷だからである。
私はこの地区で生まれ、約八年間を過ごした。つまり、羽衣駅界隈は私の幼少期の思い出が詰まった「ゆりかご」でもある。
その懐かしさと、日頃貯まった運動不足の貯蓄の解消を兼ねて、少し歩いてみようと思ったのがその理由である。
羽衣駅を電車で通ったのは何度もあるのだが、下車するのは久しぶりである。界隈を歩いてみると、変わった部分は全く変わっているが、変わっていないところは全く変わっていない。
幼稚園時代の同級生が住んでいた家、よく親に駄々をこねて買ってもらったケーキ屋など、三十年以上前の、駅前あたりを遊び場にしていた頃の記憶がよみがえってきた。懐かしいと言えば非常に懐かしい。やはりここは私にとって「ゆりかご」に還ってきたような気分である。

羽衣駅から「キャラバシ園」があった場所へは、大人になった現在歩いてみると近からず遠からずといった距離であるが、幼少の頃は住んでいた家からそこまで行くことは、ちょっとした「冒険」であった。
南海本線の踏切から「海側」(と我々は言っていた)、つまり高石市を流れる芦田川より西側は「異世界」であり、芦田川と南海の鉄路がいわばわれわれの「国境」でもあった。もちろん、三十年以上前の話である。

(みち)の途中、分譲マンションか住宅の幟が目に入った。
別に何ということもない、どこにでもあるような不動産会社の新築物件の宣伝であったのだが、その向かい側には更地が広がっている。

12091001

「あれ、ここは・・・」
と思った。ここには確か、住友なんとかの社宅があったはずなのである。
ここも、私の幼少時の思い出の地の一つである。
幼稚園から小学校にかけて、この社宅にはクラスメートがたくさん住んでいた。私もここを訪れて友人と社宅の敷地を遊び場にしていたのだが、それが今、見る影もない更地になって私の前に存在している。
別にここに住んでいたわけではないのだが、自分の幼い日の思い出が凝縮された記憶の場所の一つが、消え失せてしまった。心の中に複雑な思いが渦のように巻いていた。
かつて社宅の入り口であった場所にしばし立つと、もう「大昔」と表現しても良さそうな、ここで友人たちと日が暮れるまで遊んでいた頃の笑い声まで、耳に伝わってくるかのような感覚がした。
しばしその「声」に耳、いや頭を傾けていたのだが、ふと現実に戻って「更地」と化した敷地を見てみると、あることに気づいた。
「更地」の面積が意外に小さい、というか狭いのである。
私の記憶が正しければ、というのは某テレビ番組の常套句だが、社宅の敷地はもっと広々としていたはずである。
そう感じるのは、私が大人になったせいなのであろうか。

失われた思い出の場所を離れ、南海電鉄本線の踏切をくぐった。
ここからは、幼い頃の私流にいうと「外国」である。私は数十年ぶりに「外国」へ「入国」を果たした。


12092302

「キャラバシ園 大正時代のスーパーモダニストが遺したもの」という論文を参照にした、キヤラバシ園の推定区域である。この地域に、未完成に終わったユートピアがあったという。
伽羅橋駅周辺は、かつては隣の高師浜同様に高級住宅地として造成されたせいか、大正・昭和初期のモダンを醸し出すような洋館が残っていたのだが、今は数えるほどしか残っていない。
キヤラバシ園も、当然今は存在はしない。
しかし、よく探してみると、一人の男が造ろうとしたユートピアの跡が、わずかながら残っている。


12092301

たとえば、この区画である。
地図をよく見ないと判別できないが、区分けがきれいな三角になっていることがわかるだろう。
かつては、ここに噴水が湧き出る三角の形をした公園があったといい、キヤラバシ園のユートピアのゆえんともなった場所である。区画のみが現在にとどめている。

12092303

大正時代につくられた、キヤラバシ園の紹介絵葉書には、勢い良く噴水を吹き出す公園の図が、はっきりと描かれている。この図を見ると、家、というか邸宅の間隔はかなり広く、敷地にかなり余裕をもって設計されたものだと思われる。キャラバシ園の道は、最新のアスファルトで舗装されていたという。当時東京にも舗装された道路が少なかった時代のことである。


12092304

現在の「噴水公園」の姿は、このようにふつうの住宅地と化している。当時の片鱗はかけらもなく、人々の生活の場となっている。年月が経ち住宅の森に同化してしまい、実地をじかに見ると全くわからない。今住んでいる人も、ここがかつて『高師浜の桃源郷』と言われたことなど、信じられないであろう。
ここで一首詠んでみた。

大正の 高師の浜の 夢の跡 静けさのみぞ 今に残りし


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逸郎が設計したという家が、わずかながら今でも残っている。
現在はカステラで有名な「銀装」の社長の赤木氏宅となっている。
赤木氏は昭和26年にこの家を買い取ったと、高石市の調査で判明しているのだが、かつては大阪の大料亭のオーナー、飯井定吉の邸宅だったという。



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もう一つ残る「夢の跡」がこの家である。
ここは逸郎の邸宅跡である。この邸宅は「キャラバシ園」の住宅事務所も兼ねていたといい、逸郎の夢はここから始まり、ここで大きな夢を膨らませていたに違いない。

この邸宅のとなりには、洋館の持ち主と同じ名前の耳鼻科医院がある。
ここも、実は私とは少なからず縁がある。
幼い頃の私は、鼻炎を患っていて、冬になると鼻水をずるずると音を立ていた。親もその姿を見ていられなかったのであろう、治療のために小学校に上がったばかりの私を病院に連れていったことがある。私はそこで鼻にチューブのようなものを突っ込まれ、そこから「蒸気」が出て不快な思いをしたことがある。その「蒸気」が実は気化した薬だったことを知ったのは、かなり後のことである。
その病院が、洋館の隣にある耳鼻科なのである。
病院の建物こそ、昔は洋館のような感じだった記憶があるので新しくなってはいるが、場所は全く変わっていない。それにしても、我ながらよく憶えているものである。
当時自宅があった頃に母親が自転車に私を載せて「国境」を越え、「異郷の地」であるここまで通っていた。距離は、自転車で行くにはかなり遠い距離であるので、伽羅橋まで通院させていたということは、評判が良かった病院だったのであろう。そして、子供の鼻の病をどうにかして治してやろうという母親の愛を、30数年経って初めて感じたように思えた。

ところで、逸郎は一体どこへ行ってしまったのか。
記録によると、「キャラバシ園」の第一期工事は大正12年(1923)に完成したが、翌々年の大正14年には逸郎の住宅にかける熱意も失せたのか、「キャラバシ園」は第一期で終了した。
のち昭和6年、逸郎は自邸を手放し芦屋に移住、昭和37年(1962)に永眠したという。
何故急に「キャラバシ園」の開発に熱意を失ったのかはわからない。しかし、大正後期から続く不景気に、追い打ちをかけた昭和の大恐慌で買い手がつかなくなり、経営的に成り立たなくなったのであろう。
地上に創ろうとしたユートピアは、結局は金持ちのボンボンの道楽に終わったと言える。


12092308

伽羅橋を界隈を歩いていると、こんな奇妙な看板に出くわした。
中華料理にギリシャ料理。一見何の交わりもなさそうなコラボである。
シルクロードは西の文化と東の文化との通り道であるが、東西を歩いた商人、遊牧民族、軍隊などがユーラシア各地に東西融合の跡を残している。それがここ日本、それも伽羅橋という一角でも融合していたのかと思うと、小さいがスケールが非常に大きい店でもある。違う意味で世界遺産級であろうが、しかし営業はすでにしていないらしい。


一人の男が創造しようとした「ユートピア」は、今は住宅街にほぼ完全に同化しているように思える。
だが、大正の雰囲気を残す洋風邸宅が、わずかにその夢の跡を語っている。
そして何より、どこか気品があるような空気が伽羅橋界隈には残っているように思える。それは私の思い違いであろうか。
ユートピアは、今はそこに流れる空気のみが霊魂のように留まっていた。



ちゅーわけで、しばらくブログ更新してへんかったさかい、はよ更新せんと!と焦って突貫工事になってしまいました。
ホンマはこの3倍くらいの文章を計画しとったんやけど、まあちょうどええ長さやろ、と自分の気持ちの中だけで納得してみる(笑


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