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BEのぶ

  • Author:BEのぶ
  • 自称「ブログエッセイスト」ことBEのぶです。
    昭和史をライフワークにしていますが、平成ももうすぐ30年経ち、昭和が遠い過去になりつつあります。
    昭和も遺産・遺物を探れば立派な「考古学」となります。題して「昭和考古学」。ジャンルは遊郭・赤線跡から鉄道、そしてすっかり忘れ去られた歴史を掘る「昭和の考古学者」として、昭和の名残りを通して考察する旅を続けています。

    基本は標準語で書きますが、エッセイは大阪弁で書いていきます。

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■■■終戦67年目のえとせとら -学校では習わない終戦史-

8月15日は…




俺の誕生日であります!


ついに俺も67歳になってまいました(嘘
ワシも年を取ったのう(嘘 
いや、「年取った」は嘘やないか・・・_| ̄|○
まあそれはさておいて、8月15日は言わずと知れた終戦記念日でもあります。
まあ、最近は若いもんに終戦記念日言うても、

「俺の誕生日は、『終戦記念日』やねん」

「8月6日ですか?」

「そりゃ広島の原爆の日や!(x_x)ヾ(-_-;)」

「8月9日…でしたっけ?」

「そりゃ長崎の方やっちゅーねん!(x_x)ヾ(-_-;)」

「ええ?! じゃあ22日?」

(そりゃ一体何の日やねん… _| ̄|○)

というような、漫才にもならんトンチンカンな会話になってまう時もあるけど(上のやり取りは実話です)、8月15日はちゃんと覚えておきましょう!そう、




俺の誕生日として(笑)

* * *
ところで、日本人的にはその8月15日って非常に重いニュアンスを含んだ日という思いがあります。
せやけど、この日を世界史的、国際政治的という、日本史やない違った観点で考察してみたら、「天下の8月15日」って一体何の日なん?と輪郭がぼやけてしまいます。
それはどういうことか?
ちょっと終戦前後の情勢をおさらいしておきましょう。

今から67年前の昭和20年(1945)7月26日、連合国は日本に向けて「無条件降伏せんかい」という宣言を出します。
それを、会議をした場所にちなんで「ポツダム宣言」と言います。
これを、当時の内閣の首相、鈴木貫太郎は「黙殺する」と発表します。
この「黙殺」という、どうにも解釈できるあいまいな言葉を、日本の通信社が首相に確認もせんと「無視する」と翻訳してしもて全世界に発信してしもたのが間違いで、これがアメリカに「よろしい、ならば原爆だ」と原爆投下を正当化する大義名分を作ってしまいました。

せやけど、実はポツダム宣言前の7月25日に、大統領のトルーマン他軍のトップが原爆を落とすことにOKを出しとったりします。
トルーマンの自伝にゃ、ポツダム会談の時にチャーチルと原爆投下について話し合い、チャーチルも「ええんちゃう?」と言ったと書いとる、つまりチャーチルも原爆を落とすことにゃ反対やなかったとしとります。
チャーチルはそれに答える形で、「おいおい、確かにトルーマンとは原爆の話はしたことあるけど、その時はしてへんぞ!」と『第二次大戦回顧録』という本で書いとって、第二次大戦のキーパーソン二人が全く違うことを言うとるわけです。
明らかなんは「どっちかが嘘」ってことやけど、さてどっちが嘘なのか、それはあの世の当人のみぞ知る。
まあ、個人的には「嘘つきそう」なのはトルーマンの方やと思うんやけどね。

それはさておき、鈴木貫太郎も「黙殺」発言は非常に悔いていて、自伝にも「自分は『ノーコメント』というニュアンスで使ったのに」と嘆いとりました。
また、「黙殺」を「無視」「拒絶」と自分本位で勝手に翻訳してしもたことは、おそらく日本史に残る最大の「誤訳」でしょう。

時は経って8月9日、ソ連の対日宣戦と長崎の原爆投下で、鈴木首相も「この内閣でケリをつけましょう!」と言って、日付が10日に変わった深夜2時、あの有名な「天皇のご聖断」が行われます。ちなみに、「ご聖断」は14日もやっております。
実はこの「ご聖断」、つまり政治的な判断を天皇に任せるんはれっきとした大日本帝国憲法違反で、昭和天皇自身も「あれは明らかに憲法違反」と回想しとるくらいなんやけど、逆に言うと天皇ご自身が憲法違反までせんと収拾がつかんかったってことなのであります。
これについては、ちょっと面白い余談があります。
この憲法違反の「ご聖断」を誰がけしかけたのか、誰がシナリオを作ったのか。
天皇の側におった内大臣の木戸幸一は、『木戸日記』で「これは私の発案だ」と書いとるんやけど、鈴木貫太郎はその本を見て、そこの部分に線を引いて、「この記述はウソ。これをやったのは私だ」と書き込みをしとります。
『木戸日記』自体、自分の戦争責任を逃れようとして公開した日記やさかい、「ご聖断」を「自分のアイデア」として、「私は戦争を終わらせようとしました♪」と、アメリカに対して得点稼ぎをしようとしたということ。
天皇に憲法違反をさせるのは相当の覚悟があったのに、己の得点稼ぎと責任逃れだけで歴史の事実を変えようとした木戸に対して、鈴木貫太郎がマジギレしてこの書き込みを残したんやろなと思います。

そして、「ご聖断」が下った後、ポツダム宣言に対して「国体」、つまり天皇制は維持するという条件で受け入れますけど、いかがでしょ連合国さん?という回答を送ります。

その回答は8月13日にきます。
その内容は、

「日本の政体は日本国民が自由に表明する意思のもとに決定される」

「降伏の時より、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施の為其の必要と認むる処置を執る連合軍最高司令官にsubject toする」



という、内容だけ見たらなんかよーわからんものやったんやけど、これでいったんはポツダム宣言受諾の流れになった政府が揉めに揉めてしまいます。
特に後半のsubject toをどう解釈するか。
外務省は「制限下に置かれる」と訳をごまかしたんやけど、陸軍は「隷属する」と訳し、「隷属=日本を奴隷にするつもりだ=国体を守ることは無理」として、「ポツダム宣言なんかに従えるかアホ!戦争継続じゃ~!」と駄々をこね始めます。
さあ、せっかく「終戦」になったのに、また振り出しに戻ってしまいます。

そのとき、海軍側は米内光政海軍大臣がいったん海軍省に戻り、すぐに国際法と英語のスペシャリストの海軍職員を呼び出します。
軍隊、特に旧日本軍は制服を着た軍人ばっかしで、「一般人様お断り」ってイメージが強いと思うけど、海軍省の職員は、実は軍人だけやなくて語学や国際法の専門家(一般人)などを「士官待遇」として採用もしとりました。
(陸軍も雇ってたけど、待遇は一般兵士よりちょっとマシな程度で重用もされへんかった)
これは、世界中の海軍がシビリアン・コントロールの流れになっとる中、日本も「将来の海軍大臣候補」を内部で育成しとったとも言われとります。
米内はかれに連合国からの回答を見せて、
「これで国体は維持できるかな?」
と答えを求めました。
彼は「自分の解釈で国が滅ぶか否かの瀬戸際だ」とすごいプレッシャーがかかって、
「ちょっと考えさせて下さい」
と回答を留保しました。
せやけど米内は、
「いや、この場で即答せよ」
とピシャリと止めます。
かれはすごいプレッシャーの中、
「私の解釈では、この回答では(天皇は)大丈夫です」
と答えたんやけど、米内は我が意を得たんか、
「よっしゃ!」
とルンルンでその場を離れ、たぶん閣議に向かったといいます。

この彼は大正時代に東大から海軍省に入って、すぐに数年間のイギリス留学を命じられるんやけど、その辞令が
「イギリスの軍事研究を命ず」
と。
いかつい「命令書」やけど、とりあえず当時の海軍大臣、安保清種に挨拶に行った時、大臣は辞令を見て笑って手を振って、
「そんなもん勉強してこんでいい。遊んでこい」
と。
おいおい、国費で遊んでこいって、と彼は目が点になったらしいけど、大臣は笑った顔をすぐに真面目な顔に変えて、
「でも、イギリス人がどういう物の考え方をするのか、これだけは身につけて帰ってきてくれよ」
と言って彼を送ったそうです。
彼は言葉に甘えてイギリスで遊び暮らしたらしいんやけど、
この大臣の「これだけは身につけて帰ってきてくれ」と言われたことが役に立った、大臣が言ってたことはこのことだったのか、と、subject toの解釈を聞かれた時にふと思ったそうです。

せやけど、揉めに揉めた政府はどない収拾させたんか。
これにはある秘話があります。
第二次世界大戦では中立国やったスウェーデンの新聞に、あるイギリス政府の論調が掲載されます。
「ソ連の反対を押し切ったアメリカ外交の勝利」
という見出しの文章、これは天皇を処罰する考えやったソ連を、アメリカが説き伏せた、つまり日本政府の「天皇には手を出さない」という条件を受け入れる、という内容でした。
スウェーデンに駐在しとった日本大使の岡本季正が、海外から日本政府のやり取りを見てじれったく思って、「ちょっとでも終戦への足しになれば」これを早速外務省に緊急電報として打ち、当時の外務次官が戦後に「ちょっとどころか、あれが(ポツダム宣言受諾の)ホームランだった」と言ってるくらいの大金星でした。

また、当時のスウェーデンには、ある陸軍将校が駐在武官として滞在しとりました。
その名は小野寺信(少将)。
スウェーデン駐在武官っても、陸軍の中じゃ「島流し」的な地位なんやけど、中立国はいろんな方面から情報が入り、各国のスパイが暗躍するリアル007のような世界でもありました。
小野寺は「島流し」の中独自の情報網を持ち、スウェーデン政府にも「日本スパイ団の大ボス」と見なされとりました。
彼はドイツに占領されとったポーランドのレジスタンスとも深いつながりがあって、ヨーロッパ中に散らばったポーランドレジスタンスからドイツの内実の情報を得て、
「ドイツ頼みの日米開戦は不可なり」
という電報を送り続けました。
せやけど、「島流し」の人間の言うことなど誰も聞く耳を持ちませんでした。

更に数年後、そのレジスタンスからヤルタ会談の密談、つまりソ連の日本参戦の情報をもらいます。
その期日は、「ドイツ降伏から3ヶ月後」。
これは、日本の外交筋も全く把握しとらん大スクープ情報でした。
この期日は奇しくも見事に当たったのは歴史が語るとおりやけど、このとんでもない情報に小野寺は陸軍に電報を送り続けます。
せやけど、結果は「なんの返答もなし!」と小野寺自身が怒り気味の口調でNHKスペシャルで語ったとおりでした。
小野寺の電報が東京に届いてたんは、他の参謀が「見た」と著書に書いてるやさかい事実やけど、「参考にもならん」と握りつぶした結果満州の悲劇が起こったわけですわ。
一般常識じゃソ連の参戦って「青天の霹靂」とされとるけど、実は事前に情報をキャッチした人がおったものの、その情報を重視どころか逆に「島流し」の戯言程度に片付けたということですね。
ちなみに、この小野寺少将の奥さんの百合子さんは、スウェーデン語で書かれたフィンランドの童話を翻訳して、日本に「ムーミン」を伝えた人でもあります。

8月14日、日本政府は連合国からの「ポツダム宣言」を受け入れますと通達しました。
この時点で「日本降伏」というニュースが世界中に流れます。
アメリカの捕虜になった日本兵も、「14日から尋問官がえらいフレンドリーになった」「いきなり花火や銃の空砲が鳴り響き」と、戦争が終わったなと感じたそうで、
ある潜水艦の艦長も、「アメリカ軍の通信が急に平文(=暗号ではない。軍同士はふつう、情報漏れ防止のために暗号で通信しとります)になって、えらいハイテンションの通信が飛び交ってた」と回想しとります。

そして、「それを受け入れました」ということを、国民に伝えないといけません。ホンマは普通のニュースで淡々と流してもよかったんやけど、それじゃ軍、特に陸軍が黙って「はいそうですか」とは従いません。
そこで、昭和天皇自ら、「よし、私自ら話そう」というわけで、結果的にあの玉音放送が出来たというわけです。

しかし、学校の教科書じゃ、
「もう限界やさかいそろそろ戦争やめまひょか~」
「ホンマやな、そうしましょか」

と、なんかさっさと用を足してはいすっきり!くらいの説明しかしてへんけど、現実はそんな小便みたいなもんやありません。
ここからが実は14日から15日にかけての「戦い」のはじまり、半藤一利さんの言葉を借りると「日本のいちばん長い日」やったりします。
さて、天皇陛下自らがマイクを握ってカラオケ…やなくて放送を流すとは前代未聞、開闢以来の一大事。
とにかく前例がないから四苦八苦した挙句、玉音放送の原稿が出来上がります。
しかし、そこで陸軍が言葉の端々に物言いをつけます。
そこで原稿の草案からどんどん文章が変わっていってまいました。
たとえば、 「戦局日ニ非ニシテ」というところは、陸軍大臣の阿南惟幾が「これじゃうちら負けてるみたいやん!」と変更を要求、米内光政海軍大臣が「いやいや、実際負けてるし!」とツッコミを入れてかなりバトルになったんやけど、結局「戦局必スシモ好転セス」と変更になりました。

これには裏話があります。
この阿南と米内の喧々諤々のやり取りの際、途中で米内が席外しをしました。
同席しとった迫水久常という内閣書記官長(今の官房長官みたいな地位)に、「この部分(の訂正)は絶対に譲るなよ」と耳打ちして席を外しました。迫水は言いつけを守って陸軍の変更要求を必死にかわしとったものの、しばらくして米内が戻ってきて阿南と何かしゃべった途端、あっけなく「変更OK」ということで、迫水も戦後の回想で「米内さん、そりゃないでしょ(笑」と回想しとります。
せやけど、そん時の障害は陸軍のみ。特に大臣の阿南が一言言えば全陸軍が動いてクーデターの一つや二つ起こりかねない。
少なくてもそういう空気やった、とその場にいた人はほぼ全員答えています。
ヘタに突っ張って陸軍が暴走し、今までの努力や昭和天皇の意思をおじゃんにするより、妥協するとこは妥協するか、という政治的判断やったと迫水はいちおうフォローしとります。


玉音放送の録音が無事終わり、その原盤を厳重に保管したところで、一難去ってまた一難が起こります。

「ポツダム宣言受け入れなんて認めない!」

「陛下は周りの国賊にたぶらかされている!」


こう主張する陸軍の強硬派、つまり戦争継続派が巻き返しにかかります。
かれらは玉音放送のレコードを奪って皇居を封鎖、玉音放送を「ないことにしよう」と企み、8月15日未明(14日の深夜)に皇居の警備をしている近衛師団のトップ、近衛師団長を殺して、「皇居に誰もいれるな」と指令を出します。もちろん、この指令は偽の命令です。
そして、クーデターを起こした将校たちは宮中に入り、玉音放送の録音盤を徹底的に探します。
しかし、それは宮中の職員の機転などもあって見つからなかった上に、当時東京を警備する「東部軍」という陸軍の部隊の司令官、田中静壱大将が近衛師団の命令をニセと見抜き、一人でクーデターの渦の中に飛び込み指揮してクーデターを鎮圧します。
かれらは、田中大将の「オーラ」に何もできなかったと言います。
この「オーラ」は相当なものやったらしく、実は14日に田中大将をクーデターの将校たちが訪れ、「閣下、決起しましょう!」とけしかけたんやけど、「アホか!」と一喝されすごすご引き下がったほどやったりします。
「天皇直属部隊」とも言える近衛師団長は殺したのに、田中には怒鳴られて子供のようにシュンとなる、この近衛師団長には悪いけど、人間としての「オーラ」が違ってたんでしょうな。
この時、ニセ命令を受けた兵隊に監禁されていた徳川侍従は、「録音盤のありかを教えろ」と兵隊に言われて、
「知ってるけどお前らなんかに死んでも教えるか!」
「言わんと斬るぞ!」
「斬るなら斬れ、殺すなら殺せ!」
と一喝、兵士にコテンパンに殴られて蹴られて半殺しの目に遭ったものの、それでも口を割らなかったそうです。
この侍従、名前でわかるように徳川家の血を引く人(尾張徳川家の血筋)で、瀬戸際で天皇と日本を守ったのが徳川家とは、歴史とは時にはこういうおもろい逆皮肉を用意しとることもあります。

宮城事件を起こした将校の一部は、ある者は玉音放送前に、ある者はこの放送を聞きながら、自らの暴挙を恥じたかのように自殺し、玉音放送は歴史が語るように15日正午、予定通りに行われました。
決起した将校の中には、戦後も生き残った人もおるんやけど、彼らは捕まって軍事裁判で死刑・・・のはずなんやけど、
兵隊を自分勝手に動かし、よりによって師団長を殺した罪は死刑やさかい、それは100%避けられへん。せやけど運が良かったんか悪かったんか、うやむやに終わったそうです。
これじゃ、同じく兵隊を勝手に動かして死刑になったニ・ニ六事件(昭和11年)の青年将校は、「ええ!?俺らは死刑でこいつらは事実上の無罪かい!イミフやん」とあの世でとんだ恨み言を言うとることでしょう(笑
この終戦記念日に起こったクーデター事件を、「宮城事件」と言います。
終戦の日未明に起こったこんなクーデター未遂事件、意外に知ってる人が少なかったりします。

そしてあの15日の玉音放送が全国に流れて、16日に大本営から陸軍、海軍全部隊に向けて「全戦闘停止」命令が出ます。
そして何度か「戦闘停止命令」が出て、最後は「8月22日0時をもってすべての戦闘行為を停止せよ」という命令が19日に出とります。
そしてあのマッカーサーの進駐が始まってうんぬん・・・とそうはスムーズにいかんかったようで、
これも学校の授業ではやれへんけど、この後も陸軍・海軍の一部が「納得いかん!我々は戦闘を継続する」といわば「反乱」を起こします。
海軍側は省略するけど、陸軍側の「反乱」を鎮圧したのは、上に書いた「宮城事件」解決のMVP、田中静壱大将でした。
田中は「反乱事件」鎮圧の指揮を取ってすべて鎮圧、それを見届けた後に自決します。
田中大将は、実は陸軍の中でもアメリカ通として知られとって、オックスフォード大学にも留学した、陸軍じゃまず出世しない「逆エリート」な知英米派の道を歩んどりました。要するに、硫黄島の栗林忠道大将と同類やったってことで、マッカーサーとも親交があってマッカーサーは日本に行く際に田中との再会を楽しみにしとったらしいけど、自決したってニュースを聞いて悲しんだ、という話があります。

海軍では、戦闘停止の命令が出た時にこういう事があったそうです。
8月17日、艦隊司令部から「全艦隊、さっさとアメリカ艦隊に降伏しろ」とO大佐が電報を打ちました。
すると、軍令部のS氏と出くわしてS氏が激怒、
「あんな電報を打つとはけしからん!まだ負けとらんぞ!」
と言い放ちました。
O大佐は負けじと、
「いやいや、陛下はちゃんと玉音放送流したやん」
S氏、ますます怒って、
「天皇陛下は臆病風に吹かれて詔書を出したけど、われわれには大元帥陛下がおられるんだ!」

ここでちょっと解説せなあかんけど、戦前の天皇は「一人二役」をこなさんとあかんかったのでした。
それは、国家元首としての「天皇」と、軍隊のトップである「大元帥」。
ややこしいけど、もちろん「天皇」と「大元帥」は同一人物です。
軍隊には、天皇は「大元帥」として命令を出し、陸軍や海軍はそれを補佐するという役目、というのがタテマエなんやけど、
それが大正末、「統帥権」というわけのわからん魔法を出してきてから何だかおかしくなり、統帥権という呪文を解くこともせず、それはなんぞやを考えることもせず戦争に向かい、そして国を一つ滅ぼしてしまいました。

S氏は、その天皇の「一人二役」を持ちだして屁理屈を言おうとしたんやけど、そこでO氏は、
「違う!大元帥陛下は天皇陛下の家来だ!」
とすごみを増して答えたといいます。

このO氏は、海軍に詳しい人やったら、「ああ、あの人ね」という、伏字にする必要ないくらい有名な人で、戦後海軍の生き残りとして平成の時代まで生きた人でもあります。
間違ってることは上司だろうが大臣だろうが「間違ってる!」と堂々と言い、それゆえに海軍大学校時代、「なんだこのクソ役に立たん授業は!」と教師に食いかかって退学にされかけたものの、同じ海軍大学校生徒で仲が良かった高松宮宣仁親王(昭和天皇の弟)が「いや、Oのいう通りやん」と庇って退学を免れたほどの人なんやけど、彼にはある持論があります。それは・・・
「戦争を起こして日本を滅ぼしたんは戦艦大和・武蔵が原因」
というもの。
O大佐によると、

「貧乏人の娘(日本)が、とんでもない高価な晴れ着を二着(大和と武蔵)を持っているようなものだ。それがあるがばっかりに、明日進級できるか否かの瀬戸際の期末試験というのに、着飾って(見せびらかしに)劇を見に行きたくなったりする。試験に落ちるのは当たり前だ。こんな馬鹿馬鹿しいものはない」


ということで、これを大和や武蔵の元搭乗員や遺族の前でも堂々と言うからさあ大変。
内田一臣という、O大佐の後輩で海上自衛隊の海上幕僚長になった人も、「Oさん、あなたという人は・・・(汗)」と開いた口がふさがらなかったといいます。
上の終戦後の話も含めて、O大佐を知る阿川弘之や半藤一利などが、「いかにもOさんらしいエピソード」としてよくネタにしています。

せやけど、この一連の流れを見てみたら、
「俺達は陛下の家来だ」
とか言いながら、結局自分の都合のええ理屈で「陛下の軍隊」を勝手に動かしたり解釈したりして、果ては詔書には絶対服従のはずやのに、己の屁理屈で曲げようとする。結局は「陛下」っちゅー権威を笠に着た狐やん、と思ったりもします。


そして、時系列的には、学校の授業でもやるミズーリ号上での降伏文書調印になるんやけど、これは9月2日のことです。
実は戦争のルールではこれで「はい、戦争終わりました」ということになり、それまではルール上では「戦争は継続」ということになります。
人によってはこの9月2日を「真の終戦記念日」としとるし、国際法じゃこの日が「終戦記念日」でもあります。
実際、アメリカやイギリスなどの連合国はこの日を公式に「戦勝記念日」としとります。


この時系列でもわかるように、
8月15日って「終戦記念日」と銘打ってるけど、世界史的に見たらポツダム宣言受け入れを通達した8月14日、そして降伏文書に調印した9月2日の方がよっぽど重要なわけなんです。
せやけど、日本じゃ8月15日は「戦没者を追悼して平和を祈念する日」として法律でも決まっとります。
日本人的には天皇陛下の玉音放送と「負けた」という現実は、自称負けたことがない日本人にとって、そんだけショッキングな出来事やったってことでしょう。
実際、負けた経験があるドイツなんかはさっさと頭を切り替えて復興に進んでいったんやけど、日本は「負ける」という免疫があらへんために、しばらく「どうしていいかわからなかった」状態やった、ということは当時を知る人が答えとります。

時々、こんなことを耳にします。


「8月15日という、お盆に戦争が終わったのは、戦争で死んだ英霊たちがそう導いたのではないか」



いかにも日本人的な考えやな~と思います。
日本人の思考は感情的に走る傾向があって、それが俳句や武士道などのすぐれた文化を生み出した原動力になっとるんやけど、
反面、事実や数字を並べた論理的な意見を、
「理屈っぽい」
として排除する傾向もあります。
今風に言うたら、「うざい」と表現することもできるでしょう。

太平洋戦争は「空気」が生んだ。
というのは、俺の持論やったりします。
「何でアメリカと戦争なんかしたんやろ?」という、永遠の命題みたいなもんを一言で説明しろと言うんやったら、
俺は「『空気』がそうさせた」と言うことにしとります。
もちろん、「アメリカと戦争?アホなこと言うな」と数字や事実を並べて反対した人も、軍隊の中だけを探してもかなりの数がおりました。
一般教養レベルやと、当時の軍隊はみんなアメリカと戦争したがってたみたいな感じがあるけど、とんでもありません。
日中戦争を泥沼に追い込んで、それが原因で戦後の戦犯裁判で死刑になった武藤章もアメリカとの戦争は断固反対、開戦寸前まで「貴様ら国を滅ぼす気か!」と参謀本部で大げんかしとりました。
せやけど、どれだけ国力比較の数字を並べても、「アメリカ(とイギリス)むかつく」という感情論が支配しとって、それが「空気」になり、なんぼ戦争の愚を説いても「この卑怯者」「空気読め」の一言で封じ込められた、という悲しい歴史があるのよね~。
「『空気』が常に正しいとは限らない」とは、この戦争で得た最大の教訓のはずなんやけど、今でも空気を読みすぎて空気に呑まれる日本人の病癖は変わってへんわけで。
正直、あの戦争で日本国民は何を学んだんでしょうね。

ちょっと話が外れたけど、日本人的には「お盆に降臨した霊的なsomething(何か)」が日本を終戦に導いた、とロマンティックに片付けたいんやけど、
残念ながらそれは終戦への道筋を時系列に並べたら、「そうであって欲しいな」という希望的楽観論にすぎないことがわかります。
それに、歴史はロマンティックの匂いを奏でることはあっても、戦争はそんなにロマンティックなもんやあらへんしね。

まあ、こんなこと書くと「お前は夢がないな~」と言われるんやけど(笑

せやけど、終戦か戦争継続か迷走する「日本丸」を、「戦争しますよ~」と舵を取りつつ、みんなが気づかないまま無事終戦という港に着岸させた鈴木貫太郎の、「日本丸」の舵取りは見事やったと言う他ありません。鈴木貫太郎って写真だけ見たら、なんか人のええやさしそうなお爺ちゃんって感じやけど、あれでも日清・日露戦争の最前線で戦って「鬼の貫太郎」と言われた元連合艦隊司令長官。最後は「日本丸」の司令長官として見事な指揮ぶりを発揮したと言うべきでしょう。「黙殺」発言を除いてはね(笑
他にも、終戦という信念を最後まで貫いて、誰が何と言おうとブレなかった外務大臣の東郷茂徳、副首相格海軍大臣の米内光政、
そして忘れてはあかんのが、表向きは戦争継続を言い続けて迷走させた「悪役」に徹しつつ、裏で陸軍のクーデターという暴発を止めて、最後は自分が全責任とすべての「悪役」を被る形で自決した「陰の終戦派」の陸軍大臣、阿南惟幾という役者が揃いに揃った内閣。
歴史にifは無用やけど、もし鈴木内閣にこの一人でも欠けとったら、たぶん日本って国は今頃なかったんちゃうか?という程の見事ぶりです。
まるで、幕末という時代に、坂本龍馬や高杉晋作、西郷隆盛のような歴史を変えたエネルギーを持つキャストが揃ったかのように。

これは俺も内心は「これは俺らが知らん偉大なsomethingがキャストを揃えた」と思わざるを得ません。



というわけで、俺の誕生日・・・もとい終戦記念日に書いた、教科書じゃ習えへん終戦秘話でした。

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テーマ:雑記
ジャンル:ブログ

コメント

■ Re: タイトルなし

>g-monさん

返事が遅くなってしもてすみませんm(_ _)m
お誕生日、とっくに過ぎてまいました(笑
これで俺も晴れて22歳になりました(エ

で、ローカルな話ですけど、7月の飲み会の後、どこ行っちゃったんですか?
つかぴーさんとあいびすさんで、「ちょっとだけ」心配しとりました(笑

> のぶさんが紹介してくれる方々は大変ユニークで楽しいですが、のぶさんんもなかなかだと思います。

はい、それは自覚しとるんですけど、g-monさんには敵わんなーとつくづく思ってもいまっせ(笑

というわけで、今後ともよろしくお願いします。
また関東に遊びにいきまーす。
2012/08/28 URL BJのぶ #- 

■ 

お誕生日おめでとうございます。

コメント遅れましたが本文を読み終わるまでに数日かかりました。
何時もより頑張ったんでお許しください(汗

のぶさんが紹介してくれる方々は大変ユニークで楽しいですが、のぶさんんもなかなかだと思います。
2012/08/21 URL g-mon #atzm6Dzg [編集] 

■ Re: 干支せ虎

>難波のやっちゃんさん

> 私は“真の終戦記念日”に生まれ来月で67歳になります(汗) 

おお、そうやったんですか!
それじゃ・・・親子くらい年が離れてるってことで(汗)


> “日ソ中立条約”で不可侵の筈のソ連が20年2月の「ヤルタ会談」で、いずれ参戦するとの情報を早くから摑んでいながら握り潰された事まことに残念です。

情報音痴の日本軍でしたけど、小野寺少将の例を見てもわかるように、海外にいる軍人はものすごい情報を集めてますね。中立国はやっぱ活動しやすいんか、スペインにも陸軍軍人を頂点とするスパイ団がおって、アメリカにスペイン人のスパイを多数忍ばせて原爆開発の情報もGETしてたことが、平成になってから明らかになってます。

問題は、これを生かせなかった組織ですね。
こんな組織があって、ソ連参戦や原爆投下の情報まで知ってたことを知られたら自分たちのメンツ丸つぶれ、自分たちに責任が及ぶ、と陸軍参謀たちは自分たちに責任が及ぶ書類を焼き、戦後も徹底的に知らぬ存ぜぬを繰り返して、「なかったこと」にしたかったのが真実なようです。海軍と違って陸軍は徹底的に「証拠隠滅」して、まるで組織全体に緘口令が出たみたいにノーコメントでしたから。
戦争に関しては、「海軍善玉説」「陸軍悪玉説」なるものがありますが、一面は間違いでも(太平洋戦争はある意味海軍が押しましたし)、一面は真実です。海軍は戦後すぐにトップクラスで反省会をして(昭和50年代でも生き残りの軍人が6年かけてやっています)、海軍の恥も作家になった元軍人たちがほとんどさらけ出してますけど、陸軍は隠したままみんなあの世まで持って行ってしまいましたからね。ある意味「臭いものにはフタをしろ」な日本社会の縮図みたいなもんでしょう。

でも、「隠滅」したはずの書類が平成になってどっさり出てきて、また堀栄三氏みたいに内情を知ってた人が暴露したりして、「こんなの知らなかった」歴史が掘り返されていってます。
ソ連参戦の時期はあの瀬島龍三も知ってたみたいで、昭和史の「歴史探偵」の半藤一利が知ってたという証拠をつかんで「生きているうちに絶対に語って下さい」と何度も詰め寄っても結局墓場まで持って行ってしまったようで、半藤さんがえらい悔しがってました。

> 『空気』…今も昔も“戦争をしたい”グループが常にあって醸成し煽ります。

こういう人達は、ホンマに戦争を知らんのでしょうね。
俺はさすがに戦争中の国には行ったことないです。命知らずってよく言われるけどそこまで命知らずやないさかい(笑
でも、内戦を含めた戦争が終わってホヤホヤの国なら、何カ国か行ったことがあります。
そこは、まさに戦後すぐの日本みたいな感じでした。戦争の傷跡が生々しかったですから。どこに埋まってるかわからん地雷にビビりながら道を歩くなんて日本じゃ経験できないですからね。
「世界に戦争をなくす」なんて綺麗事は言わんけど、「戦争したいグループ」は一度戦争終わってホヤホヤの国に行ってみるがよろし、戦争というのを肌で感じることができるさかい、と言いたいですね。
というか、これもブログで書いてみようかしらん。来年の終戦記念日ネタですね(笑
2012/08/20 URL BJのぶ #- 

■ Re: 私も話のエトセトラ

>たかしさん

どうも、ケータイからじゃ長文はあかんのですかね?
スマホやったら問題ないみたいですけど、これでもブログじゃ「短文」なうちなんですけど、困ったもんや(笑

> 中立国の情報の話は知らなんだ。詳しいですね

これは、実は大昔のNHK特集でやってたりして、俺は堀栄三(陸軍じゃ超レアやった情報専門の参謀)の著書で知って、そこをたどって行ったら、小野寺信の奥さんが書いた『バルト海のほとりにて  武官の妻の大東亜戦争』という本にたどり着きました。小野寺信の奥さんは翻訳家としてムーミンを日本に紹介した人としても有名です。ムーミンってフィンランドの妖精ですけど、元はスウェーデン語で書かれたんやということも、副産物で知りました。
ソ連参戦うんぬんもここに全部書いてるんですけど、小野寺少将自らテレビの前で語っている大昔のNHK特集が残ってて、NHKオンデマンドでデジタル保存されとります。
この番組、かなり視聴率が悪かったんか、小野寺氏自身がクローズアップされたのは奥さんの著書からやったというのは皮肉です。

あと、ブログ本文に書き忘れたんですけど、上に書いた堀栄三氏は陸軍の中野にあった秘密情報部隊にもいて、アメリカのB29の通信から、広島と長崎(元は小倉)の原爆投下も察知していました。
もちろん陸軍に情報を送ったけどほとんど無視状態、「何のための情報部隊だ!」とかなりお怒り気味に本に書いてました。
その反省を生かして、戦後は陸上自衛隊に所属して精鋭の情報部隊を自衛隊に作ったそうです。

> そういや玉音放送のNHK技師の方お名前が玉虫さん、
> ネタみたいな話デスね

これは知らんかったですけど、終戦の詔書(玉音放送)の文字数、最後の「御名御璽」 まで含めたらちょうど815文字になるそうです。これもネタみたいな話ですね。
2012/08/20 URL BJのぶ #- 

■ 干支せ虎

 のぶさん 今日は
お誕生日おめでとう(笑)
私は“真の終戦記念日”に生まれ来月で67歳になります(汗) 

<学校では習わない終戦史> 興味深く読ませてもらいました。
“日ソ中立条約”で不可侵の筈のソ連が20年2月の「ヤルタ会談」で、いずれ参戦するとの情報を早くから摑んでいながら握り潰された事まことに残念です。
もう少し早く終戦できていたら、シベリア抑留・北方領土問題・沖縄・満州そして原爆の投下は防げたかも…国内的には大変難しいでしょうが…

『空気』…今も昔も“戦争をしたい”グループが常にあって醸成し煽ります。
これからも偶には難しい話題を平易に語って下さいませ(多謝)
2012/08/18 URL 難波のやっちゃん #x7SNgv4U [編集] 

■ ネタと云えば…

 たかしさん 横から失礼

未亡人製造機「オスプレイ」の事故調査のため米国防総省を訪問したのが『神風英男』防衛政務官…

アメリカも“特攻”かとビビったかも(笑)
2012/08/17 URL 難波のやっちゃん #x7SNgv4U [編集] 

■ 私も話のエトセトラ

また携帯で読んどります。
戦艦武蔵大和のくだりで読めまへん。
うっすら軍の反逆の話は聞いたことがありました。
中立国の情報の話は知らなんだ。詳しいですね

そういや玉音放送のNHK技師の方お名前が玉虫さん、
ネタみたいな話デスね
2012/08/17 URL たかし #- 

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