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消えた遊郭・赤線の跡をゆく 藤沢編

先日、ちょっと野暮用でトキオ・神奈川方面に飛んでたBJのぶです。
久しぶりの関東やったけど、お土産もなしで大阪に帰ってくる・・・わけがないのがわたくしBJのぶ。
スケジュールの合間を縫って回るところをまわってまいりました。

で、ヤボ用会場の交通アクセスを考えて神奈川県の藤沢ってとこに宿を取ったんやけど、

「藤沢に赤線(跡)なんかあったりして♪」

な~んて冗談半分で調べてみました。

そしたら・・・幸か不幸かタイミングよくあったりするんですわな(笑
正直、そんなつもりで藤沢を宿泊先に選んだわけやないんやけど、やっぱし見えない何かの力が働いとったかもしれへん・・・と言うしかあらへん偶然でした。
何せこんな状態やさかい藤沢の遊廓・赤線のことはまったく白紙の状態やったけど、これも何かのご縁やろうと慌ててネットで情報収集して、やりたくない休日の早起きをして(休みの日くらいゆっくり寝させろ)、時間を無理矢理作って探索してまいりました。

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藤沢駅の北口です。
「藤沢新地」と言われた藤沢の遊郭は駅前すぐのとこにあったそうです。
八王子の時もそうやったんやけど、こんな駅前を見ると「こんな都会に遊郭・赤線の跡なんか残ってるんかいな!?」と不安な気分に陥ります。まあ空振り上等、あったらラッキーって気持ちでいくのがいちばん。



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その藤沢駅北口に、「さいか屋」ってデパートがありました。
ほう、「さいか」ねー。
と、頭の中にふと浮かんだのが、「雑賀」
雑賀は「さいか」と読んで、実は今の和歌山市と海南市、及びそのあたりの古い地名やったりします。
そして、戦国時代に詳しい人やったら、「さいか」ときたら連想ゲームのように「雑賀」→「雑賀党」とくるはず。
「雑賀党」とは上にも書いたよーに、和歌山北部を拠点に活動しとった戦国時代の豪族連合みたいな組織で、今の政治組織にたとえたら、アメリカやドイツのような連邦制国家が和歌山にあったよーな感じです。
そのすぐ北には貿易で巨万の富を得て栄えた、「香港か、はたまたシンガポールか」の堺もあったさかい、戦国時代の日本は「連邦国家」に「自由貿易港」、加賀の一向宗のあれを含めたら「共和国」まであったバラエティーあふれる個性の時代とも言えますな。
その雑賀党の「連邦大統領」ことヘッドが鈴木重秀という武将でした。鈴木重秀でピンとこえへんかったら、鈴木孫一って名前やったらピンとくるかもしれません。

その雑賀党が戦国の乱世に突然現れ、その名を知られるようになった理由は、当時最新鋭の武器やった鉄砲でした。
鉄砲が種子島に伝来してうんぬんはもう書くまでもない常識やけど、そこに雑賀の隣にあった根来の僧侶がおったそうな。根来は根来寺というお寺で有名なとこやけど、そこの旅の僧侶が鉄砲という得体が知れない武器を見て興味を持ったようです。
「ちょいとその武器ちょーだいな」とばかりに鉄砲の技術が根来に伝わって、彼らとつながりがあった雑賀党にも早くから伝わったことは歴史の事実、彼らは鉄砲の腕をものにして全国に鉄砲の傭兵として派遣されました。いわば「鉄砲屋」として全国各地の会社ならぬ大名から引く手あまた、今日はAという大名に、明日はAと敵対する大名Bに味方して、ということもあったことでしょう。
雑賀党は、最新兵器やった鉄砲を自在に操る技術者を排出した、日本でもかなり特異な集団やったんです。
いわば、鉄砲をかついで全国の戦場を駆け抜けた「戦闘派遣社員」やったってことです。

「連邦国家」どころか「技術職の人材派遣会社」、または「戦闘タレント事務所」も兼ねとった雑賀党、その真骨頂は織田信長と本願寺が対決した石山本願寺の戦い。
この頃には郎党ごと浄土真宗の信者になっとった雑賀党は本願寺側の要請を受けて石山本願寺に籠城、織田軍をかなり手こずらせることになります。
世界史の籠城基準じゃ「日本史唯一の本格籠城戦」になった「石山合戦」は足掛け4年にのぼったんやけど、当時飛ぶ鳥を落とす勢いやった織田信長がここまで苦労したかという理由は色々あるけど、一つは戦国時代のサイヤ人のような雑賀党が本願寺の味方につき、得意の鉄砲で応酬したこともありました。
信長は羽柴秀吉、明智光秀などの、当時の「信長軍団オールスター」精鋭10万を雑賀党の本拠地に差し向けて攻撃するんやけど、そこでもかなり手こずったようです。
せやけど、こんな時に雑賀党が「織田派」と「本願寺側」に内部分裂してしもたみたいで、ゴレンジャーも5人が力を合わせてはじめて敵と戦える力を持つ、5人かバラバラになったら力も5分の1になるのと同じように、彼らの力は弱まっていきました。

そして、雑賀党にとどめを刺したんは豊臣秀吉。
織田信長の雑賀党退治に同行した秀吉は彼らの怖さを肌で知ったのか、それとも小牧・長久手の戦いで徳川家康に味方して散々手こずらせた恨みか、雑賀党は「雑賀」やった地名も「和歌山」に改められたくらい徹底的に潰され、雑賀党は全国に散らばって歴史の埃の下に埋もれてしもたけど、その活躍は確かに歴史の1ページにはっきりと刻まれとります。
ちなみに、和歌山って和歌浦の山側にあるって意味で「和歌山」ね。
で、6~7年前になるんやけど、仕事で和歌山市に行った時に、市の東の方でマンション建設中に雑賀党の時代の遺跡が出てきて、「見ていいですか?」「いいですよ」と仕事そっちのけで発掘調査を見学したことがあるんやけど、壺に入った銅銭とかがザックザク出てきたらしくて、雑賀党の経済力のすごさを垣間見たようなような気がしました。

司馬遼太郎が雑賀党に興味を持って『尻啖え孫市』っていう小説を書いたことがあるけど、そのきっかけは司馬さんの旧制中学時代に「雑賀」というクラスメートがおったことだそうです。そして彼がインパクト強かったんは、敬語を一切使わんかったということで、そもそも和歌山弁には敬語ってのがほとんどないのが特徴、教師にもタメ口でしゃべっとったんが非常に印象に残ってたそうです。
そして、「雑賀」って苗字は、俺が中学の時にも一人おりました。雑賀党の末裔から知らんけど、才色兼備な女の子やったさかい今頃はとんだおばはん・・・失礼、べっぴんさんになっとるやろなー、とこれを書きながらふと思い出してまいましたわ。

まあそれはさておき、延々と語った雑賀党と「さいか屋」って関係あんの?と思うことでしょう。
ここまでダラダラ遊郭・赤線に関係ないこと書いといて「実は関係ありませんでした、テヘ♪」なんてオチはないやろな?と(笑
「遊郭・赤線跡をゆく」をしばし忘れて手元のスマホをピ・ポ・パとググってみたら、どうも「さいか屋」の創業者は自称雑賀党の末裔らしゅーて、その出自を忘れんよーにしたんか、それともかつては全国にその名を知られた雑賀党のプライドか、屋号を「雑賀」にしたってことですわ。
その雑賀党の名前が関東で生きてる・・・なんか不思議な気分ですわ。

で、話は戻って、
「駅前」とはいうものの、藤沢のどこに赤線があったんかというたら、

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今回は毎度おなじみGoogle mapやなくて、たまたま写した藤沢市の街頭地図を加工してみました。
道筋が昔と変わってへんと仮定したら、おそらくこんな感じやろーと。

こないして調べてると、遊廓・赤線って直感7割含むで道筋を見たらだいたいの規模がわかるよーになるみたいで、藤沢も、地図とにらめっこして想像力を駆使しとったら、なんとなぁ~く「筋」が見えてくるよーな気がします。

遊廓や赤線跡を探すには、まずは「それがどこにあったのか」を特定することが第一歩になります。
そうでもないと、全然関係ないところを「貸座敷指定地」「赤線区域」にしてしまいかねないどころか、そこらへんにある古い和風建築が全部「遊廓の妓楼」、見るからに派手な建物全部が「赤線カフェー建築」になってまうさかい(笑
場所を特定するんは、カビが生えた古い資料や地図を図書館か古本屋でほじくり出してみるんが王道なんやけど、21世紀の文明の利器Google mapを見てると「道」でわかったりすることもあります。

たとえば、

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東京は八王子の田町遊廓跡、


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京都は舞鶴市にあった龍宮遊廓の跡、

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そして、どことは言わんけどある遊廓跡の地図なんやけど、
周りの道筋と比べたら「何かにおうよな?」ってな感じの違和感を感じると思います。
周りの道と比べたら、真ん中だけやけに道がデカい。それも不自然なくらい・・・これは遊廓のメインストリートの跡が道筋として残っとる情況証拠やったりします。

また、今や東京の「ど真ん中」にあった吉原も、

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今の平成の時代のGoogle mapやとこんな感じです。赤で塗った部分が旧遊廓の範囲です。
それを・・・

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江戸時代の後期、安政期の地図と見比べてみたら、吉原って100年以上、いや、ここに吉原ができた300年経っても基本的な道筋は変わってへんことがわかるでしょう。「道」、意外に恐るべしって感じです。
こういう風に、昔の地図と比べることによってわかることもあります。

この「違和感」、つまり第六感もこういう研究には大切、「何じゃこりゃ!?」と調べてみたら実は・・・ちゅーこともあるさかい、あやしいと思ったらまず調べる、これ最強。まあ、「間違えた!ちゃうやん!」ってこともあるんやけどね(笑

遊廓の場合は、元々ぺんぺん草しか生えてへんところを開拓したり整地したりした所が多い上に、「ここが敷地!」って厳格に定められとったからええけど、
戦後の赤線時代になったら雑草の如くニョキニョキそこらへんに生えてきて、昭和20年台後半の東京は「そこら中特飲街だらけ」なくらいになったらしく、「遊廓(=公娼制度)を復活させた方がええんちゃう?」「公娼制廃止は間違いやった」と新聞記者が嘆いとったくらいの無法地帯ぶりになってたそうです。
(※赤線(=特飲街)は、厳密に言うと「私娼を黙認する」ということで、法律的には露骨な売春行為は禁止。赤線は決して戦前の遊廓のような「公娼」やないことに注意)

おまけに、赤線現役時代の警察や労働省の資料を見てみたら、普通の商店街とか住宅地が突然「特飲街」になったこともあったらしゅーて、そのサンプル地図をGETしたんやけど、確かに「普通の店」や「普通の住宅」の間を縫うよーに特殊喫茶こと赤線の店があることがわかります。元遊廓がそのまま赤線になったんやったらさておき、戦後新しく発生した赤線・青線のたぐいは、もう国でもお手上げやったみたいですな。

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これは図書館でGETした、東京の某赤線の昭和30年当時(推定)のマップなんやけど、実際の資料は「東京のどこか」として具体的な場所は秘密としとるものの、道筋と「さりげないヒント」が地図上に書いてたさかい、今の墨田区にあった「鳩の街」で間違いないやろうと思います。
(「鳩の街」については「消えた遊郭・赤線の跡をゆく 鳩の街編」をどうぞ)
「鳩の街」は典型的な「戦後新規発生型特飲街」の一つやけど、有名すぎるくらい有名やさかい発生の経緯が色んな本に書かれとります。
「鳩の街」は東京大空襲で焼けた戦前の私娼窟、「玉の井」の業者の一部が、焼け残った「鳩の街」界わいの住宅を買い取ってそのまま営業を続けた所やけど、
地図を見ると一般の住宅や商店街の中や奥に、ゲリラのように「特殊飲食店」つまりカフェーが点在しとることがわかります。
こんな風に、「戦後発生型赤線」は住宅街や商店街なんかに隠れるように紛れて存在することがあるさかい、我々が赤線跡を探すにしてもかなり特定が難しいことがわかります。何せ「街中全部特飲街」っちゅーイメージがあった「鳩の街」でさえこれやさかい。

藤沢は今でこそサザンオールスターズの歌が似合う湘南最大の都市、そして首都圏への通勤のベッドタウンになっとるけど、その歴史は古く江戸時代初期の慶長6(1601)年に東海道五十三次の「藤沢宿」として開かれたのがはじまりです。
その藤沢宿は、今の小田急藤沢本町駅の東側にあったといい、

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こんな感じやったそうです。

宿場町に女あり。これは日本近世史の鉄板です。
藤沢宿もその例にもれず、江戸時代後期の天保期には50軒の旅籠(ホテル)があり、そこには「飯盛女」という女性がサービスをしてくれる旅籠もありました。
彼女らは街道を行き交う旅人の袖をつかみ、旅籠に引きずり込んでそこに宿泊させた上で、メシや酒のお供をした上でご希望なら「オプションサービス」を行う、って感じです。
その宿泊料金以外の「サービス料」を落とすきっかけを作る飯盛女は、宿場町には欠かせない存在かつ宿場町の一風景で、浮世絵にも数々の飯盛女が描かれとります。
飯盛女は遊廓の花魁、女郎に対して「宿場町の遊女」の代名詞みたいなもんで、文政3年(1820)には藤沢宿の22軒の旅籠に105名の飯盛女がおったという記録があります。
藤沢宿跡にある永勝寺には、誰が建てたのか飯盛女の古いお墓があって、おそらく小松屋という旅籠で働いてた女だと言われとります。

そして明治時代になって、東海道本線が藤沢宿の南を走ることになり、明治20(1887)年に藤沢駅が開業、「江ノ電」でお馴染みの江ノ島電鉄も明治35年(1902)に開業、町の中心は旧東海道から駅周辺に移ります。
藤沢宿の飯盛女は、明治13年(1880)に娼妓として認められて私娼→公娼にバージョンアップしてそのまま旧東海道の宿場に存在しとったんやけど、明治35年(1902)に県令によって、当時は荒地やった藤沢駅北部に「新地」が出来上がり、飯盛女の末裔たちはすべてここに集められます。

藤沢の遊廓がまだ駅北口周辺に集められる前のデータが、国会図書館に残っとりました。
場所は「高座郡藤沢大阪町」となっとります。調べてみたら「大阪町」は今の藤沢市藤沢で、藤沢本町駅の近くだそーです。

◎明治22年
貸座敷数:14軒
娼妓数:65人

◎明治23年
貸座敷数:16軒
娼妓数:63人

◎明治24年
貸座敷数:15軒
娼妓数:59人

◎明治25年
貸座敷数:14軒
娼妓数:63人

◎明治26年
貸座敷数:14軒
娼妓数:52人

(『神奈川県統計書』より)



さて終わり。
・・・と統計書をよく見てみたら、あれ?上の「高座郡藤沢大阪町」の他にもうひとつ、藤沢を見つけました。
このもう一つの「藤沢」、住所は「鎌倉郡藤沢大富町」となっとるんやけど、調べてみたら何のことはない、「大富町」は今の大鋸および西富にあたるみたいで、江戸時代は本陣があった「本家」の他にももう一つの遊廓があった事実がこれで確認できました。

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場所的にはこんな感じかな?

そっちの方の数字はこういう風になっとります。

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そして、売上比較なんかをしてみると、

●明治23年の売上
大阪町:16,358円54銭

大富町:2,877円40銭

●娼妓一人あたりの売上(明治23年)
大阪町:259円65銭

大富町:95円91銭

(『神奈川県統計書』より)



これだけの数字を見ても、元本陣の「大阪町」の方の圧勝やってことがわかりますな。

そして、2ヶ所あった藤沢の遊廓が駅前に統合され「新藤沢遊廓」になる前のデータは以下のとおり。

★鎌倉郡大富町(※藤沢・大富町になっとります)
貸座敷数:6軒
娼妓数:32人
売上:9,093円65銭

★高座郡大阪町
貸座敷数:11軒
娼妓数:27人
売上:17,736円83銭

(『神奈川県統計書』明治34年より)



そして、遊廓が駅前に移った後のいちばん新しいデータによると、

貸座敷数:11軒
娼妓数:66人
遊客数:41,751人

(『神奈川県統計書』明治40年度版)

まあ、ダラダラと数字ばっかし並べていくんも何やさかい、最後に昭和10年代の数字をどうぞ。

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数字だけ見てると藤沢は規模はそんな大きくはない、比較的こじんまりとした小規模遊廓やったって感じみたいでんな。
『全国遊廓案内』にはもちろん藤沢遊廓のことも書いてるんやけど、

筑波に行けば、必ず筑波の遊廓を素見(ひやかし)して来るやうに、江ノ島鎌倉への帰途には必ず藤沢へ寄って、此処の遊廓を素見して行く者が多い。


と書いとる割にゃ、やけに規模が小さいなと思ったりします。ここまで書いてたら「貸座敷40軒、娼妓100人以上」おってもおかしくないさかい。
残念ながら大正時代~昭和一桁のデータがないさかい、ここの規模の変遷が読めんのやけど、あまり規模は変わってへんかったんちゃうかなと思います。
原因は、新地の指定の範囲が狭くてそれ以上増やすことができへんかったんやと推定できます。

昭和の神奈川県統計書には、他の県にはないものがあったりします。
それが「私娼窟」の数字。
残念ながら警察署ごとのデータになっとるさかい、私娼窟があった場所なんかは書いてへんのやけど、それでも統計書に「私娼窟」の文字が出てくること自体けっこう珍しいんとちゃいますかね。私娼窟としては全国レベルの知名度やった玉の井や亀戸でも、警視庁統計書にはまるでなかったかのようにスルーやし。
藤沢には私娼窟はなかったみたいやけど、ついでやさかい副産物として神奈川県の私娼窟をさらしてみましょう。
もちろん警察署ごとやけど、どこにあったかは神奈川県のジモピーならピンとくるかもしれません!?

山手署:23
伊勢佐木署:73
戸部署:21
保土ヶ谷署:12
川崎署:61
横須賀署:133
小田原署:33

(『神奈川県統計書』昭和15年)



この数字、単位が抜けとるさかい、業者の数の「軒」なんか、それとも女の数の「人」なんかが文脈からはわからんのやけど、昭和5年の内務省警保局の全国私娼窟一覧と照らし合わせたらこれは店の数、つまり「軒」ですな。
ここで、ついでやさかい神奈川県にあった私娼窟の一覧表をどさくさに紛れて晒してみましょう。
今の警察庁が調べたデータやさかい信頼性も◎やし、そもそも遊廓やないモグリの私娼窟がどこにあったかなんて今じゃ伝聞でしか聞くことがないさかい、かなり貴重なデータやと思います。
せやけど、何せ地下に潜ってる私娼窟やさかいこれが全部とは限りません。それがまた謎を呼んで、「俺が発掘してやろーやん!待ってろよ!」とテンションが上がってまうところでもあるんですわ(笑

・横浜市中区北方町小港
・同 石川町一丁目
※同 曙町、弥生町三丁目
※横須賀市安浦町三丁目
※三浦郡田浦町皆ヶ作
※小田原町新玉一丁目
※湯河原町字官上

・真鶴町

(内務省警保局内部資料 昭和5年当時)



オレンジに塗って※をつけたんは戦後に赤線になったところで、『赤線跡を歩く1』にも掲載されとるところやけど、赤線になったんもちゃんと戦前は私娼窟やったって伏線があったわけで、特に横須賀の安浦町は数字的には同じ横須賀にあった遊廓をしのぐ店と私娼の数でもあります。
ちなみに、『赤線跡を歩く』じゃ小田原の新玉一丁目は「遊廓」って書いてたけどそれは間違いで、警察データでは「飲食店」を隠れ蓑にした私娼窟なことは確かでやんす。

ネットで藤沢遊郭の情報収集しとると、あるサイトに気になる記事を見つけました。

「江ノ島にも遊郭があった」

そのネット情報によると、江ノ島にある「岩本楼」っちゅー旅館のあたりが遊郭やったってことやけど、そのソース主は図書館で藤沢の遊廓を調べとった時、偶然近くにおった老人から聞いた話ということです。

結論から言うと、「江ノ島に『遊廓』はありませんでした」となります。
なぜならば、公式データには江ノ島に遊廓があったって記述は全く存在せーへんから。
遊廓というもんは、国から許可をもらって警察などの行政ががっちり管理しとるさかい、資料を探すっちゅー面倒を忍べば確固たるデータが存在しとります。警察が国家権力使って調査しとるさかい漏れはまずありえない。あったら知事どころか内務大臣の首が飛ぶ可能性だってあるさかい。
せやけど、「どっかに『隠れ遊廓』があったんちゃうか?」という疑問はあるでしょう。
これも結論から言うと、「隠れ遊廓は遊廓ではない」ということです。
「隠れ遊廓」とは、イコール東京の玉の井みたいな私娼窟か、群馬県や埼玉県、鳥取県などにあった「準遊廓」(公的には私娼窟扱い)、そして不見転(みずてん)芸妓が隠れて身体を売ったり、大阪の今里新地みたいに表は芸者の町-でも実はそれは廃娼を唱える人の目をくらますための方便で、事実上の遊廓でした-ってところであります。
それは見た目や「営業内容」は遊廓と変わらん上に、「売春窟」の代名詞が遊廓というのが世間一般の見方やさかい、もしかして江ノ島あたりにおった芸者がオプションサービスで・・・ってことがあったんかもしれません。
その老人の記憶が正しければ、そういうことやと思います。
こういうのを調べとる人は、「遊郭」「私娼窟」「(芸者の)花街」の線引きはちゃんとせなあきません。さもないと、どこもかも、何もかもが全部遊廓になってまうさかい(笑


さて、今の藤沢新地がどうなっとるんか。
ここからは、ちょっとテストも兼ねて、趣向を変えて文体を変えてみようかと思います。
ここまで大阪弁でガンガンやっとったのにいきなり文章が変わったら、きつねうどんが急にざるそばに変わったみたいな奇妙さがあると思うけど、たまにゃ俺も大阪弁やのーて「まともな文体」で書きたい時もあるさかい、俺のちょっとした気分転換にお付き合い下さいな(笑

ほな、スタート!

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藤沢はあいにくの雨であった。
七月の梅雨がまだ明けない曇り空のなか、私は通勤通学のために駅へ向かう人の流れに逆らいながら藤沢新地の入り口へと吸いこまれていった。

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ここが藤沢の遊廓跡の入り口だという。
その前に古めかしい蔵をもつ質屋が残っている。
質屋は色街と関係がなくはない。むしろ大いに関係があるといっていいだろう。お金がない、またはなかで散在してしまった男たちが、ここで持ち物を金に変えて入り、そして出ていった。遊郭・赤線の建物ではないのだが、これも藤沢の陰の歴史を目撃していた生き証人なのである。

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その玄関には、朽ち果てて壊れかけた木製の門がいまだにその口を開けている。
その奥には、人の気配が全くしない飲み屋の跡が並んでおり、その建物も朝なのにお化けが出てきそうなたたずまいと化している。
この木の門は遊郭の大門のように、
「ここより別世界なり。用なき者は入るべからず」
という目印だったのだろう。
この門は、いわば娑婆と色世界との国境線であった。もちろん、今も昔もこの”国境”を越えるのにパスポートはいらない。必要なのは金と適当な年齢だけである。昔の遊郭にはたいてい存在していたこの”国境”も、残っているところは今や数少なくなった。
木の門をぬける。
川端康成の表現を借りると、国境をぬけるとそこは廃墟だったといってもいい。


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藤沢駅前のあの喧騒とはかけ離れた廃墟の世界、もはやここに人の気配はない。
在りし日のここは、飲んで酔っ払った男たちが女に介抱されながらくだを巻いていたのだろうか。しかしその男も女も今は昔話になってしまったかのようである。

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この飲み屋街は「飲食朋友会」という組織に属していて、藤沢市の組合にも参画していたそうなのだが、今は全店廃業して有名無実の団体になっているという。
しかし、廃墟の奥には1軒、今でも営業してそうな飲み屋が見えた。
今でも営業しているかどうかはわからない。しかし私の聴覚を全開にしてみると、その奥から何やら物音が聞こえるのである。
人がいる!明らかに人が中で何かをしている音である。
まるで無人島で人の生活の跡を発見したロビンソン・クルーソーの気分であったのだが、同時にそれは、人がいないはずの廃屋で人の気配を感じたような怖さでもあった。

廃墟の道をまっすぐに進むと、道は急に広くなる。
そして、道も現代風に舗装され小奇麗になっている。
新地の道はまだ奥へと伸びている。私は少し期待を込めて足早に道の奥へと進んでいった。
私が仕入れた情報によると、その奥には目が覚めるような建物が待っているはずなのである。もし今でも残っていればの話なのだが。


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新地に残る旅館、「仙成旅館」である。
これは赤線時代の生き残りの建物の一つで、今でも旅館として宿泊はできるようであるが、その玄関は固く閉ざされていて、千客万来どころか逆に宿泊客を拒絶しているようでもある。
ちらっと見ただけでは、普通の家のようにも見えるのだが、よく目を凝らしてみると、メイン玄関と思われる横にもう一つ玄関があったり(赤線建築ではよく見かけるものである)、一階部分がショールームのように飛び出ていたり、やはり普通の家ではないのである。
その姿は、少しロボットをも想像できるような、和風をベースに近代的な雰囲気をかもしだしている。

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「仙成旅館」の横へと目を向けた。

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これは・・・。
私は一瞬言葉を失った。
教科書のような、典型的なカフェー建築である。
学校に「遊廓、赤線史」という科目があれば、「これが赤線時代のカフェー建築です」と先生が教科書を開きながら写真を黒板に貼りつけて説明しそうなくらいのものである。
この絵に描いたような戦後赤線式カフェー建築があったということは、ネットの事前情報で知ってはいたのだが、まさか今も残って私が実際に見れるとは思わなかったので、その感激は電気が身体を走るようであった。

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玄関の横の青く塗られた木塀は、木のつるが絡み長年の風雪で少し朽ちてはいるが、それ以外は非常に保存状態が良い。よっぽどしっかりと作られたのであろう。
円柱部分を飾る茶色い豆タイルの保存状態も非常によい。
赤線のカフェー建築は東京でもまだ残ってはいるが、ここまで保存状態が良いのは珍しいだろう。

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戦後に流行ったという、真鍮製の斜めの取っ手がついたドア、それも両開きである。それは挟茶色い豆タイルで装飾された円柱にはさまれている。
ドアの左横のアールデコ調の曲線も戦後の赤線建築であることの証明であり、この建物のおしゃれさに拍車をかけている。もしここが直線であれば、この建物の魅力は半減するはずである。

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その曲線部分の奥を覗いてみると、奥にまたドアがあり、正面と同じく斜めの取っ手がついた、奥にあるにはもったいないようなものである。磨りガラスのドアには「松竹」という文字をわずかに見ることができる。
正面のドアとは違い、奥のドアの取っ手には埃が付着しており取っ手の色は白くなっていた。長年誰の手入れもないことを思わせる。
ドアの奥にはどのような世界が広がっているのか、乏しい想像力を精一杯駆使して想像してみた。

店の前で客引きをしていた、紅いワンピースを着た女に手をひかれるまま、斜めの取っ手がついたドアをくぐった。ドアは音もせず、軽快に開いて音もせず閉じた。
中に入ると、外の茶色とは打って変わった、水色やピンク、淡い緑などの色とりどりのタイルで装飾された玄関と、カフェーにふさわしい広いホールであった。
その姿たるや、まるで暗闇の世界から突然極彩色の極楽の世界に放り込まれたような感じがして、めまいがした。
「外の茶色なんて抹香臭くてイヤだわ」
とは言っていないのだが、そう言わせているような派手な色遣いであった。
ホールには青い花瓶に盛られた造花があり、紅い薔薇が飾られている。ここで働く女たちがせめてもの慰めと自分たちで盛ったものだと、女は後で話してくれた。紅い薔薇の花言葉は、貞節である。娼館に貞節とは皮肉でもあり、また何かの冗談のように感じてしまうが、女たちは己の身体を消費しながらも心までは売らない、身体はけがれても心まではけがれない、その心持ちがこの薔薇に込められているように思えた。ここまで考察できる客がどこまでいるだろうか。
ホールの横には人の手が片腕くらいは入るかどうかの大きさの小窓があり、そこは少し開いておりそこから何か視線を感じた。主人が客である私を見ている。その目は暖かくはない。まるで客を客としてではなく商品として値踏みしているかのような、狡猾な商人の目であった。
「ほらほら、おあがんなさいな」
先にホールにあがっていた女が私を手招きする。しばし忘れていた倫理観が、こんな時に、それもこんな所でよみがえってしまったようで、それが私の邪魔をして躊躇した。女の言われるままにホールから床にあがると、もう引き返すことはできない。
ホールで足を組んで椅子に座っていたお茶挽き女たちが、テーブルに肘をついてタバコをふかしながら、
「この意気地なし」
とあざ笑うかのように私を冷たい目で見つめる。よしここは俺も男だ。ここまで来て帰るわけにはいかない。
と玄関で立ち止まりながら脳の中で戦いをくりひろげていると、
「もう!」
女は怒ったかのような、駄々をこねている子どもに呆れたかのようなため息混じりの声を出しながら、私の肩を両手で握って無理矢理座らせ、靴を脱ぐようにうながした。
ここからは土足厳禁である。
私は観念したかのように倫理観を再び店の外に置き、自然と革靴を脱いで女に導かれるようにホールを過ぎた。



以上、私の勝手なフィクションである。

正面のドアと共に、このドアはもう開くことなく壊される運命にあるのだろうか。
ここはかつては「旅館松竹」という旅館であったのだが、いまは営業はしていない。営業していた時に一度泊まってみたかったものである。むろん、金は惜しまないが泊まることができても惜しむほどの料金ではないだろう。
この「松竹」と「仙成旅館」の間はいまは駐車場になっている。数年前までは「菊水」という赤線時代の生き残りの建物があったそうだが、残念ながら取り壊されてその姿はない。
まだ人が住んでいる気配が濃厚な「仙成旅館」はさておき、「松竹」はいまは主人なき無人の家と化しているので、近いうちになくなってしまうことは確かかもしれない。残念であるがこれも時代の流れであり、常識的には「負の遺産」でもある建物が長く残る運命ではないことは仕方がない。

藤沢新地は、旧遊廓の界隈はアウトロー系の利権がからんで、駅前の一等地にありながら全く開発が行われず、事実上の放置プレイだったそうだが、最近そのほったらかしにも終止符が打たれたようである。

12072409

顔をあげてみると、塔のような高層マンションが立ち並んでいる。
藤沢新地は、開発から取り残されたおかげで今でもその面影をわずかながら残しているのだが、それも終わりが来たことを、そのマンション群が教えてくれる。そもそもこんな一等地どころか特等のような土地なら、利権とやらがなければ木の国境線も、あざやかなカフェーな建物もとうの昔に跡形もなくなっていただろう。
21世紀の波が、ようやく、この地域におとずれた感があった。それはこの地域だけ時間が止まっていたような異空間だからだ。現代的な高層マンションの峡谷に在りし日の色街の跡がある。そのアンバランスさからくる何かの力が、そこの空間を止め、異次元を発生させているようだ。
再開発は大多数の人から見るとありがたいことではあるはずだが、私からみれば残念でしかたない。

藤沢新地はまったく期待していなかったどころか、探索する予定すらなかったのだが、そこにはまだ、色街の残りかすがわずかに残っていたことは予想外だった。それだけに喜びは数倍である。
しかし、それもあと数年の命だろう。
もし数年後にここを訪れても、これらの建物が残っている保証はない。いや、おそらく残ってはいない。
私がこの新地の最期を看取った最後の証人になるかもしれない。それほどにここの再開発は加速して進んでいるように思える。
ますます強くなる雨が、新地の土を濡らしていた。
新地の最後に捧げる天からの女の涙かもしれない。

最後に、少しじゃれ歌でも作ってみた。

藤沢新地の夢のあと
飲み屋を濡らす朝の雨
廃墟の門をくぐったら
そこは色気の残りカス
カフェーの跡も生々し
もうすぐそこは本当の
夢になりそな朝の露

ビルの谷間の異空間
彼女の声は過去のもの
あの娘はどこへいったのか
それを聞くのは野暮ってやつさ
涙なくては語れない
僕とあの娘の夢情事


-完-


下手くそやけど、何かこういうものを作りたくなるような雰囲気が残る藤沢新地の旅でした。
せやけど、普段とちゃう文体で書いてみたら、肩がこってこってしゃーない(笑
やっぱ「慣れへんこと」するとしんどいなーと再確認したBJのぶでした。

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Comment

Re: タイトルなし
>藤沢っ子さん

コメントおおきにですm(_ _)m
そして、うちのブログへようこそ!

地元やから知らんってのは、よくあることですよ~。
俺の育った所も近くどころか、歩いて数分のところに遊廓があったんですけど、ほんの10年前まで知らんかったってくらいでした。やっぱ興味がないと全部スルーするもんです。
それと、遊廓・赤線ってのはいわば「黒歴史」、人によってはアンタッチャブルで「なかったことにして欲しい」歴史でもあります。
俺もこういうのを趣味・・・というか研究題材にして遊廓のことを聞こうとしても、話してくれへん人の方が多いですしね~。「この人(知ってるけど)隠してるな・・・」ってのは、だいたいの空気と、本業(?)が営業職なんで何となくわかりますしね。

藤沢も江戸時代から続く宿場町やさかい、近くの江ノ島も含めて歴史を色々調べてみたら、知らんかったことがザクザク出てくると思います。そこからどんどん深みにハマって行って・・・あとはお察し下さい(笑

またよかったら、くだらんこと書いてるブログですけどまた遊びに来て下さいね♪
  • 2014-03-05│23:09 |
  • BJのぶ URL│
  • [edit]
藤沢生まれの藤沢育ちの者ですが、こんな空間があったなんて!!
商店街の裏手で全く行ったことがなかったです。
すごい感動しました!
  • 2014-02-25│16:34 |
  • 藤沢っ子 URL│
  • [edit]
藤沢の新地周辺には 車が通れない、人がすれ違うのも困難な短い道が沢山あります。
それがなぜなのか昔の新地を知る方に聞いたところ
女郎さんが簡単に逃げれないようになっている為…だそうです。
まだ開発は進んでいませんが、東京オリンピックが開催される頃には
もう見違えてしまう程のエリアになっているかもしれませんね。
寂しいです。
  • 2013-09-19│15:10 |
  • mimi URL│
  • [edit]
Re: 記事の内容を一部転載させて頂きました
>おいどんさん

コメントの返事が遅くなり申し訳ありませんm(_ _)m

うちのブログを見ていただいてありがとうございます。
文章の転載は全然OK牧場やさかい、気になさらずで結構です。無断はちょっと・・・ですが、事後承諾でも全く問題はありません。
またそちらのブログにもおじゃまさせていただきますm(_ _)m
  • 2012-11-09│22:47 |
  • BJのぶ URL│
  • [edit]
記事の内容を一部転載させて頂きました
以前より記事を拝見させていただいておりました 藤沢宿に関する文章記載が非常に秀逸ですね、近所に住んでおります カフェ風旅館が取り壊しになった都合、写真を何点か撮影し記事に致しました こちらの記事内容を随分参照させて頂きました 勝手ながら失礼します 問題ありましたらどうぞお知らせくださいませ 記事を削除致します
  • 2012-10-24│09:02 |
  • おいどん URL
  • [edit]
解体中に絶句!
約1年前からカフェー建築に目覚めた者です。松竹が好きで3カ月に1回位のペースで見にいってました。
この土地はやはり因縁のある土地らしく、地上げの爪跡があったり、耐震偽装マンションがあった所です。マンション群が建つ前は小鳥の街として怪しいスナック群があり、今でもその筋の方がうろついています。
で、つい三日前に訪れたのですが、残念なことに松竹は解体中でした。内部が少しみえましたが、ホール付近はすでに潰され、タイルの円柱が一本見てとれたのと、玄関の屋根のアールが最後の状態でした。
とてもショックで寂しい想いが今だに後を引いていますが、本文中に書かれている通り、負の遺産は静かに消え去るのみなのでしょうね。
  • 2012-10-23│21:52 |
  • BOB CHOW SPL URL│
  • [edit]
管理人のみ閲覧できます
このコメントは管理人のみ閲覧できます
  • 2012-10-05│19:04 |
  • [edit]
Re: タイトルなし
天下茶屋の件じゃこちらもお世話になりましたm(_ _)m
あれからちょくちょく調べてるんですけど、あの「謎の建物X」の正体はわからずじまいです。
天下茶屋に戦前に、かなりマイナーな、おそらく小規模な私娼窟があったことまでは判明したんですけどね。

> これもしばらく前ですが、藤沢あたりは再開発が入って全滅したと聞いていたので、

俺も再開発でうんぬんとネット情報で見てたさかい、期待せんで行ったのが逆に幸いしましたわ。「よくぞ残ってた!」と感激もんでしたし。
せやけど、ホンマ再開発で風前の灯やさかい、見に行くんは今のうちというたとこです。


> 江の島ですが、気になって現地を見に行ったことがあります。遊郭や赤線として公式運営されていた証拠はありませんが、江ノ電沿線なども装飾のきれいな物件が残っていて、ドキドキさせてくれます。

遊廓はなくても赤線(か青線)はあったかもしれませんね!?
江ノ島が戦後どれだけ発展しとったかわからんけど、米軍の進駐地があったりしたらもしかして「基地売春」のあれがあった可能性はあると思います。
うちの母親(一家)は実はアメリカ軍のお情けで大阪某地の米軍キャンプ内で暮らしたことがあるそうですけど、そこの周りにも、赤線でも青線でもない、「基地売春地」という「準赤線(?)」的なとこがあったそうです。
労働省のデータにも、「赤線」「青線」と「基地売春地」がいわゆる3大売春街と明記して、それぞれデータをとってます。
それを見つけたんは、実は江ノ島にあるかながわ女性センター(でしたっけね?w)でした。
せっかくコメントいただいたさかい書いておくと、あそこは戦後の赤線・青線データの宝庫でした。
藤沢に宿をとった理由その2がここの訪問で、1日じゅう資料をあさってたけど、それでも見きれなかったくらいでした。
また見きれなかった資料を見に行くさかい、その時に吉原の鳥居も含めて見に行ってみます。
というか、なんで江ノ島に吉原なんですかね?そこが素朴な疑問です。

  • 2012-08-20│22:53 |
  • BJのぶ URL│
  • [edit]
大分前ですが、天下茶屋のカフェー建築の調査を依頼したものですwお久しぶりです。

藤沢、まだいい物件が残っていたのですね。
これもしばらく前ですが、藤沢あたりは再開発が入って全滅したと聞いていたので、関東に住んでいるのにノーマークでした…お恥ずかしい。

江の島ですが、気になって現地を見に行ったことがあります。遊郭や赤線として公式運営されていた証拠はありませんが、江ノ電沿線なども装飾のきれいな物件が残っていて、ドキドキさせてくれます。
また、見どころといえるかわかりませんが、江の島の入口に古びた鳥居が立っています。
この鳥居、新吉原からの寄贈品らしく、鳥居の裏にはっきりと「新吉原」の名が残っています。

機会があったらぜひ見に行ってみてください。
  • 2012-08-18│22:56 |
  • 名を名乗れアホ URL│
  • [edit]
Re: タイトルなし
>アラレさん

> カフェー建築が現在旅館に転業している例ってありますかね?

うーん、バブル前あたりはけっこうあったらしいですけど、今は・・・思い浮かぶんは橋本にある旅館なんですけど、今は泊まれるかどうかわかりません。
それにそこもカフェー建築なのは中で、外は「少し変わってるよな」程度やったはずですし。

むしろ、けっこうしっかりした造りの元遊廓の妓楼の旅館の方が残ってるかもですね!?
萩の芳和荘なんか「これってホンマに築100年?」ってくらい建物の梁がしっかりしてピカピカでしたし。外観は「大丈夫か?」というくらいボロボロなんですけど(笑
内部は、まるで10年くらい前に改築したかのような感じでした。でも主人いわく「部屋は売防法施行後に少しリフォームしたけど、廊下や木のガードレールなどは(遊廓)当時のまんま」だそうなので。

妓楼は一部屋が3畳くらいなんで、独身寮やアパートの転用にはうってつけやったと思います。
洲崎や岐阜の金津園、舞鶴の龍宮みたいに、軍需工場の独身寮に遊廓ごと徴収された例もあるくらいなんで。
大阪のあいりん地区や東京の山谷の木賃宿(大阪でいう「ドヤ」の)の「3畳部屋」にもけっこう泊まっていますが、3畳って狭そうで意外に広いんですよね~。
大人の男が寝て暮らすにも特に支障なかったりします。
それで思い出したんですけど、あいりん地区に一軒、カフェー建築というか外装が派手で「いかにも」という建物が旅館として残っていましたが、地域の特性上女性は宿泊できないし(あいりん地区も外国人旅行者の溜まり場になっているので女性が泊まれる所もありますが、「ドヤ」系は基本的に女性お断りのとこが多いです)、俺もちょっとそこに泊まるのは勇気が(汗)
ま、今度知らんふりして泊まってみようかな?
  • 2012-08-11│22:36 |
  • BJのぶ URL│
  • [edit]
カフェー建築が現在旅館に転業している例ってありますかね?アパートならよく聞きますけど…。

ちなみに、我等が鍬ヶ崎遊郭の旧更科楼も、在りし日はアパートとして使われていた時期もあったようです。
  • 2012-08-07│15:33 |
  • アラレ URL│
  • [edit]
Re: タイトルなし
>アラレさん

こんにちは。
この建物、保存状態もええさかいきれいなもんなんですけど、周りの再開発でもう寿命は永くないかもしれません。
どうせ壊される運命なら、中をカメラに収めてから壊して欲しいものですね~。
俺も中には入ってみてみたいです。旧遊廓なら何度かありますけど、カフェー建築の中って見たことないんですよね。
  • 2012-08-06│15:59 |
  • BJのぶ URL│
  • [edit]
こんばんは。


最後のカフェー建築すごすぎです!胸がいっぱいになりました(´;ω;`)
この建物の持ち主はいるのでしょうかね…。
この建物に限ったことではないですが、中を見学してみたいものです。
  • 2012-08-04│19:30 |
  • アラレ URL│
  • [edit]
Re: タイトルなし
>いちごさん

> 三枚目の地図、会津若松ですね?

ピンポーン♪よくわかりましたね~。

> 確かに!驚!!道が不自然に広いですね!

探してみたら、こんな露骨なとこは少ないけど、なんとなぁ~く「あれ?」と思うところがあるんですわ。
これは理屈やない直感でしょうね♪

> フィクションが最高でした(^○^)♪♪
> 想像力って大切!

実はちょっと「校正」したんでもう一回見てみて下さい(笑
  • 2012-07-28│20:41 |
  • BJのぶ URL│
  • [edit]
三枚目の地図、会津若松ですね?
確かに!驚!!道が不自然に広いですね!
フィクションが最高でした(^○^)♪♪
想像力って大切!

今回も楽しませて頂きました有り難うございます。
  • 2012-07-25│11:49 |
  • ☆いちご☆ URL│
  • [edit]

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