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BEのぶ

  • Author:BEのぶ
  • 自称「ブログエッセイスト」ことBEのぶです。
    昭和史をライフワークにしていますが、平成ももうすぐ30年経ち、昭和が遠い過去になりつつあります。
    昭和も遺産・遺物を探れば立派な「考古学」となります。題して「昭和考古学」。ジャンルは遊郭・赤線跡から鉄道、そしてすっかり忘れ去られた歴史を掘る「昭和の考古学者」として、昭和の名残りを通して考察する旅を続けています。

    基本は標準語で書きますが、エッセイは大阪弁で書いていきます。

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■■■飛田鯛よし百番 消えた遊郭・赤線の跡をゆく39

今年は何か特別に寒いような気がする。
大阪の寒さが今年は特別堪えるような気がするBJのぶです。
これやったら、マイナス10℃とか20℃のとこに住むことになったらどないなるんやろか!?
これやったら「即死」やな(笑

まあそんな下らん挨拶はさておいて、

永らくの間お待たせしました!?

しばらく飛田遊郭の歴史でジャブをかましとったけど、ついに「本題」の飛田百番編に入ります。
ホンマははよ書こう書こうと思ったんやけど、そう思えば思うほど生来の天邪鬼癖が尾を出してくるんか、それとも単なるズボラなんか、後回しにして数ヶ月、やっと「本丸」に突入でやんす。
* * *
夜の飛田百番の風景

しばらく時間が空いたさかい改めて写真を載せとくと、
これが今日のメインディッシュの『百番』です。
我々は一般的に「百番」って言うけど、正式名称は『鯛よし百番』と言うて、今は一見何の変哲もない料亭・・・でもないか、見るからに「何の変哲もない」とは言われへんわな。


鯛よし百番の古風で年季が入った看板

初めて「百番」を見た人は、建物の外観に圧倒されて見逃すことが多い、入り口に掲げてある看板です。
まずは、この看板が我々を歓迎してくれます。

鯛よし百番

正面入口西側にゃ、何故か豊臣家の家紋の装飾がある門があります。
ここは今は使われてへん「開かずの門」になっとるけど、内部を見たら『百番』1階の大広間につながっとることがわかります。
たぶん、VIPというかお得意様専用の入り口やったんちゃうかな?と思います。


12031002

『百番』の南西角は、これまた何故か洋風になっとります。
洋風なんは別にええんやけど、何でここだけ、それも「角」だけ洋風なん?と疑問に思うんは俺だけでしょうかね?
悪く言うたらやけに中途半端な洋風になっとるのも、何か理由があるんか、それともただの物好きか、それも『百番』に残る謎でもあります。

飛田遊廓御園楼

これは飛田遊郭編その1で紹介した、戦前の飛田遊郭最大級の大妓楼「御園楼」の写真やけど、
ここも写真を見たらわかるよーに、「角だけ洋風」になっとることがわかります。
『百番』と作りがよー似とるよーな気がするさかい、この写真を見て最初は「百番=御園楼説」を考えてみたんやけど、
もちろんこの二つは別物でやんす。
せやけど、この「角だけ洋風」って何やろ?やっぱ謎や。

で、『百番』最大の謎は、

いつ建てられたかわからん

ってこと。
意外や意外、『百番』が西暦何年に建てられた具体的な時期は不明なんです。
『百番』の写真集でもある『飛田百番 遊廓の残照』ちゅー本(以下『飛田百番』)には、「だいたい大正10年~昭和3年の間に建てられた」としとるけど、電話帳に『百番』の名前が出てくるんは昭和16年~17年の電話帳が初出で、それまでは「植松吉太郎」ちゅー個人名で載ってたりします。
これは別に『百番』だけやのーて、俺が持っとる昭和15年~16年の電話帳も個人名で載っとるのが多いです。住所が飛田新地内やさかい妓楼のオーナーってことは明白やけど、「◯☓楼」で載ってる方がむしろ少ない。
そして、『飛田百番』には、大正14年~昭和7年の間、電話帳に後の『百番』と同じ電話番号、住所で『京一楼』ちゅー名前が出てくると書いとります。
もし、『京一楼』がイコール『百番』やったら、ここは大正13~14年の間に建てられたと推定できるけど、あくまで推定に過ぎません。『飛田百番』は『百番』のオーナー全面協力のもとに作られた本らしいさかい、『百番』にも正式にいつ作られたんか書かれとるよーな資料がなかったと思います。あったら「推定」する必要がないさかい。
もちろん、設計者や施工業者も全く資料が残ってへんらしいさかい不明です。
ネットのサイトによっちゃ「宮大工が施工に参画した」とか書いてるのもあるけど、ソース(出典)が書いてへんさかい無条件に鵜呑みにするんは禁物。
2ちゃんねるやないけど、ソースあるならちゃんと出してくれい(笑
まあ、宮大工が参画してもおかしくないし、内装を見ても絵師とかの職人が多数加わったのは容易に推定はできますわ。

『飛田百番』とかの本とかの記述を時系列にまとめたら、

大正10年(1921):
地図に『百番』の場所に建物はなし

大正14年(1925)頃:
『百番』と同じ住所、同じ電話番号で『京一楼』が確認できる(~昭和7年)

昭和3年(1928):
航空写真に『百番』の建物が確認

昭和9年(1934):
『百番』のオーナーと思われる植松吉太郎の個人名が電話帳に出現

昭和16年(1941):
電話帳に『百番』の名前が出現



ちゅー感じになったけど、
さて、偉い学者でも「だいたいこのくらいの時期」しか推定できへん『百番』の建造時期を俺が特定したろやんけ!
遊廊史研究に風穴を開けてやろうやん♪
と意気込んであらゆる資料を調べてみたんやけど・・・やっぱ見つかりそうで見つからん _| ̄|○
でも俺は諦めん、いつか見つけてやる!と気分だけはトロイ遺跡発見者のシュリーマンな俺でした(笑

で、『百番』は戦後になって、


飛田百番の桃山閣


『桃山閣』と名前を変えて存在しとりました。
これは飛田遊郭編その2でも晒した、戦後の電話帳の広告なんやけど、この時は「現役の店」やったんかどうか。
恐らく、店構えと内観がケタ違いやさかい、VIPな人たちが集う、「一見さんと一般民衆お断り」的なブルジョア店やったかもしれませんな。
細かいとこは、もう書くの邪魔くさいさかい、時間と労力の省略っちゅーことで飛田遊郭編その2でもご覧あれ。

そして、

昭和35年1960年西成区地図

これは昭和35年(1960)の西成区住宅地図から引っこ抜いてきた、『百番』周辺の地図やけど、
売防法適用でいったん飛田の赤い灯が消えた後の『百番』は、ご覧の通り『桃山美術館』ちゅー名前になっとって、復活しつつある遊郭とは一線を画しとったような感じがします。
まあ、今でさえ内観はそのまま美術館にしてもええくらいやさかい、当時は遊郭建築を見せ物にして金を取ろうとしとったんですやろな。
また、『百番』こと『桃山美術館』は赤線時代から、オーナーが大富豪かつ美術マニアやったらしく、珍品名品を集めて美術館みたいなもんにしとったらしいです。
『飛田百番』によると昭和38年(1963)の住宅地図で「料亭」としての『百番』が初出現し、昭和44年(1969)に会社社長がそれまでのオーナーの菊地氏より買い取り、昭和54年からの地図からは今の『鯛よし百番』の名前になって現在に至っとります。
まあ、『百番』の歴史をざっと書いたらこんな感じやけど、この建物、まだまだ謎が多い部分があるさかい、ここの歴史を掘るだけでも一つの「遊郭史」が出来上がりそうです。

ちゅーわけで、ここでまとめとばかりに「百番小史」を年表みたいにまとめてみました。

大正14年(1925)頃:
電話帳に後の『百番』と同じ住所、同じ電話番号で『京一楼』の記載あり(~昭和7年)

昭和3年
航空写真に今の『百番』の位置に建物を確認

昭和9年(1934):
『百番』のオーナーと思われる植松吉太郎の個人名が電話帳に出現

昭和16年(1941):
電話帳に『百番』の名前が出現

昭和20年(1945)
飛田新地一帯が空襲の被害を受けるも、『百番』は無事

戦後(時期不明)
建物の入り口・内装などをリフォーム
(※いつ、どの部分を、どのようにリフォームしたのか具体的な情報は不明)

昭和26年(1951)6月9日
菊地三郎氏が大阪土地建物株式会社より『百番』を買い取る

昭和29年(1954)
『桃山閣』という名前の宴会場として営業していたことが、電話帳で確認済み
(※しかし、「現役の店」として営業してたと思われる)

昭和30年(1955)
『全国女性街ガイド』に『桃源荘』という名前で紹介される
(※同じ時期の電話帳には『桃山閣』って名前で広告も出してるさかい、『桃源荘』ってどっから出てきた名前なんかは不明。おそらく作者の間違いか!?)

昭和33年(1958)2月28日
売防法施行前に、飛田を含む大阪市の全赤線廃業

昭和33年(1958)4月1日
売防法施行


昭和35年(1960)
当時の住宅地図に『桃山美術館 菊地』の名前で掲載

昭和44年(1969)
この年からの住宅地図から『料亭百番』の名前が出現

昭和44年(1969)10月18日
木下勝義氏が菊地氏より『百番』の建物を買取る

昭和48年(1973)
住所変更により住所が今の「大阪府大阪市西成区山王3-5-25」となる

昭和54年(1979)
この年より『鯛よし百番』の名前が出現、その前後に名称を変更したと思われる

平成12年(2000)2月15日
『百番』が登録有形文化財(建造物)に指定

※参考文献
『飛田百番 遊郭の残照』
『全国女性街ガイド』
その他、ググって出た情報、雑誌・新聞記事、俺の独自調査など



こないして年表にまとめてみたら、有名な建物の割にゃ空白の部分、つまり「ミッシングリング」が多い。
特に戦前~売防法施行の間の、昭和20年代はほとんど謎のまま。
さて、これを埋めるのは誰だ!?
プロの学者でも特定できへん(らしい)『百番』の建造時期を、確固たる文献で確認できたら特ダネもんでっせ~♪
俺もできるだけ調べてこれを埋めてみようと思います。
『百番』の「ミッシングリング」を埋めるのは俺や(笑



で、話は変わって。
去年の暮れに遊郭・赤線に興味がある変わり者・・・もとい物好き・・・失礼、有志でここ「百番」でオフ会をしたことは、前のブログで書き済みやけど、言いだしっぺ&幹事の俺はとりあえず予約係。
「今回はとりあえず『百番』を経験したらええか~♪」と気楽な気分やったんやけど、「百番」経験者から
「1階の大広間が絶対おすすめです!」
とのアドバイスをもらいました。
1階の部屋は団体客専用な上に、年末の忘年会シーズンやさかい、オフ会に集まった人数は十分「団体客」の要件を満たしとるとは思うものの、「時すでに遅し」か!?と思いつつ店にわがまま言うて大広間使わせてもらえませんか?的なことを言うてみたら・・・
















あっけなくOK

でした。
え~、そんなあっけなくてええのん?
あまりにあっけないさかい、俺はちょいと拍子抜け(笑

ちゅーわけで、


飛田新地の鯛よし百番

1階の大広間を使う人専用の豪華なVIP用(?)入り口を通って、



鯛よし百番の大広間

ここが・・・団体客しか入られへん、幻の・・・ってことはないやろう「大広間」です。
今回、我々一同でこの1階をハイジャックさせていただきました(笑
宴会の準備は万端、

飛田新地の鯛よし百番のお箸

お箸も『百番』


飛田新地の鯛よし百番の料理の数々

料理も準備完了。
あとは食うだけ・・・いや、どこからか「食べ物はどうでもええ」という声が聞こえてきそうで。
このブログ見てくれとるレディースアンドジェントルメンはこれが目当てやないはず、わかってますって(笑




この「大広間」、実は

「紫苑殿」

「鳳凰の間」

「牡丹の間」

の3つに別れとって、3つまとめて

「桃山殿」

と言います。
普段は少人数やと3つの部屋を仕切って使うんやけど、大人数の場合は3つまるごとチャーターってことで、
今回はその「三部屋まるごと貸し切り」の恩恵に預かることが出来ました♪
ここは『百番』でもいちばん大きい部屋やさかい、おそらく大金持ちのブルジョアが遊女たちを相手に金をばらまくが如く遊んだ(これを「大尽(だいじん)遊び」と言います)VIPルームみたいなとこやったと言われとります。

飛田新地の鯛よし百番牡丹の間

部屋にはこんな風に部屋の名前が書かれたプレートがあって、これは「牡丹の間」のプレートです。


飛田新地の鯛よし百番の板戸の女性像

「牡丹の間」の板戸にゃ女性像が描かれとります。
髪型からただの女性やなさそう、たぶん昔の遊女の姿を描いたもんやと思うんやけど、
この板戸は「現役」のせいかちょっと傷みが激しいよーな。少なくても『飛田百番』の写真よりかは確実に傷んどる。

で、ふと天井を見てみたら、


鯛よし百番大広間の天井

天井にもかなり細かい細工を施しとります。
格子状の天井の面一つ一つに違う植物をモチーフにした絵が描かれとります。
俺の写真の撮り方がヘタッピやさかい、ロクな角度になってへんけど・・・_| ̄|○


飛田新地の鯛よし百番

天井の照明もなんかノスタルジックというか大正ロマンというか・・・
と思ったら、これはどうも「当時のもんやない」(『飛田百番』より)らしいですわ。
建築史に詳しい人によると、これは明らかに大正時代から昭和初期に流行ったアールデコ調の照明なんやけど、
「当時のものやない」とは、元々これに似たような照明器具が建築当初はあって、戦争中の資材供出なんかで持ち出され、戦後あたりに復刻させたってことかな!?と勝手に推定しとります。
さすがに建築史は素人レベルの知識やけど、これも勉強し始めたら遊郭の建物がもっとおもろなること間違い無し、ちょいと勉強してみようかな・・・ってもうこれ以上趣味と研究増やしたらパンク。寝る時間がなくなるわ(笑

1階のこれだけでもビックリ仰天の別天地やけど、まだまだ驚くんは早い、『百番』の摩訶不思議ワールドの魅力はこれからです。

飛田新地の鯛よし百番顔見世の間

これは、入り口すぐ横にある「顔見世の間」と言われる舞台です。
江戸時代~明治時代の遊郭は遊女を商品のよーに店の前の格子の前に並べて「陳列」させとって、客は彼女らの顔を見て選んで中に入るっちゅーことは書くまでもないけど、それを「顔見世(顔見せ)」と言うとりました。
これはある意味遊郭の名物というか風物詩やったんやけど、明治後期からの人権意識の高まりと共に批判の矢面に立たされて、大正5(1916)年に内務省のお達しで大阪の貸座敷娼妓取締規則が改正されて顔見世は禁止、「写真見世」っちゅー遊女の写真を並べてそれを客が見て選ぶ、ちゅー方式に変わりました。
飛田遊郭自体その「顔見世禁止令」の後にできたさかい、この「顔見世の間」は形式的に作られただけで実際にここで「顔見世」が行われたかどうかは疑問、たぶん使ってへんかったやろうと思います。
せやけど、福知山編で書いたよーに、福知山の猪崎遊郭は「サービス」とおそらくカフェーなどの同業他社対策で顔見世が行われとったフシがあって、物珍しさからかわざわざ姫路まで車で来たって記録もあるし、
そもそも大正5年の「お達し」は全国一斉に行われたもんでもなく、娼妓取締規則は各道府県によってバラバラ、北海道は大正9年(1920)に顔見世が禁止され、東京や大阪とは4年の開きがあります。
そして、貸座敷娼妓取締規則自体が廃止された今・・・顔見世は飛田で見事に復活を遂げとることは書くまでもないでしょう(笑

飛田新地の鯛よし百番日光の間

『百番』の1階にゃこんなもんもあります。
日光東照宮のミニチュアみたいなこの門、奥には部屋があって「日光の間」と言うそーです。
たぶん、ここは客の待合室とか応接間のよーなもんやったんやろうと思います。

飛田新地の鯛よし百番の天女飛翔図

「日光の間」の奥にゃ、「天女飛翔図」ちゅー金地の上に描かれた絵があります。




そして、1階の極めつけはこれ!

飛田新地の鯛よし百番トイレの入口

さて、What's this??


鯛よし百番の清浄殿

入り口の上には「清浄殿」と書いとるけど、
これは実はトイレやったりします。

中はさぞかしすごいトイレなんやろなーと思って入ってみたら!










ただの普通の水洗トイレでした(笑
こんなん写真に撮るまでもないわい、と無視しそうになったら・・・



鯛よし百番のトイレ

天井見たらこのとおり!一面に牡丹(?)の絵でした。
やっぱタダのトイレやなかった(笑

せっかくやさかい、遊郭のトイレを比べてみませう。

きんせの元金清楼

これは京都島原遊郭跡にある、「泊まれない旅館」こと「きんせ」(元金清楼)という元揚屋のトイレ。
大正ロマンたっぷりのケバいタイル装飾ですわな。

貝塚料亭深川

大阪の貝塚遊郭跡に残る料亭『深川』のトイレ。
赤絨毯がなんともVIPな感じにさせてくれます。


奈良郡山旧川本邸

奈良の大和郡山にあった洞泉寺遊郭の元妓楼、通称「旧川本邸」のトイレ。
ドアの切り抜きが「松竹梅」になっとります。

たかがトイレ、されどトイレ、トイレ観察もいとをかし。

さて、これで終わりと思ったら大間違い!
まだまだ『百番』には無国籍ならぬ無時代遊郭ワールドが続きます。


鯛よし百番の南蛮貿易図

これは有名な「南蛮貿易図」ちゅー絵をマネして描かれたもんで、壁一面に描かれとります。
これだけでもすごいんやけど、『飛田百番』によるとこの絵の前には何か別の絵が描かれとって、俺が撮った画像じゃ確認できへんけど、元絵の線が残ってたりします。
せやけど、いつ、そもそも何で描き換えられたんかは全く不明なんだそーな。


鯛よし百番の桃太郎の絵

2階に上がる階段の横にゃ「桃太郎」の絵が描かれとります。
見事な絵なんやけど、これもだいぶ傷みが激しいですな・・・。


鯛よし百番二階への階段

桃太郎の絵に挟まれながら、2階へ上がります。

飛田新地の鯛よし百番の三条小橋

階段の柱に「三条小橋」の文字があります。
その向かい側は「三条大橋」で、もちろん京都の橋をマネして作られたんやろなと思います。
こういう細かいとこまで凝っとるさかい、ホンマ『百番』は見だしたらキリがない(笑

で、2階にも数人~入れる小部屋があって、各部屋凝った作りになっとるんやけど、詳しいことは・・・

他人使用中&撮った写真がピンボケばっかしm(__)m

ちゅーわけで、いつかまたやるやろう『百番』の第二弾までお預けちゅーわけで( ̄ー ̄)v

最新手ブレ補正機能搭載のはずのマイデジカメでもこんな時に限ってピンボケばっかし。当人よっぽど興奮しとったか、幹事のプレッシャーと気配りでロクに・・・いや、ほとんどメシ食ってへんかったさかい、腹が減って手元が狂ったかと思われ(笑

せやけど、『百番』に行ってみて思ったんは、
そりゃ遊郭建築の結晶のよーな建築を見れただけでもお腹いっぱいなんやけど、

細かいとこで老朽化が確実に進んどるなー

ってことです。


鯛よし百番登録有形文化財のプレート

このプレートのとおり、『百番』は平成12年(2000)2月に登録有形文化財(建造物)の登録を受けとるんやけど、
登録されたからって修理する時に国から補助金が出るというわけやのーて、修繕は原則自己負担だそーです。
せやけど、こんなに贅を尽くした建物に装飾、修繕したら莫大な費用がかかることはまあ間違いなし。
ちゅーか、修復できるよーな職人自体今の日本におるかどうかさえ疑問です。東京藝術大学の古い文化財を修復する部隊(?)はNHKスペシャルとかでたまに出てくるけど、『百番』の修復とかになると動くかどうかは知らん。
せやさかい、『百番』を訪れるみなさんは、もしかしていったん傷んだら二度と修復できへんかもしれへん文化財をいたずらで傷つけたりせんといて欲しいなーと思います。
これは、おそらく日本に残る最後の「遊郭の残照」かもしれへんさかい。
そして、どんどん『百番』にお金を落としてくれたら幸いです。「ええもん見させていただきました」ちゅー寄付金と思ったら、数千円~1万円なんて安いもんやって♪
それくらいの価値はあります。遊郭に興味なくても『百番』の内装を見たらまるで極楽、その極楽への入場料数千円は実際に行ったら安く感じるはずです。
もし遊郭時代の「現役」やったら、数万円はおろか10万円出しても入ることさえ叶わんかったかもしれへん大楼やさかい。

せやけど、ネットを見てみると『百番』が登録有形文化財に登録されたのが「平成11年」って書いとる情報が多いけど、正しくは「平成12年」です。
たぶん、『飛田百番』の年表に平成11年って書かれとるさかい、それをそのまま引用・参照したか、ネットの情報をそのままコピペしたんが伝言ゲームみたいになって「ネット界の定説」になったと思われるけど、
そんなん文化庁のHP見たら4回クリックくらいですぐわかること、ちゃんと調べませうm9( ̄ー ̄)
それか、文化庁が間違ってたりして(笑
まあ、『百番』の第一級参考資料からして間違っとるさかい、こりゃしゃーないか!?

ちなみに、文化庁のHPには『百番』の紹介をこう書いとります。

旧飛田新地の角地に建つ。木造2階建,入母屋造,桟瓦葺で,2階に擬宝珠高欄を巡らし,角を隅切りとして玄関に唐破風を付ける。内部は,日光東照宮陽明門を模すなど各部屋毎に趣向を凝らし,大阪歓楽街の殷賑を色濃く今に伝える。



写真がとにかくピンボケばっかしで使い物にならんかったのが多かったさかい、残念ながらちょっと消化不良的な感じなブログに終わったけど、「遊郭の残照」は確かにここ『百番』に残っとりました。
これは、写真とか何かより実際に見に行ってみるがよろし。
驚愕と感動、そして言葉にするにはあまりにもったいない別世界の遊郭ワールドの結晶があなたを待ち構えとることでしょう。
腹を空かしてもその食欲すら「別腹」でどこかへ飛んで行ってしまうような、筆舌に尽くし難い別天地を体験下さい。
そして最後に・・・文化財は大切に扱いましょう(笑

ちゅーわけで、「第二弾」をまた夢に見つつ、今回の『百番編』は終わります。
せやけど、飛田遊郭と『百番』を書き終えてやっと他の遊郭のことが書けるわい・・・なんか長年の便秘が解消してお通じが良くなった気分のBJのぶでした(笑


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テーマ:消えた遊廓・赤線の跡を訪ねて
ジャンル:ブログ

コメント

■ 一度は

メイン通りで働いています。
ママと一度は百番で食事したいね~って言ってますが、なかなか機会がないです。
百番の料理は美味しかったですか?
参考にします♪♪
2012/11/30 URL れい #- 

■ Re: 感激

>アベチャダさん

はじめまして、コメントおおきにですm(_ _)m

御園楼については、うちのブログの「飛田遊廓編 その1」にも書いとるさかい、ご覧下さい。
http://parupuntenobu.blog17.fc2.com/blog-entry-887.html

ここで御園楼があった場所を戦前の電話帳から特定してますが、『百番』の目の前ですね。
もし阿部定がおった時に『百番』があったとすれば、阿部定は『百番』を見ながら生活しとったってことになりますね。そう思うと、『百番』の建築時期を余計に特定したくなりました。

>三宅裕二が司会をやっていた「驚きももの木20世紀」で阿部定事件を取り上げた際、再現VTRで阿部定が娼妓稼業をやってうるシーンで、太鼓橋?を渡るシーンが出てきましたが、やはり百番でロケをやっていたんですね。

「驚きももの木20世紀」の阿部定は、リアルタイムで見たことがあると、ものすご~~~~~~~く遠い記憶の中にあるんですけど(笑
(俺が高校生くらい?)
橋をわたるシーンはさすがに覚えとらんですわ。
ようつべで映像あらへんかなーと思って探してみても、やっぱしなかったです。
2012/09/03 URL BJのぶ #- 

■ 感激

大阪飛田の御園楼は、かつて阿部定が在籍していた廓です。写真が見られて感激です。彼女も百番の前を通ったりはしていたでしょうね。三宅裕二が司会をやっていた「驚きももの木20世紀」で阿部定事件を取り上げた際、再現VTRで阿部定が娼妓稼業をやってうるシーンで、太鼓橋?を渡るシーンが出てきましたが、やはり百番でロケをやっていたんですね。
2012/09/01 URL アベチャダ #- 

■ Re: アルサロ

>難波のやっちゃんさん

返信が遅れて申し訳ないですm(_ _)m

アルバイト料亭やったら話はわかるけど、「アルサロ」・・・アルバイトサロンですかね?って何しとったんでしょうか(笑
売防法施行2年後やさかい、今よりはおとなしかったとは思うけど、もう「復活」の狼煙があがっとるとこが、この地図を見ておもろいとこかなーと思ったりします。
2012/04/25 URL BJのぶ #- 

■ Re: タイトルなし

>eriさん

返事が大変遅れてしもて申し訳ないですm(_ _)m
いつもブログを読んでもろておおきにです♪
こういうのって、案外(?)女性の方が興味あったりするらしいですよ。
某巨大SNSの遊廓・赤線コミュも、パッと見半分くらいが女性ですし。
「女性史」の一貫で調べてる人もおるけど、男と女で見方が全然違ったりするのもこの分野を調べてておもろいなーと思うことですね。
2012/04/25 URL BJのぶ #- 

■ アルサロ

 懐かしィ(汗)

で 昭和35年の住宅地図…アルサロ、料亭・旅館、アルバイト料亭…売防法施行2年後やから皆んな偽装やろう(笑)

今は堂々と営業、ポリボックス必ずあるなァ(汗)
2012/03/21 URL 難波のやっちゃん #x7SNgv4U [編集] 

■ 

実は密かに過去から読ませて頂いておりました。
生玉→天王寺で育ったのですが、現在は東京におり、離れてから大阪の歴史(特にこういった感じの)に興味が出てきて。。女性なのにおかしいですかね。

いつも物凄い知識量に関心しております。これからも楽しみにしています。
2012/03/16 URL eri #- 

■ Re: はじめまして

>じゅんさん

うちのブログ訪問してくれておおきにです(-人-)

じゅんさんも遊郭・赤線跡に何故か惹かれる「同志」ですね(笑
最近は、一つのブログ書くにも資料を集めんとあかんさかい、なかなかはかどらんけど、
また見に来てあげて下さい。
またよかったらコメントしてくれたら幸いです。ブログで発信しとる人間にとってコメントとか拍手はええモチベーションアップになるさかい。
これからもよろしくお願いしますm(__)m
2012/03/16 URL BJのぶ #qDfdtOiE [編集] 

■ はじめまして

素晴らしいブログですね!
夢中で読ませていただいています
私は吉行淳之介が好きで、遊郭跡など古い町にとても惹かれます
先日は新今宮の安宿に泊まって、久しぶりに飛田、松島新地を廻ってきました
百番にもいつか行ってみたいです
これだけ内容の濃いブログは他にないと思います。これからも宜しくお願い致します
2012/03/13 URL じゅん #dtz8k.Ts [編集] 

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