のぶログ (THE WEBLOG WITH OSAKA DIALECT)

大阪人の、大阪人による、大阪人のため・・・のブログ!?

ブログランキング

ブログランキングに参加しています。 面白い!と思ったらクリックしてあげて下さいm(_ _)m



にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ

にほんブログ村 歴史ブログ 近代化遺産へ

よろしく!








blogram投票ボタン






ブログ内検索

プロフィール

BEのぶ

  • Author:BEのぶ
  • 自称「ブログエッセイスト」ことBEのぶです。
    昭和史をライフワークにしていますが、平成ももうすぐ30年経ち、昭和が遠い過去になりつつあります。
    昭和も遺産・遺物を探れば立派な「考古学」となります。題して「昭和考古学」。ジャンルは遊郭・赤線跡から鉄道、そしてすっかり忘れ去られた歴史を掘る「昭和の考古学者」として、昭和の名残りを通して考察する旅を続けています。

    基本は標準語で書きますが、エッセイは大阪弁で書いていきます。

質問・お問い合わせはこちら

名前:
メール:
件名:
本文:

人気ブログランキング

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

■■■スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

■■■飛田遊郭をゆく後編 消えた遊郭・赤線の跡をゆく37

前のブログ「飛田遊郭編」の続きで、飛田遊廓の「戦後編」行ってみます。

戦後、松島とかと比べて「あんまし焼けへんかった」飛田新地はずっと営業を続けとったみたいで、
松島新地の歴史を遊郭時代から赤線時代まで事務所が書いた、たぶん全国の遊郭・赤線唯一の「公式歴史書」な『松島新地誌』にも、飛田のことが少し書かれとります。
空襲で綺麗サッパリクリーニングされた松島新地は、営業許可はおろか次の営業地も決まらん宙ぶらりん状態で、
決まっても土地詐欺に遭ったり、やっと営業再開と思ったら今度は警察とGHQの一斉ガサ入れ。
涼しい顔して営業しとる飛田を、「何であっちは普通に営業しとるのに、こっちは何でやねん!?」と半分愚痴のよーに書いとります。
せやけど、松島→飛田に移ったある経営者を仲介にして飛田が資金援助して何とか再開できたこともあって、『松島新地誌』には「この恩忘れるべからず」とも書いとります。

戦後は場所も移って規模も縮小してしもた松島新地に対して、飛田はある意味そのまんま残ったさかい、
それは「大阪でいちばん新しい」ニューフェイス遊郭がついに「大阪一」、いやもしかして「日本一」の座に就いた瞬間でもありました。



* * *
昭和31年のデータしかないんやけど、そん時の飛田新地の規模は

業者数:203軒

接客婦数:1350人


松島新地が

業者数:195軒

接客婦数:1020人


やさかい、戦前の日本最大の遊廓やった松島新地を明らかに数字上で抜いとることがわかります。

毎度お馴染み『全国女性街ガイド』にゃ、赤線時代の飛田新地はどない書かれとるか、ちょいと抜粋してみましょう。

大正5年の暮れに(中略)出発した、廓としては若い方だが、
(※「遊廓として指定された」んが大正5年で、オープンは大正7年)
半分焼けなかったので廓情緒豊か。
現在でも旧組合164軒に1560名、新組合23軒に68名。合せて187軒に1628名の大世帯。
九州、四国の出身が圧倒的に多く、代表的な店は桃源荘、日の本、世界など。桃源荘には国宝の鈴が安置されているといった、家つくりは古びたもので、妓はイタリアンカットの若いのが多い。
遊びが350円、泊り1200円が相場だが、ほかに丹前代、風呂代、炭代、扇風機代、おぶ代、なんだかんだと取られるから揚がる前にクギをさすこと。わりに蚊の多い里。
廓周辺は青線の密集地で、廓に入る前に掴まるおそれがあるから、地下鉄の動物園前からハイヤーで70円で廓入りした方が賢明。 (以下略)



この文章は、今となっては非常に重要なキーワードを含んどります。
そのキーワードは「桃源荘」
これって実は今の「百番」やったりするんです。
『全国女性街ガイド』にも「桃源荘」の後に「前の百番」って書いてるさかい間違いないけど、店の名前のトップに載せるくらいやさかい、全国的にも有名やったんかもしれませんな!?
せやけど、「桃源荘」こと「百番」にあったっちゅー「国宝の鈴」ってそんなんあったっけ???
『百番 遊廓の残照』によると「桃山美術館」っちゅー美術館の時代もあって、当時のオーナーの菊池氏とやらは美術品のコレクターでもあったらしいさかい、「鈴」ってもしかしてそのコレクションの一つのことかもしれませんな。

あと、『全国女性街ガイド』に書いてある「日の本」「世界」を昭和35年の地図で調べてみたら、きっちり残っとりました。

赤線時代の飛田の地図

ここに「日の本」「世界」という店があったみたいやけど、他の店の大きさと比べたら、両方とも大門通りという「飛田銀座」に面したかなり大きな店やったことがわかります。
そしておもろいことに、売防法施行後は「日の本」は料亭、「世界」は旅館になっとって、名前の上だけやと転業しとりますな。
残念ながら、今のこの場所には倉庫と駐車場になっとって、Google Earth見ても建物自体は現存しとらんみたいですな。


そして、図書館からあるもんを発掘してきました。
それは・・・ずっとないないと言われてきた戦後ちょっと後の電話帳。
大阪府立図書館じゃなんぼ探してもあらへんかったんやけど、「(大阪)市立図書館だったらあるんじゃないですか?」という府立図書館のマダムのアドバイスのもと、その足で市立図書館に向かって「電話帳ない?」とダメもとで聞いてみました。
最初はパソコンのキーボードはじいて「ありません」と冷たい回答が来たんやけど、
それでも根気強く探してくれたら、やっぱし水深4000mのような書庫の深海の奥底にあったりするもんでした。
ところが、その状態ときたら、コピーも不可なくらいかなり保存状態極めて悪し、というかボロボロズタボロな電話帳。触るどころか、息吹きかけたら破れそうな「取り扱い要注意」ものでした(汗
せやけど、この世の中に残っといてくれただけでもまだマシ、とにかくコピー不可やさかい手書きで根気強くやるか・・・と思ったけど、途中でむしょうに面倒くさくなってきたさかい「写真撮っていいっすか?」とおねだりしたら、あっけなく許可をもらいました。
せやけど、「露骨に写真撮影も何なんで」と関係者以外立ち入り禁止的な裏側まで連れて行かされ、ランチタイムな図書館のおねーさまたちの横で肩身狭い思いしながら全部「デジカメコピー」させていただきました。

俺が見たんは昭和29年(1954)の大阪市の職業別電話帳で、職業別なんは府立図書館で見た戦前のと同じやけど、
昭和29年ときたらある意味赤線の絶頂期、以前見た千葉県の電話帳にゃ「カフェー」のとこに当時の店がズラリと並んどったさかい、「カフェー」の欄に載ってるはず!?
・・・とその前に、同じ「カ行」のとこに

「貸座敷」

の項目が!
あれ?貸座敷って・・・いちおう戦後すぐの公娼廃止の時になくなったはずなんやけど?
間違えて戦前の電話帳持ってきたか?と改めて表紙見てみても、明らかに昭和29年って書いてるし。
いちおう「待合・貸座敷」ってなっとったけど、GHQによる公娼廃止で遊郭が形だけなくなっても「貸座敷」は残ったみたいですな。
で、「カフェー」の欄を見てみたら・・・ほとんど店の名前は載ってません。今の道頓堀あたりの店が何軒だけで、飛田新地の住所にあったんは2軒だけ。
そして「貸座敷」の方を見てみたら・・・あるわあるわ店の大行列(笑
住所を見たら一目瞭然、関東は赤線の店は「カフェー」で登録されてたけど、大阪はどうも変わらず「貸座敷」みたい、
「遊廓死すとも貸座敷は死せず」かいな(笑

戦後の飛田新地の営業スタイルは、貸座敷を「待合」「下宿」として転業させてそこをカフェーにもして兼業ってことにして、
「下宿」から「カフェー」に通うおねーさんたちが「待合」でお客さんと・・・というスタイルになっていくうちに、「下宿」は有名無実の骨抜きにされて事実上戦前と同じ状態になっちゃった、って感じで、電話帳にある「貸座敷」は「待合」として登録されとるんやと思います。
もちろん、今でもカフェー調のモダンっちゅーかケバいっちゅーか、そんな建物が飛田新地の中にも残っとるけど、
店の名前は東京とかみたいに今のキャバクラもどきみたいな名前にはなってなくて、
かと言うて遊郭時代の「◯☓楼」でもなく、ホンマに「待合」みたいな名前になっとります。
と言うても、飛田でも「タイガー」とか「ミス・フタバ」とか「プリンセス」って横文字な名前の「待合」はあることはあるんやけど、
トキオの新吉原などと比べたらその割合がやっぱ低いかなー、というか上の3軒だけやし。
売防法施行時の吉原は、ざっと地図を見てみても、「ドリーム」「ロビン」「モナミ」「ハレム」「カチューシャ」「スカーレット」「イーグル」「ハッピー」「ナイト」「ホワイトリリー」などなど、横文字の名前がけっこう多いんやけどな~。

で、「待合」って何ぞや?と頭抱える人もおると思うけど、これはちょっと解説が必要やさかい説明しよう←ヤッターマン風
「待合」って「待合茶屋」の略で、元々は芸者と客が遊ぶ所でありました。
今の祇園の花街やと、置屋から舞妓や芸妓がお客さんのとこへ行き、お客さんが待ってる所がいわゆる「待合茶屋」、俗に「お茶屋さん」と言います。
せやけど、「待合」は男女の密会、つまりラブホ代わりに使われることも多くなってきて、
大阪じゃ「お茶屋」言うたらラブホとしての「待合」の意味を持つことが多く、「ちゃんとしたお茶屋さん」と区別するために「色茶屋」とも言います。そんな「待合」を「連れ込み宿」って言う人もおります。
今でもそーやけど、交渉成立な男女がラブホで・・・ってことが昔からあったわけで。
もちろん、遊廓以外で売春するんは禁止やさかい、「待合」でやるのもアウトなんやけど、
なんぼ取り締まってもなくならんさかい、警察の方が音を上げてしもて、昭和初期に「待合の中なら黙認じゃ~」ということになってしまいました。
っても、法律で制定させたもんでもない言わば口約束やさかい、それがズルズル引きずって飛田の妓楼がみんな「待合」に変わっても事実上黙認ってことになったんちゃうかな?と想像しとります。

で、とりあえず電話帳をせっせとデジカメで撮り、家に帰ってせっせとエクセルで表にしてまとめてみたら、
数にして132軒の店が登録されとりました。
当時は今みたいに誰でもケータイ持ってて・・・って時代ちゃうさかい、電話持ってるだけでもかなりのステータス、
やっと戦後の混乱が終わって経済的に成長し始めたこの時期でも、電話加入権はなかなかGETできへん状態、
どうしても!って時はヤミ電話を買う時代でした。
当時の飛田新地の店の数が、『全国女性街ガイド』に書いてある187軒やったら、昭和29年当時の飛田新地の電話普及率はアバウトで70.6%ってとこですわ。
昭和30年くらいの東京玉の井赤線の電話普及率が13.2%なんに比べたら、電話普及率7割は数字だけやったらかなり恵まれとる状態と言えるでしょう。

戦前と同じく、所有者の個人名が載ってて店名は載ってへんのもあったけど、そこに非常にレアなもんを見つけてまいました!

そこにあったんは・・・・




桃山閣と赤線時代の百番の広告

赤線の現役時代の「百番」の広告

でした~。
赤線時代は「桃山閣」って名前やったみたいで、上に申し訳程度に「百番」って書かれとることがわかると思います。
せやけど、『百番 飛田遊廓の残照』によるとこん時は宴会場やったらしくて、「貸席」ではあるけど「現役」やなかったみたいですな。というわけで終わり。
・・・いや待てよ、この時期って『全国女性街ガイド』の著者が取材しとった時期と重なるさかい、
(『全国女性街ガイド』は昭和30年発行やさかい)
ここで矛盾が生まれます。ちょいとまとめてみたら、

●全国女性街ガイド
「現役」の店。
名前は「桃源荘」

●『百番 飛田遊廓の残照』
「桃山荘」という名前の宴会場

●昭和29年の電話帳
「桃山荘(百番)」で登記。
「国際観光御殿」というキャッチフレーズ
電話帳の項目は「待合・貸座敷」



ぶっちゃけ、いちばん信用できるんは電話帳なんやけど、これがまた書き方が曖昧でジャッジの材料にならん。
単純に多数決やったら2対1で「桃山閣」の勝ちなんやけど(笑
片や「現役」、片や「宴会場」、真実は常に一つやけど、これじゃ天と地ほどの差があるし。
ホンマやったらただのルポな上に、所々間違いがある『全国女性街ガイド』の方を切り捨てることになるんやけど、
飛田の項は、いやはやなかなか正確な記述やさかい、「間違えとるわい」とむやみに切り捨てるわけにもいかへん。
うーむ、これも「宿題」にしとくか。


で、飛田新地の話とはちょっと離れそうで実は関連がある話なんやけど、
府立図書館で資料探しにいそしんどったら、昭和35年(1960)の西成区の住宅地図が見つかりました。
今もお馴染みの住宅地図って昭和33年から作られ始めたみたいで、昭和33年言うたら・・・遊廓・赤線を調べとる人にとっちゃ「その時歴史が動いた」的な売防法施行の年。
いちばん古い西成区の住宅地図があったら、赤線時代のギリギリの飛田新地の店の分布がわかる!
って意気込んだんやけど、残念ながらいちばん古いんが昭和35年もんでした。
まあないもんはしゃーないさかい、それでも何かわかるかも!?
と思って、山王の青線地区のとこも含めてコピーしてきました。

昭和35年は売防法が施行されて2年後の世界やさかい、いちおう表向きは赤線が廃止になって「クリーン」になっとるはずやけど、
「やっぱし ( ̄ー ̄)」と思わずニヤリとしてまうくらい、新地部分の店は「旅館」「食堂」「料亭」と名乗っておきながら怪しい名前ばかり(笑
昭和29年の電話帳と比べてもまだまだ赤線時代の屋号のままの店もたくさん残っとった上に、
ウワサでしか聞かんかった「アルバイト料亭」の名前も堂々と書かれとって、売防法施行の水はかぶってもまだまだ乾ききってへん時代の住宅地図はかなり貴重でやんす。
で、「どうせヒマやし~」ってノリで、新地内はもちろん、釜ヶ崎地区の旅館・飲食店などを蛍光ペンで色分けしてみたら、ちょっと不思議な「色分け」が出来ました。

南海天王寺支線の地図

今の山王地区の地図に青く塗ったとこに、かつては「南海天王寺支線」っちゅー、天王寺と天下茶屋を結ぶ路線が走っとりました。
平成5年(1993)年に廃止になったさかい、昭和の終わりや平成生まれの人にゃ「こんなとこに電車走っとったん!?」とビックリするかもしれへんけど、昭和の時代にゃこんなとこにローカル線が走ってたんですわ。ちなみに、俺はめちゃはっきり覚えとります、乗るご縁は全然なかったけど。
で、色分けしとったら、おもろいことに天王寺支線を境に、北が旅館、南は「スタンド」や「バー」「サロン」の割合が多くなってることがわかりました。
まるで天王寺支線を基準に「北が旅館街」「南が飲み屋街」ちゅー感じで棲み分けが出来とるような感じで、それが飛田新地の大門に近づくにつれて多くなっとります。
更に飛田新地の大門から紀州街道へ続く道は、「スタンド◯△」という一杯呑み屋みたいなのがかなりの数並んどったこともわかりました。
こない見たら、飛田新地が「旅館」や「スタンド」を数多く従える「特飲街の木星」みたいな感じに見えてきますわな。
木星も最近の研究によると、衛星が60個くらいあるらしいし。


けっこう珍しい(?)飛田新地の赤線時代の写真もついでに採集してきました。

飛田赤線時代の吉田屋

飛田赤線時代の三福

どうも昭和30年くらいの写真らしいけど、写真には
「吉田屋」  「三福」
って屋号が確認できます。
(上の写真は、提灯に「吉田屋」って書いとります)
これを電話帳で確認してみたら、2つともちゃんと存在しとりました。
「吉田屋」の住所は当時の西成区山王4-5で、運のええことに昭和35年の地図にもそのまんまの名前で載ってたさかい、
場所はあっけないくらいに確定してまいましたわ。
「三福」(電話帳の順番からして『さんふく』って読むらしい)の方は、住所が「山王4」しか書いてへんさかい、「4丁目はわかってるっちゅーねん!その番地を知りたいねん!」って60年前の電話帳にツッコミ入れたい気分やけど、
それしか書いてへん上に、昭和35年の住宅地図には「三福」の文字はどこにもないさかい、場所は特定できずでしたわ。
ここまでわかったのに残念無念_| ̄|○
・・・と思ったら、別の資料におもいっきり場所が書いとりました(笑
ちゅーわけで、これも場所GET~。

飛田吉田屋と三福の位置

今のGoogle mapと照らしあわせてみたら、ここに「吉田屋」と「三福」がありました。
Google Earthのストリートビューで建物確認してみたら、残念ながら今は「吉田屋」はマンション、「三福」は新しい民家になっとって当時の建物は現存しとらへんけど、
その副産物で「吉田屋」の隣にあった「大榮」という店の建物は現存しとることが確認できました。あくまでGoogle上だけやけど。
PCのモニター上から見たら、「大榮」の建物は今はタダの民家になっとるみたいで、外観はリフォームはされとるものの、赤線によくあった「一軒の家にドア2つ」なんかの特徴は残ってるみたいですな。
そして、2階部分になんとなぁ~く「店」の特徴を残しとる感じがしますわ。
どうもここはギリギリ写真に撮れる範囲っぽいさかい、今度写真でも撮りに行くか。

そして、前のブログの「あいりん地区探索」でこんな写真を載せたことは記憶にあるでしょうか?

飛田新地大門前1970年代

1970年代後半か1980年代前半やと思う、飛田新地大門前の写真なんやけど、
「三福」はここから見える位置にあって、ロケーション的にゃかなり一等地的なとこにあったみたいですな。
で、今でも残っとる建物を基準にしてみたら、

赤線時代の飛田の三福の位置

だいたいここあたりにあったよーです。
「現役」時代の写真は、どうも戦前で焼け残った遊廓時代の妓楼を使ってるよーな和風の建物やけど、
これをヒントにしても、今はおろかこの写真当時でも「三福」の建物はなかったことがわかりますわな。
昭和35年の住宅地図を見たら「三福」の場所は「昭和銅業」って工場になっとって、どうも売防法施行でさっさとお蔵替えしたか、店を売り払ってしもてその跡に工場が建ったみたいですわ。


売防法施行で飛田の赤線がなくなった時は、

業者数:206軒

接客婦数:1,259人

やったそうやけど(大阪府民政局調べ)、
もちろん業者は料理屋や待合、旅館などに、他の赤線同様転業していきました。
せやけど、今も飛田が「現役」なんでわかるよーに、「武士の商法」的に営業不振が続いてマジメに転業しよーとした人もどんどん元に戻っていき、
まあ現在に至るって感じですわ。

ちゅーわけで、ちょっと消化不良なとこもあるけど、「戦後編」はこれで終了、
お次は、「ついに!」というか「やっとか・・・」というか、百番編です。


~おまけ~


前回も書いたよーに、飛田新地をウロウロしてスキあらば写真でも・・・と思ったんやけど、
いやはや、もう密度が濃すぎて「写真でも撮ろうかな♪」なんて雰囲気やありません、マジで(汗
正直、松島は多少の「スキ」があったんやけど、飛田はホンマにスキがない。

・・・と言いつつ、命がけで(?)写真を何枚か撮ってまいりました。

飛田新地の二階部分に面影が残る建物

まずは、2階部分に面影が残る建物です。

飛田新地の曲線の格子が残る建物

曲線の格子が残っとります。
この技術、簡単なよーで意外に難しいらしいさかい、これもシンプルやけど贅を尽くしとるとも言え無くもない!?

で、「おお!これは・・・」と思わず撮らずにはいられなかった建物がこれ。

真っ赤な飛田新地の建物

お母さん、です、
この赤はまるで・・・

シャア専用遊郭

正面入口の装飾もかなり凝ってるんやけど、とにかくこのが眩しくてたまらん~。
今の風俗街のトレードカラーはピンクやけど、遊郭のトレードカラーはやさかい、遊郭跡の漆喰の壁の赤やったら、

舞鶴朝代遊廓の元妓楼

@舞鶴朝代遊廓

名古屋中村遊廓の元妓楼

@名古屋中村遊廓

福知山猪崎遊廓の元妓楼

@福知山猪崎遊廓

っちゅー風に、少ないながらも残っとるんやけど、
この飛田の赤い彗星・・・ならぬ「シャア専用」はレンガ造りでそのレンガが「赤」なこと。


飛田新地の建物真っ赤

「シャア専用」を違う角度で撮ってみました。
やっぱ赤い・・・これだけが目に飛び込んできますわ。

旧飛田遊廓の建物

超安全圏、つまり「嘆きの壁」の外側から見てみたら、
1F:洋風
2F:和風
と見事に、というより多少強引に和洋折衷になっとることがよ~くわかります。
これは、俺の推定やけど、戦後に1階だけ洋風に改装されたんやないかなーと思います。
実際、写真の奥の所がカフェー風になっとるさかい。
それにしても、窓枠のが非常にアクセントが強い、一度見たら忘れられへんよーな建物ですな。
やっぱ「シャア専用」やわ、どー見ても(笑

え?これで終わりって?
確かにもっと魅力的な建物があったことはあったんやけど、
「”自称”遊郭・赤線跡のインディー・ジョーンズ」でもさすがに命は惜しい、ホンマこれ以上は勘弁して~って感じです(笑


※このブログが参考になったり面白いと思ったら、立ち去る前に
↓の「拍手」を押してくれたら幸いですm(__)m

スポンサーサイト

テーマ:消えた遊廓・赤線の跡を訪ねて
ジャンル:ブログ

コメント

■ Re: 初コメです

>有紗さん

コメントおおきにです♪

> 遊郭って以外と地元とかにもあったりしたんですよね!

遊郭は場所がきっちり確定してるさかい、まずは遊郭があったかなかったか、それと場所を確定させれば簡単に「普通の場所」と区別することができますよ~。
せやけど、戦後の赤線・青線の類は都市部以外は資料が少ないさかい非常に見つけにくいんですわ。
特に戦後自然発生したよーな赤線は。
遊郭は昭和初期に500箇所以上あったさかい、意外な場所にあったりもします。
土地の資料を丹念に探して、一つ一つ潰していく作業が必要やけど、「見えないジクソーパズル」のピースを当てはめていくみたいで非常におもろいです♪
図書館でストレートに「遊郭の資料探してます」って言うんも手の一つですよ。

今はほとんど残っていなかったりするので…こういう、貴重な建物って後世に残したいです!
> 私の地元にも少しあやしげな!?建物があるんです!!とても、古い感じで丸い形の窓、タイル張り…でも、ここらへんに昔遊郭があったって聞いた事はないのですが…きになります
2012/01/29 URL BJのぶ #qDfdtOiE [編集] 

■ 初コメです

今回もすごく読みごたえたっぷりの内容でした!!
遊郭って以外と地元とかにもあったりしたんですよね!今はほとんど残っていなかったりするので…こういう、貴重な建物って後世に残したいです!
私の地元にも少しあやしげな!?建物があるんです!!とても、古い感じで丸い形の窓、タイル張り…でも、ここらへんに昔遊郭があったって聞いた事はないのですが…きになります
2012/01/25 URL 有紗 #vQU5PwVA [編集] 

■ Re: タイトルなし

>掛川のすずもとさん

いつもうちのブログを見てもろておおきにです。
今年もよろしくお願いしますm(__)m

>飛田新地は取り分け知名度も高くてもその場所柄中々その過去の歴史なんか明らかにはなりません

調べとるうちに、俺も飛田にゃけっこうな「秘史」があるんちゃうか?と思いました。
新地組合なんかが資料出してくれたら、もっと完成度が高い「本」が出来るかもしれへんけど、
なかなかそこはハードルが高いかもしれませんな。組合関係者の人がブログ見てくれて、熱意がわかってくれたらええんやけど(笑
せやけど、本にしてもこんなマニアックなの売れんでしょ(笑

>関西にはまだまだ調査されていない新地遊廓跡がたくさんありますが是非とものぶさんにはこれからも赤線跡の調査を続けて欲しいです

冬は原則資料集めにいそしむために「休業」ですけど、暖かくなったら遠征もしたいと思うさかい、またよろしくお願いします。
2012/01/24 URL BJのぶ #qDfdtOiE [編集] 

■ Re: ● してはったみたい ・・・・

>朝汐さん

これまた貴重な資料おおきにですm(__)m
これで「宿題」せんで済みました(笑

具体的な料金書いとること見たら、やっぱ現役の店やったみたいですね、それもブルジョア向けの。
『全国女性街ガイド』にも、百番(桃山閣)、日の本、世界が筆頭に載っとるさかい、
この3つが戦後の飛田新地の「3大店」やったみたいですね!?
2012/01/24 URL BJのぶ #qDfdtOiE [編集] 

■ 

拝啓 のぶさま 本年もよろしくお願いします。旧赤線跡巡り飛田遊廓編 本当にすごいですね そこらにある並みの遊廓や赤線の研究書なんかより断然に具体的でわかりやすいですよ 特に新地のなかでも一際目を引くあの百番についてその過去の経緯なんか本当によくわかりました ありがとうございます。関西の新地の中でも飛田新地は取り分け知名度も高くてもその場所柄中々その過去の歴史なんか明らかにはなりませんそういった事情も含めてのぶさんの'仕事'は画期的だと思います。 もし機会があればそれこそ何冊かの本にしてほしいくらいです。
関西にはまだまだ調査されていない新地遊廓跡がたくさんありますが是非とものぶさんにはこれからも赤線跡の調査を続けて欲しいです。敬具
2012/01/22 URL 掛川のすずもと #- 

■ ● してはったみたい ・・・・

手元にある、昭和30年8月に発行された(自称)大阪の庶民のためのガイドブックでは
以下のように飛田を紹介していました。 (以下は抜粋)

 とにかく戦後の飛田と言えばヒロポンとチンピラがバッコする大阪のゴミ捨て場と言われ、
 真面目なサラリーマンなど素面ではとても・・・・と敬遠するムきもあるが

 大門筋の桃山閣(旧、百番)世界、日の本等の一流になると
 三拍子揃ったサービス振りで「ビタ」にもこんな所があったのかと驚く、

 もちろん値段もショートで2千円、泊りでは10時からでも3千円から6千円と
 その方もまったくの別天地である。

 従って自家用車で乗りつけの重役さん相手で特に桃山閣には映画監督のYを始め
 内外知名の士が多く出入りしていると聞く。

※飛田の相場は、ショート:3百~5百、オールナイト:1千5百~2千円程度とあります。



2012/01/19 URL 朝汐 #IbcxgdZE [編集] 

■ コメントの投稿










トラックバック

≫ http://parupuntenobu.blog17.fc2.com/tb.php/888-170d59a1
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。