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消えた遊郭・赤線の跡をゆく 飛田遊郭編 その1

2012年、あけましておめでとうございます!

去年はホンマ3ヶ月くらいで通り過ぎてしもたくらい、めちゃ早かったよーな気がしたんやけど、
時のあまりの早さに「年」を感じつつあるBJのぶです(ToT)

さて、今年もこの調子で頑張ってブログ更新にいそしむさかい、
本年もよろしくお願いしますm(__)m
そして、出来たらガンガンコメント&拍手を下さい(笑


去年の話になるんやけど、遊廓・赤線を調べとる人にはある意味「聖地」とも言えなくもあらへん、
「飛田百番」でオフ会を開催してきました。

「一番おいしいものは一番後に取っておく」

主義の俺も、ついに「いちばんおいしいもの」にたどり着いたか!?
と感慨深いです(遠い目


11122106

夜の飛田新地。
蛍のように光るネオンに、男が一人、また一人と「楽園」の光の中に吸い寄せられていきます。

その飛田新地の奥に・・・


11122107

目的地の「百番」があります。
ここは正式名称を「鯛よし百番」と言うて、ご存知の通り元は飛田遊郭の中にある妓楼の一つでした。
それが売防法施行の後に料亭に転業したもんなんやけど、
中は戦前の遊廓建築の結晶のよーな豪華絢爛な作りになっとるんは、もう説明不要なくらい有名やったりします。
ここはいちおう「料亭」やさかい、吉野家みたいに「ちょっと腹減ったな~」って一人で気軽に入れる所やありません。
オフ会でも開かんと来れる所やあらへんわな!?
特に、今も昔も飛田新地の中にあって「現役」の店が回りにあるさかい、女性はなかなか「お気軽に」近寄れるとこでもない。
まあ、自称他称含めて相当神経図太いんやったら話しは別かもしれへんけど(笑

肝腎の「百番」の中身はちょっとおいといて、ここで飛田新地の大まかな歴史を。
「大まか」で済むかどうかは・・・たぶんいつものパターンやと済まんやろな(笑

飛田遊郭は、大正7年(1918)の12月に開業した、大阪の数ある遊郭の中ではかなり新しい新参者遊廓で、
江戸時代からの歴史がある新町や堀江、明治時代初期に出来た松島なんかと比べたら、若造どころか青二才遊郭というわけです。

その昔、今の南海なんば駅の北側、マルイがある地域に「難波新地」っちゅー江戸時代から存在する遊廓がありました。
遊郭はたいがい町外れにあって、街の中心部にあったもんは一部を除いて問答無用で郊外に移転させられることが多いんやけど、
実は難波新地も元々は郊外中の郊外、明治時代の繁華街はせいぜい道頓堀あたりまで、というか今の千日前商店街って江戸時代は処刑場で、「三途の川」まで再現した本格的な(?)刑場でした。
今でこそ大阪屈指の繁華街な難波駅周辺やけど、南海鉄道が開通した時はお化けが出そうな郊外やったんは、今の状態を見ても想像もつかへんと思います。

結果的に難波駅が開業したことで難波新地は駅前留学ならぬ「駅前遊郭」になったんやけど、
そこが明治45年(1912)1月16日午前1時頃に、難波新地にあった銭湯から出た火の手が瞬く間に周りを焼き尽くした「南の大火」と呼ばれる大火事で焼けてしまい、火事からの復旧の際新地の「乙部」、遊郭部門が廃止になってまいました。
難波新地は芸妓中心の「甲部」と娼妓中心の「乙部」に分かれとって、今はチンチロリンな舞妓さんや芸妓さんがおる京都の祇園も、昔は「甲部」と「乙部」に分かれとって、「乙部」が売防法で廃止になった後「甲部」だけが残った遊廓の跡やったりします。
ちなみに、「南の大火」の火元は「遊廓の妓楼から出火」ってのが定説になっとって、『飛田百番 遊廓の残照』っていう「百番」の写真集にゃ、「貸座敷の遊楽館」って固有名詞まで出してるけど、昭和8年に書かれた『上方 第廿八号』「飛田遊廓の沿革」にゃ湯屋、つまり「難波新地の溝の側にあった『百草湯』の煙突から発した火の粉」が原因としとります。
それが「二十四間放(ママ)れた『芙蓉楼』の檜肌葺の屋根」に引火、それがたちまち周りの建物に燃え移った、としとります。


で、大阪から遊廓の灯が一つ消えて・・・とそうは問屋が卸さんのが当時の世の常のよーで、
「失業者になった乙部の業者の救済」っちゅーことで、新しい遊廓の建設のウワサが飛び交います。
時は大正時代、「遊廓を廃止せよ!」っちゅー廃娼論がピークに達してた時代でもあり、また遊郭は公的機関お墨付きとは言え遊郭を新規で作るのにはかなりの抵抗がありました。
ウワサの段階とは言え、「新しい遊郭なんて許さん!」っちゅー声が色んな方面からあがるんやけど、
そんな反対運動もどこ吹く風と、家一軒もなかった畑の東成郡天王寺村大字天王寺字北・中・南堺田に新しい遊郭が作られることになりました。

当時のここあたりがいかに「何もなかったか」を示す地図があります。

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これは明治16年(1886)の天王寺・阿倍野・飛田新地周辺の地図なんやけど、
こん時は住宅地どころか、JRも南海も全く走ってへん、ある意味さっぱりした地図やな~って思うでしょう。ちゅーか、天王寺も阿倍野も「村」やったのねん。
とにかく目印らしい目印は、天王寺公園になっとる茶臼山と今も昔も位置が変わらへん、意外に歴史が古い阿倍野墓地だけ。
とにかく目印に乏しいさかい、のちの飛田遊廓の場所を特定するのに苦労したけど、
阿倍野墓地と、今も変わらん新地東側の「嘆きの壁」沿いの道のおかげでここあたりやな、というのはわかりました。
もうご覧の通り、「何もなかった」ことがわかるでしょう。
まあ、そんな明治初期の古すぎな地図出さんと、せめて明治後期か大正時代前期の地図出さんかい!
ってお叱りがくるかもしれへんけど、このわたくち、抜かりなくその時期の地図も調べとりますって~。
何で出典に出さんのかって?それはぶっちゃけ、そん時もこれとあんまし変わらん、少なくても「何もなかった」は同じやったさかい、コピー代と労力の無駄やなと思って敢えてしませんでした(笑


今でこそ飛田って飛田新地も含めた地域のことやけど、当時のここあたりの地名はホンマは「堺田」で、「堺田遊廓」になってもおかしくないどころか、「堺田遊廓」って名乗るべきやったんやけど、
何故か「飛田遊廓」になってしもたわけだそーな。
「飛田遊廓の沿革」

同廓の地は前にも記した通り、天王寺村大字堺田が固有の地名で、
飛田と称へるのは今宮ガードから南の辻の地域だったのだが、
それをどういう訳か、廓の名としたのである。

※「今宮ガード」とは、今のJR新今宮駅の真下あたりのこと。
くどいよーやけど、新今宮駅の開業は昭和39年やさかい、明治~昭和初期にゃ駅は存在しとりません。


出典:『上方』第廿八号 



飛田遊廓が出来てまだそんなに月日が経ってへんのに、飛田が「飛田」と名乗った理由が「それをどういう訳か」、つまり
「ボクわかんない ┐(´ー`)┌ 」
としとるのには妙に興味があったりします。そんなん当事者に聞いたらええのに・・・と思うんやけど、当事者も「わかんない」やったんかもしれませんな!?
そして、「飛田」の地名は元々は「今宮ガードの南の辻」、つまり今のあいりん地区の地名やったことが、ここからわかります。
あいりん地区も元々は「釜ヶ崎」言うたんは前に書いた通りやけど、それも俺とは違う偉い学者さんの研究によると大正時代に定着した地名で、それまでは「飛田(または鳶田)」と言うとったそうです。

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明治41年(1908)測量の地図やけど、赤く塗ったあたりが飛田新地、黄色く塗ったとこは今の新今宮駅です。
赤く◯したとこに「鳶田」って書いてることがわかるでしょう。
元々は、ここあたりが「飛田」やったんです。今の山王1丁目あたりから、新今宮周辺あたりってとこでんな。
この地図を見たら、「鳶田」と「飛田新地」ってそこそこ離れとって、地理的には別物やってこともわかるでしょう。

12012402

ある本に載っとった、今から110年前の、今の新今宮駅あたりの写真やけど、ホンマ「何もなかった」ことがわかるでしょ?


飛田新地は、火事と遊廓乙部の廃止でプータローになってしもた業者の代表の上田忠三郎、中村鼎という両氏が大阪府庁などに「遊郭作って~」ってサロン外交を行なって、場所は淀川北岸、東大阪(東大阪市やなくて、今の今里か布施あたりか?)、大阪港周辺と変わりながら、結局堺田に決まるんやけど、東京にまでお願いに行った所、当時の内務大臣一木喜徳郎、内務省警保局長(今の警察庁長官に相当)の湯浅倉平の許可をもらったそうです。
飛田遊郭の建設にOKを出したとされる一木・湯浅の内務省コンビは、のちに昭和初期に一木は枢密院議長、湯浅は内大臣になって天皇の側で活躍し、陸軍や右翼からは「君側の奸」と暗殺計画の名前の常連になる昭和史のキーパーソンになりました。
昭和史を調べとる人は、「ほう、あの一木に湯浅ね~」とピンと来る二人でもありますわな。
そして国のトップから太鼓判をもらったらもう無敵、大阪府や警察もノーとは言えずそのままトントン拍子に事は進みました。
あと、戦後の大阪府民生局が記した内部資料(ガリ版刷りやさかいおそらくそう)によると、飛田遊廓が「飛田」に選ばれたのは政治家が裏で手を引いてたらしく、後に起こる松島疑獄(詳しくはマイブログの松島遊郭編を読むか、自分でググってね)の伏線にもなったと、ソースは不明ながら断定しとります。
まあ、十分アリエールな話ではありますな。

・・・でも、一難去ってまた一難、遊郭作る許可はもらったのはいいけれど、今度は金がない。
何せずっとプータローやった業者は貯金も底をついてしもて、当時の飛田新地あたりの地主を束ねて「阪南土地会社」という会社を作りました。
詳しい経緯はまた長たらしくなるさかい省略するけど、「遊郭は会社経営にしよう」ということで「一難」は解決しました。

せやけど、次に出てきた難問は人間のエゴ。
さて新遊郭設置が確定になって土地の分配になると、「俺に一等地をよこせ」「いや、俺に」「何でうちが端っこなんだよ」という業者同士のエゴがぶつかりあって一悶着、「ホンマこいつら勝手やな(汗」と思わざるをえない(笑
せやけど、上に書いた「飛田遊廓の生みの親」と「飛田遊廓の沿革」に書かれとる、普通やったら「俺が最優先やんけ!」と言うてもええ上田忠三郎氏が自分の権利を放棄して同業者に分け与え、自分は「阪南土地会社」の経営に専念するとして解決しました。
で、色々すったもんだがあった挙句、松島遊廓からの合流組も含めて大正7年の飛田新地開業になったわけです。

昭和初期に飛田新地の住所は、当時は西成区やなくて住吉区旭町4丁目やったんやけど、通称として、

廓内を東西に通じて五カ所に区分し、大門通と中央に南は弥生町・若菜町、北を山吹町・桜木町と称へ

『上方』第廿八号 「飛田遊廓の沿革」より



という、公的やない「俗地名」があったそうですわ。

12010201

この記述と道につけられた名前と当時の地図から見た、「俗地名」の推定区分なんやけど、
色分けしてみたら何ともカラフルになりました。何か虹みたいになってしもたな(笑
新地の中はあんまし道筋が変わってへんさかい、だいたいは推理できたりします。

飛田遊廓は、大阪はおろか全国から見ても経営面でちょっと変わった遊廓でもありました。
それは、上にも書いたよーに不動産会社が管理会社として経営して、妓楼は言わば賃貸やったってことです。
大阪の他の遊廓は業者が個人経営しとって言わば一人一人が「自営業」、その自営業の集まりが組合なのに対して、
飛田は業者に金がなかったさかい、「不動産会社が家主に金の代わりに妓楼を貸す」形態にしとります。
これは全国の遊廓の中でもちょいと変わった、そして実験的な遊廓でもありました。
そして、元々飛田遊廓を経営しとった「阪南土地会社」は大正15年(1926)に「大阪土地建物会社」に吸収されて、以後飛田の経営はこの会社に引き継がれます。
この会社は通天閣などの新世界の「ルナパーク」を経営しとった会社でもあったんやけど、飛田新地の経営は大黒字やったみたいで、「ルナパーク」はかなり赤字やったみたいやけど、それを飛田新地が完全に帳消しする形やったそうです。
まるで他路線やバスの真っ赤っ赤を大黒字の御堂筋線が全部相殺して、見た目は儲かってる大阪市交通局の経営みたいやな、と思ったのは俺だけでしょうか!?

飛田遊廓の変遷を数字で追ってみたら、



●大正7年(1918) -オープンの年-
貸座敷数:58軒
娼妓数:92名


※この年の出来事:
・松下電気器具製作所(今のパナソニック)設立
・第一次世界大戦終結


●大正11年(1922)
貸座敷数:132軒
娼妓数:1512名

●大正13年(1924)
貸座敷数:166軒
娼妓数:1923名

●昭和4年(1931)
貸座敷数:215軒
娼妓数:2646名

※この年の出来事
・羽田空港が開港
・満州事変勃発


●昭和10年(1935)
貸座敷数:234軒
娼妓数:2995名

※この年の出来事
・大阪に地下鉄開通
・永田鉄山暗殺(相沢事件)


●昭和12年(1937)
貸座敷数:234軒
娼妓数:3115名

※この年の出来事
・廬溝橋事件→日中戦争へ


出典:『大阪府統計書』



と、開業から数字がグイグイうなぎ上ぼりなことがわかります。
昭和に入っても衰えは知ることはなかったみたいで、あの日本一の「スーパー遊廓」の松島の尻尾をつかみそうな所まで追いつきます。
統計書の数字を丹念に追っていったら、昭和12年が絶頂期みたいで、同じ時期の統計書の

「日本の遊廓ビッグ3」

こと松島・吉原・洲崎と比較したら、

●飛田
貸座敷数:234軒 (4位)
娼妓数:3,115名 (2位)
遊客数:2,826,218人 (2位)
消費金額:6,164,024円
 

●松島
貸座敷数:254軒 (3位)
娼妓数:3,549名 (1位)
遊客数:3,038,247人 (1位)
消費金額:6,630,619円

以上、『大阪府統計書 昭和12年』

●吉原(東京)
貸座敷数:310軒 (2位)
娼妓数:2982人 (3位)
遊客数:2,787,043人 (3位)

●洲崎(東京)
貸座敷数:319軒 (1位)
娼妓数:2606人 (4位)
遊客数:1,948,527人 (4位)

以上、『警視庁統計書 昭和12年』



という風に、たった19年で日本の遊廓のナンバー2にまでのし上がっとることがわかります。
こりゃもう、たまげたと言うしか言葉があらへん(笑

それにしても、飛田がたった20年弱でこんなに急成長してん?
という疑問が浮かびます。
ここで、飛田の新参者としての営業戦術が垣間見えたりします。

大阪市内には、遊女数・売上・客数ダントツ日本一の三冠王、THE SUPER遊里松島や、歴史と格式なら異論を挟む余地がない西の横綱、創立数百年の超老舗遊廓新町が色街の玉座に君臨しとりました。新規参入ものがかれらと同じことをしてもまったく太刀打ちできへんのは、遊廓というものを一つのビジネスとして考えたら火をみるより明らかです。
そこで考えた一つのアイデアは、「遊廓を一つの企業体にしよう」ということ。既存の遊廓は一つにみえて実は自営業的な個人営業者の集合体、遊廓事務所というても自営業の寄り合いみたいな形に対して、飛田は不動産会社が管理して妓楼も賃貸、いわば廓全体が「株式会社飛田遊廓」というわけなんです。
身近なもんに例えたら、新吉原や松島などが「商店街」なら飛田はイオンやイトーヨーカドーみたいな巨大ショッピングモールみたいなもんって感じですやろな。
この遊廓を一つの「企業体」にまとめること自体斬新なアイデアで、資本をトップダウンで集中投下できるメリットがあります。
この「飛田方式」はその後の色街経営の手本のようなひな形になり、のちに出来る今里新地や港新地などの新地の経営も飛田と同じ方式を取っています。

そしてかれらが取ったもう一つの武器は、当時としてはハイカラ・・・って死語やけど、かなり斬新な建物やサービスで人の目と足を向けさせる戦術を取りました。
和風な構えの、遊郭ならどこにでもある店構えだけやなくて、和洋折衷や洋風、カフェー風の建物も数多く立ち並ぶ、目の保養にもなりそうな建物を並べて、中身もダブルベッド装備や洋風の風呂を備えたり、他の遊廓とはちょっと違った、当時としてはちょっと斜め上の風格を備えた所やったそうです。
今風に言うたら、ちょっとしたレジャーランド的な雰囲気を持った遊廓やったってことやろーと思います。
それが当たったのか、松島も昭和に入ってモダンな設備に改良した妓楼が現れた、と『松島新地誌』に書いてたさかい、周りの色街に与えた影響はかなり大きかったものと思われます。

「飛田遊廓の沿革」には、「廓内におけるモダンな設備を整へた妓楼」のリストが書かれとります。
適当に羅列しとくと、

大喜楼、梅ヶ枝楼、君が代楼、港楼、福愛楼、河萬楼、マツタニ楼、キング、大和、新大和、角タツタ、第二梅ヶ枝楼、第三梅ヶ枝楼、本家大一楼、東大一楼、三州楼、冨貴楼、巴里

「その他にも色々あるが、以上は主なものを擧げたに過ぎぬ」



とあるんやけど、どこがどのように「モダン」なんか、肝腎なことは書いてへんものの、
要するに「大阪の他の遊廓とはちょっと違う」って感じな雰囲気やったと思われ。
その片鱗がうかがえる文献があります。
『日本歓楽郷案内』って本を国会図書館の書物の山から見つけたんやけど、これは作者が先年に『巴里上海歓楽郷案内』って本を発行した第二弾として日本の都市の歓楽街を歩いたルポみたいやけど、
どうも内容の一部がお上のお怒りに触れたんか、発禁処分を食らっとります(笑
同じ国会図書館にゃ「改訂版」があるさかい、すぐ内容を変えて再発行されたみたいやけど、どこがどう変わっとるんか、そこまでチェックしとりません。
そのどっちにも飛田新地のことがチョロっと書かれとります。

松島よりデカタニック(※1)な気分が濃厚なのは飛田の遊廓である。
色彩も近代的である。玉突場(※2)や、立派な風呂や、ダブルベッドや、支那式の寝台をつけた店もある。洋装した遊女もいる。
(中略)遊女だって二千人はいる。花代だって一本十五銭で一時間十本だから、仕切をかけ合って遊ばなくても高が知れている。
新興地帯として長足の進歩めざましいものがあるから、更に更に発展することであろう。機転を利かした連中は、早くもこの付近に怪しい構えの家を建て始めた。その抜目なさには只驚くの外はない。

※1:退廃的ちゅー意味
※2:ビリヤード場ってこと



まあ、記述としてはこんなもんなんやけど、なかなか「モダン」やったってことがなんとな~くわかります。
作者は東京の人間やけど、「玉突場」「ダブルベッド」「支那式の寝台」って東京の遊廓にはない斬新なもんやったと思われます。でないとわざわざ書かんと思うし。
まあ、遊郭自体が「玉突場」とも言えんこともあらへんけど(笑

12010505

『日本歓楽郷案内』に載ってた、飛田遊廓の妓楼の「モダンな設備」の一部です。
今じゃ当たり前やん!ってなもんも、当時じゃごっつい「モダーン」やったんでしょうな~。
見た感じじゃソープランドみたいやけど(笑

で、この『日本歓楽郷案内』には、別項で興味深い記述があります。
作者は円タクの運ちゃん(=ポン引き)に促されて大阪の私娼窟の突撃も実行しとるんやけど、
その地名が「萩之茶屋」「天下茶屋」「岸里近辺」になっとります。
それ以上の細かい地名は書いてへんのやけど、この本の作者は「前記の三カ所(※萩之茶屋、天下茶屋、岸里)では私娼の数約200人、秘密の家が約30軒位のものだろう」としとって、これがホンマやったら当時の大阪市南端に私娼窟が存在しとったことになります。
ちなみに、この数字は「改訂版」では見事に削除されとって、ははん、検閲で引っかかったな~(笑) ちゅーのがわかります。
また、「釜ヶ崎」の住吉街道沿い、「今宮の貧民街」には、「とても歓楽郷とは言へない」ような「貧民街の私娼」がいたことも記述しとります。その記述たるやすさまじいったらありゃしない。作者が「人間の無恥もここまで達すれば、既に動物と大差ない」って書いてるくらいで、どうやら釜ヶ崎は飛田新地以上の「魔窟」やったよーです(汗
あと、大阪の私娼窟としては「北区天神筋六丁目の市電停留所付近」「東関屋町の南側一帯」も有名やったみたいで、
前者は戦後に青線として警察や大阪府の資料にも名前が出てくる「天六」、後者はどうも今の日本橋5丁目の南部みたいですわ。
ここらも私娼窟のランクとしては低い方らしくて、「☓圓以下の金銭で腐肉を提供している」と書かれとります。ちなみに「☓」は本でもホンマにこう書かれとったりするんですわ。これを「伏字」と言います。
せやけど、ホンマに気になるんは、これが書かれた後の文章やったりします。

「これらの私娼と、玉造などの私娼と比較すれば」

玉造って・・・あの玉造?って思ったりするんやけど、具体的な記述がないさかいこれだけじゃ何とも言えん。
これも「宿題」にしとくか・・・。

ちょっと話が変わって、ここに飛田の遊廓時代の写真があります。

12011601

時期は不明ながら大正時代後期のものやと思うんやけど、たぶんどっかで見たことがあるくらい有名な写真でもあります。
たぶん写真の大通りは大門通りで、子供が遊んどる姿が見えるさかい昼間の風景やろなーと思います。
2階建ての建物がズラリと整然と並んどることがよーわかるけど、
こう、なんちゅーか、我々が遊廓と想像したら思いつくよーな、奇をてらったよーな「大廈高楼」がないことがわかります。
良く言うたらシンプルかつ整然、悪く言うたら妙に味気がない、
これが大門通りやとすると、もっと豪華絢爛な建物作ったらええのに、と不思議に思ったりするんやけど、
これにゃあるルールが存在しとったりします。

遊廓の管理や敷地の拡張なんかは、タテマエは内務省ながら実質は内務省の出向機関やった各道府県の判断に任されとったんやけど、
内務省のデータにも、「貸座敷営業に関しては庁府県令(※「庁」って北海道のこと)たる貸座敷取締に関する規則に依って取締を行なって居る」と書かれとるとおり、地方によって独自のルール、今風に言うたら条例があって、それが地方によって緩かったり厳しかったりと、温度差が多少あったそうです。
大阪の貸座敷取締規則(大正15年改正)にゃ、

第四条
貸座敷用の建物の構造設備は市街地建築物法令及大阪府令建築取締規則に依るの他左の制限に従うべし。

一 建築は二階以下又は建築面積百六十平方メートル以下とすること

ニ 屋上には工作物(中略)を設置せざること

(三、四、五、六は省略)

七 異様と認むべきもの又は目立つべき看板、標灯、装飾などの設備を為さざること

八 (書くの面倒くさいさかい省略)



とあります。
飛田遊郭が作られたんは大正7年、この規則が改正されたんは15年やけど、
改正前の貸座敷取締規則(俺が見たんは大正12年のもの)やと、第一項の「2階建て以下」の規定は見つからへんかったさかい、この写真は大正時代のやのーて昭和以降か、「2階建て以下」の規定が不文律として存在しとったんかのどっちかと想像できます。
吉原や他地方のような木造3階建て以上の「木の摩天楼」は規則上作られへんかった分、内装に凝ることにした事情があったんかもしれまへんな。

また、飛田遊廓のもう一つの特徴は「周囲を壁で覆った」ということ。
これは前のブログ「「壁」を追って ~消えた遊郭・赤線跡を訪ねて特別編~」で詳しく書いとるけど、遊廓の周辺を壁や堀で囲んで娑婆から隔離しとったっちゅーのは、特に珍しいことでもありません。
その中でも飛田が変わってたんは、それが鉄筋コンクリート製の強固なもんやったってことで、戦後の大阪府民生局の資料にも「まるで刑務所と見誤るかのようなコンクリートの高塀」と表現しとるくらいの、ある意味「斬新」な壁やったようですわ。
俺もリアルで見た時は予想以上にガッシリした作りやさかい「こりゃベルリンの壁か刑務所の壁やな・・・」と思ったもんやけど、大阪府のお役人様も同じことを思ったみたいですな。
この壁は今でも一部が残っとるんは知っとる人は知っとるけど、いつ、誰が呼んだか「嘆きの壁」と呼ばれとってある意味貴重な遊廓の遺構でもあります。

ちょっと話が外れたけど、
昭和2年頃、その飛田遊廓に一人の女が東京から流れてきます。
彼女は「飛田遊廓の沿革」にも「一流妓楼である特大店」の筆頭に書いとる「御園楼」で「園丸」ちゅー源氏名で働くことになるんやけど、その名は阿部定
彼女の前借金は当時の2800円って文献に残っとるけど、「飛田遊廓の沿革」によると阿部定とほぼ同時期の飛田遊廓の遊女の平均前借金は1500円くらいだそーで、最高は「巴里」におったという「巴弥」っちゅー女の4800円。
これは「例外」みたいやけど、阿部定の前借金は平均の倍近くやさかい、遊女としては「上玉」やったことが伺えます。
ここじゃ売れっ子になって身請け話も出たそーやけど、ここまでがある意味阿部定の人生のピーク時で、逃走などのトラブルを繰り返した挙句、1年後に飛田から失踪、そこから彼女の転落人生に加速度がつくことになり、篠山の遊廓に転がり込んでたこともあったのは、「消えた遊郭・赤線跡を訪ねて 丹波篠山編」にも書いた通りですわ。

阿部定は飛田時代のことをこう書いとります。

「御園楼」は、当時大阪で一流でした。私も売れて※三枚と下りませんでした
その頃から、私は客を相手にするのが厭でありませんでしたから、抱主からも可愛がられて御園楼では面白く働きました。

一年位経った頃、ある会社員の客が私を落籍してくれることになりましたところ、その人の部下も私の客であることが判ってその話は駄目になり、客から勘忍してくれと言われ金を貰った事がありました。
それで、少し腐っているところへ紹介屋から話があって、翌年早々23歳の時、名古屋市西区羽衣町の「徳栄楼」に借金2600円で住み替えました。

ここに移る時は、その抱主は丸ぽちゃの可愛らしい女を希望していたそうです。
私は面長でどちらかと言えば伝法肌の女であり、紹介屋から是非抱えて呉れと頼まれて抱えることになったらしいのです。
当時、その事情を知らない私は抱主が内儀さんに仕方なく抱えたんだ、名前などは何でもいいと話しているのを耳にし、私を抱主が気に入らぬのなら気に入らせて見せるという気になり、貞子という源氏名で一生懸命働きました。
それから売っ子になり可愛がられるようになりました。

※売れっ子ナンバースリーから下がったことがない、という意味

(阿部定の尋問調書より。原文はカタカナ混じ)



阿部定って阿部定事件のイメージしかないけど、手記を見たらけっこう頑張り屋さんなんやな、ということがひしひしと伝わってきます。男ってこういう女を応援したくなるんですわ(笑


昭和16年の大阪市内の電話帳のコピーが手元にあったりするんやけど、そこの「貸座敷」の欄に「御園楼」って名前があって、当時の住所で住吉区山王4-23の位置にあったそうです。
その電話帳には個人名から妓楼の名前まで住所と電話番号付き(電話帳やからそりゃそうやけど)で載ってるんやけど、
今の「百番」も植松吉太郎って個人名で載ってたりします。
その住所は「山王4-25」やさかい、飛田一の「第一流妓楼」の御園楼の近くにあったみたいですな。
逆に言うたら、今は亡き御園楼は「百番」の近くにあったってことやけど、阿部定も「百番」の前身の妓楼を目の当たりにしとったんかもしれませんな。

それにしても、御園楼がどこにあったんか、やたら気になる俺。
こーゆー時は、ドラえもん~♪・・・やなくて大阪府立図書館。
ここあたりは昭和30年代か40年代前半あたりに住所変更があったさかい、今の番地は全く参考になりません。
せやさかい、昔の番地が載ってるよーな、出来るだけ細かい地図プリ~ズ!出来たら戦前の!
というよーなかなり無茶な注文を図書館のマダムにぶつけてみました。
府立図書館はここ最近足を運んでる密度が濃い上に、自分でも「マニアックですんまへんな~」と思うくらい細かい&相当無茶な注文しとるせいか、マダムも俺のことを覚えとったみたいで、
「またマニアックな注文を~(汗」ちゅー顔されながらもけっこうマジメに探してくれました。
そして、さすがに戦前とはいかへんかったけど、昭和20年代前半の飛田新地周辺の番地付きの地図が見つかりました。
これやったら戦後すぐやさかい、番地の変更はされてへんはず。
いやはや、探したらあるもんやな♪

で、それを元にした御園楼の場所は!

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Google Earthの飛田新地「ちょっとだけ」俯瞰図と照らしあわせたらここでした。
「山王4丁目23番地」ってまさにここで、確かに「百番」と目と鼻の先のご近所でした。
「飛田一の大妓楼」と言われとったくらいやさかい、たぶん23番地まるごと御園楼やったことが推定できます。
そして、電話帳を丹念に見てたら、御園楼と同じ住所・電話番号の武藤熊次郎なる人物の名前も載っとりました。
たぶん、御園楼のオーナーやろなーと思います。

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『日本歓楽郷案内』にあった御園楼の写真です。
写真ってもこれじゃほとんどなにかわからんよーな感じやけど、そういう文句は原本をスキャンした国会図書館に言うてくんなはれ(笑
この本は昭和6年発行やさかい、写真は阿部定がおった時よりちょっと後のやろーと思います。
この御園楼は、残念ながらどーも戦争の空襲で焼けてしもたみたいで、戦後すぐと思われる飛田遊郭周辺の航空写真を見たら、23番地はきれいさっぱりな更地になっとりました。どうやら戦争中に解体されたか空襲で焼けてしもた模様。
せやさかい、建物は現存しとりません。
この23番地は現在駐車場になっとるけど、実際に行って目にしてみたらけっこうデカい。「百番」なんて小粒やん(汗)
ということがわかります。

前に、消えた遊郭・赤線跡を訪ねて 大阪一DEEPな所編で飛田の隣の「ディープな地区」こと釜ヶ崎(今のあいりん地区)のことを書いたんやけど、
ここは飛田の「おこぼれ」をちょうだいするかのように戦前から戦後にかけて非合法の私娼窟が形成されとりました。
遊廓にくっついてそのおこぼれを頂戴的な、非合法な私娼窟は、戦後は山谷(吉原遊廓)や歌舞伎町(新宿遊廓)のよーな「衛星型青線」があったけど、飛田の「衛星」でもあった釜ヶ崎は戦前からの歴史があり、かつちょっと変わった所でもありました。
それは・・・

「男娼のメッカ」

やったってこと。
そう、今は釜ヶ崎言うたら「日雇い労働者の町」やけど、昔はそれにプラス「男娼の町」でもあったんですわ。それも、資料によると歴史は戦前にまでさかのぼることができます。
詳しくは上のブログ見てくれたらわかるけど、女装した男の「オカマ」という言葉は「釜ヶ崎」から来たとも言われとります。
「釜ヶ崎の男娼→釜(カマ)→女装した男(オカマ)」という流れで、オカマって最近出来た言葉っぽい匂いがするけど、実は大正末期から昭和初期あたりには存在しとったことが、当時の文書から確認済みです。
東京にも今新宿二丁目がゲイの溜まり場として有名やけど、こっちはゲイやなくて「オカマ」ちゃん、「美人」に声かけられて鼻の下を伸ばしながら薄暗い部屋に入ると・・・それは「男」だった・・・なんてことがよくあったらしいですわ。
この釜ヶ崎の「オカマ」文化は戦後もそうやったみたいでいつの間にか消えたんやけど、ホンマかいな!?と思う方もおるかもしれません。そりゃしゃーない、いまの姿を見たら俺でもにわかに信じられません。
とは言え、こんな人がこんなこと書いとったら、説得力は数百倍増すことになるでしょう。



好きものの旅行者たちが、新世界・飛田周辺を歩いてひどい目にあった、という話をときどき聞く。
むりもないのだ。背のすらりとした美人に言い寄られてしかるべく交渉して、いざ寝てみると男だったというのである。
この界わいは男娼が多い。かつては、もと陸軍軍曹やもと海軍少尉の男娼もいた。かれらは、戦場で鍛えた勇気もあり、腕力もあった。客が気づいて、
「モノが違うやないか」
とひらきなおっても、腕では負けていなかった。当然、かれらが受け取るべき正当の代価を取り上げた。
べつに私はかれらを悪いとは思わない。間違う客のとんまさに責任がある、というのがこの界わいの論理なのだ。

司馬遼太郎 昭和36年12月のエッセイより



これは戦前やなくて戦後の話、司馬遼太郎が職業作家として駆け出しの頃のエッセイです。
(作家として不動の地位を築いた『竜馬がゆく』が連載され始めたのが昭和37年やさかい)
それも、すべて「現在形」で書かれとるってことは、紅い灯が消えた昭和36年でも釜ヶ崎が「現役」やったってことの間接的な証拠でもあります。
司馬さんがオカマに興味あったとか、実は好きものやったとかそういうわけやないんやけど、
そんなのに興味なかった、当時西区の西長堀に住んでた司馬さんもジモピーとしてリアルタイムな話題として知ってるくらい、釜ヶ崎の男娼は有名やったということですわ。ちなみに、司馬さんが当時住んどった公団(今のUR)のマンションは現存し、住もうと思えば、「URライト」と言うて3年限定で住むことができます。せやけど、立地条件がええのと、腐って・・・もとい古くなっても「元高級マンション」やさかい人気があるせいか、空室はない模様ですわ。


司馬遼太郎がこれを書いた全く同じ時期に大阪府警が釜ヶ崎を調査しとります。それによると、売防法でクリーニングされたと言うてもまだ男娼が100人近くおったというデータがあります。
これもある意味、学校じゃ絶対に習わん「大阪の黒歴史」でもありますわな。


飛ぶ鳥を落とす勢いで成長し続けた飛田も、昭和12年から日本は戦争の泥沼にはまって「贅沢は敵だ」の時代に入っていくさかい「高度経済成長」もここまで、昭和13年からは、国内情勢に比例するよーに下がっていきます。
松島に同じく、戦争に行く兵士で賑わって一時的な「バブル」になったと思われるけど、
全体的な風紀取締の紐がキツくなる一方の時代、遊郭も商売を縮小せざるを得なくなって、

昭和13年:2,911人

昭和14年:2,706人

昭和15年:2,534人
(※昭和15年松島遊廓の娼妓数:2569名)

出典:『大阪府統計書』



と、やっぱし昭和12年をピークに数字は減少、「戦争」が陰を落としとることがわかります。 

そして昭和20年3月の空襲で飛田遊廓は「一部」が焼けたんやけど、
前回のブログで「飛田遊廓が戦争の空襲で焼けたか否か」が「宿題」として残りました。
せやさかい、「これくらいの資料やったらなんぼでもあるやろ」と大阪府立図書館に行って「資料くれ!」とおねだりして、「宿題」を片付けてまいりました。

12010501


図書館に残っとった史料を参考にしてみたら、こんな焼失地図が出来上がりました。
図書館で見た地図は、「日別」って書いてあるよーに、空襲を受けた日によって区域がきれいに色分けされとって、
飛田は3月14日の「第一回大阪大空襲」で爆弾が落ちとるみたいですわ。
今の西区の大阪ドームのすぐ北にあった松島遊廓も、同じ日に空襲を受けとるんやけど、
こちらも「日別空襲被害地図」によると全域真っ赤っかに塗られとって「ご臨終」となっとります。
戦災地図にゃ「百番」のとこも赤く塗られとるんやけど、終戦直後に撮られたと伝えられとるアメリカ軍撮影の大阪市の航空写真を見たら、飛田新地あたりは大門通りの南側は空襲で焼けたんか更地が目立つけど、「百番」のあたりはギリギリセーフ、建物は健在でした
また、遊廓の大門通りの北側は全く焼けてへんみたいで、更地が多い大門通り南側とそのまま整然と建物が並んどる北側のギャップもわかりやすいし、道筋が今も変わってへんさかい余計にわかりやすかったりします。

で、同じ地図で見てみたら、今里新地は6月15日、港区にあった港新地は6月1日の空襲で被害を受けとるみたいです。
今里新地は、飛田新地と同じく「空襲の被害がなかった」伝説があるけど、1957年(昭和32)の大阪府、つまり赤線が現役やった時の資料によると、「(今里新地は)戦災を受けてお茶屋地帯の中枢部を奪われた現在(以下略)」と書かれとるさかい、松島新地のように「きれいさっぱり」とはいかんかっても空襲の被害は受けて一部は焼けたってことですわな。それが焼夷弾で焼けたんか、一トン爆弾でも落ちて地面に穴が開いたんかは知らんけど。

ついでやさかい、大阪の遊廓(芸妓の花街含む)の空襲の被害をまとめてみましょう。

■昭和20年3/13~3/14
◎松島:「焼失」、いや「消失」って書いた方がええくらい全焼
◎飛田:上記の通り
◎五花街遊廓:一部を除いて全焼
◎新町:全焼

■昭和20年6月1日
◎港新地:全焼

■昭和20年6月15日
◎今里新地:一部焼失(航空写真と資料から「焼けた」ことは確認済み)

■昭和20年7月10日
◎龍神・栄橋:全焼
◎乳守:全焼
◎貝塚:新地の半分くらい焼失らしい

★枚方:被害なし
★住吉新地:被害なし

★堀江:新町の隣やさかいたぶん全焼
★池田新地(池田市):知らん(笑



こんな風に、何だかんだでほとんどの遊郭で被害を受けとることがわかります。
貝塚なんか空襲する必要あったんかいな?と思うんやけど、7月10日の空襲は和歌山と堺がメインターゲットやったさかい、貝塚なんておそらく「焼夷弾が余ってしもたさかい捨ててしまえ」程度ですやろな。その「爆弾捨てた」場所がたまたま貝塚の遊廓やったっちゅーことで。

実はこの「爆弾が余った程度」の空襲って、調べてみたらけっこう多かったりします。
京都って何故か空襲がなかったって”都市伝説”があるけど、実際は5回攻撃を受けとって、西陣あたりの空襲(昭和20年6月26日)が京都最大の空襲です。
(※今の県庁所在地で実際に爆弾一発落ちなかった所は、鳥取、松江、金沢、新潟市のみ)
西陣空襲があった6月26日は同時に第5回大阪大空襲の日でもあり、午前中にB29約100機による空襲で今の此花区や大阪城周辺にあった陸軍の兵器工場(大阪陸軍造兵廠)がやられて、返す刀で今の城東区や旭区、吹田市(JR吹田駅周辺)や枚方市も被害を受けとります。
この時の空襲のメインはあくまで大阪、時系列的に京都は帰りの空の下やったと思われ。
せやさかい、この日の西陣空襲は、

空襲終わった。ほな帰ろうか

あ~爆弾が余っとるやん

燃料ヤバいさかい機体軽くして燃費良くしよか~
(※飛行機やろーが車やろーが、燃費を良くする=本体を軽くするのは基本中の基本です)

爆弾どないする?

うーん、海に捨てるより地上に捨ててちょっとでもダメージを与えよか

落とした場所がたまたま京都やった

というのが真相みたいですね。
ちなみに、かの長崎の原爆投下も似たようなパターンとも言えんこともない。
この「爆弾が余った型空襲」(もちろん俺の造語です)については、ここで詳しく話すことやないけど、「何でこんなとこ空襲したんや?意味あんのかいな?」的なとこはそういうパターンかもしれませんな。


「宿題」は以上やけど、
というわけで学生諸君、宿題はさっさと片付ける、これ基本アルよ(笑


そして戦後・・・といきたいとこなんやけど、「戦前編」だけですごいボリュームになってしもたさかい、
今回もちょいと分けてみよーかと思います。
ちゅーか、「やっぱしな」って思った人の方が多いかもね(笑

ちゅーわけで、「飛田編」は次へ続く~。

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Comment

Re: 釜が埼のこと
>和さん

うちのブログにコメントおおきにです♪

オカマの起源は諸説あるけど、これがいちばん説得力あると思います。それに大正時代後期から使われとったことは確かですし。それだけ「釜ヶ崎=男娼」ってイメージが強かったんでしょう。

でも、男娼が昭和59年にもおったのにはビックリ・新証言です。あそこ界隈は定期的にクリーニングされとるさかいてっきり遅くても昭和40年代、万博の頃にはなくなっとったやろうと思ってたんで。こんなのは歴史の教科書どころか、人が積極的に語ることでもないさかい、貴重な証言ですよ。でも、そりゃ強烈な記憶と思います。今の年齢でも現役オカマちゃん見たらおっかなビックリですから(笑
昭和59年はもちろん俺も生きてた時ですけど、やっぱホンマにおらんよーになったんはバブルの時か、それともその後の「失われた20年」で食っていかれへんよーになったんか、それともオカマバーが流行った頃か!?

>このサイトの内容にはそぐわないことかもしれませんが

そこはうちのブログは気にせーへんさかい、また思い出したことがあったら書いて下さいね。
  • 2015-08-06│15:50 |
  • BJのぶ URL│
  • [edit]
釜が埼のこと
阿部定関連で検索していたら、ひっかかり、読み応えたっぷりでとても楽しませてもらいました。

オカマ について。

語源はなんなんやろう?くらい思ったことはありましたが、まさかあそこからきていたとは!自身の体験からも大いに納得でした。というのは・・

私、昭和45年生まれなのですが、当時あの近辺で飲食店を経営する親戚がおり、小学生の頃までは休みといえば遊びに行っていたのです。なにせ子供のこと、あのあたりの楽しさも怪しさ(妖しさ)も何も知ることも無くいましたが、中学2年のころ、その親戚の店や住居が入っていた雑居ビルがが火事になってしまい、親戚の店は焼け残り、住居は水浸しという出来事がありました。

その時、けっこうな長期間(多分休み中と思われますが)家族と手伝いに行ったんです。13-14歳ですから 昭和58-59年ごろのことです。年頃から言っても、興味津々ですから見間違い、勘違いは無いと今も思います。

その当時でも、男の街娼はそこら中に存在していました。風呂が使えなかったため、通天閣下の銭湯に通いましたが、そこへ着くまでにも、通天閣真下に程近い街頭にも、コインランドリーにも、多くの男娼がいました。

また、親戚が出店していた雑居ビルには、今のワンルームに近いようなアパート形式の部屋も多数ありましたが、そこを焼け出された現役オカマさんが、親戚宅に数日避難し、しかし日銭を稼がないといけませんから、我々の目の前で、胸にタオルを巻いて膨らみを作り、その上から着物を着て出勤するシーンを、思春期真っ盛りの少年としては、強烈な記憶として持っています。

最近は串かつ食べに、スパワ行くときになどなどあの辺とおるたび、懐かしい?男娼の姿をなんとなく探しますが、もはや見かけません。

このサイトの内容にはそぐわないことかもしれませんが、昭和36年どころか、平成も近いような頃まで、彼らは「現役」であの地にいたことをお伝えできればな、と書かせていただきました。余計なことでしたらすいません。
  • 2015-08-06│01:35 |
  • 和 URL│
  • [edit]
Re: タイトルなし
> ひとつ質問させていただきます。
> 出典のある 「上方」第廿八号
> はどこで閲覧できますか?

大阪府立図書館中之島分館か、大阪市立中央図書館で見れるはずですよ。
一度検索かけてみて下さい。
  • 2015-07-18│22:47 |
  • BJのぶ URL│
  • [edit]
ひとつ質問させていただきます。
出典のある 「上方」第廿八号
はどこで閲覧できますか?
  • 2015-07-16│17:54 |
  • 名を名乗れアホ URL│
  • [edit]
Re: またもや阿部定ネタでスミマセン
>アベチャダさん

いやー、松鶴師匠のことは初耳ですし、女性自身の内容も知りません、すみません。
バックナンバーなら、もしかしてトキオの大宅壮一文庫にあるかもしれませんけど、東京な上にコピーだけでもけっこう金がかかるんですわ。
行くときは、何冊もマークしてまる一日かけて一気に片付けたいですね。電話でもして蔵書があるか確認してみます。
  • 2012-09-12│00:01 |
  • BJのぶ URL│
  • [edit]
またもや阿部定ネタでスミマセン
落語家の6代目、笑福亭松鶴(1918年~1986年)さんは、1933年~1938年頃まで引き手茶屋で奉公する傍ら、遊廓遊びに精を出されていたらしい。飛田や松島などで。その中で、16歳の時に飛田遊廓(多分御園楼)で阿部定のベッドテクを体験したことを、昭和51年12月2日号の女性自身で話していたらしいのです。どんな内容なのか興味津々です。のぶさんご存知ありませんか?松鶴さんは、亡くなる1年前の1985年に、映画「薄化粧」で、落盤事故など全く気にせず、ケバい愛人を傍らに座らせて麻雀にふけっているスケベ?な重役を演じておられます。スケベ大王に任命いたしたいです。
Re: タイトルなし
>たらいうどんさん

壁は調べたら案外残っとるのには、調べた自分がいちばんビックリしましたわ(^^;
飛田新地は「現役」の割にゃわからん「秘史」が多そうやさかい、また掘り下げてみるかもしれまへん!?

>  大昔百番に行ったときは、近隣の雰囲気に肝をつぶして何を食べたのかさえ覚えていません・・・。

俺も、オフ会の時は幹事いうのもあったけど、何を食べたか以前に、何も口にしてへんかったかもしれまへん(笑
  • 2012-01-24│22:50 |
  • BJのぶ URL│
  • [edit]
Re: ブラタモリは吉原に
>Naoさん

コメントおおきにですm(__)m
ブラタモリって番組、最近知りました(笑
吉原のこともやってたみたいですな。
こういうのをテレビでやると、こういうマニアックなのにも興味持つ人が多くなるんかな!?
  • 2012-01-24│22:47 |
  • BJのぶ URL│
  • [edit]
 結界の壁の調査は面白かったです。見所が多くて全部読みきれてませんが、貴重なテキストとして頭に入れて今度関西に伺うときの参考にしたいと思います。
 大昔百番に行ったときは、近隣の雰囲気に肝をつぶして何を食べたのかさえ覚えていません・・・。
  • 2012-01-15│04:40 |
  • たらいうどん URL
  • [edit]
ブラタモリは吉原に
ブラタモリは吉原に行っていました。
お寺に供養の記録が残ってるなど面白い内容もありましたよ。
  • 2012-01-13│17:30 |
  • Nao URL│
  • [edit]
Re: はじめまして
>ケーさん

はじめまして、うちのブログにコメントおおきにです(^^)


> 地域の成り立ちを理解し現場にいくと、建築物やその場に命が吹き込まれて、写真や文章では感じられない、匂いや過去の時間まで体験したような錯覚を感じますね。 

俺はこれを「オーラを感じる」って表現しとるんやけど、
やっぱ向こうから「自己主張」してくるんですよね。
遊郭によっちゃそん時の雰囲気がタイムカプセルみたいに残っとるところもあるさかい、
実際に回って見てみるのが大切ですね~。

> 次回オフ会がある時は是非参加したいと思うのですが、MIXIなどSNSのコミュニティがあれば教えていただけますか?

mixiならコミュ検索で「遊郭」で検索したら出てきますよ~。
遊郭・赤線コミュって2つあるんですけどね。
あと、作ったばかりですけど、mixiページでこんなんも作ってみました。

http://page.mixi.jp/view_page.pl?page_id=206314
その名も「mixi新地」と言います(笑
mixiのアカウントがなくても見れるはずやさかい、こちらもよろしく~。

ではでは、これからもよろしくお願いします。
  • 2012-01-08│21:27 |
  • BJのぶ URL│
  • [edit]
Re: タイトルなし
>イルサさん

あけおめことよろです(^^)

オフ会、なかなか好評やったさかい、またやる時はここで通知しますわ。
こんなマニアックな集まり(笑)はなかなかないさかい、是非参加して下さい。
  • 2012-01-08│21:21 |
  • BJのぶ URL│
  • [edit]
Re: 初コメです
>有紗さん

はじめまして、コメントおおきにです(^^)
こないなコメントもらうとこっちも書き甲斐がありますわ、書く方にとっちゃコメントがモチベーションになるさかい。
またよろしくお願いしまーす。
  • 2012-01-08│21:20 |
  • BJのぶ URL│
  • [edit]
Re: タイトルなし
>ふんわりさん

あの飛田で写真撮るなんて、やっぱ女のほうが度胸があるんやろか?(笑
俺は根性なしやさかい、カメラ出すのも引いてまいますわ(^^;

> 鯛よし百番の個室のふすまの謎のシミも...

これって何ですか???
  • 2012-01-08│21:18 |
  • BJのぶ URL│
  • [edit]
はじめまして
 はじめまして 
去年から古い建築物巡りに興味を持ち始め、いろんなサイト見ていたらノブさんのこのサイトに辿り着きました。

各遊郭の歴史、成り立ちまでしっかり調べられていて読み応えありました。
以前、海外を放浪中に、夜一人で時間を持て余していると、なぜか風俗街に足が向いて、用もなく通りをあるいたりしていたのですが、このサイト見て今バンコクや中国の夜の町を歩いている気分になりました。

地域の成り立ちを理解し現場にいくと、建築物やその場に命が吹き込まれて、写真や文章では感じられない、匂いや過去の時間まで体験したような錯覚を感じますね。 

これから、時間とお金が許す限り全国の遊郭回りしてみようと思います。

次回オフ会がある時は是非参加したいと思うのですが、MIXIなどSNSのコミュニティがあれば教えていただけますか?


明けましておめでとうございます。

ぜひ百番でオフ会しましょう。
  • 2012-01-07│22:14 |
  • イルサ URL│
  • [edit]
初コメです
あけましておめでとうございます

毎回ブログを楽しみに読んでいます
これからもすてきなブログ書いて下さいね(*^^*)
  • 2012-01-06│10:51 |
  • 有紗 URL│
  • [edit]
あ~読みごたえありました\(^o^)/
一昨年の大雨の日に、ギャル男風のジャージ上下(雑な男装)で、
傘の隙間から結構パシャパシャ撮っちゃってました。
お宝建築と女の子のあまりの可愛さに何度も往復していたら、
遣り手にジロリと見られてさすがに退散した、良き思い出です。
鯛よし百番の個室のふすまの謎のシミも...
  • 2012-01-05│22:11 |
  • ふんわり URL│
  • [edit]

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