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BEのぶ

  • Author:BEのぶ
  • 自称「ブログエッセイスト」ことBEのぶです。
    昭和史をライフワークにしていますが、平成ももうすぐ30年経ち、昭和が遠い過去になりつつあります。
    昭和も遺産・遺物を探れば立派な「考古学」となります。題して「昭和考古学」。ジャンルは遊郭・赤線跡から鉄道、そしてすっかり忘れ去られた歴史を掘る「昭和の考古学者」として、昭和の名残りを通して考察する旅を続けています。

    基本は標準語で書きますが、エッセイは大阪弁で書いていきます。

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■■■【前編】八日市延命新地をゆく 消えた遊郭・赤線跡をゆく33

突然やけど、先日うちの爺さんの法事で滋賀県まで行ってきやした。
あちき、生まれも育ちも大阪やけど本籍は実は滋賀県やったりして、更に戦国時代くらいのご先祖様は山形県。
ま、これで日本史に相当詳しいマニアックな方はあちきの血筋の経緯かわかるかも!?
まあそれはさておいて、
法事に参加するよーになった俺、ふとあることが頭をよぎりました。
法事は八日市ってとこでやるんやけど、待てよ、確かあそこにゃ遊廓があったはず・・・。

よし決めた!

俺は法事までは別行動。現地集合現地解散、はい決定。
と勝手に決めて親に電話。
まあ、どっか行くにしても家族旅行でも志願で「俺だけ別行動→現地集合」が多かったさかい、
(他の兄弟は方向音痴で放置できへんかった+「かわいい子には旅をさせよ」という親心もあったらしいけど)
親も毎度のことなのか「またかよ!」って感じでした。
俺は寅年のしし座のせいか知らんけど生態が完全にネコ科、親も「あんたはほっといても勝手に出かけてどっかでメシ食って知らん間に帰ってくるから世話がかからん」と言われとるさかい(笑

で、夜行強行軍で適当なSAで「ホテルプリウス」(※車中泊のこと)し、朝に遊郭跡探索→図書館で郷土資料調べつつ図書館のおねーさんを困らせる→法事
という行動計画を立てて、いざ出発。
法事の前に
「一仕事」
やっつけて参りました。

* * *
近江鉄道八日市駅

東近江市の旧八日市部分の中心部、近江鉄道の八日市駅です。
近江鉄道の列車が交わる中心地だけあって、駅舎は地方私鉄ながらかなりモダーンにできとって近江鉄道の中ではいちばん大きい駅舎であります。
俺が小学校の時に親戚の家に行っとった時の駅は、木造でボロい・・・もとい小さいながらも味があって温かい感じがした駅舎やったけど、20年以上ぶりに来たらいつの間にか建て替えられとりました。

ここ近江鉄道は滋賀県を走るローカル私鉄で、ジモピーか鉄マニアでない限り馴染みがないかもしれへんけど、
関西にして西武鉄道グループの会社のせいか、関西の私鉄には珍しくスルッと関西とかPiTaPaには加盟しとりません。
なんで滋賀県やのに東京の西武?
と思う人もおるやろーけど、西武グループを作った堤義明がお隣の近江八幡出身やさかい、そこらへんと関係があるんかもしれませんな。

近江鉄道の車両

せやさかい、鉄道車両の色使いも何となく「西武」ってたりします。

近江鉄道バス

バスなんかそのまんま西武やん(笑

また、近江鉄道は略して「近鉄」(きんてつ)。
あれ?近鉄って・・・





近鉄アーバンライナー

近江鉄道ってこんな車両走ってたっけ?
と思った人は・・・おらんと思います(笑
これは「近畿日本鉄道」こと「近鉄」で近江鉄道とは何の関係もありませぬ。そもそも近江鉄道に地下駅はないっちゅーねん。
せやけど、「きんてつ」を名乗っとったんは近江鉄道の方が古く、近鉄が今の「近畿日本鉄道」になったんは戦争中のことでした。
近江鉄道の「近鉄」は「おうてつ」と読むこともあるみたいやけど、ジモピーはその昔「きんてつ」って読んでて、

彦根市にある近鉄の踏切

実際、彦根にはこんな踏切があるらしい。
(By Wikipedia)
おお、こんなとこにも「近鉄」が走っとったとは(違



あ!近江鉄道を語るブログとちゃうんやった。
話を戻します。


八日市の遊郭はその八日市駅の南側にあって、今の八日市本町あたりがそうです。
ここは俗に

「延命新地」

と呼ばれとって、以後八日市の遊郭を「延命新地」と呼ぶことにします。
八日市は近江商人の商売で栄えた地でもあるさかい、人が集まりそこに歓楽街としての遊郭が出来てもおかしくない流れで、
明治16年(1883)の滋賀県の遊廓の一覧に、大津や彦根などと並んでその名が出てきます。
それ以前のデータは持ってへんけど、おそらく江戸時代からあったんやろうと。


八日市延命新地の図

「近代庶民生活誌13 色街 遊廓」に載ってた、大正10年の延命新地の復元地図を元に、21世紀の文明の利器、Google mapと照合したのが上の地図であります。
今回は適当に塗らずにちゃんと計算したさかい、赤く塗ったとこがイコール大正時代の遊郭のエリアです。
八日市駅の南側に位置しとる、駅から目と鼻の先なんがよーわかると思います。
近江鉄道の八日市駅が明治32年(1899)開業やさかい、「遊郭の前に駅が出来た」と言うてもええロケーションやけど、こうなったらふつうは「駅前に遊郭なんてけしからん!」と移転運動が起きたりして、古参の遊郭の方が移転させられることが多いです。遊郭にとっちゃ「私たちの方が元々おるのに!」と、とんだ迷惑やったことでしょう。
しかし、ここの場合どうも移転運動がなかったのか、昭和33年の売防法施行までずっとこの位置に居座り続けたそうで、
他にあった、駅前留学ならぬ「駅前遊郭」は、私娼窟は別としたら、鳥取市の衆楽園と大阪府堺市の龍神・栄橋遊廓などがパッと思い浮かぶけど、「駅前遊郭」は全国でも比較的レアな存在やったりします。

そのせいか、滋賀県の統計書なんかを見たら八日市は滋賀県の遊郭の中でもけっこうな発展ぶりなことがわかります。
俺が持っとるいちばん古いデータの明治16年やと、

・貸座敷:17軒
・娼妓数:40人


で、明治21年(1888)の『滋賀県統計全書』によると

・貸座敷:17軒
・娼妓数:42人
・芸妓数:17人


となっとります。

『近代庶民生活誌13』に掲載されとる地図の頃の延命新地は、

・貸座敷:44軒
・娼妓数:55人
・芸妓数:49人


(『滋賀県統計全書』より)

同じ頃の滋賀県の各遊郭のデータは、

★大津
貸座敷:140軒 娼妓数:169人 芸妓数:220人
(※これは大津にあった4ヶ所の総計)

★草津
貸座敷:14軒 娼妓数:25人 芸妓数:44人

★彦根
貸座敷:69軒 娼妓数:73人 芸妓数:115人

★長浜
貸座敷:16軒 娼妓数:43人 芸妓数:46人

(出典:『滋賀県統計全書』)



やさかい、八日市は滋賀県のナンバー3遊郭言うても過言やない、今の地味な(!?)姿からは想像もできへんかったと思います。
延命新地の隣には、「本町通り商店街」って商店街があるんやけど、そこは八日市、いや、滋賀県でも随一の繁華街と言われとったとこみたいで、
図書館にあった郷土資料にあった昔の写真を見たら、確かにごっつい栄えとったんやなーということがわかります。

せやけど、延命新地の発展はそれだけやありません。
そこには、軍の影がちらつきます。
今じゃ自衛隊すらもおらへん八日市やけど、戦前はここに航空機専門の部隊があったりしました。
日本で飛行機が飛んだのは、明治43年(1910)12月19日に代々木練兵場で徳川好敏陸軍大尉が操縦したのが始まりやけど、
八日市に飛行場が出来たのは大正5年(1916)のことで、最初は民間使用やったんやけど飛行場が欲しい陸軍と地元活性化の起爆剤が欲しい行政との思惑が一致、
大正9年(1920)12月に「陸軍航空第3大隊」が八日市に作られ、飛行場も「八日市飛行場」という名前がつけられました。
それはのちに「飛行第3聯隊」となって大所帯になり、昭和13年(1938)には「飛行第3戦隊」とどんどん昇進、爆撃機まで配備されて中国まで遠征に行くこともあったそうです。
もちろん、この部隊は終戦で消滅したんやけど、『八日市市史』によると米軍が接収に来た時でもアメリカの戦闘機とガチンコでやれる性能を持つ最新鋭の五式戦闘機も含む224機が残ってたといい、すべて焼却処分されました。
ほとんどが本土決戦用に温存しとったもんみたいやけど、果たしてそのうち何機が飛べたんやら(笑
それと同時に「八日市飛行場」も消滅、ほとんどが農地として払い下げられたものの、わずかに当時の残骸が残ってるそうで、軍事遺跡マニアにとっちゃヨダレもんかもね。
あ、世の中には色んなマニアがおるもんで、旧陸海軍の基地の残骸を訪ねる「軍事遺跡マニア」もおったりするんですわ。

で、その陸軍と遊郭が何の関係があるねん?というと、大いに関係があったりします。
こないして遊郭・赤線のことを研究しとるとある法則みたいなのがわかったりするんやけど、
その一つが、

「軍隊ある所遊郭あり」

ということ。
今の自衛隊にゃ女性自衛官がおるけど、昔の軍隊はほぼ100%男社会、
海軍は陸上基地の事務員に女性を少数ながら採用しとったこともあったけど、
(海軍士官の間では彼女らを「ホワイト」と呼んでました。白いブラウスが制服やったのと、遊郭の遊女とか芸妓などの「玄人女性」を「ブラック」って呼んでたさかい、その掛詞的な言い方やったそーな)
陸軍はまさに「男臭~~~い度」300%みたいな集団、遊郭は手っ取り早く女性に触れることができる場所&彼等のストレス解消の場でもありました。
何せ当時は娯楽らしい娯楽がなかったさかい、下っ端クラスやと遊郭でどんちゃん騒ぎするくらいしか遊びがないのもあるし、
遊郭側も軍隊の兵隊さんは金離れもいいし、暴れたら上官より怖い憲兵が飛んでくるさかいマナーも非常にいい。
「熱烈歓迎☆」と迎え入れとったそうです。
要するに、「軍と遊郭は持ちつ持たれつ」っちゅーことで、
ここ八日市も例外やありませんでした。

地元の東近江市の図書館であれこれ資料を物色しても、遊郭の資料は不思議なくらい見つからんかったんやけど、
この飛行部隊について書かれた郷土資料に、わずかながら遊郭のことが書かれていました。
それによると、八日市の遊郭は規模は小さかったものの活気があり、休日には航空部隊の兵隊で貸切状態やったそうです。
せやけど、軍隊ってとこは「星の数」が絶対的な威力を発揮する世界、
兵隊と下士官が同じ時間帯、同じ女でぶつかったら、それこそ斬った殺したの世界になりかねない(汗
そこで、階級ごとに遊郭の登楼時間が決まってたそーで、
・初年兵:昼間
・上等兵:夕方5時まで
・下士官:夜8時まで

とばったり鉢合わせへんように配慮しとったそうな。
ちなみに、将校はタテマエ上遊郭への登楼は禁止で(芸妓と遊ぶのはOK)、陸軍は知らんけど海軍やったらバレたら免官(懲戒免職のこと)、憲兵は「軍隊の中の警察官」やったさかい「武士も食わねど高楊枝」状態やったそうやけど、下士官も兵もおらんようになった深夜にコッソリ行ってたそうですわ(笑

また、昭和10年(1935)の国勢調査によると、当時の八日市町の人口は、

男性:3763人 女性:4095人
と、女性の数が男性を上回っとります。
これは遊郭の女性の数が入っとるからで、自然界じゃ人口調整とかせんと放置しとったら自然に男:女≒1:1になるよーになっとるらしいけど、
そういう意味じゃ八日市町は「女の世界」やったってことですやろな。

もちろん、遊郭の客は軍人だけちゃうけど、軍隊さまさまで栄えたという延命遊郭は、戦争中も「休まず営業」しとったらしく、昔みたいなどんちゃん騒ぎは時勢柄自粛やったけど年中無休状態やったそうな。
ちなみに、俺が持っとる「戦争中」にいちばん近いデータやと、

貸座敷:34軒 娼妓数:45人 芸妓数:29人

(『滋賀県統計全書』昭和11年より)



となっとります。




さて、平成23年の延命新地はどないなっとるか見てみましょう。


八日市延命新地

八日市延命新地


八日市駅の隣にある”LAPUTA”っちゅーアミューズメント施設の隣に、かつての延命新地の入口がありました。
当時からありそうな呑み屋や食堂がまだ何軒か残ってたりします。営業しとるかどーかは知らんけど・・・。



八日市延命新地跡にある招福楼

そこにぽっかり穴を開けるような門構えを誇るんが
「招福楼」
という料亭です。
門構えからしてめちゃ高そうな所やけど、かつては延命新地一の大きさを誇ったとこで、大正10年の復元地図にも載っとる老舗でもあります。
当時の遊廓の地図を見ても、そのデカさたるやハンパじゃーございません。
入口からずっと奥の奥を見ても、建物が見えへんくらいの大きさです。


八日市延命新地の図と招福楼

復元地図をベースにして、「招福楼」とそこ以外の新地の敷地を色で分けてみたら一目瞭然ですな。
パッと見でも「招福楼」一つで延命新地全体の5分の1強の占有率、こりゃ確かにデカい。


一体中はどんな作りになっとるんやろかと気になるさかい、お昼の定食はハウマッチ?とHPを調べてみたら!

い、いちまんごせんななひゃくごじゅうえん!!
(※15,750円です)

昔行った大阪の貝塚遊廓の料亭「深川」の8000円弱でも涙が出そうやったのに、その倍かい!
おまけに、「別途サービス料(20%)いただきます」と書いてるし。実質2万円弱かいな・・・。
5000円くらいやったらちょっと行ったろかと思うけど、こりゃ「貧乏人様お断り」やな(汗
松島新地の「ショート」のお値段より高し、さすがにそれやったら松島行って女の子と肌合わせて・・・いや、何でもないんやけど、
こりゃ宝くじ当たるか、結婚とかのデカいイベントでもない限り俺にゃ縁がないかもね、トホホ。


招福楼を囲む東側の外壁

「招福楼」を囲む東側の外壁です。
遊廓時代は「黒い板塀」で囲まれとったという記録が残っとるけど、今は何の面白みもないコンクリートの壁に囲まれとります。
せやけど・・・


招福楼の壁

南側へ行ったら、黒やないけど昔の面影を残してそーな土塀が。

八日市延命新地の建物

その南側にこんな格子な建物が残っとりました。
昔はここらへんに裏門があったって書いてるさかい、その面影が残る建物かもしれませんな。


八日市延命新地歌舞練場の跡

その南側の壁の前に、芸妓たちの「歌舞練場」があったと言います。
また、昭和6年(やったっけな?)には遊廓近くに活動写真舘、つまり映画館が出来て妓たちが客に「連れてって~♪」とせがむ姿が見られたとか。


八日市延命新地の旧清里楼

「招福楼」の、南側と東側の壁が交わる前には、「旧清里楼」の建物が残っとります。
2階部分はかなりリフォームされとるけど、1階部分は赤く塗られた格子が色濃く残ってて、雰囲気が色濃く残っとります。
昔は「くしむら」ちゅー料理屋やったらしいさかい、売防法後は料理屋に転業したんやと思います。
同じくここを回った人のブログなんかを見たら、正面の印象が強かったんかそこしか写真がアップされてへんけど、後ろに回って見てみたら、


旧清里楼

リフォームされたんは正面だけで、裏はたぶん当時のまま残っとると思われます。

旧清里楼の渡り廊下

よー見ないとわからんけど、「旧清里楼」の裏には渡り廊下があって、隣の建物に移動できたこともわかります。
正面から見たら「なんや、こんなもんか」的な大きさやけど、奥はかなりの大きさやったと思われます。


八日市延命新地

歌舞練場の横にある道を南へ下ります。
せやけど、地図で見たらわからんかったけど、実際に行ったらこんな狭い道やったとは(汗
地元じゃ、こないな細道を「アカミチ」と言うとったそーです。

八日市延命新地いろは楼跡の駐車場

上の「アカミチ」を抜けてすぐ左手に「いろは楼」という妓楼があったらしいんやけど・・・
まあご覧の通りであります(汗
せやけど、駐車場にできるくらいの大きさやったってことは、こんな狭い所にかなり大きな家があったんやろなー。



延命湯

ここで、突然登場するのは「延命湯」という名前の銭湯です。
延命新地の外れに位置し、大正時代の復元地図にもその名がある、かなり古い銭湯です。もちろん今も営業しとってホームページもあったりします。
遊郭時代の銭湯はここだけちゃうかったけど、
(北の方に「角湯」って名前の銭湯が地図上に見えます)
ここも在りし日は遊女がワイワイ客や楼主の愚痴を言って花を咲かせとったことでしょう。
で、ホームページを見てみたら、「昭和7年開業」って書いてるし。
おいおい、大正時代に名前があるのに「昭和7年」って???
真実は常に一つ、どっちかが間違えとるってことやけど、「遊廓時代には営業しとった」ってことは合ってるさかい細かいことはまあええやろ(笑


延命湯の前の川

「延命湯」の前には清水川という小さい川が流れとるんやけど、
そこに架かってる橋から新地を撮ってみました。
写真を撮ったとこがいわゆる「娑婆」、この橋を渡ると遊廓っちゅー名の「苦界」が待っている・・・。
ここまで客を見送った遊女が、客の後ろ姿を見守りながらやるせない気持ちを奥に秘め、ただそれを見守るのみやったことが、この橋の界隈であったかもしれませんな。
嗚呼、書いてたら侘しい気持ちになってきた(笑

ちなみに、「延命湯」の道を隔てた左側は、復元地図によると石屋なんやけど、今も石屋(石材店)やったりします。
遊廓時代からの末裔なんか、それとも同じ石屋でも全くちゃう人なんか、それは知りませぬ。



八日市延命新地も、時代の流れか新しい家が立ち並んで新地やった面影はどんどんなくなりつつあるんやけど、
ある意味一番色濃く残ってたんが、延命湯の裏側の界隈。

八日市延命新地の図

赤で線を引いた道筋なんやけど、この界隈がいちばん建物が残ってました。

八日市延命新地の浪花楼

なんか昭和初期か戦後の看板建築を思わせる、特徴的な全面が印象的な建物、大正時代の復元地図と照合してみるとここは「浪花楼」って名前のとこやったらしい。


浜屋

清雪楼


「浜屋」「清雪楼」ってとこやった(らしい)建物です。


旧三玉楼

その前には、「旧三玉楼」と、


旧朝常楼

「旧朝常楼」の建物が、艶かしい赤の格子付きで残ってました。


八日市延命新地の髪ゆいの家

地図には「髪ゆいの家」と書かれた、かなり個性的な2階の装飾が気になる建物です。


旧寿し元楼

この「遊廓通り」の最後を〆るのは、「旧寿し元楼」の建物です。
これはかなりリフォームされとるけど、2階部分の格子がわずかに往時を偲ばせとります。


当時の地図を見たら、「吉勝楼」という名前の妓楼があって、

八日市延命新地の現在の吉勝楼

今でも会席料理屋として現存しとるんやけど、どうも場所が違うみたいで、
昔の「吉勝楼」は今の場所の斜め向かいにあったそーな。

旧吉勝楼とみよし食堂

そして、これが「旧吉勝楼」・・・かな!?
ここは「みよし食堂」って食堂やったらしくて、今は営業してへんけど「よし」ってつくとこから系列店やったかもしれません!?
なんとなーく昔の面影があるような、ないような、びみょーな感じになっとります(笑

旧吉勝楼

せやけど、細かいとこをよーく見てみると、細かい装飾が至る所にあってやっぱ当時からの建物の可能性は大ですわ。
少なくても、ちょっとリフォームはされとるけど土台は昔からなんやろーと。


八日市延命新地の旧角菱楼


旧角菱楼

その「旧吉勝楼」の道筋に、「旧角菱楼」の建物が残っとります。
ちょっとメンテ不足でボロくはなっとるけど、見事な格子も残ってて昔はかなり威厳があった建物と想定できます。

11102530

その昔、地図の赤い◯の部分に検番が存在しとったそうです。

八日市延命新地の検番跡

その検番跡には、何とも言えんよーな怪しい建物が。
スナックとかの跡やないはずやけど、何かの集会所か事務所みたいなのがあったんやろと思われます。
戦後の赤線時代の「事務所」でもあったんかもしれません。


旧角正楼

その検番前にあるのが、「旧角正楼」です。
延命新地はどうも戦後も赤線として生き残って売防法施行まで営業しとったらしいけど、
「その後」は旅館に鞍替え派と料理店に鞍替え派に分かれたみたいで、「角正楼」は旅館派やったらしい。
その旅館も、駅前にあるって立地条件はええものの、八日市自体が戦後は平凡な住宅地になったりしてしもたせいか、経営は振るわんかったみたいで、旅館として営業しとる旧遊廓の妓楼は残ってまへん。
まあ、あったら一回泊まってみたいもんやけどな~。少なくても「招福楼」のランチより敷居が低いわい(笑


ちゅーわけで、今回は一文が長すぎるのもあるし、何より書いてる本人が疲れたさかい、「前編」ちゅーことで次は「後編」にいきます。
と言うても、遊郭色は少ないと思うけどまた見てくんなはれ~。


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テーマ:消えた遊廓・赤線の跡を訪ねて
ジャンル:ブログ

コメント

■ はじめまして

ふと地元のことが気になり、調べていくうちにこちらの記事にたどり着きました。
何年も前の記事にコメントしてしまってすみません。
わたしの祖父母宅は新地内にあり、掲載されている写真のうちの一つにあたります。
小さな頃から行き来していたので、なにも違和感はなかったのですが今でも夜になると妖しい雰囲気になる界隈なので、元遊郭街と知り納得がいきました。
建物の中は、二階へ通じる階段が二箇所あったり、出窓のように出っ張った赤い格子部分であったり、家族の人数の割に二階の部屋数が多かったり、細かな部分に装飾が施されていたりと当時の面影を感じる作りになっています。
何も考えずに過ごしていた祖父母宅へ行くのがすこし楽しみになりました。

検番跡に建っているコンクリートの建物は、昭和後期あたりは活気のある焼肉屋さんだったようです。
今では写真の頃よりもガラスが割れていたり、木が朽ちていたりと倒壊寸前な感じです。
余談ですがここのオーナーさんは現在は県内某所で居酒屋さんを営んでらっしゃいます。

面白い記事をありがとうございました。
2015/10/27 URL aaa #- 

■ お返事ありがとうございます

お返事ありがとうございます
お手数ですがその見取り図をいただけますか
PDFをメールで送っていただけたら幸いです

ブログ内にある石屋や銭湯や遊廓跡の旅館、招福楼などもみんな近所のお友達で、その地図をいただいたらみんなで懐かしく語り合いたいと思います
よろしくお願いします。
2012/11/10 URL 酔 主 #/7ghW78I [編集] 

■ Re: 延命新地

>酔主さん

はじめまして、うちのブログにご訪問おおきにですm(_ _)m
そして、返信が遅くなり申し訳ありません。
すでに現存せずとは言え、元主の方からコメントをいただき、まことに嬉しい限りです。

>このあたりの遊廓の古い見取り図があり知人からそのコピーをいただいたのですが、いつの間にかなくしてしまいました。
ブログの文章を読ませていただくと、その見取り図かなにかをお持ちのような感じなのですが、いかがでしょうか?

私が持っているのは、本文にある「近代庶民生活誌13 色街 遊廓」に掲載されている、大正時代の(と言われている)八日市遊廓の復元地図のみです。
見取り図が遊廓の配置図であれば当たりですが。
それでよろしければ、PDFファイルで保存しているのでお送り致します。
それか、「近代庶民生活誌13 色街 遊廓」は最寄りの図書館にあったりするので、それをご覧いただいても結構です。

いちおう、お返事をお待ちしております。
2012/11/09 URL BJのぶ #- 

■ 延命新地

はじめまして、本名は置いといて「酔 主」と申します。
文中にある「いろは楼」は私の家でした。
写真にもありましたが、平成15年に解体し現在はアパートと駐車場になっております
昔、このあたりの遊廓の古い見取り図があり知人からそのコピーをいただいたのですが、いつの間にかなくしてしまいました。
ブログの文章を読ませていただくと、その見取り図かなにかをお持ちのような感じなのですが、いかがでしょうか?
もしもお持ちなら画像をアップしていただくか、直接メール添付とかしていただくことは出来ないでしょうか?
もしくは、インターネットの「ここにあるよ」的なURLを教えていただくとか・・・
よろしくお願いします。
2012/11/01 URL 酔 主 #/7ghW78I [編集] 

■ Re: タイトルなし

>うたさん

うちのブログにコメントおおきにです(^^)
同業者で更に趣味が同じですか(笑

>遊郭跡は「ん?ここは何か感じる・・・」といった感じで
嗅覚が騒いでいました

この第六感とか直感みたいな嗅覚は大切ですね~。
俺も実際の探索じゃこれに頼ることも多いさかい、俺的な感覚は「遊郭の妓楼が『ここだよ~』って呼んでくれる」ような感覚ですわ。妓楼が呼んでるっちゅーか、遊女の霊が「私たちを忘れないでね」って言葉にならんメッセージを送ってくれるというか。
外見はいかにも遊郭やけど、実は「普通の家」はそんな感覚を感じません。
ちなみに、霊感はゼロです、幽霊なんて見たことありません(笑

こうやって遊郭とか赤線を調べていったら、意外な場所にデータにない所があったりしますね。
知られてへん遊郭を見つけたりしたら、「俺が第一発見者や!」と気分が高揚します(笑
うたさんも、コメントを見てると見つけたら楽しそうな感じが見受けられます。
また覗きに来て下さいね~。
2011/11/01 URL BJのぶ #- 

■ 

はじめまして!
mixiからこちらのブログにたどりつきました!
私もとても遊郭跡に興味があり、10代の頃から
遊郭跡は「ん?ここは何か感じる・・・」といった感じで
嗅覚が騒いでいました(笑)
のぶログさんのブログを拝見して、まるで一般家屋のよう
なところも、実は遊郭跡、カフェ跡だと知り、また町の
見方が変わってきました♪
先日も、岡山の矢掛というところを仕事で車で走って
いたときに、さっそく発見しました!発見すると嬉しい
ですね~。
のぶログさんのブログは説明も分かりやすいし
なによりすごく楽しいので、更新されるのがとても
楽しみです!
また覗かせてもらいま~す!

PS 私の仕事も中国語通訳なんです(笑)
2011/10/28 URL うた #- 

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