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BEのぶ

  • Author:BEのぶ
  • 自称「ブログエッセイスト」ことBEのぶです。
    昭和史をライフワークにしていますが、平成ももうすぐ30年経ち、昭和が遠い過去になりつつあります。
    昭和も遺産・遺物を探れば立派な「考古学」となります。題して「昭和考古学」。ジャンルは遊郭・赤線跡から鉄道、そしてすっかり忘れ去られた歴史を掘る「昭和の考古学者」として、昭和の名残りを通して考察する旅を続けています。

    基本は標準語で書きますが、エッセイは大阪弁で書いていきます。

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■■■奈良郡山-東岡町遊郭 消えた遊郭・赤線跡をゆく32 

「消えた遊郭・赤線跡を歩く」大和郡山編のアンカーを務めるのは、東岡町遊郭です。

洞泉寺遊郭の「古めかしさ」に比べて、東岡町の方は新しいってイメージがあるけど、
どうもどっちもいつ遊郭が出来たんか確かな資料はないみたいで、
両方とも同じ時期に作られたと見なしてええと思います。
『奈良県統計書』のいちばん古いデータにも、洞泉寺遊郭と東岡町の両方が載ってるんやけど、
いちばん古い明治12年(1879)のデータによると、

貸座敷数:16軒
娼妓数:61名

(明治16年の出来事:大正天皇誕生、琉球藩廃止、沖縄県設置)

と、数字がひっくり返ったような数字になっとります。これ偶然!?
ちなみに、同時期の洞泉寺の方は

貸座敷数:12軒
娼妓数:61名


と、若干ながら数字だけやったら東岡町の方が栄えとることがわかります。
「上方」って昭和初期に発行されたらしい雑誌に書いてた「大和の遊廓」ちゅーコラムによると、
明治初期の頃は洞泉寺の方は娼妓専門やったのに対して、東岡町は芸妓と娼妓の「二枚鑑札」やったと書かれとります。
* * *
せやけど、ここからこの2つの遊郭は対称的な道を歩みます。
洞泉寺はここから一時期若干数字が減るものの、明治20年を底値にそこからどんどん発展していき、明治時代から大正末期までは洞泉寺遊郭の一人勝ちみたいな状況が続くんやけど、
逆に東岡町はどんどん規模が小さくなっていって、明治38年には「娼妓数0」になってしまいます。
貸座敷は4軒あるさかい、芸妓が若干おる程度のほとんど遊郭としては成り立ってへん程に落ち込んでまいます。
この原因はよーわかりません。
せやけど、『上方』の「大和の遊廓」によると、明治初期は奈良の木辻町遊郭からの支店(菊屋→菊水楼)などもあってそこそこ繁昌しとったものの、明治13年をピークにだんだん減少し、一時期遊廓自体を廃止しようというところまで来たことが、サラっとながら書かれとります。
この記述を元に『奈良県統計書』の数字を見てみたら、確かに明治13年をピークに貸座敷・娼妓数ともにあれよあれよと減っていって、上にも書いたよーに明治38年の「娼妓0」という異常事態に陥ってまいます。
「大和の遊廓」にも原因は書いてへんのやけど、遊廓としてジリ貧になった何らかの原因は必ずあったと思われます。

で、この東岡町低迷期が大正末期まで続くんやけど、
『奈良県統計書』の数字を丹念に追っていったら、大正14年にビックバンのよーに数字が増えとることがわかります。

★大正13年(1924)
貸座敷数:9軒
娼妓数:18名

(この年の出来事:昭和天皇と香淳皇后が結婚、相田みつを誕生)

★大正14年(1925)
貸座敷数:16軒
娼妓数:81名

(この年の出来事:京王帝都電鉄新宿~八王子間開通、治安維持法公布、JTBの時刻表が創刊)

★大正15年(1926)
貸座敷数:23軒
娼妓数:134名

(この年の出来事:大正天皇崩御、昭和元年へ)

(出典:『奈良県統計書』)

昭和3年には洞泉寺遊郭を妓楼・娼妓数ともに抜き、昭和6年には奈良市内の木辻遊郭をも抜いて奈良県トップ、そして昭和8年には「貸座敷数28軒、娼妓数301人」と東岡町遊郭最大のピークを迎えます。
大正13年→昭和8年のたった9年で貸座敷311%、娼妓に至っては1672%という増加率。
この増え方は明らかに普通やない、一体東岡町に何があったんでせうか?

これを知るヒントが、「大和の遊廓」に書いておりました。
かいつまんで説明すると、郡山の金魚で財をなした実力者のK氏が、第一次世界大戦の好景気時代(大正時代はじめ)に計画した「新遊廓建設計画」がありました。
これはどうやら別の場所に遊廓を作るつもりやったみたいけど、許可が下りんかったのか「東岡町拡張計画」となり大正4年に遊廓の敷地を買収します。
そして資本金100万円の会社組織にしようとしたんやけど、色々すったもんだがあったのか土地はK氏からA氏になり、新開地計画はそのまま実行、大正14年に東岡町遊廓が「新装開店」したそーな。
この記述と統計書の数字の「ビックバン的増加」がピタリと一致して、この大増加の原因は「東岡町遊郭の敷地が大幅に広がった」ということやったんですわ。

で、数字だけなら奈良県最大の遊郭に成長、というより肥大って書いた方が正しいくらい大膨張した東岡町やけど、
そんな時代も長くは続きませんでした、というか時期が少し悪すぎたようです。
時代は日本が戦争へと向かって行く時期、出征していく兵隊で遊郭は賑わいを見せるけど世の中は「贅沢は敵だ」的な空気、
昭和11年以降のデータは持ってへんのやけど、ここもだんだん規模を縮小していっていったと思われます。


ちょっとここで話が変わるんやけど、
昔の娼妓や芸妓は、「鑑札」っていう免許がないと営業ができませんでした。
「無免許」で営業するんは許されず、見つかったら即警察にしょっ引かれました。
もちろん、「娼妓」の鑑札を持って芸妓になったり芸妓の仕事をしたらダメで、その逆も然り。
せやけど、昔は「二枚鑑札」言うて芸妓と娼妓の鑑札を同時に持ってる女もおって、もちろん鑑札は2枚持ってるさかいどっちも営業ができる「二刀流」でもありました。
それが時代が経つにつれて「どっちかにせい」という指導が入って、「二枚鑑札」は事実上不可になりました。
せやけど、その頃になったら芸が足りん芸妓も「無免許」で売春行為をするよーになり、昭和初期には「待合」という今のラブホみたいなとこでやる分には事実上黙認となっとりました。

で、その「鑑札」ってどんなんやねん?というと、ここを調べとる時にたまたま見た『奈良県警察史』にその見本があったさかい、
それを21世紀のデジタル技術で蘇らせました!
・・・って言うほどでもないけど、とりあえずペイントで作ってみました。

11100705

東京の娼妓鑑札って本を読むと今のパスポートみたいな手帳タイプになっとって、最初のページには写真も貼られて「替え玉」ができへんよーになっとって、更に悪さをすると鑑札に書かれるさかい悪さをしたら他のとこで営業ができへんよーになる、と書いてたんやけど、
奈良県のはシンプルに紙切れ1枚だけのよーです。どうも鑑札って各都道府県で違ってたんかな?
また、この鑑札は遊郭やと娼妓(遊女・女郎)だけに発行されたもんやなくて、遣り手婆さんや妓夫太郎にも発行されたそうで、
一人前になるまでは鑑札を持てず給料も激安、この鑑札を持てたら立派な遣り手に妓夫太郎と認められて、月給も大正末期の頃に月給60円~80円ほどやったそうな。
これはかなりの高級取りで、当時の東大法学部卒の学生の民間企業の初任給に匹敵します。
そしてこの鑑札は、東京の場合やけど原則として再発行不可、失くしたりしても問答無用で再発行不可=廃業になります。
これは地震とか火事でも条件は同じで、遊女も遣り手も妓夫太郎も「命の次に大切なもの」「全財産に等しい」と常に肌身離さず持ってたそうです。
つまり、遊郭で働くには何らかの「免許」を持ってへんとあかんってことで、いきなり遊郭に飛び込んで「働かせて下さい」というのは、少なくてもタテマエ上は無理やったってことです。
前に遊女やったとしてもそこで働いてた時の鑑札が必要で、なかったらもちろん働かれへんさかい。

鑑札の話はこれまでにして、
東岡町遊郭が「ビックバン」を起こした大正15年、奈良県で「娼妓取締規則施行細則」(県令第八九号)と「貸座敷営業取締規則」(同九〇号)という条例が改正されます。
これは大阪朝日新聞が「警察部の大英断と楼主の理解によって生れ出た公娼優遇案」と絶賛した、遊女にかなり有利な労働条件を制定したもんでした。
改善点は以下のとおりで、

①娼妓の自由外出:
遊郭がある市内は自由、市外は要許可だが時間制限なし
(以前は自由外出不可。隠れて出て行ったものなら警察に容赦なくリンチでした)

②治療費:
全額娼妓の自己負担→全額楼主の負担

③必要経費:
化粧品代、部屋のインテリア代など、営業に必要なものはすべて楼主の負担

④年季制限(遊郭での労働年数):
最高5年とし、延長は特別な場合を除いて認めない

⑤公休:
2ヶ月に1日→1ヶ月に1日



これは働く娼妓側にかなり有利な条件で、楼主側はもちろん反発するけど、警察部長(県警のナンバー2)自ら遊郭を回って説得したらしく、結果的に受け入れることになりました。


で、時代はいきなり戦後になるんやけど、
戦後は昭和21年にGHQから公娼廃止のお沙汰が出て遊郭は形だけ廃止になり、そのまま赤線に移行しました。もちろん東岡町も赤線としてほとんど戦前とそのままの形で営業をしとりました。
そして、こういうのを調べとる人にとっちゃ「その時歴史が動いた」になる売防法施行になるんやけど、
売防法が国会で成立した時の東岡町の反応は、洞泉寺遊廓編で書いたローカル新聞によると、

法案が決まるまで反対したが、成立すれば法治国民であり法を守るべきである。マッカーサーの指令により占領の始まった時に吾等は廃業を覚悟したが、軍隊に慰安婦を出せという政府の要求があり、吾等も一般婦女子の防波堤の積りで協力した。その後次官通達で黙認ということで今日まで営業してきた。
(中略)まだ二ヶ年猶予期間があるので、今のところすぐにどうすると言うことはないが、一日も早く目鼻をつけた方が良いと思っている。組合の廃業によって飲食店などは寂しくなるだろう。

(当時の組合長のコメント)



やけど、まあこれだけやと特に当たり障りのないコメントですわな。
せやけど、アンダーラインを引いた所に注目。
とりあえずこれをよ~く覚えといて下さい、後でこのコメントに激しくツッコミが入ることになるさかい(笑

で、昭和33年の売防法施行の時の東岡町の状況はというと、同じ新聞によると、

★業者の転業(24軒中)
旅館:16
料理店:4
カフェー:1
廃業:3

★接客婦の動き(33年1月市調べ 101名)
結婚:18
転職:35
帰郷:38
一時収容:5
就職希望:5



となっとって、順調に赤線廃止へと向かって行っとるよーに見えます。
それでそのまま赤線は廃止になりました。
















・・・とそうは素直に問屋が卸さんかったんです(笑

洞泉寺の方は、洞泉寺遊郭編で書いた通り、組合長は最後まで反発しとったものの売防法が施行されるときれいさっぱり全店廃業して以後復活することはなかったんやけど、
「成立すれば法治国民であり法を守るべきである」と優等生コメントをした東岡町の方は、どうやら

隠れて営業しとった

模様です。

今俺の手元には、
「京阪神周辺 酒・女・女の店」
っちゅー本があります。
作家の藤本義一が実際に渡り歩いたルポなんやけど、内容はだいたいタイトルでわかるでしょ(笑
発行は昭和41年、つまり赤線が廃止になって8年後に発行された本なんやけど、
売防法でなくなったはずの旧赤線や青線がどんどん「復活」してきとることがわかります。
その中に「郡山新地」ってのがあるんやけど、思いっきり「東岡町」とは書いてへんものの、「近鉄郡山駅から南へ徒歩10分」って思いっきり東岡町やん!と思ったりします。
(ちなみに、洞泉寺町は「東へ徒歩10分ほど」です)
その記述を一部抜粋してみましょう。

「郡山新地」

ここも古くからの新地で約50軒が赤線の火を消さず、(中略)生き延びている。
昼間からこのなかを歩くと「寄ってらっしゃい。ちょっと。おメガネさぁ~ん」といった調子の懐かしい呼び込みに接することができる。(中略)まったく昔の赤線と変わらないようだ。



また、昭和42年(1967)の「週刊宝石」の記事には、明らかに「東岡町」の名前が出てきており、赤線がなくなった後も「営業」しとったことがわかります。

もと柳沢氏15万石の城下町。(中略) 城下町は、かつて奈良県下に三カ所あった公娼街の2つを抱えていた。
市内の洞泉寺と東岡町である。このうち洞泉寺の灯は消えたが、東岡町はまだ命脈を保っているという
郡山警察によると、東岡町は旅館が15軒、バー・小料理屋などが14軒、その旅館街にさしかかると、ヤリ手婆さんが手招きする。
「ええオナゴはんがいまっせ。やすんでいきまへんか。一本(40分)で1600円や。二本ならもう千円追加してもらわなならんけど。泊まり5千円やけど、それは12時すぎなあかんわ」
バーはたいてい1坪か、せいぜい2坪ていどの狭い店ばかりだ。ところが、そこにホステスが平均4,5人。ストールに腰掛けたり、店の前に座っていたりする。
(中略)生駒の料理旅館と同じシステムの旅館もあり、芸者は人口5万人足らずの郡山市内に約50人。(中略)ちいさな町にしては、なんともお盛んというほかないのである。
(中略)今後、郡山市がますます近代産業都市としての性格を強めれば、夜の風俗は並行して多岐になり、大規模化する可能性があるといわれる。不死身の赤線・東岡町の姿は、その将来を暗示するかのように賑わっている。



どこが「成立すれば法治国民であり法を守るべきである」やねん!!
守ってへんやんけ!! (x_x)\(-_-;)
とツッコミ入れたくなったでしょ?(笑
もちろん、「料理屋」とか「旅館」に衣替えはしとるけど、実態は赤線の時と何の変わりもなし、
それどころか今の風俗じゃ存在せーへん「泊まり」まであったみたいですな。
嗚呼、「泊まり」あるんやったら俺も一回くらいは体験してみたいもんやわ(笑

この東岡町、どうもバブルの時まで隠れ営業しとって、上の記事を見たら警察も見て見ぬふりしとったみたいやけど、
その警察も知らんフリするわけにはいかへん事態が起こります。
1989年いうたらバブルの最盛期、俺が中学生やった頃になるけど、出稼ぎに来たフィリピン人やタイ人を監禁させて売春行為をさせとるという情報を警察が新聞経由でキャッチ、奈良県警本部が乗り出して一斉摘発に乗り出しました。
せやけど、警察のガサ入れを手前で知った東岡町、彼女らをどっかに隠して「知りませーん♪」と。
結局、100人くらいおったと言われた彼女らは残らず「雲隠れ」してそのまま曖昧に終わったみたいやけど、
これで今までは「まあいいか」とスルーやった警察を完全に敵に回してしもたらしく、今回は髪の毛一本この世に残さん!!という勢いで徹底的に壊滅させられましたとさ。
明治時代から続いた東岡町の歴史は、あまりに後味が悪いまま完全終幕となります。
週刊誌に「不死身の赤線」と讃えられた(?)東岡町も、さすがにもう不死鳥のように蘇ることはできんでしょう。
かつてここが「女性色」で染まっていた夜の街やったことは、記憶喪失のように忘却の彼方に去ってしまったかのよう。


で、今の東岡町がどないなっとるんかというと、


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東岡町遊郭跡は、近鉄の郡山駅から南へ5分くらいのとこにあるんやけど、
昔の名残なんか、東岡町へ向かう道筋にゃスタンド形式の飲み屋やその残骸のよーなものが並んでました。
たぶんやけど、その昔はここにズラリと呑み屋なんかが並んでて、赤線の衛星のような青線的雰囲気もあったんちゃうかな~と思ったりします。


11100704

建物もけっこう古く、これは何となく凝った色使いやなーと眺めてみたりしました。

そしてその先には・・・








実は、すでに去年に動画を作って公開しとったりします(笑
(スマホとかで見れない方はここをクリック
つまり、今回は「手抜き」ってことやけど、まあこの動画でも十分雰囲気が伝わると思うさかい、今回は余計な長たらしい文章は抜きで、じっくり動画をお楽しみ下さいってことで。
動画には洞泉寺遊郭の分も入ってるけど、「一粒で二度おいしい」ってことです(コラ

せやけど、これじゃやっぱしちょっともの足りんさかい、動画で使わんかった写真を補足代わりに。

11100801

昔の屋号が入った、少しノスタルジーを感じるぼんぼりが残っとります。
これが遊郭時代なんか赤線時代なんかは知らんけど、毎度おなじみ『全国遊廓案内』に書いとるここの妓楼は、
「旭楼」「今村」「竹島」「藤近」「千歳」「大阪楼」「都楼」「笹の屋楼」「寿楼」「岡吉楼」「ヨカロー」「御多福楼」「河卯楼」「宝山楼」「駒川楼」「恵美須」「錦水楼」などとなっとって、「吉乃」っちゅー名前は見当たりません。

11100802

格子の上がかなり装飾が細かくなっとります。
これだけでもつくろうと思ったらかなりの金と時間がかかると思いますわ。


11100803

ぽっかり入り口が開いてた・・・というか壊されとったって言うてもおかしくない建物もありました。
こんなに「ぽっかり」開いてるんやったら、「ラッキー♪ほなちょっと覗いたろ」と邪念が湧いたりするんやけど(コラ
何かここの雰囲気的に入れたもんやなかったです・・・。
でも、確実に空き家やったしこんなに「ぽっかり」じゃ"Welcome"、「どうぞお入り下さい」って言うとったよーなもんかも?何かもったいなかったような気もする・・・!?


11100804

これは東岡町遊廓に残る建物の中でもかなり大きな3階建ての建物です。
「旅館」の看板の怪しさとボロボロさが、逆に侘しさというか哀愁というか、何か一抹の寂しさのような感覚を誘う。
せやけど、この角度から写したらそんなに大きそうやないんやけど、


11100805

遠くから撮ったらかなり迫力というか威圧感がある建物やと思います。
3階建てやけど、窓の数を見たら中2階みたいなんがありそうやさかい、実質4階建てか?




大和郡山の遊郭跡は、どっちも建物がけっこう残っとるし、雰囲気も真空パックのよーに残っとるよーな感じがするんやけど、
洞泉寺町が「色街の抜け殻」なら、東岡町は「色街の死体の放置プレイ」といわんばかりの廃墟ぶり、
「こりゃ遊郭跡いうより遺跡やな・・・」と歩きながらブツブツ一人ツイッターやってました(笑
写真を見てもろたらわかるよーに、東岡町もかなり建物がええ感じで残ってるんやけど、何せ上に書いた、「もう昔のこと」とも言い難い「黒歴史」があるさかい、妓楼を税金で残した英断をした大和郡山市も「ここはちょっとな・・・」と後ろ向きやと思いますわ。
何せ約20年前まで「現役」やったとこやさかい。
まるで古代文明の成れの果てのようなこの「遊郭遺跡」こと東岡町、「兵どもが夢の跡」とばかりに半分ゴーストタウンになりながら人々の記憶からもかつての栄華は忘れられつつあり、自然の風化に任せて朽ち果てつつある木造3階建ての元妓楼が何かもの寂しささえ漂わせた今回の探索でした。


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テーマ:消えた遊廓・赤線の跡を訪ねて
ジャンル:ブログ

コメント

■ Re: はじめまして

>みささん

こちらこそはじめまして。コメントおおきにですm(_ _)m

遊廓のことは、他の方へのコメントにも書いたんですけど、そろそろ「歴史」として客観的に見れる時代になったんやと思います。特に女性が興味あるみたいで、オフ会なんかすると3分の2が女性やったり。こっちがビックリします(笑

>木辻の遊郭のこと、詳しくわかる資料など、もし、お教え願えるのであれば嬉しいです。

木辻遊廓は全国的に知名度が高く歴史も古いさかい、図書館で史料をほじくったら何か出てくるかもしれません。いや、必ず「何か」が出てくるやろうと。そこらへんは図書館司書の能力次第ですけど(俺が書庫に入れたらなんぼでもほじくったるのに・・・と思うんですけどw)、めぼしい資料を丹念に見ていく、それしかありません。「めぼしい資料」って何ぞやというと、それは調べていくうちに勘が働きますよ。
遊廓は「黒歴史」ではありますが、今まで我々が知らなかった、失われた歴史のジグソーパズルのピースを自分の手で埋めていく・・・ゲームでレベル上げていくより面白いと思うんですけどね(笑
2013/07/03 URL BJのぶ #- 

■ はじめまして

近頃急に遊郭などのことがきになりだしまして、

あれやこれやと調べている最中です。
こちらで貴重なことを色々と拝見し、私も頑張ってしらべようと思うところです。

奈良県立図書館、行ってみたいと思います。娼妓さんの証文、この目で見たいです。木辻の遊郭のこと、詳しくわかる資料など、もし、お教え願えるのであれば嬉しいです。

地道に、こつこつと、ジグソーパズルをあわせるように…

とても素敵です。なかなかできることではないですが、更新なさるの、楽しみにしています。
2013/07/02 URL みさ #- 

■ Re: タイトルなし

>728さん

はじめまして、コメントおおきにですm(_ _)m


> いきなりで質問をしてしまい、失礼ですが、私自身こういう事を調べ始めたのがごく最近で資料のまとめ方などに不安があります。図書館などで閲覧した資料は、やはり貸し出し期間内に内容をまとめてしまうのでしょうか。

こういうのは、地道に資料を集めては考察するという、地道な作業を繰り返すしかないと思います。
俺は図書館にある資料を地道に探して、それをノートにまとめるという「王道」です。『全国遊廓案内』や『日本遊里史』など、遊廓を調べる時の基本資料は、古本屋で購入して手元に置いています。
ある意味ネタバレですけど、うちの記事は一つの記事を数ヶ月かけて書くこともあります。図書館通いを続けてると新しい資料が出てきたり、考察や推測を加えていくとAという考えだったのがひっくり返ってBという結論になる→ブログ書き直しということも、実はあるので。
あと、いったんアップした記事も、細かいところを微調整(編集)したりもしています、密かにこっそりと(笑)

でも、これだけは言えるのは、最初は728さんみたいに四苦八苦するものだと思います。そしていきなり完璧に書こうとしないことやと思います。
「消えた遊廓・赤線跡をゆく」も、最初らへんは文章がけっこう稚拙なので(笑
遊廓・赤線跡の研究は、資料が少ないこともあって失われたジグソーパズルのピースを探すようなものですが、やっていくうちにだんだんとコツをつかめてくると思います。それが楽しいと言えば楽しいんです。
あとは、遊廓・赤線は日本の社会史の一つです。狭い範囲で調べようとせずに、当時の時代背景など広い視野で調べてみるのと、これは歴史研究の鉄則なのですが、今の常識・観点で過去を見ないことです。

>実際に現場に行って撮影する場合、注意すべき点・カメラの種類などはあるのでしょうか。

詳しく書けばキリがないですが、現地調査は一言で言うと「サラっと訪ねてサラッと帰る」ことでしょうね~。
あとは、「現役」のところは基本的に撮影NGです。決して無理はしないこと。

詳しいことは、メールを送って下さればまたお答えさせていただきます。
2013/06/18 URL BJのぶ #- 

■ 

お初にお目にかかります。関西の遊郭について調べていたら、ここに辿り着き、非常に興味深い内容だったのでコメントさせて頂きました。
いきなりで質問をしてしまい、失礼ですが、私自身こういう事を調べ始めたのがごく最近で資料のまとめ方などに不安があります。図書館などで閲覧した資料は、やはり貸し出し期間内に内容をまとめてしまうのでしょうか。一週間かけても本の内容を自分の形でまとめきれず、記事を作れなくて苦心しています。それと、実際に現場に行って撮影する場合、注意すべき点・カメラの種類などはあるのでしょうか。東岡町はその筋の方の事務所があると聞いております。勝手ながら、お答え頂けるところがあればよろしくお願いします。長文失礼致しました。
2013/06/16 URL 728 #a73esoTg [編集] 

■ Re: 奈良県は…

>掛川のすずもとさん

こんばんは。
終わりなのは「大和郡山」であって「奈良県」やないですよ(笑
まだ木辻遊廓が残ってて、ここを回る前に行ってみたんですが、当時の建物がほとんど残ってなくネタにならないのでただいまネタ収集中です。

>私は学生時代は奈良にいたんですが その当時は 赤線跡なんて全く知らず 単に昔ながらの旅館街があってさすがは奈良県古い建物が残っているねえ くらいにしか思いませんでした

俺も一時期東京の北千住に住んでたことがあったのですが、住んでた所が千住遊廓跡のすぐ近く、当時興味がなかったので「しまった~」と思いました。

>奈良県にも結構そういった表に現れない女性街みたいなとこがあったみたいです 今風の感覚からみれば半分非合法みたいなことでも 以外とあったのかな

ぶっちゃけ、けっこうあったと思いますよ。
今も現役の生駒は案外古くからあったみたいやし、ご存知の通り大峰山の麓の洞川地区にも「禊」のための女性街があったのは確かですし、『全国女性街ガイド』には大和高田市にも赤線か青線があったそうです。
大和高田は今度現地の図書館に行って、当時の新聞なんかで情報収集してみます。
2011/10/09 URL BJのぶ #- 

■ 奈良県は…

のぶさま 今回で奈良県の'赤線跡' はおしまいとのことさすが文化財の宝庫 奈良だけあって赤線跡に残る建物もまだきれいに残っていますね 私事で恐縮ですが 私は学生時代は奈良にいたんですが その当時は 赤線跡なんて全く知らず 単に昔ながらの旅館街があってさすがは奈良県古い建物が残っているねえ くらいにしか思いませんでした さて奈良県の赤線跡は主なものは調査されたようですがやはり前々回飛田の青線をお調べなったように 奈良県にも結構そういった表に現れない女性街みたいなとこがあったみたいです たとえは 奈良市(内か?)の猿沢池とか 長谷寺周辺の民宿みたいなとことか わりとあったみたい 案外生玉新地 みたいにお寺が金主で… 今風の感覚からみれば半分非合法みたいなことでも 以外とあったのかな
2011/10/08 URL 掛川市のすずもと #- 

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