のぶログ (THE WEBLOG WITH OSAKA DIALECT)

大阪人の、大阪人による、大阪人のため・・・のブログ!?

ブログランキング

ブログランキングに参加しています。 面白い!と思ったらクリックしてあげて下さいm(_ _)m



にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ

にほんブログ村 歴史ブログ 近代化遺産へ

よろしく!








blogram投票ボタン






ブログ内検索

プロフィール

BEのぶ

  • Author:BEのぶ
  • 自称「ブログエッセイスト」ことBEのぶです。
    昭和史をライフワークにしていますが、平成ももうすぐ30年経ち、昭和が遠い過去になりつつあります。
    昭和も遺産・遺物を探れば立派な「考古学」となります。題して「昭和考古学」。ジャンルは遊郭・赤線跡から鉄道、そしてすっかり忘れ去られた歴史を掘る「昭和の考古学者」として、昭和の名残りを通して考察する旅を続けています。

    基本は標準語で書きますが、エッセイは大阪弁で書いていきます。

質問・お問い合わせはこちら

名前:
メール:
件名:
本文:

人気ブログランキング

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

■■■奈良郡山-洞泉寺遊郭 消えた遊郭・赤線跡をゆく29 

下関遊郭・赤線跡シリーズが続いたら次は・・・ああ、あそこやな。
と想像できた人も多いと思うけど、
そこは常に「人の予想の斜め上45度」を行くあまのじゃくな俺、一気に奈良県まで戻ります(笑
ホンマは「予定通り」やったんやけど、突然奈良県まで戻ったんはちょっと理由があるからなんですわ。

ちゅーわけで、所変わって奈良県は大和郡山市
「大和」がついとるさかい福島県の郡山市ちゃいまっせ、悪しからず。
* * *
11090302

11090604


大和郡山と言うたら金魚、金魚言うたら大和郡山

ちゅーくらい、今は「金魚の町」として、日本はおろか海外の金魚愛好家の中でも有名な大和郡山やけど、何で郡山に金魚なのかは実はよーわかってへんみたいで、
それ以前に、日本に金魚がどのようにして伝わったのかも、諸説あってはっきりしてへんそうな。
はっきりしとるのは、『養生訓』で有名な貝原益軒が寛永6年(1629)に書いた『大和本草』という書物に、

金魚 昔は日本に無之 元和年中異域より来る 今世飼者多し



って記述があるさかい、江戸時代初期には日本に伝わって、観賞用として飼育されとったこと。
これによると、金魚は元和年中、つまり江戸幕府が開かれた頃に日本に伝わったってことやけど、
寛延元年(1748)に堺の安達喜之という人物によって書かれた『金魚養玩草』という本によると、

文亀三年(1502)正月廿日はじめて泉州左海の津にわたり(以下略


と書かれとります。
「左海」って今の大阪の堺市の異字で、昔は「左海」とも書いとりました。
当時の堺は明(中国)との貿易で栄えとったさかい、中国から金魚が輸入されても全然おかしゅーない。
貿易で栄えとった時の堺や九州の博多は自由貿易港、言わば今の香港とかシンガポール、UAEのドバイのよーなもん。
あ、俺が堺出身やからってえこ贔屓しとるわけちゃいまっせ(笑

『大和本草』と『金魚養玩草』のどっちが正しいんかはわからんけど、どっちかが正しくてどっちかがウソというより、金魚が日本に伝わった時期がほぼ100年間があるさかい、戦国時代の「文亀三年」と江戸時代初期の「元和年中」の2回に渡って伝わった、って考えた方が自然やと思いますわ。

で、郡山に金魚が伝わったのはいつか?
それが実ははっきりした期日はわかってへんみたいで、『郡山市史』に書かれとった記述やと、古くからの言い伝えによると18世紀の宝永年間に佐藤三左衛門という人物が金魚の飼育に精通しとって、その人物が郡山に住み着いて金魚の飼育を始めたのが始まりやとか。
せやけどこれはあくまで伝説の域に過ぎず、「郡山=金魚」が世間のイメージになったんは、明治時代以降だそうな。

そんな「金魚の町」郡山にも遊郭があったりしました。

11090301

大和郡山には遊郭が2ヶ所あって、それぞれ

洞泉寺(町)遊廓

(東)岡町遊廓


と呼ばれとりました。
俺が知ってる限りの記録やと、この2つの遊廓が歴史に出てくるのは明治10年代なんやけど、
決して都会とは言えんとこに2つもいきなり遊郭が出来るわけがないさかい、恐らく江戸時代から遊郭はあったと思われ。
2つの遊郭をいっぺんに紹介するのはちょっと無茶やさかい、今回は洞泉寺町遊郭のことを書いてみようかと思います。

洞泉寺町は、大和郡山市の図書館にあった『ふるさと大和郡山歴史事典』によると、天正9年(1581)に宝誉という僧侶が長安寺村ってとこに作った洞泉寺を、天正13年(1585)に郡山に移したのが始まりで(別の資料によると、当時郡山を治めとった豊臣秀長の招きと言われとります)、それがそのまま町名になっとります。
江戸時代の郡山城下町の地図を見てみたら、洞泉寺町はちょうど城下町の町外れになっとって、今は道路になっとる所が昔は城下町を囲む堀やったことがわかります。
江戸時代の資料を見ても遊郭の「ゆ」も出てこえへんのやけど、洞泉寺と隣にある源九郎稲荷神社の門前町として人が集まる→そこにいつの間にか遊郭が出来たって流れでいいでしょう。
洞泉寺遊郭が出てくるのは明治12年(1879)の統計書からです。
奈良市の木辻遊郭や同じ郡山の東岡町遊郭と共に名前が出てきとって、

★明治12年(1879)★

貸座敷:12軒

娼妓数:61人

★明治16年(1883)★

貸座敷:13軒

娼妓数:57人

出典:『奈良県警察史』 『奈良県統計書』



とあります。
まあ、数字だけ見たら貸座敷の数も娼妓数ももの時期はさほど大きな変化もなく、特に書くこともないくらい比較的穏やか(?)に数字が推移しとります。
ちなみに、『ふるさと大和郡山歴史事典』の端っこに書いとった、明治22年(1889)の戸数は63戸、人口231人らしく、
同じ時期の当時の遊郭の貸座敷軒数が11軒、娼妓数が55人やさかい(『奈良県統計書』より)、
全戸数と全人口における割合は、戸数17.4%、人口は23.8%やったってわけです。

奈良県に限らず、色んな場所の統計書の数字とにらめっこしながらエクセルに入力していっとったら、
数字だけでも色々おもろいことがわかるんやけど、
ここ洞泉寺遊郭も一つ興味深いことがわかりました。
奈良県の遊郭の妓楼、つまり貸座敷数は、どこの遊郭でも同じやけど、時代背景や経済情勢によって軒数が左右します。
奈良県の遊郭は、奈良市の(東)木辻町遊郭、瓦堂町遊郭(※明治33年から統計書に出現)、元林院遊郭(※明治29年より統計書の数字から消滅)も含めて計4ヶ所なんやけど、貸座敷の数の増減はけっこう激しかったりします。
せやけど、洞泉寺遊郭は、もちろん多少の増減はあるけど、ほとんど軒数が変わってへんのが大きな特徴です。
明治27年(1894)~明治38年(1905)まで軒数が15軒、大正13年(1924)は17軒、大正14年に1軒減って16軒になったものの、昭和元年(=大正15年)に17軒に復活してからは昭和9年(1934)までずっと同じ軒数で推移しとります。
何と言うか、全国のどこの遊郭にもないこの「抜群の安定感」は何やろか?
また逆に、大和郡山のもう一つの東岡町遊郭の方は、波乱万丈と言うてええよーな数字の変化を見せとるのとはあまりに対称的やさかい、まるで毎年無難に10勝の勝ち星を稼ぐピッチャーのような安定感が余計に気になったりします。
恐らく、洞泉寺遊郭の結束が固くて相互扶助しとるうちに、新規参入もなければ廃業もない状態になったんかもしれへんけど、
実際に現地に行ったらわかるけど、遊郭やったエリアは猫の額のような狭さやさかい増やしたくても増やせない、っちゅー物理的条件やったんやないかな?という仮説を立てとります。
対して東岡町の方は、ある時期に突然ビックバンのよーに爆発的発展をするんやけど、それはまた「東岡町編」で。いつ書くかわからんけど(笑

数字で見る洞泉寺遊郭のピークは、大正13年の

貸座敷17軒 娼妓数200人
(出典:『奈良県統計書』)

というところでしょう。
昭和に入ってもそれほど数は変わってへんのやけど、戦争の足あとが近づき始めた昭和9~10年くらいになると、200人を越えとった遊女の数はガクンと減り、150人台まで落ち込みます。
そこからのデータは残念ながら持ってへんのやけど、昭和14年(1939)の洞泉寺・東岡町両遊郭の貸座敷数、娼妓数のデータを見ると、

貸座敷数42軒  娼妓数389人
(出典:『奈良県統計書』)

となっとって、6年前の昭和8年(1933)と比べると貸座敷-3軒、娼妓数-98人マイナスになっとります。
昭和14年は日中戦争も泥沼になりつつあり、国家総動員法も施行されて「贅沢は敵だ」「欲しがりません勝つまでは」と国民生活がかなり窮屈になってきた時代、日本が困難な時期に来たことが、この遊郭の数字を見てもわかるよーな気がします。


で、戦争が終わって戦後の赤線時代になるんやけど、
かの『全国女性街ガイド』(昭和30年)にゃ「郡山」として、

奈良市のすぐ近くだが、暮色蒼然たる、お化けの出そうな厠のある遊廓が二十軒ほど固まっている。旅の人は六百円でも泊めてくれる。
美形はいなくとも、心情はこもっていて後朝(きぬぎぬ)の別れなど、古典的。



と書いとります。
せやけど、洞泉寺なんか東岡町なんか記述は全くなし。これじゃどっちかわからん(笑
ただ一つのヒントは、最寄り駅のとこの「国鉄奈良線・郡山下車」って記述。
「奈良線」は正しくは関西本線(今のJR大和路線)やさかい「奈良線」は明らかに間違いなんやけど、
(※ホンマの「奈良線」は京都~木津間の路線です。郡山はかすってもいませぬ)
国鉄、今のJRの郡山駅が最寄りの遊廓は洞泉寺遊廓の方で、東岡町遊廓の最寄り駅は近鉄の郡山駅の方でJRの郡山駅から行くにはかなり無理がある。
せやさかい、作者が行った(?)「暮色蒼然たる、お化けの出そうな厠のある遊廓」は洞泉寺遊郭の方ちゃうかな?と推測したりします。
まあ、どっちもお化けが出そうなとこやったけど(笑

それにしても、このブログを書いてて感心するんは、『全国女性街ガイド』の作者の渡辺寛の表現力の巧みさ。
「暮色蒼然」とか「後朝の別れ」とか、思わずこの言葉の意味を辞書で調べてしもたくらいですわ。
「後朝の別れ」とは「男女が一夜を過ごして迎えた朝」のことで、こんな表現が日本語にあったとは、日本人30年以上やってながら驚きです(笑
読者が情景を想像できる文章を、ツイッターの文字制限内で表現できるんは意外に技術力が要るもの、
おまけに『全国女性街ガイド』は当時の「地球の夜の歩き方」みたいなもん、そこに文学作品のよーな格式高い表現を入れる所に、さりげなく作者の文章力、ボキャブラリの豊富さを垣間見たよーな気がしますわ。この者、ただの赤線狂いのエロオヤジではないな。
「読む気が失せる程の長文ブログ」が毎度お馴染みになってしもた俺なんか足元にも及ばへんわホンマ(笑

東岡町は明らかに赤線として営業しとったことがわかるんやけど、
洞泉寺遊郭は赤線として生き残ったって資料が見つかれへんかったさかい、てっきり戦後はなくなってしもたんかな?と思ってたんやけど、
図書館で資料あさっとると、戦後もきっちり赤線として営業しとったことがわかりました。
そして、売防法施行前後の昭和33年の新聞記事を探しとったら、俺の読みは当たったみたいで、週刊のローカル新聞の当時の記事を発掘してまいりました。

廃業待つ岡町、洞泉寺
くるわあと3日


数十年以上もの永い間、近畿でも名高い色の町・郡山の代表として、君臨した岡町・洞泉寺の特料店も4月1日の売防法の実施に先がけて、15日で廃業する。
永い間市民と直接、間接に何らかのつながりのあった両組合の廃止は、その廃止が日本の一歩前進ということには違いないが、一抹の不安と寂しさはおおうべくもない。転業の最後の表情を記してみよう。
(中略)洞泉寺は業者12,旅館2、貸席3、廃業7。
接客婦の動きは次の通り(この調査は市の1月末調べで、警察の2月28日調べでは岡町82名、洞泉寺40名と減っている)。
結婚:15 就職決定:14 帰郷:10 一時収容:5 就職希望:4 合計:48
(※(東)岡町の方は次のネタ温存のために省略w)

なお郡山署では売防法の全面実施により、特料業者の偽装転業の防止と料理屋営業の売春取締のため、西田署長総指揮のもと(中略)、先月関係者の参集を求めて西田署長より
1.時間外営業の禁止 2.客引き行為の禁止 3.芸妓の明花禁止 4.芸妓置屋の同一家屋内の兼業禁止 5.風俗営業者の売春禁止
を警告、各業者はこれを諒とし、
1.料理店、貸席、小料理店の営業は11時まで 2.客引き行為を行わない 3.明花の禁止 4.芸妓を住居させている置屋は、直ちに他の住居を求める 5.売春行為は絶対させない
の五項目を申し合わせた。

(昭和33年3月9日号)



また、売防法が国会で可決された時期の新聞は、

消える岡町・洞泉寺特料店
売春撲滅を疑う一般市民 業者は悪法と反対、暫く静観


という見出しで記事を書いとります。
これは長いさかい省略するけど、当時の洞泉寺遊郭の組合長のコメントは、

悪法であると反対である。従来からも私達は営業を醜業と思っていないし、業主と接待婦はあくまで一対一だ。
今度の立法によって真面目な業者は廃業するが、法を恐れぬ無茶者によって依然同じことが行われよう。一番悪い婦女誘拐、タコ部屋など今でもあるがこれらのものが増加しよう。
母と高・中小学生を持つ接待婦は子供を教育したいために働き、1ヶ月最低1万円を送金している。この人が接待婦を廃めねばならぬということは自由意志の束縛、人権蹂躙である。
(中略)この結果一般婦女子に対する性犯罪の増加も考えられる。市全体としては毎日5,60万円の金が落ちていたから他の業者も営業が大きい。



とあります。
まあ、冷静に見ると屁理屈なとこもあるけど、最後の「経済的損失」はある意味ホンマで、郡山は赤線と持ちつ持たれつで「色税」で財政が潤ってたという話もあるし、
この新聞記事の市長のコメントも「赤線が廃止になる。市のクリーン化のため大賛成\(^o^)/ 」と大手を振って売防法歓迎やなく、「人道上やむを得ない法案ではあるが」と前置きしながら「現実的に見て市の経済的利益面では(赤線の廃止は)痛手だ」と述べていて、
法律のプロの弁護士も「(法案を通した)婦人団体の筋書き通りの効果は得られない。完全に実行されるには人間の道徳的・経済的向上を必要とするが、人間は神にはなれない」と看破しとります。
まあこれが本音でしょう。せやけど、ローカル新聞とは言え市長も弁護士も正直やな(笑

でも、4月1日の売防法全面施行を前に、洞泉寺遊郭は3月15日をもってその幕を閉じることになります。
結果から言うたら、東岡遊郭はその後も、年号が平成になるまで「モグリ営業」を続けることになるんやけど、
(くどいよーやけど、詳しくは「東岡町遊郭編」で)
売防法を「悪法だ!」「遊郭は醜業とは思っていない」と全面反対した洞泉寺は、立つ鳥跡を濁さずかきれいさっぱりなくなってしもたみたいです、在りし日の建物を遺して。


11090601

JR大和路線の郡山駅から西へ向かって歩いて7~8分ほどで、江戸時代は市街地(城内)と郊外(城外)を分ける堀を埋めた大きな道に出るんやけど、
そこからひっそりと遊郭建築が見えたりします。
ここが元々は紅い灯が夜な夜な光る夜の街やったことを知っとる人は、地元以外で知る者は少ないでしょう。


11090602

大きな道の国道108号線から遊郭の入口に入ると、隣は交通量が多い道路なのに関わらずシ~ンと静かになり、
流れてる空気すらも変わることが体で感じました。
遊郭・赤線の灯が消えて数十年経つというのに、ここはまるで時間が止まったかの如く。
画像の端に地図を載せておいたけど、赤い矢印は「この方向に写真を撮りました」ということです。
この道の端には、町の名前にもなった洞泉寺と源九郎稲荷神社があります。


11090603

遊郭跡に入っていきなりお出迎えは、遊郭時代からの生き残りと思われる建物。
2階建てのよーに見えて実は3階建てな感じ、道の狭さもあいまってかなりの威圧感があります。

11090605

11090606

建物の3階建ての迫力もすごいけど、よーく建物を見たら装飾が細かったりします。
この格子を見ただけでも、「これかなり金かけとるな」と思えるよーな格子の細やかさ、
上に残ってる電灯(?)が余計に趣を醸しだしたりしとります。


11090607

11090609


遊郭入口から洞泉寺へと続く道には、当時の建物がもう2軒残ってたりします。
ここも、格子といい2階部分の丸い明かりといい、当時の雰囲気を色濃く残しております。
まるで、夜になったら明かりがついて「営業」しそうなくらいに。

11090608

ここはどーやら現役の民家として使われとるみたいで、会社のオフィスになっとります。
ドアが少し痛々しいけど、まだまだ現役で使ってくれそーです。

11090610

道の突き当たりのお稲荷さんから、来た道を写したもんです。


11090611

違う道に入ると、この洞泉寺遊郭はまた違う顔を見せます。
とにかく道が狭い所に木造3階建ての建物、当時は道の両脇にこんな建物があったと思うさかい、
その「威圧感」たるやすごかったことでしょう。
東京とか大阪とかの都会ならさておき、地方で3階建ては戦前は「高層ビル」のよーなもんやったさかい。
この写真の奥に見える木造3階建ての建物は・・・


11090612

当時の俺のカメラじゃ収まりきられへんくらいの横幅と縦幅、これはとんだ大妓楼。
ここは「旧川本邸」と言うて、11年前に大和郡山市が「文化的価値あり」と主がおれへんよーになった妓楼を買い取って保存しとります。

そして、この「旧川本邸」のシンボルと言えるもんが・・・

11090613

ハートマーク

これはあまりにも有名な「あれ」、遊郭・赤線に興味がある人で本の中の写真も含めてこれを見たことがない人はモグリ、もうちょっと勉強した方がええよ、っちゅーくらい有名すぎる「ハート」なんやけど、
和風な建物にこのアンバランスなハートが余計にこの建物の個性を際立てとると思いますわ。
せやけど、老朽化のせいか、メンテがロクに行われてへんせいか、ハートマークの一部が剥がれてちょっと痛々しい・・・。

で、洞泉寺遊郭跡に残る妓楼でも最大級の「旧川本邸」、実は中に入って写真に収めるチャンスを得て、中に潜入して参りました!
中は・・・すごい!

すごい!!

すごい!!!

もう「すごい」しか言葉が出ーへんくらいの「とんだ大妓楼」でした。
そしてその中は↓














意地悪なことに続く(笑



次の「予告編」は、

11090617

この「旧川本邸」の中を大航海・・・やのーて大公開します。

このブログが参考になったり面白いと思ったら、立ち去る前に
↓の「拍手」を押してくれたら幸いですm(__)m
スポンサーサイト

テーマ:消えた遊廓・赤線の跡を訪ねて
ジャンル:ブログ

コメント

■ Re: はじめまして

>アラレさん

はじめまして、うちのブログをいつもご覧いただいておおきにですm(__)m
とりあえずネタが多すぎて手が付けられない状態ですが、
まだまだネタはたんまりあるので(笑

洞泉寺にしても東岡町にしても、まるで「遊郭遺跡」のように雰囲気まで真空パックのように残ってますね。
実は郡山の前に奈良市の木辻遊郭跡にも行ったんですが、木辻がほとんどの建物が壊されてハズレやった分郡山が余計に印象に残っとります。
東岡町は・・・あまり期待しないで下さい(笑
2011/09/11 URL BJのぶ #qDfdtOiE [編集] 

■ はじめまして

こんばんは。いつも楽しく見させていただいてます(^-^)
大和郡山の遊廓は実にリアルで雰囲気とかすごく好きなんですよ。
なので東岡町も楽しみにしてます(^O^)
2011/09/10 URL アラレ #- 

■ コメントの投稿










トラックバック

≫ http://parupuntenobu.blog17.fc2.com/tb.php/869-9326b64b
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)