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BEのぶ

  • Author:BEのぶ
  • 自称「ブログエッセイスト」ことBEのぶです。
    昭和史をライフワークにしていますが、平成ももうすぐ30年経ち、昭和が遠い過去になりつつあります。
    昭和も遺産・遺物を探れば立派な「考古学」となります。題して「昭和考古学」。ジャンルは遊郭・赤線跡から鉄道、そしてすっかり忘れ去られた歴史を掘る「昭和の考古学者」として、昭和の名残りを通して考察する旅を続けています。

    基本は標準語で書きますが、エッセイは大阪弁で書いていきます。

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■■■下関彦島遊郭 消えた遊郭・赤線跡をゆく28 

下関の遊郭は、前にも書いた

・新地遊郭

・豊前田遊郭

・稲荷町・裏町遊郭


の他にも、今浦町竹崎町にも遊郭があって、これだけでも街中遊郭だらけな感じさえ想像できる始末。
それだけ下関が海上貿易の要として栄えとったってことの証明やけど、

下関の遊郭はまだこれだけやなかった!

と言うたらどないします?
実は、下関市立図書館であれこれ資料を漁ってたら、時代によって多少・大小はあるにしても、他にも遊郭があったことが判明しました。
一体何ヶ所あんねん!?と呆れたくもなってくるくらいやけど、
下関の遊郭は格式高い稲荷町や、今でも建物が残っとる新地遊郭などが知名度高い裏で、
あまり知られてへん(!?)遊郭も存在しとりました。

11080101

その「隠れ(?)遊郭」があったとこは、下関の端っこにある「彦島」。
今はほとんど陸続きになっとる上に、九州へ向かう山陽本線がさりげなく通っとるさかい、ジモピーやなかったらここが本州とは離れた島ってことに気づく人は少ないけど、
よーく見たら確かにここは島ですな。俺も気づかんかった(笑

俺が持ってるいちばん古い資料の「山口県統計書」の明治15年版の遊郭一覧を見てみたら、

長門国赤間関区彦島福浦

同国同区同南風泊港

っちゅー文字が見えます。
それぞれの数字は、

・福浦:貸座敷数7軒、娼妓数121名

・南風泊港:貸座敷数3軒、娼妓数32名

となっとるんやけど、
同時期の新地遊郭が3軒/18名、豊前田が19軒/296名、稲荷町が13軒/32名(他芸妓34名)やさかい、
彦島の福浦遊郭は無視できへんよーな規模やったと思われます。
福浦も南風泊港も、今のGoogle mapを見てもわかるよーに港町にあったりします。
昔は帆船が中心やったさかい、風向きによっては何日も港に滞在せざるを得ません。
そういう船夫や漁師向けの遊び場に遊郭が開かれとって、そういう人たちで栄えとったと推定できます。

それが一気に飛んで大正元年になったら、
福浦:貸座敷4軒/娼妓数16名
と以前の繁栄はどこへやら?って感じになっとります。
明治15年にあった南風泊港遊郭の名前はなく、「竹ノ子島」って表現されとるけど、
その「竹ノ子島」の遊郭もほとんど開店休業状態、遊郭免許は失効してへんさかい載せとくか、って程度です。
滅びそうで滅ばへん福浦遊郭は、

大正3年:貸座敷4軒/娼妓数10名/芸妓1名
大正6年:貸座敷数5軒/娼妓数4名/芸妓1名

と、徐々に衰退していっとります。
衰退した原因はどうも福浦地区にあった三菱造船の造船所が移転したから、と『関の廓繁盛史』っちゅー本に書かれとりました。

ここで気になるんが、明治15年の「南風泊港」と「竹ノ子島」が果して同一遊郭なんか、それとも全く別の遊郭なんかということ。
そこで、昭和4年の内務省警保局(今の警察庁)の内部資料と思われる全国遊郭一覧の山口県のとこを見てみたら、
「南風泊港」と「竹ノ子島」が別々に記載されとりました。
ということは、遊郭の許可は「南風泊港」と「竹ノ子島」とは別々やってことか?
それはわからんのやけど、この内務省資料では福浦遊郭も含めて「データなし」状態になっとって、事実上免許だけ残して滅亡したと思われます。

はい、おしまい・・・


* * *
・・・なわきゃーない(笑

彦島の遊郭の話はこれで終わったわけやありません。
確かに、たぶん江戸時代からあったと思われる彦島の遊郭は、昭和初期にゃ歴史から消えとるんやけど、
その分栄えた「私娼街」があったことがわかりました。
この私娼街は警察や都道府県が管理する遊郭やないさかい山口県などの公式の統計書などにはなく、上に書いた内務省警保局の内部資料から明らかになったもの、
こりゃジモピー以外ほとんど知られてへんのちゃうかな?と思ったりします。

その私娼街があった場所は、江ノ浦という所。
なんでそんなとこに?というと、福浦地区にあった三菱造船の工場が大正3年(1914)にこの江ノ浦に移転したことから始まったと思います。
それと同時に遊郭も移転・・・といきたいとこやけど、
遊郭新設の許可は人権意識の高まりもあってこの時代にはほとんど下りず、たぶん申請はしたとは思うけど許可が下りへんかったと思われます。
それで、いわば「モグリ遊郭」な私娼街が出来たと推定しとります。

私娼街は大正時代から昭和にかけてかなりの数があったみたいで、
素人から見たら「やってることは同じ」やさかい、遊廓と混同してまう人が多いけど、
「私娼街」は厳密に言うと遊廓やありませぬ。やっとることは変わりないんやけど(笑
で、俺の研究によると、私娼街は大きく2つに分けることができます。

1.自然発生的私娼街

これは東京の玉の井や亀戸が典型的な例で、タテマエ上は「普通の店」がある地区に自然発生し、いつの間にか私娼街になってたタイプです。
鳥取県の米子の、今の米子駅近くにあったっちゅー「南新地」と呼ばれた所や、戦後赤線になった横須賀の安浦町も、詳細は全然ないけどこのタイプと思われます。
ちゅーか、たぶん戦前にあった私娼街のほとんどはこのタイプ1やと思います。

2.行政主導型私娼街

これは、遊郭を新設したくても時代の流れや廃娼運動家の目があって出来ない、それやったらハードルが低い「県営私娼街」を作ってしまえ、というパターン。
表向きは私娼街やけど、実質は遊郭と何の変わりもないのが特徴で、俺はこのタイプ2を「准遊郭」という造語で表現しとります。
全国で唯一明治時代から遊郭なしの群馬県の前橋や高崎などにあった私娼街や、前に紹介した鳥取県の倉吉境港がいい例で、和歌山県にあった・・・というか今でも現役の「天王新地」も軍の要請で作られたと言われとるさかい、このタイプに入ると思います。
また、本音はさておき建前上は「三業地」やった大阪の今里新地、港新地もこれに入れていいんちゃうかな?と思います。


この私娼街が戦後になって赤線に「格上げ」された例も多く、福岡の大浜町や今は北九州市の戸畑も戦前から私娼街として記録に残っとる所であります。
そして本題の下関彦島の江ノ浦はどないやねんというと・・・
これはあくまで推定やけど、福浦の遊廓免許を上客がいっぱいおる造船所と一緒に移転しよーとしたけど、
地元の反対か何かがあって諦めた。
(せやさかい、昭和になって事実上「全店廃業」の状態になっても免許は残って警察の記録にゃ残ってる)
せやけど、結局「需要あるとこに供給あり」っちゅー資本主義の原則のもと、江ノ浦に福浦の業者が集まって私娼街が自然発生した、福浦は商売にならんさかい放棄した、
と考えるんが自然ちゃうんかな~?と。

その江ノ浦の資料は、何せアクシデント的に見つけたさかいほとんど資料はないんやけど、
とりあえず昭和4年と8年の資料を見つけてきたさかい載せときます。

◎昭和4年(1929)
お店の数(明らかに密売淫を行ってると思われる店):47軒
私娼数:199人

おまけ:同時期の玉の井のデータ
店数:497軒
私娼数:901人

(ソース:内務省警保局のデータ 昭和4年末現在)


◎昭和8年(1933)
お店の数:38軒
私娼数:200人以上

(ソース:『関の廓繁盛史』)


正直、「本土」の新地遊郭や豊前田並みに栄えとることが数字を見てもわかります。
恐らく、戦争に向かって行く昭和の時代、造船業界は好景気続きで従業員の財布のヒモも緩かったやろーと思うさかい、
それなりに栄えとったと思います。
実際、全国の私娼街で私娼数150人を越えたとこは意外に(?)少なく、玉の井と亀戸はダントツの多さとしても、
彦島はそこらへんの中遊郭くらいの規模があったと思われます。
私娼街が「私娼の街」たるゆえんは、数字はこう出てるけどこれが絶対やのーて、「実数は神のみぞ知る」っちゅーこと。
上に挙げた数字はあくまで「100%密売淫しとる」ちゅーとこで、まともな飲み屋か食い物屋なんか、それとも「モグリ」なんかわからん、いわゆる「曖昧屋」も含めたら、ヘタしたらこの1.3~1.5倍の実数はあったんちゃうかと。

そんな江ノ浦も、戦争の激化で造船所がアメリカ軍に狙われるせいか、他の遊郭の例に漏れず強制疎開の対象になり、
戦後もわずかに復活したそうやけど、記録にもほとんど残らんまま消えてしもたそうですわ。
「消えた遊郭・赤線跡」やなくて「消えた私娼街」になってしもたみたいやけど、
記録にほとんど残ることがあらへん私娼街は下関にもあったってことだけでも儲け物やろ!?


いつもやったら、ここから「平成23年の現在はどないなっとるでしょう」が続くんやけど・・・
















すみません、行くの忘れてました!(笑

さんざん引き伸ばしといて、オチはこれかい!!!ってツッコミが来そうでんな(笑

日程がキツキツやったせいもあるけど、
彦島に遊郭があったって知ったんは現地で調べてからやさかい、
どうしても行く時間の余裕が・・・。

と言い訳はさておき、
下関や九州におる同志諸君、これは宿題にしときます( ̄ー ̄)9m


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テーマ:消えた遊廓・赤線の跡を訪ねて
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2012/08/31   # 

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