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BEのぶ

  • Author:BEのぶ
  • 自称「ブログエッセイスト」ことBEのぶです。
    昭和史をライフワークにしていますが、平成ももうすぐ30年経ち、昭和が遠い過去になりつつあります。
    昭和も遺産・遺物を探れば立派な「考古学」となります。題して「昭和考古学」。ジャンルは遊郭・赤線跡から鉄道、そしてすっかり忘れ去られた歴史を掘る「昭和の考古学者」として、昭和の名残りを通して考察する旅を続けています。

    基本は標準語で書きますが、エッセイは大阪弁で書いていきます。

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■■■松田優作と赤線の足跡をゆく 消えた遊郭・赤線跡をゆく特別編 

東西南北の人が集まり通っていた下関には、その数だけ人間ドラマがあるって言うても過言やないでしょう。
遊郭に通う人たちも、何も現地の人だけとは限りません。
下関をトランジット(通過)するだけやけど、次の移動待ちの間にフラリと赤いランプに導かれて女のブラックホールに吸い込まれる・・・。
そんな男達もいっぱいいたはずです。

今回は、そんな男と女の色を見て育った、ある男の生涯を追ってみましょう。

下関には、以前紹介した遊郭の他にも遊郭が存在しとりました。
その名は今浦町
今でもそのまま地名は残ってるんやけど、男は終戦直後の男と女の本性が渦巻く、丘の上にある町で生まれました。
父親は長崎からやってきた妻子持ちの男、女は今浦町で質屋を営む戦争未亡人。
普通に暮らしていればまず交わることがない二人は不倫の関係になって結ばれ、やがて女は男の子どもを身ごもり、出産します。





松田優作と赤線の写真

時は昭和24年、のちの松田優作の誕生でした。
母親の松田かね子は生活のためか、質屋業の他に自宅の2階の小部屋を遊郭の女性に貸す商売も始めていて、
物心ついたばかりの優作少年は、厚化粧の女たちが見知らぬ男を連れて来ては奥で「何か」をしている、そんな姿をはっきり覚えていたそうです。
そして、母親も同じく常に見知らぬ男が傍らにいて、その時のことをこう語っていました。

もう、イヤでしょうがなかった。なんなんだろうおれは。
生まれてこない方がよかったんじゃないか。
男が来るっていう時はカギかけて、入ってこられないようにして、
そうすると、おふくろが上から降りてきて”バシッ”と
ひっぱたかれたりして・・・・。

おふくろは、女をやめていなかった。



母親が母親ではなく一人の「女」になる、これが優作少年の中に刺のように突き刺さっていたことが伺えます。

そのせいか、小学校時代の優作少年は荒れ放題で、クラスメートも彼を遠ざけて友達もほとんどいない状態だったそうで、
更に追い打ちをかけたのは、松田優作には兄が二人おったんやけど、優作は兄と父親が違っとったということを知ったことでした。
更に、自分の父親はフラっと現れた名前も知らない男・・・。
彼の心に余計に傷がついたのは想像に難くないでしょう。
高校に入って彼は現実逃避するようにアメリカの叔母を頼りにアメリカに渡るものの、ホームシックや叔母の離婚もあって無断で帰国します。
せやけど、そんな彼に帰る家はもはやなし、仲が良かった兄を頼りに東京へ渡ります。
高校を卒業して関東学院大学へ進み、そこで才能を認められてそのまま俳優への道を進んで、それからの人生は俺が書くまでもないと思うけど、松田優作って、何か雰囲気に「暗さ」があって、目も何か訴えかけるような「寂しさ」があったよーな感じがしたんやけど、これも幼少期に見た「現実」を見てしまった心の刺のせいかもしれませんな。
幼少期の経験って、自分の頭の中には残ってへんかもしれへんけど、潜在意識の中にはくっきり残ってるのか、「三つ子の魂百まで」って使い古された言葉は真理なんかもしれません。

遊郭という特殊な街角で生まれ、そして自分の母親が「女」として体を売るのをこの目で見てきた現実、そして父親を知らない私生児として、在日韓国人として、様々な葛藤とコンプレックスが複雑に絡み合い、あの雰囲気とスタイルが出来上がったんかな、と。
たとえそれは、結婚して子供に恵まれ、「普通の家庭」を持ち「普通の父親」になっても尾を引いていたのかもしれません。

いつもなら今浦遊郭の話を、数字を交えながら書くんやけど、今回は余計な数字はええでしょう、特別編やし(笑

松田優作が生まれ育った遊郭街、今浦が今どうなってるのかをメインに書いてみようと思います。

* * *
松田優作が生まれた下関今浦町

「今浦町」の地名は、平成23年の現在でも残っています。


松田優作と遊郭今浦町の現在

今の今浦町の街並みです。
今浦町は、前に紹介した新地遊郭とはほとんど隣町と言ってええくらい近く、これも新地遊郭に行った「返し刀」的な感じなんやけど、
新地遊郭跡と違ってめぼしい建物とやらはほとんど残ってへんみたいで、どこにでもあるよーなごく普通の街並みになっています。
ここが遊郭・赤線やったってことは、他のとこもそうやけど、今を見ると信じられないくらい静けさを保っています。


今浦町に残る赤線時代の建物

そん中で、唯一古そうな建物を発見。
タイルなとこは戦後の赤線時代のかもしれへんけど、これがそうやという確証はありまへん。
でも、周りの建物と比べて明らかに「古い」っちゅーのは、実際に目の前にしてもそうやとは言えますわ。


松田優作の生家付近

松田優作の生家あたりの写真です。
情報によると、写真左の建物の奥あたりが松田優作の生家で、彼を偲ぶファンが今でも訪れるとかいう話を聞いたんやけど、俺が行った時は特に目立ったものも、もちろん「ここが松田優作の生家です」って標識ものーて、結局どこが生家なんかわからずじまいでした。
「生家は数年前の火事で焼けた」って情報もあるし、もうよーわからん(笑


松田優作の生家の裏にある小道

上の写真の裏にある裏街道に行ってみたら、ここがいちばん昔の遊郭・赤線時代の雰囲気が残っとるような感じがしました。
こんな細道をフラフラと歩いてると、女の化粧と酒の匂い、窓から手招きする女性の姿、そんな在りし日の過去が蘇ってくるような感覚さえ覚えました。
少年期の松田優作が目にした光景、それは女が女を武器にして女を売る、そんな「女の街」の一シーンが毎日のように繰り広げられる映画のような、でも出来れば映画だけであって欲しいようなものやったんかもしれません。


竹崎町の大坂屋食堂

今浦町からは離れてるんやけど、同じ遊郭があった竹崎町の「大阪屋」という食堂です。
大阪から来たという夫婦がやっていた食堂で、幼い時の松田優作がよく通い、有名になってからも下関に立ち寄った時は必ずここでチャンポンを食べていたという所らしいけど、
俺が立ち寄った時は暖簾が片付けられ、前には「しばらく閉店します」の張り紙が・・・_| ̄|○
ググってみてもチャンポンが美味そうやったのと、ここって竹崎遊郭跡のど真ん中にあるさかい、
優作抜き+竹崎遊郭の今を調べるために寄ってみたんやけど、時既に遅しって感じやったか!?

ついでに竹崎遊郭のことも書いとくと、ここは他の遊郭と違ってバリバリの「現役」であります。
行った時がちょうど夕方やったせいか、店の入口にゃ客引きのおっちゃんが立ってて、ちょっと写真が撮れた雰囲気やなかったさかい、写真は「大阪屋」の1枚だけ。
ま、めぼしい建物も残ってへんかったさかい、特にカメラ出そうかなーっちゅーことも、この大阪屋以外はなかったですわ。

以上、ウダウダ続いた下関編もそろそろお開きとなりました。
次は・・・ついにBJのぶ、海を越えます(笑


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テーマ:消えた遊廓・赤線の跡を訪ねて
ジャンル:ブログ

コメント

■ 

松田優作で検索しててたどり着きました。

私は下関市出身で、竹崎とかは中学の学区内でしたが自宅は真逆だったのでよくは知らないのですが。。

二階の窓の外側に、少し出っ張った手すり?みたいなのが木でできてて、それがついてる古い家はだいたい遊郭だった家で窓から身を乗り出したりして女がでていたと聞いたことはあります。

私は松田優作の息子世代なので差別とかなかったですが、親世代は「あの地域の人間と関わるな」と言われていたそうです。

2013/09/19 URL パンダ #- 

■ Re: 著名人と赤線

>アベチャダさん

> あの福田和子被告も松山市内の赤線育ちだったそうです。具体的にどこかは不明ですが、母親が売春宿を経営していたことは間違いないよう。あと、石橋蓮司さんも赤線育ちらしい。

石橋蓮司さんは初耳ですけど、福田和子被告はなんとなーくそんな話を聞いたことがあります。
というか、そんな雰囲気を醸し出してたというか。
他には、木の実ナナも鳩の街出身だし(実家はその中の民家ですが)、有名なところじゃ落語家の桂歌丸さんが「自分は横浜の遊廓の置屋の出身」ってテレビでも言ってますね。若いころは女の化粧の真似を得意芸にしてましたけど、ごっついリアルであれは幼い時に見た遊女たちの「出陣の準備」が元ネタやったんでしょう。
関東ローカルで関東に旅行に行った時に偶然見ただけですけど、歌丸さんが真金町で「ここに遊廓があってね」「ここになんとか楼っていう大きな置屋があってねー」とある意味テレビで「消えた遊廓の跡をゆく」をやってましたよ。

昔の人は、遊廓や赤線に行くのは特に抵抗がなかったんか、野球の川上哲治さんは洲崎によく行ってたって言ってるし、野村克也さんも、本人は行ってないと言ってますが、下積み時代に先輩選手が試合後に赤線に行ってて、「お前も行くか」って誘われたって本に書いてます。
「昭和史」とくればこの人という作家の半藤一利さんも、本で加藤芳郎さんとかと対談で赤線のことを語ってますし、
作曲家の小林亜星さんは全国の赤線を渡り歩くのが趣味みたいで、それを書いたエッセイがけっこう参考になったりします。でも亜星さんの記述はどうも勘違い・記憶違いが多いので、『全国遊廓案内』並みに批判的に見た方が多いですけどね。
吉行淳之介も、当時の交友があった作家で赤線に「いくら誘っても行かなかった」のは阿川弘之くらいだった、と書いてるくらいなので、みんな作品のネタも兼ねて行ってたんでしょうね(笑

遊廓・赤線と今の風俗は何が違うのか、何でそこまでみんな通い詰めたのか、と考えてみたんですけど、
半藤一利さんが「昔の赤線は『雅』があり、女との濃い交流があった。今の性風俗はコンビニ化して面白くもなんともないと思う。今の風俗は金出しても行きたくないですね」とかなんとか書いとって、それがヒントになるかなと思ってます。
もう、正直、合法化しちゃって「お泊り」なんかを復活させたらええのに、と強硬論を述べてみます。
お泊りって一回やってみたいんですよね~(笑
2012/09/03 URL BJのぶ #- 

■ 著名人と赤線

松田優作さんが昭和のスターであると同時に、赤線も昭和の遺産ですね。著名人とは言い難いのですが、あの福田和子被告も松山市内の赤線育ちだったそうです。具体的にどこかは不明ですが、母親が売春宿を経営していたことは間違いないよう。あと、石橋蓮司さんも赤線育ちらしい。
2012/09/03 URL アベチャダ #- 

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