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BEのぶ

  • Author:BEのぶ
  • 自称「ブログエッセイスト」ことBEのぶです。
    昭和史をライフワークにしていますが、平成ももうすぐ30年経ち、昭和が遠い過去になりつつあります。
    昭和も遺産・遺物を探れば立派な「考古学」となります。題して「昭和考古学」。ジャンルは遊郭・赤線跡から鉄道、そしてすっかり忘れ去られた歴史を掘る「昭和の考古学者」として、昭和の名残りを通して考察する旅を続けています。

    基本は標準語で書きますが、エッセイは大阪弁で書いていきます。

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■■■下関豊前田遊郭 消えた遊郭・赤線跡をゆく26 

お待たせしました!?
『消えた遊郭・赤線跡・・・・』
あれ?しばらく書いてへんかったせいか、それとも疲れとるんか、
自分のブログのメインメニュータイトル忘れてしもたわい(汗
ちなみに、これ別にボケたんやありません、書いとったらマジで忘れてしもたんです・・・。
そろそろ俺にもお迎えが・・・まだ早いわい!(笑

まあそれはさておいて、下関新地遊郭に続く「シリーズ下関」の第二弾は、
今の豊前田町にあった豊前田(ぶぜんだ)遊郭でございます。

突然やけど、ここでちょいとひらめいた小咄を。

「豊前田の遊郭に行っても勃たなかったんだよ・・・」

「そりゃおめぇー、勃起ぶぜんだ(不全だ)!

・・・失礼致しました(笑

そんなダジャレはさておいて、次はマジメに書きます~。

* * *
豊前田の歴史は江戸時代までにさかのぼるんやけど、江戸末期には細々としとった船宿街やった豊前田に一大転機が訪れるんは、明治34(1901)年に下関駅が開業したことでした。
書物やネットの情報やと、豊前田遊郭が開業したんはその下関駅が開業した明治34年って書いてる所もあるけど、
明治15年の『山口県統計書』にゃ遊郭として豊前田の名前があるさかい、それ以前には既に遊郭として存在しとったことは確か、「発展した」んが明治34年以降ってことでしょう。

当時の下関駅は今の駅とは位置が違っとって、今の位置になったんは関門トンネルが開通した昭和17(1942)年のこと、当時は門司駅(今の門司港駅)との連絡船との関係でもっと海沿いにありました。
いつものよーに、統計データから豊前田遊郭の変遷を見てみましょう。

★明治16年
・娼妓数:351人
・貸席数:19軒
・芸妓数:35人

★明治45-大正元年
・娼妓数:127人
・貸席数:26軒
・芸妓数:147人

★大正4年
・娼妓数:122人
・貸席数:27軒
・芸妓数:145人

(ここまでのデータ:『山口県統計書』)

★大正13年
・娼妓数:101人
・貸席数:44軒
・芸妓置屋数:45軒
・芸妓数:281人

(データ:『下関市統計書』)

★昭和4年
・娼妓数:72人
・営業者数:26人


(データ:『昭和4年における内務省警務局調査』)

豊前田遊郭は、下関駅から立地条件的に「最寄り」になるさかい、もっと栄えとってもええはずで、
「下関一の大遊廓」って書き方もしとる書物やネットのサイトもあるけど、
あくまで統計の数字だけ見たら、前に紹介した新地遊郭の方がはるかに栄えとることがわかります。
というか、下関駅ができて発展したんは新地遊郭の方なんは、数字見ても明白やと思うんやけどな~。
同じデータ使っとるさかい、新地遊郭編の数字と見比べたら一目瞭然・・・いや、芸妓の数は豊前田の方が多いですな。
せやさかい、どうも豊前田の方が下関駅から近い分、「花街」の要素も加わって、新地遊郭の方は純然とした(?)遊廓みたいな感じやったんかな?と勝手に想像したりします。
せやけど、下関にゃ格式が非常に高い「稲荷遊郭」が存在しとるさかい、豊前田の芸妓はそれより格下みたいな感じやったかもしれません。

それを物語る新聞記事を、これまた下関市立図書館から発掘して参りました。

芸妓の山陽ホテル出入り禁止 

山陽ホテルでは芸妓のホテル出入りを禁止した。この決定に抗議するために稲荷町と裏町両遊廓の芸妓が稲荷山に集まり、対策を協議した。
「関の芸妓と鰒(ふぐ)汁は家も生命も取りません」と唄われた妾(わたい)らを馬鹿にするもんじゃおまへん。何処のホテルにも芸妓の入らぬホテルはない。人を馬鹿にするものじゃおまへん。今に見ていなはれ。けったいなと山陽ホテルに抗議し勝利する作戦を計画中。

(馬関毎日新聞 明治44年3月3日)



下関やのになんで芸妓のコメントが関西弁やねん!?って疑問はさておいて、
これだけ見たら、下関駅前にあった今で言う五つ星ホテルの山陽ホテルの格式と、伝統を誇る稲荷・裏町遊廓の格式がぶつかった小競り合いなんやけど、
山陽ホテルから最寄りの豊前田の芸妓が全く無視されとることに注目。
普通やったら、豊前田の芸妓も巻き込んで共同戦線を張ったらええはずやのに、この新聞記事にゃ豊前田の「ぶ」も出てきませぬ。
要するに、稲荷・裏町遊郭の芸妓にとっちゃ「わざわざ『二軍』の力借りるまでもない」と格下と見とったかもしれへんし、
豊前田の芸妓も抗議の声を挙げへんということは、下関一の高級ホテルやった山陽ホテルに出入り出来るんは稲荷・裏町の『一軍芸妓』だけやった、ちゅーことと想像できます。
要するに、『マイナーリーグ』の豊前田芸妓は蚊帳の外ってことですわな。

ちなみに、この事件は山陽ホテルが意地を張って(?)方針を貫いたそうな。

ところで、「客」の観点から遊郭の数字を見たら、非常におもろいことがわかります。
下関市立図書館で手書きでメモった、下関の遊郭の客の数の統計を下記してみたら、

★明治34(1901)年 (※下関駅が開業した年)
・豊前田:18,124人
・新地:13,338人
・稲荷町:17,375人

★明治35(1902)年
・豊前田:19,002人
・新地:13,564人
・稲荷町:19,532人

★明治36(1903)年
・豊前田:41,569人
・新地:41,268人

・稲荷町:6,610人

★明治38(1905)年
・豊前田:38,393人
・新地:36,740人
・稲荷町:7,632人

ここで注目すべきは、明治35年と36年での客数の違いで、豊前田と新地は客数が3倍から4倍に激増しとります。
対して、格式が高い稲荷遊郭は客数が遠のいて前年比3分の1。
明治38年にはちょっと客足が減ってるけど、明治38年言うたら日露戦争が起こって日本がイチかバチかの勝負に出た年、
国難に「遊郭でお遊び」なんて言うとる場合やなかったのと、「お客様」がみんな戦場に行ってしもたせいでもあります。
それにしても、この明治36年にゃ一体何があったんか?この激増ぶりは異常やさかい「何か」があったことは確か。
せやけど、俺の不勉強によりそれはわかりませぬ、誰か教えて(笑


この豊前田遊廓には昭和初期「下関一の廓」と言われた、
『金波楼』
っちゅー伝説の妓楼がありました。
『金波楼』は九州小倉から下関にやって来た小林清氏が昭和2年に建てたもんで、
その3年後にゃ「下関一の廓」と言われたくらいの隆盛を誇っとったそーです。
何でたった3年でそこまでやれたんか?
それには、楼主の小林氏の商売センスと、「格子の中の遊女」っちゅー遊郭の暗~いイメージを払拭させるような仕掛けを作ったことでした。
小林氏はこの遊郭の暗いイメージを嫌って、当時としては常識はずれな超モダンな建物を作りました。
中の浴場は総鏡張り、風呂も牛乳風呂に香水風呂に薬草風呂と、なんか現在のスーパー銭湯を先取りしたよーな設備があったそうです。

そんな『金波楼』に実際に行った(らしい)人の手記(昭和5年)を下関市立図書館で発見したさかい、
そのまま載せることにしましょう。引用はかなり長いけど、当時の「スーパー銭湯」ならぬ「スーパー遊郭」を垣間見ることが出来るさかい全文掲載としましょう。
しばし遊郭へ、70年の時を経たタイムスリップをお楽しみくださいまし。

さすがに下関一と言われる館である。遊女屋独特の「格子の中の遊女」のイメージはどこにも見当たらない。
中からは蓄音機という文明の機械からレコード音楽が流れてくる。
入り口に立って、しばらくためらいながらも中を覗くが女の姿はどこにも無い。果して遊廓だろうか、と思っていると中から、通称「遣り手婆さん」なる人が出てきて、「先ずは内にお入んなさい」と招かれて入って見ることにした。

中に入って又、驚いた。天井からは豪華なシャンデリアなる照明が吊り下がり、奥には池も造られ、滝から水が流れ落ちている。

格子ならぬ小窓から中を見ると、これ又、下関にこれ程美人が居たのだろうかと思われる程、美人揃いである。
ダンスを踊る妓、座って雑談する妓、三十人くらい居るだろうか。
『お気に入った妓がいたら言って下さい』と声がかかった。だが小心者にはまともに見る事が出来ない。品定めは彼女らがしている様に思われ目のやり場がない。話を外らして、料金を尋ねて見た。下関一の廓であれば高い事は判っているが…。
すると「時間で1円50銭で、お泊りなら9円70銭です。」と多少他より高い程度である。その頃、米が1石(150kg)33円である。
給料が30円、背広三ツ揃誂えで40円である。
即ち、泊りで米50キロかついで来る様な計算である。

(※ちなみに、当時と全く同じ時期の主な物価は、
・帝国ホテルのシングル:一泊8円
・東京の食堂の親子丼:50銭
・松下電器(今のパナソニック)製懐中電灯:1円90銭
・瓶ビール1本:42銭
・ツムラのバスクリン(150g):50銭(というか、バスクリンってこんな時代からあったんか…)
・慶応大学の年間授業料:120円
・総理大臣の月給:1000円(年棒制で12000円

こんな感じで比較したら、当時の遊廓の値段が簡単に想像できると思います)


思案していると「先ずお二階へ上がって下さいよ」と言われ、案内されるまま後について二階へ上がった。
これ又、豪華である広い廊下はロビーでもあり応接セットが置かれている。更に奥には洋室の応接間がある。廊下の周りは一戸一戸趣向を変えた独立した客室で、それぞれ入口は格子戸があり、他の遊廓の様な襖一枚で仕切られた四畳半の女郎部屋のイメージは全く感じられない。
「お客さん、ここに下の妓を交代に上がらせましょうか」と言う。ここが面接場なのかと思ったが、どうせ泊るなら部屋の方が良いと言うと、それでは「どうぞ」と部屋に通された。

部屋の中も綺麗に整頓されて居り、この部屋の主の人柄が偲ばれる。
※若し、この部屋の妓が気に入らなければ、気に入った妓の部屋に替わらなければならないのだが、部屋を見ただけで、顔見世せずともよいとさえ思えた。
(※俺註:なるほど、部屋を見ただけで想像できる・・・か。「部屋は人柄を移す」これ名言かも。そして部屋がきちゃない己に小一時間反省しよう・・・w)

暫くすると、格子戸を開く音がして、女性が座って部屋の襖戸を開き、「いらっしゃいませ」と深々と頭を下げている。
やはり思っていた以上に美人であった。見ていると何だか上気して目がかすんで来る様であった。

「先ずはお召し替えなさりませ」
と浴衣に着替え浴場に案内された。
これこそ『金波楼』自慢の「鏡の間風呂」である。この浴場には風呂が素晴らしいので、風呂に入りに来るだけの客もあると言う。天井・周囲は総鏡張りである。
又、その鏡の間は、別府の錦水園を建てる時に、ここに見学して帰ったと言われる。風呂も何種類も有り、徹頭徹尾凝った造りは、ただ驚くばかりである。

部屋に帰ると、羽二重の燃ゆる様な真紅の夜具が整えられ、枕元には水差しと黒檀の煙草盆が置かれていた。
水面を叩く音に、眠りから醒めた。昨夜の彼女の絶妙なる秘技に酔い、つい我を忘れて、回を重ねたらしく、気だるい感じが全身を包む、彼女の姿は既に無い。昔から遊女は客に寝顔を見せてはならないと言われ、睡眠することが許されなかった。
水音と辿って窓辺に立つと、中庭にも見事な日本庭園の噴水が岩を洗っていた。

やがて身つくろいを正した昨夜の君が、お茶と梅干を持って入って来た。
「昨夜は大層、お気張り様で有難うございました。お近い内に又、是非お越し下さいませ」と、「粗品でございますが、昨夜はお陰様で大入となりました。袱紗でございます」とお土産まで頂戴した。
遣り手婆さんのチップ30銭を含めて〆めて10円也。彼女の移り香もそのまま家路についた。

今ぞ知る 昭和の御代の初めには 陸の上にも 都ありとぞ



ホンマは、俺の手元のコピーにゃ「金波楼」の中の写真があって、伝説の(?)「鏡の間風呂」の写真もあるんやけど、
それはちょっと載せるの邪魔臭いさかい本邦非公開。見せなーい(笑
一体どんなもんか、それはこれを読んでくれた方の想像力にお任せしましょう。

そして戦争が起こって下関も空襲に遭い、豊前田地区も跡形もなく焼き払われたらしいけど、
戦後すぐに復活して赤線+飲み屋街として売防法まで栄えたらしいですわ。
遊郭時代のデータとか回想録やったら、面倒臭がらんと探したらけっこうあるもんなんやけど、戦後の赤線のデータになったらプッツリと言うてええくらいデータなし。
東京とか大阪、名古屋みたいな都市級のデータやったらあるんやけど、下関みたいな地方都市になったらほとんど「尋ね人 消息求む」って張り紙したいくらいデータがない(笑
赤線の方が時代が新しいのにこっちの方がデータなしなんて、『遊郭・赤線跡のインディー・ジョーンズ』としては非常に困ったというか頭が痛い問題でもあります _| ̄|○

さて、愚痴はさておいて(笑
赤線がなくなって50年以上が経った、そんな豊前田の今はどないなっとるのか見てみましょう。

11062901

豊前田は今は健全な商店街になっとるみたいで、通称「晋作通り」とも言うよーな。
行った時は土曜やったんやけど、人の流れは下関駅前にできたショッピングモールに移ってしもたみたいで、
混む時間帯や言うのに人通りはそれほどやなかったよーな・・・。

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その豊前田商店街の手前に、いかにも昔からありそーな食堂発見。
こういうの好きなんです、大衆食堂というか何か懐かしさを感じる雰囲気が。昔からそーなんやけど、こういうとこで何故か親子丼を食うのが楽しかったりする(笑

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商店街のメインロードから一歩道を外れたら、今でも飲み屋街が続く一本道になっとります。
風俗とかは今は豊前田町とは下関駅を隔てて逆の方向にあるみたいやけど、なんか匂うというか俺のカンというか、かつての赤線はここにあったかもしれへん、っちゅー匂いがしました。
まあ、それがホンマかどーかは知らんけど(笑


11062904

そんな細道で見つけた、いかにも古めかしい建物その1。
これが赤線時代からの生き残りかは知らんけど、たぶんそういう時代の栄枯盛衰を見てきた建物やと思います。


11062905

見た目は何の変哲もあらへん喫茶店なんやけど、
よ~~く見たら、古くからある建物をリフォームして使っとることがわかります。
全面にある「化けの皮(コラ)」を剥がしたら、何かカフェー建築がベロンと出てきそうな感じです。
上に紹介した『金波楼』の写真も手元にあるんやけど、当時としてはかなりモダンな造りしとって、戦後のカフェー建築をちょっとまともにしたよーな造りであります。
これは『金波楼』の建物を流用したもんちゃうけど、写真を見比べたら何気なく影響を受けとるんちゃうかな?と思ったりして。

11062906

豊前田で見た建物の中で、俺のアンテナがいちばん「ビビビッ」と来たんがこれ。
「なんや、ただの居酒屋やん」とスルーしそうなんやけど、やけに意味深な格子といい、壁の色といい、建物自体のオンボロ具合といい、何かこれ気になるのよね~。

11062907

この建物を逆の方向から写してみたもんなんやけど、
うーん、やっぱし何か匂うなこれ・・・。
せやけど、真実はただひとつ。
そして、この建物は「そうなのか、それとも否なのか」の選択肢は二つのみ。
とりあえず、わからんからペンディングということにしときましょ(笑

というわけで、豊前田編は終わりです。
せやけど、まだまだ「下関シリーズ」のネタは続きます。 

他の下関遊郭シリーズもどうぞ!

消えた遊郭・赤線跡をゆく 下関新地遊郭編

消えた遊郭・赤線跡をゆく 下関稲荷町・裏町遊郭編

消えた遊郭・赤線跡をゆく 下関彦島遊郭編


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テーマ:消えた遊廓・赤線の跡を訪ねて
ジャンル:ブログ

コメント

■ Re: 手記

>ベスキー嬢さん

はじめまして!
こういうのは地元図書館にある郷土資料を丹念に探したら、たま~に見つかったりします。
正直、鉱山で金を見つけるような作業なんで途方にくれることもありますけど、見つかった時はめちゃ嬉しいですよ(笑
図書館の調査課なんかで「遊郭の資料探してます」って正直に言ったら、「はいよ」ってとっておきの資料を出してくれる所もありますよ。まあ、ほとんどは「遊郭?何すかそれ?」ですけど(笑

遊郭・赤線のことは引き続き書いていくんで、また覗きにきてコメント下さいね。
2011/07/29 URL BJのぶ #qDfdtOiE [編集] 

■ 手記

手記が面白かったです。図書館いけばこういうのわかるんですか?

私も赤線跡地巡りが好きです。カフェー風建築のタイル貼りとかみつけて喜んでます

いろいろ教えてください。更新楽しみにしています
2011/07/29 URL ベスキー嬢 #- 

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