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BEのぶ

  • Author:BEのぶ
  • 自称「ブログエッセイスト」ことBEのぶです。
    昭和史をライフワークにしていますが、平成ももうすぐ30年経ち、昭和が遠い過去になりつつあります。
    昭和も遺産・遺物を探れば立派な「考古学」となります。題して「昭和考古学」。ジャンルは遊郭・赤線跡から鉄道、そしてすっかり忘れ去られた歴史を掘る「昭和の考古学者」として、昭和の名残りを通して考察する旅を続けています。

    基本は標準語で書きますが、エッセイは大阪弁で書いていきます。

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■■■下関新地遊郭 消えた遊郭・赤線跡をゆく25 

「消えた遊郭・赤線跡を訪ねて」の旅は、国道9号線の山陰路をひたすら西へ行き、ついに本州最西端にまで足を延ばすことになりました。
九州はもう目と鼻の先、関門大橋を遠目で見たりしたら、わざわざここまでやって来たか・・・って感じです(笑

ここ下関は、平安時代末期~鎌倉時代初期の源平合戦のエンディング、「壇ノ浦の戦い」の舞台でもあり、
古くから陸の・海の交通の交差点として栄えました。
江戸時代には日本海沿いの街を回って大阪へ至る「北前船」が通る船のターミナル、下関を通らんと瀬戸内海や太平洋に入られへんさかい、ほとんどの船は下関で一休みとなります。
逆に、瀬戸内海から日本海へ向かう時も下関を通らんとあかんことになるさかい、人がここに集まるのは当然。
言わば「日本のボスポラス海峡」と言える所でもあります。
ちなみに、ボスポラス海峡って、トルコのイスタンブールにある、アジアとヨーロッパを分ける海峡のことね。

時代が変わって明治時代になっても、船はもちろん鉄道も山陽鉄道(今の山陽本線)が下関まで線路を伸ばしたことから更に発展しました。
今は関門海峡トンネルで鉄道がつながっとるけど、トンネルが開通したんは昭和17(1942)年やさかい、それまでは東から来た列車は全部下関でいったん終点となっとりました。
今でも関釜フェリーという、韓国の釜山までの船があるけど、飛行機、っちゅーか旅客機がなかったり今みたいに発展してへん時代は、ヨーロッパまでは船か鉄道で行くしかありませんでした。
昔は東京からフランスのパリまでの切符が買えた時代、下関もユーラシア大陸へ向かう客が大勢釜山行きの船に乗って、ある人は大志を抱いて、またある人は日本を捨てるように、人様々な気持ちを抱きながら下関で一旦休止したことでしょう。


下関がどれだけ栄えとったんか、それは遊郭にも現れとります。
下関にあった遊郭は、

・稲荷遊郭

・裏町遊郭

・新地遊郭

・豊前田遊郭

・伊崎遊郭

・竹崎遊郭

・今浦遊郭


と計7ヶ所。
一つの街にしては異様に(?)多い数であります。
稲荷遊郭と裏町遊郭は一心同体みたいなもんやさかい一つとしても、それでも6ヶ所。
また更に、市街地から離れた、工場が立ち並んどった彦島にも一時期、一時期は娼妓数140人を越えたという遊郭があったことが、下関市立図書館で史料漁ってたら明らかになったさかい、それを入れたら8ヶ所。
「一つの街にある遊廓の多さ」としては、東京や大阪並み、いや見方によっちゃそれ以上ちゃう?
遊廓もボランティアでやっとるわけちゃうさかい、営業利益があらへんと死滅してまいます。
遊郭が多い=集客があるという見方するんが常識的なところで、
それだけ下関市民がエロい・・・んやのーて、本州の東から、九州から、大陸から、そして船から様々な人が下関に集まって出入りが激しかったということですやろな。
東京や大阪並みに遊郭を増やさんとあかん、というくらい、下関は栄えとったってことです。

さて、そんなめちゃ多い下関の遊廓を一気に書くんはさすがに無茶やさかい、こまめに分けていこうと思います。
まず第一弾が、市内の北西にあった新地遊廓。
新地遊郭は、「新地」と名前がついとることからわかるよーに、何もあらへんかった荒地や沼地などを遊郭や花街用に開拓したことから始まります。
下関の新地も例外やのーて、明治初期あたりは一面の沼地やったそーです。
ここがいつ開設されたんかは、俺ははっきりとしたデータは持ってへんのやけど、
俺が持っとる明治16(1883)年の『山口県統計書』の遊廓一覧にゃ新地遊郭の名前が載ってて、

・貸席:3軒

・娼妓:17人

・芸妓:4人


って書いておりますです。
大正時代後期~昭和初期にゃ娼妓・芸妓共に200人を超える、下関有数の遊郭になっとることを考えたら、
この時は実にこじんまりとした所やったことが、数字を見るだけでもわかります。

明治30(1897)の『赤間関市統計書』じゃ、

・貸席数:5軒

・娼妓数:12人

・芸妓数:1人


とほとんど発展してへんさかい、
たぶん、明治16年は新地遊郭が出来て間もない創世記で、そんなに客も多くなければ知名度も低かったと推定できます。

これが、約15年後の明治45&大正元年(1912)の『下関市統計書』になると、

・貸席数:31軒

・娼妓数:304人

・芸妓数:36人

となっとります。
明治30年と45年を埋める史料があらへんさかい、一体新地遊郭に何があったんかわからんけど、
これでわかることは、この間に新地遊郭は爆発的に発展した、っちゅーことです。
恐らく、日露戦争で大連・旅順が租借地(事実上の植民地)になり、満州への道が開かれ、更に明治43(1910)年の「日韓併合」などもあって、大陸への客足が急激に伸びて、大陸への玄関口である下関に人が集まった結果やと思われ。

大正後期のデータによると、

★大正11(1922)年

・貸席数:43軒

・娼妓数:251人

・芸妓置屋数:42軒

・芸妓数:227人


★大正12(1923年)

・貸席数:43軒

・娼妓数:223人

・芸妓置屋数:42軒

・芸妓数:261人

(出典:『下関統計書』)

★昭和5(1930)頃

・貸座敷数:43軒

・娼妓数:300人

(出典:『日本遊廓案内』)

と、大正元年からそれほど急激な変化はあらへんみたいですな。
ある意味、ここあたりが新地遊郭の絶頂期やったと思います。

せやけど、この数字だけ見てもわからんことがあったりします。

同じ『下関統計書』には、「売上」「来客数」も書かれとるんやけど、それによると、

★来客数★

大正11年:35,411人

大正12年:34,291人



★売上★

大正11年:83,991円

大正12年:10,949円


と、来客数も貸座敷も娼妓も芸妓も大して変化なしやのに、売上だけが前年比較で8分の1。
これは新地遊廓だけやのーて、下関の遊廓すべてがこんな状態。
さて、大正12年に一体何があったのか?
大正12年は、9月に

関東大震災

が起こった年で、首都東京がメチャクチャになって壊滅したあの地震であります。
地理的感覚だけやと、東京の地震で何で下関が?と思うやろーけど、そんな狭い視野で見ちゃあきまへん。
たぶん、東京が壊滅して海運などの流通が麻痺して、財布のひもが固くなったんはもちろんやけど、これは俺の想像なものの、今年の東日本大震災の時みたいに「自粛ムード」が全国的に起こったんかもしれません。
この「大正12年売上ダウン現象」は、いろんなとこの統計書見てみたら、大阪や神戸でも減り幅は下関程やないものの同じ現象があって、
俺の手元にあるデータやと、大阪の遊廓を例にしたら、

・五花街遊廓(大阪)
大正11年売上:¥7,087,094
大正12年売上:¥6,257,248 (-¥829,846)

・枚方櫻町遊郭(大阪)
大正11年売上:¥818,256
大正12年売上:¥313,140 (-¥505,116)

・貝塚遊廓(大阪)
大正11年売上:¥519,683
大正12年売上:¥313,140 (-¥206,543)

ぶっちゃけ、大正11→12年で売上が増えとったんは、飛田と栄橋(堺市)だけでした。
枚方と貝塚に至っては、客数は
・枚方 31,084人(T11) → 38,102人(T12) (+7,018)
・貝塚 135,912人(T11 ) → 138,863人(T12) (+2,951)
と増えとるのに、売上がボロボロ。
経済学的に言うたら、客単価が激減しとる→客の財布のヒモがかなりキツくなっとることがわかります。

東京の遊廓の売上はもう書くまでもないけど、持ってる史料の限りじゃ、金沢以外は概ね大正12年だけ売上ダウンになって、翌13年になったらもとに戻ってます。

下関は交通の要所でもあると同時に、軍事的にも重要な所で、工業地帯もあったせいかアメリカ軍の空襲の対象になってしもて、遊廓は跡形もなく焼けてしもたらしいけど、
新地遊郭は郊外にあったせいか、周りに何もなかったのか、唯一空襲を免れて焼け残った遊郭でした。

そのせいか、新地遊郭は戦後も営業を停止することなく営業して、周りに映画館なども出来た歓楽地になったそうですわ。
それで客足の相乗効果が出たんか、赤線時代は駅前にあるっちゅー絶対的な地理的条件を備えた豊前田遊郭くらいに栄えたそうです。
そんな赤線時代の新地を、『全国女性街ガイド』は簡単にこう説明しとります。

銭稼ぎで有名な林兼本店の近くにある新地で七十五軒に二百十名、洲崎型の小店が多い。

まあ簡単っちゃ簡単やけど、これ以上の説明は特になし、わかるのは数字だけ見たらけっこう栄えとったってことかな。
ちなみに、ここに書いとる「林兼本店」とはたぶん今でもある林兼産業のことやと思うんやけど、
ホームページ見てみたら今の本社は新地遊郭のとことは全然ちゃうとこにあるさかい、昔の本社はここあたりにあったってことかもしれません。


もちろん、ここも売防法施行で廃止になるんやけど、ええ意味で都市開発から取り残されたせいか、
どうも新地遊郭にゃ昔ながらの建物がいっぱい残ってるらしい、
という情報を手に、いざ向かってみました。
* * *
11060202

新地遊郭があったとこは、今の新地西町から上新地町にかけてやけど、
画像の「新地西町」交差点があるよーに、「新地」っちゅー地名は今でもちゃんと残ってたりします。



11060201

国道191号線をひたすら走って下関市に入ったら、こんな幹線道路沿いに香ばしい建物発見!
幹線道路沿いにドカン!と建ってるさかい、あまりに堂々としすぎて見逃す人がおるかも!?
それにしても、道路拡張なんかで真っ先に壊されそうやのに、よー生き残ったもんや。



下関新地遊郭

国道191号線を渡って、上の画像の建物を近くから見てみた感じです。
この建物を、「新地遊郭A」という仮名をつけましょう。

下関新地遊郭のタイル

入口はきれいにタイルが残ってますな~。

下関新地遊郭

「新地遊郭A」を細かく調べていったら、けっこう装飾が細かいことがわかります。
このケバい色使いに上のタイル、もう俺は何も書くまい。
画像を十分にお楽しみ下さい、って感じですな(笑


下関新地遊郭

このドアを見るだけでも、けっこう芸が細かい。
建物自体は正直ちょっとひび割れが目立ってガタが来とるけど、まだまだ残っとって欲しいもんですわ。


下関新地遊郭

対して、「新地遊郭A」の隣にある建物です。
これを仮に「新地遊郭B」としておきましょう。
この妙に斜めな玄関は、戦後の赤線カフェー建築の典型と言えるもの、うちのブログ見てくれとる人にゃこれももはや説明不要ですわな。
一見、東京の吉原とか鳩の街、玉の井のカフェー街と間違えそうな建物やけど、これは紛れもなく下関です(笑


下関新地遊郭

「新地遊郭A」の、「新地遊郭B」の逆隣にあるのがこの建物です。「新地遊郭C」としておきましょう。
これも、よーーく見たら昔の面影が残ってますな~。

せやけど、「新地遊郭C」を違う角度で見たら・・・


11060209

これももはや何も言うまい。
正面はめちゃ和風です、側面はちょっとタイールっぽいのにね。
でも、玄関が何気なくカフェー風っぽいかも!?
そこんとこのアンバランスかつアバンギャルドなとこがまた赤線っぽい所でもあります。
遊郭時代のやと、けっこう和を強調することが多いさかい、純和風なのが多いけど、赤線の場合は戦前の建物を急に洋風に直したりすることもあるさかい、ええ意味でバランスが悪い外観になっとることもあります。
その妙なバランスの悪さが、我々の心を刺激するんかもしれません。

下関新地遊郭

「新地遊郭C」の全景はこんな感じです。



「さて下関に着いた。建物探すか」
と思うまでもなく、いきなり目の前に現れた掘り出し物やけど、
ちょっと逆方向を見たら、

下関新地遊郭

お!ボロそ・・・やなくて昔からありそうな旅館発見!
なんぼ遊郭・赤線跡にある言うても、遠くから見たら普通のボロ・・・失礼、古い建物なんやけど、やっぱりこーゆーのは顕微鏡の如くミクロで見る必要もあります。
よーくみたら、

下関新地遊郭

手すりの色の「赤」がわずかながら残っとりますな~。
こういう細かいとこを見つけられるか否か、それはあなたの経験値と洞察力次第♪


正直、もうこの4つの建物で十分、お腹いっぱいなんやけど、そんな本能に逆らって足が奥へ奥へと進みます。


下関新地遊郭

新地西町を奥に入ったら、こんな感じになります。
今はどこにでもある下町って雰囲気やけど、どこか面影がないこともないよーな気がします。
ここの右側、コンクリートで舗装しとる部分は昔はどうやら川やったみたいで、ここあたりに橋が掛かってたそうな。


下関新地遊郭

上の画像の建物、これを「新地遊郭D」としましょう。
「新地遊郭D」を違う角度で見たら、「遊郭色」である淡い赤が残ってますな。
建物自体はかなりガタきとるけど、ちゃんとリフォームしたら綺麗になりそーなんやけどな。
こういう時に建築学でも勉強しときゃよかった、って思うけど、俺はどうもそういうセンスないみたいやし(笑


下関新地遊郭

「新地遊郭D」をまた違う角度で見たら、こんな姿も垣間見れます。
売防法で飲み屋にでも転向したんか知らんけど、やっぱ「斜め玄関」がなんとなく面影を残してるんかも!?


下関新地遊郭

「新地遊郭D」と同じ道筋にある建物やけど、
これは戦後築よりたぶん戦前からの生き残りのよーな気がします。
全体的な建て方がなんとなく戦後っちゅーより戦前の洋風建築っぽい感じがするんやけど、
あくまで「感じがする」だけやさかい、事実ははっきり言って知らん(笑

下関新地遊郭

新地遊郭跡を更に奥へ進むと、クネクネとした細い道が続きます。
ここが現役やった頃は、艶めかしいピンクや赤のネオンに飾られた家々に女の嬌声、男の怪しい視線が飛び交う「繁華街」やったんかもしれません。
それははるか昔の伝説の時代、でも歴史の事実でもあります。我々にゃある意味信じられへんけどね。

これ、遊郭・赤線を調べとる人は一回どっかで見たことあるアングルの画像やと思います。
俺もそれを意識して撮ってみたさかい(笑
画像左にある建物は銭湯で、どうやら今でも現役らしく、戦前からずっと続いてる所らしい。中は入ってへんけど、銭湯マニアにゃたまらん一品でもあります。

下関新地遊郭

たぶん、今駐車場っちゅーか空き地っちゅーか、そこに昔建物でもあったんでしょう、
玄関の屋根だけが残っとる不思議な光景です。


下関新地遊郭赤線タイル


下関新地遊郭赤線タイル

さりげなく「タイル」な建物です。
わざかながら赤線時代のカフェー調のタイルが残ってたのがやけに嬉しい。


新地遊郭は、どっちか言うたら「遊郭色」より「赤線色」が濃い所やったさかい、東京の鳩の街みたいなタイプの建物が多かったです。
まだ俺が見逃してた所もあったみたいやさかい、新地遊郭はまだまだ探したらおもろい建物が見つかるかもしれません。
旧新地遊郭跡は、街の再開発からも取り残されたせいか、今でも古い建物がいっぱい残ってる野外博物館みたいな所やったけど、
まさか市が景観を保存することはないと思うさかい、このどこか懐かしいよーな光景も、あと何年残ってるんやら。

下関の遊郭シリーズはまだ続きます。

■■他の下関シリーズは↓■■

下関豊前田遊郭編

下関稲荷町・裏町遊郭編

下関彦島遊郭編

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テーマ:消えた遊廓・赤線の跡を訪ねて
ジャンル:ブログ

コメント

■ Re: タイトルなし

>たなかさん

コメントありがとうございます。
すっかり更新しなくなったブログですけど、思わぬ反響に涙が出そうです(笑

これは遊郭や赤線の、いわゆる「黒歴史」ですけど、街の歴史を深く掘っていけば今まで気づかなかった、そして歴史の底に埋もれていた面白い「宝石」が見つかることがあります。だから歴史の勉強はやめられない(笑

ブログは移転したまま放置してたのですが、今年から復活しようと思うので近日中に本文にリンクを貼ろうと思います。
またよかったら訪ねてきて下さい。
2017/01/08 URL BJのぶ #- 

■ 

下関に住んでいて
新地遊郭のあたりは毎日のように通るのですが
小さなときから見ている風景なので
まぁボロいなぁとは思っていましたが
あまり違和感なく見ていました。
今回、このサイトをみて
わたしって面白いところに住んでるんだ!と
あのボロい建物や下関の歴史にとても興味が沸きました。
勉強してみようと思います。
ありがとうございました。
2017/01/05 URL たなか #- 

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このコメントは管理人のみ閲覧できます
2011/06/15   # 

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