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BEのぶ

  • Author:BEのぶ
  • 自称「ブログエッセイスト」ことBEのぶです。
    昭和史をライフワークにしていますが、平成ももうすぐ30年経ち、昭和が遠い過去になりつつあります。
    昭和も遺産・遺物を探れば立派な「考古学」となります。題して「昭和考古学」。ジャンルは遊郭・赤線跡から鉄道、そしてすっかり忘れ去られた歴史を掘る「昭和の考古学者」として、昭和の名残りを通して考察する旅を続けています。

    基本は標準語で書きますが、エッセイは大阪弁で書いていきます。

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■■■下関稲荷町・裏町遊郭 消えた遊郭・赤線跡をゆく27 

「下関遊郭シリーズ」は懲りもなく続いとるけど、
今回がある意味本命の稲荷町遊郭の巻です。
下関と言えば、今から1000年前に源氏と平氏が戦った「源平の戦い」のハイライト、「壇ノ浦の戦い」の地でもあります。
学校で習った通り、この戦いで一時の栄華を誇った平氏は正式に滅び、源氏の天下が確定したんやけど、
平氏が連れてきた数多くの女官が戦いの後で残りました。
男が海の藻屑と化して残された女官たちのその後は、戦前までの女性もそうやったみたいに、生活のために「春を売る」しかなし、
そんな女たちの戦場が稲荷町遊郭の起源と言われとります。
せやさかい、ここが「遊女発祥の地」と言う人もおったりします。

近代以降の遊郭の遊女は公式には「公娼」と言うとったけど、世間一般には「女郎(じょろう)」と言うとりました。
舞鶴の龍宮遊郭で遊郭時代を知るおじいさんに偶然会っていろいろ話を聞いたけど、
(詳しくは「消えた遊郭・赤線跡を訪ねて 舞鶴龍宮編」をどーぞ)
そのおじいさんの口から出た「女郎」って言葉には、少し見下げた感覚を感じました。
この「女郎」って言葉の起源がこの下関にあり、高級の女官のことを上臈(じょうろう)と言うたんやけど、
壇ノ浦で庇護者を失って浮浪者同然になった平家の高級女官らは、こっそり平氏の菩提を弔うために、そして最初は人のツテを頼っとったものの、最後は生きていくために春を売るしかなく、彼女らを「上臈」と呼んだという伝説があります。
『売笑婦論考』(道家斎一郎 著)にもその言われが書いとって、漁夫相手に春を売ってた「上臈」たちは、それが習慣になって地元で「上臈=売春婦」と呼ばれるよーになって、それがいつしか訛って「じょろう」と言われ、当て字で「女郎」になったって説があります。
また、戦前の下関や小倉の遊郭では遊女の最上位、つまり吉原や関西では「大夫(だゆう)」と呼ばれとったのを「上臈」と言うとったそーで、
嘘か真かはさておき、平家伝説がホンマに戦前まで残ってたってことですな。

江戸時代、稲荷遊郭は吉原とか京都の島原、大阪の新町に並んで遊郭の免許地になり、元禄時代(1700頃)に書かれたという『傾城色三味線(けいせいいろじゃみせん)』っちゅー浮世草紙には、稲荷遊郭は前頭12枚目に位置しています。
また、「諸国遊所競」っちゅー、1840年代に作られた全国の遊郭の番付表には、稲荷町遊郭は東前頭5枚目にランクインされとります。
ちなみに、この時の大関(当時の最高位)は東は島原(京都)、西は新町(大阪)で、西の前頭5枚目は四谷新宿でした。
「あれ?吉原は?」と思った方もおるやろーけど、吉原は「行司」になっとります(笑

また、井原西鶴の『好色一代男』にも稲荷遊郭のことが書かれていて、実際にここにも立ち寄ったっちゅー記録も残っています。
また、平家伝説が由来っちゅー稲荷遊廓は非常に格式が高かったらしく、遊女が客の上座に座るのは普通、白足袋も許された「高級」どころかその前に「超」がついてもおかしくないような感じでした。


そんな格式の高さを売り物にしとった稲荷遊郭も、明治に入ったら方向転換を余儀なくされます。
あまりに格式が高すぎたんか、客足は明治後期になってから鈍り始め、より大衆的というか「お手軽」な豊前田や新地遊郭に客の足が移ってしもたみたいです。
おまけに、下関駅の開業などで人の流れが180度変わってしもたせいか、特に新地遊郭の急激な発展ぶりとは裏腹に、稲荷・裏町遊郭聯合(?)は「娼妓中心」から「芸妓中心」へと方向転換したよーです。
端的に言うたら、一発向けの人は新地や豊前田などへ移り、稲荷町や裏町は「祇園化」していったってことですやろな。

明治16年(1883)の「山口県統計書」によると、


         貸座敷数   娼妓数   芸妓数
稲荷遊郭    13軒     48人    32人
裏町遊郭    13軒     11人     4人



と、どっちも娼妓優位の数になっとります。

明治30年になったら、


       貸座敷数   娼妓数   芸妓数
稲荷町    10軒     48人    75人
裏町      11軒    27人    48人

※出典:「赤間関市統計書」



娼妓と芸妓の数がここで逆転しとります。
そして、明治30年以降のデータやと、芸妓優位は変わらずそのまま推移しとります。

統計書の数字を、金にもならんのに(笑)せっせとでExcellで編集しとったら気になったんが、
明治45年(=大正元年)から大正2年にかけての、稲荷町&裏町遊郭の客数の激減ぶりでした。

☆明治45年の客数
稲荷町:9,737人 裏町:8,312人

☆大正2年の客数
稲荷町:3,807人 (前年比-5,930)  裏町:4,258人 (前年比-4,054)

☆大正3年の客数
稲荷町:3,047人 (前年比-760)  裏町:3,111人 (前年比-1,147)

※出典:山口県統計書



客足が2年間で約3分の1、この数年間はかなり閑古鳥もんやったことでしょう!?
さて、この数字の減りっぷりをどない説明すりゃええのやら、と頭抱えるとこやけど、
明治45年→大正3年の2年間は、下関の他の遊郭も客足が減っとって新地遊郭だけが激増、新地遊郭の一人勝ちみたいな状態なんやけど、
この2年間に減った客足は、他の遊郭は大正3年→大正4年の増減を見たら元に戻っとります。
せやけど、稲荷町と裏町、そしてここの隣の西ノ端遊郭の客足は明治時代の数字に戻らず、そのままズルズルと稲荷町なら3000人台に留まっとります。
豊前田遊郭などの客足は元に戻っとるどころか、むしろ発展しとるよーな数字やのに、稲荷町などはそのまま。
世界情勢を見てみたら、大正3年に第一次世界大戦がヨーロッパで勃発、日本が戦争景気になって「大正バブル」でにわかブルジョアが大量発生して「成金」って言葉も生まれた時期、
そんな「バブル」な時に客足が伸びへんとは、これは何が原因かわからへんけど、何か原因があることやろーと思います。

また更に、『関の廓盛衰史』っちゅー本には、20世紀が始まったばかりの明治34年(1901)~明治38年(1905)の客数の増減が書かれとりました。
それによると・・・


        稲荷町     裏町
明治34   17,375     17,315
明治35   19,532     18,561
明治36   6,610      5,550
明治37   8,632      7,762
明治38   7,632      7,989




と、見てわかるよーに、明治35年を境に客足がどちらも3分の1に落ち込んどることが目に見えてわかります。
明治37年にはいったん回復しとるけど、それでも往年の数には及びもしません。
上に書いた『山口県統計書』の明治45年のデータと照合すると、稲荷町・裏町遊郭の客足の激減ぶりは明治35~36年に始まったと言えますな。
その原因は、明治34年に開業した下関駅と関係があるかもしれまへん。
要するに、下関駅が開業することによって山陽鉄道(今の山陽本線)が全線開業、レールだけなら東京から下関が一本でつながったわけで、
鉄道の利用者がかなり増えたと思われます。
それによって客の流れがガラリと変わった、そう推定できないこともない。
同じ統計資料で新地遊郭・豊前田遊郭の客数を見てみましょう。

         新地     豊前田
明治34    13,338      18,124
明治35    13,564      19,002
明治36     41,268     41,659
明治37    43,519      41,484
明治38    36,740      38,393

※出典:『関の廓 盛衰史』


と、稲荷町・裏町に反比例するかのように客足が激増しとります。
これは何故か?俺は下関駅の開業で人の流れが変わって、駅から近い両遊郭に客が移ったんちゃうかな?と思うんやけど、
それにしては同じ資料でより駅に近いはずの竹崎・今浦両遊郭の客数がほとんど伸びてへんさかい、
これはちょいと宿題やな。

それでも、格式の高さっちゅーかプライドの高さは相変わらずやったみたいで、
これまた下関市立図書館に残っとった新聞記事からなんやけど、稲荷町・裏町のプライドの高さを残す記事やさかいここに書いておきます。
大阪のどっかの芸妓300人が特別列車をチャーターして別府温泉に旅行に行くことになりました。
それを聞いた稲荷町・裏町の芸妓・娼妓全員が下関駅に大集合、大阪の芸妓をお出迎えすることになりました。
当時の新聞記事はこう書いています。

「因に下関芸妓はこの美人団に優(ま)して、きらに飾れるさま一段光彩を放ち、
いささか大阪芸妓より見栄えしは下関芸妓以て鼻を高うしたり」
(明治44年10月3日 馬関毎日新聞より)


これを書いた新聞記者は、大阪芸妓に対抗しとる下関芸妓のプライドの高さに半分呆れた調子で書いとって、
言うなれば「そこまでせんでええやん」的なことを書いておりました。


そして、更に気になるんは、毎度お馴染みの『全国遊廓案内』に稲荷町遊廓のことが載ってへんこと
このブログを書いとって、「さて、『全国遊廓案内』にゃどう書かれとるんかな?」と見てみたら、
「・・・あれ?あらへんし」
ちゅー有様。
上に書いた平家の「上臈」伝説は書いとるのに、その「子孫」的存在の稲荷町遊郭の「い」もない。
てっきり書いてると思い込んどったさかい、これはちょいとビックリでしたわ。
裏町遊廓のことは、サラっと1行だけやけど書いてるさかい、ここで考えられる仮説は、

仮説その1
稲荷町遊廓が裏町に吸収されて「裏町遊廓」として合併した

仮説その2
稲荷町に娼妓や貸座敷がなくなり、純粋な「花街」になった

仮説その3
『全国遊廓案内』に云う裏町遊廓=稲荷町+裏町のこと

仮説その4
著者(か編集者)が単に稲荷町のこと忘れてたor調査不足

なんやけど、仮説1と2は『全国遊廓案内』発行の前年(昭和4年)に内務省警保局(今の警察庁的なとこ)で内部発行された全国の遊郭資料にはちゃんと「稲荷町遊郭」「裏町遊郭」が別々に記載されとるさかい、仮説その1と2はボツ。
いちばん可能性が高いのは「仮説3」の方で、この2つの資料を照らし合わせたら、

☆内務省警保局の資料(昭和4年末現在) 稲荷町+裏町遊郭の数
・貸座敷数:18軒
・娼妓数:16軒

☆『全国遊廓案内』 「裏町遊廓」としての記載
・貸座敷数:12軒
・娼妓数:約80名



娼妓数はえらい開きがあるけど、貸座敷数はまあ近いかなと思うさかい、やっぱり『全国遊廓案内』の云う「裏町遊廓」は稲荷町+裏町遊郭のこと言うとるんかな?と。
まあ、『全国遊廓案内』は誤字脱字が多いさかい、「仮説その4」もアリエールやけどね(笑
* * *
下関やとさすがに大阪から日帰りは無理(当たり前やっちゅーねん)、どうせ一人旅やさかいホテル代はケチって「ホテルプリウス」(車中泊)にしよーかなーとも思うんやけど、
とある理由で下関はリッチなホテルに泊まってみることにしました。
それがここ↓

11072401

東京第一ホテル下関
ってとこなんやけど、見た目はただのホテル。せやけど今回の「遊郭道中シリーズ下関」と大いに関係があったりします。
俺も何も考えんとここに泊まったわけやありませぬ♪

このホテルはかつて下関にあった「稲荷町・裏町遊郭」の中心地にあり、その昔

「大坂屋」

っちゅー大妓楼があった場所でもあります。
東京第一ホテル下関のHPにも「ここは大坂屋の跡でっせ」と書いとるんやけど、その「大坂屋」は江戸時代からあった全国的に有名な妓楼で、当主は代々木村太良右衛門を名乗って木造3階建ての当時としては超高層建築の摩天楼な建物は、江戸時代はここまで海が迫っていたせいか、非常に目立つ建物やったと言います。
また、300人収容できる歌舞伎の舞台も中にあったらしく、舞台は江戸の湯島芝居よりも広かったと、長久保玄珠の『長崎紀行』(明和年間)に書かれとります。
大坂屋自体は近代になって、いつかは定かやないけど廃業したものの、第二次大戦の空襲で焼け落ちるまでは、その「木の摩天楼」が丘の上にそびえ立ってたそうです。

「大坂屋」が歴史に名を残したのは、もちろん稲荷遊郭きっての大妓楼やったってこともあるけど、
幕末の動乱の時代に、坂本龍馬や伊藤博文、高杉晋作などの豪傑が常連としてここで遊び、外国列強に対して日本をどうするべきか語り合った政治談議の場所でもあったからです。
中岡慎太郎は慶応元年(1865)1月9日に大坂屋に宿泊したと日記に書いとるし、慶応3年(1867)に坂本龍馬が伊藤博文
に会いに行って「大坂屋」で密談をしとったって記録が残っとります。
また、高杉晋作の愛人の”おうの”はこの「大坂屋」の三味線芸者でもありました。
そして明治になって総理大臣になって栄華を極めた伊藤博文は、懐かしさからフラっと完全プライベートかつアポなしで「大坂屋」に立ち寄りました。
若い時にやんちゃした時の場所って何故か年取ったら懐かしくなるもの、伊藤博文もそんな若い時の思い出が詰まっとったかもしれへん「大坂屋」を見て、はるか昔のあの時が恋しくなった気分やったんかもしれません。目はたぶん志士時代のあれに戻っとったかもね。
せやけど、当時の伊藤博文を知る人は「大坂屋」には誰一人おらず、冷やかしと思った店のスタッフに追い出され、少しセンチメンタルな気分になった(?)伊藤博文は怒らず黙ってその場を立ち去り、視察先の満州へと向かいました。
そしてその数日後、ハルピンで暗殺されてしまいます。
殺されたんは結果論なんやけど、「大坂屋」にふと現れたんも何かの知らせやったんかもしれませんな。

幕末のゴタゴタした時期に、歴史に名を残した数々の偉人が訪れた「大坂屋」も、上に書いたよーに太平洋戦争の空襲で跡形もなく焼けてしもたんやけど、
戦争がなかったらもしかしてまだその建物が残ってたかもしれへんなと思うと、嗚呼もったいない。
戦争のバカヤロー。


で、全然話がガラリと変わるんやけど、
最近の20代にアンケート取ったら、理想の上司像は坂本龍馬って結果が出たってどっかで見たんやけど、
混迷を深めとる今の日本はまさに戦国時代さながら、先が見えへん時代やからこそ「先が見える人」「未来を作れる人」って意味で坂本龍馬を選んだ人が多いと思います。
大河ドラマの『龍馬伝』が流行ったんも、そういう理由があると思いますわ。
要するに「近頃の若者」という者はリーダーシップを持てる人を欲してるみたいなんやけど、
これについては、俺から「近頃の若者」に向けて二つの異議があります。
一つは、坂本龍馬ってごっつい個性が強い人物、強すぎて理解できへん人の方が多かったことも事実。
ぶっちゃけ、当時リアルタイムに生きとった人で、坂本龍馬の考えが100%理解できた人ってほとんどおらんかったと思います。
あの西郷隆盛でも、スケールが大きすぎて理解できてたかどうか、って感じやろなと。もし出会ってたらって条件やけど、あとは福沢諭吉くらいちゃうかな?坂本龍馬と福澤諭吉はかなりウマが合うと思われ。
今でこそ「世界に目を向けよう」なんて常識に近いけど、それでも目を背ける人がおる現実、
それを150年前に言うとったってことは、当時の常識から言うたらほとんど気違い一歩手前、
「百歩先が見える者は狂人である」
と言うたんは小林一三やけど、坂本龍馬は150歩は軽く見とった人、そんな上司についていけますか?ついていける能力が自分自身にありますか?
「坂本龍馬みたいな上司が欲しい!」って言うとる人の99%は、いざ上司の坂本さんが目の前に現れたらあまりに強烈な個性に逃げるか、言動が理解できず「うちの上司頭おかしいやろ・・・」とアフター5の居酒屋で愚痴るだけと思われ(笑
要するに、坂本龍馬についていこうと思ったら、視野の広さや時代を先読みする先見性、そして常識はずれな考えを理解する包容力などハイレベルな能力+人間性が自分自身にも求められるってわけですわ。

そして二つ目は、「こんなリーダーが欲しい!」と欲してるんはええんやけど、
自分がそんなリーダーになったらええんちゃうの?ってこと。
「欲しい」って望んでるだけで自分から探そうとしたり自分がなろうとは思わんみたいなんが、今の「若い人」の特徴なんかな?と思ったりするんやけど、
坂本龍馬になれとは言わんでも、それくらいのスケールの人間になりたい!って願ったらちょっとでも近づくと思いまっせ~。
もちろん、そうなるためにはかなりの努力が必要なわけで、それを避けてたらなれるもんもなられへんどころか、今の戦国時代じゃ人生の落伍者になる可能性の方が大きい。
一昔前に「指示待ち族」って言葉が流行ったけど、今は「英雄待ち族」ですか?
政府が悪い、社会が悪い、親が悪い、学校が悪い・・・わかったわかった(笑
結局、坂本龍馬みたいな人を望んでるということ=他力本願というわけで、折角エネルギッシュな20代なんやからどんどん自分から動いていこうやないですか~。
20代なんて失敗しても全然笑って許される世代、そっから動くこと怖がってどないしますの?と言いたいですね。


さて、話は遊郭に戻ります。

東京第一ホテル下関は言うたら昔の稲荷町・裏町遊廓の敷地内にあるってことでもあるんやけど、
このホテルの裏側に

「末廣稲荷神社」

なるものがあります。
大同4年(809)に建てられたっちゅー、下関でいちばん歴史が古い神社だそーなんやけど、
稲荷町遊郭の「稲荷」はこの末廣稲荷神社のことであります。
戦前まではこの神社の門前や周りに遊郭が並んでたらしいんやけど、遊郭も神社も戦争で焼けてしもて今は・・・

11072901

ホテルの上から稲荷神社を眺めても、周りにゃ全く何の面影もなさそーですな(汗
まあ、これはここに来る前に集めた情報の想定内やさかい、別にがっくりも何もきませ~ん。
そして、ホテルの部屋に荷物を置いて、すぐにホテルの裏、っちゅーかほとんどホテル敷地内みたいなもんな稲荷神社に行ってみました。


11072902

ここがどうやら神社の入口らしい!?
右側の建物がホテルなんやけど、ホテルの隣っちゅーより「ほとんど敷地内」みたいな感じやな(汗
その、入口かホテルの敷地に入るんかわからんよーな道を奥に行ったら、


11072903

着きました、境内へ。
この稲荷神社、今はこじんまりとした敷地やけど戦前はかなり広かったらしく境内には「お稲荷さんの桜」って言われとった桜並木があったそうやけど、
戦争で跡形もなく焼けてしもて今は面影すら残っとりません。
神社自体は昭和28年に再建されたんやけど、今の社殿は昭和60年に建てなおされたもんらしいです。どうりでやけに新しいはずや。

で、戦争で焼けた言うても何か稲荷遊郭の面影があるかもしれません。
そこで真っ先に調べるんが玉垣で、昔々に妓楼なんかが寄進した玉垣なんかが残っとったらラッキー♪
なんて思って探してみたんやけど、玉垣の文字が長年の風月で(?)ほとんど判別不能なくらいになっとって、古そうな玉垣はぎょーさんあったけど、明らかに判別できたんは、

11072904

「万月樓(楼)」
って書かれたこれくらいでした。
他のサイト見たら江戸時代の「上臈」さんの名前が書かれた玉垣があるらしいけど、未熟者の俺にゃ発見できませんでしたわ、トホホ。

11072905

末廣稲荷神社を違う角度から見てみた写真やけど、神社の下は今は駐車場になっとります。
せやけど、このレンガの古さといい、神社から駐車場までがボロボロになりつつも「道」になっとるさかい、
たぶん戦争で焼ける前はここも境内やったと思われます。


11072906

で、今の稲荷町・裏町はこんな風になっとります。
下関市立図書館で見た資料やと、どーも遊郭あたりは綺麗サッパリ焼けてしもたらしゅーて、
更に戦後に大幅に区画整理されたらしく、戦後数十年経ってからかつて稲荷町遊郭の常連やった古老に今の地図を見せて「どこからが稲荷町でどこあたりが裏町でした?」と聞いたところ、
あまりに道が変わり果ててしもたせいか、さっぱりわからんかった、と図書館で見つけた本に書いていました。

そして、戦争で更地になっても遊郭は戦後は赤線として復活したんがほとんどやけど、
ここ稲荷町と裏町はどうやら戦後赤線になることはなかったそうです。少なくても稲荷町などに赤線があったって資料はないし、『全国女性街ガイド』にも、下関は新地と豊前田しか載ってません。
平氏の落武者ならぬ「落女官」が春を売った伝説が残り、その末裔を名乗った遊郭は、伝説と共に爆弾によって破壊され、以後復活することはなかったよーですわ。

11072907

下関市が作ったモニュメントが、唯一「ここあたりが稲荷町でした」ってことを指し示しとります。
遊郭跡は良くも悪くも日本の歴史の一部分、それを「黒歴史」として消すのか、それとも「日本史の一部分」として残しておくのか、それは自由なんやけど、
稲荷町や裏町遊郭は幕末の志士たちが常連やった「表の日本史」の一部分でもあるさかい、こないしてスポットライト浴びとります。
建物は全然ないにしろ、全国の遊郭跡を訪ね歩いとる俺からしたら、ここはちゃんと税金で(?)モニュメント作られとるさかいまだ幸せな方かもしれませんな。
ほとんどの遊郭跡は自己主張もせーへんまま歴史の埃に埋もれて、地元の人にさえ忘れられとったとこさえあったりするさかい。

上のモニュメントには、よーく見たら昔の稲荷町・裏町の写真が埋め込まれとるんやけど、
これを拡大して写したら↓

11072908

これが稲荷町。

11072909

こっちが裏町だそうですわ。

まあ、特に目新しい建物もないさかい、一回りしてホテルに戻るか、と思って戻ってみたら、

11072910

ホテルの壁にこんなんがありました。
昭和15年(1940)から昭和19年(1944)頃のホテルの周囲の復元地図やけど、
ということは、地図の左上あたりが当時の稲荷町ってわけやな。
稲荷町と思われる場所をアップしてみたら、


11072911

画像右上あたりが末廣稲荷神社で、そこの前がもう稲荷町と裏町の遊郭ってことでした。
なるほど、平行に走る道界隈を「稲荷町」「裏町」って言うとったんやね。
建物の名前を見てみたら、遊郭の妓楼らしきもんは数軒程度、ほとんどは芸者の置屋かふつうの商店っぽいですな。
せやけど、復元地図とは言うても今は区画が全く変わってしもたさかい、かなり貴重な歴史資料には間違いないでしょう。
まあ、「貴重な歴史資料」と思うんはワシらだけで、ほとんどの観光客はスルーやろーけど(笑

で、これで本編は終わりやけど、最後に一句で締めましょう。

桜花 廓(くるわ)の跡の 涙かな


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テーマ:消えた遊廓・赤線の跡を訪ねて
ジャンル:ブログ

コメント

■ Re: タイトルなし

>さゆりさん

はじめまして。
遊郭・赤線ネタはまだまだ書いてへんのがあるさかい、また見に来て下さいね~。
2011/08/16 URL BJのぶ #qDfdtOiE [編集] 

■ 

ミクシィから来ました、たまに見せて頂いてます笑 色々と勉強になります。しかも、読みやすい!面白いです☆
また来ます^^
2011/08/11 URL さゆり #- 

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