のぶログ (THE WEBLOG WITH OSAKA DIALECT)

大阪人の、大阪人による、大阪人のため・・・のブログ!?

ブログランキング

ブログランキングに参加しています。 面白い!と思ったらクリックしてあげて下さいm(_ _)m



にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ

にほんブログ村 歴史ブログ 近代化遺産へ

よろしく!








blogram投票ボタン






ブログ内検索

プロフィール

BEのぶ

  • Author:BEのぶ
  • 自称「ブログエッセイスト」ことBEのぶです。
    昭和史をライフワークにしていますが、平成ももうすぐ30年経ち、昭和が遠い過去になりつつあります。
    昭和も遺産・遺物を探れば立派な「考古学」となります。題して「昭和考古学」。ジャンルは遊郭・赤線跡から鉄道、そしてすっかり忘れ去られた歴史を掘る「昭和の考古学者」として、昭和の名残りを通して考察する旅を続けています。

    基本は標準語で書きますが、エッセイは大阪弁で書いていきます。

質問・お問い合わせはこちら

名前:
メール:
件名:
本文:

人気ブログランキング

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

■■■境港の遊郭跡 消えた遊郭・赤線跡をゆく23

「消えた遊郭・赤線跡を訪ねて」の鳥取県シリーズが続いとるわけやけど、
鳥取衆楽園米子倉吉という鳥取県ビッグ3の都市を歩いたさかいもう鳥取県にゃ用はない・・・
さて、忘れてませんか?

鳥取県の遊郭・赤線は4ヶ所でした

ってことを。

今回は、今まで倉吉新地遊郭以上に話題にされることもなかった超ノーマーク遊郭、境港の遊郭の話を。

その昔の日本の港町にゃ、風待ちとかの都合で長期間待機する船も多かったさかい遊郭があったとこが多かったんやけど、
境港は古くからある港町やさかい、ここに遊郭があっても全然おかしくないということ。
むしろ、あって当然とも言えると思いますわ。
俺も「米子にあって境港にないんはおかしいやろ」とは思ってたんやけど、倉吉と同じで確たる証拠が全然ない。
バイブルを探ってみても境港の「さ」も書いてへん。
ネットで検索してもどうも完全ノーマークらしくデータは全くなし。
せやけど、今まで遊郭跡を探してきたカンと境港の地理的状況を鑑みると、境港には絶対あったはずや!という確信はありました。

そして、ふとWikipediaサーフィンをしとったら、境港市のとこで気になる記述が。

桜町(現・栄町)の遊郭より出火「境町大火」 全焼338戸。

やっぱりあったんやん!
せやけど、それ以上の情報はググっても全くないし、Wikipediaの方が間違ってる可能性があるということもアリエール。
これは現地で情報手に入れるか、と早速向かってみました。

せやけど情報も何も持ってへんさかい、まずは現地の境港市立図書館で情報収集。
「遊郭の情報おまへんか?」
と大阪弁丸出しで聞いても、やっぱし「はぁ?」みたいな反応。まあそりゃしゃーないか、わざわざ大阪からこんなとこまで来て調べる物好きはそうそうおれへんと思うさかい。
そして、境港の歴史資料をあれこれいじくり回してたら、非常に断片的ながらいくつか記述が見つかりました。

* * *
境港の遊郭は、江戸時代には北前船、北海道南部から日本海側の港を伝って関門海峡を通り、大阪が終点の航路の中継地点で、昔から人の行き来が激しい所やったさかい、江戸時代から遊郭が存在しとったそうです。
遊郭っても一ヶ所に固まってたタイプやなくて町の至る所に散らばっとったらしく、明治4年埋立地に「遊亀町」という遊廓を建設しました。「遊亀町」はその10年後の明治14年に地名ごと廃止されて現存せーへんけど、今の大正町の沿岸部になります。
そこから「櫻町」という所に遊廓が移ったと推定されるけど、
大正8年の「境興町五拾年史」の掲載広告には、櫻町にあったという店の一覧がありました。

・いろは亭
・大古戸店
・和田屋店
・高木店
・高橋店
・大正楼
・梅原店
・快楽亭
・眞木店
・月波楼
・高知楼
・旭亭

・青木屋店
・山海楼
・名月楼

・美喜和亭
・島屋店
・日の出楼

(以上、広告に掲載されていた順)

大正8年には遊郭が櫻町に固まって営業しとったことがわかります。
「~店」とついとるんはおそらく一般の商店で遊郭うんぬんとは関係ないと思われるんやけど、
「~楼」とか「~亭」はおそらく当時の妓楼かと思われます。その妓楼の疑いがある数は9軒。
また、国会図書館のデジタルアーカイブにある「境港要覧(大正6年)」っちゅー本にも「遊廓は櫻町遊廓と称し 料亭18件」と至って簡潔ながらそこに遊郭があったことが書かれとります。
「これだけかいな」とツッコミ入れたいくらいあっけない記述やけど、これでわかることは、

★「境港要覧」と「境興町五拾年史」の広告の件数は同じ
(2年しか間ないさかい、まあそりゃそーか)

★遊郭は「料亭」を名乗ってた

ちゅーことですな。

で、懲りずにあれこれ図書館の蔵書を探してみたら、何とうちの地元の図書館に境港の資料があったりしました。
なんや、思いっきり「灯台下暗し」やん(笑
早速見に行ったところ、『改修竣工記念 境港案内』という、昭和5年11月1日に発行されたガイドブックが何故か境港とは何の縁もない地元図書館にあるとはこれも何かの縁。
貸出はおろかコピーさえ禁止の本に遊郭のこと書いてるかな~、と思って期待して見てみたら、やっぱし当時のガイドブックにゃ「娯楽」として遊郭のことが載ってました。

「遊廓は榮町内にあり櫻町と云ふて町の中央にあり道路は至って狭いがその狭いのが特長だそうである。
同町の戸数は約24~5軒あるがその中には商店のみのものもある。娼妓はいつにても平均70余名を下ることなし、多い内には一軒に6~7名少ない内は2~3名といふ様な平均になっている。
芸妓はいずれの検番からでも呼込する様になっている。(以下略)」


これによると、境港遊郭の組合は「櫻町置屋同業組合」と言うて、昭和5年当時の妓楼の数は15軒。
さて、これもネット世界初公開(?)の、境港の遊廓の妓楼は以下のとおり。

・高知楼
・旭亭
・竹の家
・眞木
・日の出楼
・高橋
・大正楼
・快楽亭
・梅原
・いろは亭
・茶屋
・たつみ
・高木
・大古戸
・さヽ屋


(出典:『境港案内』昭和5年)

上の一覧で太字にしたんは、大正時代の一覧にない新しい(?)見世です。
これを見てわかることは、
「なんや、大正8年のデータとそんなに変わってへんやん」ということ。
大正8年の店が全部遊廓の見世と仮定したら、

大正8年:18軒

昭和5年:15軒


と、3軒減ってるってわけですな。
娼妓の数は具体的に書いてへんけど、「70名はくだらない」ということは、最低70人はおったってことと解釈してええかと。

11041510

これが『境港案内』に掲載されとった、当時の櫻町遊廓の写真です。
整地され「大廈高楼」が並ぶ「新地」って感じやなくて、江戸時代の岡場所(長屋にあった私娼街)がそのまま遊郭になったよーな泥臭い趣がこの写真から感じられますな。
記述の通り確かに道は狭そうやし(笑

11041511

『境港案内』の巻末に掲載されとった、「櫻町置屋同業組合」(遊郭)の広告です。
シンプルやけど、ここに遊郭があったってれっきとした証拠です。

また、上の記述にもあるよーに芸妓の検番もあって
・境芸妓検番事務所
・末広検番(芸妓5名)
・港検番(9名)
・高村検番(5名)
・朝日野検番(3名)

と5つの検番+事務所があってそれは末広町ってとこに集中していました。
『境港案内』によると、事務所以外の検番はイコール置屋で、芸妓は遊郭だけやなくて町に散らばってる料亭に芸妓を派遣する仕組みだそうですわ。

そのままのんびり過ごすかと思われた遊郭にも、終戦までに2回災難が訪れます。
まず一回目は昭和10年に起こった「境町大火」。Wikipediaによると遊郭から出火したって書いてるけど、現地で『境港市史』とかの郷土資料を当たってみても、栄町から出火したことは確かやけど、遊郭から出火とはどこにも書いてへん。
まあそれはええとして、幸いこの大火で死者はほとんどでーへんかったそうやけど、町中心部のほとんどが焼けてしもたそうです。
そして、2回目は昭和20年4月23日に起こった陸軍徴用船「玉栄丸」の爆発事故。
火薬か弾薬を陸揚げ中やった船が突然爆発、消火作業中に更に誘爆して合計3回の大爆発が起こり、115人が死亡した事故です。
この事故でまた町の中心部の3分の1が吹き飛び、当時の写真や被災地図なんかを見たら、海沿いの町は壊滅と言っていいくらいの状態でした。まるで空襲で焼け野原になったような感じ。その爆音は、100km先の鳥取市でも聞こえたと言います。
それくらいの大きな事故やったんやけど、軍が起こした不祥事ということと、軍事機密というタテマエで事件の揉み消しがされたせいか、事故の規模の割には住民以外は知らない出来事でもありました。
これは原因の調査をしても原因不明な上に軍事機密という壁があって資料が少なく、長らくスパイ説や兵隊の自殺説などが飛び交ったけど、今から4年前の2007年に事故を調査した憲兵のメモが見つかり、そこには某上等兵のタバコのポイ捨てが原因ということが書かれとって、長年の原因の謎が解けたと地元の新聞に載ったそうです。
火薬扱ってる中でタバコって危ないやん・・・と思うけど、上等兵ってことは兵隊歴が長いだけの一般兵やさかい、当時の一般ピーポーのモラルと危険物に対する知識なんてそんなもんやったんです。上等兵やったら「禁煙!」って字も読めたかどうか怪しいさかい。
今でこそ日本の識字率って100%やけど、戦前は学校に行くことすらなかったり、小学校3年で中退したりする人も農村やったら珍しくなかった時代、海軍も志願兵は今の高校入試レベルの国語と数学の試験があったさかい全員字が読めたけど、徴兵で来た人は字が読まれへん人が実際におった、と元海軍の人が言うとりました。
遊郭で働く女性も、昭和前期でも70%以上は小学校卒か中退程度のレベル、「無就学」という学校に全く行ってへん人もおったくらいでした。女学校卒はほぼゼロ、女学校中退でもごく稀におったというくらいでした。
女学校卒やったら小学校の代用教員くらいやったら出来るさかい、わざわざ遊郭で働く必要がなかったからです。
ちなみに、「代用教員」って教員免許を持ってへん先生のことで、戦前は慢性教員不足で読み書き算盤程度のレベルなら無資格でも教えることが出来たそうです。
うちの母方の婆さんも、高等女学校出て一時期代用教員しとったって本人から聞いたことあるけど、今はあの世やさかいもっと話聞いときゃよかったか。
で、この爆発事件で遊郭があった栄町もほとんどが壊滅、遊郭も多大の被害を受けたと思われます。

これで滅んだかと思った遊郭やけど、遊郭って生命力が強いんかしぶとく生き残るもんで戦後も赤線として売防法施行まで残っとったことが『鳥取県史』に書かれとります。
戦後の赤線時代のデータやと、

業者数:9軒 接客婦数:23人
(『鳥取県史』より)
戦前と比べてこじんまりとはしたけど、きっちり生き残っております。

で、境港に遊郭があったことは上の証拠からして明らかなんやけど、そこで疑問に浮かぶんが、

「何でバイブルに載ってへんの?」

ということ。
これが長らく(?)境港がスルーされとった理由でもあるんやけど、
遊郭は江戸時代からあって更に大正8年には存在しとったことは確か、でも『日本遊廓一覧』や『全国遊廓案内』には載ってません。
最近図書館から借りて読んでる『賣春婦論考』(道家齋一郎著 昭和3年)には大正後期の遊廓のことが載ってるけど、
鳥取県のとこを見ても、やはりというかまさかというか、鳥取と米子しか載ってませぬ。
「そんなものねーよ」と言わんばかりに無掲載。
小規模やったから載ってへんのとちゃうん?いやいや、もっと小さい遊廓も載ってるさかい、それはあり得ん。

この謎(?)を解くヒントもやっぱし『鳥取県史』に載ってた「娼妓の私娼化」が関わってきます。
このことの詳細は、以前の鳥取県シリーズ(鳥取、倉吉、米子)でも散々書いたさかい省略するけど、
境港の娼妓→私娼化はいつやねん?というと、何と明治時代の明治38年(1905)のこと。
ちょうど日露戦争が終わった頃ですな。
それも、境港は自分から「遊郭やめた」と私娼街への格下げ(?)を志願しとるわけで、何で時代を先取り(?)するよーなことをしたか、ということは書いてへんけど、
バイブルに境港のことが全然書かれてへん理由は、やっぱしこの出来事にあったんやと思います。「貸座敷組合」やなくて「置屋組合」ってことも、看板は遊廓やないということやというのが垣間見れます。
せやけど、実際ガイドブックに「遊廓」って堂々と書かれとるということは、実態は遊廓と変わらんかったんやろなということですな(笑

ここで、鳥取県の4つの遊廓が揃ったさかい、鳥取県の遊廓の私娼化のおさらいをしてみましょう。

★境港:明治38(1905)年

★倉吉:大正13(1924)年~大正15(1926)年

※倉吉は最初から「準遊廓」(県立私娼街)として設立

★米子:昭和9(1934)年

★鳥取衆楽園:昭和13(1938)年


そして、また懲りもなくあちこちの資料を嗅ぎまわっとったところ、『鳥取県統計書』っちゅー数字ばっかしの公式資料に、
境港の遊廓の数字も載っとりました。
その統計をエクセルでせっせとまとめとったら、やはりというかまさかというか、明治37年を最後に統計が切れとりました。
要するに明治38年に境港遊郭が廃止になり、それ以降はタテマエ上遊郭は鳥取と米子にしか存在してへんってわけなんやけど、そうは問屋が卸さん。
大正~昭和の資料を見ても、表面上の看板こそ「遊郭」から「置屋」に変わっても「遊郭」は存在しとったってことは明らかなり。

さて、今の境港はどうなってるのか見てみましょう。

11042303

境港です。
ここから日本海沿いに北海道まで、国際船も出とったのももうはるか昔の話、今はのんびりとした所です。
街中に海の香りが広がってて、「ああ港町やな~♪」と海風が心地良いです。


11042304

境港から手が届きそうな距離に島根県があります。
向こう岸と大声出したら会話できるんちゃうか?と思ったりします(笑


11042301

境港市の栄町、ここにかつて遊郭があったと言います。
せやけど、栄町っても案外広し、ここのどこに遊郭があったのか具体的な場所まではわかりません。
というか、ここって「えいまち」って読むのねん、「さかえまち」かと思ったわ。


11042302

歩いてたら古い建物が見つかりました。
この建物には何か「オーラ」を感じましたわ。

11042305

違う建物なんやけど、道の幅とかを考えたらここあたりが遊郭跡ちゃうかな~と思ったりします。
せやけど、この建物からは何かこう「オーラ」を感じへんさかい、見当違いの可能性もあったりします。


11042307


一見したらタダの家。
せやけど何かこの家気になるねんな・・・。俺のアンテナがしきりにビンビン言うとります(笑


11042306

栄町の隣に、スナックが立ち並ぶ一画がありました。
飲み屋通りがあるとこはそこそこ怪しいんやけど、それらしき建物どころか雰囲気もありませんでした・・・。

平成23年現在のところ、探してみたところこんなもんかな?
突然見つけたところもあるし、あんまし期待はしてへんかったさかい、まあこんなもんかな、と半ば諦めのような気持ちでしたわ。



~おまけ~


境港市言うたら、今や「鬼太郎の町」としても有名であります。
ゲゲゲの鬼太郎の作者水木しげる氏の故郷でもあるこの境港、町は遊郭どころか鬼太郎一色でした(笑


11042308

自動販売機も鬼太郎。


11042309

防犯カメラは目玉おやじだそうです。
何か悪いことしたら「おい、何してる!」ってあの声で言われたらある意味怖い(笑


11042310

水木しげる記念館もあったりします。
NHKでやっとった「ゲゲゲの女房」が終わって間もなかったせいか、平日やったのにけっこう観光客が多かったですわ。

「名探偵コナン」の北栄町もそうやけど、境港市もじきに「ゲゲゲ市」に改名するんちゃうか?というくらいの「ゲゲゲ」一色でした(笑
スポンサーサイト

テーマ:消えた遊廓・赤線の跡を訪ねて
ジャンル:ブログ

コメント

■ 管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます
2015/05/29   # 

■ Re: 1934年3月の調査資料によると

>朝汐さん

資料提供おおきにですm(__)m

「遊廓等は含まれていないよう」ということは、これは戸数=見世の数、業態者=女性の数
というわけじゃないってことですよね?
この数字に遊廓の業者もプラスされるってことでいいですかね?
2011/05/07 URL BJのぶ #qDfdtOiE [編集] 

■ 1934年3月の調査資料によると

鳥取県の業態者集団地域は下記のようにありました。

 集団地名-所在地名-戸数-業態者数の順

  1.●●町-東伯郡倉吉町大字●●町-12戸-47名
  2.桜町-西伯郡境町栄町-13戸-39名

 ※この資料に遊廓等は含まれていないようです。
2011/04/29 URL 朝汐 #WSLGaTQk [編集] 

■ コメントの投稿










トラックバック

≫ http://parupuntenobu.blog17.fc2.com/tb.php/851-9af79640
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)