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BEのぶ

  • Author:BEのぶ
  • 自称「ブログエッセイスト」ことBEのぶです。
    昭和史をライフワークにしていますが、平成ももうすぐ30年経ち、昭和が遠い過去になりつつあります。
    昭和も遺産・遺物を探れば立派な「考古学」となります。題して「昭和考古学」。ジャンルは遊郭・赤線跡から鉄道、そしてすっかり忘れ去られた歴史を掘る「昭和の考古学者」として、昭和の名残りを通して考察する旅を続けています。

    基本は標準語で書きますが、エッセイは大阪弁で書いていきます。

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■■■倉吉新地をゆく 消えた遊郭・赤線跡をゆく20

鳥取県にある遊廓跡は、遊廓や赤線調べとる人やったら真っ先に鳥取と米子を思いつくと思います。
確かに、『全国遊廓案内』とか『日本遊廓一覧』、『全国花街めぐり』などのバイブルにもその二つしか載ってません。
それゆえ、「鳥取県には遊廓は2ヶ所しかない」ちゅーのが常識になっとります。

せやけど、

鳥取県にはまだ遊廓があった!

って言うたら、あなたは信じますか?それとも「バイブルに載ってへんやん」とばかりに、俺の寝言と思ってスルーしますか?
確かに、上に書いた通りバイブルにゃ鳥取県の遊廓は鳥取と米子しか載ってまへん。
鳥取県の遊郭はこの二つだけ、そういう固定概念が邪魔をしそれが頭の中で常識になってもーて、
「これだけやないはず」という、頭の中に出てきた素晴らしい仮説を自分で排除してまいます。子供の時ならさておき、大人になったら脳が勝手にそーいう思考になってまうさかい、ある意味しゃーないと言えばしゃーない。
せやけど、今まで何回か言うてきたけど、バイブルは完全無欠、絶対の存在じゃーございませぬ。
間違いもあれば誤字脱字もある、もしかして見逃しとる遊郭もあるかもしれません。
そんな世間一般(?)の常識を打ち破る、これがもう快感♪薬師丸ひろ子の気持ちがわかるよーな気がする。
・・・ネタが古いか(笑

で、お前は何が言いたいんやって?
くどくど言うてもイライラするだけやさかい、
ここはアップルのスティーブ・ジョブズがアップル新製品発表会の時にやるプレゼンのように、
まずはシンプルかつ短い言葉でこのブログのヘッドラインを。

本日、あなたは忘れ去られた遊廓の再発見者になります

さあ、これで興味を持ってきた~。そして下の「続きを見る」をクリックしたくなってくる(笑


~追記~

文章が長いので、忙しい方向けに「3分弱でわかる倉吉遊郭」を作ってみました。
こちらもどうぞ。
HDなので「全画面表示」にすると迫力があって画質もいいですよ~。



iPhoneとかからで、これが見えない方はこちらからどーぞー。
* * *
倉吉新地

「隠れ遊廓」の場所は鳥取と米子の間にある倉吉市
・・・ってもうタイトルに書いとるんやけど、倉吉に遊郭があったなんてデータはどこにも存在はしません。
いや、「データにないさかいほとんどノーマークやった」と言うた方がええと思います。
俺も「鳥取と米子にあって、その間の倉吉にないのもおかしいよな・・・」とは思ってたんやけど、確たる証拠がないさかいそのまま放置してました。
そしてある日、ふと疑問が再燃してたまたまネットでググっとったら・・・
倉吉に遊郭があったっちゅー情報が!

そして・・・

倉吉駅

さあ、「”自称” 遊廓・赤線界のインディ・ジョーンズ」が実地調査に一晩かけて倉吉までやって来たで~。

倉吉市は江戸時代から商業都市として栄えて、その時の町並みが今でも残ってて「美しい日本の歴史的風土100選」にも選ばれとります。文字通り「倉」の町で、瀬戸内側「倉敷」、日本海側の「倉吉」とも言われとるそーな。
その昔の江戸時代初期、大阪に淀屋っちゅー商家がありました。
今で言う先物取引で大金持ちになった豪商で、当時の大坂より西の大名で淀屋から金を借りてへん大名はないというくらい、その借財は合計20億両、今の金額に直したら120兆円と言われとります。
その金持ちぶりはどんなんか言うたら、1年間の遊興費が今の金額に直したら100億円くらい、財力だけやったらヘタな国一個分やん。
で、あまりの贅沢ぶりに「町人の分際であるまじき行為」ちゅー理由で五代目の淀屋辰五郎の代に財産全没収、大坂追放の処罰を幕府から食らってまいます。
その時没収された財産が金12万両、銀12万5000貫。家とか美術品も含めたらン億円相当になったと言います。
この町人一個人に対する、商人にとっちゃ死刑よりも厳しい処罰の真の原因は、大名に貸した金がすごい金額になりすぎて、幕府が徳政令、つまり借金チャラにしたげる令の犠牲になったとも言われとります。
せやけど、淀屋は別に贅沢して歴史に名を残しただけやのーて、今の大阪の中之島とかの開拓にお金を使ったのも事実、今でも大阪にゃ「淀屋橋」って地名(ちゅーか地下鉄の駅)にも残っとります。

で、その淀屋と倉吉と何の関係があるんやって?
淀屋辰五郎は結局30歳で失意のうちに亡くなってしまうんやけど、淀屋辰五郎の先代の番頭やった牧田仁右衛門ちゅー人物が淀屋から暖簾分けしてもろて、生まれ故郷の倉吉に店を構えとりました。
その牧田仁右衛門が淀屋取り潰しの後に淀屋を復活させます。
牧田家は代々淀屋清兵衛を名乗り、「淀屋マークⅡ」として幕末まで倉吉随一の商家として栄え、倉吉の発展を支えました。
また、打吹公園は「日本さくら名所100選」にも選ばれとって、明治時代に植えられた桜の木は山陰随一と言われとったそーな。
明治以降は近代交通の発達で商業都市としての役割は終えたんやけど、ええ意味で開発から取り残されて古い町並みが残り、観光都市として脱皮して現在に至っております。
そんなわけで、ここに遊廓があっても特におかしくない。

あと、これで倉吉ってピンとこえへんかったら、

11040910

こんなんどうっすか?
日本だけやのーて海外でも人気があるっちゅーアニメ、『名探偵コナン』の作者の青山剛昌氏の故郷は北栄町ってとこやけど、倉吉はその隣ってことでOK?
ちなみに、この北栄町はコナンを町おこしにしとるみたいで、看板の通り記念館もあるそーな。
たかがアニメ言うたら失礼やけど、すごいもんですわ。
北栄町はもうコナン一色、

11040913

コナン!

11040914

コナン!!

11040911

マンホールまでコナン!!!

画像はないんやけど、ここの住民票までコナンらしい。
もう名探偵コナン好きにとっちゃ聖地みたいなもんですやろな~。北栄町が「コナン町」に改名したらもう本物やな(笑
せやけど俺は今回こんなもんに用はない、コナン好きな方、そして「北栄町 コナン」で検索して来た方すんまへん、ご迷惑をおかけしております。


さて話を戻して、その倉吉のどこに遊郭があったんかというと・・・

倉吉新地

倉吉市旧市街中心部のある町。
地名は敢えて書きません。この画像をヒントにGoogle Mapでしらみつぶしに探してみてちょ。
せやけど、道路の形を見たらわかるよーに「いかにも遊郭」って感じの道筋やと思いません?
これも、今は歴史の埃の下に埋もれてしもた遊郭・赤線の跡を「発掘」する手がかりになったりします。


倉吉新地

メインの道路から少し奥まった道を入っていったら、そこは倉吉の遊郭跡。
ネットの情報やとまだ建物が残ってるさかいゆっくりと町を眺めとったら、

倉吉新地

第一村人・・・やのーて第一建物発見!
これは上のマップの①の建物です。
2階部分はもちろん全体的にリフォームはされとるけど、当時の原型をよく残しつつ新しくした、古い建物の立て替えのええ見本やと思います。

11040915

上の建物の側面に回ってみたら、曲線的な格子が残ってました。
木造の建造物に曲線をつけるんはかなりの技巧が必要って話を聞いてるさかい、これもさりげないけど贅を尽くしたデコレーションなんやろな、と思います。

倉吉新地

そして2軒目。これは②の場所にあります。
建物は①と違ってリフォームされてへん分かなりガタが来とるみたいやけど、逆に当時の雰囲気を色濃く残してる建物やと思われ。

倉吉新地

この建物の裏手に回ってみました。
裏側は特に何の変哲もないんやけど、

倉吉新地

やっぱし細かい所に「遊び心」を覗かせとりましたな。

せやけど、いちばんの見物は

倉吉新地

③の位置にあるこの建物。
現物は写真で見るよりデカいです。ちゅーか、側面のドアの数を見ただけでもこの建物の大きさがわかると思います。

倉吉新地

デカいだけやのーて、装飾もけっこう細かかったりします。

倉吉新地


11040922

倉吉新地


こーゆーのを見たら、ここは倉吉の遊郭の中でも一二を争う大見世やったことが容易に推定できますわな。



倉吉新地

そして、遊郭跡の真ん中、②の建物向かいあたりに小さな稲荷神社があります。
遊郭とお稲荷さんはセットみたいなもん、昔はここで働く遊女が毎日のよーにお参りしとったことでしょう。


倉吉新地

この建物はどーも病院やったらしい。
何でわかるかというと、写真には撮ってこえへんかったんやけど、玄関のとこに

「健康保険醫」

って書かれた青いプレートがありました。

倉吉新地
イメージ的にゃこんな感じやったです。

読んで字の如く「ここでは健康保険が使えますよ」ってことやけど、
「医」やなくて「醫」ってことに注目。
「醫」は書くまでもなく「医」の旧字体なんやけど、旧字体は戦前じゃ一般的に使われとった字体やけど、戦後は終戦直後はさておき一般にゃ使われへんよーになりました。
健康保険自体は昭和初期から導入された制度やさかい戦前からあったんやけど、任意であってあんまし普及はしませんでした。
今みたいに国民全員の加入が必須になったんは1961(昭和36)年からのことやさかい、健康保険って意外に歴史が新しいんやでー。
健康保険は今は国民皆強制加入の「国民の義務」やさかい、99.9%の人が入ってるけど、昔は入ってへん人が多かった、というか入ってへん人の方がはるかに多かって、ほな病気になったらどないすんねん?というともちろん治療費は全額実費。
生命保険も昔からあったんやけど、今みたいに入院したら治療費支給とかのプランはなかったはず、
貧富の差も昔はかなり激しかったさかい、盲腸(虫垂炎)の手術で破産する人や、治療費払われへんかって病気を放置して亡くなった人もたくさんおったとか。
その代わり、薬事法もなかったさかい民間療法もいっぱいあって、薬も漢方薬なんかがそこらへんに売ってたりしました。今みたいに販売場所が法律で決められとったわけちゃうし。
例えば、風邪薬やったらうどん屋で買えた時代でもありました。
全国的やないとは思うんやけど、大阪じゃ昔から「うどんや風一夜薬」っちゅー風邪薬がどこのうどん屋でも売られとって、戦後に薬事法が施行された後は廃れてしもたものの、その薬自体は今でも大阪で売られとったりします。

で、風邪とかやったらさておき、戦前は不治の病やった結核なんかは長期的な治療になる上に薬代も非常に高いさかい、
「そんなん病院行ったらええんやん!」って今みたいな感覚で行けたもんでもなかったんですわ。
一家の大黒柱が病気で倒れて、さらに健康保険に入ってなくて収入がなくなったらどうするか?
今みたいに福利厚生が充実してへんかったさかい、行き着く先は一家野垂れ死に。
まあ、その分親戚やご近所付き合いが濃かった時代やさかい、そこは周りが何とかしてくれることが多かったはずやけど、
奥さんが働こうにも、戦前はキャリアウーマンなんて「職業婦人」って言われて上野動物園のパンダ並の珍獣扱い、手に職を持ってへん限り就職は無理言うてもええよーな状況でした。
ほなどうしても働かんとあかん状態になった時はどうするか?
手に職を持ってる人以外はさておき、そうでない人の行き着く先は・・・私娼街の娼婦でした。
これは免許も要らんし技術も特に必要なし、必要なんは身体一つのみ。当時は小学校卒や中退、小学校にすら行ってへん人も農村とかに多く、字もロクに書かれへん無知な人もたくさんいました。
そんな人は学校行っても教科書が読まれへんさかい、簡単にできる娼婦になる人も多かったそうな。

で、看板の「医」がわざわざ旧字体で書かれとったことが妙に気になったんやけど、
おそらく戦前か戦後の昭和20年代の頃のプレートかな?と思います。昭和30年代になったら「当用漢字」が普及して、「醫」から「医」になっとったと思うさかい。
もしそうやったら、場所が場所やさかいここで働いとった女性たちの検診の場も兼ねた診療所やったかもしれません。
ところで、「保険」の「険」も旧字体の「檢」になっとったはずやけど、「醫」がインパクト強すぎて確認せーへんかった(笑


これくらいやったら「倉吉 遊郭」でググったら出てくる情報なんやけど、逆に言うたらググっても倉吉新地の情報はこれ以上ありません。
せやけど、こんなことで満足する俺じゃーございませぬ。ここからが「”自称” 遊廓・赤線界のインディ・ジョーンズ」の本領発揮。
どっかに史料があるはずや!ちゅー期待を胸に込めて向かった所は。

倉吉市立図書館

ここ。
さすがにジモピーにしかわからんと思うさかい説明すると、こちらは倉吉市立図書館です。
何か情報があるかもしれん、って一縷の望みをかけて向かって図書館員のおねーたまに聞いてみたんやけど、
「遊郭?何すかそれ?」
状態。
戦前の倉吉の地図見せて♪って言うても、必死に探してくれたもののほとんどないみたいで、
おねーたまも一緒になって探してくれたんやけど、おねーたまが「(地図は)ありません」と片付けた本を改めて見ると地図が載ってある始末。しっかりしてくれ図書館員(笑
倉吉はおろか鳥取県自体境港以外は空襲受けてへんさかい、そんなもん余裕のゆうちゃんで残ってるやろと先入観があっただけに残念。
「うーむ、こりゃあかんか・・・」
と諦めムードやったんやけど、俺の要求がマニアックすぎて手に余ったんか、おねーたまが最強助っ人を呼んできてくれました。
その助っ人とは・・・

図書館の館長

でした。うむ、館長自らお出迎えとはまことにご苦労である。←違う
そこで、自分は遊郭を探してて倉吉にもあったって情報を聞いてわざわざ大阪から不眠不休で来ましたうんぬんかんぬん・・・
ちゅーのを自己紹介代わりに言うたら、
「倉吉に遊廓?ああ~確かにありましたよ」
とうれしい返事。
館長も詳しいことは知らんみたいやけど、町の一部の遊郭として開発された区域を地元の人は「新地」って言うとって、その「新地」とは・・・ある町の一部のある一角。確かにあそこは遊廓やった!
そこで、何か資料か何かありませんか?何でも結構です!手ぶらで大阪に帰るわけにゃいきません!ガソリン代の元は取らせろゴルァ!(笑
ってお願いして探してもらうこと数十分、2~3冊書庫の奥底から遊廓のことが書かれた書物を見つけてきてくれたみたいでした。
よっしゃラッキ~、言うてみるもんやわ!

そこに書かれた「倉吉新地」の情報をまとめると・・・

鳥取と米子と比べて倉吉の遊郭は比較的新しい方で、「地域発展のため」と使い古された理由で遊郭の設置話が持ち上がったのが、今から95年前の大正5年(1916)のこと。
議会であれこれあって、設置の許可が出たんが大正末のこと。
「大正末」って書かれとったんは、『新編倉吉市史第三巻 近現代編』なんやけど、
(なぁーんや、ちゃんと倉吉市の公式歴史書に書いとんやんw)
「ほな、大正末って具体的に何年やねん!?」ちゅー疑問が浮かぶことでしょう。
ここで出てくるんが、昭和5年に書かれたという書庫の奥深くに眠っとった倉吉の観光案内です。長年の風化で紙の色が褐色になって、紙自体もパリパリに固まっとって「取り扱い要注意」なんが、年代を感じさせます。
裏に出版社などが書いてへんさかい、どうも自費出版っぽい倉吉のガイドブックらしいんやけど、これには

「大正十三年風紀取締の必要上売笑を常習とする酌婦置屋業者を絡めて一廓をなさしむべく、
倉吉三朝土地株式会社を創立して資金を供給して(以下略)」



と、倉吉遊郭の成立は大正13年ですよ、ってことがはっきり書かれとります。
そして、倉吉の遊郭は「倉吉新地遊廓」ちゅー正式名称があったことも書かれとります。
上の一文から、倉吉にゃ遊廓が出来る前から私娼がはびこっとって、更に芸妓も「枕芸者」と化しとって半ば公然と売春をしとって、それを整理する目的もあって新地を作った・・・ってのも推定できます。
「枕芸者」ってのは体も売る芸者のこと。
芸妓は体を売るのは禁止やけど、地方じゃほぼ黙認状態。せやさかい地方やと花街と遊廓の区別がつかんかって、当時をリアルタイムに知ってるジモピーの人でも記憶をごっちゃにしとる場合もあります。
逆に吉原とか松島の格式高いスーパー級遊廓の芸妓は「うちらは芸で生きてます!そのために必死に芸の稽古もしとります!」とプライドがあって、「体は絶対売りません!したかったらあちら(←妓楼)へどーぞ!」と容赦なく突き放したそうな。
前にテレビで”THE LAST GEISHA”こと遊廓から赤線、そして現在に生きる吉原芸者最後の生き残りのことをやっとったけど、
彼女も体は絶対に売らん、体はおろか恋愛も封印せんとあかんのがホンマのプロ芸者だそうで、
40歳まで処女を守ってそのままお嫁にいった芸者もおったそうです。
そこらへんのプロ意識はすごいもんがあると思いますわ。

で、上に挙げた本を読んでふと疑問に思ったことが。
倉吉新地遊郭は『倉吉市史』にも、そんなに詳しくはないけど書かれとるさかい隠れ遊郭でも何でもない、ただ俺たちが発掘してへんかっただけなんやけど、
そんな「公式」な遊廓やのに何で『全国遊廓案内』にゃ載ってへんのやろ?
大正末あたり、倉吉新地が出来たばっかの頃に編集されたって勝手に推定しとる『日本遊廓一覧』ならさておき、
『全国遊廓案内』に載ってへんのは何か理由があるんちゃうか?と。

このヒントが、『倉吉市史』と同じ倉吉市立図書館にあった『鳥取県史』に書かれとりました。
昭和に入って世界大恐慌の波をかぶったのと、カフェーなどの新しい風俗産業のすさまじい進出で大打撃を受け、全国の遊廓は経営的にかなりヤバい状態になってきました。
更に人身売買って観点からの廃娼運動も盛んになってきて、遊廓はますますピンチ。
鳥取県も例外やなのーて、客足がかなり遠のいてしもて、遊廓は高額税金を生む金の卵でもあるさかい、潰れてくれたら地元も県も経済的に困る。
そこで鳥取県が導入した画期的な(?)制度が、

娼妓の酌婦化

でした。
酌婦って法律的な言い方で、簡単に言うたら「お客の横について酒のお酌をする女性」ってこと。水商売のおねーちゃんが「平成の酌婦」に当たります。
もちろんお酌をするだけでそれ以上のことはしたらあかんのやけど、そんなもんはタテマエだけになっとって、実際は「酌婦」って私娼の代名詞でした。
広辞苑の次くらいの格式の国語辞典の「大辞林」にも、「酌婦」の欄に
「②下級料理店などで客をもてなすだけでなく売春もする女」
と書かれとるくらいやさかい、「酌婦≒売春婦」ってのが一般世間での認識ですやろな。
その私娼の集大成というか結晶になったんが、あの伝説の東京の「魔窟」こと玉の井や亀戸っちゅーわけなんやけど、
玉の井も当時の東京府や警視庁に黙認されとったさかい、言い方変えたら「東京の隠れ遊廓」やったわけです。
まあ、「隠れ遊廓」言うても玉の井は有名になりすぎて「隠れ」でも何でもないんやけどね(笑

ほな、娼妓を酌婦にしたらどういうメリットがあるかというと、
遊廓の娼妓は内務省と県がダブルで管理するさかい、遊郭で働きたかったら親の承諾書やら娼妓になる理由やら、
提出する書類が山ほど必要になります。もちろん時間もかかります。
酌婦の場合はそんな書類も特に必要なく、地方に行ったらかなりゆるゆるな所もあります。
そういうさじ加減は実際は道府県(戦前は「東京都」やなくて「東京府」やったさかい、「都」はなしね)に丸投げで、
内務省の娼妓取締りの法律はもちろん、道府県が独自で作った取締条例もありました。それを変えたら内務省は事実上黙認やってわけなんです。
戦前の知事は直接選挙やなくて、内務省のエリート官僚が中央から派遣されて就く職やったさかい、条例作る前に内務省に根回ししときゃそれでよし。
例えば、娼妓は遊郭の外に出るにゃいちいち警察の許可が必要で、無断で外出したら法律違反やさかい罰金はもちろん、警棒で殴られリンチを食らうこともあるってことは有名な話やけど、
鳥取県は条例を変え、昭和2年(1927)に娼妓の自由外出を許しとる、と『鳥取県史』『倉吉市史』両方に書かれとります。
(というか、『倉吉市史』が『鳥取県史』の文章を流用しとるみたいやけど)
国がそれを変更するのは昭和8年(1933)のことやさかい、鳥取県は国より6年先取りしとったってことですな。

また、法律によって公娼は18歳以下はなられへんかったんやけど、酌婦は法律上は16歳からなれるさかい、
公娼を酌婦にすることによって、法律上は「酌婦」のカフェーの女給と同じになって、天敵であるカフェーとの競争力がつく。
更に、公娼は身請け金という事実上の人身売買が人権の観点から標的になっとったんやけど、
酌婦にしたらタテマエ上は身請け金なし、あっても安いもんやさかい廃娼運動家の攻撃も避けられる。

そんなこんなでメリットが多い公娼の酌婦化、実は倉吉新地遊郭は鳥取県が考えたウルトラC、「公娼の酌婦化」のモデルケースとして作られたみたいで、大正5年の設立案から実際の設立まで10年近くかかったんも、倉吉新地遊郭は今までどおり公娼にするか、それとも酌婦化するかで揉めとったからということでやんす。
そして倉吉新地は酌婦制にすることが決定、倉吉新地は簡単に言うたら、「鳥取県立私娼街」ということですやろな。
せやけど、あの「魔窟」みたいやなくてちゃんと区画整理した土地(新地)も用意した「準遊郭」ってことで、
これは恐らく、表向きは遊郭なしでも実は酌婦という「準公娼」がおる「準遊郭」を県が管理しとった群馬県や埼玉県とかを参考にしたと思われ。
ちなみに、埼玉県は「乙種料理店」という名前で『全国遊廊案内』にも載ってるし、群馬県は載ってへんけど高崎の柳川町という所には昭和12年には店が16軒、酌婦220人おった中規模の「準遊廓」やったことが確認できます。

その倉吉新地は新しい「遊郭」ちゅーこともあって、その姿は

「山陰唯一、他に見ることが出来ぬ、大廈高楼軒を並べた現在の廓を現出したものである」

とな。
そして、掘り出し物ガイドブックにゃちゃんと遊郭が出来て数年くらいの写真が残っとりました。

倉吉新地

倉吉新地


ある意味かなり貴重な、そしてたぶん他にゃ残ってへんやろう倉吉新地の写真です
写真だけ見たら「どこが『大廈高楼』やねん!!」と思うやろーけど、それは今の常識での観点であって、当時は東京とか大阪の都市部はさておき、地方に行ったら5階建てでも「超高層建築物」でした。
恐らく大正~昭和初期の倉吉はほとんどが平屋で、2階建てでも「大廈高楼」やったんやろな、と衝撃的やったんかもしれませんな!?
それか、遊郭の建物があまりに豪華かつ威圧感があったさかい、「大廈高楼」に見えたんやろな、と。
まあ、今残ってる建物、特に③はかなり威圧感あるさかい、そんな建物がズラリと並んでたらそりゃ「大廈高楼」に見えんこともない。ちょっと想像しただけでも何となくそのイメージが沸いてきますわ。

で、倉吉新地遊廓が成功したせいか、昭和9年(1934)に米子が、昭和13年(1938)に鳥取衆楽園が娼妓を酌婦に切り替え、
衆楽園が「私娼街」になった時点で、鳥取県は遊廓がない廃娼県になっちゃいました。
もちろん、ここまでの流れでわかるよーにそれは表向きだけやけどね。

「県立私娼街」って看板が変わっただけの遊廓はそのまま残ってるんやけど、
こういう鳥取県の法律の盲点を突いた苦肉の策(?)で作られた倉吉新地遊郭が「隠れ遊廓」になってしもた原因ちゃうか?と思います。
『全国遊廓案内』にゃ「公娼」としての遊廓しか載ってません。
当時日本最大の私娼街、吉原並みの規模を誇り女性の数も1000人~1500人(一説には戦前のピーク時推定2000人)いたと言われる玉の井は厳密に言うたら遊廓ちゃうさかい、『全国遊廓案内』じゃまるでなかったかのよーに華麗にスルー。
つまり、鳥取県のローカルルールで酌婦化した倉吉は「私娼街」扱いされてスルーされたんか、『全国遊廓案内』の元ネタになった資料か本かに倉吉がなかった、と推定できます。
実はこれは勝手な仮説やなくて、もう一つそのモデルケースがあったりします。つまり元は遊廓やったんやけど倉吉新地の前に自分から「遊廓や~めた」と私娼街化してしもた、でもちゃんと「遊廓」としては残ってるとこがあったということで、
もちろん表向きは「私娼街」やさかい『全国遊廓案内』などにゃ載ってません。
その場所とは・・・また今度詳しく♪とじらしておきましょう(笑

っちゅーわけで、倉吉新地は「遊郭」とジモピーから呼ばれとっても、厳密に言うたら私娼街であって遊郭やないわけで、
ここで働く女性も「娼妓」「公娼」やなくて「酌婦」扱いということやったんです。
ここらへんは遊郭と「やってることは変わらん」さかい、素人にゃ基準が曖昧なこともあってごっちゃになるけど、
「遊郭」と「私娼街」は似てるようで別物、厳密には区別せんとあきません。
せやけど、くどいよーやけど実質は「遊郭」やったんやけどね。やってることは変わりないし(笑
そういうとこを、俺は敢えて「準遊廓」っちゅー造語で表現してみよーと思います。

倉吉新地が「準遊廓」扱いやったことは、昭和5年に内務省警保局がまとめた遊郭事情にも書かれとります。
これは、たまたま国会図書館の「近代資料アーカイブ」にあった遊郭関係の資料の山から見つけたもんなんやけど、
その中に昭和4年末現在の全国の遊郭や私娼街のデータが埋もれとりました。
そこにゃ倉吉はきっちり「私娼街」として掲載されとって、昭和4年末でのデータは

★店の数:12軒
(※「密婬賣ヲ為サシムルコトヲ常業トサセルモノノ◯帯ノ数」と書かれとります。◯は文字が判別不能)

★私娼数:48人

とのこと。
倉吉市立図書館で見つけた資料と数ではほぼ一致しとります。
ちなみに、今回俺が発掘したデータは『全国遊廓案内』とほぼ同時期のデータな上に、数字もこれより信頼が置ける非常に貴重なデータやと思います。
何でか言うたら、『全国遊廓案内』の数字は一体どこから出てきたんか元ネタが不明、せやけど今回発掘のデータは、今の警察庁にあたる内務省警保局が国家権力を使って、昭和5年6月に各都道府県に「データ出さんかい」と脅して・・・やなくて提出させた統計資料が元ネタと書かれとります。
資料が明らかな警察資料な上にその元ネタが自治体の統計資料、方や市販された出版物とは言え元ネタ不明の本、どっちの数字が信頼出来るかは説明不要でしょ。

そして、この資料の更に貴重なとこは、全国の私娼街のデータもあるということ。
遊廓のデータは、各都道府県がまとめた数十年前~100年前の化石のよーな統計資料をこまめに見ていく、っちゅー労力さえ惜しめへんかったらわかる所はわかるんやけど、
私娼街のデータは、ある意味有名すぎな亀戸・玉の井以外なかなか出てくるもんやありません。正直、全国規模の統計資料は初見です。
我ながら素晴らしい資料見っけ♪と自画自賛しとります(笑

また、Wikipediaの「遊廓」の「近代以降の遊郭」の項目に書いてある、「草間によれば、「昭和4年12月末日現在のデータは以下の通り」以降の数字はこの内務省資料を元ネタにしとることがわかります。
なぜならば、Wikipediaの数字とこの資料の数字がぴったし一致するさかい。
草間というのは当時の社会学者の草間八十雄のことで、当時の貧民や娼婦などを研究・調査しとった一風変わった学者でもありました。
一般にゃ知られてへん名前やけど学会じゃ有名人で、内務省の嘱託やった時期もあるさかい内務省には少なからず顔が利いたはず。
数字が面白いくらい一致するってことは、草間八十雄が何らかの形でこの資料を見たか、資料作成に本人が関わっとったんかのどっちかやと思います。


で、ここでちょっと考えてみたんやけど、
こういうケースって他の県とかでもあったんちゃうかな?と。
つまり「県立私娼街」が鳥取県以外にもあったんちゃうか、という仮説が立てれるわけで、
遊廓を設置するとなるとものすごくハードルも高いし、廃娼運動家もうるさい。
遊廓の設置権は知事にあるさかい、知事に政治力あらへんかったらそれも無理。
でも公娼やなくて酌婦やったらハードルも低い。
それやったら・・・ということがアリエール!?
大阪の今里新地とか港新地は芸妓の三業地というタテマエで作られたし、これは仮説やけど和歌山市にあった「阪和新地」なんかも一種の「県立私娼街」ちゃうんかな?と推定したりします。

ということは・・・
『全国遊廓案内』や『日本遊廓一覧』には載ってへん、他にほとんど知られてへんお隠れ状態の遊廓、名づけて「準遊廓」が意外に他地方にもあるんちゃうかな?
こりゃちょっと掘り出し甲斐があるんちゃうか?ますます面白くなってきた!
と勝手に妄想・・・やなくて想像を膨らませとります(笑


で、肝心の倉吉新地遊郭の話なんやけど、
一体ここの規模はどないやったんか?「大廈高楼」はわかるけど妓楼の名前や女性の数は?
それもちゃんと書いてました。
昭和5年現在での営業者数は12軒、酌婦の数は60余名みたいで、世界大恐慌で日本がどん底やった時代の遊廓としては、規模をABCDにランク分けしたらC+かB-って感じの規模ですな。
また、現地の古老から聞いた情報やと、うろ覚えって前置きつきで、昭和10年くらいにゃ一つの妓楼にだいたい8~10人の女性が働いとったそーやけど、それやったら80人か100人そこらになりますわな。
そして、俺が知る限りネット上じゃ世界初公開、昭和5年現在での倉吉新地遊廓の妓楼の名前は↓

・稲荷山楼(359)
・長寿楼(253)
・お多福楼(246)
・扇楼(61)
・勝山楼
・八橋家(251)
・梅の家(215)
・文楽亭(308)
・旭楼(225)
・光島楼(330)
・松竹楼(302)
・第二扇楼

合計:12軒


店の横の括弧の中に書いた数字は当時の電話番号です。別にこんなん書かんでもええんやけど、せっかく本に書いてたさかい備忘録代わりに書いときますわ(笑
これでわかるのは、倉吉新地の電話普及率の高さ。
今でこそ誰でもケータイ持ってる世の中やけど、昔は電話持ってるだけですごいステータス、電話の使用権も電話機自体も非常に高いものでした。
どれだけ高いか言うたら、昭和4当時の電話新設料(加入権)が
・東京:1,120円 
・大阪:1,020円
・名古屋:865円

というデータがあります。
こ料金がいかにバカ高いかは、当時の総理大臣の月給が1000円やったことからもわかるでしょう。
「私娼街」のクセしてこの電話所持率83%という高水準は、いかに恵まれた環境で遊廓やってるかと、妓楼の主が金持ってるかを知ることが出来ます。
ちなみに、同じ私娼街でも東京の玉の井の戦前のデータはないけど、戦後の赤線時代の玉の井でも売防法寸前(昭和33年)で13%くらいやったさかい、
戦前もそれくらいか、もっと低かったんちゃうかな?と思います。

で、そのうちの一軒の「梅の家」なんやけど、
③の建物の裏に・・・

倉吉新地

「梅乃家(梅の家)」の屋号が!!

つまり、③は「梅乃家」やったってことで、文献と建物が見事に一致しました。
屋号といい建物といい、よくぞ残っててくれとりました、神様に感謝(-人-)
これも倉吉があんまし知られてへん遊廊で、中心地が元々郊外にあった倉吉駅周辺に移ったせいか、開発から取り残されて今でも奇跡的に残ってることも言えると思います。
残念ながら人は他の2軒と比べて人は住んでへんみたいやけど、保存状態は良好みたいですわ。

で、上で紹介した、倉吉新地が現役やった頃の写真をもう一回よーく見たら・・・

倉吉新地

あら、いちばん手前の店の暖簾に「本 梅乃家」って書かれとるのを確認しました。


倉吉新地

もう一枚の写真を拡大し、加工ソフトでいろいろ編集してみたら、いちばん手前の建物は「お多福楼」って書かれとります。そしてその名前はガイドブックにも載ってた見世の名前なことを確認。
その一つ奥の建物の名前がよく見えへんのやけど、名前が二文字やってことは確かやさかい、当時の見世で二文字のは「旭楼」「扇楼」の二つ。
せやさかい、奥の方はこのどっちかやと思います。
極限まで拡大してみたら、字の崩し具合からしてたぶん「扇楼」の方やと思うんやけどな~。


倉吉新地

これは同じ道を俺が撮った写真なんやけど、
いちばん手前右の建物が「梅乃家」やさかい、似たアングルで撮ったもんですな、偶然やけど。
そして、当時の写真がだいたい昭和初期に撮られたもんやと推定したら、上のはそれから85年後の姿ってわけでんな。


そして、今回の集中調査でもう一つわかったことは!

倉吉新地は戦後も赤線として残った

ということ。
『鳥取県史』にゃ戦後の女性史のことも書いてるんやけど、そこにさりげなく鳥取県の赤線のデータがありました。
そのデータを箇条書きしたら、

●鳥取:業者数30軒 接客婦数78人

●米子:業者数29軒 接客婦数77人

●倉吉:業者数11軒 接客婦数43人

●??:業者数9軒  接客婦数23人

(出典:『鳥取県史』 売防法施行寸前のデータ)



くっきり公式データに「倉吉」の名前が載っております。
これで倉吉新地は戦後も赤線として営業しとったことは確定。そして見世の数は戦前より1軒少なくなってます。
こないして数字で出すことによって、知られることがなかった謎に遊廓のベールがだんだんと剥がれていきます。

で、倉吉の下にある「??」って何ぞやって?
それは・・・まだ秘密です。その謎の遊廓のベールはじきに明らかになることでしょう。
「瓢箪から駒」の諺の通り今回の調査の違う意味での収穫は、

隠れ遊廓が鳥取県にもう一つあった

ちゅーこと。
倉吉新地はぶっちゃけ他の人が発見しとって、俺もそれを見て知ったわけやけど、
ここまで細かく書いたんはたぶん俺が初めて、そこは自画自賛させて(笑
「??」は、少なくても俺が調べた限りネット上にゃ全然書かれてへんことやさかい、本邦初公開になるかも!?

倉吉新地は「歴史秘話ヒストリア」のよーな秘話遊郭、遊廓・赤線ハンターから見逃されとった分、その建物の輝きが保たれとったんかもしれません!?
こりゃええ儲けものしましたわ。


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テーマ:消えた遊廓・赤線の跡を訪ねて
ジャンル:ブログ

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2014/08/09   # 

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2014/01/23   # 

■ 

はじめまして

倉吉民です

「梅乃家」が潰れたことは存じなかったですが、Googleのストリートビューで建物だけはみることができますよ
2013/10/24 URL C.メサイヤ #- 

■ Re: タイトルなし

>カズさん

> 「梅乃家」はつい最近取り壊され更地になっています。

うわ!あの、ある意味いちばん保存してほしかったとこが・・・orz
壊されるのは、時代の流れやさかい仕方ないと思いますけど、壊される前にせめて専門家・・・とは言わんけど我々みたいに研究しとる人に内部を公開して、今後の研究材料にして欲しかったな~と切に思います。
ある意味、このブログが「梅乃家」の遺影になるとは。いつかはなると思うけど、それにしてはちょっと早いかな、と思います。

貴重な情報をおおきにでした。
2013/08/21 URL BJのぶ #- 

■ 

非常に残念な報告です。
倉吉遊郭跡から徒歩3分位の所に住んでいます。

「梅乃家」はつい最近取り壊され更地になっています。
2013/08/13 URL カズ #- 

■ Re: 倉吉の旧遊郭

>はまちゃんさん

返信が遅れてしもて申し訳ないですm(_ _)m

はまちゃんさんご提供の情報のとこは、さすがに未調査でした。
遊廓があった街の隣は、図書館で見つけた本によると芸妓の花街やったらしいさかい、
(ただし、今の町名と昔の町名の範囲が一致しとったら)
もしかして花街の料亭やったって可能性があります。遊廓はたいてい区画がくっきり決まってたさかい、そこ以外に区画が広がるってのは滅多にないさかい。
せやけど、これは調べてみる価値ありそうですわ♪倉吉新地はまだまだわからんことが多いし、掘り出したらもっと情報が出てくるはずやさかい。
今度は泊まりがけで調査せんとあきませんな~(汗
2012/04/25 URL BJのぶ #- 

■ 倉吉の旧遊郭

倉吉の遊廓散歩大変興味深く拝見しました。わたしは以前倉吉で遊廓の跡だという建物を見たことがあるのですが、それは、あなたの地図にある①②③のもう少し右寄りにある場所でした。それはあなたの地図では「レスト・・・」という字がある建物で、今の地図を見ると「レストラングリーン」となっている建物だと思います。その建物の前は広くなっていて、現在「JA鳥取中央」となっている建物も繋がっているようの思いました。そして、「レストラングリーン」となっている建物の裏手には細い路地があって、その建物から離れへ繋がる渡り廊下がその路地の上を越していたと記憶しています。渡り廊下は屋根付きで珍しいものだと思いましたが。もし、「レストラングリーン」とその裏の渡り廊下の写真が見られると嬉しいのですが。また、旧遊廓のあったあたりの地図では手前に細い川が流れていて、そのほとりに大きなお地蔵様が立っているのですが、そのあたりの写真も見られるとありがたいのですが。
2012/03/31 URL はまちゃん #RJlFkPKM [編集] 

■ Re: 1936年の資料より

>朝汐さん

なんかこういう記述を見たら、行きたくなってきますね(笑

> また倉吉のカフェー街も面白かったそうです。

倉吉市立図書館で見つけた観光案内にカフェーのことも、新地遊廓ほどやないけど載ってて、
店名とかをメモってきたはずなんですけど、どうもメモったのが気のせいやったみたいです(汗
何が面白かったんか、やたら気になりますわ。
2011/04/26 URL BJのぶ #qDfdtOiE [編集] 

■ 1936年の資料より

●●町には廓があるが、公認でないので、遊興費は僅かですむ、
人生の裏道を歩く女達に似合はず親切で純朴でまた美人が多い。
家族同様なサービスは遊客をして充分満足させる所に、
此の廓の面白さがある。

また倉吉のカフェー街も面白かったそうです。
2011/04/24 URL 朝汐 #kSi.wH62 [編集] 

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