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BEのぶ

  • Author:BEのぶ
  • 自称「ブログエッセイスト」ことBEのぶです。
    昭和史をライフワークにしていますが、平成ももうすぐ30年経ち、昭和が遠い過去になりつつあります。
    昭和も遺産・遺物を探れば立派な「考古学」となります。題して「昭和考古学」。ジャンルは遊郭・赤線跡から鉄道、そしてすっかり忘れ去られた歴史を掘る「昭和の考古学者」として、昭和の名残りを通して考察する旅を続けています。

    基本は標準語で書きますが、エッセイは大阪弁で書いていきます。

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■■■米子の遊郭跡をゆく 消えた遊郭・赤線跡をゆく22

さて、鳥取・倉吉と続いたら・・・もうお次はご想像の通り米子です。
誰や、「こめこ」って読んだんは。「よなご」やっちゅーねん(笑


米子は鳥取県第二の都市やけど、その歴史は意外に(?)古くて、戦国時代に吉川元春(毛利元就の次男ね)の子供の吉川広家がここを本拠地にしたことから始まるんやけど、「米子」という地名はその前からあったことが当時の文献に残ってます。
江戸時代の一時期は米子藩が置かれた時代があったんやけど、結局鳥取を治める池田氏の家老が治める所になって、江戸時代は商業都市として栄えた所でした。
鳥取県を日本全体に例えたら、鳥取市は東京に対して米子は大阪や博多みたいなもんですわな。

米子の遊郭は、商業都市っていう人が集まりやすい土地柄もあってか、鳥取には遊郭がなかったくせに(出来たのは明治時代)米子には江戸時代から遊郭が認められとりました。
その遊郭の場所は灘町という所にあり、今もその地名は残っています。
そして明治時代になっても場所を移動せずそのまま残ってたんやけど、米子遊郭に転機が訪れたんが大正時代のこと。
それまでは遊郭と言うても芸妓もおる所やさかい、数少ない町の娯楽として町と共存しとったんやけど、明治後期から始まったキリスト教団体による廃娼運動の火が米子にも点火、
遊郭に対する風当たりは強くなる一方で、大正2(1913)年に郊外の「新地」と言われた場所に移動しました。
当時「新地」と呼ばれた所は今の花園町で、『全国遊廓案内』にゃ米子遊廓は灘町にあるって書いてるけど、これは間違い!
・・・ではなくて、花園町って名前に変わったんは昭和10年(1935)のことで、それまでは「灘町2丁目」でした。
つまり、『全国遊廓案内』が発行された頃はまだ灘町やったわけで、ここの記述は正解みたいですわ。
ここじゃ、いちいち名前換えたらややこしいさかい遊郭があったとこを「花園町」っちゅー表記で統一します。

遊郭が移る前の花園町は「高砂」と呼ばれとったらしく、これって「たかさご」と読みたいとこなんやけど米子の場合は「たかずな」と読んだそうです。
名前のとおりここあたりは畑すらなく、一面砂丘が広がっとった荒地で、いちばん高い砂丘の家に神社が建ったそうやけど、その神社は花園町の隣にある糺(ただす)神社として現存しとります。

11041402

これは大正13(1924)年の米子市の地図のアップなんやけど、今の花園町に「遊廓」と書かれてるんがわかると思います。
遊郭が花園町にあったって証拠なんやけど、その移転を巡っておかしな記述が。
図書館で見つけた『米子界隈』っちゅー、地元の人が書いた米子の思い出話があって、そこにゃかなりの紙面を割いて灘町のことを書いてるんやけど、
矛盾その① 「移転の時期」

★鳥取県史:大正2年

★米子界隈:大正3年


矛盾その② 「移転形式」

★鳥取県史:灘町にあった遊郭をそのまま移転

★米子界隈:灘町とは別に新しく「新地遊郭」が出来た


矛盾①の方は、まあ1年の違いやさかいそこらへん細かいことは言わへんけど、
矛盾②の方はどうも内容は全然ちゃうし。
せやけど、俺は『鳥取県史』の方が正解とみた。当時の経済的に米子に二つも遊郭を作る必要ないし、『米子界隈』はあくまで米子市民の回想やさかい、そこらへん記憶違いもあるかもしれません。
そして、『米子界隈』には「(遊郭が花園町に移ったのは)市内各地に散らばってた私娼街の整理」という建前もある、と書かれとります。
ここからは『米子界隈』にある記述もベースにした俺の推定やけど、箇条書きすると

1.灘町遊郭は芸娼妓混合遊郭で、芸妓も何だかんだで「二枚鑑札」が多かった

2.当時の米子には私娼がいる界隈が市内に散在しとった
(事実、米子駅周辺には「南新地」と呼ばれた私娼窟があった、と『鳥取県史』に書いてました)

3.私娼の整理も含めて灘町の娼妓だけ花園町に移った。

4.灘町には芸妓だけが残って「花街」を形成した


うーん、どーでしょう?

昭和に入り、米子遊郭は危機的状況を迎えます。
それは、カフェーの進出。
新しい風俗産業であるカフェーの進出で女の子がカフェーの女給に取られてしまい、公娼という縛りがキツい上に交通の便が悪い僻地にある遊郭は行く客も働く女性もどんどん減るばかり。
更に、これは記録に全くないさかいあくまで想像やけど、いったん整理された私娼窟も昭和の不景気で復活し始め、それも遊郭を圧迫したんちゃうか、と思ったりします。
そこで、鳥取や倉吉と同じく「公娼の私娼化」を米子も昭和9(1934)年に始めました。これは『鳥取県史』に「カフェーに対抗するため」と理由がはっきり書かれとって、それだけ遊郭側も焦ってたことがわかります。

で、米子の遊郭のことを調べようと『米子市史』を見てみたら・・・遊郭の「ゆ」の字もない(汗
まるで「遊郭なんてありませんでした」とばかりに華麗にスルーみたいで、『鳥取県史』にゃけっこう詳しく書いてるのに何で?
「隠れ遊郭」の倉吉ですら、半分くらいは『鳥取県史』の引用丸写しとは言えちゃんと書いてるのに、このスルーぶりは何?
と思ったりします。俺が見逃してるだけかもしれへんけど(笑
遊郭のことを調べるのに確実かつ手っ取り早い資料は、やっぱし遊郭があった所の公式歴史書である『○○市史』とかなんやけど、
これは編集者や地方自治体自体の意思が入ってることもあって、全部が全部書いてるとは限りません。
大阪府の枚方市史みたいに、一章を設けてけっこう詳しく書いてる所もあれば、ただ「遊郭がありました」程度の記述まで色々あったりします。
もちろん、まるで編集者が意図的に「黒歴史」にするが如くスルーの所もあったりするわけで、文句言うわけやないんやけど、歴史は「事実」を書けばいいのであって編集者の主観を入れてはダメなんです。
敢えて主観を入れるとすれば、最後のまとめあたりに一言二言書いておく程度で結構。
紀元前の中国で書かれた司馬遷の『史記』はそういう意味じゃ歴史書の傑作かつお手本なわけで、『史記』は司馬遷という個人が書いた中国の歴史書やさかい主観なんかいくらでも入るはずなんやけど、そこを一切排して自分の意見は「まとめ」に書かれてあるのみ。だから2000年以上も残って今でも読まれとる傑作になっとるわけです。
日本の歴史書も、なんぼ「黒歴史」でも事実は事実と認めて書かんとあかんわけで、公的な機関が税金で作ってる歴史書は尚更そうでないとあかんと思います。「あんたの主観なんか聞いてねー、俺が知りたいのは事実と真実やって」と言いたい気分ですわ(笑
遊郭・赤線ハンターはこういう資料を丹念に調べてわずかな点を探し、点を集めてそれを線や面にしていくという、「何でこんなことしてるんやろ?」と気が遠くなるような作業をせなあかん時もあるけど、
それによって知らんかったことを知るのがまた快感なわけで、逆に快感にならんとこんなことやってられるかい(笑

で、米子遊郭は終戦を経てそのまま赤線になったんやけど、
売防法施行前の米子のデータは、

業者数29軒 接客婦数77人
(出典:『鳥取県史』)

となっとります。
遊郭時代は、

貸座敷(揚屋)数:33軒 娼妓数:69人
(出典:『賣春婦論考』 大正12~13年)

貸座敷(揚屋)数:33軒 娼妓数53人
(出典:『全国遊廓案内』 昭和5年)

やさかい、まあ対して変わってへんことがわかります。
良くも悪くもそんなに大きな変化がなかったってことですやろな。

戦後の赤線時代については手元に資料がないさかい、これ以上書きようがないんやけど、
昭和30年に書かれた『全国女性街ガイド』におもろい記述があります。

「朝日町なるパン宿散在す。(中略)おもしろいのは、その宿に『風俗飲食業』の看板がかかっている。考えたものだ」

まず、花園町は一言も載ってへんさかい、知らんかったかスルー。確実なんは「何も書いてへん」ということ(笑
もう一つは、朝日町っちゅー風俗街があったということ。
朝日町をちょいとググってみたら、なるほど、今もスナックが軒を連ねる米子一の夜の街みたいやね。
ここにあったのは果たして赤線か?青線か?俺の興味はずばりこれ。
キーワードは『全国女性街ガイド』に書かれとる最後の言葉、「考えたものだ」。
この言葉からして、「風俗飲食業」ってのは朝日町の「パン宿」が勝手に作った言葉で、それを著者が「考えたものだ」と書いたもんやと想像しとります。
よって、朝日町は青線やったという可能性が大かもしれません。
これは当時を知る人から聞き込みして、聞き取りから推測するしかないんやけど、さて知ってる人がここ界隈に残ってるんやろか!?

さて、今の遊郭跡はどないなってるんでしょうか?

* * *
11041501

平成23年(2011)現在の花園町遊廓の跡です。
ここが遊廓のメインロードで、昔は道路の真ん中に桜の樹が植えてあったそうやけど、売防法施行以降に取り払われたそうです。
道路の左右に植えてあるのはわからんけど、昔からあったことは確かで、これも遊郭を飾るデコレーションの生き残りやったんかもしれません。

そして、この一本道を歩いていくと、


11041502

やたらデカい建物発見。
おそらくこれは遊郭の生き残りの建物、左右で一軒ずつと思われ。

11041503

左の方の建物をアップで撮ってみたら、まさに昔の妓楼っぽいですな。
玄関までの奥行きといい、わずかに残る石畳といい、昔はけっこうな見世やったと思われ。
別のサイトの同じ建物の画像見たら、この玄関までのとこにどうも最近までトタン屋根の雨避けがあってかなり興ざめやったんやけど、それが取り外されとるってことは家主が景観を大事にして外したんやろか!?


11041504

こういう建物も味があってよろしい。
せやけど、ここの最大の見物は・・・


11041505

羽を広げたコウモリの形にくり抜かれた家の壁。
今は破れとるけど、コウモリの裏には障子が張り付けられとって、夜になって部屋に明かりが灯るとコウモリの形が夜の街に浮き出る仕掛けになっとったと思います。
なかなか怪しい演出しとるやん。
で、何でコウモリか考えてみたら、コウモリって夜の魔除けとして信じられとって、中国じゃ長寿と幸福のシンボル、韓国じゃ子だくさんの象徴なんやって。
西洋じゃドラキュラの使いとして忌み嫌われとるコウモリやけど東洋じゃ長寿・健康の象徴、日本じゃ害虫を食ってくれるとして大切にされとったさかい所変われば扱われ方もちゃう典型的な例でんな、見た目は確かに怖いけど(笑
ちなみに、コウモリのいちばん怖いとこは、あー見えて哺乳類やさかい狂犬病とかのウイルスを持ってる可能性があるということ。狂犬病は日本じゃほとんどないけど、狂犬病駆逐国は日本を含めてまだ8カ国くらいしかないさかい、外国に行ったら日本の感覚で動物に触らんこと。
狂犬病は発病したら100%死あるのみ、ギネスブックにも「致死率がいちばん高い病気」としてインプットされとるさかい、海外旅行の時はくれぐれもご注意を。特に犬とか猫とかペット飼ってて海外経験がなかったら、時と場合によっちゃえらいことになるさかい、噛まれたり引っかかれたりしたら迷わず病院へGO。

11041506

建物自体はリフォームされとるけど、左側にある家紋のよーなくり抜き装飾がええ味出しとります。


で、ここまでは和風チックな旧遊廓系の建物なんやけど、


11041507

そんな建物の影に隠れるかのよーに、タイルな建物発見。
上の塗装が剥げてるけど、これは赤線時代のカフェー建築の生き残りか?


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こりゃもう間違いなし(笑
入口がやけに奥まった所にあるのは赤線時代の建築によくあること、こういう作りになったら逆に人間って気になって引き込まれるんか、それとも客が店に入る姿を見られへんためか、とにかくこれは赤線時代の生き残り確定。
俺が言うんやから間違いない(笑


11041509

上の建物全体を写したらこんな感じです。
元々は和風なんやけど1階部分をカフェー風に改造しとります。わかる人にゃ「ああ~~!」と思うことでしょう。
これで「ああ~!」と思うか否かはやっぱ現物を見てきた経験からくる直感、生き残りはかなり少なくなっとるけど「本物」を見ると目が肥えてきます。
写真とかでこの直感は養うんはなかなか難しい、やっぱ時間と金とエネルギーを使ってでも「本物」を見ておくべし。


以上、米子の遊廓の話なんやけど、
やっぱ戦争で空襲を受けてへんせいか、それとも売防法の後住宅街になったんが幸いしたか、米子は予想外に収穫多しでした。
さて、お次はどこにしようかな~?





~おまけ~

米子市のイメージキャラクターは

ヨギネーズ

ヨネギーズ

というらしい。
米子特産のネギをイメージしたもんらしいんやけど、ネギときたら・・・・












初音ミク

初音ミク

そしてこの二つがコラボしたら・・・










fan

こうなったらしい。これぞ夢の饗宴!?
なるほど、ヨネギーズでみっくみっくにされるわけね(笑 ←わかる人にしかわからんか

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テーマ:消えた遊廓・赤線の跡を訪ねて
ジャンル:ブログ

コメント

■ Re: 忘れないで

>宮原三菜さん

ナイヤガラって、皆生温泉のとこですか?
皆生温泉は米子のすぐ近くやったんですけど、行かんかったんですね。
そこで一泊しようかと思ったんですけど、結局松江に宿を取ってまいました。
2011/05/22 URL BJのぶ #- 

■ 忘れないで

ナイアガラについ最近までお世話になってました皆生温泉最高米子も
2011/05/07 URL 宮原三菜 #- 

■ Re: 1936年の資料より

>朝汐さん

ご無沙汰しとりますm(__)m
なるほど、朝日町の前身はカフェー街やったってことですね。
戦後赤線か青線になってるみたいですけど、そのカフェー街も雰囲気はさぞ怪しかったことでしょう(笑
その資料の灘町って、イコール花園町ってことでよろしいのでしょうか?
2011/04/26 URL BJのぶ #qDfdtOiE [編集] 

■ 1936年の資料より

他の都会同様、米子市にも至るところにカフェー街があったそうで、
殊に著しい所が米子市の中心朝日町だったそうです。

また灘町は米子市におけるたった一つの色街であり、公許された私娼窟であり、
遊廓数は三十有余、その鑑札は酌婦鑑札であると紹介されていました。
2011/04/24 URL 朝汐 #DBBTVY9Q [編集] 

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