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BEのぶ

  • Author:BEのぶ
  • 自称「ブログエッセイスト」ことBEのぶです。
    昭和史をライフワークにしていますが、平成ももうすぐ30年経ち、昭和が遠い過去になりつつあります。
    昭和も遺産・遺物を探れば立派な「考古学」となります。題して「昭和考古学」。ジャンルは遊郭・赤線跡から鉄道、そしてすっかり忘れ去られた歴史を掘る「昭和の考古学者」として、昭和の名残りを通して考察する旅を続けています。

    基本は標準語で書きますが、エッセイは大阪弁で書いていきます。

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■■■鳥取衆楽園跡をゆく 消えた遊郭・赤線跡をゆく21 

今まで「遊郭・赤線跡を訪ねる」シリーズを懲りずにやっとるけど、
今ブログで発表しとる所=今まで行った所すべてとは限りません。
実は既にブログで書いとるところ以外にも行ってるんやけど、
如何せんこーゆーところだけ完璧主義になってまうさかい、
情報をばっちり集めてからブログに書こうか、と思ってそのまま流局・・・
な~んてことが多かったさかい、今まで情報集めてへんとかの理由で書いてへんかった部分も、
簡単でもええさかい書いていこうかと思います。
いつもの長~~~いブログにならへんこともあるけど、そこは勘弁してくんなはれ。
ゑ?その方が見やすくてええって?(笑

ちゅーわけで、お次は鳥取市でございます。

* * *
前に紹介した倉吉にも遊郭があったさかい、鳥取市にもあるんはある意味当然の流れ、
鳥取市にあった遊廓は

「失楽園」

・・・あ、間違えた、

「衆楽園」

と言われとりました。
そもそもここは江戸時代に今の鳥取市などを治めとった池田氏の城下町で、今でも市内にゃ鳥取城が残っとります。
鳥取城ときたら、戦国時代マニアにとっちゃに羽柴秀吉が毛利攻めの時に徹底した兵糧攻めをした所でも有名ですわな。
秀吉はものすごい高値で鳥取の周りの米を買い占め、その値段に釣られて城内の備蓄米も売ってしもたんが秀吉の術中にはまり、秀吉が兵糧攻めを開始した時にゃ20日間分しか残ってなかったそうな。
毛利側も数ヶ月に渡って耐えしのいだものの、城内は飢餓が発生して、植物を食い、動物を食い、最後は人肉まで食い、その肉を巡って内部で戦いが起こって死者が出てその肉を食らうという地獄絵図、結局城主の吉川経家は自分の命を引換に兵隊には手をつけないって条件で降伏しました。
秀吉は条件通り一兵卒にはお粥を食い放題って大盤振る舞いをしたんやけど、お粥を巡ってまた争いが起きたり食い過ぎで死人が出る修羅場になったと伝えられとります。
で、日本でも兵糧攻めとか籠城の話はよーあるけど、世界に目を向けたらこれまたスケールがデカい。
国際的籠城の基準(?)は1年以上(収穫期を2回過ぎた時期)らしくて、世界史レベルで見たら2年3年なんかザラ、中には10年以上というのもあります。籠城のギネスブック記録って何年なんやろ?素朴に気になる。
この国際基準で考えたら、日本史で籠城って言えるんは石山本願寺(4年)と三木城(約2年)くらいで、あの秀吉の小田原城の包囲戦もたった3ヶ月やってんな。なんか1年くらいやってたっぽい感じやったんやけど。
外国の「城」は町ごとスッポリ城壁で囲むタイプやさかい日本と「城」の範囲がちゃうし、籠城は市民も巻き込む上に敵に降伏したら奴隷になるか皆殺しの運命やさかい市民も団結して城を守ったりしたこともあって、けっこう長期化することもあるんやけど、日本の戦いは武士と徴兵された兵士だけがやるもんやさかい、住民を巻き込んだ戦いは中世・近世にはあんましありません。
その兵士も徴兵された農民が中心やさかい、戦いに決着がついたらはいさようならって感じで、「兵隊」を言わば職業軍人的に常に手元に置いて「兵農分離」をした初めての大名が織田信長やったんです。
また、織田信長は自分の手持ち軍団を武将に分けて秀吉とかの部下を各方面の司令官に任命する形を取りました。
これは近代軍事的に言うたら「師団制」で、今の自衛隊にも採用されとる軍事の単位でもあります。
この制度はナポレオンが世界最初に始めたと言われとったんやけど、織田信長はそのナポレオンの200年以上前にやっとったってわけで、世界の戦史研究家からも注目されとります。
なお、日本じゃこの制度は信長で終わりで秀吉や家康は採用せーへんまま忘れ去られ、次に日本史に登場するのは明治時代まで待つことになります。それも「西洋から輸入した制度」って形で。

堺屋太一の名作『歴史からの発想』に書いてあったあるドイツ人戦史研究家の言葉に、
「日本の歴史をつぶさに調べれば、この国の人々の体験からほとんど欠落している3つあることに気づく。
それは、本格的な籠城戦・計画的な皆殺し・そして人民の武装抵抗、つまりゲリラである」

ってのがあるけど、確かに上に書いたよーに1年以上の籠城戦って2回しかないし、計画的な皆殺し(虐殺)もない、ゲリラって元々はスペイン語やけどそれもほとんど聞いたことがない。
せやけど、この3つをすべて経験した日本史上唯一の人が織田信長やったわけです。
日本史上最長の籠城期間の石山本願寺も織田信長やし、比叡山の僧侶皆殺しや伊勢長島の一向宗徒皆殺しも信長、そして一向宗や伊賀のゲリラに手を焼いてました。そしてそのゲリラに対しても信長は柴田勝家や前田利家に皆殺しを命じていました。
やり方があまりに日本人離れしとる、でも世界史レベルで見たら普通の人やけど、そんな信長に「外国人説」っちゅーとんでも説まであるのも無理はないかも。せやけど織田信長って生涯がはっきりしすぎとるさかい、「外人説」はネタにもならんと思うけどね。まだ「上杉謙信は実は女やった説」の方が信憑性がありそう。


で、何の話しとったか忘れそうなんやけど、
遊廓があったという「衆楽園」は鳥取藩の藩主やった池田氏の下屋敷、言い換えたら別荘があったとこで、
その跡が明治時代になって払い下げられて、江戸時代にゃ入るどころか近づくことも許されてへんかった下屋敷に入れるとあって、鳥取市最大の歓楽地になりました。
人が集まるとこにゃ店が出来るんは当然のことで、衆楽園内にはお茶屋などの喫茶店、劇場などができたんやけど、その中に「いかがわしい一画」が出来ました。
そこは芸妓がおった置屋なんやけど、当時の芸妓は
「昔は芸者と言えば芸のために命をかけ、意地と張りをもっていたのであるが、今の芸者はほとんど遊女とちがうところがなく、芸より枕が専門で下等の売春婦となりさがった」
(明治45年 因伯時報)

と新聞に嘆かれとるよーに、「二枚鑑札」言うて芸妓が娼妓を兼ねとることが多く、衆楽園の「いかがわしい一画」が芸者の街としても事実上の遊郭みたいなもんと解釈してもええと思います。
芸者だけがおる「花街」は中心部にある本町にあって、鳥取じゃ芸者の置屋を「検番(券番)」と呼んでいました。
ふつうは「検番」言うたら芸者の事務所を指すんやけど、ここは一風変わってるみたいですな。
この衆楽園は他の遊廓とかとちょっと違って自然発生的な遊郭やさかい、最初は法的な根拠がなかった私娼街やったんやけど、
明治9年に鳥取県は衆楽園を公式に遊郭として政府に上申しとります。せやけどこれは却下。
その後鳥取県は一時的に島根県に吸収合併されたんやけど、その直後に「芸娼妓取締規則」という法律が出来て、法的に整ったので衆楽園が正式な遊郭として認められ、藩の城主の下屋敷が遊郭になる、全国的にも一風変わった遊郭はこうして成立しました。

衆楽園はまたの名を、遊廓があった町名から「瓦町遊廓」とも呼ばれとったんやけど、
最盛期はやっぱり大正時代みたいで、大正12年あたりのデータによると

営業者数:43軒 娼妓数:118名
(出典:『賣春婦論考』 道家齋一郎著)


となっとります。
で、いつもの『全国遊廓案内』によると、

貸座敷数:48軒 娼妓数:85名 芸妓:35名

と、昭和不況の影響か娼妓数は減っとります。
「でも、見世の数は増えてるやん!?」と思うやろーけど、前者の『賣春婦論考』の方は「営業者数」で妓楼のオーナーの数であり、貸座敷数は純粋な見世の数やったりします。
つまり営業者数≠貸座敷数っちゅーことで、オーナーが何軒か楼主を兼ねとる場合もあるさかい、見世の数自体は『全国遊廓案内』とほとんど変わってへん、誤差±1~2軒ちゃうか?というのが俺の推論です。


鳥取の衆楽園のまた変わったとこは、町の中心部にあったということ。
ふつう、遊廓は場所の性格柄町の郊外に作られることが多くて、またできた時は町外れでも市街地が広がっていくにつれて遊廓も街の中心部になっていき、その度に移転を繰り返していた、ということもあります。
かの吉原も今でこそ東京のど真ん中やけど、明治時代までは町外れやったわけで江戸時代後期の地図を見ても周囲には何もなかった僻地でした。
大阪の飛田遊郭もできた時は周囲に何もなかった郊外で、一面畑だけのガラーンとした所やったのは、今の市街地で考えたら信じられへんと思うけどホンマやったりします。
なんでそんなとこに遊廓があったんかという答えは、今の地理的観点で見たらさっぱりわからんことで、それは昔の地図にヒントが隠されとります。


11041101

上の画像は明治40年5月13日発行の鳥取市の地図です。
赤く色を塗った部分が衆楽園遊廓青く色を塗った部分が当時の市街地緑の部分が明治40年4月20日に開業した鳥取駅、つまりこの地図は鳥取駅が開業して1ヶ月も経ってへん出来たてホヤホヤの時のものであります。
これを見たらわかることは、

1.衆楽園遊廓は町外れに隔離された場所にあった
2.鳥取駅は町外れに作られた
3.鳥取駅と衆楽園遊廓はすぐそこの位置


ということ。
鳥取駅が町の中心部から遠くに作られた結果、駅と遊郭とが隣り合わせになってしまったってことですわ。
地図を見たら衆楽園の周りを道路が囲んでるよーに見えるけど、昔の新聞によると衆楽園は黒い板塀で囲まれとって、入口は一ヶ所のみ、そこには他の遊郭と同じく大門があったとあります。
駅ができた時は一面何もなかったので、板で囲まれとったとは言え遊郭が丸見え、これはあかんと遊郭の移転計画も何回か議会に上がったんやけど、
売防法施行の昭和33年の最後の最後まで場所が変わることがなかったことから、移転計画はあやふやのまま終わったんですやろな。

俺の地元大阪府堺市にあった龍神・栄橋遊廓も鳥取と同じパターンで、当時の堺市の中心部は今の宿院あたりで龍神・栄橋遊廓があったとこは埋立地の新地、つまり僻地でした。
せやけど、そこにたまたま南海鉄道が通ったからそこが繁華街になってしもて、龍神遊郭も町のど真ん中にある遊郭になっちゃった、というわけです。
堺には旧市街地に乳守遊廓ってのがあったんやけど、鉄道という近代交通の便の良さには勝たれへん有様、まあ乳守も阪堺線というチンチン電車があったんやけど、龍神の場合は花街がなかった泉大津・岸和田からも客が来て、紡績成金がどんどん金を落としていったおかげで大繁盛、鉄道のリーチが長かった龍神の勝ち。
その龍神・栄橋遊郭も『花街 異空間の都市史』(加藤政洋著)によると移転計画があったらしく(どこに移転しよーとしたんやろ?)、また別のソースによると遊郭の芸妓部門だけ当時高級住宅街&高級リゾート地やった浜寺からの勧誘もあって、そこに花街作って龍神の芸妓だけ移動させて龍神は完全な遊廓オンリーにしようか、という計画もあったそうです。


そして、衆楽園は昭和中期になって大きな変化を遂げます。
それは、倉吉編でも書いたけど、鳥取県が打ち出した「娼妓の酌婦化」制度。
この公娼の酌婦化のモデルケースが倉吉やったってことを前に書いたんやけど、これが当たったか昭和13(1938)年に衆楽園も遊郭が私娼街になって、これによって鳥取県は遊郭がない県(廃娼県)になりました。
もちろん、遊郭が潰されたわけやなくて「鳥取県立私娼街」になって看板が変わっただけなんやけど、そのまま終戦まで衆楽園は生き残ったと思われます。


さて、その衆楽園が今どないなっとるか、見てみましょう。

11041201

衆楽園遊郭があったとこは、今でも地名は変わらず瓦町のままです。
鳥取駅からは道一本、歩いて5分くらいの所にあってロケーションとしては絶好の場所にありました。


11041202

今の瓦町の真ん中には、今は太平公園という三角形の公園があります。
この周りに赤線時代の建物が残ってるらしいんやけど・・・。
突然やけど、鳥取市は太平洋戦争の時に空襲を受けへんかった珍しい県庁所在地でした。
確か、全く空襲受けてへん、爆弾一発も落ちへんかった県庁所在地は鳥取と島根県の松江と石川県の金沢だけやったはずやけど、
あれ?京都は?って方もおると思います。
京都って何故か「空襲を受けてへんかった」って常識がまかり通ってるけど、それはある意味都市伝説で実は西陣の一部というピンポイントだけやけど、昭和20年6月26日の午前に爆弾は落ちてます。
焼夷弾やなくて250kg爆弾が数発だけで街全体に火が広がらんかったことと、爆弾が落ちたんが中心部やないこともあって、京都の空襲って意外に知られてへんのやけど、実際には死者50名、負傷者数百名ほどの被害が出ています。この空襲で京都市内の医者が総動員されて治療に当たった、って記録も残ってます。
同じく「空襲受けへんかった伝説」に奈良市もあるけど、奈良市も焼夷弾が一発落ちて死者が1名出ています。これは県の公式記録にも載ってへんものなんやけど、アマチュア歴史学者が市民の日記などから掘り出したもんらしいです。
同じく県の記録にないのに実際に空襲を受けた県庁所在地に山口県の山口市があり、これは実は去年高校教師が発掘した新データやったりします。
新潟市も、原爆の標的候補やったことから空襲は受けてへんったら受けてへんのやけど、新潟港を使い物にさせへんために機雷を落とされとって、その流れ弾が港近くに落ちて爆発したって記録はあるさかい、ある意味除外と思われ。
また、滋賀県の大津は街自体には爆弾落ちてへんけど、周りの工場や飛行場は爆撃を受けとります。

というわけで、鳥取は空襲受けてへんさかい、遊郭時代の貴重な建物が残ってる・・・と言いたいんやけど、
昭和27(1952)年4月17日に「鳥取大火」と言われる大火事が起こって、鳥取駅前の建物から出火した火は市内の建物をほとんど焼き尽くしたそうです。
出火元のすぐ近くにあった赤線もほぼ全滅したらしく、太平公園も大火の後で整地された後に出来た公園なんだそうです。
そこにあるプレートにも「鳥取大火で瓦町一帯はすべて焼失」ってなこと書いてたさかい、戦前の遊郭時代の建物はほぼ絶望的ってことですな。
せっかく空襲受けてへんかったのに勿体無いと思うけど、そこんとこは素直に諦めよう。


11041203

せやけど、大火後に作り直されたと思われる、遊郭風っちゅーか和風っちゅーか、こんな建物がドカンとそびえとりました。
この建物、かなり横長で意外にデカく、うちのデジカメは横長のワイドでも撮れるんやけどそれでも収まりきれんくらいでした。

11041204

この建物の玄関をアップで撮ってみました。
これだけやったらただの旅館の入口みたいな感じなんやけど、屋根の上に細かい装飾があって俺風に言う「遊び心」が凝ってるなと思ったりします。

旧衆楽園遊郭は大火後に区画整理させたせいか、太平公園から放射線状に道が伸びてて、なかなか探索するのは苦労するんやけど、

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ダウトな建物2件目発見!
まあこれは間違いないでしょう。


11041206

そして、どうも現役の旅館らしい建物が。
リフォームはされとるけど、原型を尊重した改修っぽくなっとります。
この建物の前にオレンジ色の街灯か何かがあるんやけど、

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アップで見てみたら、字がかなりかすれてしもて読みにくいけど「君司」と読めます。
調べてみたら「君司」って鳥取の地酒の名前みたいで、もしかして赤線時代の店の名前かな?と思っただけにちょっと残念・・・って酒に失礼やな(笑
せやけど、酒を作ってる会社が赤線街に街灯代を出して、売れ筋の酒の名前を会社の代わりに載せたんかもしれへんし、『花街』(加藤政洋著)によると、
「庭先に店名を書いた雪洞(ぼんぼり)をしつらえた旅館が一軒」
と書かれとって、恐らくこのことやと思うさかいこれって店の名前やったの?と。
うーん、これは今後要調査ですな。ってか事実を教えて地元の人(笑

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と、この建物から回れ右したら、こんな建物が。
これだけでも十分ダウトなんやけど、視点のアングルを広げてみたら、


11041209

何か横の建物も構造上怪しいというか匂うというか、もしかしてこの建物は一セットやったんかもしれませんな。


ちゅーわけで、衆楽園跡は建物は恐らく全部戦後の赤線時代に建てなおされたと思われるものの、建物のベースは和風みたいですな。
タイル貼りのカフェー建築みたいなのは残ってへんのか、それとも元々なかったんかは知らんけど、
とりあえず発見はできへんかったことは確かでした。

赤線時代の衆楽園はどんなんかというと、『全国女性街ガイド』には、

赤線は、これも駅近くの大黒屋界隈の新地。戦前の瓦町遊廓で二十八軒ほどに百十名程度。

あれ?これで終わり?というくらいあっけない記述でTHE END。
実際に著者が回ったとしたら、あんまし面白みがない所やったんかな?
また、鳥取県史に書かれとるデータによると、

・業者数:30軒 ・女性数:78名
(売防法適用前のデータ)

と書かれとって、『全国女性街ガイド』の数字が正しいと仮定したら、これは昭和30年発行やさかい昭和29年くらいのデータと推定して、業者数は増えてるけど女性の数は赤線廃止が確定になったさかいある程度整理はついたせいか、約30%減となっとります。


さて、これで帰ろうかな?
と思った時、「???・・・・!!!」な建物が目につきました。

11041210

正面から見たら、特に何の変哲もないんやけど、


11041211

こないして視点を変えてみたら、無駄に・・・って言うたら失礼やけど異様に奥行きがあることがわかります。
そして、手前の屋根の建物と一つ奥の屋根の建物は渡り廊下みたいなのでつながってて、これはますます怪しい。
まあ、遊郭や赤線街にゃよくある「奥行きがやけにある、見た目は『普通の家』」ということで。

他にも実はダウトな建物が何軒かあったんやけど、リフォームしすぎたせいかどうもブログにアップするほどやないな、というわけで敢えて載せませぬ。実際に歩いて目にして確認してくんなはれ。

せやけど、ここに着いて探索開始したんは実は午前5時半やったりします(笑
写真見たらやけにもやがかかってるというか、ちょっと暗い感じがするんは、早朝やったからです。カメラのせいでも気のせいでも何でもありませ~ん。
「何でそんな時間に!?」って思うやろーけど、そんな時間に鳥取に着いてしもたからしゃーない。
もう眠いし寒いし、こんな時間に散歩するもんやないな、と思いましたわ(笑

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テーマ:消えた遊廓・赤線の跡を訪ねて
ジャンル:ブログ

コメント

■ 遊廓の家があった場所

昭和45年頃の記憶です。当時、小学生だった私は、鳥取駅前の大金持ちのぼんぼんの友達がいて、時々、彼の家に遊びに行きました。その家は現在の駅前、ホテルモーリス前の稲荷神社の付近にあり、中庭を囲むように回廊があり、周囲に小部屋がずらりと並ぶ独特な屋敷でした。その後、彼は引っ越して、屋敷も無くなりましたが、今考えると、彼の家こそ、遊廓だったのではないかと思います。
2015/11/19 URL 昭和45年頃の小学生 #0MXaS1o. [編集] 

■ Re: おしいです。。。

>Mさん

はじめまして。コメントおおきにです。
そして、返信が遅くなってしもて申し訳ないですm(_ _)m

衆楽園の位置、ちょっとズレてましたかね?
位置はネットの情報と現役当時の地図などを照らしあわせたんですけど、図書館とかに行って本格的に調べてみる必要があるかもしれませんね。
三角公園の看板に「衆楽園は鳥取大火で焼けた」って書いてましたけど、赤線自体は売防法施行まで続いてたらしいさかい、火事で焼けた後に復興した建物かなと。
倉吉もそうですけど、鳥取県の遊廓のことはもっと深く調べてみる必要がありますね。衆楽園はまだその中でも情報がある方ですけど、3日くらいかけてじっくり調査してみるんもええかもしれませんな。
まあ、そんな時間があればの話なんですけど。。。(笑
2012/04/25 URL BJのぶ #- 

■ おしいです。。。

まさに、その経営者の子孫ですが...

厳密に言うと、そのひいひい孫にあたります。

近所のさほど関係ない旅館ばかりクローズアップされているようです。
残念ながら、あまり詳しいことは知りませんが
衆楽園は鳥取大火で全焼したそうです。

場所的には、もう少し駅よりの場所から
太平公園辺りまでの区間と聞いています。

私も、最近ルーツを知りたくて調べ始めましたが
何か新しい情報があれば是非教えてください。
2012/04/02 URL M #- 

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