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BEのぶ

  • Author:BEのぶ
  • 自称「ブログエッセイスト」ことBEのぶです。
    昭和史をライフワークにしていますが、平成ももうすぐ30年経ち、昭和が遠い過去になりつつあります。
    昭和も遺産・遺物を探れば立派な「考古学」となります。題して「昭和考古学」。ジャンルは遊郭・赤線跡から鉄道、そしてすっかり忘れ去られた歴史を掘る「昭和の考古学者」として、昭和の名残りを通して考察する旅を続けています。

    基本は標準語で書きますが、エッセイは大阪弁で書いていきます。

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■■■福知山「中ノ町飲食街」をゆく 消えた遊郭・赤線跡をゆく19

以前、
消えた遊郭・赤線跡を訪ねて 福知山編
を書いたんやけど、福知山にゃ猪崎遊廓の他にももう一つ、遊廓があったと言われとります。
もちろん公式のデータにゃない上に、伝聞でしか聞いたことがないさかい嘘半分ホンマ半分、まあ何も見つからんで元々やわい♪と再調査に行ってきやした。
っても、行ったんは去年のことやけど(笑


11031501

今回調査したんは、福知山市の中心部の「中ノ町」っちゅーところ周辺。
上の地図を見たら、左側の赤い○の部分が「浮世小路」と昔から言われとる所で、御霊神社のちょうど南側にあって福知山の繁華街やった所です。
右側の赤い○が猪崎遊廓で、今も昔も市街中心部から離れとることが地図を見てもわかると思います。
どーも、この「浮世小路」が遊廓跡、戦後は赤線か青線として生き残ったとか何とからしいんやけど、
確かに神社の門前町にそーゆーのが作られるんも珍しくもなく、愛知県の岡崎市にあった青線とか岐阜市の青線「国際園」なんかは、終戦のどさくさに大陸からの引揚者が神社の敷地を不法占拠して作られたとこと言われとります。
せやけど、この「浮世小路」は調べてみたらどーも戦前からの繁華街やったらしく、上の二つの例に当てはまることはないと思います。


11031502

これが福知山市内にドンと構える御霊神社です。
この御霊神社は、境内とHPの説明によると、宝永2(1705)年に作られ、大正時代に現在地に移動したそうで、
「御霊」の名前にあるよーに、誰かの「御霊」を祀っとる所でもあります。
「御霊神社」は全国色んなとこにあるけど、ここ福知山のは何と、明智光秀を祀ってるそーな。
何で明智光秀かと言うたら、明智は織田信長の命でここあたりの丹波の地を治めることになって、
民のことを考えて、由良川の治水を行ったり地元豪族を殺さず大切に扱ったり、善政を行って地元からごっつい慕われとったそうな。
その明智光秀はご存じの通り本能寺の変で信長に刃を向き、「逆臣」の典型的な例として今でも学校で習う基本知識やけど、
福知山の民は民のことを考えて「思いやりの政治」をした明智光秀のことを忘れることはなく、こないして神様として祀ってる、っちゅーわけですわ。
確か、京都でも明智が臨時に行政を行った時に善政を行って京の民から慕われ、その祭が今でもあるって話を聞いたことがあるけど、
そこまでして慕われる明智光秀も伊達やないかもね~。
まあ、個人的な歴史観やけど、「本能寺の変」は信長の完全な油断、「驕れる者も久しからず」ちゅー平家物語の冒頭をそのまま行った自業自得ってやつですわ。
明智が「逆臣」なんは江戸時代以降の朱子学などのの儒教の倫理観を幕府が適当に曲げて解釈して伝えたもんで、
「家臣は主人に忠義を尽くせ」ちゅー倫理観を植え付けるために、明智を「逆臣」というか「反面教師」としてイメージづけたってこと。
あの時は戦国時代、下剋上が常識の時代やったさかい、天下の争いは収まりつつある、と言うてもまだ油断したらあかん時、そんな時に油断した信長が悪い、ちゅー個人的な考えであります。
で、そん時徳川家康は堺におったんやけど、本能寺の変の時の知らせを聞いた時は堺にあった高須か乳守の遊廓で遊んでたって説もあります。

せやけど、この神社は「ごりょうじんじゃ」って読むことを行って初めて知りました(笑
ずっと「みたまじんじゃ」って読んでたわい。だって「ごりょう」って変換しても一発で出ーへんくせに、「みたま」で変換したら一発で変換できるもん(笑

まあそれはええとして、
この御霊神社の南側に、

11031503

「中ノ町飲食街」
があって、ここが昔「浮世小路」と言われた歓楽街やったそうな。
真昼やさかい、まだ「営業時間」にゃ程遠かったんやけど、雰囲気的にゃなんか横丁にあるカフェー街みたいな感じですわ。
で、ちょいと中に入ってみたら・・・



* * *
11031504

小料理屋やスナックなんかが並ぶ道筋に、ひっそりと古い建物が残っとりました。


11031505

他にも、こんな格子が残っとる建物や、


11031506

今にも壊れそ・・・いや失礼、古い和風建築も残っとります。


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これは一見したらごく普通の家なんやけど、何となく戦後の赤線にありそーな、何となく「匂う」建物であります。

まあこんなもんか、と御霊神社に戻って旅の安全を祈った帰り!

111031508

こんなもんが俺の視界に入りました。
まあ、ただの古い灯籠、別に珍しくも何ともないんやけど、なんか気になるさかい近付いてみたら。


11031509

何と!猪崎新地(遊廓)が寄進した灯篭でした!
「昭和3年4月」って書いてるさかい、今から83年前に作られたもんなんやけど、
恐らく当時の遊郭の楼主が寄進したもんらしく、寄進者の名前が灯籠に刻まれとります。
こんなとこ(?)で遊廓の遺物を発見するとは、これまたラッキー♪


まあ、これ以上の収穫はなかったんやけど、
ここであっけなく終わる俺やありません(笑

ある日、遊廓のこと調べに図書館に行って史料を漁っとった時のこと。
ある一冊の本にピンときました。
『昭和前期日本商工地図集成』
って本なんやけど、その「第2集」にゃ関西の各都市の商業関係の地図のレプリカが載っとって、時代は本の名前の通り昭和初期、だいたい昭和5~11年のものでやんす。
近頃は古い地図の復興、レプリカ作成が巷でブームになっとるみたいで、明治~昭和の古い地図が出版社から発売されとったりします。
こんなん誰が買うんやろ?と思ったりするんやけど、歴史を調べとるよーなストレンジャー・・・やなくて変わり者が欲しいんやろなー!?
まず「普通の人」にゃ100%はおろか300%用がない、いざ見ても意味不明&理解不能な本なんやけど、これにゃ80年前の「前世紀」を調べるヒントがたくさん隠されとる宝の山やったりするんですわ。
俺も「もしかして、これにゃ何か書かれとるかも!?」とカンが働いて早速行動。
と言うてもこの本、レプリカとは言うてもまともに買ったら¥51450もする代物やさかい、さすがに一般ピーポーの俺は手が出せませぬ。
ちゅーわけで、こういう時にお世話になるんが図書館なんやけど、『昭和前期日本商工地図集成』を所蔵しとる図書館を検索して図書館へGO、早速書庫から出してもらいました。
待つ事数分、図書館のおばはん・・・失礼、おねーさまが持ってきたものは!

何じゃこりゃ!!!(汗

おいおい、絵画持って来いとは誰も言うてへんぞ、というよーな大きさの箱に包まれてやってきたのがこの本、
大人の女性が「よっこらしょ・・・」と両手で持って・・・いや、担いでって表現した方がええくらいの大きさ、そして意外に重い・・・。
ドラえもんの道具のビッグライトでハードカバーの本をバカデカくしたよーな感じ、たかが本と思って持つと一瞬重みでよろめくくらいの重さです。
まさか、「本」がこんなバカでかいもんとは思いもしませんでした(笑

図書館の自習室でやたらデカい「本」を片手・・・いや、大人の男でも片手じゃ足りへんさかい両手で見てみたら、
確かに当時の関西の各都市の、大阪市以外はそんなに細かいわけやないけど、地図がかなりの数載っていました。
表面は地図で、裏面はその地区の業種ごとに分れた店の名前が載ってるだけの、一見したら普通の地図なんやけど、
表の地図に書かれとる戦前の町名も貴重ながら、もっと貴重なんは裏面の店の一覧。
学校から神社仏閣のようなベタなもんから、今じゃまずお目にかかれへん「髪結い屋」や「ラヂオ商」まで色々あるんやけど、
その中に・・・ありました!俺のお目当てのもんが。
色んな職種の店の中に、「遊廓」「妓楼」なんて文字が。
今はさすがに風俗店を堂々と「商業地図」の中に、それも「風俗店」で紹介はできへんけど、当時は遊廓はもちろんお国の免許(実際は都道府県やけど)をもらって営業しとるさかい、
こういうのに書かれとるんちゃうか?って思った俺のカンは素晴らしい。自分で自分を褒めてあげよう(笑
っても、ほとんどは「組合」って欄に「○○貸座敷組合」「△△藝妓組合」なんてことしか書いてへんけど、
たま~~に当時の遊郭の妓楼がズラリと並んで書かれとることがあります。
特に儲けものやったんが、舞鶴の龍宮遊廓と加津良遊廓の妓楼が連名で書かれとって、昭和初期に妓楼が何軒あったか明らかにそこに書かれとったんですわ。
それは『全国遊廓案内』にも書いてるけど、この地図は『全国遊廓案内』より少し後の年月のものやさかい、
妓楼の数なんかを比較したら、ちょっと新しいことがわかるはず!?
龍宮や加津良遊廓だけやなくて、他にも遊廓の妓楼の名前が書かれた所がいくつかあって、全部図書館で手書きにしたさかい今から文明の利器iPadにすべて書き込んでいつでも取り出せる状態にします。
福知山の猪崎遊廓も当時の妓楼の名前がズラリと並んでるんやけど、箇条書きしたら・・・

・玉水

・君亭

・日進楼

・近波楼

・都

・大友


・・・と書き出したらキリがないくらい、67軒もあるさかいに。
せやけど、このデータは昭和8年5月16日の地図が元ネタ、『全国遊廓案内』にゃ猪崎遊廓は78軒と書いてるさかい、どうも4~5年の間に11軒廃業したみたいですな。
この時は昭和不況の真っ最中、遊廓もその波をまともに受けた業種やさかい、それは致し方ないですな。

別にそれを調べとったわけでもあらへんのに、意外なとこから意外なもんを発見したりすることを「セレンティビティ」と言います。
「セレンティビティ」はホンマは「意外なとこから意外なもんを発見する能力」のことなんやけど、
日本じゃ一般的に「発見すること自体」に使われることが多いです。
確かに「本丸」を攻めて本丸を撃沈できたらこんな有難いことはないんやけど、「遊廓・赤線考古学」の場合は何せ本丸のデータが少ないことが多いさかい、まずは外堀から埋めていくことが多いです。
そして、「本丸撃沈」のためにお堀をせっせと埋めて行く作業しとったら、あれれ?これって・・・おお、意外なとこから発見!
なことが非常に多いんですわ。
例えば大阪の飛田遊廓のことを調べるために、飛田のことが書かれとる資料とか本を読んでたら、
そこにゃ別の遊郭、例えば貝塚遊廓の話が載ってたりして、飛田のことは特に収穫あらへんかったのに貝塚の新事実を発見した、という感じですわな。
知的好奇心が旺盛・・・というより暴走気味な人にとっちゃ、これも意外に快感やったりします。もうオーガニズム最高潮、瞳孔開きっぱなし、そん時は脳の中でドーパミンが異常に、もとい大量に放出されとることでしょう(笑

で、『昭和前期日本商工地図集成』を丹念に(?)見てて意外に「へ~」って思ったんは、「○○紹介業」なんて職種もの。
理髪師や髪結い(今風に言うたら美容師)なんかの人材を紹介する商売があったそうなんやけど、
これって、今風に言うたら派遣会社に近いもんちゃうん?と思ったりします。
もちろん、派遣会社は今の時代を反映して作られたもんやし、ちゃんと法律に基づいて設立されて経営しとるんやけど、
その元祖らしいもんが戦前にあったかもしれませんな!?


ちゅーわけで、本題に戻りましょう。
『昭和前期日本商工地図集成』にゃ書くまでもなく福知山市(当時は福知山町)の地図と店一覧が載ってるんやけど、
その中に「カフェー」という項目があります。
「カフェー」は戦後の赤線のあれでお馴染みやけど、戦前のカフェーは遊廓の後進でも分家でもございません。
かと言うても、今の「カフェ」でもあらへん店なんやけど、
これはちょっと要説明やと思うさかい、解説しよう ←ヤッターマン風

カフェーとは、まあコーヒーを飲む所にゃ「カフェ」と変わりはないんやけど、
「カフェ」とちゃうんは、座席に「女給」と言われた女性が一人以上隣につくこと。その女給さんがお酌をしてくれたりお喋りしたりするのが「カフェー」です、簡単に言うたら。
明治後期に東京の銀座に出現したんが始まりと言われとるんやけど、「カフェー」が全国に伝わったんは大正後期から昭和初期のこと、そん時に「カフェー」は大きく変化します。
東京式の「カフェー」は女の子とお喋りするとかだけなんやけど、大阪道頓堀が発祥の「大阪式カフェー」は関西弁で言うたら「えげつないサービス」が売りで、それが客に大ウケ。
おとなしかった「東京式カフェー」も負けてなるもんか!と過激なサービスを始め、その「過激カフェー」が全国に伝わったという感じです。
昭和初期に一世を風靡した「エログロナンセンス」もあってカフェーは爆発的に伝わり、遊廓や花街を圧迫するよーになりました。
何で「カフェー」が遊廓と花街を圧迫したかと言うたら、遊廓も時代が経って格式とかにこだわり堅苦しいもんになりつつあった上に、新しい風俗というもんに魅かれるはどの時代も同じっちゅーわけで、
『函館市史』によると昭和初期以降カフェーが上陸すると共に雨後の筍のようにニョキニョキ生えて、遊廓のエネルギーを吸い取るように増えていきました。
それにつれて遊廓はどんどん衰退していったことが書かれとるし、
消えた遊郭・赤線跡を訪ねて 篠山編

にもサラッと書いたけど、篠山なんてとこにも大正14年にカフェーが進出してここでも筍のように乱立、篠山遊廓を圧迫して宝塚に移転しよーかって話まで出たくらいやとか。
確かに、昭和9年6月1日作成と書かれた『昭和前期日本商工地図集成』内の篠山の地図見ても、市内にカフェーが5~6軒確認できて、駅前などの市内にあったさかい立地条件も抜群、郊外にあった遊廓は客足が遠のく・・・という危機感があったかもしれませんな。
ちなみに、カフェーが篠山に進出してその最盛期を迎え、篠山遊廓が宝塚に移転しようかって話があった頃って、ちょうどあの阿部定が篠山の遊女に身を落としとった頃やな、
チャキチャキ江戸っ子の阿部定は、こんな田舎の遊郭で何を思い、何を見たことでしょうか。

で、話が外れたけど、カフェーの過激サービスとは・・・
カフェーの女給は給料なし、完全歩合制で客からのチップが唯一の収入やさかい、金のためやったらある意味どんなことでもやるって感じやったそーです。
それが暴走して、金次第じゃ「連れ込み宿」で・・・という感じかな?
つまり、カフェーって、全部が全部やないけど今で言うたらキャバクラみたいなもんで、キャバクラのご先祖様と言うてもかまへんと思います。
また、今風で言えば女給さんが、まだ和服全盛の時代に洋装っちゅー「コスプレ」をしとったさかい、イメクラとメイドカフェも兼ねたもんかもしれません。
キャバクラもイメクラも、そしてメイドカフェも最近出てきたもんやけど、単に言い方が変わっただけでその原形は意外に(?)歴史が古かったりします。
ちなみに、「連れ込み宿」って今でいうラブホでやんす。ラブホだってちゃんと戦前から「ご先祖様」があったんでっせ。
このカフェーは今の日本にゃないんやけど、
(上にも書いたよーに、イメージとしてはキャバクラやイメクラ、メイドカフェに近い)
法律にゃちゃんと残ってて、、風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律第2条第1項第2号には
「待合、料理店、カフェーその他設備を設けて客の接待をして客に遊興又は飲食をさせる営業」
という規定がまだ残ってたりします。
カフェーは最初は法の網をかいくぐるように繁盛したんやけど、のちに風俗営業法で取り締まられることになり、「酌婦」として東京の玉の井などと同列に扱われることになります。

その福知山のカフェーは、店一覧を見たら、

カフェー オカノ
カフェー エクボ
サロン 青空
カフェー 月姫
カフェー ロマンス
カフェー ダイヤ
カフェー フジヤ
カフェー 紅屋
サロン こいでの家
サロン ハルナ


なんて名前が載ってました。
まあ、何とも艶めかしいというか何ちゅーか、「いかにも」って名前の役満みたいやん。
「サロン ハルナ」って、何かイメージ的にゃAKB48っぽいし(笑
他にも店一覧には載ってへんけど地図上じゃ「カフェーなんとか」があと何軒かあったさかい、
市内・・・もとい当時は町内にゃけっこうな数の「カフェー」や「サロン」があったことがわかります。
そして、それらの「カフェー」は数軒を除いてある一画に集中しとりました。
それが「浮世小路」、今の「中ノ町飲食街」で、「サロン青空」の住所にゃ「福知山町カフェー街」と書かれとって、「一体どこやねんそれは!」とツッコミ入れたくなるよーな住所やったりします。
せやけど、「カフェー街」と書いてわかるくらいカフェーが集中しとったとこが「浮世小路」やったわけですわな。
ホンマは地図もコピーしたかったんやけど、とにかくこの本コピーするにゃ大きくて重いんですわ。
コピーするにも一苦労、破損したらあかんさかいセルフサービスのコピーは諦めました。
今度大阪府立図書館に行って図書館のおねーさまにやってもらいまする。
貴重な地図をビリリ!って破ったら¥51450弁償せなあかんさかいにな~。ってかこれ府立図書館にあったっけな?


ここからは俺の推論になるんやけど、
福知山の「カフェー」もけっこう過激なサービスしとって、それが「遊廓と同じよーなとこ」から「遊廓扱い」になって地元の人などの記憶に残り、
「カフェー街」のはずの「浮世小路」がいつの間にか「遊廓」にすり替わってた、
ということかもしれませんな!?
それが戦後になって、赤線か青線になって売防法まで残った?
って推論も成り立つかもしれません。
戦後の資料は手元に全くないさかい、根拠もクソもない勝手な推論やってことを改めて強調しとくけど、
これはまんざらでもないかな、と自分で言うてみる(笑

また、『遊郭をみる』(下川耿史著 筑摩書房)によると、猪崎遊郭は法律で禁止されとった「張り見世」が行われとって、それが評判になって神戸や姫路からも車で客が来るようになった
と書かれとるんやけど、今でこそ福知山まで車で行くんは高速使ったらそーでもないけど、イナロク(国道176号線)をずっと北上して行け、と言われたらかなり一苦労、当時道路状況も舗装されてへんし車の性能も良くはなかった、高速道路なんかあるわけないご時世にわざわざここまで来るってことは、
もしかしてカフェーとかの新興風俗に対抗したサービスやったかもしれませんな!?

で、この「カフェー」に妙に興味を持って、『昭和前期日本商工地図集成』を遊廓ついでに調べてみたら、
大阪市の意外なとこ(?)にカフェーが固まる一帯を発見!
戦後の赤線の「カフェー街」ならぬ戦前の「カフェー街」なんやけど、それはまた気が向いたら~♪

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