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BEのぶ

  • Author:BEのぶ
  • 自称「ブログエッセイスト」ことBEのぶです。
    昭和史をライフワークにしていますが、平成ももうすぐ30年経ち、昭和が遠い過去になりつつあります。
    昭和も遺産・遺物を探れば立派な「考古学」となります。題して「昭和考古学」。ジャンルは遊郭・赤線跡から鉄道、そしてすっかり忘れ去られた歴史を掘る「昭和の考古学者」として、昭和の名残りを通して考察する旅を続けています。

    基本は標準語で書きますが、エッセイは大阪弁で書いていきます。

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■■■【後編】松島新地をゆく 消えた遊郭・赤線跡をゆく18

戦前の松島遊郭編の続き、太平洋戦争の空襲で焼けてしもた松島は戦後どないして「復活」を遂げたんか、
今回はそこらへんを書いていきたいと思います。
今回も、三国志ならぬ「松島新地志」と言える『松島新地誌』がベースになっとります。

さて、昭和20年3月14日の大阪大空襲できれいさっぱり・・・って言うたら失礼やけど、
それしか表現が思いつかんくらいに完全に焼けてしまった松島遊郭、
焼け出された松島の業者たちは、他の場所を頼って大阪中に散っていきました。
ある者は近くの港新地、ある者は今里新地、またある者は枚方や貝塚遊廓へ。
そして港新地や今里新地へ移った業者は、不幸にも6月の空襲でまた焼け出される始末。
「泣きっ面に蜂」とはまさにこのことですな(汗

その中でも、住吉大社の近くにあった住吉新地に移った一派がいました。
新地や地元警察の好意もあって昭和20年7月、終戦の1か月前に住吉新地内に間借りするよーな形で再スタート、店は3軒、焼け出された後も一緒についてきた女性50人でのスタートでした。
同時に『三十四会(みとしかい)』ちゅー組織を設立しました。
これは大空襲で全滅した松島遊廓の「命日」にちなんだ、三月十四日にちなんだ名前で、
「『命日』を忘れない」っちゅー意味と、間借り状態の住吉新地に「松島遊廓組合」を作るわけにもいかんさかい、「仮松島新地組合」のよーな意味合いを持ったそうです。
業者はいつか元の松島に帰る、マッカーサーの言葉を借りたら"I shall return"ってのを胸に仕舞いつつ、そのまま終戦を迎えました。
そして、この『三十四会』が戦後の赤線、いや今でも続く「松島」の母体となります。
ちなみに、住吉区、それも住吉大社のすぐ近くに「そんなとこ」があったなんて知らん人は知らんけど、この住吉新地はもちろん元々は芸妓だけの純粋な花街でした。
その後は・・・まあまた調査するさかいそれまでヒ・ミ・ツ(笑



* * *
さて、ここから松島の戦後史を延々と書くつもりやったんやけど、
書き終わって保存しよーと思ったらボタン押し間違えたか全部消えてしまいました(涙
数時間かけて「大作」に仕上がったのに~、もう書く気力あらへん・・・。
ちゅーわけで、これは

「興味ある方は『松島新地誌』をお読みください」

で我慢してくんなはれ(笑

ちゅーわけで、今回は話が飛びに飛んで松島新地探索になります。
まあ、こっちの方が楽しみって人の方が多いと思うけど(笑

地下鉄中央線九条駅

地下鉄中央線の九条駅。
ここが松島新地への玄関口になります。
我ら大阪人は、「九条駅ときたら松島、松島ときたら九条駅」っちゅーくらいイメージがこびりついとる駅やけど、
よー考えたら、今は阪神なんば線にも九条駅があるさかい玄関口はもう一つ増えとりますな。

九条駅を降りたらすぐにあるのが・・・


九条新道商店街

前の「戦前編」で書いた九条新道の商店街です。
かつては「第二の千日前」とか「西の心斎橋」とか言われた所やけど、今は庶民的な商店街になっとります。
写真の方向が旧松島遊廓跡の方向で、商店街は花園橋という橋を渡って遊廓と直結しとったさかい、その昔は数多くの人がここを通って遊郭へ足を運んだことでしょう。
今はもちろん、そんな面影は全くどこにもありませぬ。

松島新地入口

そんな商店街の横に松島新地はあります。
今は「松島料理組合」って名前は変わっとるけど、やっとることは変わってへんと思います。
ここから先は立派な「現役」ゾーン、なんか心拍数がいつもの数倍になってきました(笑



赤線松島と現在の比較図

今の松島の規模と、『松島新地誌』の巻末地図を参照にした赤線時代の松島の規模を比較してみました。
今の松島は、位置は基本的に戦後の赤線時代と変わってへんのやけど、こないして1枚の地図の上で重ねてみたら赤線時代の方が今より1.5倍くらい広かったのがわかりますな。
今の松島が何軒あるんかわからへんけど、赤線時代の店の数の変遷は以下の通り。

昭和22年   20軒
昭和23年   27軒
昭和24年4月 57軒(女給175人)
昭和24年7月 86軒
昭和25年   105軒
昭和26年   110軒
昭和27年   125軒
昭和28年   146軒
昭和29年   162軒(女給1300人)


昭和33年3月1日松島新地解散時 
194軒(女給875人)


(引用:『松島新地誌』)



往年の松島遊廓の『青楼500軒 娼妓4000人』には程遠い数字やけど、
それでも昭和28年の吉原が「店数291軒 女給数898人」やさかい、吉原並みに栄えとったって言うてええと思います。数字的にゃ昭和29年がピークですやろな。
また、松島新地の強みは大阪港にも近いさかい、大阪港を訪れる船員も訪れることです。
船員は金離れがええさかい、新地や商店街にとっちゃ上客になるし、
今の地下鉄中央線はもちろん、昔の大阪市電も大阪港から九条まで一本やったさかい交通の便の良さも松島の強みやったと思います。
もちろん、松島の手前にゃ前に書いた大阪港により近い港新地が存在しとったけど、戦争で焼けた松島を快く迎えた度量の大きさ(?)もあったさかい、客の取り合いでケンカになるとかはなかった・・・んかな?そこらへんは知らん(笑

で、その巻末の地図を見て不思議に思ったことが。
その地図にゃ各店の電話番号が書かれとるんやけど、全く別の本になるけど『玉の井 色街の社会と暮らし』という本に、当時の玉の井カフェー街の電話状況が書かれとります。
今はケータイの世の中やけど、当時家に電話を敷くにゃ電話の加入権をGETすることが必要で、それは今でも固定電話にゃ必要です。
せやけど、戦争で施設も焼けて戦後の電話敷設状況はかなり悪かったみたいで、
昭和20年代は電話敷設を申し込んでも戦前からの加入権があらへんかったら4~5年くらいかかっとったそーな。
これは東京での話、地方都市に行ったらもっと状況が悪かったかもしれません。
仕事ですぐにでも欲しい人はどないすんねんというと、ケータイを買って・・・ってケータイなんかあるわけあらへんさかい、「ヤミ電話」を買うことになります。
これは、戦前から電話加入権を持ってる人にゃ優先的に電話を敷いてくれるさかい、その人から「加入権と電話番号」をヤミで買うんです。
ほんの20年前くらいまで、俺が中学生の頃くらいは、電柱の広告なんかで「電話加入権売ります」ってのをよく見たけど、それもケータイの普及でほとんどなくなりましたな。
昭和20年代後半のヤミ電話の価格は17万円やったらしゅーて、今で言うたら50万か60万くらいの値打ちやさかいこりゃ高いわ。
更に、当時は電話の新設は公共施設最優先で、個人にまで電話が普及するんは昭和30年代後半まで待たんとあきません。
で、玉の井の電話状況はというと・・・
昭和33年の赤線廃止前で、

業者数106軒 電話がある店 14軒

玉の井の電話普及率は13.2%っちゅー有様でした。
せやけど、同じ時期の松島の電話普及率は、『松島新地誌』の巻末地図をサラッと見てみても90%以上。
玉の井と松島じゃ状況が全然ちゃうけど、それでも松島は電話の面でも恵まれた環境にあったことがわかります。
電話があったらお目当てのおねーちゃんに「今大丈夫?」って連絡してから行くことも出来るけど、
なかったら直接店に行って確認するか、周りの店に連絡して聞いてもらうしかなし。
まあ、直接行って自分の運の良さに賭けるんもおもろかったかもしれへんけどね。

俺が中国に留学しとった14~15年前も、家庭に電話がのーて「公用電話」っちゅー街角の「電話屋」に電話して呼んでもらうって時でした。
中国人の友達に連絡しよーにも、家に電話がない。せやさかい近くの「電話屋」まで電話して呼んでもらったことは、今じゃもう「昔話」やな~。たった14~5年前やのに。
昔の日本も、そんな感じやったんやろなと思います。

ちゅーわけで、気を入れ直して。



今の松島新地

現代の松島新地へ突入!
行ったんは昼頃やさかい、まだ人はまばらで夜の世界はまだ夢の中でしょう!?
せやけど、昼やのにもう「営業中」なとこもチラホラでした。
新地の中を歩いてみたら、あるはあるは当時の建物が!

松島新地の建物

まずは一軒。

松島新地の建物の丸窓

この丸い窓がまたたまりまへんな~♪
こういう丸窓は戦前に流行った建築方式やったはずやけど、松島新地は紛れもなく戦後に作られたもんやさかい、建築的にゃ戦前も戦後もないっちゅーことか!?


松島新地

交差点にそびえる建物です。
こないして交差点にドン!とあると、写真じゃわからんよーなすごい迫力ですわ。
そして、交差点の角に表玄関があるんは、ある意味遊廓・赤線建築の典型的な作り、今まで「跡」ばっか周ってきて同じよーな建物見てきたけど、「現役」の建物になったらやっぱ「オーラ」がちゃう。

松島新地のカフェー建築

この建物にも、ちょっとした「遊び心」が埋め込まれとります。


松島新地の赤線の建物

これも交差点の角に玄関が作られた建物ですな。
建物の周りの格子の色が赤やったらもっと建物の艶めかしさが目立つのにな~と思います。
白やとどうも萎えやな・・・。
お客さんを「お!?」と思わせるためにも、赤って重要かもしれませんな。せやけど、赤にしたらそれこそホンマの「赤線」やな(笑


松島新地の黄色い建物

こういう、変わった壁の色の建物もありました。
昔は、こういう奇抜な色の建物が赤線にぎょーさんあったことやと思います。
ちなみに、店の名前は・・・そのままですわ(笑


今の松島新地の建物


松島新地の赤線時代から残る建物


松島新地の和風の建物


松島新地を周って建物一つ一つをじっくり見とったら、東京にあるよーなカフェー建築はあんましなくて、和風の建物がほとんどなことに気づきます。
戦後やさかい当時やったら奇抜でかなり目立ったはずのカフェー建築が少ないんは、壊されたせいか、それとも元々和風が多かったんか?
同じ大阪でも、飛田はけっこう奇抜な建物が多かった気がするけど、松島はそれに比べたらオーソドックスっちゅーか何ちゅーか。
今の風俗の情報とかを調べても、松島は日本間がほとんどとかで、やっぱり中の作りも和風っぽくなっとるみたいですな。
戦前の遊郭時代は、大正時代末までの建物は外観こそ豪華やったけど中身は非常に質素、悪く言うと粗末なもんやったそうやけど、昭和初期から外も中も洋式に改造する妓楼が続出、ベッドや応接室なども作られました。
それに反発するように、純和式の数寄屋造りにこだわった建物が出てきたりと、建物にも個性が出てきたそうです。
『松島新地誌』には昭和8年(1933)ころという松島遊郭の写真が数枚載ってるけど、軒に提灯がズラッと飾られた木造3階建ての和風っぽい建物の中に、今の松島新地にあってもあんまし違和感ない、戦後のカフェー建築の原型のような現代的な建物があったり、新と旧が道端に点々と混在しとるような感じになっとります。
せやけど、それらもすべて空襲で焼けて写真すらあまり残っておらず、それももはや伝説扱いになりました。見るだけでええさかい、こん時の松島遊廓を見てみたい気分すらします。
そして戦後は原点に戻ったのか、「ほとんど日本間」になったと『松島新地誌』は書いております。
そこらへんに、もしかして現在に至る戦後松島新地を苦労して作った人たちのプライドが垣間見えるかもしれませんな。
そういう誇りと意地(?)、そして日本文化の保護のためにも、こういう建物はリフォームしてでも残して欲しいもんですわ。住んでる方や使ってる方にゃ古臭くてたまったもんやないと思うけど(笑


それにしても、真昼っても男一人が新地を歩いとったら、やたら声かけられるな~(汗

「お兄ちゃん、どう?」

男やったら「けっこうです」で済むけど、女に声かけられたらすごい重力・・・やなかった、引力です。
ホンマ、ちょっと気を抜いたらフラ~~~っと店の方へ体が引き寄せられそうなんですわ。
それはお前の意思が弱いだけやって?そりゃもうおっしゃる通り。否定いたしません(笑
前にも書いたとおり、松島だけやのーて大阪全体に言えることやけど、通る男に声かけるんはみんな女性。
昔の遊郭は客に声かけるんは「妓夫太郎」(または「牛太郎」)の役目で、「太郎」って名前がついとるよーに男性の仕事でした。
玉の井みたいな私娼街やと娼婦が直接前に出て声かけるんやけど、熟練した妓夫太郎は男を一目見ただけで懐具合とか身分とかがすぐ見抜けたそうで、
遊郭は原則「極道お断り」やさかい、その手の人には決して声をかけへんかったそうです。
ほな、極道とかはさておき、懐具合なんかどこで見抜くんかと言うたら、元妓夫太郎しとった人いわく、「足元を見る」んだそーな。
靴をピカピカにしとったり「足元」まで清潔感があっておしゃれな人はOK、なんぼ上半身の身なりが良くても足元までは行き届かんかったことが多いみたいですわ。
旧海軍も、ヒマやったら「靴を磨け!」と足元には気を遣ってたみたいで、「上陸」(休暇)前の点検でも靴が磨かれてへんと休暇不許可になったことがある、と阿川弘之のエッセイに書いてましたな。
そのエッセイに書いてたんが、戦前に実際にあった「ニセ海軍士官事件」。
海軍士官の服装をして詐欺を働こうとした男の事件やけど、ある警察官がその「士官」を見て「あれ?」と思いました。
その「士官」は確かに服装は立派な海軍中尉、階級章もつけとるんやけど。。。足元を見たら靴が汚れとる。
その警察官は海軍に奉職したことがあって、海軍がくどいくらいに「足元」の清潔感にうるさいことはわかっとったさかい、靴の汚れ具合で「怪しい」と思って近くの憲兵を呼んで職務質問させたそーな。
(※当時の警察官にゃ軍人を逮捕はおろか職務質問する権限もなかったさかい、憲兵を呼ぶしかない)
そしたら、案の定彼は「ニセ士官」やった!というちょっとした事件でした。
まあ、日本語でも「足元を見る」って「弱みにつけこむ」って意味やけど、元は「人を値踏みする」って意味があるって話を聞いたことがあるさかい、新地でも「足元を見られとった」ってことでしょう。足元意外に恐るべし(笑

まあそれはさておいて、
よく「やり手婆」と言われるんは、客が登楼した後の案内や、働く女性の世話をしとった女性のことで、
大阪じゃたぶん「やり手」と「妓夫太郎」が兼任なんか、確かに大阪人的にゃイメージ的に「やり手=妓夫太郎」なんやな~。
大阪人が「やり手婆」って言う時は、店の中から「お兄さん~♪」って声かける「妓夫太郎」のことやし。
そこらへんの文化の違いが、また要調査ってことですな。
それにしても、「やり手婆」っても、歩いてたら明らかに俺より年下の「婆」もおるんやけど、
「やり手婆」やなくて「やり手マダム」「やり手おねーたま」か!?(笑


そして、「いや~、和風やね~」と思いつつ歩いとったら・・・


松島新地の竜宮城のような店

ナンデスカコレハ!!
的な建物発見。
建物自体は、昔あった建物をリフォームして再利用しとるよーな感じやけど、
それにしてもアバンギャルド(←古い)な建物やなこれ。


松島新地の街灯

ある意味松島のシンボルとも言える、交差点の真ん中に建つ街燈です。
写真の街燈自体はけっこう新しく見えるけど、下の土台を見たら戦後すぐあたりに作られたんやと思います。
夜になったらこれが光って・・・って街燈やさかい当たり前やけど、男を引き寄せる灯台になったりします。


で!
赤線時代の松島新地の敷地は今の1.5倍くらい、店が集中する区域の外にも足と目を向けてみました。
今は小さな工場地帯になっとって、平日の昼間っちゅーせいもあってかせっせと製品をトラックに運んだりする作業をしとりました。
その中でも、

松島新地の外の建物

こんな古い建物が残ってました。
半分はリフォームされて新しくなっとるけど、面影はまだ残っとりますな。
『松島新地誌』の地図を見てみたら、ここは昔「清富士」ちゅー店があったそーで、当時は交差点の角まで建物が貫いてたみたいでもっと大きかったみたいです。
「新地外」の建物で、他にめぼしいもんはなかって普通のビル街になっとるけど、昔は今の新地の北あたりにもかなりの店があったことが『松島新地誌』を見るとわかります。


松島料理組合の建物

真ん中の白い建物が、松島の「料理組合」の事務所です。
赤線時代の「松島新地組合」当時からの建物で、『松島新地誌』に載ってる写真を見たら当時とちょっと変わってるけど、基本的には変わってまへん。
これは「利用者の増加で単独の事務所を建設する必要が生じた」さかい昭和27年に建てられたもんで、
それまではこの裏あたりにどっかの建物を間借りした状態でした。
その隣、今自動車工場がある所にゃ昔は「松島病院」がありました。これは業者と働く女性たちのために作られた施設で、
赤線はもちろん遊郭にも専門の病院があったりしました。
戦前の松島にも娼妓だけを診察する「松島駆梅院」ちゅー病院が遊郭内にありました。
「梅」とは梅毒のことで、「梅毒を駆除する」病院のこと、当時は性病、特に梅毒はどうしようもないくらいの問題で、これは十年、時にゃ数十年かけてじっくりじっくり体を蝕む病気な上に子供に遺伝するさかい、
結核と並ぶ「亡国病」で昔は専門の病院があったくらいでした。
今は梅毒なんか、何年、十何年ほったらかした末期はさておき、初期なら注射か点滴一本で治る病気なんやけどね。

梅毒に限ったことちゃうけど、性病が昔の日本にどれだけ「身近」かを物語る資料があります。

内務省大正12年徴兵検査性病罹患率

これは大正12年に内務省警保局(今の警察庁)がまとめた、徴兵検査の時に成人男性から見つかった性病罹患率の統計なんやけど、
徴兵対象年齢の2割から3割が性病持ちっちゅー現実がありました。
梅毒は親から子に遺伝するさかい、親からの「もらい梅毒」もあったけど、この「性病罹患率」は国としてかなり頭の痛い問題やったことは想像に難くないでしょう。
何せ、衛生概念が全国にある程度浸透してもこの数字やさかい。

その「松島駆梅院」が発展して、大阪府内の遊郭の女性を全部一ヶ所で見る「難波病院」が明治16(1883)年に作られました。

難波病院昭和33年

住所は昭和33年当時の「浪速区新川3丁目」(住所表示の変更に伴い消滅。今の「難波中」)で、今のなんばパークスとヤマダ電機LABI1なんば店から、かつては「新川」っちゅー川やった阪神高速環状線を抜けた西側にありました。

旧難波病院の位置

ヒマやさかい、明治時代の古地図と上の地図と平成23年のGoogle mapを照らし合わせて、Photoshopで敷地やったとこを赤く塗りつぶしてみたらだいたいこんな感じです。
今だけ見たらこんなとこに病院が、それも梅毒専門→遊廓の娼妓だけを診る専門病院があったなんて信じられへんやろーけど、最大総面積3900坪、収容人員700人やったそうやから敷地はかなり大きかったことがわかります。
また、『松島新地誌』などによると、病院の四方には高さ2mの塀で囲まれて更に逃亡防止のための1mの忍び返しがついとったって、なんか外見だけなら刑務所やな。

その難波病院も大正13(1924)年に東成郡住吉村(今の住吉区)に移り、戦後すぐの昭和21(1946)年5月に「内務省令娼妓取締規則及び大阪府令娼妓健康診断規則」が廃止になって「府立大阪病院」と改名して一般の患者も受け付け、今は大阪府立急性期総合医療センターとなっとります。つまり大阪府立急性期総合医療センターの母体は遊郭の遊女専用の病院ってわけで、こう調べたらただの病院でもいろいろ歴史があるんやなーと興味深いでしょ。
もちろん、病院も公式HPの「沿革」のとこに書いてあって、更にWikipediaにゃもっと細かく書かれとります。

今から約90年前のこと、難波病院が難波にあった頃の院長やった上村行彰っちゅー医師がおりました。遊女を診察していくうちに遊女や遊郭の生態に興味を持ったんか、自分で調べ出してその集大成が『日本遊里史』ちゅー本にまとめられとります。
『日本遊里史』いうても内容は主に大阪の遊郭のことなんやけど、この本で貴重なんは巻末の「おまけ」の「日本遊廓一覧」の方
この「おまけ」が、日本のどこに遊廓があって、人数は・・・という貴重なデータになっとって、
遊廓・赤線を調べる「遊廓・赤線考古学者」にとっちゃ、「全国女性街ガイド」「全国遊廓案内」に次ぐ、必ず手元に置いときたい&基本史料としてすぐに出せる状態にしたいバイブルとなっとります。
「日本遊廓一覧」は読み物としては面白見に欠けるけど、さすが医者だけあって理系的にきれいにまとめられとって、医者と言う観点からか各遊廓担当の病院まで書かれとるのがこれの個性になっとります。
まさか、何百ページの本文よりたった10ページくらいの「おまけ」が100年近く経った今、邪馬台国のことが書かれた魏志倭人伝みたいな貴重な史料になるなんて、書いた本人は予想もしてへんかったことでしょう(笑

せやけど、こーゆーのを調べとる変わり者・・・やなくて研究者にとって、『日本遊廓一覧』を資料として使う時は要注意な点があります。
それは、
「各道府県の遊廓の妓楼・娼妓数の時期がバラバラ」
っちゅーこと。
上村行彰氏がどのようにこの数字をまとめたんかは知らんけど、少なくても複数の資料から調べたことは明らかで、
その証拠が上に書いた通り「各道府県の遊廓の妓楼・娼妓数の時期がバラバラ」ってこと。
事実、各地方の統計書を丹念にエクセルでまとめとったら、『日本遊廓一覧』の数字は、

東京府(今の東京都ね)と兵庫県 :大正5年

大阪府 :大正9年

ちゅーことが、俺の調査で判明済みです。
統計書と「日本遊廓一覧」の数字がピタリと一致した時期がこの年やさかい、間違いはないと思います。
せやさかい、「日本遊廓一覧」っちゅー一つの書物に書いとるからって数字がすべて同年の資料やとは限らん、というわけです。東京と大阪だけでも4年の開きがあるさかい。
特に大学なんかの論文で『日本遊廓一覧』を引用する時は、他の資料も照らし合わせて数字の裏付けを取らんとあかんさかい気をつけてね。でないと恥かきまっせ~。
ちなみに、他の地方の数字が何年のもんかはまだ調べてまへん。期待しとる方にゃ申し訳ないんやけど、あたいはそこまで暇人でもないさかい(笑


ちゅーわけで、松島編はこれで終わりです。
実は、新地内にゃもっとすごい建物がいっぱいあったんやけど、観光地みたいに写真をパシパシ撮れる雰囲気やないんですわ(汗
この雰囲気はまさに
「21世紀の遊廓か赤線」
これは文章じゃ語られへんさかい、実際に五感を駆使して感じてみるがよろし。

それにしても、大阪人にゃけっこう馴染みがある松島、せやけどここにはかつて日本一の遊郭やった名残、そして誇りが今でも伝わってるよーに思えます。
どんどん「日本らしさ」が消えていっとる昨今、そういう伝統は大切にして欲しいな、と思う今日この頃。


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テーマ:消えた遊廓・赤線の跡を訪ねて
ジャンル:ブログ

コメント

■ 

新川の歴史をググってこちらにたどり着きました。遊郭の歴史、興味深い内容大変興味深く見させていただきました。
さて、昔の記事に今更なのですが、
「難波病院」の明治の地図、少し北に「文」とありますのが、当時:難波小学校、現在浪速スポーツセンターになります。
鼬川・大通り以外は、そう大きく区画も変わってませんので、グーグル地図に赤で囲った「難波病院」ですが、そこまで大きいものではなく、現在の「浪速区役所」と併せて、もうひと区画南側程の敷地ではないでしょうか。
ご参考までに。
2017/04/20 URL きよし #- 

■ 承認待ちコメント

このコメントは管理者の承認待ちです
2014/10/05   # 

■ Re: 「書ききれんネタ」楽しみにしてます !!

>朝汐さん

いつも資料おおきにですm(_ _)m
「書ききれんネタ」いうても、たぶん知ってはることやと思うんですけどね(汗)
とりあえず、書きたいネタ、書かんとあかんネタを書き尽くしてからになると思うんですけど、ただ書くだけじゃおもろないさかい、ちょっと頭の中で熟成・発酵させときます。

参考資料おおきにです♪
所蔵図書館を確認済み、こりゃ次の休みは1日じゅう図書館のはしごになりそうですわ。嗚呼交通費が~(笑
2012/08/01 URL BJのぶ #- 

■ 「書ききれんネタ」楽しみにしてます !!

参考になるかどうか分かりませんが、
こんな本がありますよ。

●松島遊廓関係
①『民衆娯楽の実際研究』(1922年)
  http://books.google.co.jp/books?id=AEwBP5vk7hgC&printsec=frontcover&hl=ja&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q=%E6%9D%BE%E5%B3%B6%E8%8C%A8%E4%BD%8F%E5%90%89%E5%9C%B0%E5%9F%9F&f=false

②『続・大阪古地図むかし案内』(2011年)
  http://www.sogensha.co.jp/booklist.php?act=details&ISBN_5=25060

●松島新地関係『松島たより』(1954年)
 松島新地組合の機関紙です。
 某府立図書館に全12冊中11冊あります。
2012/07/29 URL 朝汐 #VEIOABK. [編集] 

■ Re: wikiより参りました

>ネオンさん

はじめまして。
うちのブログにコメントおおきにですm(_ _)m

> 私は現役でかれこれ4年目になりますが、松島の歴史についてはあまり知りませんでしたので、大変勉強になりました

以前、同じ松島で現役の方からコメントもろたことがありましたけど、自分の職場の歴史を調べるんもおもろいと思います。
ここで書ききれんネタもありますし。
(これはいつか書こうと思うさかい、「予告編」にしときますw)


> 先日は赤線時代からこちらに通われているというお客様がいらっしゃいました
> お客様のお話によると、
> 1日分のお給料では昼間に遊ぶことができ、
> 3日分のお給料ではお泊りができていたらしいです

これは貴重なデータをおおきにでした!
赤線時代のデータや証言って、東京以外はありそうでなかなかないさかい。
むしろ、赤線より昔の遊郭時代のデータの方が豊富なくらいやさかい。
せやけど、今の松島に「お泊り」があったら、仕事場が電車一本やさかい松島から「通勤」するやろなーと思います(笑
正直、一回でええから「お泊り」やってみたいですわ。
せやけど、赤線時代を経験した人って・・・どない若く見積もっても70代前半(汗)すごい精力ですやん。俺も見習わなければ(笑
よかったら、そのお客さんがまた来られたら、具体的に「ショート」がいくらとか「お泊り」がいくらやったかとか聞いてくれたらありがたいです!
けっこう貴重なデータになるさかいm(_ _)m
そん時は・・・お礼に(以下略

> よかったらまた遊郭いらしてくださいね

はい~。そう言われたら「すごい引力」で現生握りしめて行きたくなります(笑
飛田はビジネスライクで冷たいとこがあるけど、松島は何か「あったかい」というかそんな感じですね。
俺の感覚やと、飛田は「青」で松島は「淡いピンク」って感じで、「ただいま~」って感覚がするんですよね。
2012/07/28 URL BJのぶ #- 

■ wikiより参りました

友人に松島遊郭を紹介する際にwikiをみると、こちらがリンクされていたので飛んで参りました

私は現役でかれこれ4年目になりますが、松島の歴史についてはあまり知りませんでしたので、大変勉強になりました

先日は赤線時代からこちらに通われているというお客様がいらっしゃいました
お客様のお話によると、
1日分のお給料では昼間に遊ぶことができ、
3日分のお給料ではお泊りができていたらしいです


よかったらまた遊郭いらしてくださいね
2012/07/28 URL ネオン #mWt2sFS6 [編集] 

■ Re: 九条界隈

>紅花紅子さん

はじめまして、うちのブログに来てもろておおきにです♪

松島は雰囲気は今にも残る「遊郭」そのものですね。
俺も実際行った時はビックリしました。
せやけど、「昔の遊郭の雰囲気ってこんなんやったんやろな・・・」と何か感慨深げでした、もうそれだけでお腹いっぱいでした(笑
本文にも書いてるけど、今の松島新地は戦後に作られたさかい戦前の建物は残ってへんはずやけど、
建物は飛田の奇をてらったものとは違って、「和」を基調にした保守的な建築が多いですね、現存する建物を見る限りは。
俺の勝手な推定ですけど、ここに松島新地の「昔の名実ともに日本一の遊郭」やったプライドが見え隠れしとるよーな気がします。



> 少し向こうには商店街のアーケードも見えました。
> 近隣住民とはどのような形で共存しているのかが
> とても気になりました。
> 滝田ゆうの『ぬけられます』のように、子供たちも
> その環境に慣れているのか、それとも踏み入っては
> ならぬ『立ち入り禁止』区域なのか。

これはどうなんですかね?
商店街もなんだかんだで戦前から松島の恩恵を受けとるさかい、邪魔者扱いするわけにもいかんでしょう。
『松島新地誌』を読んだら、戦後に焼けた松島の業者を「こちらへどーぞ」と勧誘したんは、ここの住民ですし。
昔は、滝田ゆうや「鳩の街」で育った木の実ナナのよーに、そこで育っても曖昧というかおおらかな雰囲気はあったと思うけど、
今はどうなのかわかりません。これも調べてみる必要がありそうですね~。

またよかったらうちのブログを覗いてみて下さいね。
これからもよろしくお願いしますm(__)m
2012/03/16 URL BJのぶ #qDfdtOiE [編集] 

■ 九条界隈

大変参考になりました。数日前、偶然この異界に足を踏み入れた者です。
最初は、戦前のものとおぼしき建築物に目を奪われいたのですが、
『料理屋』とありながら、玄関口にはお姉さんが…。あっ、ここは…。

最近、女性ライターが『飛田潜入ルポ』を上梓しましたが、
まさに同じシステムがここ九条に現役で活躍していることに
衝撃を受けました。しかも時間帯は昼下がり。

少し向こうには商店街のアーケードも見えました。
近隣住民とはどのような形で共存しているのかが
とても気になりました。
滝田ゆうの『ぬけられます』のように、子供たちも
その環境に慣れているのか、それとも踏み入っては
ならぬ『立ち入り禁止』区域なのか。

こちらの記事を参考に僭越ながら、感想等をブログに
アップさせていただきます。ありがとうございます。
2012/03/14 URL 紅花紅子 #KUJo9NaY [編集] 

■ Re: タイトルなし

>イルサさん

ついに現役第二弾です(笑
吉原にも行ったけど、何か雰囲気のレベルがハンパやなかったです。吉原はほとんど住宅地になっとるさかい写真撮るのは別に問題なかったけど、こっちは組合の許可もらっても何か遠慮してまう感じでした(汗

なので、歴史編も読みたい…その3でも、その4でも、特別編でもいいんで、また楽しみにしてます。

これはこのブログで後でこっそり付け足そうと思ったんやけど、
「特別編」で別にしますね。そーでないと一つの記事がアホみたいに長くなるさかい(笑

> あと、個人的に徐々に本丸の飛田に近づいている感がしますので、ドキドキしますね。

じっくりじっくり、渦巻きのように周りを攻略して本丸を攻めます(笑
2011/02/14 URL BJのぶ #- 

■ 

さすがのぶさん、松島探索されたんですね、いつもは現役じゃないところだったんで良かったんですけど、今回は現役の松島でこんなにいっぱい写真撮って大丈夫でしたか?探索編はすっごい楽しかったんです、なので、歴史編も読みたい…その3でも、その4でも、特別編でもいいんで、また楽しみにしてます。
あと、個人的に徐々に本丸の飛田に近づいている感がしますので、ドキドキしますね。
2011/02/10 URL イルサ #- 

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