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BEのぶ

  • Author:BEのぶ
  • 自称「ブログエッセイスト」ことBEのぶです。
    昭和史をライフワークにしていますが、平成ももうすぐ30年経ち、昭和が遠い過去になりつつあります。
    昭和も遺産・遺物を探れば立派な「考古学」となります。題して「昭和考古学」。ジャンルは遊郭・赤線跡から鉄道、そしてすっかり忘れ去られた歴史を掘る「昭和の考古学者」として、昭和の名残りを通して考察する旅を続けています。

    基本は標準語で書きますが、エッセイは大阪弁で書いていきます。

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■■■【前編】 松島遊廓をゆく 消えた遊郭・赤線跡をゆく17

もうすぐバレンタインデーやけど、ここ最近バレンタインデーとは全く縁があらへんBJのぶです(笑
バレンタインデー?俺の前でいちゃつくんじゃねー(怒
バレンタインデー?俺は仏教徒だ(違

まあそれはさておいて、
大阪の遊廓ときたらまず思いつくんが、

飛田



松島

でしょう。
この二つは今でも「現役」やさかい、今でも知名度的にゃダントツのツートップみたいなもんやけど、
戦前は大阪市内だけでも、その他に江戸時代から続いとった新町や堀江なんかもありました。
新町は、歴史と格式は吉原や島原並み、江戸時代にゃプラス長崎の丸山遊廓も含めて「日本の遊廓トップ4」のよーな地位にありました。
そんな老舗に比べたら、明治に出来た松島や大正に出来た飛田なんか「青二才」か「若造」のよーなもんやろな~。
今回は、その「若造」の一つ、松島遊廓の話です。

松島を書いた本の一つに、

「松島新地誌」

というものがあります。
松島の、遊郭+赤線としての歴史を淡々と書いた「歴史書」のよーな本なんやけど、
この本のおもろいところは、

1.「新地組合」という当事者が書いた

2.赤線が現役の頃に書かれた

3.部数限定の非売品

ということ。

1.に関しては、俺みたいな第三者がある遊廓や赤線のことをあれこれ書いたり、そこで働く女性サイドから見た本はある意味山ほどあるけど、
組合が「業者サイド」で書いた本は非常に珍しいと思います。
まあ、業者個人が書いた本もあるにゃあるけど、この本は「新地組合」が組織として発行した貴重な本であります。

2.に関しては、「松島新地誌」の発行が昭和33年2月、つまり売防法が施行される寸前で自分たちの前途も右へ転ぶのか左へ転ぶのか全くわからん状態、
もしかして、松島新地自体がなくなる可能性すら十分にあった時のこと。
「せめて歴史として文章に残しておきたい」という意気込みが感じられます。

3.に関しては、2.でも関連するよーに商売として売るんやのーて、「歴史に残しておきたい」ちゅー信念からか、部数もかなり限定されとって、新地組合の発行とは言うても事実上の自費出版です。
これは推定やけど、発行部数は恐らく100部かそこらやったんちゃうかな?と。
その割にゃ冊子とかもハードカバーでけっこう凝ってるとこがあって、本の最後の「非売品・限定版」の文字があらへんかったら、そこらへんの本屋に売ってても何の違和感もない出来栄え。
この本にかける誇りと気合いが感じられます。
非売品やさかい値段も書いてへんのやけど、古本屋サイトで調べてみたら何と¥48000也!!!
どーもプレミアがついてしもたよーです。さすがに5万円出すんやったらiPad買うわ(笑
せやさかい、今手元にあるんは図書館から借りてきたもんなんやけど、そこにも「一団体寄贈」「大阪府警察史編集室」のハンコが。
たぶん、新地組合が警察の資料室(?)に寄贈して、それが図書館に流れ着いたもんやと思います。

内容は、松島新地の歴史を明治から発行された昭和33年まで淡々と語った、いわゆる「松島新地史」で、
面白おかしく書いたエピソードなどもほとんどなし、ただ事実や回想を書いた「歴史書」であります。
せやけど、どっちかと言うと「薄い」に入る本も、内容は非常に濃いもんになっとります。
遊廓からの流れを持つ業者が編集・出版した意味でも、「松島新地の公式歴史書」と言えますな。
今回のブログは、この「松島新地誌」をベースに書いていきたいと思います。

* * *
松島の遊廓としての歴史は、江戸時代からある「モグリ遊廓」の取締りと整理から始まります。
江戸時代の大阪にゃ、上に書いた新町と堀江、難波新地などっちゅー公に認められた大規模遊廓があったんやけど、
他にもモグリ営業をしとる所がたくさんありました。
そないな「モグリ」は度々お上によって禁止されて取り締まられたんやけど、こういうのはなんぼ取り締まってもなくならんのが世の常、ついにお上が音を上げて「黙認」になって幕末まで営業を続けました。
明治元年に江戸時代からの法律のリコンファーム(再確認)ちゅーことで、「モグリ」も晴れてお上の公認のもと堂々と営業できるよーになりました。
そのうちの一つに、生玉馬場先町っちゅーところがあります。
今で言うと上本町あたりの生魂神社の近く、というかすぐ横なんやけど、
約150年前に遊廓がなくなったはずやのに今でもそこはきっちりラブホ街、「血は争えん」ってことか!?(笑
せやけど、それもつかの間、明治3(1870)年11月にいきなり

「松島に移転せんかい!」

って命令が出ます。
モグリから「昇格」した遊廓は、今後見世の増設はおろか女の数も増やすの禁止、でも松島新地内では自由に営業も出来る上に税金も免除、女性の数も増やして良い、というニンジンをぶら下げて大阪市内の遊里の整理に取り掛かります。
明治5(1872)年の『大阪新聞』によると、

「浪花の西方松島に新郭開け、旧冬廃せらるる遊里二十余カ所のもの共、追々ここに引移れり」

とあり、松島に遊郭を集結させることによって、各地にあった遊里を統合することに成功します。
これが、事実上の松島遊郭の始まりです。
なんで名前が「松島」かというと、当時そこに樹齢300年とも言われた松の木があって、それが島の先っぽにあったことから「松が鼻」と言われとりました。
そして、そこあたりの当時の地名が「寺島町」というて、その一文字づつを取って「松島」って名前になった、っちゅーのが定説です。

今でこそ、松島があった今の西区は大阪市の中心部に等しいけど、
遊郭が開発された時は昼間でも人を見ることがないよーな所で、遊廓はたいてい街の外れに作られるんが常道、
松島も大阪の僻地of僻地に作られた所でした。
今じゃ信じられへんかもしれへんけど、今や大阪屈指の繁華街の梅田駅周辺も難波駅周辺も昔は人一人住んでへんよーな僻地、
明治20年代後半の難波~天王寺あたりの地図を見たことあるけど、
ホンマ何~~~~~もない・・・って言うてええくらいの場所、なんばパークスなんかとんでもない(笑
梅田周辺も、実は大阪駅って当時の市街地やった堂島あたり、今で言えば地下鉄の淀屋橋駅あたりに作られる予定やったんやけど、
地元住民の猛反対で仕方なく「郊外」の「家一つない」梅田に作られたって経緯があります。

そんな「人もロクに近付かん所」に作られた松島の経営は、最初はかなり困難を極めたものでした。
はじめは「新しいもの好き」の大阪人にウケたものの、交通の便の悪さもあってだんだんと客足が遠のき、その上私娼があちこちに復活して圧迫するばかり、
そんな松島が転換期を迎えたんが、鹿児島で起こった西南戦争であります。
今やったら鹿児島まで飛行機か新幹線でバビューンとすぐ(?)の距離やけど、
当時はもちろんそんなもんあらへんさかい、東京の軍隊が鹿児島まで行くんは1日2日の騒ぎやありませんでした。
新幹線はおろか、東海道線も全線開通してへんし山陽本線もなかった時代やさかい。
ちゅーわけで、船で兵員を輸送したってわけやけど、その集結地が大阪やったわけで戦争に行けば生きて帰れる保証はなし、「死ぬ前に」と戦場に行く兵隊で松島は賑わいました。
昭和の日中戦争~太平洋戦争の頃も、戦争に行く前に「男になろう」と兵隊や召集前の男子が大勢つめかけ、
『虎は千里を走る』→『武運長久』ということから『トラ(虎)』って名前がついた女性に人気が出たり、
『怪我なし』→『毛がなし』ちゅーことでバイパンの女性の注文が多かったりしたと、当時の書物に書いてます。
今から見たら「アホーか」と思うことでも、生きて帰れる保証がない緊張した時代のこと、彼らも本気やったことでしょう。
また、ある遊女がある男に惚れて、最後とばかりに一晩過ごして「あるもの」ずっと持って彼の帰りを待ってたそうですが、その「あるもの」とは使用済みコンドーム。
乾いてカサカサになった彼の「あれ」、そんな避妊具を袋に入れて肌身離さず、空襲も生き抜いてずっと待ってたそうですが、彼はついに帰らなかったそうです。
遊女も女、ちゃんと恋をします。そして好きな男をずっと一途に待ってるいじらしさと悲しさが入り混じった、「戦争さえなければ・・・」っちゅー悲しいエピソードですな。

西南戦争で息を吹き返した松島はその後、どんどん発展を遂げます。
「青楼500軒、娼妓4000人」と言われたんは明治末、日清戦争が終わった頃の話やけど、
『松島新地誌』によると実際の数はそれほどでもなかったそーな。
ここで、戦前の松島遊郭の変化を数字で見ていきましょう。

●明治28(1895)年
貸座敷254軒
娼妓2,657人
芸妓88人
(※「青楼500軒 娼妓4000人」と謳われた頃)

●明治45・大正元年(1912)
貸座敷:289軒
娼妓数:3,913人
芸妓:67人
曳子:534人
(出典『大阪市統計書』 明治四五・大正元年)

●大正2(1913)年末
貸座敷:289
娼妓:3,912人
(出典:『大阪府統計書』 大正二年 第二〇警察)

●大正5(1916)年末
貸座敷286軒
娼妓:3,804人
(出典:『大阪府統計書』 大正五年 第二〇警察)

●大正13(1924)年
貸座敷:259軒
娼妓:3,765人
遊客数:2,162,554人
(出典:『大阪府統計書』 大正十年 第二〇警察)

●大正末期頃
貸座敷275軒
娼妓3,725人 
(出典:『日本遊里史』上村行彰著)
※『日本遊里史』のデータはいつのもんか不明やったけど、
統計データをまとめてたら大正9年(1920)のもんとわかりました。


●昭和3~4年頃
貸座敷数260軒
娼妓数約3,700人
(出典:『全国遊廓一覧』)

●昭和15(1940)年
貸座敷数256軒(客室数3964室)
娼妓数2,666人
その他2,301人

●昭和20(1945)年3月
貸座敷数255軒
(疎開、休業除いた実稼働数は188軒)
娼妓数約1,300人

(※出典がなければすべて『松島新地誌』より)




大正~昭和にかけてが実際の松島遊廓の最盛期、
その数と規模はかの吉原を凌ぐ勢いでした。
この当時の、松島を除く全国の主な遊廓の娼妓数は、



松島→貸座敷275軒 娼妓3725人

★吉原(東京) 貸座敷数228軒 娼妓数2362人

★洲崎(東京) 同183軒 同1937人

★飛田(大阪) 同121軒 同1065人

★七条新地(京都) 同208軒 同988人

★福原(兵庫) 同96軒 同1057人

★旭廓(愛知) 同171軒 同1497軒

・金津(岐阜) 同59軒 同427人

・玉水新地(高知) 同28軒 同279人 (※四国最多)

・二本木(熊本) 同64軒 同763人 (※九州最多)

・大森(北海道) 同67軒 同366人 (※北海道最多)

(データ:『日本遊里史』)


とあるよーに、全国2位の吉原と店の数で約50軒、娼妓数で1000人以上突き放してダントツのトップです。
数字だけやったら大型遊廓を超えた超巨大遊廓、今風に言うたらスーパー銭湯・・・やなかった、「スーパー遊廓」か?
それに輪をかけたんが、松島新地と川を挟んで直結しとった「九条新道」の存在。
九条新道って今の商店街みたいなもんやけど、「他の地域より安く売る」がモットーやったのと、遊廓の客はタダでさえ金離れがいいせいもあって商店街も遊廓も共同体で大繁盛、
映画館や劇場も出来て「西の心斎橋」「第二の千日前」と呼ばれるよーになりました。
それだけ栄えとったってことでしょうな。
ちなみに、今の「九条新道」は、地下鉄中央線と高速道路が走る中央大通りで二つに分かれ、
西九条方面は「キララ九条商店街」、旧松島遊廓方面は「ナインモール九条商店街」に分かれとります。

松島遊廓がどんなもんやったんか、ここは二つの書物から引用してみます。
まずは、明治32(1899)年に発行された『南海鉄道案内』から。

西区松島橋西詰より、西は梅本橋の東、北は松ヶ鼻より南は天神御旅所の横手の掘割までが松島遊廓の区域です。
此遊廓は、市内の遊郭の内で一番新しく、維新後に開けたのですが、なかなかの繁盛を極め、(中略)貸座敷の数254軒、芸妓88人、娼妓は2657人、娼妓の数は各遊廓の内で此廓が第一です。
(※俺註:下線で引いた人数は『松島新地誌』にある貸座敷・娼妓・芸妓数が同じやさかい、『松島~』の方がこれを参照にしたと思われ)
貸座敷の内で、東京楼が第一位を占め、80余名の娼妓と数名の芸妓とを抱えてあって、芸娼妓とも和洋の両装をさせ、客の望みに応じて何処でも出すということです。
又家の大きい事は、大阪青楼の中で屈指だといふことと、又此楼では客の好みに依って、芸妓に舞台で伊勢の古市の音頭やうの舞を舞はせますが、前年案内者が頼れて、戯に筆を採りましたから、松島最寄の名所の案内かたがたお笑ひ草までに載せておきます。



お次は、昭和4年に発行された『全国花街めぐり』(松川二郎編)ちゅー本から。

「意気な三尺、尻垂れ結び、鼻歌プイプイ九条行き
と、以ておぼろげながらこの廓のカラーをうかがうことができるであろう。欧州戦(俺註:第一次世界大戦)前夜からこの方面の急激な発展ぶりはすばらしいもので、松島から西へ九条通にかけた一帯の地は、第二の千日前と言われるほどの賑いであるが、夜桜で賑う廓は大阪ではここばかりだ。
が、家並は大小様々、新旧またとりどり、その間には小料理屋・飲食店・八百屋まで介在しているという具合で、混然また雑然、甚だしく花街としての美観を欠いている。
しかし、昭和2年12月末現在の統計によれば、大阪府下の娼妓数8155人中、その4割をこの一廓で占めているという。府下随一はもちろん、おそらく日本第一の大遊郭である。

貸座敷 259軒 娼妓 3701人
芸妓置屋 8軒 芸妓 133人


妓楼では第三円楼というのが、規模も大きく、格式も高く、それに美人が多いという評判で、まず廓一の妓楼と言われている」。
(中略)松島・飛田共に同一で、揚屋・引手茶屋の類はなく、直接貸座敷へ登楼し、芸妓もそこへ呼んで遊ぶのである。妓夫はすべて年増の女が勤めている



ここで面白いのは、最後のとこ。
妓夫(ぎふ)、または妓夫太郎とは見世の前に立って客寄せをする人のことなんやけど、
東京の吉原や洲崎の記録やと、「太郎」ってついとるよーにすべて男がやっとるんやけど、
松島じゃ女がやっとることに注目。
てっきり、妓夫は男の仕事やと思ってたさかい女ってことにビビっときました。
よー考えたら、吉原に行った時の客引きは全員男やったけど、関西の「現役」はほとんど女。これにも東西の違いがあるんかな?大阪の遊廓の伝統っちゅーか習慣っちゅーか、それを引き継いでるんかな?
ちなみに、松島は知らんけど吉原や洲崎遊郭の妓夫は細かいランクがあって、熟練した「妓夫太郎」になると歩合給を入れたら月給80円くらいになることもあり、当時の東大法学部卒の三井物産の初任給が100円くらいやさかい、かなりの高級取りなことがわかります。


そんな「日本最大のスーパー遊郭」松島で起こった大事件が二つあります。
一つは、「松島某大乱闘事件」
これは明治18(1885)年のこと、警察が遊廓内をパトロールしとったところ、上から「あったかい雨」が。
「あったかい雨」はここで遊んどった兵士が廓の2階からかけた小便のことで、巡査が現行犯逮捕しよーとしたところ兵隊が集まってインネンをつけ、負けじと警察も応援にきて、兵1400人vs警察600人の大乱闘となりました。
憲兵隊や府の警察トップがやってきてやっと騒ぎは収まったものの、死者2名(すべて兵士)、負傷者60名と出す始末になりました。
死者を出した軍側は「警察のやりすぎ」を主張、警察側も「正当防衛」を主張、お沙汰は裁判に持ち込まれることになりました。
新聞や市民は警察に理ありと応援、無償で弁護しますと名乗り出た弁護士までおったんやけど、警察の当事者は「ちゃんと仕事してそれが罪なら、甘んじてそれを尊重しよう」とばかりにすべて辞退、結局全員有罪になったとさ。
軍と警察のいざこざは、昭和に同じ大阪で起こった、陸軍兵の信号無視から始まった大阪府警vs第四師団のケンカから内務省vs陸軍省に火が移って大騒ぎ、最後は昭和天皇まで心配して仲裁に入ろうとした「天六ゴーストップ事件」が有名やけど、
この二つって昔から犬猿の仲みたいやね。

もう一つは、ヘタしたら高校生の日本史の教科書にも出てくる「松島疑獄事件」
戦前最大の汚職事件としてもかなり有名で、松島遊郭が輪をかけて有名になる事件でもありました。
松島は出来た時こそ見渡す限りペンペン草しか生えてへん荒れ地やったけど、市街地の拡張で大正時代中期にゃ松島も「市街地」になり、
「市街地に遊廓があるんはよろしゅーおまへんな」とばかりに移転問題が起こりました。
松島側も、巨大になりすぎて手狭になった今の土地から、広々とした郊外に移るのに賛成で、大正時代から港区の大阪港周辺への移転話が持ち上がってました。
今じゃ信じられへんかもしれへんけど、遊廓って絶好の「町おこし」の手段、悪く言うたら「ええ金づる」で、
「遊郭移転」の話が持ち上がったら「是非うちに!」と土地を提供して勧誘してくる所が殺到したとか。
要するに、

「遊廓が出来る→そこに人が集まる→地元に金を落とす→土地の値段も暴騰→地元ウハウハ」

ちゅーパターンであります。
「松島疑獄事件」はそういう利権にまつわる事件で、土地価格暴騰でボロ儲けしようと欲が突っ張った不動産会社が当時の政党のトップクラスの政治家に「是非うちの土地に遊廓を~m(__)m」とお願い、ついでに「諸費用」として賄賂を贈りました。
それはもちろん秘密裏に行われたんやけど、大正15(1926)年はじめにそれをほのめかす怪文書が出回りました。
でも、遊廓の移転の権限は各道府県の知事にあって、知事が内務省に「ここに遊廓移転させまっせ」と上申して許可をもらうってシステムでした。
当時大阪府知事やった中川望は上の「裏工作」なんか寝耳に水、知事自身は松島を他に移す気があらへんかった上に、更に中川知事も賄賂をもらったって話も出たさかい、痛くもない腹を探られた知事は超激怒。
そして、汚職の証拠をつかんだ上に知事のバックアップもあって大阪地裁の特別判検事捜査隊は一斉に不動産会社を強制捜査、そこで動かぬ証拠が出てきました。
大阪地裁特別判検事捜査隊って、今で言うたら大阪地検特捜部みたいなもん。政治家が絡む汚職は権力のトップダウンが直接来る警察は手を出せず、その代わりに政治権力が入りにくい地検特捜部が捜査するんやけど、特捜部って戦前からあったのねん。
そこで出てきたのは、当時の政治家の大物の名前ばかり。間接的やけど首相の若槻礼次郎の名前まで出てきて永田町は鍋をひっくり返したような大騒ぎになりました。
そして、大阪地裁特別判検事捜査隊は当時の政党のビッグ3、政友会と憲政会、政友本党の幹部をいっせいに大阪に召喚して起訴しました。
今で言うたら、与党の民主党、自民党の幹事長なんかの大物議員がいっせいに逮捕、首相が証人喚問されるよーなもんです。
結果は、あれだけ日本中がひっくり返った大事件やったのに、蓋を開けてみたらネズミが数匹・・・ってあやふやな結末に終わり、政治家の腐敗が暴露された上に国民の政治不信と政治家不信を植え付け、後の軍の独断を許す状況を作ったきっかけとも言えなくない事件であります。
「松島疑獄事件」は人間関係が非常にややこしいドロドロとした事件さかい書き出したらきりないけど、
簡単に書いたらこんな感じですわ。
ちなみに、遊郭移転を突っぱねた中川望知事はこの直後に依願退職し、後任の知事が突然二つの「新地」の開設を許可します。
その二つの新地が「港新地」「今里新地」
これは偶然やのーて、「今里新地」の土地所有者は大東土地株式会社という会社やったんやけど、
その大東土地は松島の業者系の会社で松島疑獄事件の当事者の一つでした。
その後大東土地は大阪電気軌道株式会社、今の近鉄奈良線に買収されて「今里土地株式会社」を設立、そこが今里新地の開発に乗り出します。
今里新地の土地は、大東土地が松島の移転先としてGETしてストックしとった土地。
「港新地」の方も、安治川土地株式会社っちゅー不動産会社の土地やったんやけど、そこは大正時代に松島が移転する予定やった候補地の一つやったと言われとります。
つまり、松島疑獄事件の後始末の結果、赤線として戦後も生き残る二つの新地が誕生したってわけで。


そんな繁栄を極めた松島遊廓も、戦争の足跡と共にだんだんとその規模を縮小せざるを得ませんでした。
戦争が激化するにつれて「客」である男はどんどん兵隊に取られ、国の方針で営業時間がどんどん短縮、更に国に奉仕するってことで見世の金属を供出、派手な装飾もすべて「自粛」となりました。
それでも、松島が空襲で跡形もなく消える昭和20年3月時点でも、女性の数が1300人もおったっちゅー方にビックリ。
何だかんだで「需要」があったことが伺えます。
武蔵新田のとこでも書いたけど、トキオの武蔵新田の赤線も戦争のどさくさに出来た所やけど、
それでも連日満員御礼の大盛況やったそうな。
おいおい、戦争で食うもんにも困っとった時代ちゃうんか?と思うやろーけど、事実食うもんにはかなり困っておりました。それでも「性欲」は不滅なんでしょうな~。
ぶっちゃけ言うて、そりゃなんぼ口で言うても売春がなくならんわけや(汗

そして昭和20年3月14日(3月13日深夜)、大阪をB29の編隊が襲って松島あたりに焼夷弾を大量に投下、
松島遊廓は一面火の海になって全滅、「青楼500軒」と繁栄を誇った松島の建物はすべて焼け、その日が
「松島遊郭臨終の日」
となりました。
『松島新地誌』にゃ一面焼け野原になってしもた写真が残っとります。
「全部焼けた」とは頭でわかっとっても、いざ写真を見たら「まあ見事にきれいさっぱりと・・・」ちゅーくらいの更地状態、確かにこりゃ「御臨終」ですわ。
「焼失」やのーて「消失」って方が正しいくらいです、いやマジで。
そして、『松島新地誌』にゃその時の状況を回想した座談会の内容が書かれてあるんやけど、
回想じゃ娼妓の死者は「詳しいことは知らないけど10人くらい」と。それも全員「防空壕に逃げた人」だそーな。
「んなアホーなー!」とは俺も思ったんやけど、270人くらいと書かれとる書物もあります。
当時、空襲に遭ったある人の回想では、

「飛んでくる炎を避けて(中略)千代崎橋のあたりに来た時、川に着物が何筋も流れているのを見た。
当時の女子の服装は上着(俺註:白のブラウス)にもんぺと決められていたので、なんでこんな所に着物が?と不思議に思ったのを覚えている。
それが実は人間で、その西方にあった松島の娼妓が逃げ場を失って川に飛び込み、流されたものだとわかったのは、(中略)ずっと後のことだった」



とあり、この回想だけでも「10人」は絶対あり得へんちゅーことで。
で、同じ年の7月10日にお隣堺市が空襲されて、そこにあった龍神・栄橋遊廓も灰になってまうんやけど、
その龍神に空襲で焼け出された松島の業者が現れます。
「空襲で火が付いたらすぐ逃げろ。防火しても無駄やから娼妓もすべて逃がすよう」
とアドバイスをしたそうで、
そのアドバイスを聞いた龍神の業者は、いざ空襲になったら娼妓を全員避難させた、と堺空襲の回想録に龍神遊廓の元楼主が書いてました。
それでも近くの川にゃ着物を着た女性がたくさん浮いてたらしいけど、その回想録によると「ほとんどが芸妓」やったとか。
そして、助かった娼妓はみんな遊廓に帰ってきたそうで、「そのまま逃げればよかったのにね。故郷に仕送りしなくちゃって思ったのでしょう」とその元業者は回想しとります。
松島の業者が、何故堺にまでやってきてアドバイスしたかと言うと、『松島新地誌』にゃ空襲に遭った時一通り防火をしようとしたと書かれていて、それも無駄なくらい焼夷弾は火の周りが速かったことを伝えに来たんかもしれません。
それか、娼妓を逃がさんかった反省からか・・・?
その真相は、今は全員墓場まで持って行ってしもた当事者のみぞ知る。

『松島新地誌』でむしろ興味深かったのはその後のこと。
空襲ですべてを失った松島の経営者たちは、焼け残った他の遊廓を頼って大阪の各地に散らばります。
困った業者は西区の警察署長に相談したところ、
「港新地に移りなさい。あと池田の署長にも電話で伝えてあるから」
と支援してくれたそうな。
港新地は快く迎えてくれたそーやけど、池田の方は足元を見てきたのか法外な土地使用料をふっかけてきて、
「やってられるか」と決裂し、今里や枚方、貝塚などに散っていったそうな。
ここで「ほーっ」と思うんは、戦後に赤線として名前が出てくる港新地と池田がくっきりと記載されとること
そして、この当時から存在しとった証拠がこの本に書かれとります。
港新地は上に書いた通りやけど、池田は戦後突然出来た赤線・・・とは言うてもちゃんと伏線はあったわけで、
池田も港新地も資料が非常に少ない有様やさかい、ほんの1~2行だけとは言うても貴重な資料になります。

移転先は、『松島新地誌』の記述を図にしたら↓のよーな感じになります。

松島遊廓の業者移転先


焼けてしまった遊廓の再建を彼らはどないしたんか、そして松島新地は何故元の場所に戻らず今の場所を安住の地にしたんかなど、
「戦後編」は次の章で書くとしましょう。
戦後編まで書いたらブログが長すぎて読む気失せるさかい(笑


松島遊廓と松島新地の位置図


もう知ってる人は知ってる通り、そして上にも書いた通り、
戦前の「松島遊廓」の場所と戦後の赤線の「松島新地」は存在した位置が違います
位置を平成23(2011)年現在のGoogle mapと重ね合わせたもんが上の画像です。めちゃ適当やけど(笑
頭だけで理解したら、戦前の位置と戦後の位置ってけっこう離れとるよーな気がするけど、
こないして地図にしてみたら同じ大阪市西区やさかい、なんや隣町に移った程度やなと思う今日この頃。
戦前の松島遊廓は、青く塗りつぶした所あたりが島になっとって、ほぼ島ごと遊廓みたいなもんやったんやけど、
昔は西側に尻無川と呼ばれとった川が流れとりました。いつ埋め立てられたんかは知らんけど、そこは『松島新地誌』が刊行された昭和33年時点で埋め立てられて、赤線があった九条地区と陸続きになっとることが書面でわかります。

松島遊郭の地図

『松島新地誌』を元に俺が地図作成ソフトで作ってみた、戦前の松島の復元地図です。
これも適当・・・ちゅーか俺にセンスあらへんせいで、「復元地図」っちゅーより小学生の絵みたいになってしもたな(笑
まあ、自分の絵のセンスのなさを嘆くんはこれまでにしといて。
松島のメインロードは、「桜筋」っちゅーとこで、上の図の赤く塗った道がそうです。
そこは新吉原の仲之町通りを見本にして作られ、通りの真ん中に桜の木を植えたところから「桜筋」ちゅー名前がつけられました。
ちなみに、非大阪人のために解説しとくと、「筋」って道のことで、関東風に言うたら「通り」のこと。
大阪の道は「御堂筋」「四ツ橋筋」みたいにほとんど「○△筋」って名前がついとります
大阪人は俺も含めて「道」のことを「筋」言うさかい、大阪にに来て道に迷ってジモピーに聞いた時、
「このをまっすぐ行って次の信号の右に曲がって・・・」
って言われて「筋って何?」ってことになりかねんけど、
別に筋肉のことやありまへんで(笑
「筋」って俺も別に何のこともなく使うけど、京都とか神戸の人って使うんやろか?

そんなことはおいといて、
その「桜筋」に面した仲之町1丁目と2丁目には、その昔木造2階建て3階建ての建物がズラリと並んでて、
それも吉原を模して造られたそうです。
「『松島遊廓』と書かれた大門をくぐると、大通り道幅6間半(約12m)、中央帯には桜の木が植えられ奥を行くのに延長約220間(約360m)という大きさだった」
という大通りで、
今の堺筋の幅が12間(約21.8m)やさかい、その半分ちょっとくらいの広さやったってことですな。


明治時代の松島遊郭の桜筋の写真

これは、戦前の松島遊廓の桜筋を写した有名な写真の一つなんやけど、
もちろんカラーフィルムはないさかい、白黒写真に着色したもんです。
時期は不明やけど、提灯の飾りなどから何らかの戦争の直後か最中、人力車があるとこを見ると、たぶん日清戦争か日露戦争の頃(明治後期)と思われ。
昭和の時代やと車があるさかい、車になるやろし。
「木の摩天楼」が道沿いに並んどって、更に「黒のハイヤー」ならぬ「黒の人力車」がズラリと並んで客待ちをしとる光景だけでも、松島の繁栄がわかりますわな。
そして、この絵ハガキだけ見たら「なんや、道幅そんな広くないやん」と思うでしょう。
俺も最初はそう思ったんやけど、この桜筋を別の角度から撮った写真を見たら、これ「片道」なんですわ。
上の絵ハガキの右にある、どっかの家の塀のようなもんは上に書いた「中央帯」で、
その右側にもう一つ、同じ幅の道があったということです。

で、平成23年現在では・・・

現在の松島遊郭跡

昔の「桜筋」っぽい道を写してみたんやけど、
まあご覧の通りでございます(笑
「道幅6間半」はどこへやら、旧遊廓の場所は戦後綺麗に整地されたさかい全く面影はないんはわかっとったけど、
わかっとってもちょっとがっかりやな~。


その「仲之町」の西に、遊廓事務所があった高砂町がありました。
松島遊廓の事務所は埋め立てられた尻無川沿いにあって、「赤線のカフェー10軒か15軒分は建った」というくらいの大きさの洋館で、中には広い庭もあったそうな。
そんな遊廓事務所も、もちろん空襲で焼けてしまって、高砂町周辺現在「松島公園」という、野球グラウンド付きの公園になっとります。

松島公園

その松島公園を、新デジカメの新機能、パノラマモードで撮ってみたもんやけど、
左端あたりに公衆トイレが見えます。
その左側がかつての尻無川で、遊廓事務所はおそらく俺が写した場所から奥一帯やったと思われます。
もう見事なくらいに面影なし!!
『松島新地誌』が書かれた当時は、地名変更の嵐が吹き荒れてへんかったさかい、戦前のまま「仲之町」「高砂町」やったそーやけど、今は地名すら変わって「千代崎1丁目」「2丁目」になっとります。


尻無川の跡の道路

これが、かつて松島遊廓の西側を流れとった尻無川の跡に作られた道路です。
右側に竜宮城のよーな門構えのお寺があるけど、これが上の「復元地図」に書いた「竹林寺」です。
この中にゃ、3月14日の大阪大空襲で亡くなった松島の遊女の菩提を弔った無縁塚があるって聞いたけど、
探した限りそういうのはなかったです。
竹林寺については、また別にして書いてみましょう。
これ以上ブログが長くなったらヤバいさかい(笑

松島天神

松島遊郭のちょうど南端あたりにあった天満宮(松島天神)です。
遊廓の神社ときたらお稲荷さんが方程式みたいなもんやったけど、ここは「学問の神様」だそーで。
『松島新地誌』にもこの天満宮の由来が書いてあって、明治8(1875)年に本田(ほんでん)地区からここに移ってきたようです。
そしてずっと松島遊郭を見守り続けてきたんやけど、例の空襲で全焼してしまい、更にその境内に無法者が不法占拠してしまい、『松島新地誌』が発行された時も、バラック小屋が立ち並んでたそうです。
その当時の写真が本に載ってるけど、
まるで終戦直後の闇市のよーな光景、終戦から10年以上経ってもこういう所あってんな・・・と思ってまうよーな所ですわ。
今はそんなスラム街もどきのよーなバラック小屋も撤去されてきれいになっとるけど、
天神さんもすっかり小さくなってしもたみたいで、かつては写真の後ろにある白い建物のとこも境内でした。

そして、旧松島遊廓の終点は・・・


京セラドーム大阪

京セラドーム

やったりします。
つまり、今の京セラドームよりちょっと北に市立西中学校があって、そこより北が旧松島遊郭やったわけで、
これでだいたい松島の規模と位置関係がわかることでしょう。
戦前と比べて川がだいぶ埋め立てられて、今の地図と比べたら何が何だかわからんくらい変化しとるさかい。


というわけで、「松島戦前編」ちゅーより、「松島遊廓編」は終わり。
収穫はもちろんゼロであります(笑
ゼロってはじめからわかっとっても、やっぱないと何か寂しいな、と思うんは俺だけ?

次は終戦~赤線~売防法施行までの「戦後編」に続きます。
続きは消えた遊郭・赤線跡をゆく 松島編その2 「松島新地」の章からどうぞ。


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2016/10/22   # 

■ Re: 国立文楽劇場ウラの裏 !?

>朝汐さん

新たな情報おおきにです。
仕事場からそんなに遠くない距離やさかい、帰りにでもちょいと行ってきますわ。
せやけど、¥15000やったら買って全文コピーして、¥30000くらいで売・・・いや、何でもありまへん(笑
2012/08/20 URL BJのぶ #- 

■ 国立文楽劇場ウラの裏 !?

今日、某古本屋さん行ったら

   『松島新地誌』

15,000円で売ってました ・・・・



2012/08/12 URL 朝汐 #N0fGSRtA [編集] 

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