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BEのぶ

  • Author:BEのぶ
  • 自称「ブログエッセイスト」ことBEのぶです。
    昭和史をライフワークにしていますが、平成ももうすぐ30年経ち、昭和が遠い過去になりつつあります。
    昭和も遺産・遺物を探れば立派な「考古学」となります。題して「昭和考古学」。ジャンルは遊郭・赤線跡から鉄道、そしてすっかり忘れ去られた歴史を掘る「昭和の考古学者」として、昭和の名残りを通して考察する旅を続けています。

    基本は標準語で書きますが、エッセイは大阪弁で書いていきます。

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■■■舞鶴丸山・加津良遊郭跡をゆく 消えた遊郭・赤線の跡をゆく14 

すっかりご無沙汰してしもた、以前書いた

消えた遊郭・赤線の跡を訪ねて舞鶴朝代編

消えた遊郭・赤線の跡を訪ねて舞鶴龍宮編

の続きでございます。
そして、新年初投稿のブログはやっぱしこれですやろ(笑
遊廓・赤線関連のは書きたいことが溜まってるさかい、それを消化するためにしばらくは簡潔に書いていこうと思います。
が!そう書いたのはええけど、果たして結末はどないなるやら(コラ

さて、舞鶴の龍宮遊廓跡を巡った際に地元のおじいちゃんから、

「龍宮遊廓は"戦時中"に丸山地区に移った」

って貴重な話を聞いて、その足で丸山地区に向かいました。
とは言うものの、丸山地区ってどこ?
大阪人やさかい土地勘ゼロ、地図も持ってへんさかいいきなり途方に暮れてもーたけど、そこは21世紀が誇る文明の利器2丁の出番です!
まずは車のナビで住所検索。
ま・る・や・ま♪と丸山を検索・・・はい、一発で出てきました。
そして念には念を入れてiPhone搭載のGoogle mapでとどめ。
よ~し、龍宮のおじいちゃんが言うとった地区と一致、間違いなし!

目標捕捉!出動準備完了!進路クリア!

アムロいきまぁ~~す!!(違

* * *
丸山地区は、「遊郭を見る」(下川耿史、林宏樹 筑摩書房)という本の龍宮遊廓の欄にサクっと書かれとります。

「1940年(昭和15年)、竜宮遊郭は基地の拡張により丸山への移転を命じられ、13軒が移転。
軍ご用達の遊郭には配給の特配があるというので、京都の祗園からも19軒が移転してきて、32軒からなる丸山新地ができた」



戦後に龍宮から移った業者が龍宮に帰ってきたんは、龍宮編で書いた通りなんやけど、
その後の丸山地区は消えたわけやのーて、そのまま赤線として残ったことが以下の資料でわかります。

「京都の取締り対策について申し上げます。
まず、売春関係地区の現況は、京都における赤線地域は京都市一帯の8カ所、即ち西陣新地、祇園、宮川町、七条新地、島原、中書島、撞木町、橋本の8カ所と、
府下6カ所、即ち月見、猪崎、朝代、龍宮、
丸山、新浜の6カ所に分けられますが、(以下長いので略)」

(国会法務委員会議事録(昭和32年) より)


昭和32年やから売防法施行と赤線廃止関連のことが国会で真剣に(?)討議されたことがちゃんと議事録として残ってるのもおもろいけど、
ここでわかるのは、京都市も含めた京都府のどこに赤線があったんか、文字としてちゃんと残ってること。
遊廓のデータは意外に多いけど赤線のデータは東京や大阪などを除いたら意外にないんが現実、
こと地方になると「ほとんどない」って言うてええのが実情でもあります。
せやさかい、こういう資料はけっこう貴重なんですよね。
もちろん、モグリの青線は「公認」やないさかい議会の俎上にも挙がらんけど、ここに丸山地区が戦後も赤線として残っとって、売防法施行寸前まで残っとった証拠でもあります。

戦争中に「お国の事情」で廃止になったり移転させられた遊廓はけっこうあって、
東京の洲崎遊廓もその一つ、昭和18年に海軍の命令でほぼ強制的に排除させられ、跡は軍需工場の社員寮になりました。
そして、そこをアメリカ軍に狙われ爆弾の集中砲火を受け、日本でも3本の指に入るような隆盛を誇っとった洲崎遊廓は一塊の灰と化しました。
岐阜市にあって今でも「現役」の「金津園」もその一つで、戦前の金津園は今とは別の場所にあったんやけど、
戦争中に「自主的」に国に敷地を明け渡してその場はやっぱり軍需工場の独身社員寮に。
せやけど、きっちり立ち退き料はいただいたみたいで、その資金で岐阜市の郊外の手力地区に移転して営業、何と「金津」ちゅー地名まで持って行ったのか、「手力」という地名が「金津」になったことが当時の地図からわかります。
そして、当時アメリカ軍がB29から撮った航空写真と平成23年のGoogle mapを比較してみると、道筋は70年経った今でも同じというのがわかります。
当時の建物が残ってるかどーかは知らんけど、一回行ってみる価値はありそうやな。
戦後に金津園は岐阜市に復帰するんやけど、一時疎開のような形やった手力地区には何らかの事情で金津に戻られへんかった業者や、「岐阜市復帰後」に入ってきた人たちの手で何と独立、
「手力園」として売防法まで細々とながら営業しとったそーな。
丸山地区もそれと同じ歴史を歩んだよーな感じやけど、丸山は赤線、岐阜の手力園は結局赤線としての認可を受けられず、最後まで青線やったって違いくらいですやろな。


11010501

そんな丸山地区は、今ではごく普通の、どこにでもある住宅街になっとるみたいです。
ちゅーか、丸山地区のどこあたりが赤線やったんかさっぱり見当がつかんさかい、
「ここらへんかな?」
ちゅーだいたいの目星をつけてみたものの、どっからどー見てもただの住宅街・・・。
こりゃ間違えたか?それとも当時の建物は全く残ってへんのか?
それは資料不足やさかい現時点ではわからずじまい。

ただ・・・

11010502

龍宮にあったお地蔵さんが何故かこの地区にもありました。
これは舞鶴の地元の信仰か?それとも龍宮のお地蔵さんがもしかして丸山に移った名残か?
ただ、「同じものがここにもある」という事実があるだけ。
結局、丸山地区の端から端まで歩いても、手がかり的なものは一切なし。
なんぼ赤線廃止から60年経ったっちゅーても、手がかりが一切なしなんもおかしいと思うさかい、俺が地区を間違えただけかもしれませぬ、これは今後再調査させていただきますわ。


で、丸山地区を離れて、次に向かったんが

「加津良遊廓跡」

でやんす。
これは明治からの歴史があって、我らがバイブル『全国遊廓案内』にも載っとる由緒正しい(?)遊廓、
どっちかと言うたら「北舞鶴」あたりの長浜という地区にありました。
時は明治35(1902)年、当時は餘部町という地区の一つやったここの町民が遊郭地設定の上申、つまり
「うちのとこに遊郭作って~m(__)m」
と京都府知事宛に出しとります。
その様子が舞鶴市の公式な歴史書『舞鶴市史』に書かれとって、それは以下の通り。

明治参拾五年七月弐拾九日(←※注:明治35年7月29日)

加佐郡余部町長代理者 井上 奥本

遊廓地設定の儀に付上申
不肖上野栄蔵外拾弐名余部町住民を代表し遊廓地設定に関する概略数項を調査し賢明なる委員長閣下に供す希くは速かに御採用あらんことを依て此段上申候也。

明治参拾五年七月弐拾九日
京都府加佐郡余部町
町民代表者(一三名連署印)

舞鶴新市街委員長
京都府書記官 青木磐雄殿

(以上、原文をわかりやすいようにカナをかなに直しました)



これにも書いとるように、「何でここに遊廓が必要なんか?」ということを、調査書っちゅー付録で説明しとります。
原文ママで書いたら無駄に長いだけやさかい、端的に現代日本語で書くと、

①海軍基地建設で大量の労働者がやって来た結果、どこの馬の骨かわからない輩が善良な地元婦女子をたぶらかし、更にこれまたどこから来たのか私娼がはびこり風紀の乱れが甚だしい。

②風紀の乱れは家庭の乱れにもつながる。遊廓設置により教育上の効果もあり。

③既に遊廓として開業している龍宮は鎮守府や海兵団より遠く、むしろ基地に近いうちの方が遊廓設置場所としてふさわしい。呉は遊郭を海兵団から距離を置いて設置したがために一度失敗しているので、呉の二の轍を踏むべからず。


とまあ、いかにもごもっともな意見を並べとるけど、結局は
「遊廓で儲けとる朝代や龍宮の分け前を、俺達にもよこせ」
ってことですやろ(笑

結局これが通じたんか、その3年後の明治38(1905)年に加津良遊廓が誕生します。
ここは今でも地図を見たら、「海猿」養成所の海上保安学校や航空基地、弾薬庫なんかが近くにあって、改めて舞鶴って海軍の町なんやなーと思わせる施設がいっぱいあって、
ここの遊廓に向かう道の途中でも白い制服着た自衛隊員とすれ違うこと数度、「海軍さん」と会うんは俺は日常生活じゃまずあり得へんさかい、新鮮かつ異空間に来たような感じがしました。
せやけど、一般隊員はさておき、将来の提督候補の士官(幹部隊員)が自転車こいで走ってるんは・・・ちょっと格好的にどーかと(笑
昔の海軍士官は、自転車は知らんけど雨の日に軍服着とったら傘を差すどころか雨宿りも雨を避けるために走ることも「海軍士官としてみっともない」と罰則の対象で、見つかったら刑務所はないけど懲戒処分の対象やったそうな。
(これ、ちゃんと戦前の海軍士官の「服務規程」に書いとります)
「ほな雨降ったらどないすんねん!」というと、
「じゃあゆっくり濡れてこい。軍艦に乗ったらなんぼでも海水浴びるやろ。雨水かぶって風邪ひくくらいじゃ海軍軍人失格」
だそーな。
「雨もしたたるいい男」をリアルで演じてたんが海軍士官やったってことで、
何故か海軍大好きやった慶応大学の名塾長、小泉信三がその昔野球の早慶戦を見てて、試合途中で雨が降ってみんな走りながら雨宿りしとる風景を見て、
「みっともないな・・・。その分海軍士官は格好いいよね」
と思ったそうやけど、旧海軍の伝統を引き継いどる今の海上自衛隊もさすがにこれは継承しとらんみたいで、自衛隊員は傘を持ってますな。

ちなみに、関西弁で言う「ええ格好しー」やった海軍士官は、軍服着てる時に列車に乗ったら二等車に乗らんとあかん、という決まりがありました。
二等車言うたら今のグリーン車のことやけど、今風に言うたら軍服着たまま新幹線の「のぞみ」の自由席なんかに乗ったら「海軍士官の恥晒し」と、何と懲戒解雇処分の対象やったそうです。
かと言うて士官が金持ちというわけでもあらへんかったさかい、下っ端士官の頃は借金してでもグリーン車に乗車とほとほと困った「伝統」やったそうです。
そして面白いことに海軍にゃ「軍営」のサラ金があって、カネに困った軍人に低金利で金を貸す福利厚生があったそうです。そこで借りた借金は、当然給料から利子付きで天引きです。
これも、さすがに自衛隊には引き継がれてへんみたいですな。
もっとちなみに、今の関東の横須賀線にグリーン車があるんは、元々は横須賀に基地があった海軍からの要請で戦前から連結されとって、戦前は東京から出勤する、または東京に出張する「士官さん」でいっぱいやったそーな。
というか、横須賀線のトレードカラー自体ネイビーブルー、つまり海軍というのに気づいとる人は案外おらへんかったりする。

相変わらず今回も話が脱線してまいました(笑

その加津良遊廓は「調査書」とは裏腹に海軍の水兵たちで賑わった・・・かどーかは資料が少ないさかいわからへんけど、
大正2(1913)年の営業戸数と女性の数は27戸・91人、大正12(1923)年は28戸・104人というデータが『舞鶴市史』に残されとります。
せやけど、やっぱ舞鶴が鎮守府から要港部に格下げになった影響を受けたんか、『全国遊廓案内』やと営業戸数20戸、女性の数23人と、数字だけ見たらほぼ壊滅的な打撃ですな。
また、「龍宮より地の利が有利」と調査書に書いとるものの、

★大正12年
龍宮:貸座敷数 34軒 娼妓数 205名
ここ:貸座敷数 28軒 娼妓数 104名

★『全国遊廓案内』(推定昭和2~3年)
龍宮:貸座敷数 29軒 娼妓数 80名
ここ:貸座敷数 20軒 娼妓数 23名

と大きく水を空けられとる始末。
これは地の利だけやのーて、やっぱ商売努力が足りんかったせいもあると思います。ホンマええ所やったら多少交通が不便でも、料金が高かっても来るさかい。
ちなみに、『全国遊廓案内』によると、龍宮を意識しとるんか料金は「時間遊び」が1円、「お泊り」が6~7円と龍宮と全く同じ、「同業他社」としてしのぎを削っとったことも何となく数字からわかるような気がします。
また、龍宮遊廓は妓楼に遊女が住みこむ「居稼ぎ制」やったんやけど、加津良は置屋があって揚屋に遊女・芸妓を送りこむ「送り込み制」やったそうな。

で、時は戦争へと進み戦争が激しくなった昭和18(1943)年、加津良遊廓は海軍の命令で全戸明け渡されて遊廓の歴史として幕を閉じます。
その後、他遊廓は赤線として復活するんやけど、何故かここだけは復活することはありませんでしたとさ。



11010503

平成23(2011)年現在の、加津良遊廓があった場所です。
地図を見たら、何となく遊廓があった場所が区画整理され道幅が広いことがわかります。
トキオの八王子とか、同じ舞鶴の龍宮遊廓もそーやけど、Google mapを見とったら何となく「おかしいなここ・・・」とピンとくる所があります。
そのカンは伊達やないみたいで、今でも地形的に遊廓跡って妙な存在感を醸し出しとる所もあったりします、たとえ建物が一つも残ってへんかっても。
そして、そこに実際に行ってみたら・・・

11010504

うん、やっぱ郊外の割にゃ不相応な道幅ですな。
『舞鶴市史』にゃ開業当初の加津良遊郭の写真が残ってるんやけど、たぶんこの道やと思われ。
で、周りを見ても建物はすっかりなくなっとるみたいで、

11010505

これが唯一残ってる「古そうな」建物でしたわ。
この格子窓は何となく遊郭時代からの生き残りやとは思うけど、半分はリフォームされとって何とな~~く面影があるかな?って程度です。

11010506

これは加津良遊郭跡のメインロードらしき道を逆から写したもんで、赤で矢印しとる所が「上に残ってる建物」の位置です。
せやけど、止まってる車と比較してもろたらわかるけど、この道がやたら不相応に広いことが改めてわかります。
「ここでこんなに道を広くする必要あるか!?」と怪しんでまうけど、これが建物はなくても遊郭跡を断定する「考古学的証拠」やったりします。まあ、関係ない時もあるけど(笑
その証拠に、そばを走る舞鶴市内を連絡する道路と広さを比較しても、実はこっちの方が見てすぐわかるくらい広かったりします。メジャー持って幅を図ってみたい気分ですわ。

11010507

ここが、どうも「遊郭の入り口」やったみたいで、気のせいか道幅が広いような!?

それ以外は、俺が見渡す限り「それらしき」建物はないみたいで、ホンマにただののんびとした住宅街になっとりました。
地元の人にちょっとヒアリングしよーかなーと思ったんやけど、こんな時に限って周りに誰もおれへん始末やし、
こりゃないな、と去ろうと思ったら・・・

11010508

香ばしい建物発見。
周りにある長浜地区の建物の中でも、ダントツの広さを誇るこの建物、もしかして遊郭時代の揚屋か?
と思って恐る恐る近寄って見ると、

11010509

うーん、どうも「シロ」のようですな!?
遊廓があったとこ(推定やけど)と距離にして数百メートル離れとるさかい、「クロ」にするにゃ決め手になる証拠がない。状況証拠だけやったら「クロ」やけど・・・。

まあ、加津良遊廓の資料がこれ以上ないさかい何とも言われへんけど、加津良遊廓は日本海の波に歴史ごと洗われて「遺跡」と化した・・・って感じかな?
せやけど、「遺跡」として残ってるだけでも「遊廓・赤線界のインディー・ジョーンズ」は満足なのであります。

これで舞鶴編は終わりやけど、俺の旅はまだまだ続きます。
さて、次はどこへ行こうかな?
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テーマ:消えた遊廓・赤線の跡を訪ねて
ジャンル:ブログ

コメント

■ 

遊郭があった場所は写真を撮っておられたところの小さな川沿いを南に少し行ったところです。写真のあたりは昔は田んぼでした。野球場は大きな池だったんですよ。
で、遊郭だった建物は4-5年前まではありました。今は空き地になっています。
ちなみに、写真のお地蔵さんは舞鶴市内いたるところにあります。
2013/09/15 URL 丸山に住んで40年 #qwKvtbg. [編集] 

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2011/01/28   # 

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2011/01/18   # 

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2011/01/18   # 

■ Re: 昔のお金持ち

>けいさん

この最後の建物は明らかにシロですね~。
遊郭跡から離れてるのもあれやけど、何より「オーラ」を感じへんかったですわ。
恐らくは、地元の地主か何か金持ちの家なんでしょう。


> それとも大工さんの職人魂か遊び心か

昔、京都の「着倒れ」大阪の「食い倒れ」、堺の「建て倒れ」と言われとったそーやけど、
その「建て倒れ」の粋でしょうな~。
今は遊郭建築を修復する職人すらおれへんそーで、職人社会の日本にとっちゃ寂しい限り。
2011/01/11 URL BJのぶ #qDfdtOiE [編集] 

■ 昔のお金持ち

昔のお金持ちの中には、粋なのか酔狂なのか
自宅を遊郭風に作る方も結構数居たらしいですね
それとも大工さんの職人魂か遊び心か
私見ですが上記のお宅もそんな風なお宅の様な気がします。
しかし植木なんかも綺麗に手入れが行き届いてますね。
2011/01/05 URL けい #- 

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