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BEのぶ

  • Author:BEのぶ
  • 自称「ブログエッセイスト」ことBEのぶです。
    昭和史をライフワークにしていますが、平成ももうすぐ30年経ち、昭和が遠い過去になりつつあります。
    昭和も遺産・遺物を探れば立派な「考古学」となります。題して「昭和考古学」。ジャンルは遊郭・赤線跡から鉄道、そしてすっかり忘れ去られた歴史を掘る「昭和の考古学者」として、昭和の名残りを通して考察する旅を続けています。

    基本は標準語で書きますが、エッセイは大阪弁で書いていきます。

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■■■東舞鶴竜宮遊郭跡をゆく 消えた遊郭・赤線の跡をゆく13

さて、舞鶴の遊廓を訪ねる旅第二弾です。
前は西舞鶴にあった朝代遊郭のことを書いたけど、今度は東舞鶴にあったという遊郭のことであります。

舞鶴市は大きく分けたら「西舞鶴」「中舞鶴」「東舞鶴」と3つの地域に分かれとる、ってことは前のブログにも書いたけど、
西舞鶴が戦国時代から続く古くからの町なのに対して、東舞鶴は明治時代になって海軍の鎮守府、つまり主要基地となってから発達しました。
東舞鶴や中舞鶴地区にゃ海軍の基地はもちろん、海軍関係の施設などが建設開始から開港までの間に雨後のタケノコのように出来て、
軍港として栄えることになります。
道は京都みたいに碁盤の目のよーに整然と区切られ、道の名前にゃ軍艦の名前が付けられたそうな。
西舞鶴がええ意味で古い感じの町に対して、東舞鶴は垢ぬけてスッキリした街並みって感じがするような気がするけど、
それは町が生まれたきっかけにもよるってことですやろな。同じ舞鶴っても由来は全くちゃうさかい、同じ地域にありながら全く別の町、って言えると思います。


舞鶴に鎮守府が出来て最初の長官は、実はあの東郷平八郎なんやけど、
そん時に生まれた伝説があります。
それが。。。


10100817

肉じゃが

日本人なら毎度お馴染みの国民食、おふくろの味の一つ肉じゃがは、ここ舞鶴で生まれたという伝説があるんですわ。
東郷がここの長官やった頃、イギリス留学時代に食べたビーフシチューを思い出して、部下に

「ビーフシチューが食べたいな~

とビーフシチューの美味しさを話したそうな。
部下は長官の食事を作っていた料理長と「ビーフシチューって何じゃ?」と相談、
デミグラスソースなんか今じゃそこらへんのスーパーで手に入るけど、当時はそんなレトルトなんか売ってるわけなく、
仕方ないさかい醤油と砂糖ベースの味付けにした
「なんちゃってビーフシチュー」
を作りました。
それが今の肉じゃがで、これが意外に(?)美味かったことから海軍の正式な料理に採用、
明治後期の海軍のお料理レシピの「海軍厨業管理教科書」にも「正しい肉じゃがの作り方」なんてものが紹介されとります。
それがこれ↓

10100801

まぁ~何と単純かつ豪快なレシピだこと。
せやけど、これが記録に残る最初かつ最古の肉じゃがのレシピなのであります。
晩御飯何しよう?って悩んどるそこの奥さぁ~ん、今日の晩御飯は「元祖肉じゃが」なんかどないでっか?(笑

この「肉じゃが伝説」、舞鶴が発祥ってことになっとるんやけど、
それに待ったをかけたんが、同じ軍港として栄えた広島県は呉
東郷は舞鶴の鎮守府長官の10年前に呉鎮守府の参謀長(ナンバー2)として呉におったことがあって、
肉じゃがはそん時に生まれたもんや、というのが呉の主張。
せやけど、呉は先に名乗りを上げた舞鶴に遠慮してか、「肉じゃが発祥の地?」と「?」がついとります。ちょっとかわいいな、と思いましたわ(笑
ちなみに肉じゃが発祥のエピソードはどっちも同じで、何せどっちも決定的な証拠があらへんさかい今でもお互い「肉じゃがの生まれ故郷」を主張しとる状態なんやって。
横須賀が「カレーライス発祥の地」としてある意味大成功しとる割にゃ、ぶっちゃけ舞鶴も呉も肉じゃがで町おこしなんてしてへんよーで、
横須賀みたいに「肉じゃが専門店」なんてもんが出来たら立派な町おこしになると思うんやけどな~。
採算が合わんのかどーかは知らんけど、駅前の商店街がちょっと寂しげな所を見てええ起爆剤になると思うやけどな、と思うのは俺だけ?
で、その昔東日本某所出身の元カノが肉じゃがを作ってくれたことがあるんやけど、肉じゃがの「肉」が何と豚肉。

「肉じゃがの肉は牛肉やろ~~!」

「うちじゃ豚だよ~~~!!」

とちょっとした「肉じゃが論争」になり、ある意味カルチャーショックを受けたことがありました。
で、この「論争」の始末は、

「そんなにイヤなら捨てるね・・・(涙」

「あ~わかったわかった、食べますって~。だから食べ物粗末にするな!」

と食欲・・・もとい彼女の愛に負けました(笑


で、遊郭の話に戻ります。

* * *
東舞鶴にあった遊郭は

竜(龍)宮遊郭

と言うて、
朝代遊廓が舞鶴鎮守府の建設が始まった時からオープンされたのに対して、竜宮の方はいつオープンしたんかはっきりとした資料はありません。
まあ、俺が見つけてへんだけかもしれへんけど、『舞鶴市史』を見ても竜宮遊郭の方は何も書かれてませんでした。
せやけど、出来たんは恐らくは鎮守府が開設された明治34(1901)年±1年ってとこでしょう。

竜宮は海軍基地の間近に作られたこともあって、海軍を上客と見込んで作られたことは状況証拠だけでもほぼ確定、
連日海軍の水兵や下士官で押せや押せやの大盛況やったと言います。
開設当初は妓楼7軒のスタートやったらしいけど(娼妓数は不明)、その10年後の明治44(1911)年にゃ貸座敷35軒、娼妓数150人に増えとります。
海軍は陸軍と違って、陸上勤務もあるけど基本的にゃ船の上が勤務地、海軍じゃ伝統的に休暇のことを「上陸」と呼んどりました。
休暇=上陸ってことで、これは陸上勤務でも同じ、山の中にある飛行場でも東京の海軍省でも休暇は全部「上陸」で今の一般企業で言う「休暇申請」は「上陸許可」、
ずっと「陸」におるのに「上陸」っておかしいやん(笑
って思うやろーけど、これが伝統やし飽くまで「我々の勤務は海(=軍艦)の上である」という海軍のモットーが現れとります。
こっからちょっと生々しい話になるけど、鉄の塊の軍艦の中で何カ月も海に揺られとったら、とにかく土と女が恋しくなるらしゅーて、
月月火水木金金の洋上訓練が終わって港に帰り、陸地が見えてきた頃にゃ、

「もう足3本で立ってるようなもんだよ」

ちゅー気分やったそうですわ。
俺たち「陸上生物」にゃわからん気持ちやけど、今でも船乗りやっとる知り合いにこの話をしたら、
「ああ、めちゃわかる~!!」
と爆笑しとりました。
これはジェントルマンと言われた海軍士官、連合艦隊参謀やっとった人が言うとったことで、
「もう一本の足」とはどこって?まあそれは勝手に想像してくんなはれ(笑
上陸寸前になったらもういてもたってもいられんよーで、上陸地の方も準備態勢バッチリ、水兵や下士官目当ての遊女が港に総出でお出迎えやったそうな。
「総員、要所要所洗え♪」
と上陸寸前に総員爆笑した号令をした某有名軍艦艦長もおったそうで、「要所」とはもう書くまでもないでしょ(笑
また、戦艦大和特攻にも同行した伝説の不沈艦、駆逐艦「雪風」の、名物艦長寺内正道が戦後に文芸春秋のインタビューで、

「どうして『雪風』は不沈だったんでしょうね?」

と聞かれました。
「雪風」は、寺内艦長の時に大和特攻の時はもちろん、数々の戦場に参加しながら死者ゼロ、大和特攻の時にもアメリカの飛行機の猛攻撃を口笛吹きながらかわしつつ大和の乗組員を救助して乗組員の死者ゼロという、信じられない伝説があります。
(豊田穣の小説によると、大和特攻時に死者が8人出たって書かれとるけど、それでもたった8人は神業)
結局、寺内艦長の時の死者は通算3人。それも舞鶴に停泊中に空襲で「上陸中」の水兵が死んだだけやさかい、実際のドンパチでの死者はゼロってわけで。
(作家の半藤一利の調査による)
そんな伝説を持つ寺内艦長いわく、
他の軍艦が船を港に止める時にモタモタしてるのに、「雪風」はさっさと所定位置に船をホイホイと止めて、ダーーっと乗員を他の軍艦よりいちばん早く陸に上げさせる。これが強かった理由だ、と。
要するに、他の軍艦より早く上陸する=遊郭の上玉の女の子選びたい放題やったわけです(笑
港に着く時はどんな事情でも艦長自ら舵を握って指定場所につけるのが海軍のしきたり、ここで艦長の力量が出てくるんやけど、ヘタクソな艦長は何回も接岸をやり直して「またかよ・・・」と水兵のモチベーションを下げ、上手い人は一発で止めてさっさと上陸。
寺内艦長は乗組員のモチベーションを上げるためにさっさと着岸させ、彼らを遊ばせたちゅーわけです。
そりゃ、大和特攻の時にアメリカの飛行機400機に何十発も雨のように魚雷落とされながら、自分で舵を握って操縦し一発も当てさせなかった伝説を持つ名艦長、
(実際は一発当たったけど信管が不発で爆発せず、刺さったまま舞鶴に帰ったらしい。魚雷の性能は日本軍の方が良かったのが事実で、アメリカ製魚雷は命中したけど不発やったことが多かったとか)
港に軍艦を着岸させるなんて寝ながらでも出来るよーな作業ですやろな。

せやけど、寺内艦長が「雪風」に赴任した時の訓示は、

「諸君!『雪風』は絶対に沈まん!
何故なら俺が艦長になったからだ。
諸君は己の職分を尽くせ。何かあったら全責任は俺が取る。
終わり」


だったそうで、そう言われたらモチベーションが上がらんわけがありません。
会社でもそう上司に言われたら「この人について行こう!」「この人なら大丈夫!」って思わんわけがないと思うさかい、自己保身に走って部下に責任を負わせたり、うわべだけで部下におべっか使う能なし管理職が多い中、部下を動かすにゃハートも大切やな、と思うエピソードでもあります。

ちなみに、うちの爺様も言うとったけど、海軍は遊郭や芸者遊びなんかは黙認、ちゅーかほぼ公認やけど、
その代わり素人女性、海軍隠語で言う「ホワイト」に手を出したら一発でレッドカード、
(ちなみに、「玄人女性」は隠語で「ブラック」と言うとったそーな)
海軍は陸軍と違って、海軍省や陸上の基地なんかにゃ女性の事務員(ホワイト)がおったんやけど、
彼女らに手を出した時には理由を問わず即免官、今風に言うたら即日懲戒免職って感じです。
せやけど、免官は会社の懲戒免職と違って、「過去1年分の給料、手当などを即海軍に返還、勲章なども全部剥奪」という厳しいもんで、
ある士官の奥さんが魔が刺して一晩だけ浮気してしまっただけでも即免官、「奥さん一人管理できへん人間が軍艦の艦長になって部下を管理できるわけがない」というのが理由やけど、
さすがにこれは「ちょっと厳しいんやないかい?」と言う声もあって、人事局のはからいで
「奥さんと即日離婚するか即日予備役のどっちかを選べ」
(※註:「予備役」もある意味解雇やけど、階級はそのままキープで給料なども返還の義務なし。
今の会社の世界に例えたら、免官が懲戒解雇やったら予備役編入はリストラ(普通解雇)って感じ)

という、温情なのかはたまた究極の選択なのか、という処置で済んだそうな。ちなみにその士官がどっちを選んだのか、記録には残ってません。
また、士官が「下っ端」が通う遊郭に入っても免官、ある世間知らずの新人士官が「メシでも食うか」とある「料理屋」に入ったところ、やけに派手な「料理屋」だな・・・と思ったらそこは遊郭の妓楼、真っ青な顔して慌てて出て行った、というエピソードもあったそうですわ。


そんなことはさておいて、
竜宮遊郭は大正時代に入って更に活気を呈し、大正7(1918)年のデータやと貸座敷数40件、娼妓の数300人以上、『全国遊廓案内』にも、年代は不明ながら「貸座敷四十六軒あり、娼妓は三百四五十人も居た」と書かれとります。
ある意味これが竜宮遊郭の最盛期やったと思われます。

何故かというたら、舞鶴の鎮守府は大正12(1923)年に締結された軍縮条約によって鎮守府から「要港部」に格下げになり、
その数年後のデータと思われる『日本遊廓一覧』にゃ、

貸座敷数 34軒 娼妓数 205名

とちょっと減ってます。
更に昭和初期になったら、

貸座敷数 29軒 娼妓数 80名
(データ『全国遊廓案内』より)

と、数字がガタ落ちして衰退しとることが数字だけでもわかります。
これは第一次大戦後の不況に昭和の大恐慌が重なったこともあるけど、やっぱ竜宮遊廓は海軍とおんぶにだっこの関係やったと思われるさかい、
鎮守府→要港部に格下げされて海軍さんがどっと減ってしもた=客が少なくなった、というのが主要原因やと思われます。
『全国遊廓案内』にも、数が減った理由は軍縮が原因だと書いております。


『遊郭をみる』という本には、竜宮遊郭に実際にあったという「某重大事件」が書かれとります。
海軍の水兵で大いに賑わった竜宮やけど、1918年に水兵の間で遊郭ボイコット運動が起こります。
理由は「料金が高すぎる」ということ。
遊郭側も儲かっとるさかい強気で、海軍側の値下げ要求を突っぱねて対立、水兵側はついに実力行使に移ります。
何と1918年11月に、遊郭の入り口にバリケードを作って遊郭を封鎖したのです。
豊臣秀吉もビックリの「兵糧攻め」、客の出入りをストップさせたこの騒ぎは数カ月続き、結局は水兵側の全面勝訴になって料金値下げGETだぜ、になったそうな。
『全国遊廓案内』にも
「客は一重に軍人なのと、又営業の挽回策か、時間遊びが馬鹿に安く只の1円である」
と書かれとるけど、もしかして「竜宮遊廓某重大(←って程でもないか?)事件」が影響しとるんかもしれませんな!?

そんな竜宮遊郭も、戦争で国民生活が圧迫されてきた昭和15(1940)年に、海軍基地拡張って名目で山沿いにある「丸山」という地区に移転させられることになりました。
これは後で書く現地の人へのインタビューで初めてわかったんやけど、それは後で書くとして、
竜宮遊郭はひとまず終焉を迎えます。
立ち退きを食らった龍宮遊廓は、他の遊廓も同じやったよーに軍需工場の工員の独身寮になっとったと思われます。
遊廓の妓楼って、部屋が独身寮にするにはちょうどええ大きさ、それが逆に軍需工場の寮として標的にされて戦争中に閉館になった原因の一つですな。
そして戦後、丸山地区に移っとった業者が竜宮に戻ってそのまま赤線になって売防法施行まで残っとったけど、かつての勢いを取り戻すことはなかった。
・・・と『遊郭をみる』は締めくくっとります。


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龍宮は、名前の通り浦島太郎伝説があった所でもあります。
最初は「ロマンティックな名前やな~。遊郭が出来た後に龍宮って地名が出来たんかな?」と思ったんやけど、実際は逆だそうな。
ここにゃ今でも「乙姫橋」なんてロマンティックな名前の橋もあったりします。
で、八王子田町遊廓のとこでも書いたんやけど、遊廓跡を探しとると上の地図のよーな「あれ?」と思う所が見つかったりします。
周りの道幅は普通やのに、ある道一本だけやけに道幅が広い・・・
というものです。
これで遊郭跡が判明したりするんやけど、
ここ竜宮もその例の一つで、今は住宅街になっとるこの地区の真ん中を、真ん中に街路樹のよーなもんがあるくらいやけに広い道が串のよーに貫いとることがわかるでしょう。
ここが昔の龍宮遊廓の大通りで、地図だけ見てみても「ナンデスカコレハ!?」って感じがするんやけど、
実際に行ってみたら・・・

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やっぱけっこう広い。片道1.7車線分ってところですな、道幅は。
たぶんこの道幅は遊廓開設当時から変わってへんみたいで、舞鶴市の図書館で昭和初期の地図を見せてもろたら、龍宮周辺は今とほとんど変わらずでした。

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年代は不明やけど、たぶん大正時代あたりの龍宮遊廓の絵葉書でやんす。
上の大通りの右側に流れとる川から裏側を撮ったもんやけど、当時はこの川の上に船を並べてどんちゃん騒ぎをしとったとか何とか。
絵葉書にも、のんびり船に乗っとる女性の姿が写っとります。

10100804

そして、この絵ハガキを参考にたぶん似たような場所から写した、平成22年現在の写真なんやけど、
すっかり風景が様変わりしとります。変わってへんのは川の流れだけか・・・。


で、大通りに戻って道で夕涼みしとるお爺ちゃんに声をかけてみました。
そしたらこれがある意味大当たり!
龍宮生まれの龍宮育ち、生まれてこのかたここから出たことがあらへんっちゅー、バリバリもとい関西やさかいコテコテの「龍宮っ子」らしい。
遊廓のこと覚えてますか?と聞いてみたら、覚えとるどころか

「あそこには○○楼があって、ここの隣は△△楼・・・」

と建物を差しながらオートマティックで淀みなく話してくれました、俺何も聞いてへんのに(笑
さすが「龍宮っ子」だけあって話にリアリティがあるし、記憶力すごいですね~と言ったら、
「そりゃ生まれてからずっと住んでるし。遊廓のことは忘れないよ」
と笑っておられました。
御年80歳以上になるというこのおじいちゃが小学生~中学生の頃、学校帰りによく見世の前に立ってる「女郎」に声をかけられたそうな。
見世の前に椅子に座って客を待っとったらしく、あの頃のことは今でもはっきりと覚えとるそうな。
で、遊廓内に住んでるってことはおじいちゃんは遊廓の楼主の2代目とかかな?
と聞いてみたらそーでもないみたいで、「他のとこは知らんけど」と前置きしてから、

★ポイント1
龍宮遊廓には遊廓とは何の関係もあらへん「一般人」も住んどった


そうな。
おじいちゃんは家族もろとも「一般人」らしく、お父さんは普通に海軍の工場で働いとったらしい。
「遊郭にゃ一般人は住んでへん」と思っとった俺にとっちゃ目からうろこが落ちる話、
全国全部の遊郭がそうやとは限らんけど、そういう所もあるというわけで、今後の探索にゃ注意せなあかんな、先入観は禁物。

そして、今残ってる当時の貸座敷の建物は、

10100805

ここだけらしい。これは戦前の遊郭時代からそのままとか。
他にも「候補」な建物があるんやけど、たとえばいかにも「怪しそう」な

10100806

これ。
他の人が探索した遊郭の写真にもよく載ってる建物なんやけど、お爺ちゃんいわく、「違う」らしい。
建物の古さからして戦前からあったもんやと思うけど、これも今までの「常識」で見たらあかん、というのがわかりました。
もっとも、お爺ちゃんの記憶違いって可能性もゼロやないけどね(笑

で、上の「現存する遊郭時代の建物」の隣にゃ検番があったらしい。

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これは、龍宮遊廓の検番事務所ができた時の、たぶん落成した時の記念写真やと推定されるけど、
写真は大正12年のものらしく、龍宮の検番は大正12年に出来たとも推定できます。

10100808

ちなみに建物は現存せず、今は駐車場になっとるんやけど、
おじいちゃんいわく、この検番は木造3階建て、2階に芸妓が芸の練習をする演舞場があったそうで、遊女たちの定期検診もここでやっとったそうな。
この話を聞いた後にこの写真をGETしたんやけど、3階建てかはちょっとびみょーやけど、確かに2階があって広々としてそうな感じがしますな~。
まあ、おじいちゃんの記憶=この写真の建物、という証拠はあらへんのやけどね・・・。

★ポイント2
龍宮遊廓にゃ娼妓だけやのーて芸妓もおった


芸妓と娼妓の両方を抱えとった貸座敷もあったそうで、そこからは芸妓の三味線の音が風流でね~、と目を細めて教えてくれました。
「あそこにあった『○△楼』と隣の「×◇楼」が芸妓も抱えてたよ」とけっこう細かく教えてくれたんやけど、
とにかく淀みなく喋りまくってくれはるさかい、楼の名前が覚えられへんし俺の記憶力の方がついていかれへん(笑
こりゃICレコーダーでも持ってきて録音しときゃよかったわ、ホンマ。
で、「芸妓と娼妓のどっちが格上で金持ってたんですか?」と聞いてみたら、
「そりゃ芸妓の方だよ。芸を持ってるからね。女郎は何もないから体を売るしかない」
とあっさり。まあそりゃそうか。
そしてもういっちょ、ぶしつけな質問をしてみました。

Q:「正直、美人っていました?」
A:「うーん・・・いなかったな(笑」


小学生か中学生やった当時から見たら20代後半でも「おばはん」に見えたそうで、戦後の赤線時代は年増の化粧だけが濃い女性ばっかしでケバケバしいったらありゃしなかったとか。

おじいちゃんいわく、戦争中に丸山に遊郭が移って戦後にみんな戻ってきた、と話してくれたんやけど、
データやと丸山地区に遊郭が移ったんは上にも書いた通り昭和15年、
「戦争」が太平洋戦争やったら記憶違いで×、満州事変から続く「15年戦争」やったら○、
ここらへんは曖昧なとこやけど、聞いた当時は「丸山に移った」「戦後に戻ってきた」なんて知らんかったさかい、宝物を拾ったよーに心がウキウキしましたわ。

★ポイント3
竜宮遊郭は「戦争中」に丸山に移った


★ポイント4
戦後に戻ってそのまま赤線になった



竜宮遊郭の謎の一つは、

「道の真ん中にある植木

の存在。
竜宮遊郭のこのメインロード、写真で見るより広い感じなんやけど、昔の遊廓にゃメインロード(大門通り)に桜や柳を植えとる所が多く、竜宮のもその名残かな?
と尋ねてみたら、これはどーやらビンゴやったらしくて、昔は桜の木が植えてあって春にゃいっぺんに花が咲いて娼妓が花見もやってたとか。
せやけど、昭和40年代に舞鶴市が切ってしもて今の状態になったそうですわ。

★ポイント5
メインロードには昔桜の木が植えてあった


そして、もう一つの謎は、

「遊廓内にあるお地蔵さんの存在」

10100809

これがそうなんやけど、メインロードの真ん中に鎮座するお地蔵さん。
遊廓跡にゃ「稲荷神社」「無縁仏の墓」があることが多い、というか珍しくないんやけど、
お地蔵さんはちょっと珍しいかも、と思って、
「遊廓に関係あるんですか?」と聞いたところ「ある」と一言。
そして、このお地蔵さん、昔は遊廓の端っこにあったらしい。

10100810

地図の上に書いたらこんな感じらしい。
何故移動したんかまでは聞かんかったけど。

★ポイント6
「お地蔵さん」は昔は遊廓の端にあった



そして、もう一つ貴重な話を聞くことが出来ました。

10100811

メインロード沿いにあるこの建物、「第五乙女荘」っちゅー、外見に見合わんかわいい名前のアパートなんやけど、
この建物、外観はリフォームされとるけど内部は貸座敷当時そのままだそうな!
こりゃ見るっきゃない、と思って、「龍宮っ子」の顔で入り口だけ見せてもらうことにしました。

10100812

外観とは裏腹に、確かに中はかなり古めかしい。
中に入って写真撮りたいなーと思ったんやけど、写真撮影はここまで。
おじいちゃんの顔を潰さんために、迷惑かけて今後の「同志」の活動を妨げんために、ここは我慢の子で中を見るだけにしました。
廊下はもちろん総木造、中は遊女たちが客を待っとったという大部屋なんかが残ってて、2階は小部屋が並ぶちょっと洋風っぽい感じでした。戦後(赤線時代)に洋風にリフォームされたんか?
それにしても、外観だけやったら「第五乙女荘」はただのどこにでもあるアパートなんやけど、
中は派手な装飾はないけどまさに妓楼って感じ。
外観に騙されたらあかんな、こういう建物も残っとるわけやし。今後は頭に入れとくべきことですな。
ちなみに、この建物の向かって左隣には芸妓の置屋があったそうな。

★ポイント7
外観は改築されても中はそのままという建物もある



30分くらい、もうお腹いっぱいってくらい、書物じ絶対にわからんよーな貴重な話を聞かせてもろて、
おじいちゃんにお礼を言うてもうちょっとここを探索してみることにしました。

「メインロード」から一本離れた筋はただの住宅街、昔の建物なんか残っとる雰囲気なんか微塵もなし。
と思ったら!

10100813

なんか赤線時代のカフェー建築っぽいのが一つ。
更に「まわれ右」をしてみたら、

10100814

もう一つ発見!
玄関周りの地味ながら目立たせるような装飾からして、こりゃ間違いなくカフェー建築。
周りは新しい住宅ばっかしやさかい、この二つの建物が余計に違和感ありました。
おじいちゃんの話だけで満腹感150%やのに、とどめを刺すよーなこの建物、もうお腹が破裂しそうです(笑


ちゅーわけで、龍宮遊廓の探索はこれで終わり。
当時の記憶をはっきり覚えとる地元の方の話を聞けるっちゅー幸運に恵まれ、
竜宮遊郭の収穫は数字では表せんくらいのものがありました。その価値は、ここのことを書いた資料が少ないだけに余計に価値があったと信じとります。
あと10年、いや、5年もしたらホンマに「黒歴史」になってしまうような貴重な話を忌憚なく話してくれたあのおじいちゃんに、
このブログを借りて改めて御礼申し上げます。

って見てへんやろな、こんなとこ(笑

嗚呼、せやけどホンマにICレコーダー持ってきたらよかった~。記憶がぁ~。
と、ブログを書いてみて改めて思う今日この頃 _| ̄|○


で、舞鶴の遊廓シリーズは終わり!

























・・・と思うでしょ?


ふふふ、言ったでしょ?

舞鶴にゃ3か所遊廓があった

と。
いや、厳密にゃ4カ所か。



というわけで続く(意味深

※続き(丸山・加津良編)はこちら
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テーマ:消えた遊廓・赤線の跡を訪ねて
ジャンル:ブログ

コメント

■ 承認待ちコメント

このコメントは管理者の承認待ちです
2017/09/14   # 

■ Re: 丸山新地

?朝汐さん

> 丸山新地のエリアは、精確に特定できたんでしょうか?

全然です(汗
存在は確認したものの、場所は「丸山町のどっか」としか見当がつきません。
ただ、丸山町の外れに水子地蔵があったんですけど、関係あるかどうかはわかりません。
ちょっと俺の文章は語弊があったみたいですね。

橋本(和歌山)の件おおきにですm(__)m
あったか、なかったか、というと現時点じゃ「なかった」としか言いようがないみたいですけど、
粉川に花街があったさかい、橋本にゃ必要なかったかもしれませんな!?

「赤線奇譚」、発売したら即買ってみます(笑
2010/10/15 URL BJのぶ #- 

■ 丸山新地

> 丸山新地ですけど、きっちり赤線として残ってるみたいですね~。

丸山新地のエリアは、精確に特定できたんでしょうか?


>それと “ 橋本 ” ですが、ボクの知り合いも「絶対あったやろと!」
 言うんですが、寡聞にして、資料的なモンは、見たことありません・・・・


P.S. 木村聡さんの新刊『赤線奇譚』が、11月に出るみたいですね。

2010/10/13 URL 朝汐 #1n9Tsjm2 [編集] 

■ Re: お疲れ様です

>けいさん

まあ、化粧がかなりケバかったらしいのと、やっぱ「ガキ」から見た美人とかの基準って甘いじゃないですか。
ある意味思い出話でしょうね。
竜宮が軍人で繁盛してた頃はいろいろいたと思いますけどね~。

>当時はさすがに写真修正とかはなかっただろうしw

甘い!(笑
大正時代から写真を修正する技術はあって、さすがに今のフォトショップみたいに変幻自在とまではいかへんけど、セミプロカメラマンいわく、意外に簡単だそうです。
遊廓が張り見世から写真見世になってから、写真と実物が全然ちゃう!!!ってクレームが多かったそうでっせ(笑
2010/10/10 URL BJのぶ #- 

■ お疲れ様です

美人って居なかったんですかね?
呉の図書館で呉花街案内(昭和10年発行)を見たんですけど、結構女性の写真もあって、美人も結構居ましたよ。当時はさすがに写真修正とかはなかっただろうしw
2010/10/09 URL けい #- 

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