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BEのぶ

  • Author:BEのぶ
  • 自称「ブログエッセイスト」ことBEのぶです。
    昭和史をライフワークにしていますが、平成ももうすぐ30年経ち、昭和が遠い過去になりつつあります。
    昭和も遺産・遺物を探れば立派な「考古学」となります。題して「昭和考古学」。ジャンルは遊郭・赤線跡から鉄道、そしてすっかり忘れ去られた歴史を掘る「昭和の考古学者」として、昭和の名残りを通して考察する旅を続けています。

    基本は標準語で書きますが、エッセイは大阪弁で書いていきます。

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■■■舞鶴朝代遊郭跡をゆく 消えた遊郭・赤線の跡をゆく12 

福知山の猪崎遊廓跡で貴重な話を聞きつつ、あまりの暑さに離れた後、一路舞鶴へと向かいました。
福知山編で書いた通り、舞鶴若狭自動車道は期間限定無料やさかい、福知山から舞鶴までの高速代はもちろんタダ。
福知山までの高速料金¥150でウッホホーイと喜んだものの、やっぱりまだ疑心暗鬼。
¥150やったらさっさと信じたらええのに、どこか性格にひねくれた所があるんやろか(笑
ホンマに無料なんやろか・・・と全行程高速で行って舞鶴のICで降りてみたら・・・
やっぱ無料でした。
ETCレーンを通った時に「¥0」が出た瞬間、また万歳三唱してしもた幼稚な俺(笑



1009261

京都府舞鶴市は、京都府の北の方に位置する日本海に面した港町であります。
ピンクの○で囲んである内陸の福知山から来ると、市内に入ったらパッと海が見えて潮の香りがしそうな雰囲気なんやけど、
舞鶴っちゅー所は何面もの顔を持つ多面体な街でもあります。
いちばん有名な「面」は、明治時代から続く「軍港」っちゅー側面。舞鶴は海軍の街であります。
「舞鶴」って聞いてこれを思い浮かべる人が多いと思うけど、ここ舞鶴は海軍が目をつけて軍港として整備し、
明治20(1887)年から14年かけ、年明治34(1901)年に舞鶴鎮守府という海軍の一大本拠地が出来あがります。

「鎮守府」って今じゃ聞き慣れん名前やけど、簡単に言うたら海軍の本拠地のことで軍艦や兵隊などは必ずどこかの鎮守府に属していました。
日本にゃ舞鶴の他にも横須賀・呉・佐世保に鎮守府があったんやけど、そこの長官は海軍の行政や人事などを握っていた偉いさんで、
海軍は士官以上の人事は東京の海軍省人事局ってとこが管理しとったんやけど、水兵とか下士官は鎮守府長官が管理しとりました。
水兵とかは陸軍と違って基本的に志願制で、戦前にあった20歳以上の男子の義務の徴兵で割り当てられる人も少数はおったけど、
戦力としては志願で海軍に入った水兵がメインでした。
せやさかい、タダじゃ海軍にゃ入らせてくれへんかったらしゅーて、いちおう国語や数学の試験があったそうな。
それに合格した人は水兵として日本全国のどっかの鎮守府に集められるわけやけど、
地域ごとに集合する鎮守府は決まっとって、関西やったら舞鶴か呉、九州やったら佐世保と、関東の人間が佐世保に集合せよ!とかいうことはまずあり得ませんでした。
まあ、今みたいに新幹線や飛行機で数時間でバビューン!と移動ちゅーわけにゃいかんかったさかい、
それはそれで合理に叶ってるわけで。

そこから、各鎮守府にある「海兵団」という新兵の教育機関で基本半年間研修を受けて、そこから本人の適性と希望によって各部署に配属されるわけやけど、
うちの爺様いわく、海軍のええ所の一つは出来るだけ本人の配属希望を叶えてくれたというところで、
海兵団での研修が終わる前に全員の希望配置を教官が聞きに回ります。
競争率が激しい上に適性が求められる飛行機関係や、特殊技能が必要な軍楽隊なんかは必ずしも希望通り、ちゅーわけにゃいかへんかったらしいけど、
出来るだけ本人の希望を叶えさせてやろう、という姿勢が海軍にはあったそうで、
本人の希望を無視してとんでもない配置にさせたりする今の日本の会社が海軍に見習うべき所かもしれまへん。
そして、海兵団の研修が終わった新兵は各専門配置に分かれます。これは後に本人の希望がない限りは変わることはないそうです。
士官の場合は将来の提督候補でもあるさかい、今の日本の会社や官公庁でもやっとる、いろんな配置に就かせて様々な経験をさせていってだんだん専門を絞っていく感じになるんやけど、
これは将来軍艦の艦長になった時に、
「艦長!この船をどう動かしましょうか?」
「俺は航海専門やあらへんさかい、そんなもん知らん!」
という漫才するわけにもいかんさかい、まずはゼネラリスト的な視野を磨くことが先決っていう教育方針やけど、
士官は「考査表」というもので上司が部下を評価し、それを海軍省人事局に提出します。
人事局は考査表をファイルにして保管し、次の人事の参考にするんやけど、
その考査表のおもろいところは、「自己申告欄」っちゅー、自分自身で何でも書ける項目があって、
「ただいま独学で中国語を勉強中につき、数年後の中国勤務を希望す」
みたいに自分の希望も書くことが出来ます。
それも無茶なお願いやない限り、人事局が出来るだけ配慮してくれたらしいけど、
ある時のこと、海外駐在勤務のある士官がそろそろ日本に帰りたいなーと思ったのか、
「東京の陸上勤務を熱く希望致します!」
と書いたところ、人事局にユーモアがわかる人がいたのか、
『東京』の『父島』に転勤になり、「東京の陸上勤務」という本人の希望が見事に叶った、という笑い話が実際にあったそうですわ。
また、元海軍士官最後の生き残りとも言える作家の阿川弘之も、戦争で日本国内がひもじくなったさかい、
「上海でいいメシでも食うか」
と思って、
「中国艦隊勤務を希望します!」
と書いたらそれがすぐに叶ったそうです。
「これでいいメシが食える♪」と喜んで赴任したところ、下心を見透かされたのか上海に赴任したらすぐに、
「君、御苦労なんだが」
と中国の奥地に飛ばされた話もあったそうです。


で、今回は初っ端から話が脱線してまいました(笑
戦前の舞鶴には遊廓が3か所あったと言われとります。
舞鶴市は大きく分けて、「西舞鶴」「中舞鶴」「東舞鶴」の3か所に分かれていて、それぞれの場所に遊廓があったりしました。
「西舞鶴」は戦国時代から続く城下町で、歌人武将として有名な細川藤孝が織田信長からここあたりの領地をもらい、本拠にしてからの歴史があります。
天下分け目の関ヶ原の戦いの時、子供の細川忠興は徳川家康と一緒に関ヶ原でドンパチしたんやけど、
親父の細川藤孝はここ舞鶴の田辺城(舞鶴城)に籠城、西軍の軍勢と戦ったんやけど、
陥落寸前で天皇から「細川を殺してはならぬ。和睦せよ」という勅使が到着、
戦いは中止して命拾いした細川藤孝は後の熊本藩の基礎を気付きましたとさ。
で、戦国武将数多けれど何で細川藤孝にわざわざ天皇が勅使を派遣したのか?
細川藤孝は武将というより歌人として名前が知られていた人物で、「細川藤孝」という名前じゃピンと来んでも、
「細川幽斎」って名前を聞いたらピンと来る人もおるはず。
朝廷に伝わる歌道の奥義を知ってる人物やさかい今で言うたら人間国宝のよーなもん、
「そんな文化人を殺すのは朕が許さん。文化の損失になる」と天皇は決断したわけで、
「芸は人を助ける」を地で行った歴史のエピソードでもあります。

対して中舞鶴と東舞鶴は、明治時代に海軍が基地を作ってから発展した所で、
東舞鶴の中心街は碁盤の目のように道が張り巡らされとって、昔は道に軍艦の名前がついとったそうです。
同じ舞鶴でも歴史的背景がちゃうさかい、人の気質もちゃうらしゅーて、
今はそうでもないかもしれへんけど、昔は西舞鶴はいわゆる関西弁に対して、東舞鶴は海軍のスタッフが多かったせいか標準語やったとか。
行政も昔は西舞鶴市と東舞鶴市で分かれとったんやけど、昭和18(1943)年に両舞鶴市が合併して今の舞鶴市が誕生して現在に至っとります。

今回は、西舞鶴地区にあった遊廓の話です。


* * *
100930chizu


西舞鶴地区にあった遊廓は
朝代遊廓
と言い、地元の神様を祀る朝代神社やお寺が並ぶ地区にありました。
西舞鶴地区自体の歴史からしても江戸時代からありそうな、古い遊廓かなーと思ったんやけど、
遊廓自体の歴史は意外に新しく(?)、
舞鶴が軍港として建設され始めた明治21(1888)に貸座敷免許地として舞鶴では初めて指定されてからやったりします。
神社やお寺が並ぶ門前町みたいなとこに遊廓が作られたわけやけど、海軍の軍人を標的にしたもんかなと思ったら、それだけやのーて舞鶴軍港建設に従事する土木関係者もターゲットにしたと言われとります。
ある史料によると、朝代遊郭の開業には「堀上の近藤寅太郎の尽力」があったと書かれとるんやけど、
その近藤寅太郎とやらがどんな人物かはわかりません。
明治34年の舞鶴鎮守府開港と共に妓楼38軒、芸妓と娼妓が合わせて200人で本格的なスタートを始め、

大正2(1913)年 妓楼46軒、女性の数124人

大正12(1923)年 妓楼54軒、女性の数140人


と、働く女性の数は減ってるものの、妓楼の数は増えとります。
せやけど、こないして調べてみたら不思議なんが、過去の遊郭がどこにあったんかの非常に貴重な資料となる『全国遊廓案内』(昭和5年刊)にゃ、舞鶴の遊廓はもちろん紹介されとるんやけど、ここ朝代遊郭のことは全く記載なし。
他二つの遊郭のことはあるんやけど、何で朝代だけないんか、規模としちゃそんなに大きくなかった遊郭とは言うても、それより小さい遊郭が紹介されとるのに朝代はまるで無視したかのよう。それか何か理由があってわざと省かれたんか、それは今となってはわかりません。
そのことは謎として、第二次大戦を経て終戦、海軍も消滅して海軍におんぶにだっこな朝代遊郭は滅んだかのように見えたんやけど、そこはアメリカ進駐軍向けにダンスホールや「ゲイシャレストラン」に衣替えしたりして図太く生き残り、
戦後は赤線となって昭和33年の売防法まで39業者、72人の女性が最後まで残っていたといいます。

朝代遊廓の歴史はざっとこんな感じでございます。


まずは西舞鶴駅の駐車場で車を止め、ネットの情報で得た「霞月楼」があったという場所へ。

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今は旅館になっとるんやけど、外見は完全リフォームされとりました。残念。
・・・とよーく見たら、やっぱり原形はさりげなく残しとるみたいで、
パッと見純和風っぽいんやけど、何気なく洋風の趣があるよーな!?
というような、ちょっと変わった旅館でした。

そこの前の道を歩いてみたら・・・

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なんか古めかしいちゅーか香ばしいちゅーか、そんな建物が並んどります。
せやけど、何かちゃう・・・
俺のカンは頭の中でそう感じとりました。理屈やないんやけど、何かオーラちゅーか、そんなんがない。
なんかしっくりいかんもんがあるさかい、ここはヒアリングがいちばん、地元の人に素直に
「ここらへんに昔遊廓があったって聞いて訪れたのですが・・・」
と聞いてみました。
そしたら、別に嫌な顔もせんと、
「そこの角に昔そのままの建物残ってるよ。もう一つ山沿いの道行っても残ってるよ」
とあっさりと教えてくれました。
やっぱ俺のカンの通り、道一本間違えとるらしい。
で、地元の人が言う「そこの角」にある「そのままの建物」を見ると・・・


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思わず

トレビアーン♪

と叫びたくなるよーな、誠に香ばしい建物が。
それも外壁の色まで遊廓の象徴とも言える紅色やないですか~。
あまりに鮮やかすぎるさかい後で色を塗りなおした可能性もあるけど、それでもええ、こないして残ってる自体が素晴らしいのだ♪

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こないして見たら、けっこうリアリティあるんがわかると思いますわ。



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更に、俺が好きそーなタイル貼りのレトロな家も発見。
道の角にニョキって突き出したよーな感じで、吉原の赤線カフェー建築でも同じようなもんを見つけたさかい、
もしかしてもしかすると!?と思ってまうよーな。
せやけど、ただのタバコ屋やったりして(笑

これで機嫌が随分良くなった俺、この調子で「一本山沿いの道」へ向かいました。
ここは今でも参拝客が多いさかいお寺どうしを結ぶ道は真新しい石畳の道になっとるんやけど、
道の両側にある家自体はそのままのとこが多いみたいで、これは遊廓時代の建物が残っとってもおかしくない。

期待半分で進んでみたら・・・


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OH!トレビア~~ン♪

やっぱ遊廓の道にはまだ「怪しい」建物が残っとりました。



そして極めつけはこれ。

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少々リフォームはしとるみたいやけど、昔の遊廓建築をそのまま利用した料理屋です。
ヒョウタン型にくり抜いた壁や2階の格子など、昔の建物の面影をそのまま残しつつ少しリフォームしとって、遊廓に限らず古い建物はこうリフォームすべし、という手本かもしれませんな。
料理屋やさかいご飯食べに中に入ってもよかったんやけど、残念ながらよりによって定休日!
ちょうど小腹が空いた時やったナイスタイミングやのに、何でこんな日に限って定休日やねん(笑


ここ朝代遊廓跡の道沿いに神社がありました。
遊廓にある神社とくればお稲荷さんと相場が決まってるもの、
お稲荷さんがある所=遊廓とは限らんけど、逆はけっこう真なりなとこがあって、
ここも稲荷神社やろと勝手に思ったらホンマに稲荷神社でした。
普通見落としたり無視しそーな小さい神社でも、遊廓時代の置き土産が残ってたりするんですわ。
そしてこの神社にも・・・・

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「朝代貸座敷組合」が神社に寄進した時の名前がはっきり残っとりました。

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当時あった妓楼の名前がズラリと並んどります。
こういうのを見たら、昔どういう名前の建物があったかの揺るぎない証拠になったりします。

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朝代地区を歩いて最初に見つけた「霞月」の前身、「霞月楼」の名前が書かれたものも発見。


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「朝代藝妓一同」と書かれたものも発見。
朝代遊郭は娼妓だけやのーて芸妓、つまり芸者もおった遊郭やったっちゅーことがわかります。
遊郭や赤線跡を訪ねる人は少なからずおると思うけど、ほとんどの人が探すのは当時の建物やさかい、
こういう間接的な証拠を探すと視野が更に広がると思いまっせ~。



そして、桂林寺から朝代神社までの、遊廓があったという道を端から端まで歩いて、
「まあこんなもんやろ」と去ろうとしたところ・・・

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ここにゃ珍しい、ちゅーか唯一の木造三階建ての家を発見。
木造三階建ての建物は非常に珍しい、遊郭跡を歩いとったら数は少ないながらあったりするんやけど、
遊郭跡+木造三階建て≒遊郭建築
というくらい、遊郭跡にゃあったりします。
細い道筋にあったさかいめちゃ見逃しやすいんやけど、これもたぶん当時の生き残りでしょうな。
それにしても、木造3階建てって写真で見たらそうでもあらへんけど、実際目の前にしたらものすごい威圧感と迫力でっせ。


朝代遊廓編はこれまでやけど、
舞鶴編はまだ終わりません。まだ二つ残ってるさかいに。
それはまた続くってことで・・・

ってガタガタ言わんとさっさと書けって?(笑


~舞鶴朝代遊廓簡単年表~
※遊廓関係は青字で書いておきました。
何かわかり次第編集します。

・明治21(1888)年  貸座敷免許指定を受ける
・明治34(1901)年  舞鶴鎮守府開設
・同年        朝代遊廓本格開業。妓楼38軒、芸娼妓200人でスタート。
・大正2(1913)年   妓楼46軒、女性の数124人
・大正12(1923)年  妓楼54軒、女性の数140人

・昭和18(1943)年  西舞鶴市と東舞鶴市が合併、舞鶴市となる

・昭和20(1945)年8月15日 終戦

・昭和21(1946)年頃 朝代遊廓、赤線に移行か
・昭和33(1958)年  売防法により解散・消滅



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テーマ:消えた遊廓・赤線の跡を訪ねて
ジャンル:ブログ

コメント

■ No title

はじめまして。
現在は京都府八幡市に住んでいますが東舞鶴出身で、地元の話題に思わず食い付いてしまいました。
今でも東舞鶴の通り名に軍艦の名前ついてますよ。
三笠通りとか八島通りとか。
因みに軍艦名の通りは東西の通りで、それに対して南北の通りは一条、二条・・・と八畳まであります。
京都市とは違って各〇条通りの間には通りがなく一条の次は二条、その次は三条・・・となっています。
2016/08/12 URL ともやん #- 

■ 管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます
2014/04/16   # 

■ 承認待ちコメント

このコメントは管理者の承認待ちです
2012/11/18   # 

■ Re: 京都府貸席お茶屋業組合連合會

>朝汐さん

まいど貴重なデータおおきにですm(__)m

竜宮に行った後で知った丸山新地ですけど、きっちり赤線として残ってるみたいですね~。
龍宮の「カフェー」ちゅーのが何だか艶めかしい(笑


で、舞鶴とは全く関係あらへん質問なんですけど、
和歌山県の橋本市(か近辺)に遊廓・赤線はないんですかね?
南海高野線沿線は高野山の参拝への道でもあるさかい、禊というか穢れ払いのために橋本あたりに遊廓があってもおかしくないのですが、あったって話すら聞いたことありません。
まあ、河内長野がその「代役」やったんかな?とも思うんですけど、「あった」って証拠もなけりゃ「なかった」って証拠もないもんで(汗
2010/10/09 URL BJのぶ #- 

■ 京都府貸席お茶屋業組合連合會

舞鶴若狭自動車道の遊廓・赤線跡レポート
どうもありがとうございます。

さて、1957年の業界紙の年賀広告に、
連名で下記14組合の名前が掲載されてました。

 01.七条新地貸席営業組合       02.宮川町お茶屋営業組合
 03.祇園東新地お茶屋営業組合    04.西陣貸席営業組合
 05.島原お茶屋営業組合         06.中書島貸席営業組合
 07.撞木町貸席営業組合         08.橋本貸席営業組合
 09.宮津貸席営業組合           10.福知山貸席営業組合
 11.朝代廓貸席営業組合         12.龍宮カフェー営業組合
 13.丸山貸席営業組合          14.綾部貸席営業組合

 でも舞鶴の赤線って・・・・・・?
2010/10/04 URL 朝汐 #B7q/.fmY [編集] 

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