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BEのぶ

  • Author:BEのぶ
  • 自称「ブログエッセイスト」ことBEのぶです。
    昭和史をライフワークにしていますが、平成ももうすぐ30年経ち、昭和が遠い過去になりつつあります。
    昭和も遺産・遺物を探れば立派な「考古学」となります。題して「昭和考古学」。ジャンルは遊郭・赤線跡から鉄道、そしてすっかり忘れ去られた歴史を掘る「昭和の考古学者」として、昭和の名残りを通して考察する旅を続けています。

    基本は標準語で書きますが、エッセイは大阪弁で書いていきます。

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■■■玉造散歩第二章 真田山陸軍墓地

第1章はこちら

さて、今回は遊郭・赤線跡やのーて、大阪市天王寺区玉造にある三光神社をブラリと訪ねたんやけど、
さて帰ろうとしたら、ふとある方向が気になり出しました。
それは、境内の横にある小さな公園の方向。せやけど神社から見たら公園しかあらへんし。

何だこのプレッシャーは!?

アムロ・レイか?いや、ララァ・スンか?

ってガンダムのシャアやないんやけど、とにかく「このまま帰るな」って感じがしたさかい、その公園の方向へ向かってみました。
そしてその公園へ。
パッと見渡した限り、怪しいもんはなし。ここに遊郭とか赤線があったって情報もあらへんしな・・・。

と、その公園の下あたりに何かが!!

* * *
1009137

何すかこれ!?

ってただの墓場なんやけど、どない見てもタダの墓地やなさそうやな、これ。
ここで、俺のカンがピンときました。
墓場に行ったりしたら、戦争で戦死した兵隊さんの墓石をチラホラ見たりするんやけど、日本近代史にも興味ある俺はその墓を見る度にチェックしとりました。
誰が、いつ、どこで亡くなったが詳細に書かれとるさかい、お墓として興味深いな~と思ってたんやけど、
この同じような墓標の行列は、陸軍か海軍の墓地に違いない、と。
俺の予想が当たりかどーかは、近付いてみたら一目瞭然、やっぱし旧日本陸軍の墓地でした。

せやけど、何でこんな所に陸軍の墓地が?

後で調べてみたら、ここは「真田山陸軍墓地」と言われとった所で、
明治4(1871)年に作られた日本最古かつ現存しとる軍墓地じゃ最大の集団墓地の跡で、
同じ年に日本に徴兵制が敷かれたんやけど、それと同時に出来たらしい。

で、ちょっと墓標を拝見させてもらうと・・・

1009138

軍人軍属の墓標にゃ、いつ、どこで亡くなったんかが書かれとるってのは上に書いた通りやけど、
ここあたりの墓標を見てみたら、揃いに揃って

明治十年

の文字が。明治10年に何があったんでしょうか?
その墓標には、続きにこない書かれとることが多かったんです。

「鹿児島県賊・・・」

とか何とか、はっきりは覚えてへんのやけど、
鹿児島+賊+明治十年(=明治初期)=

「ああ、西南戦争ね」

とピンときました。
どーやらこの一角は明治10年に起こった西南戦争、つまり西郷隆盛のあれね、の戦死者を葬った兵士の墓らしい。
西南戦争(または西南の役)は明治初期に起こった最大の士族反乱で、あまりに規模が大きかったさかい「~の乱」やなくて「戦争」になっとるけど、
明治維新の功労者のトップ、西郷隆盛が関わった事やさかい学校でも必ず習う出来事やと思います。
明治10年って今から130年前のこと、普通の墓地じゃ太平洋戦争で亡くなった人の、比較的新しい墓標は珍しくあらへんけど、こんな古い墓標は生まれて初めて見ました。
これだけでも「ただの墓場やないな。相当古いな」と思ったんやけど、
(明治4年設立って知ったんは家に帰って調べてからでした)
さすがに130年も経ったら風化が激しいんか、墓標に書かれた字が判別できるだけならまだマシ、
字が判別不能のもんや墓標自体が壊れとるもんが多かったのは少し寂しさを感じました。

この墓標には、眠ってる兵士の出身地も書かれとります。
それを見てると、大阪はもちろんやけど、福島県の会津やら、東京やら、山口県やら、色んな地方の人が眠っとることがわかります。
そして、時代背景を思わせるこんな記述も。

10091310

平民

って、いつの時代の言葉やねん!?
・・・ってこれは明治時代のお墓やさかい、普通に、そして当たり前のよーに「平民」って書かれとります。
墓を見てみたら、判別可能な限りやと「平民」が多かったけど、「農」の字が見えるお墓もあったさかい、「農民」とかも書かれとったんやろな。


西南戦争の時は兵士の訓練度も低くて士気も低く、士気が高かった薩摩軍に最初はボロボロやったらしいです。
で、警視庁で働いとった旧幕府軍関係者から「抜刀隊」っちゅー精鋭を集めて、かなり勇敢に戦ったそうです。
「旧幕府」ってことは、元旗本とかだけやのーて、会津とかのいわゆる「賊軍」の人もおったはず、
今でも陸上自衛隊や防衛大学校、警察の行進曲に使われとる行進曲は「陸軍分列行進曲」って言われとるけど、
このベースは西南戦争の時の「抜刀隊」の活躍を歌詞にしたもので、それをシャルル・ルルーっちゅー、やたら「ル」が多いフランス人の軍楽顧問が編曲して行進曲に仕立てたもんです。
たぶん、どっかで聞いたことがあると思うメロディーやけど、偏見なしで聞いたら和洋折衷っぽくてけっこうええメロディーやさかい、よかったらどーぞ。



俺は確認できへんかったけど、この「抜刀隊」の墓もいくつかここにあるらしいです。


で、そんな荒廃が激しい墓標の中に、ちょっと奇妙なもんを見つけました。


1009139

「生兵」

って何ぞや!?
「故」とかやったらわかるけど、この「生兵」って書かれた墓標を少なくても3体確認しました。
この「生兵」の死亡年月を見てみたら、明治十年やなくてけっこうバラバラやったさかい、
何の知識もあらへんままその場で推定してみたら、

「従軍して生きて帰ってきたけど、『戦友と一緒に眠りたい』って希望した人」

と思ったんやけど、現実はそんなロマンティックなもんやないらしい。
調べてみたら、「生兵」って「せいへい」って読み、明治7年~20年まであった制度で、
徴兵で集められた男が半年間「新入社員教育」ならぬ新兵教育を受け、それに合格した者が二等兵として階級を送られたんやけど、
その半年間の、階級すら与えられへんかった兵隊を「生兵」と言ったらしい。
確かに、普通の墓場にある兵士の墓標には、
「故 陸(海)軍 ○○ 名無権兵衛 墓」
みたいに、○○の部分に階級が書いてるんが普通やけど、「生兵」にはそれ書いてへんかったな。
「生兵」は戦闘には参加してへんさかい戦死はおれへん(はず)けど、俺が確認した「生兵」の死因は「病死」でした。
つまり、訓練中に病死したり事故で亡くなった人の墓ってことで、どうやらここには全部で113基の「生兵」の墓があるらしい。
その113基の内訳は、
病死:71人
事故死:2人
負傷が悪化:1人
不明:39人

だそうです。



そして、エリアを移すと・・・

10091311


まだまだ同じような墓がズラリと並んどりました。
ここあたりの墓標をチェックしてみたら、今度は


明治廿七年 or 明治廿八年

っちゅー文字が目立ちます。
明治27年とか28年ったら西暦に直したら1894年とか1895年


「ははん、今度は日清戦争やな」

と、これまた直感で感じました。
それを裏付けるように、墓標に書かれとる「死に場所」が

清国

だらけ。清国って今の中国のことで、これで日清戦争の死者の墓やなというのがわかります。
そして、それに紛れて、少数やったけど、

台湾○○ニ於ヒテ戦病死

とかなんとか書かれとるものもありました。
日清戦争で主戦場になったんは、中国でも東北部やさかい、これはたぶん、日清戦争の講和条約、「下関条約」で日本領になった台湾の「鎮圧」に赴いた兵士の墓なんでしょう。

ここで気付いたんは、確かに戦争で戦った兵隊の墓やさかい、「戦死」も多いんやけど、
やたら目立つんが「戦病死」っちゅー文字。
戦病死とは、実際に敵に弾に当たって、それが原因で亡くなったんやのーて、現地で病気に罹って亡くなったということで、
当時はもちろん抗生物質なんかなかった上に、コレラや赤痢などの伝染病が蔓延しとったさかい、
戦死より戦病死の方が多かったそうです。これは日本だけやのーて、世界全部で言えること。
こんなデータがあります。

★日清戦争で死んだ兵士の数★

戦死:12349人

うち戦病死:11345人

(板倉重弘著「日本の戦争の歴史」より)

何と!実際に弾に当たった人なんかごく少数、「戦死者」の91%が「病死」やん。
というか、実際に戦って戦死した人1004人かい。
ほな、何でそんなに「戦病死」が多かってん?というと、
コレラや赤痢、腸チフスなど、今でもほっといたら死んでまうような伝染病が打つ手もなく放置やった、というのもあって、
西南戦争の時も戦地で赤痢やコレラが流行って、手塚治虫の曽祖父(ひいおじいちゃん)に当たる手塚良仙も軍医として従軍中、赤痢で「戦病死」したと言います。
(ちなみに、手塚治虫が医者やったのと曾祖父が医者やったのはただの偶然。手塚良仙までは代々医者の家系やったけど、祖父は今の関西大学創設にも関わった法学者、父親はサラリーマンです。ちなみに手塚良仙は大阪の適塾で学んだことがあり、福沢諭吉とはほぼ同期、一万円札の自伝にも彼の名前が出てきます)
せやけど、戦病死がゴロゴロ出たいちばんの原因言われとるんが、

脚気

という病気。
読みは「かっけ」でっせ~。誰や、「あしげ」って読んだのは(笑
これは今じゃビタミンB1の欠乏症ってわかっとるけど、明治初期までは原因がわからず、とにかく白飯を食べまくったらなる病気ってことくらいしかわかってませんでした。
当時の一般庶民の主食は麦飯、それが軍隊じゃ白い飯食いたい放題やさかい、それを「おかず」にして栄養が偏ってしまい、罹ってしまっとりました。
白米なんて金持ちしか食われへんかったさかいある意味「贅沢病」やけど、贅沢病なんて暢気に構えてられへん事情もあります。何せ放置したら死ぬさかい。

脚気なんて栄養学が発達した今じゃ罹ることはまずないし、聞くこともまずないと思うけど、
(まあ、インスタントラーメンだけを3か月くらいずっと食べたら罹りそうやけど…と思ったら、インスタントラーメンのビタミンB1含有量はベスト5に入るくらい豊富でした。インスタントラーメン恐るべしw)
当時は死亡率10%以上とかなり深刻な病気でした。
最初は陸海軍共に頭を悩ませとったんやけど、万事イギリス式の海軍が臨床を重んじるイギリス医学に基づいて海軍内の患者の統計を取ると、
患者は兵や下士官に多く、パンや洋食を食べとる士官の患者が少ない、っちゅー統計学データもあって食事の改革を提案、そのまま採用になりました。
せやけどドイツ式医学の陸軍は「細菌の仕業に違いない」という考えに凝り固まって、海軍が実績を上げてるのに頑固に自分らの考えを貫いて、
日露戦争頃には「やっぱ麦飯が効果あり」と陸軍でも言われ始めたものの、日露戦争でも25万人の患者を出し27000人の死者を出すハメに。
(ちなみに、海軍は患者はたった87人、死者はゼロ)

せやけど、
「なんや、陸軍は昭和からやなくて昔からこんなんやったんか・・・」
と思ったらあきません。
陸軍を弁護すると、脚気=細菌説が当時の医学界の常識やったわけで、陸軍軍医でもあった文豪森鴎外も細菌説の熱烈な支持者でした。
「いや、違うぞ」と今で言う栄養学に近い観点から疑問を持って海軍の食事を改革した高木兼寛という海軍軍医の見方がごっつい「非常識」やったわけなんです。高木の説は当時は海軍の軍医以外は総すかん、栄養学はおろか「ビタミン」自体発見されてへんかった時代には証拠がなく、全く反論できませんでした。
せやけど、それが科学的に「ほぼ当たり」ということがわかったのは、1910年に鈴木梅太郎がビタミンB1を発見、それが脚気を予防する効果があるってわかってからです。

せやけど、陸軍にも高木兼寛と同じ考えの人がおらんことはなくて、
堀内利国という陸軍軍医が脚気の原因を栄養の偏りと見抜き、「脚気細菌説」にこだわる軍のトップを無視して、庶民に偏見が比較的少ない大阪の部隊で麦飯を試してみたところ、麦飯を食べてる部隊の脚気患者が激減したと言います。
せやけど、日清・日露戦争で陸軍が脚気に頭を抱える歴史的事実を見ると、その結果が採用されることはなかったんでしょうな。


10091312

その堀内利国の墓がこの真田山墓地にあったりします。
明治28(1895)に亡くなってここに埋葬されたそうです。


10091313

そして、将校たちの墓も一画にあったりします。
一般兵卒と違って墓石も立派で、調べてみたら兵隊の墓石は和泉砂岩っていう石を使っとって、けっこう脆いさかい風月と共に朽ち果てていっとるらしい。
事実、「ちょっと修繕せなあかんのとちゃうの?」と思うくらい破壊が進んどるもんもあって、
旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会っちゅーNPO団体が保存を大阪市などに求めとるんやけど、なかなか事は進まんらしいですわ。
対して、将校や偉いさんクラスの墓は、上の堀内利国の墓もそうやけど、保存状態がええどころかホンマに明治時代に作られたもんか!?というくらいのもんまであって、
同じ石でもこれだけちゃうねんな~と、違う所で感心してまいました。


そして、兵隊クラスで個人での墓標があるんはこの日清戦争まで。
日露戦争になったら戦死や戦病死が多すぎて墓を作る土地がなかったんか、

10091314

こんな風に合葬碑として省略されとりますがな。

「明治三十七八年戦役」

ってまさしく日露戦争のこと、
(明治37年=1904年)

10091315

満州事変も「省略」されとります。


また、ここに埋葬されとるんは何も日本人だけやないそうです。
日清戦争や第一次世界大戦で捕虜になった中国人やドイツ人捕虜の墓もあったりします。

10091316

これがこの墓地にあるドイツ人捕虜の墓なんやけど、
左が「ルードビッヒ・クラウト」、右が「ヘルマン・ゴル」と読めます。
墓石によると彼ら二人は大阪の衛戍病院で亡くなったらしいけど、よー見たら墓の一部が削れとります。
これは元々身分を表すために「俘虜」って文字を入れとったんやけど、昭和に入って当時の第四師団長が「墓に俘虜って・・・かわいそうやないか」と「俘虜」の文字を削れと命令したそうです。
うちの地元にゃ昔日露戦争の捕虜収容所があって、泉大津市の墓地の片隅に捕虜の墓があって綺麗に整備されとるけど、
ここは上に書いたNPO団体がドイツと中国の領事館に慰霊祭の参加を呼び掛けていて、ドイツは毎年参加しとるものの、中国は「清国と中華人民共和国は関係ない」とさ。
そこが中国、都合がええ時だけ「同胞」とか言っておいて、こんな時は「そんなの関係ねー、はい、オッパッピー」ですか。
というか、「関係ない」って言うとるんやったら清と中華人民共和国は国として「連続」してへんって政府関係機関が公に言ってるようなもんやん、
それやったら「中国61年」であって「中国4000年」と言う資格ないやん。そうやろ?中国さんよ( ̄ー ̄)9m
これを突っ込んだら中国はどんな詭弁・・・いや失礼、言い訳を繰り出すんか、中国ウォッチャーとして非常に楽しみです(笑



すごい大発見をしてしもたため、書くこと忘れてまいました、失礼。
それにしても、この陸軍墓地を端から端まで歩いてみたら、かなり広いことがわかります。
東京ドーム何個分かはわからへんけど、敷地は4500坪あるらしくて昔は隣にある真田山小学校の敷地もそうで8000坪もあったそーな。
人里離れた郊外やったらこれより大きい墓地や霊園はあるけど、大阪市内の真ん中にこんな広い墓地があるなんて大阪人30年以上やってて今まで知らんかったし、少し信じられへん気持ちもあったりします、正直。

この墓地、戦前は陸軍がきちんと管理しとって遺族以外は立ち入り禁止、入口には衛兵が立っとったとか。
それが戦後になったら軍もなくなり、行政も放置状態で次第に忘れられた存在になったとか。
(今は大阪市と「保存の会」のボランティアが管理・整備しとるらしいです)
また、平日やというのもあると思うけど、昼間に人一人おれへん、セミの鳴き声だけが聞こえる異空間なよーな所で、
墓守の方が敷地内に住んでる(らしい)ものの、墓石はおろか敷地内は草が生え放題、墓も一部を除いて最近墓参りに来たという形跡もなく、
崩壊、と言うたらオーバーやけど、確実に荒廃しとるような感じさえ見受けられました。
ここはホンマに日本の近代史が凝縮したよーな所とも言えるさかい、近代史の遺産として保存した方がええやろな、と率直に思いました。
ホンマに偶然見つけた「副産物」とは言え、今日はある意味ええもんを見させていただきましたわ。

せやけど、大阪は市内中心地にあってアクセスも駅から数分のせいかまだ運がええ方で、
日本近代史の遺産として保存と整備を求める「旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会」が活動しとります。
ホームページのリンクも貼っておきます。
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テーマ:雑記
ジャンル:ブログ

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