のぶログ (THE WEBLOG WITH OSAKA DIALECT)

大阪人の、大阪人による、大阪人のため・・・のブログ!?

ブログランキング

ブログランキングに参加しています。 面白い!と思ったらクリックしてあげて下さいm(_ _)m



にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ

にほんブログ村 歴史ブログ 近代化遺産へ

よろしく!








blogram投票ボタン






ブログ内検索

プロフィール

BEのぶ

  • Author:BEのぶ
  • 自称「ブログエッセイスト」ことBEのぶです。
    昭和史をライフワークにしていますが、平成ももうすぐ30年経ち、昭和が遠い過去になりつつあります。
    昭和も遺産・遺物を探れば立派な「考古学」となります。題して「昭和考古学」。ジャンルは遊郭・赤線跡から鉄道、そしてすっかり忘れ去られた歴史を掘る「昭和の考古学者」として、昭和の名残りを通して考察する旅を続けています。

    基本は標準語で書きますが、エッセイは大阪弁で書いていきます。

質問・お問い合わせはこちら

名前:
メール:
件名:
本文:

人気ブログランキング

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

■■■スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

■■■福知山福崎遊郭跡をゆく 消えた遊郭・赤線の跡を訪ねて11

シリーズ「消えた遊郭・赤線跡を訪ねて」、今回は京都府は福知山に行ってきました。
福知山とかの北近畿地区は、冬になったら雪に埋もれてまう近畿の豪雪地帯、地方の遊郭や赤線は「駅から徒歩○分」って所にある所が少ないさかい、車で行かんとけっこうしんどいのが正直なとこ。
こういう所は夏・・・っちゅーより雪が降れへんうちに行くのがベスト、うちのプリウスは「非耐寒仕様」やさかいもちろんスタッドレスタイヤなどなし。
そーゆー意味じゃ冬になったら大阪府から出られへん車やさかい(笑

そしてもう一つ、行き先を北近畿にした理由があります。
今年から北近畿に向かう「舞鶴若狭自動車道」が高速無料化のテストロードに指定されて、全区間無料っちゅー誠にありがたい恩恵があったりします。
昔、大阪から舞鶴までNO高速、つまりオール一般道で行ったことがあるけど、時間は3時間ちょっとと意外に時間はかからんかったんやけど、
労力はけっこう使ったよーな気がする・・・。
今でも原則として「NO高速道路」主義な俺やけど、せっかく高速道路無料の恩恵を受けへんわけにはいきませぬ。
もう今回は燃費などどーでもええ(笑

で、今回は行ける所まで一般道で行って、そこからは無料高速の恩恵を受けませう、ってことで、舞鶴若狭自動車道をひたすら北へ。
地図で見たら福知山まではめちゃ近そうなんやけど、実際行ってみたら高速使っても案外遠い。
うちのプリウスにゃ後付けスルーズコントロール、通称クルコン、自称「ずぼらスティック」があるさかい速度を固定したらあとはまっすぐ行くだけなんやけど、
それでも山の中を走るせいか風景が単調でやたら眠いzzz
おっと!居眠り運転はあきません。

とやかく言いながらも、大阪から2時間くらいで福知山に到着。
おまけに「高速道路無料」の恩恵で高速代150円也。
ETCレーン通り抜けた時、「150円」って表示が出た時は思わず万歳三唱しそうになった幼稚な俺(笑

で、福知山市に着いたらこっちのもん。
目標!福知山の遊廓があったっちゅー「猪崎」っちゅー地区。

* * *
と、本題に入る前に福知山にあったという遊廓の歴史を少しおさらいしましょう。
福知山の遊廓は元々猪崎にあったわけやなく、明治10年(1877)に今の下柳町あたりに貸座敷12軒ほどが出来たのが始まりと言われとります。
ここの貸座敷、つまり遊廓は福知山市を流れる由良川に沿って作られて、当時は堤防の上に作られたさかい「土手の町」または「土手町」と呼んどったとか。
昔遊廓が合った所は「治水博物館」があるあたりと思われます。
せやけど、明治29年(1896)8月30日に由良川が豪雨で氾濫、福知山の歴史に残る大洪水になりました。
その時の由良川の水位は福知山で8メートル、ひどい所で12メートルという記録もあって、福知山市の記録によると死者270人以上、堤防も全く役に立たず川沿いにあった遊廓は建物一つ残らず更地になってしもた、と『福知山市史』に記録されとります。
それをきっかけに遊廓は川向かいの「猪崎」に移転、洪水によって木端微塵にされた遊廓は明治31年(1898)には完全に息を吹き返します。
そして、「猪崎」が福知山の遊廓の代名詞になります。
記録によると明治末期には芸妓30人、娼妓100人と北近畿でも規模が大きな遊廓になっとって、
大正末期(細かい時期不明。たぶん大正13~15年あたり)にゃ妓楼78軒、娼妓の数160人と、たぶんこの数が戦前のピークやと思います。

10090701

これはどーやら大正時代の猪崎遊廓を写した絵葉書らしいけど、奥に鳥居のよーなもんがあってその山の上には・・・
いや、これは後で語るとしましょう。

10100601

で、その約80年後の平成22年現在の同じ道を写してみたもんなんやけど、
やっぱ随分変わってますな、こないして比較してみたら。面影あらへんやん(汗
絵葉書見たら、この道の両側に見世がずらりと並んどったことがわかります。


で、こない言うたら失礼やけど、福知山に何で北近畿最大規模と言われた遊廓があったんか?
それは軍隊と大きな関係があります。
軍隊と遊廓ってある意味腐れ縁、切っても切られへん関係にあって、遊廓にとっちゃ「兵隊さん」は上得意様っちゅーわけなんですわ。
旧日本陸軍には
「連隊(聯隊)」
という軍隊の編成上の単位があって、よく聞く「大隊」「中隊」「小隊」とかは連隊の下の単位やったりします。
連隊の上は、これもよく聞く「師団」なんやけど、連隊は全国各地にあって徴兵とかで集められた兵隊の召集先も「第○○連隊」です。
連隊のトップの「連隊長」は普通は大佐がなるもんで、海軍で言うたら戦艦や巡洋艦クラスの艦長にあたります。
海軍の艦長も普通は大佐がなるもんでこれは全世界共通ルール、
海軍大佐を英語では「キャプテン(Captain)」つまり「艦長」と言うのもこれが理由やったりします。
自衛隊の護衛艦は駆逐艦レベルやさかい普通は少佐や中佐がなってもええんやけど、艦長はたいてい一佐、旧海軍で言うたら大佐でちゃんと世界共通ルールに基づいてます。
ちなみに、「陸軍大佐」はキャプテンと言わずに「カーネル(colonel)」と言い、"captain"は大尉(自衛隊の一尉)になります。
「カーネル」でピンとくるんがケンタッキー・フライドチキンの創設者の「カーネル・サンダース」。
あのケンタッキーのおっさんが「カーネル」なんかというと、実は元陸軍大佐の退役軍人で・・・っちゅーわけやなくて、ケンタッキー州に貢献した人に贈られる名誉称号が「カーネル(大佐)」やったというオチです。

この「大佐」の読み方、実は陸軍と海軍で違っていて、陸軍じゃ「たいさ」と普通に読むんやけど、海軍じゃ「だいさ」と読みます。「大尉」も同じで、陸軍じゃ「たいい」やけど海軍は「だいい」です。
せやさかい、「海軍大佐」はいても「かいぐんたいさ」はおれへんわけで、今じゃ天下のNHKでも元海軍大佐を平気で「たいさ」と読んでるんやけど、「ちゃんとした日本語使え!」と元海軍の阿川弘之に怒られまっせ(笑
まあ、逆に言うたら大佐を「だいさ」と読んだら「こいつ、海軍通やな」と一目置かれること間違いなし!?
せやけど、「大将」は「だいしょう」と読まんみたいで、陸海軍同じく「たいしょう」です。せやけど「中将」は「ちゅうじょう」やなくて「ちゅうしょう」ね。
(陸軍と世間一般は「ちゅうじょう」)

ちなみに、アニメの世界やけどガンダムの大きな軍艦の艦長がみんな大佐なのも、Zガンダムで中佐やったブライトがアーガマ艦長になったらいきなり大佐になったのも、「軍艦のキャプテンは大佐」というルールからです。
じゃあ、ブライトの前のヘンケンが中佐なのは、適任の「大佐」がおらへんかったら中佐でもOKということで、アメリカ海軍じゃまだ大佐になる以前の中佐が艦長になったら、「艦長の時だけ」という特例で昇級して「なんちゃって大佐」になることもあり、アメリカらしい合理主義的なやり方やな、と思ったりします。
もちろん、その「なんちゃって大佐」が異動なんかで艦長を辞めると「中佐」に戻ります。
また、ガンダムを現実の軍隊のやり方に沿わせたら、ヘンケンが何故ブライトに急に艦長の位を譲ったのか?っちゅーことも説明できます。
ブライトとヘンケンは同じ「中佐」なんやけど、軍隊、特に海軍は「先任」っちゅーことが重視されとって、
先任って一般的に言うたら「先輩格」ってことです。
つまり同じ中佐でもブライトの方が先輩かつ格上ってことで、艦長なんかは同じ階級やったら先任がなることがルールっちゃルールです。つまりブライトの方がヘンケンより「上」ってことがわかります。
これ、小学校の時にリアルタイムで「Zガンダム」を見て以来ずっと素朴な疑問に思っとったんやけど、
海軍のことを調べたらこないして疑問がわかるわけです。
これぞ「セレンティビティ」ってやつかもね~。

海軍に入ったら一度はやりたいと思うのがこの「艦長」で、瀬戸内海でモーターボート走らせるだけでも気持ちええのに、何万トンもある軍艦を自分の号令一つで動かせる快感はネイビー冥利に尽きるそうで、
一国一城の主でもある艦長がやれたらもういつでも辞めてもいい、というか辞める前に艦長やってみたい、と海軍軍人はみんな思っとったそうやけど、
「キャプテン(大佐)」には海軍兵学校を卒業したら病気になったり不祥事を起こさない限りはまずなれるものの、正真正銘の「キャプテン(艦長)」になれる「キャプテン(大佐)」はごく一部。
兵学校卒業した同期の中の1割くらいやったそうな。


で、遊廓の話に戻りましょう。
福知山にゃ「歩兵第二十連隊」という陸軍の駐屯地があって、明治31年(1898)に福知山に移転してきました。
猪崎遊廓が発展したのもこの連隊が移転してきてから、昔はさぞかし兵隊さんたちで賑わったんでしょう。
遊廓に行くんは昔の軍隊じゃ下っ端の兵隊か下級管理職の下士官が中心で、将校クラスは料亭に行くのが常識、
将校クラスが遊廓に行ったらたぶんとんでもないことになっとったことと思います。
そして、あれこれ遊廓のことを調べとってわかったことは、
「陸軍連隊があった所必ず遊廓あり」
ちゅー法則(?)もあったりします。
昔は軍都として栄えた旭川とか豊橋にゃ2~3つの遊廓があったし、うちの地元の信太山の「現役」地域も、
正式な設立時期は昭和20年代やけどそこにゃ昔は陸軍野砲兵第4連隊が駐屯しとった所、
戦前から「モグリ」、つまり私娼街っちゅー「隠れ遊廓」として存在しとったとも言われとります。証拠はあらへんけどあったやろ、たぶん(笑
まあ、昔は「うどん屋」でも交渉次第じゃ出来たっちゅー話もあったさかい、遊廓って公的に認められた所以外にもいっぱいあったってもおかしくはないと思いますわ。

で、ちょっと第二十連隊の話をすると、二十連隊は昭和になったら京都にある第十六師団の指揮下にあって、昭和10年(1935)頃には満州に派遣されてソ連との国境の警備につき、日中戦争の時は中国に派遣されて当時の中華民国の首都やった南京の総攻撃にも参加しとります。
つまり、あの「南京大虐殺」にも一役買っとるっちゅーことやけど、当時中隊長をやっとった人の日記や兵隊の回顧録によると「そんなことは聞いたこともない」と書いとります。
この「大虐殺」自体の真偽は俺がここで語る身分やあらへんさかいさておき、福知山の部隊は戦争中ずっと中国各地を転戦しとったことがわかります。

そんな第二十連隊のお膝元にあった猪崎遊廓は、色々調べていったらどうやら戦後はそのまま赤線に移行したらしく、昭和33年の売防法施行で廃止。
市内から離れた郊外にあったさかい、歓楽街になることなくそのまま静かな住宅街になって現在に至っとります。
というわけで、手元にあるバイブル『全国女性街ガイド』にゃ福知山のことはどう書いてるんやろ。
・・・あれ?ない。
著者の渡辺寛氏も福知山までは来ることはなかったんか、全国の有名な赤線を網羅しとるはずの『全国女性街ガイド』にも載ってへん、レアな赤線街やったんか?
何がともあれ、バイブルにゃ福知山の「ふ」の記載もありませんでした。

さて、事前の下調べやと猪崎にゃほとんど建物は残ってへんって情報やったけど、
実際に「考古学」とばかりに現地に向かってみたら・・・



100908-1

早速古めかしい建物発見!
これは幸先がええさかい、どんどん遊廓があった場所の奥へ踏み込んだら、


1009082

これはもう文句があらへん、昔の遊廓の建物でしょう。
手前の玄関が写真で見るより立派な作りになっとって、昔の面影をよく残しとるものになっとります。

1009083

これもええ感じの建物やと思いますわ。

ちょっと歩いただけで既に3軒やけど、これでまだ喜んだらあきません。
猪崎遊廓跡にゃ、少しビックリな建物が残っとったりします。

1009084

これは100%間違いない昔の遊廓時代の建物です。
少しリフォームされとるっぽいけど、昔の風格を残しながらええ感じでリフォームされとるなーと思います。
特に玄関の屋根が豪華な唐破風(からはふう)のものでものすごい雰囲気を残しとって、猪崎遊廓でも一二を争う大きさやったことが想像できます。
更に、手前のガレージになっとる部分から家の奥を覗いてみたら、この建物、奥に中庭があって更に建物が続いとることがわかります。
こりゃ昔はかなり豪勢かつ大きな建物やったんやろな。


せやけど、この建物で驚いとったらあきません。

1009085

上の建物のリフォーム前・・・やありません。
全く別の建物やったりします。
どーやら上の建物とは姉妹建築みたいで、玄関の屋根瓦の色はちゃうけどその他はほとんど双子のよーな建物、
更にこっちは紅色に塗られた壁の色からして当時そのままの姿を留めとります。
ちゅーか、昔の遊廓の建物はこんな紅色やったんやろか?

10090813

玄関の部分をアップで撮ってみたら、堂々とした風格を漂わせる建物やったことはもちろん、
この紅色の壁が何とも艶めかしいっちゅーか、余計にインパクトを強くしますな。


1009084

1009086

こないして同じよーなアングルで写した写真を並べてみたら、この二つの建物が如何に「双子」かよーわかると思います。
昔はこないな「双子」な建物が遊廓内でもよーけーあったと思うんやけど、21世紀の平成22年現在でも残っとるのは極めて少ないと思います。俺も色んな遊廓や赤線跡を渡り歩いたけど、こんな立派な建物が、それも「双子」の状態で残ってるの見たんは初めてのことですわ。

1009087

で、どっかから拾ってきた、戦前(時期不明)のある建物の絵葉書です。
これ、上の画像とよー似てませんか、ちゅーか瓜二つやん。
この絵ハガキにゃ「近波楼 全図」って書かれとるんやけど、その「近波楼」は恐らくこの遊廓の建物のどっちかやと思われます。
「双子」やさかいどっちがどっちかわからへんけど、自動車が乗り入れとる所を見たらかなり規模が大きい建物やったと思われ。

で、『遊郭をみる』という本を見たら、猪崎遊廓のちょっと変わった所が書いとります。
遊廓は、江戸時代や明治初期にゃ「張り見世」と言うて女性が格子越しに座っとってさながら生きるマネキン状態、客が「ウィンドウショッピング」したり遊ぶ女性を見定めたり、娼妓が客と直接交渉しとったんやけど、
それが「人権上の理由」で全国的に廃止、その後は店の前に写真を飾る「写真見世」や、店の奥に女性が立ってて直接見定める「陰店式」がメインになりました。
猪崎は密かに(?)「張り見世」を続けとったみたいで、女性と直接話せる楽しさで神戸や姫路などから車で来る人もおったそうな。
せやけど、今の車が当たり前の時代と違って大正時代はおろか昭和初期でも車で来る人なんか超がつく金持ち連中、猪崎はけっこう格式が高い遊廓やったかもしれない、というのが想像できます。

で、この建物にゃ後で仕入れた情報があるんやけど、それは後で話すとしましょう。



1009088

同じ猪崎地区で見つけた、何か異様っちゅーかおもろい建物です。
1階と2階部分がリフォームされとるんやけど、3階部分はそのままっちゅーアンバランスさもおもろいけど、
よ~~く見たらお城みたいな形になっとるよーな!?
昔は木造3階建てやったことが容易に想像できます。昔の木造3階建ては非常に珍しく、おまけに旧遊廓の敷地内。
その中にある木造3階建ては俺のカンと経験(だけやけど)によるとかなりの確率で「ビンゴ」。
リフォームはされとるけど何となく面影は残ってるよーな建物でした。


1009089

そして、俺の足は猪崎地区の裏手にある山へ。
山にも遊廓が?いやいや、さすがに建物はあらへんけどここに昔遊廓があったっちゅー確固たる証拠が、この何もなさそーな山の中にあったりします。

で、この写真の中に何やら怪しい建物が・・・
俺の妖怪アンテナ・・・間違えた、遊廓アンテナがピンと反応しました。


10090810

10090811

和風の建物の中に、いかにも場違いっちゅーか何ちゅーか、明らかに町の雰囲気から浮いてる洋風の建物があったりします。
その分存在感は抜群にあるんやけど、遊廓の検番があったとこか?それとも赤線時代に建てられたカフェーの生き残りなんか?
遊廓建築だけやのーて、明治以降の洋風建築も色々見てきた(というか、元々はこれが始まりなんやけど)カンから、たぶん戦後やなくて戦前、昭和初期の建築やと思うんやけど自信はありません(笑
実際に現地に行ったらわかるけど、ホンマ空気読まないKYのよーなこの建物の謎は深まるばかりなんやけど、表も怪しいのにこの建物の裏手に回ったら・・・

10090812

何すかこれ!?

めちゃ和風やないですか~~(汗
表はフェイクっすか~~!?と叫びたくなるよーな、裏はホンマ「準」やのーて「純」をつけたくなるよーな和風建築。
おまけにこの壁の紅色・・・めちゃ遊廓やん。
残念ながら写真には撮らんかったんやけど、この建物けっこう奥行きがあって表の「洋風」に騙されとったらついスルーしてまう、なかなかおもろい建物やったりもします。
ちゅーか、ここまで来たら「和洋折衷」やのーて「和洋分離建築」って名付けてもええくらい違和感ありまくり(笑

こんな怪しすぎる建物に後ろ髪をひかれつつ、異常気象の猛暑の中何で登山なんかせなあかんねん!?と拭いても拭いても流れ出る汗をぬぐいながら少し山を登ります。
そして着いた所が、

10090814

古びた小さい神社やったりします。
ある意味どこにでもありそうな神社、これと遊廓がどういう関係があんねん!?と思う人もおるかもしれへんけど、
鳥居のとこに
「稲荷大明神」
って書かれとるんがわかると思います。
遊廓とお稲荷さんって色々縁があるみたいで、遊廓跡を回っとるとやたらお稲荷さんがあって、
昔は遊廓で働く遊女の信仰を集めとったらしいです。
このお稲荷さんも、その昔遊女たちが山を登って願掛けしに来たんかもしれへんけど、
この神社の荒れっぷりや、登山道の草ぼうぼうさからして、地元の人にも忘れ去らとるんやろな。

夏草や つわものどもが 夢の跡

と詠んだんは松尾芭蕉やけど、

夏山や 廓女(くるわめ)どもが 夢の跡

と思わず詠んでまうよーな、少しさびしい気分にさせる神社でありました。

で、ここに、昔遊廓があったっちゅー証拠があったりします。
お稲荷さんの境内にゃ、これまた朽ち果てそうな灯篭が何基か残ってるんやけど、そこには・・・

10090815

遊廓が寄進したらしい灯篭が残されとりました。
この灯篭ははっきり字が読みとれて、
「大正十年九月 遊廓中」
とはっきり書かれとります。
大正10年(1921)は今からほぼ80年前。大正天皇の病状が思わしくないさかい当時皇太子やった昭和天皇が摂政(天皇代理)に就任して、総理大臣やった原敬が暗殺され、世界に目を向けたらモンゴルにソ連の支援で人民政府が出来たり、共産主義が日本にも芽生えてきた頃でもありました。
そんな頃の灯篭がまだ残ってるんやなーと、少し感慨深い思いでした。どんな思いでこの灯篭を寄進したんでしょうかね。
遊女たちの思いが詰まってそーなこのお稲荷さんに少しお賽銭を投げ、旅の安全を祈りつつこの忘れ去られた遊廓の遺物のよーな神社を後にしました。

で、山を下りて一息・・・といきたいところなんやけど、
とにかくこの地区は今は静かな地方の住宅街、喫茶店はおろかジュースの自動販売機すらあらへん始末。
おまけにものすごい暑さで体力も限界・・・ってところで、飲み物を売っとる所を聞いてみようと地元のおばちゃんに声をかけてみました。
そして、古くから住んでそーなこのおばちゃんに、
「昔、ここに遊廓があったそうですね」
とジャブを放ってみました。
このおばちゃん、どーやら昔から住んどった人やなくて、猪崎が赤線でもなくなった後に住み始めた人だそーなんやけど、
やっぱりここが昔遊廓やったことは知っとったみたいで、おまけに売防法施行の年まで知ってる。なかなか通とみた(笑
というのも、俺みたいな遊廓跡を訪ねてくる物好きがたま~~に来るみたいで、数か月前にも何人か訪ねてきたらしい。
で、飲み物の居場所を聞こうと思ったらとんだ遊廓話になったわけなんやけど、
ここで面白いことが。

上に書いた、

1009086
1009084

この「双子」の建物のことやけど、
ここは赤線時代にゃ「ニッシン」「第二ニッシン」と呼ばれた建物やったらしく、
リフォームされた方が「ニッシン」、紅色の壁のが「第二ニッシン」やったそうです。
「ニッシン」の漢字をどない書くか聞くのを忘れてしもたけど、「日新」か「日進」かどっちかやと思います。
やっぱし同じ時期に建てられた建物で、昔の楼主も同じやったらしい。
今は別の人が住んでるらしいけど、その2階にゃ昔はいくつもの小さい部屋に仕切られとったとか。
その部屋の広さ何と1畳~2畳!
これじゃタコ部屋やん。

そして、話を聞いとったらもっと衝撃的な話が。
この「ニッシン」の建物の近くにある家も、今は建て替えられとるけど20年くらい前は典型的な遊廓建築やったらしゅーて、
そこには地下室があったそうな。
その地下室は何に使うかというたら・・・
その昔、結核や梅毒などの病気に罹った遊女がそこに隔離され、ロクな治療も受けられへんままま死ぬまで出られへんかった「死の部屋」やったそうな・・・。
俺の予想やとその地下室は「死の部屋」だけやのーて、遊廓から逃げだそうとしたり、しきたりを破った遊女が「お仕置き」を受ける「お仕置き部屋」も兼ねとったんやないかと想像出来るんやけど、
結核とか梅毒は今じゃ抗生物質でケロリと治る病気やけど、当時は治療法なしの不治の病、特に結核は伝染力が強いさかい隔離せんとみんなに伝染してまう怖い病気、隔離もやむを得んのやけど、地下室ってのが妙に怖い。
おまけにその地下室は埋められることなく今でもその家にあるらしゅーて、洪水とかになったらその地下室に水が溜まるとか。
おいおい、ちゃんと慰霊して埋めろよ~、と思ってまうけど、妙にリアリティがある話やさかい遊廓の「ヤミの部分」を垣間見たような気がしました。

最近思うのは建物とかの「表」「光」の部分だけやのーて、こういう「闇」「裏」の部分にも目をそむけずに見ることも大切やろな、ということ。
そして、ここで死んでいった名もなき女性たちの霊のために、彼女らゆかりの神社や無縁仏に手を合わせることもこの旅の意義の一つなんちゃうか、ということ。
遊廓跡を訪ねる旅をしとる人は、少ないながらもおると思うけど、みんな建物とかばかりに目を向けてそれ以上深く調べへん事が多いさかい、
そこにある「裏」もちゃんと見て欲しいな~と。特に女性なんかは思わず耳を塞ぎたくなったり泣きたくなるよーな話もあるけど、それも現実。現実は現実として「歴史」として考えて欲しいと切に願ったりします。
歴史というのは事実を事実として調べて伝えることやさかい。

で、ちょっと関係ない話やけど、
遊女たちの死因のトップは「梅毒」と「肺結核」やということは、「消えた遊廓・赤線跡を訪ねて 八王子編」でチラっと書いたけど、
後で調べてみたら、「丹毒」という病気で亡くなった人も多かったとか。
丹毒って今じゃほとんど聞かん名前やけど、急性の皮膚感染症の一種で昔は日本髪を地毛で結っとった人に多かった病気、
かんざしとかは先が尖っとるさかい、それで頭の皮膚を傷つけてそこから菌が入ってしもて、そのまま亡くなることがあったそうです。
今は抗生物質であっという間に治る病気やけど、抗生物質なんかなかった戦前は治療法なしで治るのを祈るしかなかったという恐ろしい病気で、
遊女だけやのーて一般の女性も普通に罹っとったそうな。
罹ったら死亡率100%やないけど、頭の皮膚から入りやすいらしいさかい顔が中心に膨れ上がって直視できへん状態になることもあるとか。
そーゆー意味じゃ、抗生物質ってホンマに「魔法の弾丸」やな、と思いますわ。


福知山は正直あんまし期待せんと行ったんやけど、期待とは裏腹に貴重な建物がぎょうさん残ってる上に、貴重な話まで聞けて嬉しい誤算。
非常に「濃い」旅になりましたわ。
せやけど、とにかく、もうとにかく暑かった・・・。
天気がええのは幸いなんやけど、その分暑くて水分補給せんと熱中症で倒れそう、マジで。
暑過ぎて意識が飛びそうになったこと数回、こんなに意識が飛びかけたんは、数年前に行った「鳩の街」と「玉の井」以来ですわ。
こりゃ夏に行く時は、行く前に基礎体力作りにいそしまんとあかんな(笑

そして、福知山を後にして次に向かったのは・・・

To be continued...
スポンサーサイト

テーマ:消えた遊廓・赤線の跡を訪ねて
ジャンル:ブログ

コメント

■ Re: 福知山市在住です

>あやさん

はじめまして、コメントおおきにです(^o^)
3年前のブログ記事のコメントには気づいとったんやけど、コメント返しが4ヶ月後になってしもて失礼します(笑

福知山の遊廓は、まだ掘ってみたら何か出てきそうやさかい、興味があれば福知山市立図書館などで史料を探してみるのも面白いと思います。
思ってもみなかったもんが出てくるかもしれへんさかい。何も出て来なくても責任は取られへんけど(笑

またよかったらうちのブログ見に来て下さいね。
2013/06/22 URL BJのぶ #- 

■ 福知山市在住です

3年前の記事にコメントをして気づいてもらえるか分かりませんが失礼します。笑

ここ最近遊女や遊廓に興味があり調べています。
のぶさんのブログではとても詳しく書いてあるので1から読ませてもらってたんですが…びっくり。
福知山にも遊廓があったなんて…!

本当に嬉しい。
ありがとうございます。

同じ女としてなのか、私も遊女だったのかは分かりませんが…こうなったら今日の仕事帰りに寄ってみます。

わくわくする記事ばかりで楽しいですね♪
これからも頑張って下さい(^o^)
2013/02/21 URL あや #5SB2AJPE [編集] 

■ コメントの投稿










トラックバック

≫ http://parupuntenobu.blog17.fc2.com/tb.php/808-84c305d7
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。