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BEのぶ

  • Author:BEのぶ
  • 自称「ブログエッセイスト」ことBEのぶです。
    昭和史をライフワークにしていますが、平成ももうすぐ30年経ち、昭和が遠い過去になりつつあります。
    昭和も遺産・遺物を探れば立派な「考古学」となります。題して「昭和考古学」。ジャンルは遊郭・赤線跡から鉄道、そしてすっかり忘れ去られた歴史を掘る「昭和の考古学者」として、昭和の名残りを通して考察する旅を続けています。

    基本は標準語で書きますが、エッセイは大阪弁で書いていきます。

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■■■旧吉原遊廓をゆく 消えた遊郭・赤線の跡を訪ねて9

東京で一泊した俺、泊まった場所は「山谷」って場所で知る人ぞ知る安宿街でもあります。
「山谷」は今もそうやけど日雇い労働者のメッカ、昔は治安も悪くてジモピーはよっぽどのことがない限り近寄ることもなかった、っちゅーのは大阪のあいりん地区と同じとこやけど、
(俺も小さい頃、親に「ここだけは絶対に近寄るな!」と言われて、新今宮駅に生まれて初めて降りたのは中学生の時でした)
その「宿の安さ」に目を付けた外国人バックパッカーの溜まり場と化して雰囲気はかなり明るくなっとります。
大阪のあいりんも俺が小学校~高校の時と比べたら全然明るくなったけど、まだ「怪しさ」を醸し出しとって写真はおろかデジカメ出すのもはばかるくらいの雰囲気やけど、「山谷」はあいりんと比べたら怖くも何ともなし、たぶん地元の人がダークなイメージを払しょくしようと努力しとるんかもしれませんな。
ここは日雇い労働者のための「木賃宿」(大阪で言う「ドヤ」)が前身の、一泊¥2000円台の宿なんか珍しくも何ともなし、探したら¥1000代のとこも、数は少なくなったけどあったりします。
部屋はたいがい3畳一間程度の大きさやけど、テレビもあれば冷暖房も完備、おまけに清潔な布団まで完備。
ヘタにカプセルホテルに泊まるより快適やったりします。
その代わりって言うたら何やけど、風呂とトイレは共同ね。
なぁ~に、風呂トイレ共同くらいで死にはせん、安かったらそれでいいのだ。
せやけど、今時の安宿、館内無線LAN完備、つまりノートPCとかiPod touchとかを持ちこんだらタダでネットしたい放題やったりして意外に侮れられへんのです!恐るべし21世紀(笑

トキオに泊まる時はいつもここあたりを定宿にしとるんやけど、今回出発前に何気なく付近の地図をGoogle mapで見とったら、
「なんや、『あそこ』にめちゃ近いやん♪」
ということに気付きました。
地図だけ見ても『あそこ』まで歩いて5分くらい、宿から1回交差点曲がったら着く感じ。
こりゃ朝の散歩にちょうどええ距離♪
こりゃ行くっきゃない!と朝早く(←っても8時くらいやけど)起きて『あそこ』に向かいました。

で、『あそこ』とはどこやねんって?

吉原遊郭


吉原遊廓

ここ。

この画像でわかったらあなたはジモピーか立派な赤線ハンター(笑
まあ、普通これでわかるわけないさかい、これでどーや!





吉原大門前

これでわかったでしょ?
「おっかさん、ここが二重橋だよ」
ってのは皇居の二重橋のことやけど、ここがあの

吉原(よしわら)

やったりします。

金に糸目をつけず、そして彼女も作らず(笑 ←ほっとけ
コツコツと遊郭・赤線跡を訪ねる旅を続けて○年、ついに

総本山

に突入です!
* * *
「吉原」という名前を聞いたら、遊郭や赤線に興味がない人でも、一回くらいはどこかで名前を聞いたことあるくらい有名な所です。
「遊郭とくれば吉原、吉原と言えば遊郭」
と言ってもいい、遊郭代名詞となっている吉原の歴史は、はるか17世紀の江戸時代にさかのぼります。
今の東京に「江戸」ちゅー町が出来て間もない頃、庄司甚右衛門というー人がおりました。
元々は小田原の北条氏に仕えとった人で、元々は北条の乱波、つまり北条氏に仕えた風魔一族の隠密出身と言われとります。
北条氏が滅んだ後に江戸に出て女郎屋、つまり風俗店を開いとったんやけど、
当時まだ完成されてへんかった江戸にある女郎屋を一つにまとめよう、と幕府にお願いを出します。
何回か却下されつつも元和三年(1617)についに許可が下り、吉原の歴史が始まります。
元々は今の日本橋あたりに作られたのですが、当時の日本橋は葭(よし)が生える湿地帯でした。
要するに「周りに何もなかった」ということですわ。
出来た時は
「葭原」
って書いとったんやけど、縁起を担いで

「葭」→「吉」

に変えて名前が「吉原」になりました。

そして、吉原が今の場所に移ったんは明暦2年(1656)に幕府から遊郭の移転命令が出たことからでした。
遊郭が出来た時は家一軒建ってへん辺鄙なとこやったんやけど、江戸の町が急速に整備されて市街地が広がっていくにつれて日本橋あたりも商業地になって、
「悪所」と言われとった遊郭は移転せざるを得ない状況になってまいました。
「市街地に遊郭があるのは風紀上けしからん」
っちゅーのは江戸時代も昭和も変わらなく、遊郭があったとこは実は出来た当時は町外れやったりしたんですわ。
吉原の場所も今じゃ「都心」。せやけど江戸時代は人一人住んでへん荒れ地やって言っても「今」だけ見たら信じられへんと思います。
大阪の飛田遊郭も今里新地も、出来た当時は「村」ってつけてええくらいの辺鄙な場所やったわけなんですわ。
ちなみにジモピーや大阪の地理に詳しい人に言うとくと、今の「飛田」の最寄り駅の新今宮駅が出来たんは昭和39年(南海は41年)、飛田遊郭が出来た時は駅など存在してへんかったんですわ。

で、話がズレそうなところで元に戻して。
吉原が郊外に移転「させられ」た時、幕府は

・移転の費用を特別に与える
・移転の場所の広さは(日本橋の場所の)5割増し
・町役である火消しを免除
(要するに税金免除ってことです)
・夜の営業を許可する
(前は昼しか営業できませんでした)


とかなりの優遇条件を加えます。
業者も喜んで移転したらしくて、幕府の命令から数年後に「浅草日本堤千束村」に吉原が「リニューアルオープン」しました。
それが今の吉原の場所で、日本橋にあった吉原を

「元吉原」

浅草に移った吉原を

「新吉原」

って言うんやけど、小説とかに出てきたり、特に歴史を知らん人が「吉原」って聞いてイメージするとこはこの「新吉原」の方です。
この「新吉原」っちゅー名前は、昭和33年の売春防止法で形式的には滅ぶまで吉原遊郭の正式名称として残っとりました。

平成22年吉原地図

Google Map様から引っこ抜いてきた現在の平成22年(2010)の「吉原」の地図やけど、昔の地図と比べてみましょう。

江戸時代安政3年吉原復元地図

これは江戸時代末期、安政3年 (1856年) の実測復元地図やけど、
今は住宅地になっとる所にゃ家なんかほとんど建ってへん、いかにも吉原だけ「浮いた」存在っちゅーのがよくわかると思います。
そして、周囲は面影なくても、吉原内の道の基本ベースは150年たった今と変わってへんことがわかるでしょ?

大正5年1916年吉原遊郭地図

変わって大正5年(1916)年の東京の地図なんやけど、ペンペン草しか生えてへんかった郊外やった吉原周辺が整備されて住宅地になりつつあることがわかります。
せやけど、それでも・・・ちゅーか余計に吉原(黄色で○した部分)が周囲と比べて浮いとりますな。
ここから関東大震災や戦争なんかで吉原はその度に焼け野原になったんやけど、
吉原自体の道や地形は、400年近くたった今でも変わってへんことがこないして比較したらわかると思います。
ただ、一つちゃうとこもあります。
江戸時代や大正時代の地図を見たら、吉原の周りに堀があるのがわかるでしょ?
これは通称「お歯黒どぶ」って言われとって、流れがほとんどないさかい汚水とかで汚れて水が真っ黒になっとったことから名付けられとりました。
同じ東京の私娼街やった「玉の井」を流れとった溝も「お歯黒どぶ」って言われとって有名やったけど、
どーやら吉原の方が「元祖」らしいですな。

で、気付いた人はある意味偉いんやけど、
吉原って地図で見たらちょっと傾いてまへんか?それも何か計算されたよーな、意味深な傾き・・・。
これは実は「北枕にならんよーに」っちゅーことで、身売りされてきた女性たちの自殺防止の意味もあったそうな。
そこまで計算されて作られとったとは。

明治27年1894年吉原遊郭地図

これは明治27年(1894)の地図のレプリカなんやけど、
この地図にゃ「お歯黒どぶ」がくっきりと描かれとって、吉原が堀に囲まれとったことが一目瞭然なんやけど、

吉原遊郭赤線廃止時地図

売春防止法寸前の昭和33年の地図にはないさかい、昭和になって埋め立てられたんやと思います。
この遊郭の周りにあった「堀」っちゅーか「溝」ちゅーか、まあそんなもんは、遊女が逃げへんために堀で囲ったと一般に言われとるんやけど、
単に遊郭と「俗世間」を分けるだけやったって説もあって、一概に「遊女」を閉じ込めるため、ちゅーわけでもないみたいです!?

昭和16年1941年堺市街地図

たとえば、これは太平洋戦争が始まる寸前の昭和16年(1941)の堺市の市街地地図(のカラーコピー)なんやけど、
堺が戦争で焼け野原になる前、そして区画整理で道筋が大きく変わる前の貴重・・・でもなさそーな地図でもあります。何せ図書館で「見せて」って言うたらすぐ見せてもーてコピーも出来たさかい(笑
で、青い四角で囲った部分が、堺にあった「旧龍神・栄橋遊郭」の位置です。
手元の地図をスキャンしただけやさかい、赤鉛筆で俺自身が手書きしたのがわかると思います(笑
まあそんなことはええとして、
ここも遊郭が「堀」で囲まれとって、地形的にいかにも遊女を逃がさないためと思われがちやけど、
堺の場合は単に海の埋め立てで出島みたいなとこが作られ、偶然そこに遊郭が出来ただけらしゅーて、
「遊女を逃がさないため」というのは「(堺の)歴史を知らない人」と、地元の歴史家が堺市出版の小冊子に書いとりました。

で、何の話しとったんやったっけ?(笑 
あ、吉原の話やった。


吉原大門前

ここ「吉原大門」の交差点が吉原の入り口なんやけど、
意外なことに今の東京に「吉原」っちゅー地名は残されとりません。
戦前はここあたりは確かに「吉原」って呼ばれとったんやけど、昭和41年(1966)の住居表示変更で「吉原」が消滅、「千束」って地名になってしもて現在に至ります。
くっきりとここに吉原があったっていう、地名での名残はこの「吉原大門」交差点の名前だけやったりします。

遊郭吉原大門前

「吉原大門」の交差点から旧遊郭に入ります。
先の道がクネっと曲がっとるけど、これは江戸時代から変わらん道筋でその曲がった道の先に昔はアーケード式の「吉原大門」がありました。
せやけど、道まっすぐにしたらええのに何で曲がっとるのか?
これは俺の想像やけど、遊郭に入る客が胸躍らせながら吉原へ向かう。その「ワクワク度」を増幅させる演出ちゃうんかな?と。
現地に行ったらわかるけど、この道の曲がり具合は何か計算されとるよーな気がせんでもないんですわ。「吉原大門」交差点から遊郭の廓内は、見えそうで見えへん絶妙な曲がり方やし(笑
まああくまで俺の妄想やさかい、ホンマのとこはわからへんけどね。

吉原遊廓

その大門があった吉原の入り口に行くまでもなく、なんか「香ばしい」格子がある家を見つけました。
吉原あたりは昭和20年3月10日の東京大空襲で、遊郭の外ギリギリのとこにあった「吉原病院」以外は跡形もなく焼けたさかい、戦前の建物はないはず。
これは戦後の建物やと思います。

10062909

クネっと曲がった道を過ぎたら、「吉原大門」に辿り着きます。

明治時代の吉原大門

これは明治時代中期の吉原の大門やけど、昔の吉原遊廓の大門はちょうど俺が撮影した場所とほぼ同じ位置にあったそうで、写真の右側に見える電柱あたりやったそうですわ。
その奥にゃ昔は木造3階建ての高層の妓楼が所狭しと並んでまるで別世界、竜宮城かはたまたこの世の地獄か、この門をくぐると本格的な遊郭の世界が待っておりました。
ちなみに、その大門は鉄で出来とったさかい、太平洋戦争の資材供出で持って行かれ、そのまま復活することはあらへんかったそうな。


現在の吉原遊廓

かつて色華やかな妓楼がズラリと並んどった吉原のメインストリート「仲之町
通り」には妓楼の姿は全くなく、日本のどこにでもありそうな普通の住宅地のよーな風景です。
これだけ見たら、かつてここにホンマに日本一有名な遊郭があったんかいな?と疑問に思ってまうよーな、ごく普通の風景であります。
遊郭時代はこの道の真ん中に柳や桜が植えられた街路樹があって、桜の季節は桜、5月にったら菖蒲(あやめ)、7月と8月は灯籠飾りで華やかな雰囲気に花を添えとったそうやけど、それも取り払われて風情も何もなし、
戦前の遊廊建築は戦争で焼けて全く残ってへんとしても、これじゃ赤線時代の建物もあらへんのちゃうか?
と不安になりそうです。

せやけど、ここには確かに豪華絢爛な別世界があり、大妓楼が軒を連ねていました。
その中でも、「木造6階建て(!!)」っちゅー、我々の常識を超える建物もあったと言います。
「金瓶楼(きんぺいろう)」っちゅー明治11(1878)年に出来たのがそれで、
どうも当時の建物の写真なんかは残ってへんみたいやけど、当時を物語る浮世絵などが残されとります。

新吉原江戸町壹丁目 金瓶楼上図

「新吉原江戸町壹丁目 金瓶楼上図」
っちゅー浮世絵です。階層はわからんけど外観の一部が見えます。

新吉原江戸町壹丁目 金瓶楼上図

早稲田大学が所蔵しとってネットで公開しとる、
「新吉原江戸町壹丁目 金瓶楼上之図」(歌川芳虎作)
っちゅー浮世絵です。

金瓶楼の遊女

これは「金瓶楼」と伝えられとる遊女の写真です。
遊郭は確かに端的に言うたら「売春街」で金瓶楼みたいなとこは「売春宿」なんやけど、吉原みたいな所はちゃんとランクがあって、これくらいの格式がある妓楼で遊ぶにゃ、金はもちろんやけど遊ぶ方にもそれなりの格式と教養を持たんとあかんのがしきたりでした。


仲之町通りには何の面影もないんやけど、この「メインストリート」から一歩小道に入ったりすると・・・

赤線時代の吉原の建物

まだ残っとったりするんですわ。
これは間違いなく赤線時代からの生き残り、ここは「赤線跡を歩く」によると「モリヤ」という屋号の店やったらしゅーて、「赤線跡を歩く」の写真と比べたら建物自体はかなりボロくなっとるけどまだまだ現役そうやし、
真ん中のドアの色もなんか艶めかしい。

赤線時代の吉原の建物
赤線時代の吉原の建物

出来た当時は郊外中の郊外やった吉原も、今は郊外なんてとんでもない市街地の真ん中になっとるさかい、
都市開発の波に呑まれて建物なんて残ってへんやろなーと思っとったけど、
運がええことにまだまだ残っとったりしてました。
もうこれは説明不要なくらいの、典型的な赤線建築ですな。
玄関を囲む円柱型の柱と、道の角に向けて出っ張った窓が何とも言えませんな~。
女性が道行く男に「お兄さん、寄ってってよ♪」って声かけ用の窓やったんか?

これで思い出したんやけど、娼婦の声の掛け方が、戦前と戦後で違うかったらしゅーて、
基本的に女性自体が声をかけへんかった中~大規模の遊郭はさておき、戦前の玉の井のよーな私娼街では「兄さん」やったのが、戦後になったら前に「お」がついて「お兄さん」になったらしい。
それは何故かはわからんけど、戦後の赤線は今の風俗と似たよーなもんで、本当に生活苦とかではのーて、
「あんたは赤線で働かんでもええやん」っちゅーよーな女性まで志願で働きに来たらしいです。
例えば、戦前の玉の井の女性の学歴はせいぜい小学校卒、今の中学校に相当する高等小学校卒でさえ稀で、
「小学校三年修了」、つまり「小学校中退」さえ珍しくなかったらしい。今の高校に相当する女学校卒は、戦争未亡人以外はほとんどおらんかったとか。
大正13年(1924)に内務省警保局が全国の遊郭で働く女性48,129人から取ったデータやと、彼女らの学歴は、

尋常小学校中退:52.9%
尋常小学校卒業:28.4%
無就学:13.3%

(出典:『日本公娼史』 山本俊一著)



と、極めて教育程度が低く私娼街の女性と何ら変わらんかったことがわかります。
今は小中学校が義務教育、行かんと憲法違反になっとるさかいあり得へんけど、「無就学」、つまり学校すら行ってへんさかい学歴そのものがあらへん人もおった時代でもあります。
戦前ももちろん教育は義務なんやけど、実態はこんなもんで、「尋常小学校卒」でもお情けで卒業させてくれたって感じの程度がほとんどやったそうです。
『ものいわぬ娼妓たち』という、北海道札幌にあった白石遊廓に、昭和9年に遊廓事務所の書記として入ったある男性の回想によると、
「ほとんど(の遊女)が尋常小学校卒程度で、字も満足に書けない、自分の名前がやっとという有様でした」
だそうで、「自分の名前」も、おそらくはひらがなカタカナが関の山、漢字はビミョーやった(「無就学」はもち無理でしょ)と思います。

せやけど、戦後の赤線時代になったら、女学校卒はおろか女子大生っちゅー「大卒」まで働きに来る始末。戦前から続いとった業者でさえ「え????」と首をかしげるよーな現象が起こったらしいですわ。
戦前は自分の名前を書くのもおぼつかんかった女性の「学歴」が急に高くなって、更に田舎の農家だけやのーて都市の中流くらいのレベルの女性まで赤線で働くよーになって、
言葉づかいも「上品」になったんかいな?

また、その昔吉原へ行くことを

「トロゲンに行く」

ちゅー表現をしとったそうです。
「吉原」って堂々と言うたらバレてまうさかい、男どもの隠語で吉原を「トロゲン」と言うとったそうな。
せやけど、トロゲンって何ぞや?マグロのトロと関係あるんか?
実は「吉原」の「吉」を分解したら「土」と「ロ」で、それで「トロ」、
もうこれでおわかりでしょ?
「ゲン」は「原」の音読みやったりします。


で、赤線建築を探す散歩を続けとったら、


赤線時代の吉原の建物マスミ
赤線時代の吉原の建物マスミカフェー建築

嬉しいことに、屋号まで残っとる建物までありました♪
「マスミ」っちゅー文字が今でもくっきりと確認することができます。

赤線廃止時の吉原地図

上のは昭和33年の売防法施行寸前、つまり吉原の「遊郭」としての歴史の灯が消える寸前の赤線内の地図やけど、
地図の右上、赤い丸で囲んだとこに確かに「マスミ」が確認できます。
まさにこの建物は「歴史の生き証人」っちゅー証ですな。
いやはや、よくぞ残っててくれた!と感謝したい気分です。

戦後の赤線としての吉原は、空襲で焼けてしもた遊廓を再建したことから始まります。
っても、空襲で焼けたすぐ後に東京都と警視庁から「再建命令」が出て都からは布団などを無料支給され、海軍からは釘や資材などを無償で提供されたそうで、
特に海軍は同じ東京にあった洲崎もそうやけど、焼けた遊郭の再建に何故か資材とかを提供しとって支援しとりました。
そして終戦→戦後になり、RAAというアメリカ進駐軍専用の施設になったものの、性病が蔓延しまくったために"OFF LIMITS"、つまり「立ち入りり禁止」になってしもて、昭和21年9月に警視庁から「特殊飲食店街」の許可をもらい赤線へと移行します。
赤線スタート時の業者数は68軒、タテマエ上は「従業婦」と言われた女性の数は301人。大正末期~昭和初期の超不景気の時でも常に2000人以上はおったと言われる戦前の遊郭時代の数には全然届かへんものの、
昭和28年には業者の数が291軒、「従業婦」の数は898人に増えました。
一時は女性の数が1000人を超えたこともあったけど、最盛期はここまでで売春防止法が国会を通過してから規模はだんだん小さくなっていき、
売春防止法施行の1か月前、昭和33年2月28日の夜11時に、最後まで営業を続けとった店が一斉に明かりを消して、
かつては江戸文化、強いては日本文化の発信基地の一つでもあった吉原の数百年の歴史に幕を閉じた、
と『吉原はこんな所でございました』(福田利子著)に書かれとります。

吉原も含めて、赤線の最後の日ってどんなんやったんやろ?さぞかし盛大に華やかにフィニッシュしたんかな?
と思って色んな本を読んどったら、
意外や意外、しんみりと赤線の終わりを迎えたとこが多かったそーな。
作曲家の小林亜星は吉原最後の日に吉原に行ったらしいけど、

「男たちは津波のように押し寄せた。押せや押せやの大繁盛だった」

「仕方ないので洲崎に回ったけど、そこも二時間ほど待たされてやっと上がることが出来た」


って回想しとります。
せやけど、その日まで洲崎で働いとった人の話やと、赤線は売防法が施行されるまでもなく「死」を迎えて最後は閑古鳥が鳴いてたって回想しとって、
「鳩の街」の最後の日に女性たちと寿司を頼んで、「蛍の光」を唄いながら別れを惜しんだっちゅー作家の半藤一利も、「最後は静かなもんだった」って回想しとります。
ちなみに、半藤さんは「昭和史」とくればこの人、というくらい有名な作家やけど、赤線現役世代やったせいか赤線のこともけっこう語っとります。「鳩の街」の店の看板や値段表なんかを記念にもらって今でも部屋に飾っとるそうで、「女房は『なにこれ?』って首をかしげていますよw」と軽快に語っておられました。
俺も半藤さんの本で昭和史に目覚めた一人やさかい、一回赤線について話を聞いてみたいもんですわ。

で、どこの赤線も施行までにはほとんどの業者が廃業、もしくは旅館や飲食店なんかに転業しとって、
吉原の「最期」も、

「吉原最後の夜はまことにあっけないものでした。最後まで残った百六十軒の見世(みせ)が、いつもより少ないお客様を見送った後、11時には赤線最後の灯を、ひっそりと消したのでございます。
赤線最後の日だといって、人が大勢押しかけるでもなく、花魁たちが最後を飾るでもなく、ただ戸を閉め、灯(あかり)を消して、それでおしまいでした。
その夜、私は、気分が昂(たかぶ)っていたせいか、とても寝付けそうにありませんでした。それで外に出てみたのですが、街燈もいらないほど夜通し明るかった吉原の街ですのに、どこもかしこも真っ暗。一体ここはどこだろう、と一瞬思ったほどの変わりようでございました」

(『吉原はこんなところでございました』より)



こりゃ小林亜星の記憶違い、やっぱり「まことにあっけないもの」だったそうで、遊廓っちゅー日本の「闇」と文化発信基地やった「光」が交わった吉原350年の「死」は何か寂しいもんでした。


で、上の地図を見てちょっとおもろいことが。
『玉の井という街があった』(前田豊 著)っちゅー、玉の井のことについて書かれた本があるんやけど、
その本にこんな一節があります。

「余談になるが、おもしろいことに、どこの遊廓や娼家街でも、
昔から中央に場所を占めるのが大抵松の湯であるというのはいったいどういうわけなのであろう。」



この本によると、数々の文化人が訪れ社会現象にもなった赤線、「鳩の街」にあった銭湯も「松の湯」やったらしいけど、
吉原も地図の真ん中あたりに「松の湯」があったりしました。
吉原も例外に漏れずとは(笑

で、ちょっと話が変わって、吉原にゃ「花魁」と言われた遊女だけやのーて、
今で言うたら京都の祇園のよーな芸者も戦前までおったことは意外に知られとりません。
いわゆる「吉原芸者」は昭和初期にゃ150人、関西風で言う「揚屋」、関東で言う「引手茶屋」は40軒ほどおったそうで(『全国遊廓案内』)、
地方遊廓に行ったら体を売る芸者、「二枚鑑札」もおったけど吉原芸者は絶対に体は売らない、芸だけを売るっちゅーしきたりで、
娼妓は「体」を売り芸者は「芸」を売る、とくっきり区別されとったそうな。また当時の写真を見たら、娼妓は派手な格好をしとったのに対し、芸者は同じ和服でも地味と言うたら地味な格好、
服装での区別もどうやらあったんか!?
「やりたければあっち(貸座敷)へどうぞ」
ちゅー感じやったんやろな。
吉原の引手茶屋は大門の手前あたりに並んでたそーで、その奥が貸座敷の世界っちゅー風に、ちゃんと「世界」が別れとったそうです。
『全国遊廓案内』にも、
「娼妓を揚げるにはどうしてもどうしても貸座敷へ行かなければならない」
と書かれとるさかい、そこらへんは「堅い」っちゅーわけやったんやろな。
中には39歳で処女のまま御嫁に行った人もおったそうですわ。


吉原遊廓跡

赤線の灯は消えたけど、吉原は立派な「現役」でもあります(笑
吉原地区を串刺しするよーに走る「仲之町通り」とクロスするよーに走る通りが今でもソープ街になっとって、
朝8時やのにまだ呼び込みのおにーさんとかがおって写真も迂闊に撮られへん状態です。
「現役」の営業はこの通りしかできへんみたいで、往年の吉原のよーに区域ごと「そういう地域」っちゅーわけやないみたいでんな。
その他の所は、ごくありふれた東京の下町みたいになっとります。
せやけど、さすがは吉原、いや、東京か、呼び込みも強引やのーてなんか控え目でお上品やったりします。
「おにーさん、どうですか?」
なんか大阪とノリがちゃう。
大阪やったらもっとがめついっちゅーか強引っちゅーか、そんな感じがするんやけど、吉原は至ってお上品・・・なんかな?
しかし、せっかく声かけていただいても、
いやー、誠に遺憾ながら「そんなこと」しとる時間も金もないのよねー(笑

吉原の怪しい喫茶店

そして、吉原でよく見かけるんがこんな喫茶店。
まあ、ただの喫茶店やなさそうやな(汗
「お気軽にどうぞ」と書かれてもお気軽に入れそーにない(笑
吉原にあるこの喫茶店、見てわかるよーに普通にコーヒー飲んで終わりでは済まなさそうな感じやけど、
この「喫茶店」の存在意義は・・・まあ自分でググりなはれ。
ここでは敢えて語るまい、そもそもここはそういうのを語るブログちゃうし~(笑


で、気を取りなおして赤線探索の続きを。
吉原界隈の小道をウロウロしとったら、東京の真ん中と言うのにけっこう建物が残ってるみたいで、
それとおぼしき建物がゴロゴロしとります。これは嬉しい誤算♪

赤線時代の吉原の建物カフェー建築
赤線時代の吉原の建物カフェー建築
赤線時代の吉原の建物カフェー建築
赤線時代の吉原の建物カフェー建築

もう何も言うまい、解説不要な昔の遺物ですな~。

赤線時代の吉原の建物カフェー建築

ソープ街沿いにも、派手な建物の合間に、残り少なくなったけど典型的なカフェー建築が残っとりました。


赤線時代の吉原の建物タイル

この建物にゃ「カフェー建築の証」とも言えるタイル張りが今でもくっきり残っとって、建物自体はかなりボロくなっとるけど存在感は抜群やったりします。


赤線時代の吉原の建物カフェー建築

そして、まだ残ってるカフェー建築の中でも、とびっきりの建物がこれ。
壁の色使いもちょっと普通とちゃうけど、建物自体は前から見たらごく普通のアパート。
せやけど・・・

赤線時代の吉原の建物カフェー建築ハート型

側壁が変わった形になっとったりします。
これは今まで色んな赤線跡を渡り歩いたけど、今まで見てきた赤線時代の建物の中でいちばんのインパクトを与えたもんでした。
「赤線跡を歩く」にも載ってる建物やけど、これを本で初めて見た時「なんじゃこりゃ!?」って俺の中の「何か」がはじけたもんでした(笑
ある意味ここから俺の赤線探索人生が始まったよーなもん、その原点が目の前にありました。
そして、この側壁の形はどう見てもハート。
それだけでも「凝っとるな~」と感心してまうんやけど、
よーく見たら、色使いも三種類に分かれとって、特に「ハート」の部分はピンクっぽい感じの色。色は剥げとるけど昔は鮮やかなピンク色やったに違いない。
この建物の存在感はものすごいもんがあるさかい、
「これを見に来るだけで吉原に来る価値あり」
と言うても大袈裟やないと思います。



吉原神社

吉原の片隅にひっそりと残る神社のよーな場所です。
「新吉原」は湿地帯を埋め立てられて作られたとこなんは前に書いたけど、湿地帯やと池が多いとこでもあるさかい、吉原の周りにゃ池がたくさんんあってここにゃ「弁天池」「花園池」って呼ばれた池があったそうです。
中は住宅街とは思われへんくらいの小さな森になっとって、泉のよーな場所もあって昔は湿地帯やったんやな、ちゅー面影がわずかながら残されとりました。


10070702

で、その中にゃ大きな観音様があります。
大正12年(1923)9月1日に関東大震災って大地震が東京を襲って、ちょうど昼飯の準備しとった時に地震が起こったせいか東京中が大火事になって吉原もそれで灰になってしもたんやけど、
そん時に吉原の大門を閉じてしもてたくさんの遊女が逃げ遅れました。
周りは「お歯黒どぶ」で囲まれとるし、火はどんどん広まっていく状態。大門も閉まっとるさかい逃げるとこは近くの池しかなし。
そこで彼女らは池に飛び込んで、ここで500人近くの人が水死したそうです。
人間ってパニック状態になったら大人の腰くらいの深さの池や海でも溺れてしまうこともあるし、
(普通は腰くらいの深さやったら溺れへんけど、パニックになったら平衡感覚がなくなって溺れ死ぬことはよくあって、膝くらいの深さでも水死した大人もおるそうです)
更に数百人が集団で飛び込んだりしたら、水の中で押しつぶされて池の底でそのまま・・・ってこともあり得ることです。
この観音様は、ここで死んだ彼女たちの慰霊塔です。

その時の情景を、ある書物はこう書き記とります。

時は正午、折柄一日の事とて、昨夜来いつづけの客は、今し「お直し」になって、向かひ酒にポッと頬を染めつつ、恋ざめの気持を味わいひつつあるの時、異様凄惨の音響と共に揺れ出した大振動!さながら家は波がしらに漂ふ木片の如く激動また激動!
寝巻きのままで飛び出す客、伊達巻一つ素足の娼妓、ゆもじ一つの女!
スワ火事よと、大門さして逃げ来ればこは如何に、大門には既に多数の避難民が雪崩を打って押寄せ、蟻の這ひいづる隙もあらばこそ!
三方にある非常口から逃げ出そうとしたが、ここはとても、はや避難民でいっぱいで一杯。ただ一道の血路は、吉原病院裏から千束町への道であるが、その時早く千束町方面に起った火は、折からの烈風に煽り煽られて、黒煙渦巻く中に、メラメラと紅連の炎を吐きつつ、刻々に、蔽いかぶさってくるので、その血路は今は如何ともする事ができない。
ここに哀れなるは、逃げおくれたるもの、負傷のために身体の自由を失ったものの一群である。彼等は吉原病院から逃げ出した患者や千束一丁目方面からここに逃げ込んだ避難民と共に、最後の避難所として弁天池の周囲に群がり集まった。

降り来る火の子(ママ)に衣服を脱いで逃げまどへば、火はまたしてもゆもじに燃え移る!今ははや、如何ともなし難く、丸裸体になって、右往左往、池の周囲を狂乱の如く逃げ廻ったが、ヂリヂリヂリヂリと顔は焼ける、毛髪は焦げる。堪らなくなったか、一人二人意を決したのかザンブとばかり身を躍らせて弁天池に飛び込めば、今はこれまでなりと、周囲にあった男女一千名、我も我もと池中に飛び込んだ。
併し記憶せよ!この弁天池は、実に猫額大の池に過ぎぬのである!
そこへ一千人の人である。池面は忽ち隠れてただ見る一面の人の顔、而も泥深きこと一丈余なのであるから、岸辺にあるものは、骨も砕けよとばかり、岸辺の何物かを握りしめ、その後ろにいるものはその人の肩に手をかけ、そのまた後は岸辺に近き人の胴を力の限りだきかかへ、中央部に浮つ沈みつあるものは前の人の髪をつかんで離さない!
南妙法蓮華経、南無阿弥陀仏・・・ありとあらゆる神仏を声高く念ずる叫び!
かくて、水中にあること七八時間、火も漸(ようや)く去り、夜はしらしらと明けはなれて、幸ひに助かったもの二百人、溺死その他の死実に六百余!

『大正大震災大火災 吉原弁天池の惨』(大日本雄弁会講談社)



実は文章は一部略してあるんやけど、それでも情景が浮かびそうな地獄絵図でんな・・・。

関係ないけど、15年前の阪神淡路大震災は知ってても関東大震災はもう87年前のことやさかい知ってる人は・・・
と思いきや、灯台下暗しか御年94歳のうちのばあちゃんがはっきり覚えとって、
もう10年以上前になるけど、当時の話を聞いたことがあります。
当時は京都におったらしいけどそれはすごい揺れやって、何が起こったんか全然わからんかったそうな。
阪神淡路大震災の時ももちろん覚えとるけど、感覚的にそれ以上に揺れたと思う、って言うとって、
調べてみたら関東大震災って震源地は神奈川県やのに、400km離れた京都でも推定震度4やったらしい。
地震まことに恐るべし。
うちのばあちゃん、生きてるどころかまだまだ元気で記憶力もバッチリ、足腰は子どものオヤジや孫の俺よりしっかりしとる有様。このままやと孫の方が先に死にそうなくらいのバイタリティやさかい、今のうちに遊廓の話でも聞いておくか。

で、俺がここを訪れた時、観音様の前で尼さんがお経を唱えとりました。
周りが都会の喧騒と離れた静かなとこやったせいか、そのお経が響きわたって俺も一緒に両手を合わせて彼女らの冥福を祈っとりました。
こういうことをやっとるとお世辞にも幸せとは言われへんかった女たちの話は聞いたり本で読んだりしとるさかい、
彼女らの冥福もそうやけど、「遊廓・赤線考古学者」の俺の旅の安全と成功を祈ってて欲しいな、という気持ちもあります。
こういう「闇」も教科書には絶対に載ることはない歴史の一部、出来ればほじくり出して欲しくないかもしれへんけど、俺が調べへんかってもいずれ誰かが「発掘」すると思うし、「黒歴史」に光を当てる必要は必ず来ると思います。
なぜなら、それかて歴史やし現実にあった事実やから。それが良かろうが悪かろうが、真実から逃げたり目をそむけたらあきません。


吉原のことについては、さすがは総本山か、それ関連だけでもたくさんの本が書かれとるさかい、
これで吉原のことに興味出し始めたら本でも読んでみて下さいな。
amazon.jpで「吉原」で検索しても山ほど本が出てくるさかい。
せやさかい俺は敢えてここで語るまい。続きは書物の中にあり。





で、そのまま吉原を後にしたら・・・

吉原カフェー建築赤線

こんな建物を見つけてまいました。
旧吉原赤線内やったら「ビンゴ~!」って指さしたいくらいやけど、
これは吉原から1丁くらい離れた場所にあるもんやったりします。
どっかの本かサイトに、
「吉原の赤線区域外にもカフェー建築がある」って書いとったんが頭の片隅に残ってたさかい、
周りの界隈もちょっと歩きまわってみたら、確かにこれだけやのーて何か「怪しい」建物がチラホラと。
昭和27年くらいのある雑誌の赤線記者の座談会によると、
東京の赤線は俗に言う「特飲街」の区画が曖昧になっとって、どっからどこまでが赤線地帯かわからんよーになっとる、青線や白線(素人が呼び込みを行う街娼地帯)も含めたら「東京全体が赤線地帯になっている」とまで書かれとってある意味無法地帯、
「こりゃ遊廓(公娼)を廃止したのは間違いでしたな」と記者も呆れとる状態やったそうです。
何せリアルタイムに書かれた雑誌の記事やさかい、現実は「赤線」と言ってもそこからはみ出したとこがあったんやろな、と推測できます。
そうやと赤線の外にどっからどう見てもカフェー建築としか言いようがない建物があってもおかしくない、っちゅーことか。


ちゅーわけで、
「総本山」の参拝は以上で終わったんやけど、
都会化が過ぎて殺伐としとるはずの東京砂漠で、こんな古い建物が残ってる「オアシス」がありました。
これでもかなり壊されたらしいけど、まだまだカフェー建築博物館のよーなもんが残ってるさかい、
是非訪れてみるがよろし。

まあ、吉原は「現役」でもあるさかい、
その後で「お遊び」をするかどうかは、あなたの勝手と自由と自己責任の範囲でね(笑



~2011年1月24日 追加~

このブログの画像のダイジェスト&スライドショー版みたいな感じで、
Youtubeに動画を公開してみました。
せやけど、やっつけ仕事で適当に作ったさかい、堺龍神や鳩の街とかの時のよーな完成度は・・・(笑
さておき、「5分くらいでわかる吉原に残る赤線建築」みたいな感じでどーぞー。




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テーマ:消えた遊廓・赤線の跡を訪ねて
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コメント

■ Re: タイトルなし

>(^^)さん

はじめまして、コメントが遅くなりすみませんm(_ _)m

大阪弁で書いたので読みづらかったでしょ(笑
飛田は女性は近寄りづらいですよね~。松島ならやさしく追い返されるけど、飛田は強気のおばさんばっかしやし(笑
でも、「百番」なら大丈夫だし、現役のエリアからも外れてるので大丈夫です。あそこだけでも一見の価値ありですよ。
また、百番の近くには遊女の慰霊碑もあります。
2017/04/14 URL BEのぶ #- 

■ 

漫画の、おいらん姐さんから昔の吉原に興味が湧き、検索してるうちにこちらのブログへたどり着きました(^^) とても丁寧な文章と現在の写真か詳しく載っていて楽しく読ませていただきました(^^) 家から近いので飛田なども見学しながら歩いてみたいですが女なのでなかなか… (^_^;) お邪魔しました♪
2017/04/06 URL (^^) #- 

■ Re: 現在の吉原はこんなになっているですか、残念です

>かずさん

こんばんは、コメントおおきにですm(_ _)m
吉原は、京都の祇園みたいな和風な雰囲気を考えたら、確かに残ってません。東京大空襲で「焼き払え!」とばかりに更地にされたさかい、そりゃ仕方ありません。
せやけど、赤線時代の建物はまだ残ってるはずやし、俺が見逃したのも必ずあるはずです(こん時は時間がなかったさかい、これでも自分のカンだけを頼りにサラっと回っただけです)。
でも、地図で比較したら、吉原は中も周辺も幕末時代から何も変わってへんことがわかります。そういう意味でも面白いとこやと思います。建物がないんは今更gdgd言うても仕方ないさかい、知識を蓄えて想像力を働かせて散策したら、自分にしか見えへん光景が見えるはずです。

>飛田のようなところがあったら具合がわるいのでしょうね。

まあ、トキオだけやなくて日本中にあったら具合が悪いんですけどね(笑
いちおう売防法で禁止になってますし。これは、「悪法でも法は法」という近代的法哲学の東京に対して、「そんなんええやんか~」的に骨抜きにする、アジア的な大阪の違いやと思います。あと、大阪はソープランドが府条例で禁止ってのもあると思います。

そういう意味じゃ、飛田とか松島は、ええ悪いは別として、あの雰囲気を「文化」として残そうという心意気を感じます。

またよかったら、うちのブログに遊びに来てくださいね。
2014/07/06 URL BJのぶ #- 

■ 現在の吉原はこんなになっているですか、残念です

BJのぶ さん くわしく現在の吉原を散策し、紹介していただきありがとうございます。
当方、大阪人ですが時代小説やチャンンバラ映画が好きで、今度東京に行ったおり、吉原や深川あたりを散策してみたいと思っていましたが、吉原の面影も風景もほとんど残っていないのですね、かろうじて衣紋坂の曲がった道が残っているくらいで残念です。そレに比べれば、大阪の飛田遊郭は今も昔の面影を残しながら営業をしているとはすごいです。一度、正月に歩いてみましたが、玄関には紫の幕をはり高張提灯を掲げ、打ち水をして遣手ばあさんの横にはスポットライトに照らされて女の子が座っている。いや~情緒がありますね。東京は天皇陛下のおわすところ、外国からの国賓もたくさん来られるところ。飛田のようなところがあったら具合がわるいのでしょうね。
2014/07/03 URL かずさん #- 

■ Re: はじめまして

>ありこさん

はじめまして。コメントおおきにです。
俺も最初は建物から入ったんですけど、次第に全体的、総合的に興味を持ってきて、現在に至っとります。
「消えた遊郭・赤線跡をゆく」も、最初はそんなことばかり書いてたんですけどね。
(後で文章を改訂して、今はたぶんそんな面影はないと思いますw)
ありこさんも、調べていくと次第に「総合的」な興味に移るかもしれません!?

> 初コメントにて長々と申し訳ありません。ブログの更新、楽しみにしております。

いえいえ、初コメントで長文おおきにです。
またよろしければコメントお願いします。
ブログを書く、情報を発信する人間にとって、コメントはモチベーションアップの起爆剤やさかい。
2012/11/18 URL BJのぶ #- 

■ はじめまして

遊郭・赤線跡の記事、大変興味深く拝見させていただきました。どの記事にコメントすべきか悩んだのですが、一番最初に拝読いたしましたこの記事にて失礼いたします。

当方女性なのですが、建築に興味があり、性を売るという意味以外での遊郭・赤線時代の建物について調べておりましたところこちらのブログへたどり着きました。

私は愛知、中村遊郭のすぐ近くの生まれなので、稲本などの料亭などは子供の頃から見知っているのですが、女・子供の分際でなかなか入れるものでもなく、タイミングを逃しているうちに営業を終えてしまっておりました。

こちらのブログでは遊郭の歴史や現存する料亭など、写真と丁寧な解説が解りやすく、大変勉強になりました。
ありがとうございます。
初コメントにて長々と申し訳ありません。ブログの更新、楽しみにしております。
2012/11/15 URL ありこ #- 

■ Re: お騒がせしとります

>アベチャダさん

>モリヤさんの空き部屋ありの貼り紙がありましたが、どんな方が入居希望するのでしょうか?

うーん、どんなんでしょうね?
大阪のあいりん地区なら想像はできるんですけど(笑
でも、「期限付き」なら一回住んでみたい気もしないことはないんですけど。
2012/09/12 URL BJのぶ #- 

■ お騒がせしとります

本日、吉原を散策して、モリヤさんとマスミさんと曲線建物を見つけました。今まで、不覚にも、交番の間の道にあるお歯黒どぶにばかり気を取られていました。ついでに訂正ですが、菓子メーカーは川島じゃなくて、川喜多でした。川島は会社の迎にある赤線の名残っぽい建物でした。川喜多のクッキーは楽天でも購入できますが、会社で直接買うと安いです。台東区浅草5-56-4ですが、吉原がすぐお隣のため、会社周辺にも怪しい建物があります。そういえば、モリヤさんの空き部屋ありの貼り紙がありましたが、どんな方が入居希望するのでしょうか?
2012/09/09 URL アベチャダ #- 

■ どこやねん!

私も、浅草散策ついでに、千束通りを歩いて吉原まで出掛けたりします。川島という菓子メーカーのクッキーは美味しいから。木村聡さんの赤線跡を歩くは昔の住所で記載されているし、紹介されている建物も取り壊されている物が多くて、全部見ていないのです。絶対モリヤを見たいのですが、まだ実現していません。見たいのにい!でも、角海老の迎いの公園の一角に、お歯黒どぶの跡をみつける度に「ここは吉原だぜぇ」とワイルドモードになり、吉原炎上のオープニング曲が頭の中で鳴り出します。一部は、ソープの客引き兄さんに本を見せたら「ウチの裏手にありますよ」と細道を案内してもらったりして発見しました。
2012/09/07 URL アベチャダ #- 

■ Re: タイトルなし

Fufufuさん

コメントおおきにでしたm(_ _)m

吉原編、実はこれでも「未完成」やったりします。未完成のままほったらかしにしてしもたんですけどね(笑
吉原については新しい史料を発掘して今整理中やさかい、パート2かこの稿をage(改訂)しようかと思います。
また楽しみにしといて下さい。でも松島といいまだ書いてへんとこといい、だいぶ宿題がたまってるさかい、いつになるかわからんけど(笑
2012/08/20 URL BJのぶ #- 

■ 

吉原の昔と今をとてもわかりやすく説明してよかったです。JINのドラマの吉原遊郭は今まで地図でみても分からずじまいでした。よくわかるりぽーとでしたよ。
2012/08/18 URL Fufufu #- 

■ Re: ああ

>かずしげさん

残念ながら(?)「現代の遊廓」は資金と時間不足につき踏み入れてまへん(笑
2010/08/18 URL BJのぶ #qDfdtOiE [編集] 

■ ああ

で、千束4丁目周辺にある「現代の遊郭」突入ですね(爆)
2010/07/31 URL かずしげ #NUR8E4nQ [編集] 

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