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BEのぶ

  • Author:BEのぶ
  • 自称「ブログエッセイスト」ことBEのぶです。
    昭和史をライフワークにしていますが、平成ももうすぐ30年経ち、昭和が遠い過去になりつつあります。
    昭和も遺産・遺物を探れば立派な「考古学」となります。題して「昭和考古学」。ジャンルは遊郭・赤線跡から鉄道、そしてすっかり忘れ去られた歴史を掘る「昭和の考古学者」として、昭和の名残りを通して考察する旅を続けています。

    基本は標準語で書きますが、エッセイは大阪弁で書いていきます。

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■■■堺-乳守遊郭 消えた遊郭・赤線跡をゆく32 

                 ~まえがき~
このブログ、元々は2010年の6月にアップしたもんなんやけど、
今回地元堺市立図書館で資料を物色しとったら、かなり詳しい資料が出てきました。
普通やったら新しくブログ書いて追記するとこなんやけど、せっかく以前書いたブログ、エコな時代やさかい「資源のリサイクル」ということで、
うちのブログ始まって以来の、フルバージョンアップによる「age」とさせていただきます。
まあ、お店の改装後の「新装開店」みたいなもんと思ってくんなはれ(笑




もう数年前になるんやけど、
消えた遊廓・赤線跡を訪ねて 大阪府南部編
で大阪南部、泉州にあった貝塚と堺の遊廓・赤線の跡を歩いてみたことがあるけど、
何せ地元やし堺は何というても俺の生まれ故郷、生まれ故郷やからこそ気になる堺の遊廓・赤線。
ブログを書いた後もセコセコと調べながらコッソリブログの内容を変更して内職しとりました(笑

で、堺の遊廓は龍神とその隣の栄橋だけなんかなーと思っとったんやけど、
あれこれ深く掘り下げていったらここだけやのーて、違った場所に遊廓があることがわかりました。
その上、「もう一つ」の方が龍神・栄橋より歴史が古い遊廓やったりしました。
やっぱ「これで調査終了!」で終わらせるんやのーて、引き続き掘り下げて行ったら色々見つかるもんですわ♪

で、その「もう一つ」の遊廓とは・・・


* * *
10061901

旧龍神・栄橋遊廓より方向にして東南、ちょうど和歌山へ通じる紀州街道沿いにある

乳守(ちもり)

ちゅーとこにあった遊郭です。
「乳守」ちゅー地名は既に消えてしもとるけど、今の堺市南旅籠町東にあたる所です。
貿易港、ちゅーか港町にゃ遊廓があるんは定番言うてもええくらいなんやけど、この堺も例外やのーて、
乳守遊廓はいつ出来たんかはっきりとした資料はないんやけど、鎌倉時代から栄えたことは確かだそうです。
龍神・栄橋遊廓が出来る前は、乳守とその北にある六間町(高須町。今の北旅籠町東)が遊廓として栄えたとこで、港町でもあり熊野への詣での途中の宿場、そして住吉大社へと続く道の交差点でもあったさかいかなり繁盛しとったらしいです。
ここで、江戸時代以前には「乳守」「高須」の遊郭があったってことになるけど、
新しく出た資料によると、「高須の遊郭」は江戸時代以前は乳守遊郭のことを指しとって、乳守の北(北六間)にあった「高須遊郭」は「北の高須」「北六間」と言われとったそうです。
資料の原文を引用すると、

「俗に高須と云えば、誰しも北の高須、即ち北六間の廓のことと考えられやすいが、乳守と云うのは俗称で、
単に高須と云えば乳守を指したものである」

(『堺遊里史』河野文吉著)



ということで、のちに「乳守」が正式名称になって「高須」と言えば「北六間」の方を指すようになった、
って考えたらええと思います。

で、「新しい資料」とは堺の図書館の書庫で長い眠りについてた(?)『堺遊里史』って本で、
図書館にゃ本そのものやなくて著者の河野文吉という人物が書いた原稿のコピーが残されとります。
よって、『堺遊里史』自体の出版年月はおろか、ホンマに発行されたんかも不明です。
少なくても、ググってもamazonで検索しても一軒もヒットしませぬ。
いちおう、図書館の原稿には「昭和38.8.4受入」って書いとるさかい、恐らく昭和38年に図書館に寄贈でもされたんやろ、と勝手に推定しとります。
せやけど謎があって、昭和38年やったら戦後の赤線のことがちょっとでも書いとってもおかしくないんやけど、
乳守を含めて龍神も栄橋も赤線のことには触れず、戦前の「遊郭」で筆を止めとります。
これは何でやろ?と考えてみたところ、

1.「寄贈」されたんが昭和38年であって、書かれたのは赤線が「現役」やった頃

2.著者の興味は「遊郭」であって、赤線にゃ興味なし


のどっちかやろなと。
少なくても、堺の遊郭が戦争で跡形もなく焼けたってことまでは書いてるのと、漢字が新字体やさかい(戦前やったら旧字体のはず)、戦後に執筆されたことは確か、
河野文吉って人自体、ググってみたらどうも地元の郷土史家らしいですわ。
その人が自費出版か何かで堺の遊郭のことを書こうと思ったけど、何らかの理由で発行されず、原稿のコピーだけ寄贈されて書庫の奥深くに眠ってたってことですやろな。
前まで堺市立図書館の蔵書調べても、こんなの出てこえへんかったんやけどな・・・。
たぶん本気で出版しようとした面影はあるみたいで、このコピーは「本篇」と「資料編」に分かれとるんやけど、
今風に言うたら「堺 遊郭」でヒットした本や資料を洗いざらい参考にしとるみたいで、
遊郭を調べとる人にゃおなじみの『日本遊里史』(上村行彰著)も参考文献にしとるみたいです。
せやさかい、乳守のことも色んな方面の文献を参考にしながら延々と書かれとって、今までジモピーのクセに知らんかったことが書かれとりました。
今回の「バージョン2.0」は、『堺遊里史』に書いとったことを肉付けしてみました。


で、ここで乳守の歴史を。

「乳守」っていう、ちょっと変わった名前は、かつてここあたりにあったっちゅー「乳守神社」に由来すると言います。
応神天皇に乳を与えた神様から来ているとか、ここにあった「津守神社」を聞き間違えた女性が「乳が出ますように」と祈ったところ乳が出て「乳守」に変わったと言われとって色々説があるけど、
とにかく女性にまつわるゆえんがあることは確かみたいですな。
ちなみに、「乳守」って地名は全国に何か所かあるみたいで、やっぱり女性の「乳」にまつわる伝説があります。
そういうとこに「女性街」が出来たんは、果たして偶然なんか、それとも必然なんかは知らんけど、
大阪の遊廓を主に書いた『日本遊里史』ちゅー本にゃ、神功皇后が長門国(今の島根県ね)の女性をここに置いて五穀豊穣を祈らせ、その子孫が遊女になったって書いとって、これはあくまで伝説に過ぎへんのやけど神功皇后は戦前は常識として学校で勉強しとったレベルやさかい、
この伝説を根拠に「日本の遊女発祥の地」と戦前は言われとったそーな。
(伝説抜きの公式記録に残る「遊女発祥の地」は、確か奈良やったはず)
住吉大社の「住吉大社御田植神事」は、全国あちこちにある田植え祭りの中でも重要無形文化財に指定されとるくらい有名かつ盛大なもんやけど、
この祭りの起源は上に書いた神功皇后の伝説にまつわり、明治時代まで彼女らの「子孫」である乳守の遊女たちが行っとったそーな。
明治時代以降は大阪市内の新町の芸妓が代わりにやっとったらしいけど、なんかここまで来たら神話の世界やな。

乳守遊郭のもう一つの伝説に、
「地獄太夫」
があります。
地獄太夫は今から500年前くらいの室町時代に堺におったという遊女で、「太夫」とは遊女でも高いランクにおる、美貌もさることながら教養もあって知的な女性のことを言います。
江戸時代の遊廓での「太夫」は遊女の最高ランクのことで、相撲で言うたら横綱・大関クラスみたいなもん、容姿端麗・教養抜群、知・美共に極めた遊女しか名乗れられへんかった「称号」でもありました。
遊女は今風に言うたらフーゾク嬢やけど、「太夫」はそこらへんのモデルも指先一つでダウンさせるくらいの美貌と智謀を持った「最高級の女性」やったってことでしょう。
地獄太夫はこの乳守におったとも、北の高須の方におったとも言われて所在ははっきりせーへんのやけど、
元はある武士の娘ながら山賊に捕まって遊廓に売られ、「こうなったのも前世の因縁です」と自分の宿命を背負い、名前に「地獄」をつけて前世の罪を今の世で「返済」して、成仏して次生まれ変わったら美しい仏になりたい、と毎日念仏を唱えていたと言います。
その美貌はかなり有名になっとって、あの「一休さん」こと一休宗純禅師が彼女のウワサを聞いて諸国巡業で堺に寄った時にわざと酔いつぶれて地獄太夫を訪ねたところ、
彼女は一休さんを見て「ただものやない」と見抜いて介抱し、一休さんも彼女の美貌にビックリし、

聞きしより見ておそろしき地獄かな

と即興で句を作ったところ、

しにくる人も落ちさらめやは

と彼女も即興で返し、地獄太夫はその場で一休禅師に弟子入りしたと言います。
そして数年後、彼女は病気になって死期を悟り、一休さんも彼女の死を虫の知らせで知り駆け付け、

我れ死なば焼くな埋(うづ)むな野に捨てて
飢えたる犬の腹を肥やせよ


ちゅー辞世の句を残して、一休さんに看取られながら、短くはかない一生を終えました。
一休さんは彼女の遺志を尊重して四十九日遺体を放置し、その後荼毘に臥して泉州八木郷の久米田寺に骨を収めたと言います。
久米田寺言うたらうちの家から目と鼻の先にある寺やけど、今度お墓でも探しに行こうか。

また、ちょうど安土桃山時代から江戸時代に変わる頃、乳守遊郭をめぐる悲しい恋愛物語がありました。
時は大阪冬の陣の時、堺奉行やった芝山正親という人がおりました。
その弟の正綱は乳守の遊女「高間」と将来の結婚を誓い合う程の深い仲やったんやけど、大坂の陣で豊臣方のエリアやった堺が攻められ、市街戦になりました。
奉行の正親は豊臣方やったさかい、いざ出陣となったんやけど、目の病気を患ってて戦いの指揮を取れる状態じゃありませんでした。
そこで弟の正綱が「兄上は岸和田にでもお逃げ下さい。あとはそれがしが」と手を上げ、死を覚悟した正綱は乳守へ向かい高間に、
「万一それがしが死んだら、これで菩提を弔ってもらいたい」
とお金を渡しました。
高間は愛する男が死ににいく所、ホンマは泣いて止めるところやけど、
「ご心配なさるな。必ず菩提を弔います。安心してご出陣下さい」
と気丈に振る舞い、二人は悲しい訣別の時を迎えました。
結果、正綱は奮戦むなしく戦死、部下が彼の遺骸を高間の元まで持ってきました。
高間はそれを見て身体を落として泣き崩れたものの、気が済むまで泣くとサッと髪を下ろし、廓を出て題目堂というお寺に入り尼となり、死ぬまで愛する人の菩提を弔ったそうです。
高間がいつ亡くなったのかは、そこまで『堺遊里史』は触れとりません。

・・・なんか悲しい物語ですな。
戦争が引き裂いた悲しい男と女の物語、なんかこれを入力しとったら、映画のガンダムの挿入歌の『哀戦士』が頭の中で流れましたわ。
特に、「♪死にゆく男たちは、守るべき女たちに。戦う女たちは、愛する男たちへ。何を賭けるのか、何を残すのか I pray, pray to bring near the New Day♪」ってサビの部分が頭からこびりついて離れまへん。
正綱もおそらく高間という好きな女に「新しい時代のために生きろ」というメッセージを残したい、この歌詞のよーな気分やったんかもしれません。さすがに英語では言うてへんやろうけど(笑


そして乳守遊郭は戦争で焼けてしもて、元の場所から紀州街道沿いの昭和まで存在しとった場所に移転したそうやけど、
江戸時代以前の乳守遊廓は

「元和以前の乳守は、(中略)西の方は海を望んで高楼が立ち並び、しかもその区域が相当広かったようである」
(『堺遊里史』)



って書いてるくらいエリアが広かったそうやけど、移転後の場所はただでさえ狭苦しい所な上に今でも同じ場所にある南宗寺が移ってきたため、発展の余地がないくらい手狭な所になってしもたみたいです。

せやけど、寛文・元禄の頃(江戸時代初期)には日本中の遊廓25ヶ所のうち第12位の地位にあり、気品と教養を身につけた格式高い所やったそうです。
そのせいか、客も学者や芸術家などの知識人が好んで登楼して遊び、遊女もその影響で、

「詩文に巧なもの、又は水墨のあざやかな画を描くもの、香道茶の湯にその技をみせる遊女あり」
(『堺遊里史』)



とバラエティあふれる遊女がいっぱいおったそうです。

江戸時代の乳守には遊女に階級があったらしく、記述を表にしたら↓のとおり。

乳守遊郭

最上位には俗世間じゃ「太夫」とか「花魁」言われる最高級の遊女、上にも書いたよーに美人で器量良しなだけやのーて、頭の回転や教養も要求される「スーパー遊女」でした。
乳守じゃそれを「揚傾城」(あげけいじょう?)と呼んでたそーです。
その下に位置するのが「端傾城」(はしけいじょう?)と言われるランク。俗に「大天神」と呼ばれとったみたいで、そこは京都の島原とかと同じみたいですな。
そのまた下には「小天神」というのがおって、『堺遊里史』によると最下位ランクの「端女郎」からスタートの遊女はこの「小天神」までは器量さえよければなれるそーやけど、
それより上は「越えられへん壁」みたいなのがあったよーですわ。
記述はないんやけど、「太夫」とか「大天神」になるよーな遊女は「端女郎」からはスタートせーへんような感じでした。
たぶん、美貌がある上に頭もええさかい、シード権みたいなんがあったんかもしれませんな!?


そして、これを頭に入れておいてもらって。
『堺遊里史』には、元禄15年(1702)の遊女の名前が書かれとります。

◎木屋
太夫:くれない
大天神:八ゑざわ、とう山
小天神:れんざん、むさしの、のかぞ、さほ山、唐はし、沢むら、のもと、いづつ、とみおか、おぐるま
鹿子位:こまの助

◎南帯屋
大天神:かづさ
小天神:花むらさき、ゑにし、若むらさき
鹿子位:さど

◎北帯屋
小天神:ゑもん、玉ぎし、竹川、わかば、花月、こむらさき

◎大和屋
小天神:かうざん、くめの助、しなの

◎大和屋いんきょ
大天神:ささ山
小天神:うぢ山、かう山
かこい:さくらゐ

◎近江屋
小天神:ときは、小ぎん、かつやま、さわの、やえぎく、しばぎく、山しろ、やまと、わかさ、わかの

◎河内屋
小天神:しなの、おぐるま、とみわ、もしは、きんご



もちろん、この他にも名も書かれてへん「無級」の「端女郎」がたくさんおったことは言うまでもないんやけど、太夫は一人だけ、大天神も3人しかおりません。
また小天神はかなりの数おるさかい、やっぱ太夫とかになったら滅多に出てこえへんのやろな。


『堺遊里史』には、江戸時代の乳守の数字が書かれとりました。

元禄8年(1695):茶屋数24軒 遊女数167人

元禄17年(1704):茶屋数25軒 揚屋数8軒 遊女数147人
(※元禄17年=忠臣蔵の赤穂浪士討ち入りの2年後って書いたらわかりやすいと思います)

享保2年(1717):茶屋数17軒 揚屋数4軒 遊女数103人

享保12年(1727):茶屋数14軒 揚屋数2軒 遊女数89人
(※ちょうど暴れん坊将軍・・・やなかった、徳川吉宗の享保の改革の真っ最中の頃)

宝暦7年(1757):茶屋数9軒 揚屋数8軒 遊女数21人
(※この頃が中国の清の乾隆帝の絶頂期=清の絶頂期)



これを見てもわかるよーに、時代を経るにつれて数字的にどんどん落ち込んでいっとることがわかります。
『堺遊里史』も「宝暦の頃になると乳守は衰えを見せる」と書いてるんやけど、その原因は

1.大阪の廓が発展して客がそっちに流れた

2.廓が狭すぎて発展できへんかったこと

3.戎島に岡場所が出来た(※のちの龍神・栄橋遊廓)


としとります。
数字はないんやけど、天保13年に堺に「遊女整理令」が出て戎島の遊里がいったん整理されて盛り返すんやけど、
いったん加速がついた老化は逗まることを知らず、明治時代になって乳守遊廓が衰退する決定的事項が起こります。
明治時代になって北の高須遊廓が廃止、乳守と龍神・栄橋が明治5年2月に遊女限定地域、つまり明治政府から遊廓として引き続き認められました。
せやけど、南海鉄道(今の南海電鉄)が海沿いに線路を引き、龍神・栄橋遊廓の近くに吾妻橋駅(今の堺駅)を作ったせいで、大阪からの客が電車一本で行けるよーになり、
江戸時代の国道、紀州街道沿いにあったものの鉄道という文明の利器から見放された乳守遊廓は衰退に更に加速がついてまいました。
ここで、大阪の地理に詳しい人なら「待った~~~!!」とくるはず。
はいはいわかっとりまっせ(笑
乳守の近くには阪堺線、我々ジモピーは「チンチン電車」言うとります、が通ってるやん!
と異議を挟むでしょう。
せやけど、阪堺線と南海は輸送力が全然ちゃう上に、南海の場合は岸和田や和歌山まで開通しとるさかい、
そっち方面からの客も十分見込めるわけ。
阪堺線は大阪市方面からのみ、それも松島や大正時代に新設された飛田という、全国トップクラスの規模を持つ「化け物遊廓」があったさかい、軍配は「地の利」を得た龍神・栄橋の圧勝ってわけで。

せやけど、乳守の衰退の原因はこれだけやありません。
今じゃ海が埋め立てられて工業地帯になっとるさかい信じられへんかもしれへんけど、
戦前は堺から南の海沿いはきれいな海岸が広がっとって、遊廓に近い大浜(今の大浜公園あたり)には大阪港にある海遊館並みの巨大水族館や、海水を沸かした潮湯、そしてタカラヅカも真っ青な少女歌劇団もあった一大リゾート地でした。
今は浜寺公園から高師浜あたりにデカくて古い洋館が今でも建ってるのと、浜寺公園の松の木くらいしか面影ないけど、
夏は京阪神から海水浴客が大量に押し寄せたリゾート地の裏に遊廓という、「表リゾート」と「裏リゾート」が同居したよーな状態やったのです。
せっかくのリゾート地をもったいない、ハワイのワイキキビーチを埋め立てて工業地帯にするよーなもんやんか、
と俺は思ったりしとったんやけど、
臨海工業地帯がまだ海岸やった頃を知ってる俺のオヤジと母親に聞いてみたら、末期は海がかなり汚れとって、かろうじて夏には海水浴客はおるけど「リゾート」なんかとんでもない、オヤジは平気で泳いでたらしいけど母親は「(汚くて)泳ぐ気がなかった。あれじゃ埋め立てられてもしゃーない」状態やったそうでした。

更にこれだけやありません。
乳守遊廓は格式の高さから一見さんお断りの遊郭で、金とコネがないと寄りつけないよーな所でした。
龍神遊郭も似たようなとこやったけど、それに目をつけた栄橋遊郭の方が「一見さんいらっしゃ~い♪」と桂三枝風に言うたかは知らんけど、一見さんを吸収して大繁盛。
明治32年発行の、今の南海本線沿線の名所ガイドブックである『南海鉄道案内』には
「乳守は名のみ高くして、実際の繁昌は龍神・栄橋にあります」
と書かれとる有様。
このプライドの高さが裏目に出たのか、『堺遊里史』にも「この面でも乳守遊廓衰微の一因があったように思われる」と書かれとります。
乳守の経営者たちもこの光景にただ黙って見てたわけやなくて、いろいろ対策を考えたみたいやけど、
「これといった名案も浮かばなかった」(『堺遊里史』)そうで、衰退に身を任せるしかなかったよーです。

乳守の衰退を物語る新聞記事があります。

遊廓が近来不景気なることのかねて伝聞もして記載もしたるが、今亦(また)伝聞したる所にては、堺区(※1)南旅篭町遊廓(※2)は其不景気最も酷く、三四ヶ月以前より毎月上納する賦金皆所持金などを売却して得或いは質入れをして得たる者に係り尋常に上納する者は一戸だにあらざる程なるのみかは今は已に売却なさん品物のあらずして此上賦金を得(う)るの道なしと嘆息し居る席主娼妓多しといへり。
左(さ)れば此廓にては昨今是(この)実際を上申して賦金減額の嘆願に及ばんかとの協議中なり。

明治17年(1884)9月4日 大阪朝日新聞より

※1:堺市のこと
※2:文脈でわかるように乳守遊廓のこと



こんな記事を見たら、なんかかわいそうになってくるくらいの有様ですわな(汗

せやけど、『上方色町通』ちゅー本にゃ、
「今なおこの廓(くるわ)は繁盛している」
って書かれとるし、『全国遊廓案内』にゃ妓楼40件、女性の数400名くらいと、全国的に見たら中~大規模な遊廓として書かれとります。
たぶん、『全国遊廓案内』のこの数字は間違ってると思われ。
その前年(昭和4年)の内務省警保局の資料やと、

貸座敷:39軒
娼妓数:3人


となっとるさかい、「妓楼」の数はほぼ一致しとるけど、「女性の数400名」は芸妓の数を入れたとしてもなんぼなんでもオーバーやろ(笑
明治以降の乳守は「遊廓」って名はついてながら芸妓の街、つまり「花街」となっとったみたいで、
明治~大正時代の数字の変遷を見たら、


◎明治14年(1881)
貸座敷数:36軒
芸妓数:20人
娼妓数:33人

◎明治16年(1883)
貸座敷数:39軒
娼妓数:38人

◎明治17年(1884)
貸座敷数:33軒
娼妓数:25人

◎明治22年(1889)
貸座敷数:22軒
娼妓数:12人

◎明治36年(1903)
貸座敷数:30軒
芸妓数:36人
娼妓数:12人

◎明治40年(1907)
貸座敷数:30軒
芸妓数:57人
娼妓数:11人

◎明治44年(1911)
貸座敷数:30軒
芸妓数:45人
娼妓数:9人

◎大正5年(1916)
貸座敷数:40軒
娼妓数:5人

◎大正10年(1921)
貸座敷数:39軒
娼妓数:5人

(出典:『堺遊里史』『大阪府統計書』)



と、「遊廓」って名前やのに娼妓はほとんどおらへん状態になっとることがわかります。
まあ、その分芸妓がいっぱいおったということで、事実上遊廓って名前がついた祇園みたいな花街になって生存するしかなかったようです。

明治20年~30年くらいの貸座敷の名前と、有名やった名妓の名前が書かれとりました。
貴重かつおもろいさかい、長くなるけど載せときます。

◎泉梅席
春子(追分、相撲甚句が得意)、春松、小三、ふく、光子

◎筆亀席
おいし、しな、ゑつ、鶴吉、加代、国香、岩奴、若石、雛鶴、照吉

◎大清
一春、小新、勝子、八重吉、金時

◎大万
小六 他5~6人

◎大西家
小さん

◎梅の家
豆八 他16人

◎綿竹
米松

◎園家
子若 他5人

◎末廣家
梅松 他2人

◎笹村家
小市 他5人

◎扇家
染子(義太夫)

◎末倉
たま 他3人

◎天富
つる、つる子

◎一ノ家
照葉

(他、「住安」「志摩家」「京桝屋」「河富」「河井楼」「泉辰」)

(出典:『堺遊里史』)



明治時代には芸妓中心になった乳守は、大正時代になって第一次世界大戦の好景気によってちょっとだけ息を吹き返すんやけど、
その後はますます衰退するばかり。
業者も「こんなとこから移転してしまえ」と堺の市街地から離れて東部の北野田の大美野や南部の踞尾(つくの。今の津久野)に移転する計画もあったけど、実行される前に昭和の戦争の時代になってしまいました。

そして戦争の時代に入って堺は後述する堺の大空襲によって中心部は綺麗さっぱりって言葉がぴったりなくらい焼き尽くされ、
戦後になって龍神・栄橋は「赤線」として復活するものの、乳守は空襲で跡形もなく残らぬまま、鎌倉時代から5~600年は続いた「色街」としての歴史を誰にも知られることなく終えます。

・・・と前は書いたんやけど、確かに乳守は昭和20年7月1日の堺空襲で跡形もなく焼けてまいました。
せやけど、『堺遊里史』には興味深いことが書かれとりました。
昭和に入って時代は戦争へ、「贅沢は敵だ」の掛け声に全国の花街は営業短縮・自粛を余儀なくされました。
「花街」と化しとった乳守も例外やなく、戦争で営業どころやなくなったのかほとんど有名無実になり、具体的な年月は不明ながら、

「乳守最後の取締木村氏は、乳守の名称と廓章を、南旅篭町東三丁の石材商Y氏に譲って終わりを告げた。
それから間もなく、昭和20年7月1日の堺空襲で焼失」
(『堺遊里史』)



と書かれとります。
空襲で焼けたのは真実やけど、その前に遊廓の営業権を一般人に譲渡しとって、

乳守は空襲で焼失前に消失していた!

という新事実が発覚しました。


そして戦後になるんやけど、
「全国女性街ガイド」にも龍神のことは書いとっても乳守のことは「ち」も触れてへんし、特飲街の赤線や青線になったデータも今の時点で俺の知る限り見つかってまへん。
せやけど、遊廓としての血統(?)はあの江戸の吉原や京都の島原にも負けてへん、ちゅーかある意味優ってる乳守遊廓が戦争で焼けたくらいであっけなく消えるもんかな?と俺の中で素朴な疑問として残ったりします。
堺市街は「全滅」って言葉にふさわしいくらい綺麗さっぱり焼けてしもて、司馬遼太郎も「街道をゆく」で堺を歩いた際、
「昔の面影が何も残ってない」
と司馬流に酷評したくらい何も残ってへんさかい、当時の建物が残っているなんて100%期待できません。
まあ、これは歴史的文化財を大切にせず、戦争でも焼けへんかった建物を「都市改造」って名目でどんどん壊して、せっかくの観光資源を自ら台無しにした戦後の堺市の行政の不手際もあるけどね。堺市も後で後悔して慌てて保護しとるけどIt's too late、後悔するなら最初からするな(笑

そこで、俺は超大胆な仮説を立ててみました。
「戦後に青線みたいなモグリで細々と残ったんやないか?」
根拠は何かって?ええい、うるさい、これはあくまで仮説なんや(笑
これにゃ何の根拠も証拠もありません。龍神遊廓が戦後に何もなかったかのよーに復活したのに乳守遊廓だけがきれいさっぱり消えるのはおかしい、ちゅー希望的観測のみ。
せやけど、仮に戦後に細々とやっとっても、堺はバブルの時に古い建物がどんどんマンションやビルになってしもて、堺で生まれ育った俺もおぼろげな記憶で覚えとるさかい、
まあ何も残ってへんやろ、と収穫ゼロ上等でフィールドワークに出発しました。

乳守遊郭

旧乳守遊廓は、今の堺市堺区南旅籠町東2丁と南半町東2丁の区画にあり、チンチン電車こと阪堺線の「御陵前」駅の目の前にあります。
関係ない話やけど、この阪堺線の「御陵前」の「御陵」ってどこやねん!?もしかして昔ここあたりに古墳でもあったんか?
って小学生の時にふと疑問に思って調べてみたことがあるんやけど、どうも「御陵」ってのは仁徳天皇陵のことらしい。
せやけど、ここらへんの地理に明るい人ならピンと来るよーに、「御陵前」と実際の「御陵」って「前」どころかまともに歩いたら30分くらいかかりそうな距離…。

「どこが『前』やねん(x_x)\(-_-;)」

と小学生心にツッコミを入れた記憶があります(笑

そしてまた関係ない話なんやけど、上に書いた住所を見て「おや?」と思いませんか?
「おいおい、『南旅籠町東2丁』の間違いちゃうんか?」
とツッコミが来るかもしれへんけど、これで正解なんですわ、堺市に関しては。
普通「○○町△△丁目」が全国的な「常識」なんやけど、ここ堺市だけはこの常識が通じへん地域やったりします。
何故か堺市は最近堺市に編入した美原区(旧美原町)以外はすべて「△△丁」に統一されとるんやけど、
これは説明がややこしい上に話が脱線しまくるさかい、堺市が公式に発表しとる「丁」の謎のQ&Aでも見てくんなはれ。
これも、俺は「丁」の方が常識なんかなーと思っとったんやけど、堺の方が全国的に見て変やったことに気付いたんは堺を離れたほんの15~6年前くらいのことでした(笑

さて、また話を元に戻して。

10061903

堺市旧市街の真ん中をのんびり走る阪堺線です。
俺にとっちゃ日常の一風景に過ぎないチンチン電車やけど、こういう電車が走っとる町もだいぶ少なくなったせいか、堺に来た他の地域の人が「おお~~!」って感激するんが意外にもこれやったりします。
これもある意味堺市名物かもしれませんな~。

乳守遊郭

このチンチン電車が走る大通り沿いに、旧乳守遊廓の跡があったりします。
この交差点の角に「ブック○フ」があるんやけど、ここにゃ本を買ったり売ったりとよくお世話になっとります。
今回も色んな意味で「お世話」になりました(笑

乳守遊郭

今の旧乳守遊廓あたり界隈です。
まあ何の変哲もあらへん下町って感じになっとるさかい、
「まあ何にもあらへんやろ♪」
と気楽な気持ちで回っとりました。
そしたら・・・


乳守遊郭

うーん、何か昔にタイムスリップしたよーな長屋の列。
悪い意味で「普通の」町からちょっと歩いたら急にこんな長屋ストリート、
たぶん戦後に建てられたもんやと思うけど、それにしちゃやけに「情緒」がある感じ。
仮にこれが空襲で焼け残った建物と仮定したら、ここにあった遊廓を目の当たりに見とった「生き証人」ですやろな。


乳守遊郭

乳守にある臨江寺の中にある「乳守明神社」です。
「お乳の守り神」を祀る神社やけど、何とも小さいちゅーかかわいいちゅーか、それでも神話時代から名前に残る由緒正しい遺物やったりします。
そして、乳守に残る唯一の遊廓の面影、そして「ここにかつて遊廓があった」ちゅー唯一の歴史的証拠でもあります。
臨江寺自体も江戸時代初期に建てられたっちゅーかなり歴史が古いお寺で、
千利休の茶の湯の師匠である「茶聖」武野紹鷗の墓があったり、松尾芭蕉が立ち寄った時の句碑があったり、
遊廓抜きでも堺の歴史が凝縮されたよーな所でもあります。堺に来たらいっぺんおいで~。

まあ、ここはこんなもんやろ・・・いやもうちょっと歩こう、と歩いてみたら、

乳守遊郭

何とも「変な」建物発見。
民家にしてはおもろい建て方やなーと思うけど、これだけじゃ何とも言えませぬ・・・。

乳守遊郭

「変な」建物その2です。
今は保育園として使われとるみたいでリフォームされた跡があるけど、周りが「普通の家」やさかい何とも違和感があるっちゅーか何ちゅーか。

こ、これは・・・・期待できるかも!?
全く期待してへんかった分、歩いとるうちにウキウキして期待感が俺の中で膨張してきました(笑

乳守遊郭

「変な」建物その3なり。
カフェー建築とも言えるし、その出来そこないとも言える。何とも断定できへんけど、この家正面からは想像が出来へんくらいやけに奥行きがあって、旧赤線にあったら「はい、ビンゴ♪」と指差しそうな建物でやんす。
そして何より、玄関が二つあるのがやけに怪しい・・・。普通の民家やったらこんな玄関の作り方せーへんやろ!?

乳守遊郭

「乳守 小山」って書かれた建物です。
かなり古い建物みたいやけど、この界隈で臨江寺以外で唯一「乳守」の名前が書かれた建物です。
元料亭か?
普通やったらスルーしそーな建物なんやけど・・・

乳守遊郭

よーくこの建物を見たら、この「小山」の裏の建物と続いてることがわかります。
たぶん最近まで小料理屋か旅館か何かやったと思うんやけど、謎めいとります。

旧乳守遊廓で見つけたダウトな建物はこれだけ、旧遊廓にあるよーな格子付きの建物なんかは全くなしやったけど、
俺の何の根拠もあらへん仮説の「点」がいくつか見つかったよーな気がしないでもないです。俺のカンはそう申してます。せやけどそのカンはよく外れるのよね~(笑
それが「線」になるかどうか、そしてホンマになるんかどーかは今後の研究に期待するしかないけど、
これらの建物がそういう「遺跡」であることを祈ります。ちゅーかそうであって欲しい、という希望論やけどね、現時点では。

こんな「謎」の締めくくりをしつつ、乳守編を終わります。


・・・と前回はここで終わったんやけど、
今回発覚した新事実を分析した結果は、

俺の仮説は大ハズレ

っちゅーこと(笑
『堺遊里史』には、どうも乳守が空襲で焼けた後復活したとか何とかのことは全く書かれておらず、
「遊廓」はおろか「花街」としてもフェニックスのように復興することなく静かに歴史の幕を閉じたみたいですな。
残念ながら、俺の仮説は見事に外れてしもたみたいで _| ̄|○


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テーマ:消えた遊廓・赤線の跡を訪ねて
ジャンル:ブログ

コメント

■ Re: 堺在住

>しんさん

コメントおおきにです。

> 堺出身・堺在住で
> いろいろ昔の面白いなと検索しながらこちらのサイトにたどり着きました。
> もうご存知かもしれませんが
> 昔の写真の中に、乳守遊郭の写真があったので、URLはっておきます。
>
> https://www.lib-sakai.jp/kyoudo/archive/03_kosyashin/kosyashin.html

ご紹介おおきにです。
堺市立図書館のアーカイブは見たけど、これは見逃してました(笑
またの参考にさせていただきますね。
2017/04/01 URL BJのぶ #- 

■ 堺在住

堺出身・堺在住で
いろいろ昔の面白いなと検索しながらこちらのサイトにたどり着きました。
もうご存知かもしれませんが
昔の写真の中に、乳守遊郭の写真があったので、URLはっておきます。

https://www.lib-sakai.jp/kyoudo/archive/03_kosyashin/kosyashin.html
2017/03/14 URL しん #vQU5PwVA [編集] 

■ Re: No title

>今さん

はじめまして。コメントおおきにですm(_ _)m

> 先祖は大和屋をしていました。祖父の時代に置屋をやめてしまったようです。
> たくさんの写真があるのでこれからひも解いていきたいです。
> 先祖を知るうえで貴重な情報を拝見できありがとうございました。

お家に資料や写真が残ってるんですね~。こちらも一度見てみたいです。興味ない人にとっっちゃただの古い写真やけど、見る人が見たらすごく貴重なもんが写ってたりもします。
また見終わったら感想でもお聞かせ下さい。
2015/08/10 URL BJのぶ #- 

■ No title

先祖は大和屋をしていました。祖父の時代に置屋をやめてしまったようです。
たくさんの写真があるのでこれからひも解いていきたいです。
先祖を知るうえで貴重な情報を拝見できありがとうございました。
2015/08/09 URL 今 #- 

■ Re: タイトルなし

>元フィールドワーカーさん

> すみません!2と3を間違えました。
> 「変な建物その2」の現在保育所になっている建物が乳守温泉の跡です。乳守温泉の建物が取り壊されてから新しく建てられたものです。ややこしくしてしまってすみません。

なるほど、あの怪しい保育所が銭湯の跡やったんですね~。おおきにでしたm(_ _)m
ほな、銭湯らしきあの「変な建物その3」は何やったか覚えてはりますか?
2014/07/25 URL BJのぶ #- 

■ 管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます
2014/07/23   # 

■ 

すみません!2と3を間違えました。
「変な建物その2」の現在保育所になっている建物が乳守温泉の跡です。乳守温泉の建物が取り壊されてから新しく建てられたものです。ややこしくしてしまってすみません。
2014/07/21 URL 元フィールドワーカー #- 

■ Re: タイトルなし

>元フィールドワーカーさん

はじめまして、うちのブログにコメントおおきにですm(_ _)m


> 「変な建物その3」が乳守温泉の跡です。

おおきにです!やっぱし銭湯でしたね。他にも情報があったさかい、これで「謎」が解決しました。
80年代まであったってことは、廃業してそんなに時が経ってへんってことですね。


> 昔にタイムスリップしたような長屋は、堺の大空襲で焼け残った建物です。

やっぱし!乳守界隈でもあそこだけは、雰囲気というか流れてる空気が全く違っとりました。こんなん(?)をライフワークにしとると、独特の勘が生まれてくるもんですけど、自分の勘はまんざらやないなーと再確認しました(笑
2014/07/21 URL BJのぶ #- 

■ 

はじめまして。

実家がその近辺です。
両親が持ってきてくれたそのあたりにある和菓子屋の紙袋の古い地図に「乳守明神社」と書いてあったので、そんなものあっただろうかと、検索してここにたどり着きました。

「変な建物その3」が乳守温泉の跡です。
小さい頃(おそらく80年代前半)に連れて行ってもらったことがあります。
昔にタイムスリップしたような長屋は、堺の大空襲で焼け残った建物です。
2014/07/19 URL 元フィールドワーカー #- 

■ Re: タイトルなし

>ライムライトさん

懐かしい写真ばかりなので、またノスタルジックな写真をアップしていただければ有難いです。
またよろしくお願い致します。
2014/06/23 URL BJのぶ #- 

■ 

BJのぶ様

返事が遅くなり申し訳ありません。
フォト蔵での写真、ご覧いただきありがとうございました。
あまりにローカルかつマイナーな内容の写真ばかりなので、興味を示してしてくださる方は本当に少ない状況ですが、以後も継続してアップしていく予定です。
お時間お暇がある時に、またお越しいただけたら幸いです。
2014/04/24 URL ライムライト #6mhiDe5. [編集] 

■ Re: タイトルなし

>ライムライトさん

はじめまして、うちのブログにコメントおおきにですm(_ _)m

乳守温泉はじめ、貴重な写真の数々興味深く拝見させていただきました。
温泉やけど、形は似てるけどなんか違うかな・・・という感じもしたりします。
ライムライトさんの写真とじっくり比べてみたら、
1.入り口のタイルがない
2.乳守温泉の写真は建物が道から奥まったところにあるけど、俺が見たのは道沿いにある
という点が引っかかってます。果たして真実や如何に!?って感じですね、謎は深まります。

そして、写真を拝見させていただくと、自分もジモピーなだけに、なんだか懐かしいなーと思う写真が数多くありました。
ミノルタの工場は確かにありました。俺がリアルタイムで見たわけやないですけど、オヤジと母親が働いててここで出会って結婚して、今俺がいますから(笑
オヤジはずっとミノルタのカメラを持ってたくらい愛着があったそうで、堺に工場なんかあったっけ?と思ってたんですけど、写真で見るんは初めてです。今度実家に帰った時、オヤジと母親に見せてやろーかと思ってます(^o^)

また、鉄分豊富なんで(笑)、南海電車の写真も貴重な写真ですね~。
住吉大社(住江公園)駅と住ノ江駅が高架じゃなかったのは、俺も新鮮でした。

あと、龍神遊廓跡の写真も拝見させていただきました。
あそこはバブルの頃まで建物がかなり残ってたそうですけど、今はほとんど残ってませんね。もし龍神界隈の写真が残っていたら、もっとアップしていただきたいと思います。うちのブログで紹介しますさかいに。

ではでは、また写真をじっくり拝見させていただいて、しばしノスタルジックな気分に浸りたいと思います(笑
2014/04/06 URL BJのぶ #- 

■ 

BJのぶ様
はじめまして。

私、フォト蔵という写真SNSに、亡父が撮った昔の堺の風景等を載せている者です。
閲覧者はあまりいらっしゃらないようですが(笑)

先日載せた写真の中に、乳守温泉という銭湯の写真があり、ここについてネットでいろいろ調べている内に、BJのぶ様のこのブログにたどりつきました。
そこで写真の解説欄に、このブログのURLを紹介させていただきました。
以下のURLでご覧いただけます。
http://photozou.jp/photo/show/3062419/201051102

BJのぶ様の調査、研究のお役に立てれば幸いです。
2014/04/06 URL ライムライト #6mhiDe5. [編集] 

■ 管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます
2013/06/22   # 

■ Re: 私の回想

>鉄安さん

はじめまして、コメントおおきにですm(_ _)m

貴重な記憶のコメント、まことにおおきにです。
昭和32年頃ということは、乳守は戦後は赤線(または青線)としては復活しなかったって確たる証拠ですね。
これで、本文に書いた俺の仮説が見事に外れたことが証明されました(笑
しかし、これでスッキリしたことも確かです。

もしよろしければ、戦後の乳守の様子も思い出す限りコメントorメールしていただければ幸いです。
乳守の「その後」を番外編として書けそうな気もするさかいに。
また、戦前の乳守遊廓の貴重な写真を堺市立図書館で発掘してきたさかい、「番外編」で載せたいなーと思います。
2013/06/18 URL BJのぶ #- 

■ 私の回想

初めまして。

乳守湯の経営者は、写真にある小山さんらしいです。
遊郭は知りませんでしたが、亡き父から芸者の置屋が
あったのは聞きました。
戦前に、置屋に紅白の饅頭をよく配達に行ったとの事です。

私も子供頃、乳守湯と映画館 チモリ劇場 にはよく行きました。

昭和32年頃です。
2013/05/31 URL 鉄安 #BejLOGbQ [編集] 

■ 「竜神小唄」を知ってますか?

①一度 お越しよ 龍神乳守
 昔ゃ 異国の船が来た
 ヤレコノ 船が来た
②青い港の 天竺徳兵衛
 乳守きっての 伊達男
 ヤレコノ 伊達男
③夏はお越しよ 大浜夜市
 時雨男七 魚尽くし
 ヤレコノ 魚尽くし
実は、民謡を教えていて、この唄の意味を探していくうちにこのサイトにたどり着きました。
歌舞伎にも出てくる天竺徳兵衛は、兵庫高砂の塩商人の息子で、どうも乳守に住んでいたようです。インドまでの貿易船に乗った彼ですから、江戸初期には相当な羽振りの男だったらしいですね。
2012/11/24 URL 天竺徳兵衛 #- 

■ Re: 初めまして

>八十川さん

はじめまして、コメントおおきにです(^^)

> ここで述べられている場所の近くに2軒の銭湯があり、「変な建物その3」はひょっとして昔行ったことのある銭湯の跡では?と。

ああ、言われてみれば形が銭湯に似てますね(汗)
銭湯やったら入り口が2つあるのも不思議やないですし・・・修行不足です(笑
堺市の図書館に行って、昔の地図を発掘してきて白黒はっきりつけてきますわ。
2012/05/08 URL BJのぶ #- 

■ 初めまして

私は昭和40年あたりまで堺市堺区少林寺町に住んでいた者です。
昔のことが懐かしくなって「乳守湯」という銭湯を探してこのサイトにたどり着きました。
ここで述べられている場所の近くに2軒の銭湯があり、「変な建物その3」はひょっとして昔行ったことのある銭湯の跡では?と。
ちなみにもう一件南宗寺前にも銭湯がありました。
2012/04/28 URL 八十川 #AO45lShQ [編集] 

■ Re: 傾城傾国

>難波のやっちゃん

日付を見たら1ヶ月もレス放置状態でした、すんまへんm(__)m


> 傾城(けいせい)傾国は歌舞伎・狂言・文楽などで見聞きしますが、今回太夫・花魁同様遊女の最上級階級名として初めて読みました。

吉原も、江戸時代は太夫を「傾城」と言うとったみたいで、太夫はご存知の通り京都の島原、大阪の新町風の言い方やったみたいですね。

> 堺市戦災図で見ると宿院を中心に広範囲に焼失してますが、乳守遊郭隣接の南宗寺一帯は焼けていないようですね。

なるほど、堺は「きれいさっぱり」と思ってたさかい、時間があったら堺市の戦災地図でも調べてこようと思います。
これでまた何かわかるかもしれへんさかい(^^)
2012/03/11 URL BJのぶ #qDfdtOiE [編集] 

■ 傾城傾国

 こんばんは 興味深く拝見させて頂きました。
資料集め特に各地図書館での交渉振り敬服しております。

傾城(けいせい)傾国は歌舞伎・狂言・文楽などで見聞きしますが、今回太夫・花魁同様遊女の最上級階級名として初めて読みました。

堺市戦災図で見ると宿院を中心に広範囲に焼失してますが、乳守遊郭隣接の南宗寺一帯は焼けていないようですね。

2012/02/11 URL 難波のやっちゃん #x7SNgv4U [編集] 

■ 管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます
2012/01/13   # 

■ Re: こんばんは

>北河内さん

コメントおおきにですm(__)m

なるほど、昭和58年やったら俺が思いっきり生きてる時代のことですね~。
俺は龍神遊郭と乳守の間くらいの街の生まれやさかい、もしかして芸者さんはおったんかな?
料亭らしき店は確かにありましたし。
乳守も、もうちょっとほじくったら何か新しいもんが出てくるかもしれませんね!?
2011/12/20 URL BJのぶ #qDfdtOiE [編集] 

■ こんばんは

私が乳守の事を調べるきっかけになったのは
どこかのサイトにありました「諸国遊所見立値段附」をみてからなんです。

戦前の堺生まれの父や伯父に「龍神」事は聞いてて知ったいましたが「乳守」の事は知らなくて、調べ始めたのがきっかけです。

ちなみに、昭和58年の住宅地図では、「髪結床」さんを確認していますので、その系統の方は別にして、芸者さんは存在(年齢不詳!)した可能性は残っています。また「乳守温泉」なる銭湯は、20年くらい前に廃業したそうで、今はマンションに変わっていました。(近くの写真屋さんで教えてもらいました。)
2011/12/03 URL 北河内 #JalddpaA [編集] 

■ Re: 参考になりました。

>北河内さん

コメントおおきにですm(__)m
北河内さんも遊廓のことを調べてはるんですか?
乳守の資料は堺の図書館で係員煽ったらもっと出てくるかもしれへんけど、
とりあえずはこれで弾切れです(笑
「乳守温泉」の名前は初めて聞きました。俺はここらへんの地元なんですけど、俺が生まれる前か小さい頃にはもうなくなってたんかな?
2011/10/25 URL BJのぶ #- 

■ 参考になりました。

乳守遊郭の事を調べていましたら
こちらに辿り着きました。

深いところまで調べておいでで、とても参考になりました。

今はなくなっていますが、「乳守温泉」なる銭湯が「南旅籠町東2丁」にあったそうです。
それと、南半町の郵便局の近くには「山之口橋派出所」があったそうですよ。
(どちらも古い住宅地図で確認済み)
2011/10/20 URL 北河内 #JalddpaA [編集] 

■ Re: 河内長野の新地知ってますか

>掛川のすずもとさん

コメントおおきにです。
実は河内長野は前に探索済みやったりします(笑

http://parupuntenobu.blog17.fc2.com/blog-entry-747.html
2010/08/18 URL BJのぶ #qDfdtOiE [編集] 

■ 河内長野の新地知ってますか

河内長野新地にいったことありますか
今でも置屋さんの跡とか
かつていたその筋の人の家とかまだかなりよくのこっていますよ
2010/08/03 URL 掛川のすずもと #- 

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