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BEのぶ

  • Author:BEのぶ
  • 自称「ブログエッセイスト」ことBEのぶです。
    昭和史をライフワークにしていますが、平成ももうすぐ30年経ち、昭和が遠い過去になりつつあります。
    昭和も遺産・遺物を探れば立派な「考古学」となります。題して「昭和考古学」。ジャンルは遊郭・赤線跡から鉄道、そしてすっかり忘れ去られた歴史を掘る「昭和の考古学者」として、昭和の名残りを通して考察する旅を続けています。

    基本は標準語で書きますが、エッセイは大阪弁で書いていきます。

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■■■武蔵新田の赤線跡をゆく 消えた遊郭・赤線跡を訪ねて8

さて、番外編が続いたとこでようやく「本編」です。
せやけど、関東遠征の第一の目的はあくまで『全国女性街ガイド』のGETやさかい、
「本編」って書いときながら実は「ついで」っちゅー、なんか「クレタ人はみんな嘘つきだ、とクレタ人が言った」って感じの方便かもしれませんな(笑
せやけど、せっかくトキオまで来たのにどこも回れへん、ちゅーのももったいないさかい、
時間が許す限り何か所か旧赤線の場所を回ってきました。

前回書いた日本近代文学館から武蔵新田ちゅーとこに向かったんはええんやけど、
それまでが実は大変でした(笑
東京の地理、というか交通網を、昔どっかであったテレビ番組やないけど「知ってるつもり」やった俺、
京王井の頭線で渋谷まで戻って、目的地に向かって東急電鉄に乗って・・・。
北千住から乗った半蔵門線から直通する田園都市線から切符を買ったんはええんやけど、
切符を買った後に路線図を見て気づきました。

「東横線から乗った方が早いんやん!」

せやけど時すでに遅し、英語で言うたらIt's too late.
「田園都市線の渋谷駅」で買った切符は「東横線渋谷駅」じゃ使用不可、と切符売り場に書いとるのに気付きました。
そして、払い戻そうとして駅員に言うたらあっさり「ノー」を突き付けられてまいました_| ̄|○
ええい、トキオの鉄道はケチやな、間違って買った切符くらい払い戻させてくれよ~。
大阪で言うたら、地下鉄御堂筋線の天王寺駅で買った切符が、谷町線の改札口に通らん、ってことやん。
っちゅーか、同じ鉄道会社やのにややこしいったらありゃしない。
・・・と田舎者丸出しのまま、仕方なしに田園都市線に乗って「遠回り」しました。
田園都市線→大井町線→東横線→多摩川線
とホンマやったら1回でええ乗換を3回もやって無駄な時間を使った挙句、


武蔵新田駅

やっと目的地の「武蔵新田」に到着・・・。しんどかった(笑
* * *
武蔵新田は、東急多摩川線が都心の中のローカル線みたいな感じの、ええ意味でのんびりした路線やったせいもあってか、同じ東京都やのに都会の喧騒から離れたローカルな下町って感じの所です。
こんなとこに赤線があったんか?と思ってまうよーなとこやけど、
確かにかつてここにゃ赤線が存在しとりました。
昔の遊廊とか花街系は、遊廊は特に当時の街の中心部から隔離されたよーなとこにあって、行政などによって強制も含めた移動されたとこも多かったさかい、
「○○新地」とかいう名前がつくことが多かったんやけど、
それがそのまま地名になって、遊廊や赤線が消えてしもても今でも全国各地に残ってることが多くて、それが消えた遊廊・赤線を「発掘」するのに絶好のヒントになったりします。
また、「○○新地」が出来た当時の町外れだった、ということも地理学の視点から見たら推定することも出来ます。
たとえ、今「新地」が街のど真ん中にあってもね。
例えば、大阪で言うたら「曽根崎新地」「北新地」なんかがええ例で、
今はめちゃ繁華街になっとるものの江戸時代~明治時代は梅田は「埋田」(読みは「うめた」)ちゅー地名で郊外中の郊外、墓場や処刑場があったとこでもありました。
今の繁華街ぶりを見たら信じられへんと思うけど、昔はそーやったんですわ。
もちろん「新地」も例外はあるけど、そないな視点で地元を見てみたら新しい発見があるかもしれませんで~。

せやさかい、「武蔵新田」もさいしょは「むさししんでん」って読んどったんやけど、どーやら読みは「むさしにった」みたい。
そのままやん、深読みした俺がアホでした(笑

まあそんなことはさておき、
武蔵新田に「赤線」が出来たんは終戦間近の昭和20年7月なんやけど、その前身は今の羽田空港近くにあった穴守遊廊でした。
その穴守遊廊も、ルーツは2年前に回ったかの洲崎遊廊なんやけど、洲崎は昭和18年10月に海軍の命令で軍需工場の工員の寮になり、業者も戦争中いうこともあって言うことを聞いたんやけど、
その一部の業者が穴守に移転して「遊廊」を形成したものの、そこも羽田飛行場(今の羽田空港ね)の拡張で立ち退き命令を食らい、
その代わりに、と移動したのが武蔵新田、ちゅーわけです。
ここは軍需工場で働く工員の「慰安」のために作られたんやけど、最初は元々そこにあったアパート1棟、女性30人程度でスタート。
せやけど仕事帰りの工員で毎日満員御礼やったらしゅーて、たちまちパンクして拡張計画もあったけどそのまま終戦になりました。
せやけど、戦争中は食糧も乏しくて相当ひもじかったと思うけど、そういう欲は関係あらへんのねん、と思いましたわ。人間の原点の欲、「食欲」「睡眠欲」「性欲」は不滅です、ってやつか(笑
そして、RAAちゅー米軍相手の慰安所を経てそのまま「特殊飲食店街」、つまり赤線になって昭和33年の売春防止法で廃止になるまで続きました。

武蔵新田の赤線跡

「武蔵新田赤線」は、今のスーパーマルエツの裏側、赤いとこで塗りつぶした部分にあったんやけど、
今でも確かにGoogle mapとかで見たら、周囲と比べて明らかに区画が違って「あやしい」のがわかります。
旧遊廊・赤線がどこにあったか、ちゅーのは史料探しの他にこういう「発掘」の仕方もあって、周りの地形と比べて明らかに不自然ちゅーか何ちゅーか、「何か匂う」区画があったりします。
そして調べたら・・・なるほどね・・・ちゅーことも、実はこういうのを探しとったら何回かあったりしました。

そして武蔵新田のもう一つの特徴は、範囲がやたら狭いこと。
地図見ても旧赤線やった区域が狭いな~って思うかもしれへんけど、実際に行ってみたらもっと狭い。
ぶっちゃけ、インスタントラーメン作ってる時間で一回りできるくらいの大きさですわ。
もうちょっと大きいやろ、と深読みしてもうちょっと広い範囲で回ってみてもやっぱ違うみたいでしたわ。
そんなとこに、

「カフェー街の角地には組合事務所の「新田会館」があり、定期的な性病の検診も行われていた。
働いている女性は女工からの転身組が多く、20代の若い女性が揃っていた。客は沿線の工場労働者が多かった。
営業用の建物は大きなアパート3棟が使われ、それぞれ第一、第二、第三クラブと称し、外観にタイルをはめ込んだ壁が特徴だった。全体で10軒ほどが集中していた」
(『花街・色街・艶な街』より)


ちゅーから、他の赤線と比べても外観が「独特」なだけやのーて、相当「人口密度」が濃かったと思われ。当時は業者38軒、女性の数も120名はおったと言われとります。
この武蔵新田は同じ東京にあった「東京パレス」と同じよーな「アパート式赤線」の走りみたいなもんで、これは後の赤線にも影響を与えて、今でもアパートとかマンションが「そういうとこ」になっとるとこがあるけど、
武蔵新田はその元祖と言えるとこでもありました。
せやけど、昭和30年になったら上に書かれたアパートは取り壊されて、
「独立家屋70軒と新しくなり、女性の数も170名ほどに飛躍を示した」
(『全国女性街ガイド』)

とあるよーに、区域は広がってないながら「バージョンアップ」しとります。パチンコで言うたら「新装開店」ってやつか?
また、武蔵新田は昔からあった遊廊とはまた歴史がちゃうせいか、陰湿な因習とかものーて
「伝統もないから至って自由」(『全国女性街ガイド』)
と自由時間に客と「恋愛」してそのまま結婚して足を洗う女性も多かったとか。
そのせいか、女性の出入りが激しいらしゅーて、
「放浪性の高い彼女達のことだから今日居ても明日居ない不同性に富んでいる実際」
とリアルタイムにここに「赤線」があった昭和25年の雑誌にも書かれとります。
また、
「女給はおしなべて明朗な楽天型が多く、美人競演といふよりは少々オカメでも情が深い」
とも書かれとって、

”新田女は親切者よ ほどのよささについ惚れる”

ちゅー、ここの赤線の女性を唄った俗歌も紹介されとります。
リアルタイムな時代の雑誌の記述やさかい、やけにリアリティがあっておもろい。
せやけど、「情が深い」って一体どんなんやったんやろな?今の風俗を考えてみても想像できへんな・・・とふと思ったりもしました。

で、色々調べてみたら、「武蔵新田カフェー街開業の祖」とも言うべき人物にぶちあたりました。
その名は長谷川康氏。
もちろん、wikipediaに載ってるような有名人やないんやけど、武蔵新田はその長谷川氏がある会社の社員寮を買い取って内部をリフォームして大きい「アパート式赤線」を作り上げたそうなんやけど、
その場所は今のマルエツの敷地で、マルエツの敷地がそのまま長谷川氏経営のカフェーで隣には自宅があったそうな。それだけでもかなり大きかったことがわかります。
長谷川氏は東京の赤線の経営者の中じゃかなりの有力者で、武蔵新田の組合長はもちろん、「東京都カフェー料理喫茶組合連合会」の幹事長も兼ねとったということが昭和32年の年賀状に残っとります。
ちゅーことは、長谷川氏はカフェー街の創設からずっと武蔵新田に君臨し続けたボスやったわけですな。
また、『玉の井 色街の社会と暮らし』ちゅー本に武蔵新田のことがチラリと書いとって、当時武蔵新田の交番の巡査しとった警察官の回想がこの本に書かれとります。
それによると、カフェーの経営者はごく普通の人たちでヤクザまがいとかそういう人たちではなく、真面目で堅実な経営者だったそうな。
むしろ、武蔵新田カフェー街最初の頃は、ゴロツキと化した朝鮮人が傷害事件を起こしたりして治安が悪く、終戦直後というのと、道路状況が悪く警察署から応援が来るまで1時間以上かかっていたことから、かなり無法的な行為をしていてかなり手を焼いたそうです。
せやけど、警察も人員を増やしたり警察署が武蔵新田近くに新設されたことから朝鮮人の暴動も治まり、昭和24年には月に1回酔っ払いが騒ぐ程度になって平和そのものだったそうです。
もちろん、その巡査が武蔵新田に勤務しとったという昭和23~27年の間、凶悪事件は記憶にないそーで、1回だけ殺人事件の犯人を捕まえたことがあったものの、それは別の場所で殺人を犯した犯人が武蔵新田に逃げ込んだだけのことだったそうな。
で、こんなエピソードを書いとる『玉の井 色街の社会と暮らし』は、メインはもちろん「魔窟」と呼ばれた玉の井のことやけど、赤線の実情を知るええ教材やさかい、赤線に興味がある人は必読の書でっせ、ちょっと高いけど買う価値は★★★★★であります。


さて、肝腎の赤線時代の建物なんやけど、
ここに来る前に事前に他サイトで調べてみたら、どうも当時の建物はほとんど残ってへんらしゅーて、何ともネガティブな情報ばっかし。
『赤線跡を歩く』を見たら色とりどりのタイル張りの建物が残っとったらしいけど、それらはほとんど壊されてマンションになっとるとか。
で、実際行ってみたら、狭い区画に所狭しとマンションが建てられとって、時既に遅し・・・。
せやけど、それでも他の人が見逃しとる建物があるに違いない!
とくまなく回ってみたら、

武蔵新田の赤線跡

武蔵新田の赤線跡

やっと一軒・・・って感じでしたわ。
これは建物の特徴からしても、タイルは張ってへんけど紛れもなく赤線時代の建物、傍目から見たらただの文化住宅っぽいけど、作りがなんかちゃうし、やっぱ「オーラ」が違う(笑
そして、諦めずに探してみたら、



武蔵新田の赤線跡

何とも「香ばしい」家を発見。
せやけど、これだけやったらまだ「当確」にゃ至りません。ちょいと裏側を拝見とばかりに覗いてみたら、

武蔵新田の赤線跡

やっぱ何か「ぁゃすぃ」。やけに裏側の奥行きがあるし、普通の家にしちゃこの石の「装飾」は何ぞや?
それ以前に、外壁の色の使い方からして何か悪趣味・・・いや失礼、ちょっと不自然。
って感じで、これもたぶん「ビンゴ」でしょうな。
そしてこの家、さりげなく「3階建て」なんやけど、3階部分はたぶん後で建て増ししたんやろなって感じです。

結局、ダウトも含めて俺が認定した「赤線建築」はこの2軒のみ。
他は完全に、どこにでもあるマンションに変わっとりましたわ、トホホ。
まあ、これだけは建物の老朽化とか街自体の都市化、そしてこの武蔵新田は立地条件がええさかい旧赤線の建物が消えて行くペースも速かったんやと思うさかい仕方ない言うたら仕方ない、
別に建物が重要文化財になっとるわけちゃうさかい、いつ壊されても文句は言われへん、俺の脚が一歩も二歩も遅かっただけ言うわけで。
そういう意味でも「遊廊・赤線考古学者」に休息の時間はなし、1日1分1秒との戦いやったりもするんですな。
時代の変わりぶりと1日が24時間しかあらへんっちゅーことを恨みつつ、そしてそんなことにもめげず、
俺は次の目的地へ向かいます。


~おまけ~

武蔵新田の赤線跡

赤線探索を切り上げて武蔵新田駅に帰る途中、
こんなオタク・・・やなかった、お宅を見つけました。
門が邪魔で見にくいけど、なかなか立派な邸宅のよーですな!
これは遊廊とも赤線とも全く関係あらへん建物やけど、実はこういう建物も好きな俺、平屋やけど洋風で恐らく見た目昭和初期あたりに建てられたもんやと思います。
うーん、こういう家に住んでみたいな、1億円くらい寄付してくれる人がおったらええんやけど・・・宝くじ当てるか(笑


~おまけのおまけ~

武蔵新田の赤線跡ゲームセンター

武蔵新田駅の商店街で見つけた、昔ながらのゲーム機です。
今10代の人にゃ、これが何かすらわからんかも!?(笑
昔、俺が幼稚園とか小学校の時代にゃ、駄菓子屋にゃ必ず言うてええほどあったビデオゲーム機、
当時はNINTENDO DSはおろかファミコンすらあらへんかったさかい、よくこういうゲーム機で遊んどって小遣いスッカラカンにして親に怒られたもんですわ(笑
こういうのも「時代の遺物」になって消えつつあるけど、友達数人でこういうゲーム機を囲んでワイワイやって、時にはゲームする順番を巡ってケンカしとった時代がある意味懐かしい、あの頃の純粋な(?)俺はどこへ行ってしもたんやろ?いつから俺の心は汚れてしまったのか?(笑
もう「はるか昔」になってしまいつつある記憶の片隅にあるノスタルジックな一風景でございました。
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テーマ:雑記
ジャンル:ブログ

コメント

■ Re: タイトルなし

>たくみさん

コメントが遅くなって申し訳ありませんm(_ _)m

情報おおきにでした。
ということは、武蔵新田は全滅って感じですかね?
残念ですけど、これも時代の流れですね。
2014/06/23 URL BJのぶ #- 

■ 

こんにちは
今日現地を見てきました。昔の建物はなくなっていました。
ストリートビューも撮影時期が変わり、その路地は削除されています。
これから行ってみようかと思われた方はそのおつもりで。
2014/05/04 URL たくみ #mbwhQQ6o [編集] 

■ Re: タイトルなし

>たくみさん

コメントおおきにですm(_ _)m
そして、返事が遅くなってすんませんm(_ _)m

武蔵新田・・・また懐かしいブログを見つけてくれました(笑
「写真集|昭和の肖像《町》」、ちょっと週末に図書館にでも・・・と思ったら、全部貸出中でした(笑
空いてる図書館があったら、チェックしてみますわ。
情報おおきにでした~。
2014/03/05 URL BJのぶ #- 

■ 

こんばんは
小沢昭一著「写真集|昭和の肖像《町》」筑摩書房(2013.12.10)の151ページに1972年当時のその一角の写真があります。背景のイソダメタルの工場と多摩川線に掛かる高圧線の4脚の櫓からそこと分かります。福田ビルの路地を入ったところをマルエツの上から撮ったアングルです。グーグルのストリートビューでみると、2軒が当時の外壁を残して映っています。
30~40年前の記憶だと、武蔵新田駅から下丸子駅に向かって左側の線路傍の一角にもカフェー風の趣のある家がありました。
2014/02/14 URL たくみ #mbwhQQ6o [編集] 

■ Re: えっ

>たけぴょんさん

コメントおおきにです♪

> えっ そんな記載ありましたっけ。

確かにありましたね。最初は「ウッソーン!?」と思いましたし。

> 地下鉄の切符のことでは、、、。

もしかしてこれかもしれへんかったですけど、細かいところまでは覚えてないですね~。
駅員にもきっぱり、「注意書き見てへん貴様が悪い」的にケンホロで断られてキレかけたことははっきり覚えてます(笑
2013/06/19 URL BJのぶ #- 

■ えっ

>「田園都市線の渋谷駅」で買った切符は「東横線渋谷駅」じゃ使用不可

えっ そんな記載ありましたっけ。
平気で使えてましたけど。
地下鉄の切符のことでは、、、。
払い戻しを断られたという事は駅員も、、、。

自動改札使えなければ駅員にパッと見せれば、、。
2013/05/25 URL たけぴょん #- 

■ Re: 訂正お願いします

>遊廊亭さん

ご指摘おおきにです。
いつも「遊郭」「遊廓」って変換しとるつもりやったんですけど、ちょっと「遊廊」が混ざってたみたいですね。
文章を見なおして訂正させていただきます。
2011/10/03 URL BJのぶ #qDfdtOiE [編集] 

■ 訂正お願いします

標題と文中に遊廊=赤線的な表現が有りますが
ゆうかく=遊廓もしくは遊郭の字を使います。
訂正お願いします。
2011/09/30 URL 遊廊亭 #wfhjfIwA [編集] 

■ Re: タイトルなし

>たかさん

コメントおおきにですm(__)m
本文にも書いてるけど、違う本に武蔵新田の交番に勤務しとった元警察官の回想が書いてて、
武蔵新田の赤線は凶悪犯罪もほとんどない平和なとこやったそうで、ほとんどやることもなかったそーです。
逆に、同じく角に交番があった玉の井の赤線はけっこう治安が悪かったみたいでした。

>  ちょっと羨ましい時代です。

赤線時代を経験しとる人いわく、当時は堂々と行けたそうで「赤線行って何が悪い」的な感じやったそーです。
昭和史のエキスパートの作家の半藤一利や漫画家の加藤芳郎も「隠れて行かないといけない今の若者は非常にかわいそうだ」と書いとります。
俺も、今の赤線街に「お泊り」があったらハマってたかもしれません(笑
2011/07/24 URL BJのぶ #qDfdtOiE [編集] 

■ Re: タイトルなし

>NAOさん

コメントおおきにです。
返事が遅れてすんませんm(__)m

赤線時代の建物自体は、平成になってからもけっこう残ってたみたいですけど、
ほとんど綺麗サッパリになってまいましたね。
確かに、こういうのは赤線がなくなった後は意識して見ないとわからんとこはありますね。
俺も大阪の堺の赤線近くが実家で、小学校の時は旧赤線地帯をしょっちゅう通ってたはずやのに・・・って感じです。
「福田ビル」・・・さすがにそこまで見る余裕なかったです(笑
2011/07/24 URL BJのぶ #qDfdtOiE [編集] 

■ 

私も新田生まれの新田育ちです。
小学生の頃、その場所にはバーや赤線家業の方々は飲み屋に転業されたようで、
写真にあるような壁や細かな黒いタイル張りの建物がお店になっていたと思います。

子供にもここは他と違う空気が流れているのを察し、その話を親にすると、
あそこは行っちゃ駄目だと言っていました。

マルエツはその昔にはサンコーという名前で開店しました。
その向かいには当時ワンロンという名前の中華料理屋がりましたが、
その店は赤線があった頃、交番だったそうです。
赤線の角に交番があると、何だか安心して遊べそうですよね。 
 ちょっと羨ましい時代です。
2011/07/23 URL たか #- 

■ 

生まれも育ちも武蔵新田です。
僕で4代目になります。
ウチの親がS18生まれなんで、赤線のことはもちろん知っていたでしょうが、僕が知ったのは高校生くらいのときかな・・・その頃にはもう面影はほとんどなくなっていました。
ところでマップ内の赤線区域の際に「福田ビル」ってあるでしょう?
ここ、モー娘。初期メンバーの実家ですよ。
引退後もしばらく実家にいたようで何回か見かけました。今もいるんかな?
ちなみに実家はスナックで、娘が店の手伝いに出ることもあったそうです。
2011/06/21 URL NAO #- 

■ Re: タイトルなし

>あいさん

コメントおおきにですm(__)m
戦前の遊廓と違い、赤線はあまり知られていない上に資料も意外に少ないので、
(まだ武蔵新田は東京にあった分知られてはいるのですが、地方に行くと何の資料も残ってないことが多いです)
赤線廃止後しばらくして住んだ方にはわからんかもしれません。

> 駅名の由来は新地等とは関係なく、
> 近くにある新田神社から来ております。
> ご祭神が新田義貞の次男、新田義興という武将です。

これは後で知ったんですけど、何せこういうことを調べとると、「新」に過剰反応してまうんです(笑
(遊廓や赤線がった所は「新地」などの地名が多いので)
2010/12/04 URL BJのぶ #qDfdtOiE [編集] 

■ 

武蔵新田に住んでおります。
赤線があったとは知らず、興味深く読ませて頂きました。
実際に歩いてみると本当に狭いところですね。
駅名の由来は新地等とは関係なく、
近くにある新田神社から来ております。
ご祭神が新田義貞の次男、新田義興という武将です。
2010/12/02 URL あい #tHX44QXM [編集] 

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