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BEのぶ

  • Author:BEのぶ
  • 自称「ブログエッセイスト」ことBEのぶです。
    昭和史をライフワークにしていますが、平成ももうすぐ30年経ち、昭和が遠い過去になりつつあります。
    昭和も遺産・遺物を探れば立派な「考古学」となります。題して「昭和考古学」。ジャンルは遊郭・赤線跡から鉄道、そしてすっかり忘れ去られた歴史を掘る「昭和の考古学者」として、昭和の名残りを通して考察する旅を続けています。

    基本は標準語で書きますが、エッセイは大阪弁で書いていきます。

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■■■河内長野をゆく 消えた遊郭・赤線跡を訪ねて7

さて、コツコツと続けとる「遊廊・赤線跡を訪ねる旅」、お次は河内長野編です。
河内長野は大阪の南部、和歌山県とはもう目と鼻の先、かつては爪楊枝の全国的な産地として有名なところでした。
ってこれは現在進行形か?河内長野市民の方ごめんなさい。
まあそれはさておき、その河内長野にかつて遊廊があったことは意外と知られてません。
俺も、どこでどういう風に情報を仕入れたんかわからへんけど、
(はて、マジでどこで仕入れたんやろか?忘れちゃいましたw)
とにかく河内長野に遊廊があったことは事実。
どーやら今はほとんど当時の建物が残ってへんらしいけど、
とりあえず、せっかく同じ大阪府内やさかい行ってみるかー!
と向かってみました。

せやけど・・・「行くぞー!」って決意した日に限って何故か雨(笑
俺は昔から雨男、自称「雨将軍」やけど、ここぞとばかりに雨ばっかし降るってちょっと憂鬱。
とにかく雨天強行突破で行ってみたものの、雨は止むどころか強くなるばかり。
途中、和泉市に出来た道の駅で様子を見たけど、
「こりゃあかん、雨が強すぎるな」
と引き返そうと思った時、雨が少し弱くなったような気がしました。
よし!と気分を入れ替えて河内長野行きを強行した結果、駅に着いた時にゃちょうど雨が止んでまいました。
おお、OH MY GOD♪
やっぱし普段日頃の行いがええと最後にゃ神様が微笑んでくれるみたいで(笑

090528 1

旧長野遊廊があったとこは、今の河内長野駅の東口の石川沿いにあったよーでした。
近くに車を止め、河内長野駅東口から旧遊廊へと向かいます。
河内長野駅は南海電鉄と近鉄が合流する駅やけど、よー考えたらこんなとこにまで近鉄が来とるんやな、と妙に感心してまいました。
で、そんなことで感心しとる場合やない、さっさとGO。

* * *
新たな資料を探しとったら、『大阪府統計書』に河内長野のことがチラリと載ってたりしとりました。
もちろん、統計書やさかい数字しかないんやけどね。
『大阪府統計書』には、大正13年(1924)にはじめて「長野」の名前が出てきます。
これは遊廓やのーて、芸者遊びをする「花街」としてなんやけど、「(河内)長野に花街があった」ってことだけで具体的な数字は不明です。
具体的な数字が出てくるんは昭和9年(1934)からで、

昭和9年  芸妓13人
昭和10年 芸妓18人
昭和11年 芸妓12人
昭和12年 芸妓8人
昭和13年 芸妓12人
昭和14年 芸妓12人
昭和15年 芸妓8人


という風になっとります。
数字だけで分析すると、「花街」にしちゃこじんまりしとるな、って感じなんやけど、
確かに戦後赤線になった住吉や港新地などは芸妓数三ケタやさかい、河内長野は「知る人ぞ知る」みたいな隠れゾーンやったんかもしれません。
で、戦後の大阪の花街は、軒並み赤線に昇格というか変化というか、とにかく赤線になったとこが多いんやけど、
河内長野は大阪府や大阪府警の資料によると「青線」に分類されとって、「モグリ」のとこやったようですわ。
また、戦後の松島新地が発行しとった『松島たより』という、言うなれば学校新聞みたいな内輪の新聞によると、河内長野はやっぱし青線に分類されとりました。
『松島たより』によると、昭和29年8月当時(『松島たより』発行当時は「現役」やったさかい、「現在」と書かれとります)には、”28軒61人”と具体的な数字が表示されとりました。


090528 2

ちょうど河内長野駅の東側を流れる石川って川です。
雨のせいで水が濁流みたいになっとったけど、普段はちょっときれいそうな川です。
この画像の奥に見える、青い橋が・・・


090528 3

黄金橋という橋です。
この橋自体は、今は鉄筋作りになってどうやら最近作られたみたいやけど、昔は吊り橋みたいな感じで旧長野遊廊の入口やったんやろなーと思いますわ。

090528 4

「旧長野遊廊にはほとんど当時の建物はない」
って情報やったけど、いざ行ってみたらホンマにタダの住宅街に・・・_| ̄|○
あかん、遅かったか。まあしゃーないか、と奥に進んで見たら・・・


090528 5

うーん、臭う臭うぞ・・・( ̄ー ̄)
この光景を見た瞬間、長年(?)の俺の勘がそうささやきました。

090528 6

手前の建物からして、これは旧遊廊建築かどーかは断定できへんけど、
まあ、少なくても間違いなく当時からの建物やと思いますわ。

そして、更に奥へ進むと・・・


090528 7

これは「奥ゆかしい」かつ「香ばしい」建物が残ってました。
家にある丸い格子窓がまたええ感じで♪

090528 7

この丸い特徴的な格子窓がある建物の横にある階段を上ってみたら、
建物どころか雰囲気すら多少は残しとるような感じがします。
ここだけ時代から取り残されたような感覚を感じました。
昔の遊女や客はこの階段を上り下りしとったんでしょうかね?

090528 8

この階段の奥にゃまだ更に建物があるんやけど、
建物同士をつなぐ「渡り廊下」の下に勝手口があったりします。
どーやらここにゃもう人は住んでへんみたいで、建物にゃ少々崩壊の跡が見られるけど、
こういう建物をリフォームかつ保存して後世に残してみたいもんですわ。
黙って崩壊を待つにゃ、あまりにもったいなさすぎる。
宝くじ3億円当たらへんかな?それか俺に3億円寄付して(笑

090528 9

そして、方向を変えて石川沿いの、今は整理されて遊歩道みたいになっとる細い道を進んでいったら、
こんな建物が見つかりました。
これは現役で誰かさんが住んではる家みたいで、この角度から見たら何の変哲もあらへん家やけど、

090528 10

反対側から見たらこのとおり!
まさしくダウトでしょうな、これは。
画像じゃわからんけど、建物から「オーラ」が出とります。
旧遊廊・赤線跡を何回か歩いとったら、建物自体が自己主張みたいに「オーラ」を放っとることがあって、俺もそれを度々感じ取ることがあるんやけど、
ここもそこのうちの一つでした。
現役で住居みたいやさかい、保存状態は至って良好みたいでひと安心。
で、この時道で若いおねーさんとすれ違いました。
平日の昼間のせいか、旧長野遊廊界隈を歩いててもほとんど人気があらへんかったんやけど、
今回唯一会った「人」でした。
せやけど、平日の昼間から人が通ることあらへんよーな道をおねーさんが一人で歩くなんて、
おにーさん声かけちゃうぞ(笑
ってのは冗談やけど、やけに化粧臭くて「その気」の人かなーと思ったりもしました。
それか旅館で働いとる人なんかな?
一人で勝手に抱えた謎は深まるばかりです。

090528 11

これは、上の画像の裏側にあった建物で、旧長野遊廊唯一のコンクリート造りの建物です。
まあ、一見タダのオンボロビルって感じなんやけど、この入口の妙な意味不明の門構えといい、やけに「臭う」建物でもありました。
それ以前に、何でこんなとこに鉄筋コンクリートの建物が?ちゅー素朴な疑問が。
俺の勘やと間違いなく旧遊廊のカフェー系の建物やったんやと思いますわ。

もうちょっと探索したかったんやけど、
ここからまた雨が降ってきてひどくなってきたさかい、今回の河内長野探索はこれにて断念。
また新たな発見があることを祈りつつ、今回のブログを締めくくることにします。

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テーマ:雑記
ジャンル:ブログ

コメント

■ 

私の現在36歳なんですが子供の頃車で石川沿いを走るとやり手ババアが呼び込みしていた記憶があります。おそらく1990年くらいまで長野新地はあったんだと思うのですが
2017/05/16 URL 名を名乗れアホ #- 

■ 管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます
2015/02/22   # 

■ 管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます
2014/11/25   # 

■ 

長野新地があった場所は大正初期まで極楽寺温泉という温泉街で、1908年開業の長野遊園地ともども大変賑わっていたと言われています。しかし当時温泉権利を所有していた極楽寺が源泉を閉鎖すると同時に温泉街は衰退していきました。
その後の1933年長野新地計画で「民家や商店街から隔たった」と言われているところを見るに、大方は廃業していたのかもしれません。
1960年には観光協会が極楽寺より源泉の権利譲渡のうえ、周辺を「長野温泉」と銘打って温泉街を再興させようとしました。当時は楠翠閣、八重、河鹿荘、尾花、宝亭、三陽荘、青柳に配管供給されていたそうです。

ちなみに近鉄が延伸したのは、郡役場だった富田林を凌駕するほどに賑わっていた三日市村の錦渓温泉の影響もあるそうです。
2014/10/11 URL てぃお #1PPlai5g [編集] 

■ Re: タイトルなし

>朝汐さん

まいど貴重な資料をおおきにですm(_ _)m

長野新地が出来たのは1933年って書いてありますけど、昭和5年(1930)の大阪府統計書には、名前だけですけど長野新地が出てくるんですよね。
(名前だけやさかい、統計書のクセして数字はありませんw)
もしかして、(河内)長野には昔からカフェー・料理店が散らばってて、それが集約されて「長野新地」になったんが1933年ってことですね、朝汐さんの資料を見ると。
せやけど、カフェーが集まってるところなら、大阪市の此花区にもあったんですよね。「新地」とは書いてないけど。
「長野新地」のカフェー街が、一体何をして、何のために集約されたかですね。「河内の玉の井」的なとこやったんですかね?
2014/07/25 URL BJのぶ #- 

■ 

●長野新地の生まれたのは、1933年の都市計画法にもとずくもので、用途地域として『住宅・商業・工業・遊園地』四地区に分けられ(内務省)、カフェ歓楽街長野新地としてデビューしたそうです。


●カフエを集めて長野新地(1933年4月9日大阪朝日新聞)
南河内郡長野町内のカフエおよび関係業を長野遊園地に集めて新歓楽郷を建設せんとする全国でも珍しいカフエ指定街の工事は予定よりも遅れていたがいよいよこのほど着手された。

場所は遊園地の渓流に臨む景勝、民家や商店街から隔たった理想的の別天地で地均しも地割りもすみ、まづ最初の十四軒を新築中である。

町と歓楽街をつなぐ架橋二つの内一橋も竣工
こゝ一・二ヶ月中に新名物「長野新地」もいそいそと新装をこらしてデビューする。

現在長野町内に散在するカフエおよび料理店は約35軒、毎月ふえる一方だがこれからが順次「長野新地」に移ることによって町民のカフエ苦情も解消される。

※いずれも河内長野の郷土研究誌からです。


●BJのぶさん“大正楼”の御回答ありがとうございました。

2014/07/22 URL 朝汐 #XCzn5wNQ [編集] 

■ Re: タイトルなし

>よーいちさん

はじめまして、うちのブログにコメントおおきにですm(_ _)m

河内長野はしばらく行ってへんけど、あそこあたりは何だかんだで駅前やさかい、これから開発が進むかもしれません。夏休みにもう一回探索に行こうかなと思います。
レポートおおきにでした。
2014/07/21 URL BJのぶ #- 

■ 

今日、行ってきました!
スナック古都のて前にあったはずの建物は既に無くなり
新しく住宅となっておりました。

あとは健在です!
2014/07/15 URL よーいち #- 

■ Re: タイトルなし

>ラッコさん

しばらくコメント放置で申し訳ありませんm(_ _)m

サイトのURLおおきにです。
ちょっと長野新地のことがわかったような気がしました。
2014/06/23 URL BJのぶ #- 

■ 

http://www.plzosk.jp/hotel/kawachinaganoso.html

こんにちは。またまた投稿です。4月の河内長野市広報に、市制60周年の冊子が入っており、昔のあの当たりの絵葉書が載っていました。「錦水楼」という建物が写っていて、明治44年~昭和初期頃とあります。
「錦水楼」で検索してみますと上記のサイトがありましたので貼っておきます。

上記のサイトに名前が上がっている「河鹿荘」は、同級生の実家で、私が小学生くらいの時は、まだ営業していました。
2014/04/07 URL ラッコ #frUh5rcM [編集] 

■ Re: タイトルなし

>ラッコさん

はじめまして、コメントおおきにですm(_ _)m

河内長野のあそこは、やっぱ「新地」と呼ばれとったわけですね。
これで河内長野は「クロ」なのは確定ですけど、問題は河内長野の新地がいつ頃出来たのかですね。
自分が発掘した新資料で、戦前には存在しとったことはわかってるんですけど、遊廓もどきの「モグリ」やったのかは定かじゃありません。

また、何か思い出したよーなことがあったら、遠慮なくコメントして下さい。
2014/04/05 URL BJのぶ #- 

■ 

はじめまして
昨日、大和郡山の川本楼がイベントで内部入れたので行ってきて、もう少し詳しく知りたいと思ってこちらのブログにたどりつきました。
そうして、興味深く読み進めていくうちに「河内長野」のことが!!
私が子供の頃河内長野に越してきたとき、駅の裏手は「新地」と呼ばれていて、子供は近づいてはいけないところでした。
飲み屋さん、旅館、そして組関連の事務所などあつたようです。抗争の発砲事件もありました。
イズミヤが出来てから、駅の裏手を通るようになりましたが行く道筋には、遊郭のような建物が多く残っていて、地下牢のようなところが見えていたのも覚えています。

昔は、「汐ノ宮温泉」があって近鉄はそこを活性化しようと線路を延ばしたとも聞いていますが、今は精神化系の温泉病院があるだけけですが。

本当に、丹念に調べ上げられた内容のブログで感心しました。
更新を楽しみにしております
2014/03/09 URL ラッコ #frUh5rcM [編集] 

■ Re: タイトルなし

>mihoさん

はじめまして。うちのブログにコメントおおきにですm(__)m

なるほど、昔はあの橋を渡る前からあったんですね!?
木造3階建てとかなら、あの立地条件的に花街だったかもしれませんね。
どうも戦前の大阪府の資料をあさっていたら、河内長野は「花街」(芸者などがいる所)として登録されてたようなのですが、
まあ裏では・・・って感じでしょう(笑
(実際、「遊廓作る」と言ったら反対運動が起きるので、「芸者がいる旅館街作ります」というタテマエで遊廓を作ることは実際にありました)

昔話とは言え、貴重なお話おおきにでした。
河内長野はホンマ資料が少なすぎなので、伝聞でもおぼろげな記憶でも「歴史的資料」になることがあるので。
2011/09/20 URL BJのぶ #qDfdtOiE [編集] 

■ 

初めまして。

偶然、「河内長野」と「遊郭」の名前を目にして
懐かしく読ませていただきました。(^_^;)
私は今は九州在住なのですけど、30年ほど前、その沿線に住んでおりました。
毎週のように石川に遊びにいっていたので、そのあたりのことは今も鮮明に記憶しています。
駅を降りて川沿いを行くと、今のように住宅があるわけでもなく、ただずーーっと廃屋が立ち並んでいました。
3階か4階建てくらいのいわゆる遊郭跡ですね。
(そこが遊郭だったというのは後に知ったのですが)
切り立った岩沿いにへばりつくように朽ちた建物が並んでいたのが、子供心にも不気味で魅力的でした。
今面影が残っている橋を渡った方だけではなく、スーパーイズ○ヤ?の近くまでありましたよ。
でも私は何故だかそういう場所が好きで、そこに行くのがめちゃめちゃ好きだという変な子供でした(笑)
いつの間にか壊されてしまい、高校生の頃はもうなかったですね。
ただ橋を渡ったあたりにいかにも・・といったスナックや小料理屋はまだたくさんあって、友達と昼間にたらたら歩き回り、ちょっと怖い思いをしたこともありました(^^ゞ 
なんだか好きな場所でしたので懐かしくもあり、ついつい書き込んでしまいました。 

長々と失礼しました。
2011/09/14 URL miho #LPbGJ9wA [編集] 

■ Re: 追伸 訂正

>掛川のすずもとさん

いつも情報おおきにですm(__)m

河内長野、情報らしい情報がほとんどない分、掘ったら出てくる事実が全部「新事実」ばかりでやり甲斐がありそうですね。
スナックの中は見せてもらったんですか?
俺も頼んでみようかな?(笑

また何か情報ありましたらお願いします。
ブログで追記として書いてみます。
2011/08/30 URL BJのぶ #qDfdtOiE [編集] 

■ 追伸 訂正

すいません 八重別館の専属スナック×小雪→○小町でした。 ここは今はすでに閉店していますが 八重の旅館と中では渡りの廊下でつながっていて 今でも中はスナックのカウンターがあってその当時 スナック専属の女性が座ってお客を待ってた椅子なんかが当時のままのこってます。
2011/08/25 URL 掛川のすずもと #- 

■ 長野新地新情報

拝啓のぶ様 おかわり有りませんか? さて私この度夏休みを利用しまして長野新地を再訪しまして僅かなからも新たに入手した情報をご報告します。さて、すなっく古都 をご存知かと思いますがここは三陽荘「みはるそう」の専属のスナックこれは建物の一部となっているためすぐわかると思います 八重別館 スナック小雪 これはすぐ今現在確認がとれると思います さてそこで実際に働いていた女性の方々ですがあまり古い時代は不明ですか 戦後から消滅するまでは 意外にもお金に困った素人の人達が結構働いていたそうです 居酒屋?「ニューニッカ」のマスター談 今でいうならやっぱ飛田とか松島でアルバイトみたいに働いている子と基本的には同じような感覚みたい 戦後すぐはほんのすぐそばにアメリカの進駐軍が駐屯していて今の信太山みたいな感じだったそうです それと近鉄の駅のすぐしたの通りのどこかに置屋さんがあったみたい屋号などは確認できませんでした それではまた何か新しい情報ありましらご報告します。

2011/08/20 URL すずもと #- 

■ Re: Re: Re: ●1972年の成人雑誌より

>朝汐さん

まあ、恐らくはモグリでやってたんやと思います。
もちろん、当事者に直接聞いても否定するだけやと思いますけど。
1回目の探索の時に道端で出会った「女性」、最初は考えすぎかなーと思ったんやけど、
もしかしてもしかするかも!?
旅館はまだ生きてるさかい、ちょっと泊まってみてジャブかけてみたい気分もないことはないです(汗
季節仲居については、長谷寺のことは話にも聞いたことあるし、資料にもあるさかい今度名張遊廓跡を探索してみるついでに現地探索にでも出かけてきます!?
2010/09/21 URL BJのぶ #- 

■ Re: Re: ●1972年の成人雑誌より

これは 『週刊事件探訪』 (1972年)と言う
成人雑誌にあった記事です。

当然、実用記事(?) なんで
売春防止法完全施行(1958年)後の
内容やと思てます。

雑誌が雑誌なだけに
100% 鵜呑みにするんはできませんが
おそらくヤッテはったんでしょうね・・・・

なお、河内長野は、特集のアナ場報告で、
千葉栄町、横須賀安浦、蒲郡三谷温泉、
京都宮川町、神戸三ノ宮と、
いっしょに紹介されてました。

長野新地 ・・・・
亡くなる前に、一回、行ってみたかったです。
もちろん見学に・・・・!?

※季節仲居の存在については、
  他の雑誌等にも載ってます。
2010/09/15 URL 朝汐 #GsbZZxQM [編集] 

■ Re: ●1972年の成人雑誌より

>朝潮さん

貴重かつ生々しい引用おおきにです(笑
せやけど、1972年ってことは、売防法施行後もモグリやったってことですかね?それともこのレポートは売防法施行前のもんですか?
もうちょっと河内長野のことを深く調べてみる必要がありそうですね。次の休みにちょいと聞き込みしてみます。
2010/09/11 URL BJのぶ #qDfdtOiE [編集] 

■ ●1972年の成人雑誌より

ここには元赤線の長野新地があり、
川に沿って転業組の飲屋が20軒ばかりある。

“こつまなんきん”で知られたタコツボ女性が4・5人、
宵の口からキャアキャア嬌声を発している。

バーは『京美』『ますみ』『夕亀』『大陸』等があり、
飲屋では『想い出』『あづま』『一五夜』など。

どの店もイッパツ用のオンナが2・3人いて、
マツタケ狩りに精を出している。

以前は店の2階へ誘っていたが、
取締りがうるさいとかで
最近では店外デートの形をとっている。

ここで面白く遊ぼうと思ったら
10時を過ぎて行くとよい。

河内長野はマツタケの産地としても有名で、
マツタケ狩りのお客も多い、

そうしたお客を迎えるため、
『八重』『山陽荘』といった料亭も3・4軒ある。

この種の料亭には季節仲居と呼ばれる女中さんがいる。
マツタケの季節には河内長野、
牡丹のころは長谷寺というように、
季節によってあちこち渡り歩く女たちである。

こういう料亭に入り、スキヤキなどに舌づつみを打ちながら
季節仲居さんを口説いてごらん。
驚くほど簡単にOKする。

「今夜お泊りになって、仕事が終ってからお伺いするわ」
そう言って彼女は部屋を出て行く・・・・・・
2010/09/07 URL 朝汐 #tqLTDvik [編集] 

■ Re: ちゃりで調査行ってきました。

>たーばじろさん

わざわざ調査おおきにですm(__)m
あんなとこに場違いな(?)建物は正直謎やったんですけど、これで謎が一つ解けて「真実」が見えてきました。
改めて御礼申し上げます。
せやけど、色々調べてみると今までわからんかったことがわかって面白いでしょ?
遊郭・赤線調査はこういう「点」を集めていく作業でもあります。時にゃ気が遠くなる作業やさかい、俺一人の作業じゃ人生何回あっても足りへんくらいですけど、ジグソーパズルみたいに一つのピースがハマったらこれほどの快感はありません(笑
俺の遊郭・赤線を訪ねる旅はたぶん死ぬまで続くと思うさかい、またよかったらお願いしますm(__)m
2010/09/03 URL BJのぶ #qDfdtOiE [編集] 

■ Re: 知らなかったです!

>みかんさん

はじめまして。コメントおおきにですm(__)m

コンクリートの建物は正直謎やったんですけど、続きのたーばじろーさんのコメントにあるよーに、
ある種の雑居ビルやったみたいですね。
俺が行った時は全く人が住んでいる気配がなかったですね。雑草ボーボーの完全放置プレイ状態でした。
2010/09/03 URL BJのぶ #qDfdtOiE [編集] 

■ ちゃりで調査行ってきました。

えーと、あのコンクリートの建物は上のほうが「ペットビューティー」と言うトリミング屋です。オーラが出てる建物は最近まで売り出してましたが、買い手が付いて今は人が住んでいるようです。
で、その近辺を昔の住宅地図で確認しましたところ・・・
小さいスナックが平成元年までいっぱいあって、その中にやくざ事務所(3代目土井組)がありました。恐らくそこが仕切っていたのでしょう。
2010/09/02 URL たばじーろ #pUTIaFV. [編集] 

■ 知らなかったです!

私は地元のものですがあのコンクリートの建物は不思議でしかたないです。人は住んでいないのでしょうか?
2010/08/30 URL みかん #- 

■ Re: 八重別館について

>旧河内長野料理組合員さん

貴重なコメントおおきにです。
河内長野は後の調査によると、警察からは私娼旅館街、つまり戦後でいう「青線」としてマークされとったことが警察や大阪府の資料でわかるのですが、
なにぶん資料や証言が非常に少ないので我々も推定でものを言うしかない有様だったりします。
いただいたコメントを参照に、河内長野の再調査に行ってみようかと思います。
またご意見をいただければ幸いです。
2010/08/18 URL BJのぶ #qDfdtOiE [編集] 

■ 八重別館について

旧新地内にある八重別館はたぶん もと芸者なんかがお座敷にあがったりしたんじゃないかと勝手におもってますゎ
別館自体は純粋の旅館だたらしいけど入り口のすぐわきに小料理屋なんて小さい居酒屋づくりの待合室みたいなのがあったり今はやってないけどスナック古都とかあったりして今でも以外とその当時を偲ばせるものがのこってます
更に石段を登ったとこにある山陽荘は元置屋のあとかなにかだったんでしょうか勝手な思い込みはいけないし迷惑に思う人もいるかも知れないので禁物ですが
河内長野新地自体は昭和8年に出来て平成になってもしばらくは続いてたらしく河内長野公園のなかの売店のおばちゃんなんかその当時のこといろいろ知ってるみたい
2010/08/04 URL 旧河内長野料理組合員 #- 

■ Re: タイトルなし

>たばじーろさん

はじめまして、コメントおおきにですm(__)m

> ここがもともと遊郭があったとは知りませんでした。

我々遊廊とか赤線を知らん世代にとっちゃ「意外」な場所にあったりするけど、
そこに遊廊・赤線あるところ必ず何か理由がある、ちゅーことを最近悟りましたわ。
大阪の飛田も松島も今里新地も、今じゃ信じられへんけど当時は田舎の田舎、
今は繁華街のど真ん中の北新地(梅田)も、明治時代にゃ人っ子一人住んでへん荒れ地やったらしいです。たいていそんなとこに遊廊が出来たりするんですわ。
また、昔の街道沿いにも遊廊が多くて、
何で河内長野?って疑問も、高野山への入り口ってことで「穢れを払う」って意味で作られたよーですわ。
うちの地元の貝塚も、元々は紀州街道沿いやったさかい、熊野詣などへの「穢れ落とし」の名目で作られたっぽいですし。
(岸和田に作らんかったのは、岸和田はずっと遊廊禁止令が出てたからです。実際はモグリの花街が昭和50年代まであったそうですけどね)
ある本の付録には、戦前に存在した全国遊廊一覧が書いてあって、「お泊り」の料金まで書いてあったりするけど、ちゃんと河内長野も掲載されてました。

> 明日にでもチャリで行ってみます。
> 近くに駐車場がないとお困りでしたら、ノバティながのという駅前のショッピングセンター(と呼ぶには恥ずかしい)の平面駐車場が近くていいです。帰りにミスドにでも寄れば駐車券がもらえますよ。
2010/02/15 URL BJのぶ #qDfdtOiE [編集] 

■ 

河内長野市内に住んでいますが、ここがもともと遊郭があったとは知りませんでした。
明日にでもチャリで行ってみます。
近くに駐車場がないとお困りでしたら、ノバティながのという駅前のショッピングセンター(と呼ぶには恥ずかしい)の平面駐車場が近くていいです。帰りにミスドにでも寄れば駐車券がもらえますよ。
2010/02/05 URL たばじーろ #- 

■ Re: タイトルなし

>すりっぱさん

> だいたいどのへんか分かったけど
> 車じゃ行き辛い場所ですな~(^^;

そりゃ地元やさかいすぐわかるでしょ(笑

> 駅付近は駐車場もあんまり安く無いし

確かに止めるとこなかったけど、近くの道にちょうど待避場所があったさかい、
そこに止めてやりました(笑
2009/05/30 URL のぶ@大阪 #- 

■ Re: タイトルなし

>g-monさん


> なじみの子が出来るまでには、だいぶ掛かるんでしょうかね?
> 3億円ぐらい必要だったりして(笑

マジレスすると、一人の女の子を「見請け」するにゃ今の金で数千万はかかったそうでっせ。
2009/05/30 URL のぶ@大阪 #- 

■ 

だいたいどのへんか分かったけど
車じゃ行き辛い場所ですな~(^^;
駅付近は駐車場もあんまり安く無いし

http://www.cleardent.co.jp/tsumayoji-gallery/info.htm
ここも見てくりゃ良かったのに(^^;
2009/05/29 URL すりっぱ #- 

■ 

黄金橋、私なら小躍りして渡るかな?

なじみの子が出来るまでには、だいぶ掛かるんでしょうかね?
3億円ぐらい必要だったりして(笑
2009/05/29 URL g-mon #atzm6Dzg [編集] 

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