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BEのぶ

  • Author:BEのぶ
  • 自称「ブログエッセイスト」ことBEのぶです。
    昭和史をライフワークにしていますが、平成ももうすぐ30年経ち、昭和が遠い過去になりつつあります。
    昭和も遺産・遺物を探れば立派な「考古学」となります。題して「昭和考古学」。ジャンルは遊郭・赤線跡から鉄道、そしてすっかり忘れ去られた歴史を掘る「昭和の考古学者」として、昭和の名残りを通して考察する旅を続けています。

    基本は標準語で書きますが、エッセイは大阪弁で書いていきます。

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■■■■Doblogアーカイブ■ 台湾の歴史Ⅱ 戦前(日本時代)編

~注意~
この日記は2005年3月25日にDoblogで公開した日記です。


日本はかねてから台湾を欲しがっていたのでしたが、
1895年4月17日に調印された日清講和条約(下関条約)で、
台湾と澎湖列島が日本に割譲されることになりました。
その時、当時の中国側の代表、李鴻章は、
「台湾なんぞくれてやる。でもあんたらに扱えるかな」
と伊藤博文に言ったといわれています。
清が台湾を日本に渡すことは台湾に住んでる人々には伝えられず、
4/19にやっと通知された始末。
彼らは怒り狂い、台湾独立を考えた人もいました。
そして台湾人や清国の役人たちが組んで台湾民主国が成立、日本に抵抗を示します。
なお、学校の歴史では「中華民国」がアジア最初の共和国となってますが、
この台湾民主国を入れるか否かで議論が分かれています。
こうやって成立した台湾民主国ですが、
いざ日本軍が来ると、台湾民主国の主導者たちはたちまち自己崩壊、
福建省に逃げ帰ってしまいます。
取り残された兵士たちはたちまち無法者と化し、台北は地獄と化したと言われています。
しかし、日本軍が台北に入城すると同時にたちまち退散、
台湾各地でゲリラ的な活動をして抵抗をします。
初代の台湾総督は海軍大将の樺山資紀で、台北陥落後は南進を指示したものの、
南部住民の抵抗は強く、台湾には当時の陸軍兵力の3分の1にあたる5万人を動員しました。
それでも抵抗運動は根強く、更にマラリアなどの伝染病で人がバタバタと倒れ、
全土平定まで5ヶ月、完全に抵抗運動が終わるのは、もうすぐ書く明石元二郎が台湾総督に就任するまで待たされることになります。
この台湾平定、日本側の死者は257人でしたが、病死者はなんと5000人とも言われています。依然、台湾はマラリアなどの伝染病天国でした。

台湾総督は、
初代 樺山資紀
二代目 桂太郎
三代目 乃木希典

と変わっていきましたが、
桂太郎は日本の政治に未練たっぷりで台湾には10日しか滞在せず、
乃木は意気揚々と台湾に乗り込んだものの、
役人の腐敗ぶりとゲリラの執拗な抵抗で思った成果は果たせませんでした。
「皇帝」と呼ばれる権力を持った台湾総督に、元々海千山千の妖怪がいる政治の世界は苦手の乃木には、とうてい重荷すぎました。
司馬遼太郎は乃木希典に対してはかなりボロカスですが、
「街道をゆく 台湾紀行」でも
「教師でもやってればいい先生になれたものの」
と皮肉にも似た評価をしています。
台湾は、まだ若造国家の日本にとってはお荷物同然で、
1億円でフランスに売り飛ばす計画もあったそうです。

その乃木が「台湾を任せられるのは奴しかいない」と思い、
自らお願いしに行った人、それが乃木の親友でもある、

児玉源太郎

です。
児玉が台湾統治の実務の長、民生局長に任命したのが後藤新平です。
児玉と後藤が台湾へ赴任する際、その船の上で、

児玉:「総督就任の演説原稿を作ってくれ」
後藤:「そんなんやらんでいいでしょう。
もし、人に聞かれたら『生物学の原則に従ってやる』と答えてください

児玉:「生物学の原則とな?」
後藤:「台湾の慣習を重んじるということです。
鯛の目は頭の両方に付いているが、ヒラメの目は頭の一方にしか付いていない。
それは生物学上、必要があって付いている。
それを目は頭の両方に付けなければといっても、そうはいきません。政治もこれと同じです」

児玉:「ガハハハハ。わかった。言うとおりにしよう」

と会話した、有名なエピソードがあります。

どういうことかというと、
風俗習慣を無視して本土の法律や制度を押し付けるのは「ヒラメの目を鯛の目にする」ようなもので、人心の反発を招くだけだ、
と後藤新平は見抜いてた、ということです。

ここに、今でも台湾の伝説となってる、児玉&後藤コンビの台湾大改革が始まります。
まずは腐敗していた総督府の役人の3分の2をクビにして総督府を刷新、
そして台湾銀行を設立、インフラ設備に必要な公債は全て台湾銀行を通じて調達されることになりました。
また、領有当時からあったプロジェクトをどんどん着工、
鉄道・道路・港が整備され、農業も灌漑事業により開墾されていきました。
この時、児玉&後藤コンビにストーカー並みに勧誘を受け、半ばイヤイヤ台湾に赴任したのが、旧5000円札の新渡戸稲造です。
彼はサトウキビの品種改良に力を尽くし、新渡戸稲造の努力でサトウキビ生産量は爆発的に増加しました。
まあ、ゲリラに対しては積極的に帰順政策を取り、投降した人は処罰せず、
インフラ整備のための土木工事の責任者として仕事を与え、
これによってどんどん抵抗勢力が帰順、抵抗運動は下火になっていきました。
また、衛生面でも、医者である後藤の積極的な政策により改善、
特にアヘン対策に関しては、いきなり禁止にするのではなく、
アヘンを専売制にして総督府の収入にする一方、中毒者を免許制にして新規の吸引者を禁止、じっくり減らす対策を講じました。
李鴻章が「アヘン撲滅には300年はかかる」と豪語していたアヘン撲滅、
昭和16年には患者がほぼゼロを記録しています。
伝染病であり、当時台湾に住む人を苦しめていたマラリアも、衛生面の強化で昭和18年にゼロを記録しています。

児玉源太郎は日露戦争の参謀次長に就任したものの、
台湾総督の位は誰にも渡さず、後藤に総督の印鑑を預けてすべてを託しました。
実際、数々の政策は後藤が行ったものであり、児玉は責任だけを取るだけのものでした。
しかし、児玉はすべてを後藤に任せることにより、台湾はいい方向に進み、今でも台湾インフラの基本となっています。
この児玉&後藤コンビがどれだけの実務者やったか、
新渡戸稲造が記録に残しています。

「児玉総督はどんな話をしても、どんなに難しい話でも10分で答えを出してくれる。それに比べたら、後藤さんは30分かかる。
でも、同じ話を伊藤公爵(伊藤博文)にしたら1日、山縣(有朋)さんなら1週間はかかるだろう」


児玉源太郎が1906年に日露戦争で精根尽き果てたように急死、
総督は5代目の佐久間左馬太6代目の安東貞美を経て、
7代目の明石元二郎が1918年に就任します。
明石元二郎は日露戦争で謀略を担当、ロシアでレーニンと組んでロシアを内部から煽り、
日露戦争影のMVPと呼ばれている人物です。
明石の在任期間は1年4カ月と極めて短いですが、この間に、
道路や鉄道の整備の他に、日月潭水力発電事業の推進、台湾新教育令の公布施行(日本人と台湾人の教育差別の廃止)などを行いました。
彼は病気になって福岡で亡くなってしまいますが、
「もし自分の身の上に万一のことがあったら、
必ず台湾に葬るよう。死して台湾を守らん」

という遺言を残し、遺言どおり台湾に埋められ、
唯一台湾に眠る台湾総督となりました。

余談ですが、彼の墓はすごく立派なものでしたが、
戦後にそこに中国からの「難民」がスラム街を作り、無残なくらい荒れ果ててしまいました。
今の総統の陳水扁氏が台北市長の時、彼らに立ち退き料を払って整備、
明石総督の墓が掘り起こされ、彼の孫にあたる明石元紹氏が
「祖父を台湾に眠らせてあげたい。よろしくお願いします」
という言葉に台湾の人が動き、
1999年に台湾海峡を望む所に新しい墓ができました。
墓は中国の方向を向き、
「明石閣下が台湾を守ってくれる」
という台湾人の気持ちがこもってるそうです。
なお、明石総督の墓があった場所は、現在は公園になっていて、
棺があった場所には3ヶ国語で書かれた石碑が立っています。

この初代~7代目までの総督はみんな軍人やったので、
「前期武官総督時代」(1895-1919)と言われています。

この頃になると、反乱も治まったので、また大正デモクラシーの影響もあって、
軍人でない文民が総督の座に就くことになりました。
1919年に田健治郎が初の文民総督に就任、
再び「武官総督時代」が来る1936年9月まで、9人の文民総督が就任しました。

8代 田健治郎(1919年10月~1923年9月)
9代 内田嘉吉(1923年9月~1924年9月)
10代 井沢多喜男(1924年9月~1926年7月)
11代 上山満之進(1926年7月~1928年6月)
12代 川村竹治(1928年6月~1929年7月)
13代 石塚英蔵(1929年7月~1931年1月)
14代 太田政宏(1931年1月~1932年3月)
15代 南弘(1932年3月~1932年5月)
16代 中川健蔵 (1932年5月~1936年9月)


文民総督の時も台湾の発展は進み、
台湾も潤って日本政府の援助なしで自立経営できるようになり、
台北は当時の東京にもほとんどなかった下水道が完備され、
東京よりきれいだった、と当時の人々が語っています。
また、1935年10月に「台湾始政40周年記念大博覧会」を開催、
当時福建省主席で、後に語る228事件の元締、陳儀が招かれましたが、
当時の様子を帰国後にまとめた報告書によると、
「日本人にできて中国人になぜできない」
「40年の経営で中国と台湾の格差は驚くばかり」
と日本の台湾統治に最大の絶賛を示していました。

日本が何にいちばん力を入れたというと、やっぱり教育でしょう。
総督府は全国に学校を建設、小学校から中学、最後には国立大学まで作ってしまいます。
台北に台湾大学という大学がありますが、
その前身は1928年に設立された台北帝国大学で、
熱帯科学や医学、農学などを教えていました。

そして、日本が満州事変や日中戦争で日本を取り巻く環境が悪くなっていく一方で、
台湾総督も海岸大将小林躋造が就任、
「後期武官総督時代」が始まります。

17代 小林躋造( 1936年9月~1940年11月)
18代 長谷川清(1940年11月~1944年12月)
18代 安藤利吉(1944年12月~1945年10月)


台湾も日本内地と同じく戦時下体制が始まり、ここに「皇民化政策」が始まります。
特に、
「寺や廟の偶像の撤廃」
「神社参拝の強制」
「台湾の慣習による儀式の禁止」
は台湾人の不評を買いましたが、18代総督の長谷川清が、
「国策に影響ない程度なら、別に何を信仰しようと自由」
という法令を出し、台湾人から絶賛されたといいます。
今でも日本時代を評価する際、歴代総督のうち児玉源太郎の次くらいに評価されているのが長谷川清だったりすると言います。
この長谷川清は海軍大将で、歴史の表舞台にはほとんど出てこなかった軍政型の軍人でしたが、
人望が厚かった人物だったそうです。

そして昭和20年8月15日、日本の終戦、10月25日の正式返還とともに、
台湾の「日本時代」は終わりを告げます。
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テーマ:雑記
ジャンル:ブログ

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