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BEのぶ

  • Author:BEのぶ
  • 自称「ブログエッセイスト」ことBEのぶです。
    昭和史をライフワークにしていますが、平成ももうすぐ30年経ち、昭和が遠い過去になりつつあります。
    昭和も遺産・遺物を探れば立派な「考古学」となります。題して「昭和考古学」。ジャンルは遊郭・赤線跡から鉄道、そしてすっかり忘れ去られた歴史を掘る「昭和の考古学者」として、昭和の名残りを通して考察する旅を続けています。

    基本は標準語で書きますが、エッセイは大阪弁で書いていきます。

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■■■■Doblogアーカイブ■ 台湾の歴史Ⅰ 発見~日清戦争編

~注意~
この日記は2005年3月25日にDoblogで公開した日記です。


ここでは、台湾が発見(!?)された時から、日清戦争までを取り上げます。

台湾が文献に出てくるのは、日本では戦国時代のことです。
1544年、ここらへんを通ったポルトガル船だと言われています。
美しい島の風景に、船員は

「Ilha Formosa!」
(何て美しい島だなんだ)

と言ったといいます。
後ろのFormosa(フォルモサ)は、台湾の代名詞にもなっています。
また、これを中国語に訳して「美麗島」と書く時もあります。

当時台湾に住んでたのは、大昔から住んでいた、マレー・ポリネシア系の原住民で、漢民族はほとんど住んでいなかったと言われています。
原住民は、現在は山間部に住んでる部族がほとんどですが、
昔は西部の平地にも住んでいて、のちに「平埔族」と呼ばれますが、
漢民族との混血が進み、今はほとんど残っていません。
台北の中心部、総統府突き当たりとする道の名前は、
凱達格蘭大道
と言いますが、これは台北に残る唯一の平埔族、ケタガラン族からつけられた道でございます。
(以前は「長寿路」と呼ばれ、蒋介石の長寿を祈ってつけられました)

安土桃山時代、豊臣秀吉が台湾にあったとされる「高山国」に使者を送っています。
しかし、台湾には「国」って呼べる存在がなかったため、使者は何もできずに帰ってきました。
当時、台湾は部族ごとに分かれた集合体があるだけで、国と呼べるものはありませんでした。

そこにやってきたのがオランダです。
当時は倭寇や一部の中国・ポルトガル人が「巣」として使ってたにすぎない台湾にやってきて、
1622年に澎湖列島を占領、1624年に今の台南付近に上陸、
城砦の建築に取りかかり、今でも観光名所として残るゼーランジャ城(安平古堡)が出来ました。
何故オランダが台湾に目をつけたかというと、当時の台湾はどこそこの領土ってことはなく、西欧から見たら「空っぽ」やということ。
もう一つは、ジャワのバタビア(今のインドネシアのジャカルタ)に「東インド会社」を設立して日本との貿易を図るためには中継地点が必要やったことです。
また、原住民の抵抗を抑えるためにキリスト教による教化を行い、それでも従わない部族には容赦ない弾圧を加えました。

オランダと当時に台湾に目をつけてたのが、スペインです。
オランダが台湾南部を占領したのに対し、スペインは逆に北部を目指し、
1626年今の基隆から上陸して淡水を占領、そこにサン・ドミンゴ要塞を築きました。
しかし、伝染病やスペイン自体の国力の弱体化、そしてオランダの抵抗により、1642年にオランダが要塞を陥落させ、オランダの影響力は北部にまで及びました。

その頃、大陸の方では満州族による「清」が成立、明を苦しめてました。
1644年に明のラストエンペラー崇禎帝が自害、明王朝は事実上終焉しますが、
福建などで亡命政権を樹立、抵抗を続けました。
その代表的な人物が、歌舞伎にも出てくる鄭成功です。
日本人と中国人のハーフの彼は必死に明王朝を盛り立てますが、
それも叶わず1661年に台湾に逃げ込みます。
その際、オランダの勢力を台湾から追い出し、オランダの台湾支配はこれで幕を閉じます。
しかし、1662年に鄭成功は病に倒れてなくなってしまいます。
その後も息子の鄭経が引き続き台湾の駐留しますが、彼が亡くなった後の鄭氏政権は内紛でボロボロ、
結局1683年に鄭氏政権が崩壊し、清王朝の支配下になります。
しかし、清の領土にはなったものの、清は大陸と離れた台湾にはあまり興味を示さず、いわばほったらかし状態でした。
漢民族の渡航も許可はしたものの、男のみ渡航可のため、
台湾に移住した男は台湾に住んでいた原住民(平埔族)と結婚、混血が進みました。
今、『台湾人』と呼ばれる人たちの直接の祖先は、この時期に台湾へ渡ってきた人たちです。
今、台湾でこんな論争があります。
「台湾人ってホンマに漢民族なの?」
この結果、おもろいことがわかったそうです。
DNA検査をしたところ、漢族というよりマレー・ポリネシア系の血の方が濃く、遺伝子学的にはは漢民族じゃない、ということ。
台湾独立の言いがかりにも聞こえますが、それは原住民との混血が進んで、
昔から台湾に住んでる「漢民族」には純粋な漢民族なんていない、ということでしょう。

また、台湾は反乱が多い地域でもありました。
3年に1回は反乱が起きるとまで言われて、
史料によると、清の領有212年の間に大小100件の反乱が起こったそうです。
また、マラリア・ペストなどの伝染病が蔓延る魔の地域でもあったため、
役人が台湾に赴任するのを嫌がったそうです。

こうして本当に清の領土なのかわからないまま、
日本の明治時代を迎えます。
1871年、琉球の宮古島の住民66人が台湾南部に漂着し、
54名が「牡丹社」という部落民に殺害され、
残る12名が命からがら帰国するという「牡丹社事件」が起こりました。
明治政府は清に抗議をたものの、清の答えは、
「台湾の住民は『化外の民』で『教化の及ばぬところ』」
つまり、
「あんなとこうちの領土じゃねーよ」
と言い放ったということです。
「ほな、勝手にやらしてもらいま」
と日本は台湾に出兵、台湾南部の一部を占領してしまいました。
しかし、この台湾出兵も、核兵器に等しい伝染病にやられ、
戦死者10人くらいに対して、病死者数百人を出す結果になりました。
この事件の結果は、大久保利通が北京と交渉し、賠償金を支払うという結果になり、日本軍は撤退しました。

これをきっかけに、清も「ヤバい」と思ったのか、
ほったらかしの台湾経営に積極的に関わるようになります。
台湾への渡航制限を撤廃して移民を奨励したり、鉄道を建設したり、
今までのほったらかしがウソのように、どんどん開拓していきます。
その背景には、日本だけでなく、欧米列強も台湾をマークし始めたことがあります。
そしてこの時期、役所を台南から台北へと移します。

そして1894年、日清戦争が起こります。
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