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BEのぶ

  • Author:BEのぶ
  • 自称「ブログエッセイスト」ことBEのぶです。
    昭和史をライフワークにしていますが、平成ももうすぐ30年経ち、昭和が遠い過去になりつつあります。
    昭和も遺産・遺物を探れば立派な「考古学」となります。題して「昭和考古学」。ジャンルは遊郭・赤線跡から鉄道、そしてすっかり忘れ去られた歴史を掘る「昭和の考古学者」として、昭和の名残りを通して考察する旅を続けています。

    基本は標準語で書きますが、エッセイは大阪弁で書いていきます。

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■■■■Doblogアーカイブ■ 上海租界散歩 日本人の足跡を訪ねて 第六章

~Attention~
この日記は2004年12月27日にDoblogで公開した日記です。
紹介されている建物が現時点で存在しているかは定かではないので、
各自でご確認をお願いします。



第五章はこちら

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(上の画像は現在の四川北路)
内山書店を過ぎ、四川北路をそのまま北上していくと、左手に5階建ての古いマンションが見える。

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このアパートは、現在北川公寓という名前なのだが、戦前はラモスアパートと呼ばれ、
このアパートの3階4号室に、魯迅が1930年5月から1933年4月までここに住み、
隠れるようにここに住んでいた。
その間に上海事変が起き、銃弾が壁を貫いて部屋まで届いたこともあったという。
最上階の5階部分は1978年に建て増しされたものだが、それ以外はほぼ原型を留めている。

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そのラモスアパートより右斜めにある白い建物が、
数々の火種の拠点になったとも言える、日本海軍特別陸戦隊本部である。
陸戦隊とは海軍の中にある陸上部隊のことで、
上海特別陸戦隊は上海に住む日本人保護を目的に上海に駐留した部隊である。
「海」の軍隊である海軍が陸上部隊を持っているとは意外かもしれないが、日本海軍は陸で戦う陸戦隊も臨時で組織することがある。
上海特別陸戦隊は唯一常設された陸戦隊で、1928年より上海に駐留し、日本人が多い虹口地区に拠点を構えていた。
日本陸軍は、海軍との協定上租界内には立ち入ることが許されず、租界内の警備はすべてこの上海特別陸戦隊が行っていた。
その「租界内に立ち入れない陸軍」が租界内に立ち入った時のこと。
日中戦争の最中租界内で私服の日本憲兵が中国人強盗に出会い頭に襲われ怪我を負った。
かねてから租界内の反日分子を一網打尽にしたかっら陸軍は、
それを口実に租界内に立ち入ろうと軍備を整え一個小隊を派遣した。
そこに立ちふさがったのが海軍陸戦隊。
当時の支那派遣艦隊参謀長井上成美の、
「強引に租界に入ろうとする者は日本陸軍でも敵とみなして撃滅せよ」
という厳命を受けた陸戦隊司令官と艦隊参謀が陸軍の前進を阻止、
押し問答の末陸軍を追い返したというエピソードがある。
一見、同じ日本軍の陸軍と海軍の縄張り争いのように見えるが、
イギリスやアメリカ、フランスなどの利権が絡み合った「魔都」上海、ひとつ間違えると無駄な国際紛争の種を一つ増やし日本を窮地に追い込む行為でもある。
国際法規を理解し、外国と無駄な争いの種を増やしたくない海軍艦隊の首脳、特にナンバー2である参謀長の井上成美の「協定と国際法を無視する者は同胞でも敵と見なせ。責任は私が取る」という決断であったエピソードである。
この井上成美は、終戦間際の昭和19年に海軍次官として、海軍大臣の米内光政と共に極秘の終戦工作を行い、本土決戦という愚策を避けるべく奔走する。

現存する本部建物は、第一次上海事変の後に建てられた鉄筋コンクリート造4階建てのもので、
第一次上海事変後に建設されたものである。
第二次上海事変の際はここから陸戦隊が出発し、中国軍と直接の戦闘を行った。
現在は上海交通銀行となっているが、建物はそのまま残っている。

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当時の絵葉書と比較しても、建物がそのまま残っていることがわかる。
画像にわずかに見えるすっかり錆びた物見櫓は、当時のまま残っていて、その錆び具合が年月の流れを感じさせている。
学校の教科書にも出てくる上海事変、その決戦の場がまさに目の前にある気持ちは、文章ではとても書ききれない感慨を覚える。

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戦前は竇楽安路と呼ばれ、住人のほぼ100%が日本人だったという道、
現在は多倫路>と呼ばれ、近年この界隈が整備され、「多倫路文化名人街」という名の観光スポットになった。
道は石畳になり新しくはなったものの、道一本はずれるとそこは未だに濃厚な旧上海の生活の場が残っている。

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上の画像は、知恩院という1924年に建てられたイスラム風建築の寺院である。
所々にイスラムスタイルの装飾が残り、独特の雰囲気を残している。

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多倫路にある、かつての上海海軍倶楽部
海軍倶楽部は海軍士官の憩いの場として建設された、水交社の上海支部である。
上記した井上成美は支那方面艦隊参謀長時代、夏になると暑苦しくなる艦隊の旗艦「出雲」を離れ、ここ上海海軍倶楽部の一室に居を移し、夜はピアノを弾いていたという記述が、阿川弘之の『井上成美』にある。
私が井上成美という海軍軍人を知ったのはほんの数年前のことで、もしここを回った時に井上の存在を知っていれば、
また違った感想を抱いていたことだと思い、少し惜しい感じもする。

多倫路を渡り終え、四川北路と交わる交差点の向かって左側には、
かつて「公琲」と呼ばれたカフェがあった。
日本人経営とも、ユダヤ人経営とも言われたこの喫茶店、
外国人経営という安全さもあってか、共産党革命家や文学者が集まる場所として栄え、隠れた歴史の舞台にもなった所である。
建物は90年代前半まで残されていたのだが、老朽化でついに壊され現在は全くその面影はない。
しかし、「公琲」という名前はそのままで跡地に喫茶店が出来、
せめてここにかつて「公琲」があったという名前は残っている。

多倫路を出て四川北路を横断すると、今は建物の影に隠れて見つけにくいが、
昔ながらの「石庫門建築」が残る余慶坊がある。
現在でも数多くの世帯が軒を並べて住むこの集落、
かつては詩人の金子光晴が、夫人の森三千代の不倫清算旅行の際に上海に立ち寄り、
1928年から1929年までこの余慶坊の一室を借りて住んでいた。
その上海生活は「どくろ杯」に詳しく描かれている。

「私たち三人は、日本人のたまりの虹口、文路を抜けて、北四川路を出ると、北へ、北へ、車を走らせた。
日本書店の内山完造さんの店の筋向いの余慶坊という一角の入口で、車を下りた。
二筋の路地を、表と裏が向かい合って、支那風の漆喰な二階建長屋が続いている。
入口には、雑貨屋と、熱湯を沸かして桶で売る店とが並んでいた」
(どくろ杯より 原文ママ)



彼らが味わったその雰囲気の「おすそ分け」をもらおうと、私も余慶坊に入ってみた。
観光名所でも何でもなく、現在でも人々が普通に住む住宅地なので、
外来者の私などが入ると明らかにその存在が浮いているように思えた。
幅数メートルほどの細い路地で子供が無邪気な声を出して遊び、歴史の渦に巻き込まれ数々の辛苦をなめてきただろう老婆が、椅子に座って外来者の私を値踏みするようにじっと見つめていた。
四川北路の入口より入ってかなり奥の場所に、金子光晴が間借りした家が、
そのままの姿で残っていた。

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余慶路123号
ここが彼が1年間を過ごしていた家である。
時代は変わり、家の主が日本人から中国人に変わっても、その建物は数々の人々の喜怒哀楽を見てきたに違いない。
金子光晴が上海でついた吐息の数々も、この建物に染み付いて残っているかのようである。

余慶坊を出て四川北路に戻り南下すると、すぐにかなり大きい建物を見ることができる。
そこは「上海市第四人民医院」だが、元は「福民病院」と呼ばれていた日本人経営の病院であった。
日本人経営ながら患者は国際的で、国籍分け隔てなく患者を診る当時としては珍しい病院で、
魯迅もよくここを訪ね、彼の長男もここで生まれている。
建物は残念ながら最近壊されてしまったが、その規模は建物が新しくなっても受け継がれ、
当時どれだけ大きい病院だったかが容易に想像ができる。

その横には、当時の上海日本尋常高等小学校が当時の建物のまま残っている。
残念ながら四川北路沿いにビルが建てられてしまったために、四川北路沿いからはその建物は見えなくなってしまったが、
校門から覗いてみると校舎はそのまま残っていることがわかる。
日本の学校は戦前に数多くあり、大学と旧制高校以外はすべて揃い、上海にいながら日本と同等の教育を受けることができた。
今の日本人学校とは規模も生徒数もケタが違い、当時日本人がどれだけの勢力を誇っていたか、その跡を訪ねるだけでもすぐわかる。


以上、日本人の足跡を訪ねる旅は終わる。
すべてを渡り終え、ふと空を見ると、雲ひとつない青空である。
かつて、ここあたりに住んでいた日本人は、この青空を見ながら何を考えていたのであろうか。
時代の嵐に巻き込まれながらもしたたかに生きた彼らの足跡は、
徐々に少なくなってきているものの、まだ確実に残っている。

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