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■Doblogアーカイブ■ 上海租界散歩 日本人の足跡を訪ねて 第五章

~Attention~
この日記は2004年11月28にDoblogで公開した日記です。
紹介されている建物が現時点で存在しているかは定かではないので、
各自でご確認をお願いします。



第四章はこちら

塘沽路よりバスに乗って、一気に魯迅公園まで北上し、
かつて日本人が一番固まっていた界隈を歩いてみる。

現在は、作家の魯迅を記念して魯迅公園という名前になり、
老若男女を問わず楽しめる憩いの場となっているが、
その歴史は古く、1905年に外国人専用の公園としてオープンしたのが始まりである。
当時は「虹口公園」という正式名がついていたのだが、上海在住の日本人からは、俗に「新公園」と呼ばれていた。
何故新公園なのか、それはわからないが、その名前は歴史上に出てくる時もある。
上海事変終結後の1932年4月29日、「新公園」で戦勝式典をしている最中、
朝鮮人テロリスト尹奉吉の投げた爆弾で白川義則陸軍大将が死亡、海軍の第三艦隊司令長官として参加した野村吉三郎が右目を失い、第二次世界大戦後の外務大臣を務めた、当時上海公使であった重光葵が足を切断する重症を負った事件が、
この公園で起こった。
(俗に「上海天長節爆弾事件」という)
戦後は中国政府のもとで整備され、昔魯迅がよく散歩した公園ということで、
「魯迅公園」と命名され、毛沢東の筆による魯迅の墓もここにある。
公園にの中には現在、「魯迅記念館」があり、魯迅の原稿や遺品などが収められている。
魯迅公園には、休日には観光客の他に、地元の人が絵を描き、歌を歌い、カップルが愛を語り合う、日本でも一昔前はよく見かけた風景を見ることができるが、
それは、歴史に翻弄されたきな臭い場所ではあるものの、今も昔も変わっていないように思える。


090524 1

魯迅公園の北出口を出ると、大連西路の向かいに上海外国語大学の正門を見ることができる。
名前の通り上海唯一の外国語教育専門大学で、国立の重点大学(国家が定めた、国立大学の中でも更に重視された大学)でもあるエリート大学である。
日本人留学生も多く在籍し、多くの学生が在籍しているが、ここも日本人と関わりがある場所である。
元々この場所は、持志大学という私立大学があったが、上海事変で崩壊し廃校した。
その跡に1942年、日本の第二高等女学校が作られ、終戦までその位置にあった。
現在は当時の建物はすべて壊され、全くその面影を見ることはできない。
しかし、学校の建物ではないものの、大連西路の向かいにある東体育会路には、昔のままの洋館が数多く残っており、当時の姿をとどめている。

090524 2

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さて、そのまま魯迅公園の外側を沿うように歩くと、山陰路という道に出る。
昔は「施高塔(スコット)路」といわれたこの道は、上海の中でいちばん旧日本人居留区の面影を残した場所であり、
そこに残る家の一軒一軒を見ても、何か日本っぽい所が残っている。
それは意識しないと気づかない程度のものだが、意識して見てみると、
我々が日本で見る住宅のそれということが、素人の目でもわかる。

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道の街路樹のトンネルをくぐっていくと、両端に小道が奥へ伸びている。
そこの各小道には、はるか以前に住んでいた日本人の住居が、今でもそのままの
状態で残されている。
山陰路の北から見て左手のいちばん最初の小道が「興業坊」である。
興業坊を入ると、そこは洋風建築の長屋のような住宅が道の両端に建てられ、
道も比較的広めにできている。
そこの左手にあるのが、1930年頃に吉行エイスケが住んだ住宅である。
資料が乏しいため、この興業坊の左手にある長屋のどこに住んでいたかは不明だが、
開いた窓から、今にでも彼がひょっこりと首を出してきそうな雰囲気を色濃く残している。
吉行エイスケは、NHKの連続テレビ小説「あぐり」で有名になった、
主人公「あぐり」の夫なのだが、また作家・エッセイストの吉行淳之介
女優の吉行和子の実父でもある。そう言った方がわかりやすいかもしれない。
1906年に岡山に生まれ、1940年に没するが、死の10年前より上海には少なからず出かけていたという記録が残っている。

090524 4

続いての小道は、花園里である。
今も昔もそのままの名前であるこの道には、ゾルゲ事件で死刑になった尾崎秀実が、1930年より2年間住んでいた住居跡が残っている。
1928年から東京朝日新聞社上海特派員として上海に滞在していた尾崎だが、
30年にアグネス・メドレーを通して、アメリカ人記者ジョンソンを名乗っていたリヒャルド・ゾルゲと、パシフィック・ホテル(現和平飯店南楼)で出会う。
彼自身、「宿命的」と語ったこの出会いが、尾崎の人生を決定付けることとなる。
後にスパイ容疑で死刑になる尾崎だが、この引き金は上海で引かれていたとは、
私も初めて知ったことである。

090524 29

松本重治というジャーナリストが1930年代に住んでいた、
「東照里」という長屋である。
日本人が固まって住んでいた山陰路あたりなので、
昔は周りの家がすべて畳敷きだったという。
二つ北の長屋に吉行エイスケ、一つ北には尾崎秀実、そして松本重治
全く同じ時期に、偶然ながら、
歴史に名を残す有名人3人がすぐ近くに、それもほぼ同時期に住んでいたということが歴史の面白いところである。

これらの道を山陰路をはさんだ向かい側が、「大陸新邨」の建物である。
大陸新邨とは、1931年に大陸銀行上海信託部が投資して建てた、赤煉瓦3階建てのテラスハウス住宅である。
調度品はもちろんのこと、建材もヨーロッパから輸入された豪華住宅で、
当時はもちろん、現在でも豪華とも言える彫刻が残り、独特の存在感を以って
来る人の目をそちらに向けさせている。

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ここに、近代中国の小説家、魯迅が 1933年4月11日から魯迅が亡くなる1936年10月19日までの約3年半この家で過ごした家が、
「魯迅故居」という名前で整備され、観光名所になって残っている。
魯迅故居の一階は応接室と台所、二階は寝室兼書斎と倉庫、三階は魯迅の息子(海嬰)と手伝いさんの寝室及び来客の寝室になっている。
今魯迅故居の収蔵品は400件余り、魯迅の当時の生活を偲ぶことができる。
その横には、同じ時期を生きた作家・文学者であり、中華人民共和国建国後は文化部長(文化庁長官に相当)にも就いた芽盾が住んでいたこともあり、
近代中国の息吹がこの周りで芽吹いていたのは興味深い。

その理由を解き明かすのに必要なキーワードが、内山完造である。
元々は参天堂の目薬売りとして上海に渡ったのだが、中国中を歩くうちに中国庶民の生活に造詣が深くなり、
その最中に、上海に内山書店をつくる。
元々はキリスト教書籍の専門店であったが、のちに日本語書籍全般を扱うこととなり、そこに日本人だけでなく、日本留学派の中国人も常連になるようになっていた。
その常連の中に、魯迅がいた。
魯迅と内山は親友となり、魯迅は彼のことを尊敬をこめて「老板(ラオパン)」と呼んでいた。
当時は近代文学や哲学などは中国には書籍が乏しく、日本留学派の彼らは、日本の書籍を通して近代概念というものを吸収していたという。
内山書店は、いつの間にかその彼らの絶好のサロンとなり、内山完造も彼らを拒絶せず、書店の片隅に無料のサロンを設けて彼らを歓迎した。
ここを通して、魯迅の紹介で数々の近代中国の文学を支える若者が集まり、また、日本の文学者たちも、内山の紹介で魯迅や彼らを紹介し、日中の文学者が集まった。会合などが開かれたことも、二度や三度ではない。

上海に渡り、内山の紹介で若き中国の文学者と親交を深めた人物に、谷崎潤一郎がいる。
彼は1926年1月に上海へ向かい、内山の仲介で郭沫若や田漢と「顔つなぎの会」を行った。
この時に交わした論議は省略するが、谷崎の「上海交遊記」「上海見聞録」は、当時の中国の知識人の本音を聞きだし、それを記録に残した数少ない人物であり、
当時の中国・上海の紀行文が数多くある中でひときわ輝いている歴史的文献である。

090524 6

日中の文学者が一堂に会し、ある意味歴史を築き上げたとも言える内山書店は、
現在は中国工商銀行になっている。
しかし建物は四川北路にそのまま残っており、「内山書店」という中国政府によって掲げられたプレートが、
まさにここが内山書店であったことを証明させている。

090524 7

このプレートには次のように書かれている。

「内山書店は、日本の有名な社会活動家の内山完造が1917年に作った書店である。
当初は四川路魏盛里にあったが1929年に現在の位置に移った。
1930年代、内山書店は左翼出版物の重要な販売店となり、日中の文化人が共に交流するサロンともなった。
魯迅、郭沫若、田漢、郁達夫、塚本助太郎、升屋治三郎、石井政吉などの日中文化人が共に語り合い、また中国共産党の連絡所ともなり彼らを匿い保護した拠点でもあった。
1980年、上海市政府は此処を上海市の記念物に指定した」



ちなみに内山書店は、流れを汲む東京の内山書店に受け継がれ、中国・台湾書の専門店として現在に至っている。
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