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BEのぶ

  • Author:BEのぶ
  • 自称「ブログエッセイスト」ことBEのぶです。
    昭和史をライフワークにしていますが、平成ももうすぐ30年経ち、昭和が遠い過去になりつつあります。
    昭和も遺産・遺物を探れば立派な「考古学」となります。題して「昭和考古学」。ジャンルは遊郭・赤線跡から鉄道、そしてすっかり忘れ去られた歴史を掘る「昭和の考古学者」として、昭和の名残りを通して考察する旅を続けています。

    基本は標準語で書きますが、エッセイは大阪弁で書いていきます。

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■■■丹波篠山をゆく 消えた遊郭・赤線跡を訪ねて6

元遊廓・赤線を訪ねる旅その・・・何番目やったっけ?(笑
今回は、一昨年に行った丹波篠山にあったという遊郭跡を書いてみようと思います。
丹波篠山というたら今の篠山市、江戸時代は譜代の青山氏の城下町として栄えました。
今回の話題とは関係ないけど、東京にある地名の「青山」(←青山学院大学の「青山」ね)は、この青山氏の江戸屋敷があったことから名付けられました。
篠山の青山氏は分家筋やったと思うけど、まあそんなわけなんですわ。←どんなわけや

今の篠山市は、武家屋敷が現在でも残る観光の町で、今は歓楽街とかがあらへんせいか、遊廊とか赤線ってイメージが全く思い浮かばんのやけど、
その昔、確かに遊郭は存在しとりました。
篠山にゃ明治41年に歩兵第七十連隊が置かれたんやけど、歩兵連隊あるとこにゃ遊郭あり、
どっかにあるやろう、と色々調べとったらやっぱ存在しとりました。
篠山遊郭の正式名称は「京口新地」と言います。
遊廓としての歴史は資料があんましないせいかわからんけど、少なくても歩兵第七十連隊が出来た時からあった、もしくは連隊の創設に合わせて作られたと推定できます。


丹波篠山遊廓

これは『篠山案内記』っちゅー、大正2(1913)年に発行された篠山のガイドブックに付録としてついとる、大正時代の篠山の地図なんやけど、
この地図右下の所に「遊廓」って書かれた一画があり、この頃にゃ地図にもはっきり遊廓があったことが伺えます。
せやけど、これじゃわからんさかい、篠山市立中央図書館で俺がコピーしてきたもんを↓

篠山遊郭

赤い○で囲んだとこが、今も昔も篠山市の中心部やけど、ピンクの□で囲んだとこに「遊廓」ってはっきり書かれとるのがわかると思います。
で、その『篠山案内記』にゃ、

「遊廓
河原町京口橋より南一丁にあり、池上町に属し字湊と称す。遊廓新設以来京口新地の名あり
歩兵七十連隊の新設に伴い始めて設置したるものにて明治44年7月より開業す」


(※原文旧仮名遣いを現代に読みやすいように俺が校正)

と簡単ながら遊廓のことも書かれとります。
大正時代からどーやらここは「京口新地」と呼ばれとったという証拠でもあるんやけど、
『全国遊廓案内』にゃ「糸口新地」と書かれとって、「京口」なんか「糸口」なんかどっちやねん!?とややこしいことになっとるけど、後で紹介する『篠山町七十五年史』ちゅー書物にもきっちり「京口新地」って書いとるさかい、こりゃ『全国遊廓案内』の方の誤殖か筆者の聞き違いでしょうな。
また、『篠山案内記』にゃ遊廓の他に中心部にある立町ってとこに花街、つまり芸者がおった所もあったことが記されとります。
これも原文でどーぞ。なに、著作権はとっくに切れとるさかいモウマンタイ(笑

「芸妓検番
立町の角南側にあり明治32年の創立なり。検番設立以前は各料理屋に芸妓を抱えたりしなり」


(※これも原文旧仮名遣いを読みやすいように校正)

これでわかることは、

1.芸妓がいる花街の方が遊廓より歴史が古い

2.場所によっては遊廓に芸妓がいたりと花街との区別がつきにくい所もあるが、
篠山は花街と遊廓の区別がはっきりついていた

ことやと思います。
で、京口新地を語るもう一つの貴重な資料が『篠山町七十五年史』と呼ばれるもの。
昭和30年に発行された、個人が編集したものの当時の篠山町が出版しとるさかい、準公式の町史みたいなもんなんやけど、
ここに京口新地のことがそこそこ詳しく書かれとります。
それによると、陸軍歩兵第七十連隊の設置により遊廓設置の動きが出たものの、候補地がいくつも上がった上に周りの村からの熱心な立候補もあったり、
(※何で「風俗街」である遊廓を熱心に誘致するか言うたら、遊廓は遊興税を払っとったさかい、誘致したら地域財政が潤う+地元に金を落としてくれて経済的にウハウハって事情があります)
陸軍の「遊廓は兵営(駐屯地)から1里以上隔離すること」ちゅー条件もあって、結局は八上村糯ヶ坪地区に決定。
明治41年の開設当初は「篠山楼」の一軒のみ、娼妓数7名というこじんまりとしたスタートだったものの、
半年後には、
・吉野楼 娼妓数14名
・小川楼 娼妓数6名
・彦根楼 娼妓数12名
・田中楼 娼妓数8名
・一力楼 娼妓数8名
・常盤楼 娼妓数5名
・金松楼 娼妓数2名
・高森楼 娼妓数2名
・鬼楽楼 娼妓数4名
・都 楼 娼妓数7名
・藤田楼 娼妓数5名
・戎 楼 娼妓数6名  計:79名


と、雨後のタケノコのように大増殖しとります。
(篠山楼は閉店したんか改名したんか、消えとります)

娼妓の外出は監視付きで、一人じゃ京口橋を渡ることは出来へんかったらしく、つまり篠山の中心部に行くには付添(監視)が必要やったってことで、これは逃亡防止のため。
また、稼ぎ100円につき20円を前借金返済のため積み立てることを警察署長から言い渡されとって、
衣裳や部屋代、食費はこれまた警察の指導か全部楼主持ちと決まっとったとか。
こう見たら、人身売買自体は人権上の問題で論外やけど、待遇は日本の遊廓の中でも悪くなかった方やったんかもしれません!?

また、これにゃおもろいことが書かれとりました。
昭和の初めに日本を襲った大恐慌にプラス、大阪の道頓堀が発祥のカフェー、今のキャバクラのご先祖様みたいなもん、が篠山にも進出、新しい娯楽として一世を風靡したため遊廓が大打撃を受け、
「篠山じゃ営業にならん」と遊廓を宝塚に移す計画が持ち上がったそーやけど、許可されへんままに終わったそうですわ。
宝塚は今じゃ少女歌劇団(タカラヅカ)で知名度は全国区やけど、元々は温泉地で芸妓も確かおったはず。
そこに仮に遊廓が移っとったら・・・当時の娯楽が揃いに揃うさかい街ごとディズニーランド状態やったかも!?

で、この『篠山町七十五年史』は昭和30年発行。
つまり、赤線が現役やった頃に書かれたもんやさかい赤線時代の京口新地が現役やった頃でもあります。
そのこともちょっとだけ書いてあって、遊廓時代は衣食住は楼主持ちやったのが赤線時代は全部女性持ち、
でも分け前は女性:業者=6:4やったそうです。
つまり、

京口新地は戦後も赤線として存続しとった

ちゅーことがこれでわかります。

そして、ついでに書いておくと、『篠山案内記』にも書いてあった篠山の芸妓は『篠山町七十五年史』にも記されとって、
連隊が篠山に設置された明治41年くらいに80名の芸妓がおった時がピークやったそうで、
大正7(1918)年頃にゃ35名、大正13(1924)年にゃ25名、昭和3(1928)年にゃ18名とどんどん減っていきました。
更に昭和2年にあったという「某重大事件」により検番の幹部全員が逮捕され、カフェーの進出や花街にも遊興税が導入されたのが追い打ちになり、
戦争の色が濃くなったことがとどめになって、太平洋戦争寸前の昭和16(1941)年10月に解散。
以後篠山に花街復活はおろか、芸者がいることはなかったそうです。
それに比べたら、遊廓はしたたかっちゅーかしぶといっちゅーか、戦後も残ったさかい生命力の強さを物語っとります。

なお、この本は何せ昭和30年やさかい、3年後の売防法施行による赤線の消滅の顛末までは書かれとりません。
そりゃ、書かれとったら編集者は予言者になるやん(笑
別の資料によると、売防法施行寸前の昭和33年1月現在、業者数10軒、女性の数14名、引き手数13人っちゅー状態で、そのまま3月30日に解散したそうな。

そして、編者がこの本を編集する時にかき集めた昔の写真が篠山市立中央図書館のHPで公開されとるんやけど、その中に貴重な京口新地の当時の写真があったりします。
そんな写真はここからどーぞー。

良くも悪くも地味~な篠山の、ふとしたら忘れられそーな遊廊跡がクローズアップされたのは、
「阿部定事件」で有名になった阿部定が昔ここで働いていたことからやと思います。
阿部定事件については話しだしたらキリがないさかい、興味ある方はここを見てくれたらええんやけど、
その阿部定が、半年だけやったらしいけど、この篠山に在籍しとったことが明らかになっとります。
俺も阿部定事件は中学生の時からボンヤリとは知ってたけど、
20年後くらいたってまたそのことを、篠山で思いだすとは。
なお、阿部定のことは『篠山町七十五年史』にもチラリと、
「一世を鳴り響かせた『お定事件』の主、阿部定も、ここ大正楼の娼妓であったのである」
と書いとります。

さて、写真は思ったほど残ってへんのやけど、
篠山遊郭、つまり「京口新地」を訪ねる旅に行ってみましょう。
* * *
「京口新地」の跡は、篠山の中心部、篠山城跡から南東の方向にあります。
昔の遊廓いうんは、たいてい街の中心部やなくて街の郊外に作られたことが多いさかい、
この「京口新地」の位置が当時の町外れという意味も持って、
他の場所の遊廊跡などの位置によって当時の市や町などの範囲を知ることが、ある程度わかったりします。
確か、関西によくある「北野」って地名も「北の果て」みたいな意味があって、
名付けられた当時の北の郊外を示す、なんてことを社会の授業で聞いたよーな気があります。

篠山遊郭跡

まあそれはさておいて、
「京口新地」は今はただの住宅街になっとるんやけど、
その昔の遊郭は遊女が逃げるのを防ぐためか、それとも別の「一般の地」と区別するためか、
堀というか運河というか、そんなもんで歴然と区切られとったり、
前にブログに書いた洲崎みたいに、長崎の出島の如く海に突き出た埋立地に作られたり、
旧飛田遊廊みたいに、外国の城塞都市みたいな壁で囲まれとった所もありました。
この「京口新地」も、何か不自然な、田んぼに引く用水路でもなさそうやし、
明らかに人間が線を引いたような水路に囲まれた地域にあります。
地図をボケーっと見ててもわからんのやけど、
アンテナの周波数をフルに立てとったら、
「なんでこんなとこにこんな地形が?」
というものが、たまにあったりします。
そこが、意外と「そないなとこ」やったりするんですわ。

篠山遊郭跡

「京口新地」に限らず、篠山近辺は日本でもあんまし見ないようになった藁葺き屋根の日本建築を見ることが出来ます。
俺は大阪のやや都心部の生まれ育ちやさかい、幼い時からこんな家は見たことあらへんし、
周りにこんな家もあらへんかったけど、
藁葺き屋根の家を見たら何か懐かしさを感じるもんがあります。
これは俺の血にある日本人としてのDNAがそうさせとるんかわからんけど、
よー考えたら不思議な気分でもありますわ。

「京口新地」自体はそれほどの大きさでもありません。
大人の男が隅から隅まで歩いても30分~1時間もあったら十分な大きさです。
せやさかい、お目当ての建物を見つけるのにもそんなに時間はかからんかったです。


篠山遊郭跡大正楼

そう、これがお目当ての

大正楼

でございます。
約80年前、阿部定が遊女としてこの篠山に流れ着き、そして確かにここで働いとった痕跡は、
時代は昭和、そして平成になっても残っとりました。
写真でもわかるように、建物自体は老朽化が激しくて一部朽ち果てた部分もあり、一昨日現在は人が住んでへんみたいやけど、
周囲の建物を圧倒するよーな存在感、これは画像の角度が悪いんやけど、意外と奥行きもある建物で、
一発で「それ」とわかるもんでしたわ。
「お目当て」の割にゃどうもこの画像しか撮ってへんかったみたいで、俺のPCの中にゃこの画像しか残ってへんかったんやけど、
かつてこの建物で数々の女性が泣いて笑い、そして悲しみつつ毎日を送ったと思うと、
写真を撮る手も止まったんやと思います。
その気持ちは、一昨日の自分しか知りません。

篠山遊郭跡

せやけど、ある意味「大正楼」よりインパクトがあったんはこの建物。
「大正楼」が「京口新地」の中心あたりにあったのに対して、これは片隅にポツンとあったよーなもんやけど、
果たしてこれが旧遊廓や赤線の建物かどうかは知りません。
せやけど、藁葺き屋根の住宅の中に、明らかに個性的なこの建物、
周囲に全く溶け込んでへんところを見ると、昭和初期~戦後の遊郭・赤線建築の生き残りやと思います。

篠山遊廓跡

どうも誰も住んる形跡がなかったさかい、中を玄関越しに撮影させてもろたけど、
中はまるで江戸川乱歩の小説に出てくる屋敷みたいな感じでした。
そして、中は意外にも朽ち果てた感じもなく、画像にゃないけどステンドグラスなどもそのまま残されとるみたいで、
保存状態は外観に比べたら非常に良い状態と言えると思います。
まだ修繕したら使えそうな家やさかい、金さえあったらリフォームして住んでみたい気分です。
ま、そんな金は全然あらへんけど・・・(笑


というわけで、篠山編は終わりなんやけど、
都市部や周囲のとこみたいに、高度経済成長のドサクサや宅地開発、そして建物自体の老朽化で数多くの元遊郭・赤線の建物が消えていっとる中、
篠山は建物の数自体は少なかったものの、
(俺が気付いてへんかっただけかもしれへんけどね、ちょっと急いどったさかい)
タイムカプセルのように残ってました。
そして何より、篠山というとこが昔の日本の空気を色濃く残してる地域なんか、
「京口新地」の周りの風景もそれほど変わってへんような気がします。
そして、空気も当時とそれほど変わらんのかな?とふと思うと、
ここの遊女たちの声が風と共に聞こえてきそうで、ここを離れるのに後ろ髪を引かれる思いだった、
というのは気のせいなのか?



~おまけ 篠山遊郭簡単年表~

※遊郭・赤線関連のものは青字、その他は色なしです。
新しいことがわかり次第随時追加、変更していきます。

■明治32(1899)年 町中心部の立町に篠山検番開設
■明治40(1907)年 歩兵第七十連隊、篠山に開設
■明治41(1908)年 篠山遊郭開設(妓楼1軒、娼妓7名)
■明治45(1912)末 妓楼10軒、娼妓数32名
■大正4(1915)年 篠山軽便鉄道開業(→昭和19年廃止)
■大正8(1919)末 妓楼11軒、娼妓数44名
■大正15(1926)年2月 遊廓廃止が議会に上がるが否決
■昭和4(1929)頃 妓楼2軒、娼妓数110名
■昭和7(1932)年頃 阿部定が篠山に娼妓として滞在
■昭和8(1933)年12月 遊廓を宝塚に移転する計画が上がるが許可されず
■昭和10(1935)年 娼妓総出の盆踊が行われたという

■昭和20(1945)年 終戦

■昭和21(1946)年頃 赤線に移行か
■昭和30(1955)年 業者10軒、女性30名
■昭和33(1958)年1月 業者10軒、女性14人
■同年3月31日 売防法施行により解散・消滅


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テーマ:雑記
ジャンル:ブログ

コメント

■ Re: 大正楼についてお教え下さい。

>朝汐さん

お久しぶりです。しばらくのご訪問、おおきにですm(_ _)m

> 大正楼の写真を載せられていますが
> 『これが大正楼だ』と特定されたんは
> どんな資料に基づいてなんでしょうか?

これ、何やったっけな?(笑
「篠山編」を書いた時はかなり初期で、一次資料を探る能力がなかったので、ネットか何かの情報やったと思われます。
2014/07/21 URL BJのぶ #- 

■ 大正楼についてお教え下さい。

お久しぶりです。
古い話しで恐縮なんですが
大正楼の写真を載せられていますが
『これが大正楼だ』と特定されたんは
どんな資料に基づいてなんでしょうか?

最近、ちょっと気になったもんで・・・・


最近、ちょって気になったもんで・・・・

2014/07/14 URL 朝汐 #dS5vVngc [編集] 

■ 私も訪れました

のぶログさん、私も見に行きました。
平成24年9月時点で掲載されている家屋は現存
していました。
同地域内で、湊住宅という、ものすごい古い小さな
住宅が10棟(遊郭西側)ありました。
これらも、深い歴史がありそうな気がしました。
2012/09/25 URL 夢路 #- 

■ 管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます
2012/09/05   # 

■ Re: お初です

>弥勒さん

> こちらには、はじめまして! 風情がある建物の中では、いろんな女と男のドラマがあったのでしょうね。 

ある意味こういうとこって「黒歴史」と化して、地元の人も黒歴史にしたいような感覚があるので、
写真撮影はおろかブラブラ歩くだけでも場所によっては神経を使うことがあるんやけど、
(事実、不審者扱いされて警察呼ばれたこともありますしw)
こういうのも立派な歴史やさかい、我々が記録に残しとかんとあかんと思うんですよ。
遊廊とかの遊女なんかは身売りされてきた女性が多いさかい、ある意味悲しい歴史でもあるんやけど、
それでもそこにあった「事実」を記していきたいと思っとります。黒歴史で葬り去らせるにゃもったいないですからね~。
2009/05/09 URL のぶ@大阪 #- 

■ お初です

こちらには、はじめまして! 風情がある建物の中では、いろんな女と男のドラマがあったのでしょうね。 京都の島原を歩いた時に私も、ふいに不思議な感覚になった瞬間が、ありました。
2009/05/06 URL 弥勒 #- 

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