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BEのぶ

  • Author:BEのぶ
  • 自称「ブログエッセイスト」ことBEのぶです。
    昭和史をライフワークにしていますが、平成ももうすぐ30年経ち、昭和が遠い過去になりつつあります。
    昭和も遺産・遺物を探れば立派な「考古学」となります。題して「昭和考古学」。ジャンルは遊郭・赤線跡から鉄道、そしてすっかり忘れ去られた歴史を掘る「昭和の考古学者」として、昭和の名残りを通して考察する旅を続けています。

    基本は標準語で書きますが、エッセイは大阪弁で書いていきます。

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■■■米内光政のすべて

金がないので外出もできず、しばらく読書三昧のBJのぶです(笑
せやけど、この人生読書しまくりというのもまた贅沢な時間やな~と感じる今日この頃やけど、
今までまとまった読書の時間なんてなかったさかい、この際手あたり次第本を読んでしまえ、と腹をくくって、朝から晩まで本とにらめっこです。
目標!1327店・・・ってそりゃ薬屋のCMやん(笑

で、久しぶりに「気まぐれ感想文」ってタイトルでブログのカテゴリを増やしてみました。
ホンマはこのカテゴリだけ独立させて違うブログにしようかと思ったんやけど、
色んなブログサイトをつまみ食いしてみたものの、どこも一長一短があっていまいちしっくり来ず、
FC2も一メルアドにつき一つのブログのみ、FC2さん、ケチ臭いこと言わんとID一つで複数のブログ作らせてーなー。
それやったらこんなに頭抱えることあらへんのに(笑
って愚痴ってもしゃーないけど、考えに考えた結果、やっぱうちのブログで書こうと決意しました。
せっかくのブログの新陳代謝やけど、このブログもほったらかしにするわけにもいかんさかい、
まあこういう感じで自分の中の「ブログ論争」の矛が納まってよかったよかった!?
ちなみに、この「気まぐれ感想文」の元ネタは、星新一の著書の「気まぐれ学問所」にあやかって名づけました~。

さて、ダラダラ書くんもなんやし、早速第一弾行ってみましょう。
* * *
090413 yonai

図書館で大量に本を借りてきてまず読んだんが、

「米内光政のすべて」

です。
米内光政って名前でピンときた人はたぶん少ないと思います。
むしろ、「米内?『こめうち』って読むの?ちゅーか誰やねん」って思う人が半分以上やと思います。
それくらい知名度は決して高いというわけやないんやけど、
日本の歴史に深く関わって、総理大臣にまでなったにも関わらず、その名前は歴史の授業でもよっぽどのことがない限り出てくることはないですわな。
歴史好きの俺も、確かに名前くらいは知ってたけど、よく考えたら一体何した人なんやろ?
と最近、つい数年前まで知らん有様でした。
で、本を読んで知れば知るほど米内光政という人の功績というか、それ以前に一人の人間としてめちゃおもろいなこの人とハマってしまい、
今では尊敬する人の一人になって、「自称 米内光政研究家」になっとります(笑

米内光政ってどんな人か言うのは、概略はWikipediaの米内の項目とかを見てもらったらいいんやけど、
「軍人なのにあれだけ視野が広く偏ったとこがなく、冷静に物事を見つめる人は珍しい」
って大久保利通の子供にあたる牧野伸顕が絶賛したくらいの、
軍人なんやけど全然軍人らしくないとこが魅力的とも言えると思います。
海軍軍人って陸軍軍人と比べて視野が広い人が多かったと言われとるけど、
米内はその典型的な例で、海軍だって積極的に戦争の片棒を担いで日本を滅ぼしたのに海軍の評判が戦後も比較的良く、
戦後のあの東京裁判でも海軍軍人がほとんど起訴されへんかったのは、
(これは今でも「東京裁判の七不思議」って言われとります)
米内みたいな人がけっこうおったんかもしれへんし、彼の人間的魅力もあったんかなと。

米内光政の言葉で俺がいちばんシビレたのは、

「人間と言うものは、いついかなる場合でも、自分の巡り合った境遇をもっとも意義たらしめることが大切だ」

という言葉です。
これは、光が当たらないドサ回りが多くて一時は「提督の墓場」「クビ5分前」って言われた地位に追いやられた苦労人やからこそ出せる言葉やと思います。
人間って生きてると「こんなはずじゃなかった」「こんな仕事、やりたくない」って不満に思うことが必ずって言ってええくらいあります。
やりたくないポジションに就いたり、左遷されたりすることもあります。
酒を飲んで忘れたいことだってあるはずです。
それでも、腐らず拗ねず今を有意義に生きたら日の目を見ることがあるよ、その時のために今を大切にして自分をしっかり磨いておきなさい、
ということを言いたかったんやと思います。
米内が海軍大臣やった頃に海軍次官、つまり部下として日本を誤った方向に向かせないように、共に命を張った山本五十六の、

苦しいこともあるだろう
云い度いこともあるだろう
不満なこともあるだろう
腹の立つこともあるだろう
泣きたいこともあるだろう
これらをじつと古らえていくのが
男の修行である


という言葉も似たようなニュアンスがあるように思えます。
米内の第一次海軍大臣時代(昭和12~14年)に、米内、山本と共に「海軍三羽烏」と呼ばれ、第二次海軍大臣時代(昭和19~20年)に海軍次官として一緒に「どうやって戦争を終わらせるか」を模索した井上成美が、昭和13年くらいに退勤後にヤボ用を思い出して大臣官邸に向かった時、
和服姿の米内と軍服姿で米内の横で手枕をして寝ころんでいる山本が、リラックスしながら色々言いたいことを言ってる姿を見て清々しさを感じたそうやけど、
それくらい二人の仲は良かったそうです。
山本五十六自身も米内を、
「大臣は頭(の回転)はそれほどじゃないけど、肝っ玉が出来ているので安心だよ」
「人には誰しも長所、短所があるよ。でも米内さんほど欠点がない人も珍しい」
と評価しています。
ちなみに上の山本五十六の言葉を補足すると、確かに「用ないグズ政」とか「金魚大臣」って言われた時期もあったこともあって外はバカに見えるけど、
実は勉強量はハンパやのーて、読書も当時の軍人が読まんよーな経済の本からロシア語の本まで非常に広かったそうな。
1週間に2時間分仕事があったらいい方っちゅー所に左遷されても、「今のうちに」とばかりに読書に励んで、そこで蓄えた知識と教養が大臣になった時に大いに生かされ、
大臣時代もちゃんと自分の言葉で答弁しとったそーで、山本五十六も、
「回りは大臣の演説は俺が裏で作ったとか言ってるけど、うちの大臣はちゃんと自分で勉強して自分の言葉で説明してるよ。どっかの大臣(←当時の陸軍大臣の板垣征四郎のこと)のよーに部下の原稿の棒読みじゃないし~」
と満足したような顔で言うとったと言います。

まあそれはさておき、
この「人間と言うものは・・・」の言葉を知った時はまさに上に書いた「腐りたい」時期でもあったさかい、この言葉は殴られるより衝撃的に心の中に響いて、現在俺の座右の銘になっとります(笑

昔の海軍の隠語の中に、「MMK」というもんがあります。
これは「モテてモテて困る」って意味なんやけど、米内はその「MMK」やったらしく、とにかくモテ方がハンパやなかったらしいです。
佐世保の司令長官を退任する時、佐世保駅のホームが女性で埋まったとか、上海から今で言うストーカーがやってきて付きまとわれたとか、
そういうエピソードはかなりあったりします。
身長174cm(180cm以上説もあるけど、俺は第一次近衛内閣の記念写真の近衛文麿の背の高さと比較して174cm説を取ってます)と当時にしてはかなり背が高かった方で、
(山本五十六が157cmくらい、東条英機は150cmなかったらしく、軍帽を高くして誤魔化してたとか)
ルックスも日本人離れしとった言う外見もあったらしいけど、
何より内面から出る魅力が「MMK」にさせたみたいで、
昭和14年くらいに雑誌が「理想の男性」を女性に聞いたところ、
13人中8人が米内を挙げたとか。
女性だけやなくて男性の中でもファンがいっぱいおったらしくて、かの吉田茂や今の天皇陛下と皇后陛下をくっつけたキューピット役をした慶応の名塾長の小泉信三などが「自称米内ファン」やけど、
中でも最大の隠れ米内ファンは昭和天皇やったりします。
「戦争回避のための最後の切り札」として米内を総理大臣に「自己推薦」したんも昭和天皇やし、戦後に、「米内内閣だけは続けさせたかった。あの内閣が続いていれば戦争にならずに済んだだろうに」とつぶやいたと言われとります。
また、終戦前に副総理格の海軍大臣として、天皇の真意を見抜いた上で軍部大臣としては唯一ポツダム宣言受諾派に回り、
鈴木貫太郎首相をサポートして重石のように日本を導いた功績も天皇は忘れてなかったみたいで、
「米内がいなければ(日本は)今頃どうなってたかわからない」
と侍従に語ったと言われています。
俺は「終戦影のMVP」って表現してるんやけど、あの玉音放送の原稿の訂正での争いで、
徹底的に戦争継続を主張した阿南陸軍大臣が、
「まるで戦争に負けているかのように聞こえる」
と言ったのに対して、米内海軍大臣が、
「何言ってるんだ。現に負けているではないか」
と言い返したエピソードや、
戦後初の議会で「陸軍大臣」に謝罪を求める議員に対して、陸軍大臣が頭を下げて謝罪したのに対し、
「海軍大臣はどうした」というヤジが。
しかし、米内は座ったまま動こうとせず、結局「海軍大臣は何も答弁を求められていない」と何もしないまま終わったんやけど、
それは米内の
「戦争に向かわせたのは軍人だけではない。議員も軍、特に陸軍に尻尾を振って東条なんかに最敬礼してたではないか。自分らの責任は棚上げにして、戦争が終わったら軍だけに責任を負わせるとは何事か」
という無言の抗議が何気に好きやったりします。

『米内光政のすべて』には、有名な阿川弘之の『米内光政』(以下阿川本)ほどの面白さはないものの、
様々な方面の米内評が載っていて、阿川本とはまた違った米内像が浮かび上がってきます。
特に、巻末にある長男の米内剛政氏の父の思い出なるものにこういうものがあります。
部下の扱い方を質問した息子に、父光政が
「人間にはそれぞれ与えられた幅がある。お前が大きくなって課長になると、このくらいの幅になって、部下を持つ。
次長になるとこうなる。部長になるとこうなる。下を見る時は幅の中で泳ぐだけ泳がせろ。枠からはみ出た時にコツンとやるのが本当の親切で、そうすればどんどんよくなるんじゃないか」

と言ったことがあるそうです。
これは、阿川本に書いてある、部下に語った
「人にはそれぞれの能力があるからね。
物サシでいうと横幅が広いのもあるし、縦に長いのもある。
物サシの具合をよく見て、その限度内で働いている間は、
僕はほったらかしとくよ。
ただ、能力の限界を越えて何かしそうになったら、
気をつけてやらなくちゃいかん。
その注意をしそこなって部下が間違いを起した場合は、
注意を怠った方が悪いんだから、こちらで責任を取らなくちゃあね。」

という言葉とよく似ていると思います。
事実、米内はこういう風な部下操縦法を行ってたようで、よっぽどのことがない限り怒るどころか叱ることもなかったそうです。
ただ、頭が固い部下を焼きそば屋に連れて行って「もうちょっとバカにならないと人が近寄らないよ」と優しく諭したり、職務を超えたことをしようとしている秘書の質問にわざと返事をしなかったり、
「これぞ米内流」という教育法は行っていました。
阿川弘之も、「米内さんのような上司が理想だな」と言ってますが、俺もこういう上司に巡り合いたい、というか、巡り合わなければ自分がなればいいと目標にしています。
と簡単には言うけど、なかなかそういう境地にはなれないのが虚しいところであります(笑

また、守屋洋という、中国古典を中学生でもわかるように解説している本を書いている人がいるけど、
『老子』を解説した本の中に、
「バカに見えて溢れるような智謀を中に秘めている。しかしあくまでバカを装う」
「部下にすべて任せて自分は何もせず、責任はしっかり取る」

『老子』的理想のリーダーの例として、大山巌と米内の名前を挙げとります。
中国古典の守屋本は愛読書の一つやけど、そこに米内の名前が出てきたこともまるで自分の名前が出てきたよーに嬉しかったけど、
大山巌と米内って「明治風大人」なとこが似てるな~と色んな米内本を読んで思ってたので、
守屋先生と同じこと考えとったんや俺、と自分を褒めてやりたい気分になりました(笑
やっぱ、これやね、
「バカに見えて溢れるような智謀を中に秘めている。しかしあくまでバカを装う」
この境地を目指そう♪


戦後の偏った史観で、「軍人=悪」というか、軍人って鼻息が荒い猪武者みたいなイメージがあるけど、
確かに戦争に向かう時はそういう軍人が多かったと聞いてます。
しかし、そういう時代にこういう人がいたのがむしろ奇跡やったのかもしれません。
日本の歴史にとって忘れたらあかん人物の一人、それが米内光政やと思ってます。

興味ある方は、他にも色々な米内本があるさかい、どうぞー。

阿川弘之『米内光政』
→米内光政を知るにはこの本が初心者の入口のようなものです。ものすごいボリュームがある伝記ですが非常に読みやすいのでスラスラ読めます。俺はこれで米内にハマりました(笑

実松穣 『海軍大将米内光政正伝―肝脳を国の未来に捧げ尽くした一軍人政治家の生涯』
→米内海軍大臣時代の秘書で、上に書いた「人間と言うものは・・・」を聞いた本人による米内の伝記です。秘書としてずっと接していたのでエピソードがリアルで面白いです。

緒方竹虎 『一軍人の生涯』
→元祖米内本とくればこの本。副総理も経験した政治家から見た米内評です。文章は少々硬いけど、阿川本の補足にもなります。

高田万亀子 『静かなる楯―米内光政』
→米内に惚れた著者の伝記。少々米内贔屓な描写もあるけど、全体的にボリュームがあり細かい米内像を知ることができます。
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コメント

■ 

はじめまして
大関泉山と申します

高田万亀子氏の『静かなる楯 米内光政』では鈴木首相の心情が阿南陸相に近かったから、米内海相については何も書かれていなかったのではないかと書かれていましたが、しかし秦郁彦氏の『昭和史の謎を追う』(たしか下巻)には、鈴木さんが首相に就任直前あたりに息子もしくは孫が「自分はバドリオになってやる」とつぶやいたのを聞いていたので、高田氏の意見も違うように感じます。
ただ、鈴木首相が首相就任後に(天皇の地位を案じるなどして)心変わりしていたのなら、やはり高田氏の言う通りかもしれません。

米内大将は僕も好きです(伝記は『静かなる楯 米内光政』しか所持していませんが)。
しかし、一部の発言や行為のみ取り上げて彼が対中強硬派だったと多くの人に勘違いされているのが残念です。
ただ、いかに議会や政党を好まなかったとは雖も海軍大臣として、下村陸相同様謝罪もすべきだったと思います。
2014/08/09 URL 大関泉山 #- 

■ 大井篤の『海上護衛戦』

拙文へのコメントありがとうございます。ところで表記『海上護衛戦』に、ご本人が如何に職務に献身したか的論旨について疑義の点があるので愚見を述べて見ます。
①部下の三田一也中佐が忠実に海上護衛の実情についてレポートを提出したのに何故握りつぶしたのか?
②終戦間際、向日丸護衛中の第82号海防艦が北鮮の清津沖でソ連雷撃機に轟沈され、向日丸が同艦の生存者を救出したのに、何故このことを明記しなかったのか?
 舌足らず文はウィキペデアをご参照ください。
2010/12/04 URL 菊池 #l9065ZhE [編集] 

■ Re: 決断

>菊池さん

コメントおおきにですm(__)m

> 日本の商船隊はただただ敵の潜水艦・爆撃機の餌食となり、石油等戦力資源枯渇が日本の最たる敗因で、新造巡洋艦「酒匂」などは舞鶴湾に隠れていた。

これは大井篤(大佐)が書いた『海上護衛戦』にも詳しく書かれとりますが、昭和19年半ばには資源が枯れて「戦闘不能」になってますね。そんなボロボロの状態でよく1年ももったな、と日本人を改めて称賛したいです。
艦隊決戦ばかり目がいって海上護衛には全く見向きもしなかったことが日本海軍の大欠点やったわけで、
そこらへんは、もうお読みだとは思いますが、改めて『海上護衛戦』を見たら思います。

>  ポツダム宣言受諾の道筋をつけたのは当時の米内海軍大臣で、辛うじて一億玉砕が回避され、お陰で私自身も生き残ることができたと思う。

米内はそういう「終戦影のMVP」的な活躍をしながら全然知られてない、というのが残念ですね。
まあ、本人もそれは望んでないと思いますが(笑
不思議なのは、米内が終戦に向けて重石のような役割をしていたのに、総理の鈴木貫太郎の自伝には何も書いてないこと。
昭和天皇には直々にお言葉を頂戴し、もう一人の海軍の長老岡田啓介の自伝には米内のことを絶賛しているのに、鈴木の自伝には「よ」の字もなし。
その代わりに、潔く死についた阿南陸軍大臣や外務大臣の東郷重徳のことを絶賛しています。
何気に終戦の謎なんですよね。
2010/12/04 URL BJのぶ #qDfdtOiE [編集] 

■ 決断

私は戦時中陸海軍徴用船に乗組み九死一生で生き残った。日本の商船隊はただただ敵の潜水艦・爆撃機の餌食となり、石油等戦力資源枯渇が日本の最たる敗因で、新造巡洋艦「酒匂」などは舞鶴湾に隠れていた。
 ポツダム宣言受諾の道筋をつけたのは当時の米内海軍大臣で、辛うじて一億玉砕が回避され、お陰で私自身も生き残ることができたと思う。
2010/11/30 URL 菊池 #l9065ZhE [編集] 

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■ 1948年4月20日 日本の海軍軍人・政治家 米内 光政(よない みつまさ)が逝去

日本の海軍軍人で政治家の米内 光政(よない みつまさ、1880年(明治13年)3月2日 - 1948年(昭和23年)4月20日)は連合艦隊司令長官、第37代内閣総理大臣を歴任している。この米内という姓の語源は何だろうか。 まず、発祥地は『日本名字家系大事典』によれば、陸奥国岩...
2009/04/19 人名力
 
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