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BEのぶ

  • Author:BEのぶ
  • 自称「ブログエッセイスト」ことBEのぶです。
    昭和史をライフワークにしていますが、平成ももうすぐ30年経ち、昭和が遠い過去になりつつあります。
    昭和も遺産・遺物を探れば立派な「考古学」となります。題して「昭和考古学」。ジャンルは遊郭・赤線跡から鉄道、そしてすっかり忘れ去られた歴史を掘る「昭和の考古学者」として、昭和の名残りを通して考察する旅を続けています。

    基本は標準語で書きますが、エッセイは大阪弁で書いていきます。

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■■■岸和田をゆく 消えた遊郭・赤線の跡を訪ねて5

久し振りの赤線・遊郭跡を訪ねる旅でございます。

「ふるさと岸和田」という本があります。
半分自費出版みたいなもんやさかい、一般的にゃあんまし知られてへん本なんやけど、
岸和田で生まれ育った著者が、戦前~戦中~戦後~現代の岸和田の思い出を語るちゅー感じのエッセイで、
岸和田市立図書館に置いとったさかい、「岸和田市民」になった記念に図書館から借りて読んでみました。
せやけど、「ふるさと岸和田」を借りた理由はもう一つあったんですわ。

大阪南部の遊郭・赤線は堺と貝塚にしかあらへんかった。
ちゅーのはあくまで公式に認可されとる「赤線」の話であって、モグリのそーゆー系のとこはけっこうあったみたいですわ。
今でも現役の信太山も戦前からあったって記録もあるけど、
あくまであそこはモグリのとこで、警察の認可は受けてへんかった「青線」が始まりみたいですな。
警察の認可を受けて営業しとったとこは「赤線」、認可を受けてへんモグリは「青線」って言うんやけど、
所詮モグリやさかい、貝塚みたいにちゃんと市史にも残ってる「赤線」と違って記録言うんはほとんど残ってまへん。
同じ岸和田市立図書館にあったある本の付録の、日本全国の遊廊の場所・レートが書いとる貴重な資料の「全国遊廓案内」にも、当たり前ながら岸和田はもちろん載ってませんでした。
せやけど、人々の記憶にゃちゃんと残っとるみたいで、「ふるさと岸和田」にも岸和田にあったという花街のことが書かれとります。
今日は、その岸和田にあったっちゅー、記録にゃ残ってへんけど記憶にゃ残っとる幻の「岸和田花街」の話です。
* * *
岸和田は大坂(大阪ね)と和歌山を結ぶ紀州街道が通る岸和田藩の城下町で、昔から人々が集まる要素はあったんやけど、
江戸時代から城下町に遊廊を作るのを禁止しとった影響で、最後の最後まで堂々と店を構えることはあらへんかったらしいです。
その代りとして、貝塚に遊廊が出来て昭和まで栄えとったっちゅーわけですわな。
せやけど、禁止されとったとは言うても、人はその法の網を抜けるもんで、料理屋ちゅー名目で「営業」はしとったらしゅーて、「ふるさと岸和田」によるとこの岸和田の花街の最盛期は昭和13年頃、ちょうど戦争景気で日本全体が好景気に沸いた頃ですわな。
岸和田あたりは近代は紡績で栄えたとこ、景気が良くなって羽振りが良くなったおっさんどもが大挙して訪れた風景が、この文章を見ただけで目に浮かびそうですわ。
当時の待合・料理屋の数は10数件、芸者の数は130人ほどやったらしく、華やかな大規模な遊郭と比べたらごっついこじんまりとしとるけど、
そこに確かに男と女が出会う場所があったことを確認できます。
『大阪府統計書』にも名前が出てきて、それによると


昭和9年(1934)  芸妓置屋41軒 芸妓123人
昭和10年(1935) 芸妓置屋41軒 芸妓130人
昭和11年(1936) 芸妓置屋41軒 芸妓136人
昭和12年(1937) 芸妓置屋41軒 芸妓149人
昭和13年(1938) 芸妓置屋41軒 芸妓112人
昭和14年(1939) 芸妓置屋24軒 芸妓118人
昭和15年(1940) 芸妓置屋27軒 芸妓104人



となっており、数字から見る岸和田花街の最盛期は昭和12年、「ふるさと岸和田」に書いとる最盛期の昭和13年とほぼ一致しとります。
せやけど、芸者遊びってかなり金を浪費する贅沢、日本が戦争へと向かいその影響が生活に影を落とし始めた頃、芸者遊びも「贅沢は敵だ」の対象に入り、その影響が昭和13年から15年にかけて数字で見え隠れするような気がします。
そして、そのまま戦争に入ると芸者遊びなんておおっぴらには出来なくなり、岸和田花街はいったん休業になったと思われます。
そして戦後、遊廊が廃止になって「赤線」時代が訪れ、戦前は同業やった今里新地や住吉新地が赤線になったものの、岸和田は正式に認可されることなく、ちゅーか半分忘れられとるかのよーに存続し続け、
昭和45年を境にどんどん衰えていき、昭和60年頃にゃほとんど姿を消したそうな。

以上、「岸和田花街」の歴史やけど、
「岸和田花街」はなくなっても何かしらの痕跡は残っとるかもしれへんと思って、かつてそれがあったっちゅー岸和田市のある場所を訪ねてみました。

そこは岸和田市の大北町ちゅーとこで、
(ホンマは町名は伏せようと思ったけど、本にゃ堂々と書いてるさかい書きました)
今は前に大阪臨海線と阪神高速湾岸線が走り、大型ショッピングモールの岸和田カンカンも出来とる少々騒がしいとこやけど、
かつてはここあたりは海岸線で、今でも小さな港湾運送会社などもあって大北町は岸和田の海沿いにあった港町ちゅーことがわかります。

090307 1

大北町のメインロードっぽいとこはこんな感じやけど、
恐らくここあたりに昔は小料理屋とか待合なんかが並んどったんかもしれませんな。
大北町を30分くらいかけてグルッと回ってみたけど、今じゃ静かな住宅街になっとるみたいで、
10年前くらいに建てられたよーな新しい家が立ち並ぶ、特に普通の住宅街と変わりない姿になっとりました。
まあそれはそれで、ある程度は覚悟しとったけど、今までの遊郭・赤線跡を訪ねてみて全く痕跡があらへんかったってとこはなかったさかい、
(とうの昔に壊されたはずの堺でも痕跡はあったさかい)
ちょっぴり寂しい気分やったんは正直なとこかもしれまへん。
せやけど、これは時代の流れやさかい仕方ないかもしれませんな。


090307 2

目新しい一軒家ばっかしのとこを回ってみたとこで、一軒昔からありそーな家を見つけました。
まさか待合とかの跡やないとは思うけど、金太郎飴みたいな住宅ばっかしの中でかなりの存在感があったことは事実ですわ。
画像がピンボケなんが玉に瑕ですわな・・・帰ってPCで見て初めて気付きましたわ(笑

090307 3

上のお宅の玄関なんやけど、また個性がある、俺のアドレナリンが騒ぎそうな扉ですな~。

ちゅーわけで、今回の幻の「岸和田花街」巡りは、残念ながら痕跡を見つけることはできませんでした。
時代の流れで消え去り人々の記憶からも消え去りつつある「岸和田遊郭」やけど、
本に痕跡を残すことによってそれを見た人(俺みたいな人間ね)の記憶に残り、歴史の一風景として歴史の土の中に埋もれて次の人の発掘を待っていることでしょう。
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テーマ:雑記
ジャンル:ブログ

コメント

■ Re: 興味深いです

>ワッキートラボルタさん

はじめまして。コメントおおきにです。
岸和田は残念ながら跡形もあらへんかったけど、貝塚は思ったより残ってますな~。
一昨年に偶然和歌山の中之島に行った時、周囲の雰囲気に何かピンときて調べてみたら、やっぱ青線か赤線の跡やったみたいで、今度再調査してきますわ。

あと、河内長野は壊されて跡形もあらへんって聞いてたさかいノーマークやったけど、ちょっとでも残っとったら行ってみよーかなーと思います。
2009/03/19 URL のぶ@大阪 #- 

■ 興味深いです

岸和田では見つからなかったんですね

貝塚は知ってました
営業でこの周辺の開業医や薬局を担当しでました

当時で80くらいの
医師が皮膚科泌尿器科をやってまして

まあ性病やらも
診てたんでしょうね
僕は河内長野市ですが近鉄河内長野駅から東側のところの路地から石川を渡る

黄金橋の所に
江戸から続く遊郭があり

平成のはじめまで
やってたみたいです

取り壊されたりして
あまり残ってないみたいだけど

面影はありますね

東京の新宿ゴールデン街や西荻窪柳小路なんかは
そのまま飲み屋で
狭い階段上り
二階が座敷
みたいな感じ

残ってていいなあと

お邪魔しました

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