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BEのぶ

  • Author:BEのぶ
  • 自称「ブログエッセイスト」ことBEのぶです。
    昭和史をライフワークにしていますが、平成ももうすぐ30年経ち、昭和が遠い過去になりつつあります。
    昭和も遺産・遺物を探れば立派な「考古学」となります。題して「昭和考古学」。ジャンルは遊郭・赤線跡から鉄道、そしてすっかり忘れ去られた歴史を掘る「昭和の考古学者」として、昭和の名残りを通して考察する旅を続けています。

    基本は標準語で書きますが、エッセイは大阪弁で書いていきます。

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■■■洲崎遊廓跡をゆく 消えた遊郭・赤線の跡を訪ねて4

「消えた赤線の跡を訪ねて」シリーズ、鳩の街玉の井と訪ね歩いて、
車に乗って移動して次に向かったのは、

洲崎

ってとこでした。
「洲崎」って名前でピンときたらもうあなたは通(笑
今は「東陽」って地名になって「洲崎」って地名自体は消えてしもとるけど、
その洲崎にゃ、規模じゃかの吉原に負けてへんくらいの遊廓があったことは、今は昔の話。

赤線時代の洲崎地図

地下鉄東西線の木場駅からちょっと歩いたとこに、その「洲崎」は存在してました。
洲崎の歴史は江戸時代までさかのぼることができ、
元々は根津ってとこに江戸時代に吉原と並ぶくらいの規模の遊郭が存在しとりました。
明治時代になっても存在しとったんやけど、そこに大学、つまり今の東大が出来ることになって、
さすがに大学の横に遊郭はちょっと・・・ちゅーわけで、
根津遊郭は強制的にここ洲崎に移転になってまいました。
洲崎は、今でこそトキオの真ん中の「陸地」にあるっぽいけど、元々ここは埋立地で、洲崎も長崎の出島みたいに海に半島のよーに突き出たよーに隔離されとったそーな。
洲崎の遊郭は、上の地図の碁盤の目のように区画されたとこ一帯がすべてそーでした。

080831 洲崎1

上の画像は、地図で言うたら南の端にある運河にかかる橋の方向を撮ったもんやけど、
昔は斜めの道(橋)があるあたりは海やったそーです。
また、地下鉄が通っとる道から洲崎地区に入るとこに、緑の公園みたいなとこがあるけど、
そこも海やったそうです。
入り口も一ヶ所しかなくて、ちょうど堀に囲まれた城みたいな感じになっとりました。
回りに堀を作るのは、そこで働く遊女が逃げへんよーにするためとかで、そこにゃ遊女たちの涙と悲哀の歴史が詰まっとる言うても過言やないと思います。

で、どっちか言うたらブルジョアが通って敷居が高かった吉原の遊郭と比べて、
洲崎はどっちか言うたら庶民的なとこやったみたいで、今は木場駅からけっこう歩くことになるけど、
昔は入り口あたりまで市電が通ってて、交通の弁は悪くなかったみたいです。
戦前の遊郭時代の大正10年には、業者277軒、従業婦2112人っちゅー数字を見ても、かなり大規模な色街やったことがわかると思います。

昭和初期に発刊された『全国花街めぐり』には、洲崎をこう表現しています。

「品川は宿場の気分で海の寂寥(せきりょう)が気にならないが、洲崎は非常にそれが気になる。
要するに寂しみの勝った遊廓で、夏の遊廓、昼遊びが出来ないところ。若し昼の最中に大きな妓楼の大広間に陣取り、芸者幇間(たいこ)に座を持たせてゐたところで、何となく古寺の本堂で無理に騒いでゐるやうな心持ばかりして来る」



また、昭和14年に洲崎を訪れたという、画家の木村荘八はにこう書いとりいます。

「何しろこの遊廓の印象は何処も彼もヘンに森閑として薄暗く陰気でゐて、そのくせぬるい湯が沸くやうに、町のシンは沸々と色めいている。―ちょっと東京市内では他に似た感じの求め難いものである。
ぼくの乏しい連想でこれに似た感じのところは、京都の島原。それから強いていへば阿波の徳島の遊廓、三浦三崎の遊廓。さういふものに似てゐる。
市街地からエロティシズムだけ隔離して場末の箱に入れた感じだ。色気が八方ふさがりの一画に封じ込まれた為め、町が内訌してゐる塩梅だろう」

『洲崎の印象』より



この2つの引用に共通なのは、「やけにシーンとしている、どこかもの寂しい感じがする」っちゅーところでしょう。
吉原みたいに四六時中ワイワイ騒がしい所でもなく、昼に来たら人気のない森にでも来たよーな静けさがある所って感じやろか。
で、おもろいのは木村荘八のエッセイの「ぬるい湯が沸くやうに、町のシンは沸々と色めいている」「市街地からエロティシズムだけ隔離して場末の箱に入れた感じ」ってとこです。
これは「風俗街」を的確に短い言葉で表現したよーな表現、なかなかええ感じの表現やなーと、ブログとは言うても同じ「もの書き」として敬意を表しますわ。
強いて言うなら「ぬるい湯」は「無色だが何となくピンクの湯気」やったんやろなーと思います(笑


その洲崎も、徐々に戦争の影が忍び寄ります。
満州事変が起こった昭和初期から日中戦争が起こった頃は、出征する兵隊さんの童貞脱出、つまり「筆おろし」のために団体さんかつ大量に遊廓にかけつけて、洲崎遊廓も一種の「戦争バブル」のよーな事が起こりました。
『警視庁統計書』を明治時代から昭和まで、そこに書かれた数字をせっせとエクセルに入力しとったら、
貸座敷と娼妓数、客の数共に昭和初期が最高値になっとります。
そして、貸座敷の数だけやけど、「吉原並みの規模」を常に保ちながらも吉原があるために常にナンバー2の座に甘んじとった洲崎の見世の数が、昭和6年に吉原を抜くことになります。

貸座敷数 吉原:293軒
       洲崎:297軒


ここから太平洋戦争が始まった昭和16年までの間、洲崎は見世の数では悲願の(?)「東京一」を果たします。
昭和7年のデータによると、

●洲崎 貸座敷:306軒 娼妓数:2856人
(※洲崎遊廓の明治~戦前の娼妓数の最大数)

●吉原 貸座敷数:302軒 娼妓数:2915人

■松島 貸座敷数:256軒 娼妓数:3750人

■飛田 貸座敷数:234軒 娼妓数:3237人


出典:『警視庁統計書』(東京) 『大阪市統計書』(大阪)



おお、一時は貸座敷数・娼妓数・客数日本一の「遊廓三冠王」こと松島さえも抜いて、めでたく「日本一」になっとります。
もちろん、娼妓数などは松島のダントツ1位やし、新興遊郭の飛田がすごい勢いで増えてるけど、
数字を見てもここあたりが洲崎遊郭のピーク時やったと言うてええでしょう。
せやけど、実は大阪にゃ今の道頓堀あたりにあった「南五花街遊廓」ってのがあって、そこは
■南五花街 貸座敷:487軒 娼妓数:730人 (『大阪市統計書 昭和7年』
と洲崎を抜いてたりします。
ここは5つの町の花街や遊廓の連合体で一つの遊廓として登録されとるさかい、ある意味反則なんやけど、
「貸座敷免許地」は一つやさかい、残念ながら洲崎遊廓は「暫定日本一」ってことで(笑

そして戦争が泥沼になってアメリカとの戦争が始まって生活もかなり切り詰められた昭和18年10月31日、
海軍が石川島造船所の徴用工の寮にするために洲崎に明け渡しを要求、戦争中の国民総動員の時やさかい反対なんかしたらそれこそ「空気読め」な上に、軍からの「命令」やさかい逆らうわけにはいきません。
洲崎は海軍に明け渡され、業者たちは同業者が集まる別天地へと流浪していきます。

11092001

図で書くとこんな感じになります。
戦後の赤線として有名な武蔵新田は、元々は洲崎→羽田というルートから来てるわけで、洲崎の分家筋みたいなもんと言うてもよろしいかと。 

そして昭和20年3月10日のいわゆる「東京大空襲」で洲崎は敵の目標になって跡形もなく焼けてしまいます。
せやけど、終戦の半年後には洲崎の業者の一部が戻ってきたんか、
戦後は「洲崎半島」の右側半分、上の地図で赤く塗った部分のみが「赤線」として営業許可が下り、
残りは住宅街として再出発します。
「赤線」としての洲崎は、昭和29年にはカフェー220軒、従業婦800人という、全国的にも規模が大きい方なカフェー街になったんやけど、
(だいたい同じ時期の吉原が900人弱、大阪の松島が約1300人)
洲崎が今でも伝説の赤線として名を残しとるんは、赤線が廃止になる2年前に、

「洲崎パラダイス・赤信号」(日活)

ちゅー映画が上映された影響もあると思います。
三橋達也などが出演した「まっとうな」映画で、日活ポルノちゃいまっせ(笑
映画が上映された時、ここはもちろん「現役」やったのもあるけど、当時の雰囲気がよくわかる貴重な時代を映し出した映画になっとります。
もちろん、今はここにゃ何もあらへんけど、当時の映画で映った飲み屋街などは今でも残っとるそーです。
残念ながら、俺はスタミナ切れにつき探し当てることはできへんかったんやけどね・・・。

さて、洲崎ってどんなとこか一通り説明したとこで、洲崎探索行ってみよー。
* * *
080831 洲崎地図

さて、まずは上に出した地図に再登場してもらいます(笑
地図上に番号を振ってあるけど、今回はわかりやすいよーに番号を振ってみました。
これで、どの建物がどこにあるんかわかりやすくなったと思うけど、
道が碁盤の目やさかい、番号の振りやすいこと(笑

まあそりゃ(-_-)/■ オイトイテ

080831 洲崎2

まず洲崎に入って目に付くんが、この青いタイルの建物。
番号①のとこにある、もちろん、これはまさしくカフェー建築そのものです。
今は商店街になっとるんやけど、そこに何気に、ひっそりと赤線時代の名残が生き続けとります。

080831 洲崎2-1

せやけど、残念ながら老朽化が激しいみたいですな。。。
どーも人が住んどる気配もないみたいやし、風前のともし火かもしれません。行くなら今のうちに!?

そして、元赤線地区を回ってみたら、

080831 洲崎3

地図上の番号②のとこで発見!
建物自体は古くなっとるけど、保存状態は比較的ええ方で、
「赤線のカフェー建築ときたらこれ」ちゅー、相対性理論みたいな青タイルもくっきり残っとります。
人も住んでるみたいやし、まだまだこれは安泰そうでんな。
(※2011/2あたりでこの建物はリフォームされ、写真通りの面影はないそうです・・・)

せやけど、いちばん当時の雰囲気を残しとる建物がこれ↓


080831 洲崎4

080831 洲崎4-2

「大賀」ちゅー屋号をそのまま残した建物でやんす。
当時とほとんど変わらん姿で、屋号まで残っとるんは相当珍しい。
これがどれだけ当時と変わらんか言うたら、百聞は一見にしかず、下の画像と比べてみましょう。

080831 洲崎4-3

これは赤線時代の写真なんやけど、ほとんど変わってへんのがわかると思います。
なんか、実際に見たら扉から和服姿の女性が、「お兄さんちょっとどう?」って出てきそーな妄想さえ駆り立てられるくらいリアルでした。
違う言うたら、建物角にあるネオンと、屋上にあるベランダくらいかな?
ちなみに、写真に撮ったつもりで撮ってへんかったんやけど、当時の写真横にある和風の家もちゃんと残っとりました。
この写真を前から知っとったら、同じアングルから写真写したのにな、残念。
もう行きたくても大阪に帰っとるし(笑
赤線が廃止になった後はアパートに転業したらしいけど、今は1階が選挙事務所になっとって景観が極めて損なわれとる(怒

「赤線跡を歩く」では、当時のカフェー建築だけやのーて、他に細かい赤線の名残が紹介されとるけど、
俺はこの時もう体力・気力ともに限界が来てしもたさかい、自力で探すのは断念しました。
やっぱ、こーゆーのは真夏に探索するんはかなりの重労働、夏に回ろうとする人はそれなりの覚悟と水分補給をワスレズニ~。

というわけで、
「消えた赤線の跡を訪ねる 東京編」
はこれで最後になるんやけど、数時間の間に有名な元赤線の場所を探索できたこと、
そしてそんな時間が予想外に発生したことは、やっぱし神様の思し召しがあったのか、
特に熱射病で倒れることもなく終わりました(笑
実は、トキオにゃ亀戸や八王子など、まだまだ回りたいとこがあるんやけど、
これは今後の宿題にしときますか。

★2010/7/2追記

「鳩の街」「玉の井」「洲崎」を3つまとめたスライドショー形式の画像集なんてものを、
You tubeにアップしました。
HDでアップしたさかい、「全画面」で見た方がはっきり見えると思うけど、
テストで見てみたらこの画面でもかなり綺麗に見れるみたいですわ♪
よかったらどーぞー。




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コメント

■ 

江戸時代の遊郭とは官許の遊女屋を指し、江戸府内では吉原だけに限定されています。もちろんそれ以外の場所でも売春は行われ、特に寺社奉行管轄のため取締りの緩い、有名寺社の近辺に売春を業とする店が集中しました。これらを岡場所・隠れ売女屋・私娼窟などといいました。山の手の神楽坂や音羽、根津などに岡場所があり、取締りで潰されてはまた復活を繰り返してきました。維新の騒動に乗じて、公認の遊郭となった根津が盛んになるのは維新後規制緩和で吉原以外にも遊郭が認められるようになってから。その賑わいも須崎に移転するまでの20年間のことでした。
2015/05/21 URL 根津三 #ojFE3zYs [編集] 

■ 

かなり遅いですが、なにげなくこのサイトに入ってしまいました。
1970年代の初めに大賀荘(って言われてました)に部屋を借りて住んでいました。2階でした。4畳半+6畳間、トイレ共同、あのころが懐かしい。
大家のお婆ちゃんもここに住んでいて、私の女房が大変世話になったようです。
大賀荘を出て左へそして右に入った所に銭湯がありました。
2年ほど前にここへ行きましたが、今は大賀荘も銭湯も何もかも無くなりましたね。これも時代の流れでしょうか。
2013/10/23 URL 北海熊 #- 

■ Re: 最悪

>おおやまさん

> 大賀がなくなってる。。。
>
> 更地でした!再開発で、かなりの工事が行われていました。

マジですか!?
あそこはしばらくなくならんやろーと思ってたのに・・・。
俺のブログの写真が「遺影」になるとは・・・。

> 洲崎は終わりましたね(;´д`)

残念ながら洲崎はこれで壊滅ですね。
2011/11/13 URL BJのぶ #- 

■ 最悪

大賀がなくなってる。。。

更地でした!再開発で、かなりの工事が行われていました。

洲崎は終わりましたね(;´д`)
2011/11/12 URL おおやま #- 

■ 了解

成果があれば、それをネタに忘年会でもやりたいですね♪
2011/11/09 URL おおやま #- 

■ Re: 今週末逝って来ます

>おおやまさん

お、上京で一気に回るんですね!
時間があれば、是非吉原も回ってみて下さい、あそこは俺も見逃したかもしれん建物がまだあると思うし、それぞれの場所からそんなに遠くないとこにあるさかい。
鳩の街は、"OFF LIMIT"が書かれとる建物が今年中に成仏するようなので、是非写真に撮っておいて下さい。
俺が鳩の街に行った時、これが見つからんくて、すごく心残りやったさかい。
2011/11/08 URL BJのぶ #- 

■ 今週末逝って来ます

古い記事に失礼します。今週末の11/12(土)洲崎、鳩の街、玉の井をまわってきます。さて、どれくらい建物が残っているのやら。。。天気になるように祈っておいて下さい!!
2011/11/08 URL おおやま #- 

■ Re: タイトルなし

>memeさん

はじめまして。
②の建物、事実上なくなってまいましたか・・・。
かなり刺激的な、カフェー建築の見本のよーな建物やったさかい、これはもったいない!
まあ、老朽化もあるし仕方ないと言うたら仕方ないけど、
どんどん壊されていく運命にあるさかい、今の内に急ピッチで写真に収めんとあきませんな。
貴重な情報おおきにでした。
2011/02/02 URL BJのぶ #qDfdtOiE [編集] 

■ 

昨日(2011/1/30)に洲崎に行ってきました。
①の八百屋さんは健在でしたが、②の建物あがリフォームしたようで、青タイルもすっかり無くなっていました・・・(涙
前面を全て取っ払ってしまった感じです。
バルコニーのところに少し面影があったのですが・・・。
もっと早く行けばよかった・・・残念です。。。
2011/01/31 URL meme #- 

■ 

>サクラさん

吉原は確かに東京最大のもんな上に「現役」やさかい、
(規模・人数ともに日本最大は、明治以降は大阪の松島遊郭です)
有名なんは当たり前ですわな~(笑

亀有は、「赤線跡を歩く」にも紹介されとるけど、建物は発見できへんかったみたいですわ。
是非紹介して下さいね、楽しみにしてまーす♪

再来週に黒オフで関東再上陸の予定やけど、そん時は横須賀を回ってみよーかと思います。

2008/09/03 URL のぶ@大阪 #qDfdtOiE [編集] 

■ 

興味深々で読ませていただきました。
吉原はしていましたが、他にも色々あったのですね。知りませんでした。
我が地元亀有も赤線だったらしく、唯一一軒残っております。
近々私の日記でもアップしますのでみてやってくださいませ。
2008/08/31 URL サクラ #- 

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