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BEのぶ

  • Author:BEのぶ
  • 自称「ブログエッセイスト」ことBEのぶです。
    昭和史をライフワークにしていますが、平成ももうすぐ30年経ち、昭和が遠い過去になりつつあります。
    昭和も遺産・遺物を探れば立派な「考古学」となります。題して「昭和考古学」。ジャンルは遊郭・赤線跡から鉄道、そしてすっかり忘れ去られた歴史を掘る「昭和の考古学者」として、昭和の名残りを通して考察する旅を続けています。

    基本は標準語で書きますが、エッセイは大阪弁で書いていきます。

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■■■玉の井の私娼窟・赤線跡をゆく 消えた遊郭・赤線の跡をゆく3

さて、トキオに着くんが予想以上に早くなってしもたさかい、どこで時間を潰そうかなーと思っとったんやけど、こんなこともあろうかと、ある本を今回の関東遠征で携帯しとりました。その本とは・・・。赤線跡を歩く―消えゆく夢の街を訪ねて (ちくま文庫)俺のライフワークの一つの「赤線跡を歩く」のバイブルみたいな本なんやけど、「赤線跡巡り」は大阪の貝塚・堺編を最後にしばらくご無沙汰になっとりました。せやけど、決して忘れ...
消えた赤線跡を訪ねて 鳩の街編




鳩の街探索を終えた後、昼ごはんを食べながら「赤線跡を歩く」を見てみたら・・・。
あれ?玉ノ井ってとこがめちゃ近いやん!
こりゃついでに行くっきゃあらへんな♪

ちゅーわけで、急遽予定を変更・・・って変更する予定もなかったけど、玉の井探索に向かいました。

急遽変更の予定やさかい、頼るは「赤線跡を歩く」の地図だけが頼りなんやけど、
歩いても歩いても、目的地には到着せず。

あれ?何かおかしいな。

「いろは通り」ってとこを目標に歩いとるんやけど、その入り口が全く見当たらず。
探すこと30分、せっかく回復した体力も限界、もう(探索)やめよかな?
いかんいかん、ここで諦めてどないする!負けじ魂を発揮せよ!
と思って、素直にコンビニでジモピー店員に聞いてみることにしました(笑

ソフトクリームを買ったついでに、

「いろは通りってここあたりですかね?」
「いや、あっちですよ」

あら、全然ちゃう方向を指差すし(汗
こりゃとんだ時間と体力の無駄遣い、素直に聞いたらよかったんやん(笑
しかしまあ、「赤線跡を歩く」の地図の曖昧なこと~。
せやけど本のせいにしたらあかん、事前にgoogle mapとかで調査せんかったツケやな。

ちゅーわけで、方向転換でそちらに向かったら・・・


玉ノ井のいろは通り2

やっと見つけた、「いろは通り」・・・。
「赤線跡を歩く」の写真と同じとこやし、それ以前に「いろは通り」って書いとるし。
疲れた~~!ちゅーわけで、探索前にしばし喫茶店に避難しました。
せやけど、この日はめちゃ暑かったんですわ。
暑さにゃ強いはずの俺も、直射日光が痛いくらいに皮膚に染みる暑さはちょっとこたえた。
もう年なのか・・・ってそりゃ禁句や(笑

で、喫茶店で体温を下げてたっぷり水分補給をしたとこで、本格的な探索開始!
* * *
と、ちょいとその前に玉の井について解説を。

玉の井は、「鳩の街」とは逆の、東向島駅の北側徒歩5分くらいにあるとこで、
玉の井は行政上の正式な名前は当時は「東京府南葛飾郡寺島村」の字の一つで、
「玉の井」っちゅー名前自体は、

「旧寺島村の小字に玉の井と呼ぶ所あり。その辺に周囲20間ばかりの丸き塚あり。里人にこれを聞けどもわからず。
この辺を玉の井とあれば、昔武蔵国の私党玉の井四郎助実の一類居住の地であろうか」

(東京近郊名所図会 より)



と書かれてあって、玉の井四郎助実は源頼朝が平家討伐を行った時に同行した豪族で、鎌倉幕府成立後は役人として幕府の仕事をしていたそうな。
ちなみに、その玉の井四郎は幕府成立後に今の愛知県葉栗郡木曽川町に領地をもらったそうで、ここにも「玉の井」っちゅー地名が残っとります。
せやけど、「玉の井」が伝説の「玉の井」になったんは大正時代のこと。
元々浅草あたりにあった銘酒屋街(飲み屋っぽい名前やけど、実は「それ系」の私娼街)の一部がここ玉の井あたりに移ってきたことから始まります。
玉の井の私娼街としての歴史は、元々浅草にあった私娼街が関東大震災で崩壊してしもて、寺島村(玉の井)に移ったと言われとるけど、
内務省と警視庁の資料によると、元々は大正8年に玉の井稲荷を中心に遊園地を作ろうと地元の地主が申請、それが不許可になって三業地、つまり花街建設の許可をもらい、料理屋・飲食店が並び始めました。
せやけど、昭和3年(1928)に発行された『賣笑婦論考』によると、大正7年(1918)には既に私娼がチラホラ見え始めたそうで、大正8年当時はたった3戸やったんやけど、大正9年末には95に激増、その中にはやましい行為をする所も現れて警察も取締を始めました。
そして大正12年の関東大震災で浅草を追い出された業者が寺島村に大量に流入、のちに伝説となる「玉の井」の原型が出来上がりました。
大正13年くらいまでは、寺島地区一帯にバラバラに建てられとったらしいけど、私娼をなんぼ取り締まっても埒があかん警察の方がギブアップしてしもて、
大正14年に上の地図の紫に塗った範囲に限って営業を許可するという、事実上の黙認となりました。

上に書いた『賣笑婦論考』にゃ大正時代の玉の井の現状が書かれとって、案外知られとらん玉の井創世記の数字が載っとります。

大正12年6月末 私娼宿数:不明 私娼:351名
大正12年末 (震災のため調査せず)
大正13年6月末 私娼宿数:260軒 私娼:303名
大正13年末 私娼宿数:275軒 私娼:359名
大正14年6月末 私娼宿数:322軒 私娼:557名
大正14年末 私娼宿数:338軒 私娼:577名

出典:『賣笑婦論考』



これを見とったら、玉の井がどんどん発展していく様子が数字だけでもわかりますわな。

また、大正15年当時の玉の井の私娼653人の、ここで働く前の職業の一覧表もあったりしました。

酌婦及び女給:172人 (26.34%)
女工:102 (15.62%)
女中:83人 (12.71%)
農業:111人 (17%)
飲食店の女主人:58 (8.88%)
娼妓:9人 (1.38%)
芸妓:16人 (2.45%)
待合の女中:16人 (2.45%)
旅館の女中:13人 (1.99%)
活動写真の女給:7人 (1.07%)
※↑はおそらく女優か女優崩れだと思われ
裁縫:7人 (1.07%)
事務員:7人 (1.07%)
女髪結:4人 (0.61%)
※俺註:今の美容師はこの頃から出てきたのですが、当時は卑しい職業で「女髪結」と言われてたことが山野愛子の伝記に書いてたさかい、「女髪結≒美容師」って解釈でOKでしょう。
妾:2人 (0.31%)
遊芸人:1人 (0.16%)
その他:45人 (6.89%)




で、玉の井に興味があって調べとる人が注意すべき点が2つあります。

一つ目は、

「玉の井は戦前と戦後じゃ場所が違う」

っちゅーこと。

まずはこの地図をどーぞ。

玉の井私娼窟復元図

これは、玉の井のことが書かれとる「玉の井本」のいくつかをベースに、今のGoogle mapの上から編集した地図やけど、多少の区域の食い違いはあるもののだいたいこんなエリアと思ってええかなと思います。
戦前の「玉の井」と戦後の赤線は、戦前は「大正道路」と呼ばれとった今のいろは通りを挟んで場所が違ったりします。
いろは通りより南が戦前の私娼窟、北の濃い赤で塗った部分が戦後の赤線エリアです。
戦前の玉の井私娼窟は出来た順番によって「◯部」に分かれとって、「1部」がいちばん古く設立されたエリアです。
戦前の私娼窟としての「旧玉の井」は、後でも書くけど昭和20年の東京大空襲で跡形もなく焼けてしまい、平成になった今ではなんの面影も残っとらんとされとります。

対して、戦後に作られた赤線としての「新玉の井」は、空襲で「旧玉の井」はすっかり焼けたもののいろは通りより北は全く焼けず、焼けだされた業者の一部がそこで新しく商売を始めてそこが赤線として認められたものです。
業者の一部は玉の井より南の「鳩の街」に新しい「私娼窟」を作り、戦後はそこが都心から近い上に文化人も鳩の街の方に通い始めたため、「新玉の井」は比較的地味~な所やったそうです。
俺も両方歩いてみたけど、今の東向島駅からなら、徒歩で歩いたら「鳩の街」も「新玉の井」も所要時間はそんなに変わらん。

せやさかい、玉の井を調べとる人は、
「『旧玉の井』と『新玉の井』はある意味別個」
って考えてもええかもしれません。
そして、たぶん我々がイメージする「玉の井」は「旧」の方であって、「新」と記憶がごっちゃになってる人もおったり、「新」を知らずに「旧」だけが若いころのノスタリジーも相まって強烈に記憶に残って「旧」だけが全面に出てるさかい、我々の頭の中は確実に分けんとあきません。


もう一つの注意点は、

(戦前の)玉の井は遊郭ではない

っちゅーこと。
「遊郭」言うんは、公的機関が公に認めた売春街のことで、設置の権限は各府県の知事にあって知事が当時の内務省に設置を申請することになっとります。
そこで働く女性は法律的にゃ「公娼」「娼妓」、一般的にゃ「女郎」やけど、吉原や京都の島原とかの歴史と伝統、そして格式を誇る所は「花魁」、地方遊廓では場所によっては「お女郎さん」と敬意を持って呼ぶ所もありました。遊廓の女性は全員が全員見下げられたり変な同情で見られたりしたわけやなく、尊敬を持って見られた所もあったということです。
対して玉の井は「私娼窟」または「私娼街」と言って、公に認められた所やなくて言わば違法、飲み屋が集まってそこで売春をする所が集まった所が多く、暖簾上の名前は何でもよく、私娼街によっては「新聞販売店」「うどん屋」がそういう所やったってデータもあります。
せやけど、私娼街のほとんどのタテマエは「銘酒店」、つまり下町とか繁華街によくある飲み屋なんやけど、もちろんそこで一杯・・・なんてアホーはおりませぬ、だいいち「飲み屋」っても酒置いてへんし。
そんな「銘酒店」で働く女性たちは一般的にゃ「娼婦」って呼ばれとって、遊廓の「公娼」に対して「私娼」です。
そこで働く女性は、遊郭みたいに優雅に「花魁」とか「お女郎さん」と呼ばれることは絶対にありません。

玉の井もその「銘酒店」が集まって出来た所で、存在自体が違法なんやけど、昔はそこらへんは大雑把であいまいやったんか事実上黙認みたいな感じでした。
こういう私娼街って、遊郭と違ってほとんどデータがないもんなんやけど、玉の井は黙認する代わりにちゃんと女性には性病検査もさせて警察の調査にも協力する、という形で存在しとったさかい、データはけっこう残ってたりします。
そーゆー意味じゃほとんど遊郭みたいなもん、俺の造語で言う「準遊郭」なんやけど、遊郭とちゃうのは働いてる女性の数とか業者の数とかがやたら曖昧で、警察側の調査と業者側の調査では必ず数字が違ってきたそうな。
最盛期も「昭和初期」という人もいれば、「昭和10年代前半」という人もいて、ここで働く女性の数も、「1000人~1200人(地元警察の調べ)」やら「約2000人(『玉の井という街があった』)」やら「約3000人(『玉の井挽歌』)」やら曖昧、ぶっちゃけ実数は神のみぞ知る。
そこらへんのあいまいさがまた玉の井をミステリアスにしとる所でもあると思いますわ。

昭和5年、同じ時期の主な遊廊の娼妓数ベスト5は、

★松島遊郭(大阪):3,657人
★吉原遊郭(東京):2,557人
★飛田遊郭(大阪):2,646人
★洲崎遊郭(東京):2,329人
★七条新地(京都):1,340人
★旭遊郭(愛知):1,562人

■玉の井:902人

(データ:内務省警保局内部資料より 昭和5年6月調査)



やさかい、この数で比較したら如何に玉の井の規模が大きかったかがわかるでしょう。

あと、群馬県は明治時代に知事の権限で遊郭を廃止したさかい、全国で唯一遊郭がなかった県でした。
それを胸をはって言う群馬県民もおったりするんやけど、
だから言うて群馬県が売春のないクリーンな県かというと、そうでもなかったのです。
「公娼」「娼妓」を置く遊郭がなかった代わりに、玉の井みたいな「銘酒店」をある一画に集中して置いてそれを県が黙認し、警察の管理に置く「準遊郭」が存在しとって、
大正13年のデータやと、群馬県各地に「乙種料理店」と呼ばれる店があって、そこで働く「酌婦」という存在がいっぱいおりました。
「酌婦」とは客の横について酒のお酌をする女性のことやけど、実態は身体を売る女性のことで、
酌婦の数は前橋市で141人、高崎市で208人おって、これはあくまで「確実に売春行為をする100%クロ」な女性の数なだけ、実際は「怪しい」とマークされとったり、売春宿なんかただの飲み屋なんか警察もわからん「曖昧屋」は含まれてへんさかい、実数はこの3~4倍はおったと言われとります。
ちなみに、内務省警保局のデータによると、昭和5年6月調査で群馬県全体で「乙種料理店」が53ヶ所あって、店の数約340軒、私娼の数は約850人もおったそーな。せやけど上に書いたよーに、この数字はあくまで警察が「100%クロ」と断定した数で、氷山の一角とも言えます。

こういう、遊郭とはちゃう私娼街は、素人から見たら「売春する所」としては遊郭と何の変わりもないさかい、経験者の話を聞いても「遊郭」と本気で思ってる人もおるんやけど、まあそれはしゃーないかも。
鳥取県の倉吉境港のように、地元じゃ「遊郭」と言われてそうと信じられてきたけど、行政や警察での営業区分は「私娼窟」なこともあるさかい。
せやけど、こういう研究をしたりする人にとっちゃ、「遊郭」と「私娼街」、そして芸者遊びをする所、今で言う京都の祇園みたいな「花街」は厳密に区別せんとあきません。
まあ、実際は遊郭にも芸者が少数ながらおったし、大阪の堀江遊郭や金沢の遊郭みたいに「遊郭」っても実際は芸を売る(=身体は売らん)芸者の方がはるかに多かったり、逆に「花街」も身体を売ってる「二枚鑑札」「枕芸者」という存在もおりました。
芸妓(芸者)が体を売ったらあかんのは当然で法律でかなり厳しく取り締まられとったんやけど、それも形だけになって昭和初期にはが「待合」(今のラブホみたいなもん)で行為なら事実上黙認となりました。
もちろん、芸妓のすべてが体を売ってたわけやなく、吉原や松島遊郭の芸妓は「体は絶対に売りません!やりたければあっち(←妓楼)へどーぞ!」と、それこそ体を張って芸と貞操を守ったプロもたくさんおりました。
せやけど、そこらへんの線引きが地方へ行けばごっつい曖昧なんがまたしんどい(笑


玉の井が有名になったんは、東京から電車ですぐ来れるとこもあったけど、
数々の有名人が足げに通って文学作品にその名を残したことやと思います。
ここに、永井荷風や高村光太郎、サトウハチローなどの文人が常連になって、
映画監督の山本嘉次郎や黒澤明もここを訪れたことがあって、山本のエッセイによると黒澤明の代表映画の「酔いどれ天使」のモデルはここ玉の井とか。
特に永井荷風は自他共に認める「玉の井通」のよーになって、
彼の日記である『断腸亭日乗』にも自宅があった東京の麻布から足げなく玉の井通いを続けとる状況が書かれとります。

そして、何度も取材を続けつつ自分の玉の井通いをベースにして、
『濹東綺譚』(ぼくとうきだん)
ちゅー荷風の名作の一つが書かれたんやけど、
玉の井が今なお語り継がれる伝説になっとる原因の一つはこの作品のせいかもしれませんな。
『濹東綺譚』は簡単に言うたら主人公の「わたくし」と、玉の井で働くお雪という娼婦との恋愛物語なんやけど、当時の玉の井の情景がこれでもか!っちゅーくらい詳細に描かれとって、
娼婦の街という、ヘドロのようにドロドロとしとったやろう「魔窟」を、美しい所を文学的にろ過して表現したもののようで、
玉の井を探索する前にこれは必ず読むべき作品やし、それ抜きでも永井荷風の傑作の一つやさかい立派な文学作品やと思います。
そして、『濹東綺譚』の謎の一つはヒロインの「お雪」の存在。
荷風研究家に言わせたら荷風の作品の主人公クラスの人間はたいてい実在のモデルがおるみたいで、
『濹東綺譚』の主人公の「わたくし」こと大江匡のモデルはもちろん永井荷風本人、小説に出てくる「玉の井」はもちろん、出てくる建物の名前などの固有名詞はすべて実在。
それやったら、
「『お雪さん』のモデルになった女性も絶対いたに違いない!」
「いや、玉の井で会った様々な女性の最大公約数を一人の女性に映したに過ぎない」
と荷風研究家でも意見が分かれとるみたいで、
戦前の玉の井を、自分の玉の井通いの経験も含めて考察し、『玉の井という街があった』という本を書いた前田豊は、「実在のモデルがいた」という前提で取材を進めていくうちにお雪が住んどった娼家の住所を探し当て、更にそこの元家主、要するにお雪の雇い主まで突き止めとります。
驚くことに、『濹東綺譚』でお雪さんが「わたくし」に渡した名刺の住所も、そこに書かれた家主の名前までフィクションなしで、お雪が住んどった娼家はおろか、お雪さんの雇い主自体小説だけの世界どころかこの世に現存しとったんですわ。
こりゃお雪が実在しとってもおかしくない状況。
せやけど家主は著者の取材の数年前に他界、残った奥さんは何故か激怒しながら荷風や「お雪さん」の関係を完全否定。ほとんど取材拒否状態やったそーな。
ただ、何故かヒステリックになって否定したことは怪しいとしとって、
(確かに、関係なかったら怒りむき出しに取材拒否することはないわな)
『断腸亭日乗』では荷風が玉の井で入り浸っとった家の、お雪のモデルと言われとる女性が家主と金銭トラブルになっとったことが書かれとるんやけど、それが世間に出て恥をかかされたか、当時バッシングを受けておもしろくなかったのではないか、と推察しとります。
せやけど、真実はあの世の荷風に聞いてみんとわからんっちゅーこっちゃか(笑

あと、玉の井を語るのに欠かせないものが、滝田ゆうの漫画、
『寺島町奇譚』
であります。
寺島町とは「玉の井」の正式な町名やけど、そこで生まれ育った作者が玉の井を細かく描写しとります。
戦前の「魔窟」玉の井を知るにゃ、『濹東綺譚』『玉の井という街があった』『寺島町奇譚』の本3点セットは必読でございます。読むと読まんじゃ探索の時の臨場感が全然違いまっせ。
また、2010年の末に出た『玉の井 色街の社会と暮らし』っちゅー本も玉の井研究にゃ欠かせない本になっとります。
どうも研究者の論文を出版したっぽくて、内容は他の本と比べて硬い感じがするんやけど、これまでの本にない細かい部分に光を当てとって、更に研究の結果過去に出た玉の井本の間違いの指摘や批判もしとる変わった本になっとります。
まあ、内容が硬いさかい遊郭や赤線、玉の井に興味がある人以外は読んでもチンプンカンプンなことと、戦後の赤線時代に内容が偏ってるのと値段がちょっと張るのが欠点かな?
(上に書いた本は、純粋な文学作品やルポなど、読み物として面白い。『玉の井 色街~』はおそらく論文をベースにしとるさかい、アプローチ方法や書き方が全くちゃうのは仕方ない)
せやけど、その分細かくてボリュームがある上に、他の赤線とも比較しとるさかい東京にあった他の赤線のことも知ることが出来ます。
どっちゃにしても、玉の井のこと調べるんやったら避けては通られへん本やと思います。特に上の3冊が戦前の私娼街やった頃の玉の井のことを描いてるのに対し、後者は戦後の赤線時代のことが中心、よー考えたら赤線時代の玉の井ってデータがありそーで少なかったりする。

また、玉の井は「バラバラ事件」の元祖にもなったとこでもあります。
その昔、玉の井にゃ「お歯黒どぶ」っちゅー下水溝があって、汚水で水が真っ黒やったことからその名がついたらしいけど、
昭和7年に、「お歯黒どぶ」に捨てられた男性の胴体が見つかり、一大事件として報道されました。
「バラバラ事件」はそれ以前にもあったんやけど、それまでは新聞や事件によって言い方がちゃうかって、
この玉の井の事件で朝日新聞が「玉の井のバラバラ事件」と表現、この「バラバラ事件」って表現が定着して現在に至ります。
この「玉の井バラバラ事件」は最初は迷宮入りかと思われたんやけど、意外なとこから意外な結末を迎えます。興味あったら検索してみてね。

せやけど、意外や意外、戦前の玉の井は殺人や強盗、強姦などの凶悪事件がほとんどなかったらしゅーて、
詐欺とかスリの窃盗、ケンカのよーな小物の事件はあったものの、不思議なくらい大きな事件がなかったそーな。
上に書いた「玉の井バラバラ事件」も、死体が捨てられた場所が玉の井やっただけで加害者も被害者も玉の井と全然関係あらへん、玉の井が大迷惑やっただけの部外者の犯行やったんですわ。
まあ、何せ「魔窟」やさかい誰にもバレへん事件はあったかもしれへんけど、街自体が犯罪のよーなイメージがある玉の井も隠れた「秩序」のよーなもんがあったんかもしれませんな。
そして、実は戦後の赤線時代の方が凶悪事件が多かったよーで、『玉の井という街があった』によると、開放的になった赤線時代の昭和27年~31年の間だけで、殺人17件、強姦45件、放火13件、強盗51件もあったみたいで、こりゃ確かに治安はお世辞にもええとは言われへん。

またおもろいことに、娼婦は男を一目見ただけでどんな男かを見抜く独特のカンを持っとったそうで、そうでもないと一人前の娼婦やなかったとも言います。
犯罪者を見抜く勘もあったよーで、犯罪者って犯罪をしたら何故か女が欲しくなるよーでよく玉の井にゃ犯罪を犯して指名手配された輩が来たりしとったそうな。
私娼街って遊郭と違って酒飲んでドンチャン騒ぎは禁止、それ以前にそんな設備もなし。金もばらまくよーに使わずスマートに使うのが「玉の井の掟」らしかったんやけど、
たまにそんなこと構わずみたいな金遣いの荒い人間も来たりします。そこで娼婦は「あやしい」と警察に通報して私服刑事に「臨検」って形で踏み込んでもらったら、実は凶悪事件を起こした指名手配犯やった・・・ってことがよくあったそーな。
人を見る目が肥えた熟練娼婦のカンはよく当たったそーで、そもそも玉の井の存在自体が違法やのに(事実上の黙認)、違法なことをやっとる娼婦が取り締まる側の警察から表彰される・・・ってなんかおもろい現象があったのもいとをかし。
そして、こういうことは遊郭でもよくあったみたいで、戦後の赤線の武蔵新田の交番で働いていた警察官の回想でも、全国指名手配犯が赤線に転がり込んで店から通報があって突撃、大捕物になった騒ぎがあったそうやけど、逆に言うとその人が勤務しとった時期にあった事件らしい事件と言えばそれくらいだったそうで。
遊郭は「男の天国」の他に「犯罪者逮捕のためのゴキブリホイホイ」の役目もあったって言うけど、まんざらでもなさそーで。

この玉の井がどれだけ有名やったかいうたら、
昭和4年発行の「全国花街めぐり」(松川二郎)って本があって「遊廊・赤線ハンター」にとっちゃ「赤線跡を歩く」「全国女性街ガイド」に相当するバイブルのよーな本があるんやけど、
この本は日本全国にある「遊廊」を紹介しとる本ながら私娼窟である「玉の井」が紹介されとって、それも当時の検閲で不許可になったんか、「○○」の伏せ字ばっかし(笑
で、そこには当時「玉の井」言うたら私娼窟の代名詞になっとったらしゅーて、例えば大阪にある私娼窟は「大阪の玉の井」みたいな表現をしとったらしいです。

実際に「旧玉の井」に通って老後のノスタルジーから「玉の井本」を書いた人の書物なんかを読むと、
同じ東京の私娼窟の亀戸にはほとんど近寄らず、玉の井ばっかしに通ってたことがわかります。
知名度の違いはあるものの、当時の交通の便を考えたら亀戸の方が都心に近い=交通費も安いのに何で?
という疑問が浮かびます。
その理由が、ある本や手記に断片的かつ間接的に書かれとりました。
それによると、玉の井は経営者が何だかんだで堅気の人ばっか。
組合が団結して一個の家族みたいなものだったのでヤクザが付け入るスキがなかったそうです。
対して亀戸は地元のヤクザが取り仕切って業者もその息がかかった人間が多く、同じ私娼窟でも全く雰囲気が違ってたそうで、若い人や知識人・学生は亀戸に近寄らなかったと言います。
売防法で赤線すらなくなって数十年後に「玉の井本」を書いた人たちは、「現役」の頃には20代の若い盛りやさかい、亀戸より玉の井の方がよかったんかもしれませんな!?
また、働く女性側も玉の井の方がよかったそうで、娼婦を牛馬のように扱って酷使しとったのはどっちも変わらんけど、亀戸は労働条件が過酷な上に玉の井は「堅気」な分業者側に高学歴が多く女性側の話を聞いてくれる、物事の道理がわかる経営者も多かったという話もあります。
遊郭にしても格式があって、東京やと吉原の客層は比較的裕福なブルジョアやインテリ層が多かったのに対して、洲崎は客も職人層が多く新宿は学生などの若い人がメインと同じ遊郭でも客のレベルが違っとったさかい、私娼窟にもこういうのがあったんやと思われます。


昭和初期の玉の井最盛期の風景を、実際に玉の井通いをした一人が書いた『玉の井挽歌』という本から引用してみましょう。
何となく、文字から玉の井の雰囲気が醸し出されるかもしれません!?

午後四時を過ぎると、ラジオや蓄音機を鳴らすことも、花街らしい三味線の爪弾きさえ禁じられて、嫖客の下駄や靴の音、女が小窓から客を呼ぶ声だけになる。

「ちょいと洋さん、いい男ね、寄ってらっしゃいよ」
「ねえ、めがねさん、ちょいと・・・」
「鳥打帽のお兄さん、口あけだから安くしとくよ」

といった秘密めいた声や、ねずみ鳴きが交錯する。
(中略)そばに介添えの婆やがついていて、当人は恥ずかしそうに眼を伏せているものもいる。
「初見世ですよ、あがってやって下さいな」
婆やが代わりに客を呼ぶ。窓に座って一週間や十日たっても、初見世で通るのである。
(中略)そのうちあなたは気に入った顔立ちの女を小窓の中に発見して、吸い寄せられるように小窓へ近づくにちがいない。
「あがって下さる?」
以心伝心、女はあなたがその気になったことを見抜く。
「いくらだい?」
「野暮いわないで、さぁ・・・」
女はバタンと窓を閉め、すわっていても手の届く引戸を開けた。
2つの呼び込み部屋の双方に引戸があって、中に入れば土間は一つなのである。
土間を上がると、鼻の先に二階への階段がある。値段の交渉は二階へ上がってからでもいい。その結果折り合わなければ、ギザ一枚(50銭硬貨)置けば帰れるのが、昭和4,5年頃のルールだった。
階段というより梯子段といった方が近いのを上がって、二畳ほどの引付け部屋に入ると、女は茶を運んできて、安物の花梨の卓の上に置いた。
お茶といっても出がらしの番茶である。この「おぶう」を多分あなたは飲まないだろう。何となく性病のバイキンが、茶の中に浮遊しているような気がするからである。
だが、あなたは目の前の女をまじわることは、不思議に不潔感がない。
「泊りでいくら?」
「いくらならいいの?」
「君の方から言えよ」
「あんた遊び馴れているんでしょ。この間もこの前通るのを見たわ」
「はじめてだよ、ノイは」 (※「ノイ」は玉の井の略語です)
「三円五十銭でどう?その代わりもうお客取らないから」
「二円五十銭」
その時期、チョンの間が1円、泊りで2円、奮発して3円なら極上の客だった。
「ケチ」
と言って、女はもう一度腕時計を見る。
終業時間は近い。それまでに泊まりの客が取れるかどうか計算したのだ。
「いいわ、その代わり先に寝ててね」
「いや、湯屋に行ってくるよ。すまないが手拭と石鹸貸してくれ。石鹸代をおまけにしてポッキリ3両」
なるほど遊び馴れている。
女にチョンの間稼げる時間を残して、しかも女から風呂道具を借りて、銭湯で一と汗流して来るなどは、相当この土地で年季を入れていなければ出来ない芸当だ。
(中略)あなたは明日の朝、日の出ないうちに起こされて、はいって来た口から寝ぼけ眼の女に送り出され、シーンとした昧爽の空気の中を、東武線玉の井駅へ寝不足の不透明な気持で歩いて行くことになる。




玉の井の酌婦と私娼


大正時代の玉の井酌婦と私娼

これはある本にあった大正末期の玉の井の酌婦こと私娼の写真です。
玉の井の女たちは昭和初期以降の回想やと、当時珍しかった洋服の女性の方が多かったそうやけど、大正時代は和服が多かったみたいですな。遊郭やったら当時ならほぼすべて和服やろーけど。
今やったら和服でなんてコスプレに属するイメクラになるやろな(笑

玉の井の覗き穴

そんな女性たちが、店にある「覗き穴」から玉の井界隈を漂う客を誘惑するのである。
とその本には書かれとりました。
上の提灯には「山お」らしき文字が書かれとるけど、おそらくその店の屋号でしょう。

日本は戦争への道を進み始め、国内全体にドヨーンとして暗い空気が流れた昭和10年代に入っても玉の井の繁盛は変わらず、赤紙(召集令状)をもろて戦争に行く男たちで余計に賑わったそうで、
よって「旧玉の井」の最盛期は昭和10年代前半という人もいたりします。
更に、上述した『濹東綺譚』によって玉の井の名前が全国区になり、地方からのお上りさんも増えて空前の盛り上がりを見せたとか。

そんな玉の井に終わりが来たのは、昭和20年3月10日の東京大空襲。
ここあたりも空襲で跡形もなく焼けてしもて、戦前の玉の井の歴史はここで終わります。
『寺島町奇譚』によると、空襲直前まで営業が行われとったらしゅーて、
この漫画のクライマックスにもなっとります。
どーやら綺麗さっぱり焼けてしもたせいか、戦前の玉の井の面影はクネクネした迷路のよーな道と、荷風が『墨東綺譚』で描いた、玉の井通いの途中で通る「玉の井御殿」と呼んどったある金持ちの屋敷の外壁、そして「お歯黒どぶ」の上にフタをするように作られた道路以外全く残っとりません。

で、戦争が終わってちょっとたった昭和21年、焼け残ったいろは通り北側を使って「赤線」が出来て、
戦後の玉の井の歴史はそこを中心に流れていきます。
結局玉の井の赤線の歴史は売春防止法で終わって、更に昭和40年3月1日から施行された第二次地区表示変更で「寺島町」の名前が消えて「墨田町」「東向島町」になって今は閑静な住宅街に町工場が点在する、ごく普通の町になっとります。
しかし、「玉の井」はいまだ伝説になってノスタルジーさえ感じる地名になっていて、今でも東向島駅は「(玉の井)」と書かれており、地元の人も「玉の井」と呼ばれる方がいいそうです。
私娼街や赤線は滅んでも「玉の井」は滅びず!って感じですな。

11041401


上の写真やと、いろは通りを挟んで画面右側が戦前の私娼窟があったとこで、
左側が戦後に指定区域になった「赤線」みたいでんな。
戦後の玉の井カフェー街の規模はだいたい120件くらいで、戦前の全盛期の4分の1の規模くらい、
昭和30年6月末の警視庁の調査によると、
★店の数:121軒
★女性数:328人

(出典:『玉の井挽歌』大林清著)


昭和32年3月、つまり「売防法」施行1年前のデータでは、
★店の数:106軒
★女性数:275人

(出典:『玉の井という街があった』前田豊著)

となっとります。
また、『玉の井挽歌』にゃ昭和30年当時の「レート」も書かれとります。

●ショート:300~400円
●時間:500~800円
●泊まり:800~1000円



鳩の街もほぼ同じ値段やったそうやけど、上にも書いたよーに戦後は鳩の街の方が知名度も上になって客足も多く、女性の数は「新玉の井」より少なかったけど、客数も女性一人あたりの稼ぎもリードされて、戦前の「魔窟」の面影はどこにもなかったそうな。


いろは通りから、東武線のガードの方向に向かって少し歩いたら、

玉の井赤線カフェー街

難なく見つけました。
この独特の建物はまあ間違いなし。
触覚のよーに出っ張った部分に、たぶん昔は看板が掲げられとったんやと思います。
建物は既にボロボロ、完全に朽ちた状態で人が住んでる気配もないけど、出来ればリフォームして欲しいな~と思います。

080824 玉の井赤線跡カフェー建築の面影がある家

「2階の窓ガラスが特徴的な家」
やったはずなんやけど、どうやらその窓はリフォームされてなくなってしもたみたい!?
建物自体は残っとっても、細かいとこは老朽化で改造されていっとるのは、建物の耐久性からしてしゃーないことやと思います。

玉の井赤線跡カフェー建築

ここも人が住んでる現役のカフェー建築で、保存状態もかなり良いものでした。
建物自体も、独特の曲線を持って一目でわかるもんなんやけど、


玉の井カフェー街3-2

窓枠に遊び心の装飾が施されとったりします。

さて、玉の井地区は元々田んぼやったとこを急遽潰して作られたとこで、
田んぼのあぜ道に沿った、クネクネした細い道が迷路のよーに張り巡らせられとって、
車はおろか、自転車、いや、人一人なんとか通れるような細い道は蟻の巣の如く。
昔は、そんな路地の入り口に、「近道」「抜けられます」とかの表示があったようで、
そーでもないと、この細道に一歩入ったらどこに抜けるかわからんよーな、地元の人以外はかなりの不安を覚えたりします。
逆に言うたら、違法な(っても黙認状態)私娼窟やったさかい、警察が入ってきてもただ迷うだけ、
逃げ道にゃ困らんまさに魔窟。
永井荷風はそんな玉の井を、

「ラビリント(迷宮)」

と表現しとります。
普通、遊郭や赤線などの指定区は碁盤の目のよーにちゃんと区画されたとこが多いんやけど、
玉の井はそんなとことは全く逆、
俺も方向感覚を失う覚悟で裏路地に入ってみたけど、まさにそこは不思議なラビリンスの世界、
裏路地ちゅーよりほとんど家の裏にある家の敷地内みたいな道でした。
方向感覚にゃ絶大な自信を持っとるけど、ここに入ったら完全に方角を失ってまいました・・・。
今でこそタダの住宅街やけど、当時はこんな裏路地にピンクや青の怪しいネオンが夜遅くまで光り、
それに夏の虫の如く吸い寄せられた男を、派手に着飾った(?)女が甘い声で、
「そこの兄さん、ちょっといいこと教えてあ・げ・る♪」
と手招きして裏路地へといざなう・・・、
そんな情景を想像したら、ホンマ「魔窟」っぽいわ。俺やったら真っ先に吸いこまれそう(笑
赤線とは関係ないけど、中国の上海に住んでた頃、上海の下町の「旧城内」を地図なしで歩いてみたことがあるけど、
そこも西洋人が作った碁盤の目に整然と区画された、観光客が行くような「表の上海」とは真逆の「裏上海」。大人一人の幅くらいのクネクネした道に中国人の生活の臭いがプンプンしたラビリンス、玉の井はその「旧城内」を思い出させるような所でした。


玉の井赤線跡に残るカフェー建築

そんな、注意して歩かんと見逃すような裏路地に残っとったカフェー建築の名残です。
このタイルの色使いは「当確」なんやけど、
まさか道幅1mあるかないかのよーな、クネクネ曲がった路地にこんな建物が残っとるとは。
ここも、既に人が住んでる気配はなし、せやけど再開発からも取り残されたとこっぽいさかい、
もう少し残って欲しいもんです。

戦前の玉の井はこんな細いミミズが這ったかのよーなクネクネとした道が迷路のように張り巡らされとって、そこに「銘酒屋」と呼ばれる小さい店が軒を連ねとったそうです。
戦前の玉の井の娼家は戦後のカフェー建築とはちょっとちゃうかって、どんなんかというと『玉の井という街があった』から引用してみましょう。

娼家の構造は大体上部漆喰塗り、腰下模造タイル張りの表構えが多かった。拡張や新築が警察から許可にならないので、部分的補修で間に合わせる家が多く、およそどこも似たり寄ったりである。外側中央にハート型マークのついた色つき壁、赤い提灯、両脇に入口と小窓。
小窓は一軒の娼家に二ヶ所あり、女が一人ずつそこに座る。島田や銀杏返しの純日本風もあれば、耳かくしのダンサーや女給風もあり、おかっぱ、お下げ髪など、適宜に各自の特徴を生かしている。

二階の客室はどこの娼家もおおむね三部屋くらいで、間取りは三畳に四畳半、六畳程度。中には一軒の家を板壁で仕切って二軒分で使用している家もある。



遊郭とちゃうところは、遊郭は計画的に区画された敷地内に2階建て~4階建ての高楼、いわば「木の摩天楼」が道の両脇にずらりと並んでて、一軒の見世単位もかなり大きくそれが独特の威圧感と情緒を醸し出してたところがあるけど、
玉の井の場合は「一軒の家を2軒で使ってた」っちゅーくらいの小さい家で、細かくみずぼらしい「飲み屋」が何百軒も並んでたって感じです。
「大廈高楼」が並ぶ遊郭と違って、玉の井に限らず私娼街ってどこも大なり小なりこんな感じやったと思います。


玉の井赤線跡

これも、ある意味「独特」の建物で、
前からは3階建てに見せて、見た目はデカく見せた建築、元赤線にちょくちょく見られる建て方でもあります。
そして、この壁の色使いといい、注意して見んとわからんよーな建物が点在しとります。


玉の井の銭湯松の湯

で、こないな赤線や元遊郭などのとこの真ん中にゃ、
何故か銭湯があったりします。
ある書物にも、

「余談になるが、おもしろいことに、どこの遊廓や娼家街でも、
昔から中央に場所を占めるのが大抵松の湯であるというのはいったいどういうわけなのであろう。」


ここはさすがに「松の湯」って名前ちゃうかったけど、
「鳩の街」はまさしく「松の湯」やったし、ここもお風呂屋には変わりなし。
ここは「墨田湯」って名前やけど、ホンマに赤線地域の真ん中に鎮座しておられるよーな感じ、
この建物も、スペイン瓦を使った特徴的な形になっとりますな。
俺が来た時はシャッターが閉まっとったけど、今でも営業しとるんかな?


あまりの暑さと、ちょっと無駄な体力を使ってしもたせいか、
(この季節は、効率ええ探索の方法を考えんとあかんな・・・)
なんぼ水分を補給してもラチがあかんさかい、探索はこれまでになったんやけど、
出来れば、夏以外にもう一回来てみて、本格的に「玉の井ラビリンス」を体験してみたいもんですわ。

・・・と思っていろは通りを去ろうと思ったら、ふとこんな建物が目に付きました。

玉の井カフェー街6

玉の井カフェー街6-2

いろは通り沿いにあった、厳密に言うたら「旧玉の井」側にあった建物なんやけど、
この派手派手なタイル使いは戦後のカフェー建築っぽい。
けっこう目立つ言うたら目立つけど、「赤線跡を歩く」の著者の方も見逃してしもたのか、こんな派手な建物やのに本にゃ載ってへんもんでした。
もしかして、著者の方も夏に回ってバテてしもて、見逃してしもたんかな?(笑
せやけど、これもかなり保存状態は良さそうで、まだまだもちそうですな!?
俺が見つけたのはこれだけやったけど、細かいとこまで回ったら、まだまだ残ってそうですわ。


さて、体力が限界やっちゅーのに、
「まだまだ回らんと損や!」
とばかりに、もう一ヶ所回ってきました。
そこは・・・To be continued...


★2010/7/2

「鳩の街」「玉の井」「洲崎遊廓」を3つまとめたスライドショー形式の画像集なんてものを、
You tubeにアップしました。
HDでアップしたさかい、「全画面」で見た方がはっきり見えると思うけど、
テストで見てみたらこの画面でもかなり綺麗に見れるみたいですわ♪
よかったらどーぞー。



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コメント

■ 

http://www.sumida-gg.or.jp/wp-content/uploads/mirai_1504.pdf
赤線の講演があるらしい。
2015/04/26 URL 名を名乗れアホ #6.lxy2GI [編集] 

■ 管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます
2013/08/01   # 

■ Re: 目からうろこです

>名無しさん

はじめまして、うちのブログを御覧いただいておおきにです。
売防法施行の時は20歳ってことは、あの赤線の雰囲気を経験したことがある世代ですね。
今は「化石」というか「考古学」というか、そんな感じになってしまった赤線ですが、
ある意味「青春時代」を懐かしみながら巡るのも一興やと思います。
玉の井は荷風の「墨東綺譚」を読むと読まないじゃ現地の感覚が全然ちゃうんで。
でも、出来たら夏は避けた方がいいかもです(汗

またうちのブログを見に来ていただければ幸いですm(__)m
2011/09/11 URL BJのぶ #qDfdtOiE [編集] 

■ 目からうろこです

売防法が施行された時は20歳でした。給料は一万円位だった。俗に言うチョいの間は¥360.為替レートで言えば当時は1ドルと聞いていました。新宿には冷やかしに行ったことはありますが。大変興味深く読ませてもらいました。荷風先生の著作も読んでゆっくり・モッタリと歩き懐かしい、悲喜こもごもの思い出が詰まった心にしみる写真を撮りに行ってきます。10~11月頃がいいかな。
楽しいブログをありがとうございました。
2011/09/07 URL 名を名乗れアホ #VMNhp13o [編集] 

■ 

>g-monさん

あの有名なエジプト考古学の吉村教授の造語やったと思うけど、
「街角考古学」っちゅー言葉もあるくらい、何気ない街角にも色々歴史があたりします。
俺は「赤線」ちゅーテーマやけど、掘り出していったら色々見つかると思いまっせ~。

前SNSでも、「街角考古学」シリーズってやっとったし・・・って「その1」で終わってるか(笑
「その2」以降はブログでやるか~。
2008/08/25 URL のぶ@大阪 #qDfdtOiE [編集] 

■ 

>だすくさん

このシリーズ、個人的にもお気に入りです(笑
でも、テーマがテーマだけあって、なかなか資料がないんですよね~。
関西は半分弾切れ状態なので、遠征で稼ぐしかありませぬ(汗
まあ、関西は「現役」なら数ヶ所あるけど、「現役」の場所の撮影は組合がうるさいさかい、撮影どころかネット上でアップしてもうるさいらしいです。

さて、次をお楽しみに~。
2008/08/25 URL のぶ@大阪 #qDfdtOiE [編集] 

■ 

ほえ~です!

町の達人?
こんな楽しみ方もあるんですね
大変勉強になります。

しかし、その体力
お若いでございます。m( _ _)m
2008/08/25 URL g-mon #atzm6Dzg [編集] 

■ 

このシリーズ、おもしろいですねぇ~
のぶさんの文章も引き込まれちゃいます。
次も楽しみにしてます。

2008/08/24 URL だすく #- 

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■ 玉の井、鳩の街、新宿

Youtubeより、昭和33年の売春防止法施行直後の 特飲街の珍しい映像をご紹介 記録映画 『赤線』より、鳩の街/玉の井 20年ほど前、このあたりを散策してみたことがあるのですが、 やはり赤線跡と思われる建物がありました。 このあたりで印象的だったのは、 細...
2009/07/26 ぴゅあ☆ぴゅあ1949
 
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