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BEのぶ

  • Author:BEのぶ
  • 自称「ブログエッセイスト」ことBEのぶです。
    昭和史をライフワークにしていますが、平成ももうすぐ30年経ち、昭和が遠い過去になりつつあります。
    昭和も遺産・遺物を探れば立派な「考古学」となります。題して「昭和考古学」。ジャンルは遊郭・赤線跡から鉄道、そしてすっかり忘れ去られた歴史を掘る「昭和の考古学者」として、昭和の名残りを通して考察する旅を続けています。

    基本は標準語で書きますが、エッセイは大阪弁で書いていきます。

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■■■堺龍神・貝塚をゆく 消えた遊郭・赤線跡を訪ねて1

前に一回、京都中書島と橋本の赤線跡巡りをしたんやけど、
(ブログはここです。赤線の意味なんかもここに書いてるさかい、ご覧あれ)
赤線跡巡りはこれで終わったわけじゃーありませぬ。むしろこれからが赤線跡巡りの始まり、ってゆーてええかもしれません。
それまで成りを潜めてたんは、じっくり調査してたからなんですわ。
赤線に関してはいろんな本があって、俺は

赤線跡を歩く 消えた夢の街を訪ねて(ちくま文庫)

を参照にさせてもろて、これだけでもある意味十分ゆーたら十分なんやけど、
(これは赤線抜きでも一読の価値ありですわ)
ある方から、家の近くにある「信太新地」(現役バリバリのとこだす)の歴史も調べたらどない?と宿題を仰せつかい、
今まで色々調べてたんやけど、その副産物でいろんな資料が見つかりました。
(肝腎の「信太新地」については、資料が乏しすぎるさかい、まだ完成しとりません)
同じ赤線跡を調べてる人のサイトなんかも参考にしてたら、
なんと俺の生活圏内にいろいろな赤線跡があることが判明。
それもいつも燃費ロードとして走っとる道のすぐそこにあるやないですか。
灯台下暗しとはまさにこのこと、図書館に篭って調べたらいろんなもんがわかってきておもろいですわ。
あんまし近くすぎたら、
「まあいつでも行けるわ」
と思うんやけど、こないな建物は老朽化が激しくて、明日その建物があるかどーか、その保証はどこにもなし、誰も保証してくれません。
せやさかい、「思い立ったら吉日」とばかりに今日、実際に見に行ってきました。 
前回(中書島・橋本)は「赤線跡を歩く 消えた夢の街を訪ねて」を見て行ったんやけど、
今回は自分独自の調査やさかい、「赤線跡を歩く 消えた夢の街を訪ねて」には載っとりません。
* * *
まずは大阪府貝塚市
何かと濃い~岸和田と、関空のお膝元の泉佐野に挟まれて、ちょっと地味なとこなんやけど、
大昔の東京オリンピックの時の「東洋の魔女」のバレーボールで有名なユニチカの工場があったとこ、とゆーたら中年以上の人は膝を打つはずですわ。
そんなとこに、昭和32年まで遊郭を経た赤線があったことは、
まあ知ってる人(若くても60代後半でないと赤線世代やないさかい、知らんかな?)は知ってるかもしれへんけど、
俺もも知ったんはつい1ヶ月前のことで、たまたま某図書館に保存したーる警察資料を漁って発掘したもんですわ。
さすがにそないな資料見ても歴史とかは書いてへんけど、地元貝塚市の図書館に行って、市編纂の市史を漁ってみたら、
ざっくりながらきっちり書いとりました。

それによると、貝塚遊郭は江戸時代にゃ既にあったみたいで、
古くは1814年(文化14年)の文献に書かれとるとのこと。
貝塚市は紀州街道の通り道やし、港もあるさかいそこの宿に「飯盛女」という名前の色女たちを置いた、ってのが始まりやと思います。
「飯盛女」ってのは、宿場町にある「旅籠」っていう一般庶民向けの宿に住んでる、旅人の接待なんかをする女性のことなんやけど、彼女らが「アルバイト感覚」で売春行為も行っとったってことですわ、端的に言うたら。
なんで城下町の岸和田に(そないなとこを)置かんかったのか、それはわからへんけど、岸和田にも色街はなかったことはなかったです。
せやけどそれは昭和に入ってからみたいやし、戦後も俗に言う「青線」(非公認の風俗街)でした。
(岸和田にういては目下調査中です)
江戸時代は、幕府公認の風俗街(俗に言う「遊郭」)と非公認の風俗街、そして宿が女を斡旋するタイプの3種類があったんやけど、
公認の場所は東京の吉原、京都の島原など数ヶ所だけ。せやけど実際には幕府や藩の黙認なことが多かったみたいです。
何回か全国的な取り締まりはあったみたいやけど、日本風なーなー解決で事実上骨抜きにされとる、って感じみたいですな。
貝塚遊郭も、もちろん幕府未公認やさかい何回も取締りを受けたみたいやけど、結局は黙認になっとったみたいです。
そして時代は明治、貝塚は「貸座敷遊技免許地」ちゅー名前で、事実上の政府公認遊郭となります(明治6年)。
大正時代に水間鉄道っちゅーローカル線が出来て水間参拝の中継点として貝塚は栄え、
更に工場も周りに出来てからは、客の中心は工場労働者や水間参拝の前に「禊」をする人が中心やったそうな。

貝塚遊郭が数字的にどう変化していったんか、それは『大阪府統計書』っちゅー大正時代に大阪府が公式にまとめた、旧仮名遣いと数字だらけやさかい国語と算数が苦手な人にとっちゃ寒気して気絶するよーな統計資料に隠れとりました。
それによると大正時代の貝塚遊廓は、

■大正2(1913)年
貸座敷:32軒
娼妓数:108人

■大正6年(1917)年
貸座敷:40軒
娼妓数:125人

■大正11(1922)年
貸座敷:43軒
娼妓数:165人

大正13(1924)年
貸座敷:43軒
娼妓数:187人

(出典:『大阪府統計書』)


と、見世の数も女性の数もどんどん増えていって繁盛していく姿が数字でもわかると思います。
そして、昭和5年出版の『全国遊廓案内』には、

貸座敷:43軒

は変化なしなものの、娼妓数は

娼妓数:270人

と激増、昭和の不況の波が遊廓にも訪れとったんか、この激増ぶりはハンパやないどころかちょっと異常なくらいです。
というても、大阪市内にあった「スーパー遊廓」こと松島や飛田にゃ敵わんけど、それでも遊郭の範囲はほとんど変わってへんはずやのに、女性の数だけ爆発的に増えた遊郭の姿は・・・あとは勝手にご想像下さい(笑

そして戦後は警察の管理下にある「赤線」として
そして「売春防止法(売防法)」の施行前の昭和31年に貝塚遊郭は完全閉店し、歴史の幕を閉じます。
戦後の赤線としての貝塚のことは、『全国女性街ガイド』には、

「未亡人クラブが多く、大阪に住む女性が出稼ぎに行く。その数は百名を下るまい。
確実な筋では麻雀屋で相手に廻る二十三・四から三十がらみの女、イーチャンで熱をあげて宿へボン・・・平均二千円」



と、何やら煙幕を張られたよーなわけがわからん記述しかありませぬ(笑
貝塚は戦後もユニチカなどの紡績業のお膝元でもあったさかい、貝塚市だけやなくて隣の泉佐野市から従業員がやってきて、給料日なんかは繁盛したはず。
確実に需要にゃ困らんかったはずやさかい、恐らく『全国女性街ガイド』の「百名」はオーバーやなかったと思われ。

手元に資料がありそーでないさかい、ざっくりとした歴史しか書いてへんかったけど、
貝塚あたりは岸和田と並んで空襲の被害を受けへんかったせいか古い建物がまだまだ残ってて、
(※後で調べてみたら、昭和20年7月10日に貝塚が空襲され、遊廓の一部が焼けています)
更に売防法施行まで営業してたってことは、まだ建物が残ってるかもしれまへんな。


060121貝塚駅

ちゅーわけで、やってきました貝塚へ。
画像は南海本線の貝塚駅です。
俺が20年くらい前に来た時は、なんか大正時代の建築の洒落た駅舎やったんやけど、
どーやらいつの間にかなくなってもーたみたいやな。
それも見に来たんやけど、残念やなー。
で、この貝塚駅南西角に、貝塚遊郭は存在しとりました。

060121貝塚の町並み

大阪のベッドタウンゆーても、市街地はまだまだ古い町並みが残っとるもんで、半分地元やけどここまで風情があるとことは・・・。
貝塚駅から数十メートル奥に入ったら、まあ見事にこんな感じ。
これが急行も止まる駅前か!?って思ってまいました。
せやけど、ええ意味で古い感じで俺にとっちゃかなりの嬉しい誤算。
これやったら、昔の遊郭建築や、赤線のカフェー建築は残ってるやろー、
と楽観的に考えることができましたわ。

060121カフェー建築in貝塚1

そして旧貝塚遊郭あたりのエリアを歩くこと数分、
早速見つけました、カフェー建築。
建物自体はかなり色あせてるけど、これはまさしく当時の建物に間違いなし。
地元の人に話を聞いてみたら、今は倉庫に使われとるみたいやけど、
確かに昔からあった建物みたいですわ。
聞いた人が俺と同い年くらいの人なんが玉に瑕でした。

060121カフェー建築in貝塚2

これは、かなりのリフォームはされとるけどまだまだ現役のカフェー建築らしきものですわ。
リフォームされる前は、かなりええ感じの和洋折衷建築でしたやろな。

060121カフェー建築in貝塚3

そして、とどめはこれ!
これはもう説明不要、わかる人にゃ一発でわかるっちゅーくらいのカフェー建築ですわ。
どーやら今は人は住んでへんみたいやけど、保存状態はよろしいみたいで嬉しい限りですわ。
柱を黒い豆タイルで装飾し、扉を赤タイルで装飾したこの建物、建築学的にも奇抜できらびやかで、
見る人を引きつける何かがありますわ。個人的な重要文化財でんな。
カフェー建築とは、こないな感じで色街っぽく人の目を引きつける装飾が施されてたり、建物自体がなんか奇抜な形やったり、
わかる人には一見してわかる特徴が目白押し。


060121割烹深川

これは、旧貝塚遊郭のエリアの真ん中にある、料亭深川っちゅー高級料理屋ですわ。
見るからに古そうな建物やけど、どーやら大正時代~昭和初期に建てられたもんで、
これが昔の遊郭やったんかは知らんけど、赤く塗られた外壁と言い、
やけに風格がある建物と言い、当時の雰囲気を色濃く残してる生き証人なことは間違いないですわ。
この建物、数々の男と女の裏のドラマを見てたことでしょーな。
ちなみに、貝塚駅前にも「深川」って料理屋があるんやけど、そことここが関係あるかどーかは知りまへん。
(関係あるとは思うけど)
仮に探索したい人がおったら、そこと間違えんといてくんなはれやー。
俺も一瞬間違えて、「うわー、遅かった!」って_| ̄|○ でした。
で、中を見物した人のレポートを見たら、建築としてかなりええ感じみたいやさかい、
昼飯ついでに入ろうと思ったら、昼食5000円やって!
たかが昼飯にそんな金あらへんわい。
つまり貧乏人は来るなってことやな_| ̄|○

(※そしてこれから数年後、ここ『深川』で料理と建物を堪能しました。その時のブログはこちら

060121元貝塚遊郭1

これも、たぶん元遊郭の建物とは思うんやけど、廃墟の割にゃすごい威厳がある建物で、何かこの建物から発するオーラを受信したたさかい撮らせてもらいました。
こないな建物を、中をリフォームして残しておくんも、ある意味景観保存になるんちゃうかなーと個人的にゃ思います。
(※現在、この建物は壊されて更地になっています・・・2009/5/22確認済)


で、ここで一路貝塚を離れ、燃費ロードを走って燃費を上げ、ウヒャヒャ~と笑いが止まらんまま次の目的地に向かいました。

お次に向かったんは、貝塚から更に北の大阪府堺市
堺は俺の生まれ故郷やし、更に鎌倉時代から続く、歴史の教科書にも載ってる貿易都市+自治都市なんやけど、
人が集まるところに色街あり、堺も例外やなかったみたいですな。
堺は室町時代~江戸時代の間の一大貿易港やったさかい、
色街は1ヶ所だけやなくて、調べてみたらどーやら数ヶ所あったみたいで。
せやけど、明治になって「龍神」「栄橋」、そして「乳守」と呼ばれるとこにまとめられたのと、
堺の旧市街が空襲で徹底的に焼かれてもーたさかい、貝塚みたいに古くて威厳がある建物は焼けてもーたみたいですわ。

で、この「龍神」と「栄橋」の遊郭は、名前のまま龍神橋と栄橋の近くにあった色街で、
元々ここあたり(今の南海堺駅あたり)は一面の海でした。
せやけど、大和川が持ってきた土砂で海が埋まり葭原、つまり湿地帯になってそこを埋め立てつつ「新地」が出来上がり、そこに「龍神堂」っちゅー祠を建てました。
これが「龍神」っちゅー地名の由来です。
そして、天保13年(1842)の堺奉行水野若狭守により私娼・岡場所ば跋扈しとった堺の遊里が整理され、ここに龍神遊郭が誕生します。
栄橋も由来は同じやけど、龍神が芸妓と娼妓の二枚鑑札が集まった「大茶屋」と呼ばれる置屋と揚屋がきっちり分かれた大見世が中心やったのに対して、
栄橋に出来た方は居稼ぎの「小茶屋」が多く、同じ遊廓っても営業形態がちゃうさかいいざこざが絶えず、
明治17年(1884)に請願して龍神から独立して「栄橋遊廓」となり、それが昭和20年の空襲でここが灰になるまで続きます。
こんな経緯があるさかい、「龍神」「栄橋」って分かれとっても元は一遊郭、言うなれば「遊郭合衆国」みたいなもんか!?

明治32年に発行された『南海鉄道案内』っちゅー、今の南海電鉄本線の沿線案内をした本があるんやけど、
それにゃ堺の遊郭のことについても案内されとって、遊郭が「ガイドブック」に載っとったれっきとした証拠でもあります。
それによると、今の龍神と栄橋、つまり今の南海堺駅より南、フェニックス通りより北の区域、今の龍神橋町1丁目と2丁目及び栄橋1丁目と2丁目は「南新地」と呼ばれとって、「新地」ときたら花街・遊廓なことが多いんは遊廓や赤線を研究しとったらピンとくるもの。
『南海鉄道案内』が発行された当時の龍神・栄橋遊郭の規模は、

「龍神町は貸座敷71戸、娼妓59人、芸妓77人。去る6月中の来客の数6109人、消費額は5899円33銭5厘。(中略)其実の繁盛は、此龍神町が本市第一の遊廓です」
「栄橋は、貸座敷40戸、娼妓240人、芸妓無。来客の数(6月中)5220人、消費高は4121円、(以下略)」

(『南海鉄道案内』(明治32年)より。数字は読みやすいように原文の漢数字からアラビア数字に改めてます)

これを見たら、龍神の方は娼妓と芸妓の両方を置いたとこ、栄橋は娼妓だけを置いた遊郭っちゅーことがわかります。
遊廊は何も「体」を売る娼妓だけを置いとっただけやなくて、「芸」を売る専門の芸妓、つまり芸者を置いとったとこも多く、
吉原にも娼妓の数に比べたらごく少数ながら「体」は売らない芸妓がおったこともありました。
また、今の祇園みたいな「花街」にも少数の娼妓を置いとった逆のパターンもあり、そこが「遊廓」と純粋に遊びを売る「花街」との違いを曖昧にしとったりします。
特に大阪は「娼妓」と「芸妓」が同居しとったとこが多く、江戸時代からあった「新町」「堀江」がそういうタイプで、「新町」は江戸時代にゃ「日本四大遊廓」と呼ばれ吉原より歴史が古く、「堀江」はきっちり名前は「遊廓」なのに、時代によって娼妓と芸妓の割合は違うものの近代にゃ芸妓の方が多かったりもしました。
我々がイメージする「完全な遊郭」としては、上の二つよりはるかに歴史が浅い松島や飛田の方に、遊廊としてのネームバリューは特に近代に入ってからは譲っとるような感じですな。

また、ここに書かれとる「消費額」にも注目。
龍神が1カ月に消費した5899円33銭5厘は当時としてはかなりの額、くれぐれも今の「円」で換算したらあきませんで(笑
明治32年の東京での白米10kgが67、明治28年の大阪のきつねうどん一杯が1銭を基準としたら、
今の円の感覚で言うたら、隣の栄橋も含めたらたった1カ月に3~4000万円くらいがこの狭い区画で飛んどったってことで、当時如何にここが栄えとったかが数字を見ただけでも想像できます。
何か今じゃ正直信じられへん数字やなこりゃ・・・(汗

そして、時は変わって大正時代、貝塚の時に紹介した『大阪府統計書』の資料によると、

■大正5(1916)年
栄橋→ ・貸座敷:60軒  ・娼妓数:567人 
龍神→ ・貸座敷:105軒 ・娼妓数:24人

■大正11年(1922)年
栄橋→ ・貸座敷:60軒  ・娼妓数:713人
龍神→ ・貸座敷:111軒 ・娼妓数:19人

■大正12(1923)年
栄橋→ ・貸座敷:60軒  ・娼妓数:654人
龍神→ ・貸座敷:111軒 ・娼妓数:33人

になっとります。
せやけど、大正11年と12年、貸座敷と娼妓の数は変わってへんけど、遊客数を見たら、

★遊客数
栄橋→ 大正11年:113,672人 大正12年:113,403人

龍神→ 大正11年:35,132人  大正12年:5,279人


と、娼妓中心の栄橋はほとんど変化なしに対して龍神は激減、半分どころか7割減ですやん。
これは同じく娼妓より芸妓の方が多い、同じ堺の乳守遊廓も同じで、大正12年に何かあったんやろか?
大正12(1923)年ときたら関東大震災が起こった年やけど、関西はほとんど被害なしやさかいこれでもなし・・・と思って他の遊郭の客足や消費金額を比較してみたら、
芸妓中心か娼妓:芸妓=1:1くらいの堀江遊郭(大阪市)や新町遊郭、そして今の道頓堀あたりにあった「南五花街遊廓」も、龍神や乳守ほどやないけど客足が数千人~数万人単位で減少しとりました。
それに対して、娼妓中心の松島遊郭や飛田遊郭は客足を逆に伸ばしとります。
せやけど、消費金額は全体的に減少しとって、当時大阪府にあった遊郭で売上が伸びたんは栄橋と飛田のみでした。
この「逆転減少」は何故か?
おそらくやけど、関東大震災で日本全体に自粛ムードが起きて芸者との派手な遊びが出来へん空気になり、
更に第一次世界大戦後の不況も重なって財布のヒモがきつくなった現象が起きた、と推定しとります。
そして、この現象は大阪だけやのーて山口県の下関市の遊郭でも起こってて、やっぱり大正11年と12年じゃ売上・客足共にガタ落ちしとることが数字からわかります。
遊郭も当時の社会現象を垣間見れる一種の鏡、数字だけでも当時何があったかわかるのがまたおもろいですな。

そして、昭和初期の時点での堺の各遊郭の規模は、
★龍神:店の数:10軒 女性の数:100名
と、貝塚とそれほど変わらん規模って感じやけど、
★栄橋:店の数:60軒 女性の数:540名
と数がダントツに違ってきます。
(どっちも出典は『全国遊廓案内』)
まあ、龍神と栄橋は一体になった遊郭地帯みたいなもんやさかい、実際はこの二つの数を足したような、合併したら日本でも中の上に入れてええくらいの規模になります。

で、これだけ隆盛を極めた(?)龍神あたりは、昭和20年7月10日の堺空襲でほぼ完膚までに焼き払われたけど、戦後も赤線として、それこそフェニックスのように復活し、昭和33年の「売防法」施行まで残っとりました。
俺はここの近くの生まれやけど、こんな近くにこんなんがあったなんて、全然知らんかった。
親も元々地元の人間やあらへんし、移ったのもかなり後やさかい、恐らく知らんやろな。


060121龍神あたりの町並み

これが堺龍神の町並みなんやけど、南海堺駅がすぐ近くにあるせいか、
街はホテルとかマンションとかが建ってて、面影はほとんどございませぬ。
事前情報でも、バブル前にゃかなり建物が残っとって、
今は2~3軒しか残ってへん、と書いとったけど、まさにそんな感じですわ。

一通り回っても、それらしき建物はあらへんみたいで、
こりゃ全滅やなー、ついでに堺駅前で買い物するか、と思って堺駅方面に行ったら・・・

060121旧龍神遊郭1

お、古めかしい建物発見。
上にも書いた通り、ここあたりは空襲で焼け野原になったさかい、
これは戦後の建築やとは思います。
一見普通の家なんやけど、ここでカンが働きましたわ。
どーやらここは旅館みたいなんやけど、遊郭・赤線の建物は「売防法」施行後は旅館とか料理屋とかに変わっていきました。
遊郭・赤線は、今は制度はちゃうけど、家の上に女が住み込んで、自分の部屋で客を取ってたタイプが多かったさかい、
旅館に転業できる状態でした。
せやさかい、旅館に転業するタイプが多かったみたいですわ。


060121旧龍神遊郭2

ここは「旅館 ふくい」ってあったんやけどホンマに今でも旅館やっとるかは疑問(汗
この建物にピンときてよーく見てみたら、何気にタイルの跡っぽいもんがありましたわ。
どーやら上から何かで塗りつぶしとるみたいやけど、くっきり跡は残っとります。
後で調べてみたら、当時の龍神・栄橋赤線の地図を見ても「福井」っちゅー名前で営業しとって、
売防法施行後は旅館として営業しとったそうです。
ちなみに、「龍神」と「栄橋」は隣合せで今でも地名で残ってるんやけど、
歩いてるだけやとどっちがどっちか正直わかりまへん。
これは「旧栄橋遊郭」の方の建物ですわ。
(※2009/5/22現在、この建物は現存せず。駐車場になっていました・・・)


060121旧龍神遊郭3

こっちゃは、「旧龍神遊郭」の方の、これまた個性がある建物ですわ。
2階のバルコニー(!?)を木の枠で囲ってるなんて初めて見ましたわ。
恐らく戦後の建物とは思えんのやけど、空襲で焼けて跡形もないはずやさかい、ちょっとわかりまへん。
ちょっとガレージが興ざめやけど、それでもごっつい風情っちゅーかええ感じの建物ですわ。
旧龍神遊郭は、男を愉しませる場所としては「体」やなくて「芸」を売る芸妓(芸者)も置いてたみたいで、
酒を飲みながら遊びにふけることもできたみたいですわ。
むしろ旧龍神はそっち中心で、風俗の方はお隣の栄橋って感じやったそうな。
今風にゆーたら、龍神は「キャバクラ街」、栄橋は「風俗街」って感じの混合した新地ってわけやろな。
この建物も、昔は芸妓と遊んでた男どもの「戦場」の跡ですやろな。少なくても個人的にはそうであってほしいですわ。

060121南海堺駅

旧龍神・栄橋遊郭のすぐ近くにある南海本線の堺駅です。
今の堺駅は、いつかは忘れてもーたんやけど昭和50年代後半~60年くらいに移転されたもんで、
その昔は500mくらい南に駅がありました。
(今の「堺駅南口」バス停がその場所)
俺が小学校2年くらいは旧堺駅の方やったのは覚えとります。その小学校2年の時に母親が原付の免許を取りに門真まで行ったんやけど、その時に俺が同行してました。
その帰りに、何か用事でもあったんか、何故か自宅の最寄駅やなくて「堺駅」で降りたんやけど、その時にゃ確かに龍神にあった堺駅で降りた記憶があります。かれこれ30年くらい前の話ね。
で、ちょっとこれにゃおもろい発見が。
つい先日、堺市の図書館で昭和16年の堺市の地図を見てみたんやけど、南海本線を見たらそこにゃ「堺」と「龍神」の二つの駅が!
確か、俺の記憶やと、
・今の堺駅の場所に初代の堺駅が出来た
・戦争か何かで「堺駅」が焼けて、龍神の方に「旧堺駅」を作った
(それが昭和50年代まで続く)
・今の位置の「堺駅」が出来て、「旧堺駅」は廃止になった。

のはずなんやけど、気になって色々調べてみたら、どーやら俺が記憶にある「堺駅」は「龍神駅」として大正時代に開業しとった駅で、遊廓や当時は一大リゾート地やった大浜公園と海水浴場、宿院などの繁華街にも近い龍神駅の方が本家の堺駅を凌ぐよーになってしもたみたいですわ。
ちゅーことは、東へ降りたら欲望の花園、西へ降りたらハワイみたいなリゾート、なんか天国と地獄が同居したよーなとこみたいやな・・・。
そして、空襲で「堺駅」が焼けてしもて「龍神駅」が戦後に「堺駅」に昇格したんは俺の記憶通りでした。
どーやら一部・・・ちゅーか半分以上俺の記憶違いがあったみたいやけど、こないして深く調べてみたら今まで「常識」やったんがただの「記憶違い」やったこともよーあるこっちゃ♪
遊廓・赤線のことを調べとっただけやのに、何で堺駅の歴史まで来てしもたんやろ?まあそれがまたこの醍醐味!?
まあ関係ない話やったけど、その場所からしてこの元遊廓・赤線エリアは堺駅から降りてすぐの場所にあったってことですわ。

ちゅーわけで、今回の「赤線跡」巡りは終わりやけど、
また今後調査していって、回らせてもらいますわ。
これは建物がどんどん壊されていっとるさかい、早急にやらんと手遅れになりそうですわ。
どーやらこれが今年のライフワークになってまいまんな。


~2009/5/22 追記~

5月22日に再び貝塚・堺龍神を回ってきました。
残念ながら、上の日記にアップした建物の一部はなくなってしまっていましたが、
ほとんどの建物は現存しております。
そして更に新しい発見があったのでアップします。

090522 101

一見何の変哲もない家やけど、角に二つ玄関があるのに注目!

090522 102

貝塚はこれで3回目やのに、まだ新しい発見があったりします。
意外と見逃しとるとこが多かったみたいで、こんないかにも「発見してくれ~」というような建物を見逃しとったとは・・・・不覚なり_| ̄|○

090522 103

これも何の変哲もない、どこにでもあるよーな家やけど、
端にある「うだつ」が妙に怪しい一軒です。
画像にゃ収めきれんかったけど、玄関も「何故か」2個あるし。

090522 104

これも、何かオーラを放っとった一軒です。
確証は持たれへんけど、旧遊廊の頃の建物と推定できます。

そして旧龍神遊郭へ。

090522 105

これは上にもアップした、非常に個性的な格子がある家を横から撮ったもんです。


090522 106

その家の横をふと見てみたら・・・
ちょっと見難いけど、窓が非常に個性的な形をしとって、これぞ旧遊廊の建物やなーと確定できるもんでございます。
これはもう間違いない、俺が言うんやから間違いない(笑

で、後で昔の地図と照らし合わせてみたら、ここは「栄福」という名前やったことがわかりました。

090522 107

そして、今回最大の発見がこれ。
3年前に回った際、すべてを隅から隅まで回ったつもりなんやけど、
やっぱりまだ見落としとったとこがあったみたいですわ。
この壁の色といい形といい、間違いなく赤線時代の建物でしょうな。

090522 108

090522 109

この建物の個性的な部分をアップで撮ってみました。

せやけど、「全部回ってもう見るものはない」と思っとったのに、
回る度に新しい発見があるのが遊廊・赤線巡りのおもろいとこかもしれませんな。
まるで宝探しのような楽しさがあったりします(笑


~2010/9/29 追記~

このブログの堺・龍神栄橋遊郭のダイジェスト編のようなスライドショーをYoutubeで公開中です。
やたら長たらしい活字が「うざい!」と思った方、

「5分でわかる・・・かもしれない堺龍神・栄橋遊郭」

って感じで見てくれたら幸いです。




このブログを見てくれとる皆さん、このブログが参考になったりしたら、
↓の拍手をクリックしてくれたら幸いですm(__)m

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テーマ:大阪
ジャンル:地域情報

コメント

■ 駅の話です

南海の「龍神」駅ですが、堺駅に昇格した訳やないんです。「堺(吾妻橋)」駅と統合されて“新”堺駅になったんです。「龍神」駅は、今のフェニックス通りの南側、まさに色町のすぐ横で、戦後の堺駅はフェニックス通りの北側やったですね。
2015/11/05 URL 屋根裏の司令室 #- 

■ こんにちは

私の祖父が栄橋で遊郭をやってたという話を最近になって知りました。古い戸籍をみると確かにそのあたりみたいでした。
昭和20年の空襲の時には祖母が幼い母を背負い焼夷弾から逃げ回ったと言う話を聞いておりましたがこの地域の事だったんですね・・・
その祖母も去年に亡くなり、それがどのあたりだったのかもわかりません。
少しでも自分のルーツを垣間見た気がし、大変面白い記事でした。ありがとうございます。

それと話はかわりますが、大正時代に松島遊郭から今の東大阪の石切付近に遊郭を持っていった?とかいう話はないでしょうか?もしお知りでしたら教えて下さい。
2013/03/26 URL jimmy #592Xd23o [編集] 

■ 上から見ると面白いです

堺の住人です。興味深く読ませていただきました。
googleの航空写真モードで見ると、屋根の形や色でもそれらしき建物と推測できるのですが
(旅館になっているところなんかは建物の形がコの字になっていて、内部も複雑な作りなのかな~なんて推測してみたり)

航空写真ではまだ写っていても現在はもう無いところが多いのが残念ですね。

古い記事に足跡失礼しました!
2012/03/30 URL nanashi@ #- 

■ Re: 始めまして~

>みなみさん

はじめまして、うちのブログにコメントおおきにです\(^o^)/


> 「幼き頃から いろはを覚え はの字を忘れて 色ばかり」

こんなんが残ってたんですか!?場所って覚えてませんよね?(汗
5~6年前やったらちょうど俺がこういうのに興味を持ち始めた頃やさかい、見逃してましたね・・・。
こりゃええネタになったのに。いや、次の休みに探しに行きます(^^)

それにしても、この言葉なかなか奥が深いですね(笑
詠み人知らず(?)のユーモアが見えますね。
2012/01/08 URL BJのぶ #qDfdtOiE [編集] 

■ 始めまして~

 私も堺の出身なので、興味深く拝見させて頂きました。

まだ5.6年程前でしょうか?
興味が有ったので食事に訪れた際に、きょろきょろしながら歩いた時に、見た目は民家風でしたが玄関の上部に
「幼き頃から いろはを覚え はの字を忘れて 色ばかり」
と欄間の様に透かし彫りの家が残っていましたよ。
2012/01/05 URL みなみ #SFo5/nok [編集] 

■ Re: no

>noさん

はじめまして。うちのブログを見ていただいておおきにですm(__)m
俺も堺出身で龍神あたりはよー行ってたんやけど、残念ながらそこに遊廓や赤線があったんを知ったんは最近、
子供の事はぎょーさん建物や雰囲気残ってたやろな、と思うと残念ですわ。
まあ、小学生にそういうの期待するんも無理あるけど(笑

またよろしければ、ブログをご覧下さい。
2011/02/09 URL BJのぶ #- 

■ no

楽しく拝見しました。
今は39歳で北大阪に住んでいますが、実家が堺で、
さらに父が市中学校に通っていました。
おばあちゃんの家の裏が線香工場でした。
今は綺麗な堺駅前ですが、私が小学生の頃は
上記写真の旅館は経営しておりました。
父親曰く赤線を隠す為に堺駅を移転させたらしいです。
2011/02/07 URL no #- 

■ 

>ゲストんさん

はじめまして、うちのブログにコメントおおきにです~。

女性から見たこういうとこの視点、おもろいと思いまっせ~。
俺は「現役」にゃ興味ないけど、女性から見た建物はまた違ったもんになると思います。
せやけど、元赤線とか遊郭の建物の地域は、その歴史を隠したい、なかったことにしたい地元の方もおるさかい、
カメラ持って歩いてたらすごい目で見てくる人(特に年配の女性)もおるさかい、
探索にはくれぐれも注意して下さいね。
せやけど、一般的なマナーを守ったら問題はないですよ。
「こういう建物に興味あります」って正直に言うたら、何も聞いてへんのに向こうからベラベラしゃべってくれることもあるし(笑
2008/10/22 URL のぶ@大阪 #qDfdtOiE [編集] 

■ お初です

私、女性ですがこういうのは嫌いじゃありませんよ。
だっていつの時代も男と女の色恋は素敵だと思いますし・・・ちょっとスケベなんで(笑)
こういうブログ女の視点からも書いてみたいものです。
でも、殿方様のようにあちらこちらと町を訪ねるほどの財力もなし、無理ですね。それと簡単に踏み込めない場所などあるでしょうから。では、またお邪魔します。
2008/10/22 URL ゲストん #- 

■ 

>みぃにゃん

コメントおおきにでした~。
毎回この話題書けるほどネタもあらへんけど、
エロいの抜きで調べてみたらなかなかこーゆーのもおもろいと思いますわ。
「現役」のとこは組合が絡んどるさかい撮影は組合の許可が必要みたいでんな。
飛田とかはデジカメ持ってるだけで怒鳴られるとかなんとか!?
せやさかい、俺はあくまで「跡」にこだわろうと思います。
ただいま資料が少ないさかい休業中なこのシリーズやけど、また落ち着いたら再開してみたいですわ。
2008/06/23 URL のぶ@大阪 #qDfdtOiE [編集] 

■ 久し振りに勉強

貝塚から、堺まで、良く調べはりました。

あたしは昔、今のブログとは別のサーバーで、インターネット日記を書いていた頃、
少しばかり、殿方が喜んで頂ける様に、同じ様な話題は、鐘木廓ほか、取り上げた事は有りましたが、
取材に行った場所によっては、
例え“ま昼間”でも、女性がカメラなど構えたら、袋叩きっていうオーラを感じさせられる場所も多く、
資料のかなりの部分は、ハンドル名“男爵”さんと言う方の“新地”“色街”研究写真つきサイトと、お友達がコンテンツ作成を手伝っていた“夜遊び案内サイト”に頼っていました。

女遊びの場所にこだわり過ぎたら、ブログは潰れるかも知れません。
時に、違う話題もね。

追記:都島区京橋の繁華街の片隅に、旧淀川から揚がった“お地蔵さま”が、ひっそりお祭りされていますが。
どうしても、人の関心が体の欲望に流れるのか、縁起にも水子供養と、金銭ご利益が、強調されていて。
少し、寂しかったです。
2008/06/20 URL みぃにゃん #QxL/Rh.I [編集] 

■ 

>neonさん

>まだまだ色々あるんでしょうね、ああ見て見たい。

貝塚なら思い立ったらすぐ行ける距離やさかい、
また探索に行ってきますわ。
1年前に行った時は寒かったけど、今年の大阪はやけに暖かいさかい、行くなら今のうちです(笑

あと、実はうちの家のすぐ近くに、「現役赤線」があるんやけど、組合がうるさーて写真がなかなか撮られへん上に、
(飛田なんか、デジカメ持ってるだけでヤクザに追いかけ回されるさかい、要注意です)
図書館に行ってもデータがおまへん。
(貝塚遊郭は市史にちゃんと書いてたくらいやのに、「現役」がデータなしとは)

また晒していくさかい、お楽しみに~(^^)

最後に・・・

>ちなみにワタシは♀です
ありゃ、そーやったんでっか(汗
せやけど、こないな建物に興味を持つんは男女関係あらへんと思いますわ。
中書島を回った時は男女のカップルもおりましたしなー。
2006/12/07 URL のぶ@大阪 #j15/m7TY [編集] 

■ neon

お返事ありがとうございます。
貝塚遊廓は、どなたもほとんど行っていない手つかず状態のような気がして、のぶりんさんの写真はほんとにそそります。まだまだ色々あるんでしょうね、ああ見て見たい。
(ちなみにワタシは♀です)
是非関西の未踏の地を、巡り歩いてレポートして下さいませ。機会あらば、是非後を追います~。
2006/12/05 URL neon #Fos2lKYE [編集] 

■ ようこそいらっしゃいました

>neonさん

はじめまして。
しばらくブログをほったらかしにしとったさかい、返事が遅くなってえらいすんまへんm(__)m
ここじゃ大阪弁がポリシーやさかい、失礼ながら大阪弁で書かせてもらいま。

>貝塚遊廓は初めて知り、素晴らしさに吃驚しました。
ワシは貝塚から数キロのあたりに住んでるんですが、
まさかこんなところに・・・と驚愕です。
空襲もあらへんかったし、良い意味で貝塚は開発から取り残されとったとこやさかい、
カフェー建築もこれだけ残ってるとは思いませんでした。
実は、画像はこれだけやけどもっと色んなもんが残っとります。

龍神はまさに地元で、元遊郭あたりは小学校の頃の通学路でもありました。
「灯台下暗し」とはこのことでんな~。
せやけど、龍神はすぐそばに駅があって、開発の波がそこまで押し寄せとるさかい、消えてしまうんも時間の問題と思います。(恐らく数年以内には消えそうです)
もしよかったら、是非描きに来て下さい。


>是非これからも拝見させて頂きます。
ちょっと色々バタバタして作業は進んでへんのやけど、
丹波篠山にも遊郭跡があって、隔離されとるよーに残ってるさかい、
雪が降らんうちに1回行ってカメラに収めてみたいです。
2006/11/30 URL のぶ@大阪 #nz5q6xfQ [編集] 

■ 初めて

今晩は。neonと申します。
実はワタシは「赤線跡を歩く」(初版自由国民社版)の本の見返し画を描いた者です。もう20年ほど前に橋本遊廓に出会ってから、こういう建物などを細々描いております。
検索からこちらに行き着いたのですが、貝塚遊廓は初めて知り、素晴らしさに吃驚しました。カフェー建築とても好いです。まだまだ探せば潜んでいるのですね。。。機会があったら行ってみたいです。
是非これからも拝見させて頂きます。
2006/11/20 URL neon #Fos2lKYE [編集] 

■ NoTitle

>名もない方
こんにちは。名前があらへんかったら、
ここじゃIPが臨時HNとして原則IPを晒すけど、貴重な意見やさかい、名無しにしておきます。
ちゅーわけで、貴重なご意見おおきにでした。
今度見に行ってみようと思います。
2006/03/03 URL のぶ@大阪 #- 

■ NoTitle

大阪貝塚近木「新地跡」にある上野安太郎邸はかつての遊郭の姿、そのまま留めているので御覧になられたい。それから上野邸からひとつ奥の通りの山村邸も、それから駅前のスーパーのすぐ裏にある多賀邸は、かつての遊郭、第二多賀跡だ。
2006/03/03 URL 名を名乗れアホ #- 

■ 

>omiidonはん
ワシもここは意外な発見でしたわ。興味あらへん人にとっちゃタダの家なんやけど、
興味ある人にとっちゃ貴重な遺産ですわ。

ちなみに、街中はいったん車を止めて歩きで探索しとります。
2006/01/23 URL のぶ@大阪 #- 

■ 

貝塚や堺は営業のとき走ってましたさかい、興味深く拝見させてもらいましたゎ。
よう調べてはりまんな。昔の文化、建物を見たり知ったりすることは、必要なことやなと思いました。
あちこち街のなかは、プリをとめて歩いてみはるんでっか。それともほとんどモーター走行かな。(^O^)/~~
2006/01/23 URL omiidon@ケータイ #DpkuJOD. [編集] 

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