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BEのぶ

  • Author:BEのぶ
  • 自称「ブログエッセイスト」ことBEのぶです。
    昭和史をライフワークにしていますが、平成ももうすぐ30年経ち、昭和が遠い過去になりつつあります。
    昭和も遺産・遺物を探れば立派な「考古学」となります。題して「昭和考古学」。ジャンルは遊郭・赤線跡から鉄道、そしてすっかり忘れ去られた歴史を掘る「昭和の考古学者」として、昭和の名残りを通して考察する旅を続けています。

    基本は標準語で書きますが、エッセイは大阪弁で書いていきます。

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■■■旧藤沢遊廓をゆく 消えた遊郭・赤線の跡をゆく41

先日、ちょっと野暮用でトキオ・神奈川方面に飛んでたBJのぶです。
久しぶりの関東やったけど、お土産もなしで大阪に帰ってくる・・・わけがないのがわたくしBJのぶ。
スケジュールの合間を縫って回るところをまわってまいりました。

で、ヤボ用会場の交通アクセスを考えて神奈川県の藤沢ってとこに宿を取ったんやけど、

「藤沢に赤線(跡)なんかあったりして♪」

な~んて冗談半分で調べてみました。

そしたら・・・幸か不幸かタイミングよくあったりするんですわな(笑
正直、そんなつもりで藤沢を宿泊先に選んだわけやないんやけど、やっぱし見えない何かの力が働いとったかもしれへん・・・と言うしかあらへん偶然でした。
何せこんな状態やさかい藤沢の遊廓・赤線のことはまったく白紙の状態やったけど、これも何かのご縁やろうと慌ててネットで情報収集して、やりたくない休日の早起きをして(休みの日くらいゆっくり寝させろ)、時間を無理矢理作って探索してまいりました。

藤沢駅北口

藤沢駅の北口です。
「藤沢新地」と言われた藤沢の遊郭は駅前すぐのとこにあったそうです。
八王子の時もそうやったんやけど、こんな駅前を見ると「こんな都会に遊郭・赤線の跡なんか残ってるんかいな!?」と不安な気分に陥ります。まあ空振り上等、あったらラッキーって気持ちでいくのがいちばん。



藤沢駅前にあるさいか屋

その藤沢駅北口に、「さいか屋」ってデパートがありました。
ほう、「さいか」ねー。
と、頭の中にふと浮かんだのが、「雑賀」
雑賀は「さいか」と読んで、実は今の和歌山市と海南市、及びそのあたりの古い地名やったりします。
そして、戦国時代に詳しい人やったら、「さいか」ときたら連想ゲームのように「雑賀」→「雑賀党」とくるはず。
「雑賀党」とは上にも書いたよーに、和歌山北部を拠点に活動しとった戦国時代の豪族連合みたいな組織で、今の政治組織にたとえたら、アメリカやドイツのような連邦制国家が和歌山にあったよーな感じです。
そのすぐ北には貿易で巨万の富を得て栄えた、「香港か、はたまたシンガポールか」の堺もあったさかい、戦国時代の日本は「連邦国家」に「自由貿易港」、加賀の一向宗のあれを含めたら「共和国」まであったバラエティーあふれる個性の時代とも言えますな。
その雑賀党の「連邦大統領」ことヘッドが鈴木重秀という武将でした。鈴木重秀でピンとこえへんかったら、鈴木孫一って名前やったらピンとくるかもしれません。

その雑賀党が戦国の乱世に突然現れ、その名を知られるようになった理由は、当時最新鋭の武器やった鉄砲でした。
鉄砲が種子島に伝来してうんぬんはもう書くまでもない常識やけど、そこに雑賀の隣にあった根来の僧侶がおったそうな。根来は根来寺というお寺で有名なとこやけど、そこの旅の僧侶が鉄砲という得体が知れない武器を見て興味を持ったようです。
「ちょいとその武器ちょーだいな」とばかりに鉄砲の技術が根来に伝わって、彼らとつながりがあった雑賀党にも早くから伝わったことは歴史の事実、彼らは鉄砲の腕をものにして全国に鉄砲の傭兵として派遣されました。いわば「鉄砲屋」として全国各地の会社ならぬ大名から引く手あまた、今日はAという大名に、明日はAと敵対する大名Bに味方して、ということもあったことでしょう。
雑賀党は、最新兵器やった鉄砲を自在に操る技術者を排出した、日本でもかなり特異な集団やったんです。
いわば、鉄砲をかついで全国の戦場を駆け抜けた「戦闘派遣社員」やったってことです。

「連邦国家」どころか「技術職の人材派遣会社」、または「戦闘タレント事務所」も兼ねとった雑賀党、その真骨頂は織田信長と本願寺が対決した石山本願寺の戦い。
この頃には郎党ごと浄土真宗の信者になっとった雑賀党は本願寺側の要請を受けて石山本願寺に籠城、織田軍をかなり手こずらせることになります。
世界史の籠城基準じゃ「日本史唯一の本格籠城戦」になった「石山合戦」は足掛け4年にのぼったんやけど、当時飛ぶ鳥を落とす勢いやった織田信長がここまで苦労したかという理由は色々あるけど、一つは戦国時代のサイヤ人のような雑賀党が本願寺の味方につき、得意の鉄砲で応酬したこともありました。
信長は羽柴秀吉、明智光秀などの、当時の「信長軍団オールスター」精鋭10万を雑賀党の本拠地に差し向けて攻撃するんやけど、そこでもかなり手こずったようです。
せやけど、こんな時に雑賀党が「織田派」と「本願寺側」に内部分裂してしもたみたいで、ゴレンジャーも5人が力を合わせてはじめて敵と戦える力を持つ、5人かバラバラになったら力も5分の1になるのと同じように、彼らの力は弱まっていきました。

そして、雑賀党にとどめを刺したんは豊臣秀吉。
織田信長の雑賀党退治に同行した秀吉は彼らの怖さを肌で知ったのか、それとも小牧・長久手の戦いで徳川家康に味方して散々手こずらせた恨みか、雑賀党は「雑賀」やった地名も「和歌山」に改められたくらい徹底的に潰され、雑賀党は全国に散らばって歴史の埃の下に埋もれてしもたけど、その活躍は確かに歴史の1ページにはっきりと刻まれとります。
ちなみに、和歌山って和歌浦の山側にあるって意味で「和歌山」ね。
で、6~7年前になるんやけど、仕事で和歌山市に行った時に、市の東の方でマンション建設中に雑賀党の時代の遺跡が出てきて、「見ていいですか?」「いいですよ」と仕事そっちのけで発掘調査を見学したことがあるんやけど、壺に入った銅銭とかがザックザク出てきたらしくて、雑賀党の経済力のすごさを垣間見たようなような気がしました。

司馬遼太郎が雑賀党に興味を持って『尻啖え孫市』っていう小説を書いたことがあるけど、そのきっかけは司馬さんの旧制中学時代に「雑賀」というクラスメートがおったことだそうです。そして彼がインパクト強かったんは、敬語を一切使わんかったということで、そもそも和歌山弁には敬語ってのがほとんどないのが特徴、教師にもタメ口でしゃべっとったんが非常に印象に残ってたそうです。
そして、「雑賀」って苗字は、俺が中学の時にも一人おりました。雑賀党の末裔から知らんけど、才色兼備な女の子やったさかい今頃はとんだおばはん・・・失礼、べっぴんさんになっとるやろなー、とこれを書きながらふと思い出してまいましたわ。

まあそれはさておき、延々と語った雑賀党と「さいか屋」って関係あんの?と思うことでしょう。
ここまでダラダラ遊郭・赤線に関係ないこと書いといて「実は関係ありませんでした、テヘ♪」なんてオチはないやろな?と(笑
「遊郭・赤線跡をゆく」をしばし忘れて手元のスマホをピ・ポ・パとググってみたら、どうも「さいか屋」の創業者は自称雑賀党の末裔らしゅーて、その出自を忘れんよーにしたんか、それともかつては全国にその名を知られた雑賀党のプライドか、屋号を「雑賀」にしたってことですわ。
その雑賀党の名前が関東で生きてる・・・なんか不思議な気分ですわ。

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テーマ:消えた遊廓・赤線の跡を訪ねて
ジャンル:ブログ

 
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