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BEのぶ

  • Author:BEのぶ
  • 自称「ブログエッセイスト」ことBEのぶです。
    昭和史をライフワークにしていますが、平成ももうすぐ30年経ち、昭和が遠い過去になりつつあります。
    昭和も遺産・遺物を探れば立派な「考古学」となります。題して「昭和考古学」。ジャンルは遊郭・赤線跡から鉄道、そしてすっかり忘れ去られた歴史を掘る「昭和の考古学者」として、昭和の名残りを通して考察する旅を続けています。

    基本は標準語で書きますが、エッセイは大阪弁で書いていきます。

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■■■我、鹿肉を食らふ

最近、遊郭の話ばっかし続いとるさかい、たまには趣向を凝らして(?)別の話を。

「鳥取県の遊郭・赤線跡を訪ねて一人ツアー」の帰りに兵庫県の佐用郡ってとこを通ったんやけど、
一般道をのんびり走行しとったら、道の駅でふと

「鹿肉」

って看板を見つけました。
牛肉とか豚肉やったら完全スルーやし、それ以前に珍しくもなんともあらへん。わざわざ看板に書くこともあらへん。
せやけど、「鹿の肉」ってこれは珍しい。
別に腹減ってたってわけでもあらへんかったんやけど、「鹿肉」が俺の好奇心を妙にくすぐる。
腹減ってへん葛藤と闘うこと数秒(←短)
「とりあえずネタや!」
と持ち前の大阪人精神好奇心で食べてみることにしました。

場所は兵庫県西部と鳥取県を結ぶ国道373号線上にある

「道の駅 宿場町ひらふく」

ってとこ。
中国自動車道の佐用ICを降りてR373を北の方向(鳥取の方向)へちょっと進んだところであります。
外観は特に何の変哲もあらへん、ごく一般的な道の駅なんやけど、
とにかく「鹿肉」がここの特産なんか、やたら「鹿肉」が目に付く。
他に黒豆の加工品やコンニャクを使った料理が名物みたいやけど、俺の頭の中にゃ「鹿肉」しか思い浮かばん。
まるでサブリミナル効果のよーや(笑

で、車を駐車場に止めていざ道の駅の中にある食堂へ。
ちょうど夕食前の時間か、食堂は人もまばらで俺の貸切状態。
座った席にゃメニューがあったけど、俺が目指すは「鹿肉」のみ(笑
どうも鹿肉を使った「しかコロッケ定食」があるらしゅーて、よしそれにした!とオーダーしてみました。

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テーマ:雑記
ジャンル:ブログ

■■■松田優作と赤線の足跡をゆく 消えた遊郭・赤線跡をゆく特別編 

東西南北の人が集まり通っていた下関には、その数だけ人間ドラマがあるって言うても過言やないでしょう。
遊郭に通う人たちも、何も現地の人だけとは限りません。
下関をトランジット(通過)するだけやけど、次の移動待ちの間にフラリと赤いランプに導かれて女のブラックホールに吸い込まれる・・・。
そんな男達もいっぱいいたはずです。

今回は、そんな男と女の色を見て育った、ある男の生涯を追ってみましょう。

下関には、以前紹介した遊郭の他にも遊郭が存在しとりました。
その名は今浦町
今でもそのまま地名は残ってるんやけど、男は終戦直後の男と女の本性が渦巻く、丘の上にある町で生まれました。
父親は長崎からやってきた妻子持ちの男、女は今浦町で質屋を営む戦争未亡人。
普通に暮らしていればまず交わることがない二人は不倫の関係になって結ばれ、やがて女は男の子どもを身ごもり、出産します。





松田優作と赤線の写真

時は昭和24年、のちの松田優作の誕生でした。
母親の松田かね子は生活のためか、質屋業の他に自宅の2階の小部屋を遊郭の女性に貸す商売も始めていて、
物心ついたばかりの優作少年は、厚化粧の女たちが見知らぬ男を連れて来ては奥で「何か」をしている、そんな姿をはっきり覚えていたそうです。
そして、母親も同じく常に見知らぬ男が傍らにいて、その時のことをこう語っていました。

もう、イヤでしょうがなかった。なんなんだろうおれは。
生まれてこない方がよかったんじゃないか。
男が来るっていう時はカギかけて、入ってこられないようにして、
そうすると、おふくろが上から降りてきて”バシッ”と
ひっぱたかれたりして・・・・。

おふくろは、女をやめていなかった。



母親が母親ではなく一人の「女」になる、これが優作少年の中に刺のように突き刺さっていたことが伺えます。

そのせいか、小学校時代の優作少年は荒れ放題で、クラスメートも彼を遠ざけて友達もほとんどいない状態だったそうで、
更に追い打ちをかけたのは、松田優作には兄が二人おったんやけど、優作は兄と父親が違っとったということを知ったことでした。
更に、自分の父親はフラっと現れた名前も知らない男・・・。
彼の心に余計に傷がついたのは想像に難くないでしょう。
高校に入って彼は現実逃避するようにアメリカの叔母を頼りにアメリカに渡るものの、ホームシックや叔母の離婚もあって無断で帰国します。
せやけど、そんな彼に帰る家はもはやなし、仲が良かった兄を頼りに東京へ渡ります。
高校を卒業して関東学院大学へ進み、そこで才能を認められてそのまま俳優への道を進んで、それからの人生は俺が書くまでもないと思うけど、松田優作って、何か雰囲気に「暗さ」があって、目も何か訴えかけるような「寂しさ」があったよーな感じがしたんやけど、これも幼少期に見た「現実」を見てしまった心の刺のせいかもしれませんな。
幼少期の経験って、自分の頭の中には残ってへんかもしれへんけど、潜在意識の中にはくっきり残ってるのか、「三つ子の魂百まで」って使い古された言葉は真理なんかもしれません。

遊郭という特殊な街角で生まれ、そして自分の母親が「女」として体を売るのをこの目で見てきた現実、そして父親を知らない私生児として、在日韓国人として、様々な葛藤とコンプレックスが複雑に絡み合い、あの雰囲気とスタイルが出来上がったんかな、と。
たとえそれは、結婚して子供に恵まれ、「普通の家庭」を持ち「普通の父親」になっても尾を引いていたのかもしれません。

いつもなら今浦遊郭の話を、数字を交えながら書くんやけど、今回は余計な数字はええでしょう、特別編やし(笑

松田優作が生まれ育った遊郭街、今浦が今どうなってるのかをメインに書いてみようと思います。

テーマ:消えた遊廓・赤線の跡を訪ねて
ジャンル:ブログ

■■■下関彦島遊郭 消えた遊郭・赤線跡をゆく28 

下関の遊郭は、前にも書いた

・新地遊郭

・豊前田遊郭

・稲荷町・裏町遊郭


の他にも、今浦町竹崎町にも遊郭があって、これだけでも街中遊郭だらけな感じさえ想像できる始末。
それだけ下関が海上貿易の要として栄えとったってことの証明やけど、

下関の遊郭はまだこれだけやなかった!

と言うたらどないします?
実は、下関市立図書館であれこれ資料を漁ってたら、時代によって多少・大小はあるにしても、他にも遊郭があったことが判明しました。
一体何ヶ所あんねん!?と呆れたくもなってくるくらいやけど、
下関の遊郭は格式高い稲荷町や、今でも建物が残っとる新地遊郭などが知名度高い裏で、
あまり知られてへん(!?)遊郭も存在しとりました。

11080101

その「隠れ(?)遊郭」があったとこは、下関の端っこにある「彦島」。
今はほとんど陸続きになっとる上に、九州へ向かう山陽本線がさりげなく通っとるさかい、ジモピーやなかったらここが本州とは離れた島ってことに気づく人は少ないけど、
よーく見たら確かにここは島ですな。俺も気づかんかった(笑

俺が持ってるいちばん古い資料の「山口県統計書」の明治15年版の遊郭一覧を見てみたら、

長門国赤間関区彦島福浦

同国同区同南風泊港

っちゅー文字が見えます。
それぞれの数字は、

・福浦:貸座敷数7軒、娼妓数121名

・南風泊港:貸座敷数3軒、娼妓数32名

となっとるんやけど、
同時期の新地遊郭が3軒/18名、豊前田が19軒/296名、稲荷町が13軒/32名(他芸妓34名)やさかい、
彦島の福浦遊郭は無視できへんよーな規模やったと思われます。
福浦も南風泊港も、今のGoogle mapを見てもわかるよーに港町にあったりします。
昔は帆船が中心やったさかい、風向きによっては何日も港に滞在せざるを得ません。
そういう船夫や漁師向けの遊び場に遊郭が開かれとって、そういう人たちで栄えとったと推定できます。

それが一気に飛んで大正元年になったら、
福浦:貸座敷4軒/娼妓数16名
と以前の繁栄はどこへやら?って感じになっとります。
明治15年にあった南風泊港遊郭の名前はなく、「竹ノ子島」って表現されとるけど、
その「竹ノ子島」の遊郭もほとんど開店休業状態、遊郭免許は失効してへんさかい載せとくか、って程度です。
滅びそうで滅ばへん福浦遊郭は、

大正3年:貸座敷4軒/娼妓数10名/芸妓1名
大正6年:貸座敷数5軒/娼妓数4名/芸妓1名

と、徐々に衰退していっとります。
衰退した原因はどうも福浦地区にあった三菱造船の造船所が移転したから、と『関の廓繁盛史』っちゅー本に書かれとりました。

ここで気になるんが、明治15年の「南風泊港」と「竹ノ子島」が果して同一遊郭なんか、それとも全く別の遊郭なんかということ。
そこで、昭和4年の内務省警保局(今の警察庁)の内部資料と思われる全国遊郭一覧の山口県のとこを見てみたら、
「南風泊港」と「竹ノ子島」が別々に記載されとりました。
ということは、遊郭の許可は「南風泊港」と「竹ノ子島」とは別々やってことか?
それはわからんのやけど、この内務省資料では福浦遊郭も含めて「データなし」状態になっとって、事実上免許だけ残して滅亡したと思われます。

はい、おしまい・・・


テーマ:消えた遊廓・赤線の跡を訪ねて
ジャンル:ブログ

 
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