のぶログ (THE WEBLOG WITH OSAKA DIALECT)

大阪人の、大阪人による、大阪人のため・・・のブログ!?

ブログランキング

ブログランキングに参加しています。 面白い!と思ったらクリックしてあげて下さいm(_ _)m



にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ

にほんブログ村 歴史ブログ 近代化遺産へ

よろしく!








blogram投票ボタン






ブログ内検索

プロフィール

BEのぶ

  • Author:BEのぶ
  • 自称「ブログエッセイスト」ことBEのぶです。
    昭和史をライフワークにしていますが、平成ももうすぐ30年経ち、昭和が遠い過去になりつつあります。
    昭和も遺産・遺物を探れば立派な「考古学」となります。題して「昭和考古学」。ジャンルは遊郭・赤線跡から鉄道、そしてすっかり忘れ去られた歴史を掘る「昭和の考古学者」として、昭和の名残りを通して考察する旅を続けています。

    基本は標準語で書きますが、エッセイは大阪弁で書いていきます。

質問・お問い合わせはこちら

名前:
メール:
件名:
本文:

人気ブログランキング

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

■■■今の日本人に足りないもの

もうすぐ4月、春の桜のシーズン、
もう冬も終わりに近づいてきました。
そろそろ「冬眠」を終えて目ざめつつあるBJのぶです。

1万円札こと福澤諭吉の『学問のすすめ』の初っ端にある、

『天は人の上に人を作らず人の下に人を作らず』

って言葉があります。
これはめちゃ有名、ちゅーか有名すぎて言葉だけが独り歩きして誤解されとるんやけど、
実はこの後にこういう言葉が続きます。

『と云(い)へり』

つまり、正しくは「天は人の上に人を作らず人の下に人を作らず、と云へり」なんであって、
ほな『云へり』ってどういう意味やねん?というと、
「~と世間一般では言われている」「と誰かが言った」的なニュアンスで、
『天は人の上に~』は福澤諭吉が作った言葉やないんです。ここが誤解その1。
この言葉の元ネタはアメリカの独立宣言の起草文らしいです。

で、『天は人の上に~』だけやと福澤諭吉は「人間はみんな平等やで~」って言ってるよーに思えて、実際にそう思われとるフシがあります。
更にはそれを悪用して「福澤諭吉がこない言うとるんやから間違いない」と葵の御紋を突きつけて平等主義を強要する輩までおる始末。戦後日本の悪平等もこれが原因かもね!?
でもちょっと待った!『学問のすすめ』をちょっとでも読んだ人やったらお馴染みやけど、これにゃ続きがあるんですわ。
『天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らずと云へり』の後をちょっと略して意訳したら、

「でも、実際は金持ちもいたら貧乏人もいる、頭がいい人もいればバカもいる。それって何で?」

と読者に問題提起しとります。
福澤諭吉大先生はその答えを、

「それは学問する人としない人との違いである」

(※原文は「賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとによってできるものなり」)

ストレートかつ簡単に断言しとります。
その後に、

「確かに、オギャーと生まれた時には平等である。しかし学問をしてしっかりと物事の分別がついた人は社会的地位も高くなり金も集まってくる、学問をしない人は一生貧乏で社会的地位も低い、ということだ」

と、また耳の痛いことを書かれとります。

『学問のすすめ』を書いた少し前の江戸時代は身分が固定されとって、武士に産まれたら武士、農民に産まれたら農民にしかなられへん時代でした。
まあ、実際は金とかで身分を買うことは出来たし、渋沢栄一みたいに農民として生まれたけど武士として登用された例もあるんやけど、
普通は足軽の子供は一生足軽として生き、福澤諭吉のお父さんも学者肌の武士やったけど、中津藩という小さい世界に縛られて一生を終えました。
そもそも福澤諭吉の下の名前も、『上諭条例』という中国の珍しい書物を手に入れて喜んどったところに、男の子誕生って知らせが届いてその書物から一字を取って『諭吉』にしたってくらいやさかい、
生きてたんがもう1世代後やったら、それなりの学者として活躍できたやろうに、と思います。
せやさかい、本人は無能の愚人やのに、父親が家老やから家老になるという門閥制度はひどく憎んでて、「私のために門閥制度は親の仇でござる」と1万円札の自伝の『福翁自伝』に書かれとります。

せやけど、江戸幕府が潰れて明治になり、すべてが180度変わった大変革の時代、
「親の仇」とまで言うとった門閥制度がなくなって、タテマエ上は武士やろーが農民やろーが商人やろーが自由に出世できる時代になりました。
「これからは自分で勉強したら金持ちにもなれるし学者にもなれる、政治家にもなれますよ。自分次第で何にでもなれますよ」
とこれからの若い世代を叱咤激励したんが『学問のすすめ』で、『学問のすすめ』って日本人が書いた日本初の自己啓発書+ハウトゥー本やったんです。
そして、『学問のすすめ』は当時の若い人の心を揺さぶったんか当時で300万冊も売れたと言われとって、日本初のミリオンセラーでもあります。
当時の300万冊は今の人口と識字率で言えば軽く1000万冊は売れたよーな感じ、今の現代語訳とかも入れたら、150年通算でリアルに1000万冊はいってるんちゃうんかな?

で、あまりに売れたために海賊版が日本国中に出まくって、日本人のモラルのなさに激怒した福澤君、英語の「コピーライト」という言葉を『版権』って漢字に翻訳して、「著作権」の概念を輸入して広めました。
日本は世界有数の著作権のうるささやけど、そもそもは福澤諭吉が導入したものでもあります。
せやけど、福澤諭吉の言葉を逆読みしたら「勉強せーへんとアホになりますよ。バカ呼ばわりされても、給料低くても、受験で志望校落ちてもあんた本人の責任やからね」とも言うとるわけで、
最近巷に出てきた「自己責任」を150年前に言うとることがわかります。
さすが諭吉、伊達に1万円札の顔にゃなってない(笑

そう言うと、人は顔を真っ赤にして怒ってこない言います。

「自分は生まれつきアホやから」
「勉強したくてもお金がないから家(親)のせい」
「勉強するヒマがなかった」

とかなんとか、出てくるのは言い訳ばっかし(笑
まあ、昔の俺もそーやったんやけど、これは努力していったら解決出来る問題で、1万円札もそこは「甘ったれんじゃねーよ!」と『学問のすすめ」で叱咤激励しとります。
福澤諭吉が一生言い続けとった言葉に、

『独立自尊』

があります。
福澤諭吉の戒名が「大観院独立自尊居士」で、「これが先生にふさわしい」と塾生が考えたもんなんやけど、明治政府や旧中津藩から慶應義塾に資金援助があっても「要らん!」とお断り、
「日本初の授業料制度」「教師を雇う金がないから塾生同士が教え合う『半学半教』の制度」を自分の頭で創作して廃塾の危機を何度も乗り越え、
国の世話になんかならん!と終生「私」を貫いた福澤諭吉らしい哲学です。
これは俺の座右の銘でもあるんやけど、オレ流解釈やと、

「独立」:
自分の確固たる考えを持つ。確固たる考えを持つと「個人の共和国」が成立して他人に振り回されず、自分のことは自分で判断して解決出来る能力を持ち、他力本願にも運命論者にもならない。


「自尊」:
自分に自信を持って自己を確立する。自己を確立した人間は他人も大切にする。また、普段は人に寛大だが自分の尊厳を侵害された時には断固として正義を貫く勇気を持つこと。


なんやけど、諭吉さんが作った学校、慶應義塾のHPに見る「公式解釈(?)」は、

「独立自尊」
「独立」は権力や社会風潮に迎合しない態度、「自尊」は自己の尊厳を守り、何事も自分の判断・責任のもとに行うことを意味し、これは慶應義塾の教育の基本です。



ちゅーことで、まあ言わんとしとることは大して変わらんか!?(笑
『学問のすすめ』では、

「独立する気のない者は必ず人に頼る。人に頼る人は人を恐れる。人を恐れるものは人にへつらう。人にへつらうことに失敗すると今度は人を攻撃し始める」

とあり、まあどっかで誰しも経験したことがあることやないでしょうかね?
福澤諭吉は「国の独立には、まず国民個人が『独立』しないといけない」と主張しとって、「自分の運命は自分で切り開く。人や周囲のせいにするな」ということを、これまた150年前に言うとったんですわ。

その「独立自尊が出来る人」を、ずっと後の慶應義塾の元塾長、石川忠雄氏はこう解釈しとります。

1.人を頼りにせず、自分で考え、自分で判断し、自分で実行できる人であること。人の意見をしっかり聞くが判断は自分で行うこと。自分で判断できるためには高い見識が必要だが、それを身につけるのが学問である。

2.自分で考え、実行するのであるから、その結果については自分が責任を負う人であること。他人や社会に責任転嫁しないこと。

3.他人に対して思いやりのある優しい心を持った人であること。
 心の強い心は、優しさに裏打ちされていなければ、「唯我独尊」になり、単なる傲慢である。

4.そのような自分を大切にし、自らを尊重する人であること。自分を卑しめることも、他の人を卑しめることはしない。



スポンサーサイト

テーマ:雑記
ジャンル:ブログ

■■■福知山「中ノ町飲食街」をゆく 消えた遊郭・赤線跡をゆく19

以前、
消えた遊郭・赤線跡を訪ねて 福知山編
を書いたんやけど、福知山にゃ猪崎遊廓の他にももう一つ、遊廓があったと言われとります。
もちろん公式のデータにゃない上に、伝聞でしか聞いたことがないさかい嘘半分ホンマ半分、まあ何も見つからんで元々やわい♪と再調査に行ってきやした。
っても、行ったんは去年のことやけど(笑


11031501

今回調査したんは、福知山市の中心部の「中ノ町」っちゅーところ周辺。
上の地図を見たら、左側の赤い○の部分が「浮世小路」と昔から言われとる所で、御霊神社のちょうど南側にあって福知山の繁華街やった所です。
右側の赤い○が猪崎遊廓で、今も昔も市街中心部から離れとることが地図を見てもわかると思います。
どーも、この「浮世小路」が遊廓跡、戦後は赤線か青線として生き残ったとか何とからしいんやけど、
確かに神社の門前町にそーゆーのが作られるんも珍しくもなく、愛知県の岡崎市にあった青線とか岐阜市の青線「国際園」なんかは、終戦のどさくさに大陸からの引揚者が神社の敷地を不法占拠して作られたとこと言われとります。
せやけど、この「浮世小路」は調べてみたらどーも戦前からの繁華街やったらしく、上の二つの例に当てはまることはないと思います。


11031502

これが福知山市内にドンと構える御霊神社です。
この御霊神社は、境内とHPの説明によると、宝永2(1705)年に作られ、大正時代に現在地に移動したそうで、
「御霊」の名前にあるよーに、誰かの「御霊」を祀っとる所でもあります。
「御霊神社」は全国色んなとこにあるけど、ここ福知山のは何と、明智光秀を祀ってるそーな。
何で明智光秀かと言うたら、明智は織田信長の命でここあたりの丹波の地を治めることになって、
民のことを考えて、由良川の治水を行ったり地元豪族を殺さず大切に扱ったり、善政を行って地元からごっつい慕われとったそうな。
その明智光秀はご存じの通り本能寺の変で信長に刃を向き、「逆臣」の典型的な例として今でも学校で習う基本知識やけど、
福知山の民は民のことを考えて「思いやりの政治」をした明智光秀のことを忘れることはなく、こないして神様として祀ってる、っちゅーわけですわ。
確か、京都でも明智が臨時に行政を行った時に善政を行って京の民から慕われ、その祭が今でもあるって話を聞いたことがあるけど、
そこまでして慕われる明智光秀も伊達やないかもね~。
まあ、個人的な歴史観やけど、「本能寺の変」は信長の完全な油断、「驕れる者も久しからず」ちゅー平家物語の冒頭をそのまま行った自業自得ってやつですわ。
明智が「逆臣」なんは江戸時代以降の朱子学などのの儒教の倫理観を幕府が適当に曲げて解釈して伝えたもんで、
「家臣は主人に忠義を尽くせ」ちゅー倫理観を植え付けるために、明智を「逆臣」というか「反面教師」としてイメージづけたってこと。
あの時は戦国時代、下剋上が常識の時代やったさかい、天下の争いは収まりつつある、と言うてもまだ油断したらあかん時、そんな時に油断した信長が悪い、ちゅー個人的な考えであります。
で、そん時徳川家康は堺におったんやけど、本能寺の変の時の知らせを聞いた時は堺にあった高須か乳守の遊廓で遊んでたって説もあります。

せやけど、この神社は「ごりょうじんじゃ」って読むことを行って初めて知りました(笑
ずっと「みたまじんじゃ」って読んでたわい。だって「ごりょう」って変換しても一発で出ーへんくせに、「みたま」で変換したら一発で変換できるもん(笑

まあそれはええとして、
この御霊神社の南側に、

11031503

「中ノ町飲食街」
があって、ここが昔「浮世小路」と言われた歓楽街やったそうな。
真昼やさかい、まだ「営業時間」にゃ程遠かったんやけど、雰囲気的にゃなんか横丁にあるカフェー街みたいな感じですわ。
で、ちょいと中に入ってみたら・・・



テーマ:消えた遊廓・赤線の跡を訪ねて
ジャンル:ブログ

■■■226事件から・・・

さりげなくニュースを見ていたら、226事件の特集をしてました。
そっか、226事件から今年で75年経つんやった。

226事件ってどんな事件かは、検索したらいっぱい出てきますが、
裁判が非公開の暗黒裁判で真相が今でも明らかになってないのと、当時の社会情勢と今があまりにかけ離れ過ぎてるせいか、
(事件の背景を知るには、昭和初期の社会史を一通り勉強しないとわからんし)
たった75年前(?)の事件なのに意外に謎が多い事件だったりします。
ほんの数年前にも、処分されたか戦争で焼けたと思われてた資料が東京地検から出てきて公開され、歴史の常識がひっくりかえったこともあり、昭和史を調べてる俺も個人的にけっこう興味があります。

226事件は、表だけ見ると「陸軍の青年将校によるクーデター事件」なんですけど、
見方を変えたら様々な側面が見えてきます。

まず第一は、昭和史という大きな流れから見た226事件
日本がファシズムという全体主義になる転換点がこの事件以降で、226事件がいわゆるトラウマになって陸軍に逆らえない空気を作っていきました。
本当は自粛して反省しないといけない陸軍も、反省どころか「俺たちの言うことを聞かないとまた226事件起こすぞ」と圧力をかけて悪用、日本が陸軍のやりたい放題になったきっかけの事件でもあります。

第二は、海軍から見た226事件。
226事件は陸軍の青年将校が起こしたクーデターなので海軍は関係ない・・・と思いきや、
同じ考えを持っている海軍の一部も事件に同調しようとしたことが、最近の資料で明らかになっています。
当時、東京あたりを警備していた横須賀の海軍鎮守府の長官は米内光政、参謀長は井上成美という人物でした。
参謀長の井上は「226事件みたいな出来事が必ず起こる」と予言して、海軍はどういう処置をすべきか事前に考え、新聞記者からも陸軍の情報を手に入れていました。
そして事件が起こったらすぐに行動、陸軍が青年将校の処置に困っていた時にすぐ「反乱軍である!」としてすぐに海軍の陸戦隊を陸軍より早く東京に派遣します。
そして、横須賀の海軍内で陸軍に同調する人物の行動を片っ端から封じ込め、「海軍は陸軍に同調せず」を東京の海軍中央より早く国民に示しました。
こういう事件は、表だけ見ると突然起こったと思われがちですが、わかる人には「予言できる」ということで、先見性がある人にはわかるんですね、こういう先見性が欲しい・・・。

第三は、天皇から見た226事件。
226事件は「今の世の中が悪いのは、陛下の御側にいる悪い奴らが陛下をそそのかしている。奴らをやっつけたら世の中は良くなる」という考えから起こした事件です、簡単に書けば。
当時の側近の日記に「(事件を聞いて)陛下は非常なる御不満にて」と書かれてますが、「非常なる御不満」を今風の言葉に直したら「天皇陛下ブチギレ」という意味で、陸軍が優柔不断な態度を取っていたのに対し、
「お前ら何やってんねん!お前らが鎮圧に行かんかったら俺が自ら部隊率いてやっつけに行くぞ!」
というくらい超激怒してて、指示を自ら政府に与えています。
天皇が政治のことを自分から指示するのは実は大日本帝国憲法違反で、天皇が自分から憲法違反上等で政治的決断をしたのは、この226事件の時と終戦の「ご聖断」だけ。
よく「何で天皇は太平洋戦争に反対しなかったんだ」という話を聞きますが、それは憲法や当時の政府組織を知らない無知な人が言うこと、天皇は政府が決めたことにハンコを押すだけ、反対する権限なんかありません。そんなことしたら憲法違反、国のトップの天皇が憲法違反したら国が崩壊するだけ、昭和天皇がそれをいちばんわかってたんです。それが歴史の皮肉になったのですが。
昭和天皇自身もこの226事件はかなりのトラウマになったらしく、毎年2月26日になると側近に「何か不穏なことはないか?」と聞いてたそうです。226事件が起こって50年経って当事者の軍がなくなった1981年の時でも「226からちょうど50年だが、(治安や社会は)大丈夫かね?」とかなり心配してたそうな。


第四は、取り残された遺族から見た226事件。
226事件をライフワークにしている作家の澤地久枝が女性の観点から、226事件で処刑になった将校の奥さんなどを取材した「妻たちの二・二六事件」というノンフィクションがありますが、
夫に何も知らされず、結婚して数年(人によっては1週間)で未亡人になって世間に取り残され、
戦前は「陛下に弓を引いた逆賊の妻」として世間から冷たい目で見られ、戦後は事件が忘れられて放置され、未亡人になった時は20代前半~後半、世間知らずのまま周りの冷たい仕打ちに耐え続けた女たちの生きざまを描いています。
女性が読むと涙なしでは読めない本、男から見ても身勝手な男の考えで女が翻弄される姿に「好きになった女には全力で守らんとあかんな、もちろん生きて」と反省する所がありますね。
俺も含めた男って、自分の目標や理想に燃える余り、傍にいる女を不幸にしてしまうことが多いんで。
「偉くなくてもいい、貧乏でもいい、ただ死なずにずっと傍にいて欲しかった・・・」
という、男の勝手な理想で未亡人にならざるを得なかった女の苦悩と叫びがこの本に書かれています。

一つの出来事を多角的、いろんな角度から見ると、全然違った面が見えるのも歴史の面白いところで、歴史は片面だけ見るものではなく裏面や横から見ることも大切なんです。
自分で調べて自分で目からうろこが落ちることもありますしね。

でも、「妻たちの226事件」を改めて見ると、なんか切ないな~。
草食系男子とか最近言うけど、やっぱ男は女を守ることによって存在を維持して、女も何だかんだで平穏に過ごして守られることを望んでるんやな、ということをリコンファームしました。
要するに、言いたいのはこれだったりして(笑

テーマ:雑記
ジャンル:ブログ