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消えた遊郭・赤線の跡をゆく 舞鶴竜宮編

さて、舞鶴の遊廓を訪ねる旅第二弾です。
前は西舞鶴にあった朝代遊郭のことを書いたけど、今度は東舞鶴にあったという遊郭のことであります。

舞鶴市は大きく分けたら「西舞鶴」「中舞鶴」「東舞鶴」と3つの地域に分かれとる、ってことは前のブログにも書いたけど、
西舞鶴が戦国時代から続く古くからの町なのに対して、東舞鶴は明治時代になって海軍の鎮守府、つまり主要基地となってから発達しました。
東舞鶴や中舞鶴地区にゃ海軍の基地はもちろん、海軍関係の施設などが建設開始から開港までの間に雨後のタケノコのように出来て、
軍港として栄えることになります。
道は京都みたいに碁盤の目のよーに整然と区切られ、道の名前にゃ軍艦の名前が付けられたそうな。
西舞鶴がええ意味で古い感じの町に対して、東舞鶴は垢ぬけてスッキリした街並みって感じがするような気がするけど、
それは町が生まれたきっかけにもよるってことですやろな。同じ舞鶴っても由来は全くちゃうさかい、同じ地域にありながら全く別の町、って言えると思います。


舞鶴に鎮守府が出来て最初の長官は、実はあの東郷平八郎なんやけど、
そん時に生まれた伝説があります。
それが。。。


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肉じゃが

日本人なら毎度お馴染みの国民食、おふくろの味の一つ肉じゃがは、ここ舞鶴で生まれたという伝説があるんですわ。
東郷がここの長官やった頃、イギリス留学時代に食べたビーフシチューを思い出して、部下に

「ビーフシチューが食べたいな~

とビーフシチューの美味しさを話したそうな。
部下は長官の食事を作っていた料理長と「ビーフシチューって何じゃ?」と相談、
デミグラスソースなんか今じゃそこらへんのスーパーで手に入るけど、当時はそんなレトルトなんか売ってるわけなく、
仕方ないさかい醤油と砂糖ベースの味付けにした
「なんちゃってビーフシチュー」
を作りました。
それが今の肉じゃがで、これが意外に(?)美味かったことから海軍の正式な料理に採用、
明治後期の海軍のお料理レシピの「海軍厨業管理教科書」にも「正しい肉じゃがの作り方」なんてものが紹介されとります。
それがこれ↓

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まぁ~何と単純かつ豪快なレシピだこと。
せやけど、これが記録に残る最初かつ最古の肉じゃがのレシピなのであります。
晩御飯何しよう?って悩んどるそこの奥さぁ~ん、今日の晩御飯は「元祖肉じゃが」なんかどないでっか?(笑

この「肉じゃが伝説」、舞鶴が発祥ってことになっとるんやけど、
それに待ったをかけたんが、同じ軍港として栄えた広島県は呉
東郷は舞鶴の鎮守府長官の10年前に呉鎮守府の参謀長(ナンバー2)として呉におったことがあって、
肉じゃがはそん時に生まれたもんや、というのが呉の主張。
せやけど、呉は先に名乗りを上げた舞鶴に遠慮してか、「肉じゃが発祥の地?」と「?」がついとります。ちょっとかわいいな、と思いましたわ(笑
ちなみに肉じゃが発祥のエピソードはどっちも同じで、何せどっちも決定的な証拠があらへんさかい今でもお互い「肉じゃがの生まれ故郷」を主張しとる状態なんやって。
横須賀が「カレーライス発祥の地」としてある意味大成功しとる割にゃ、ぶっちゃけ舞鶴も呉も肉じゃがで町おこしなんてしてへんよーで、
横須賀みたいに「肉じゃが専門店」なんてもんが出来たら立派な町おこしになると思うんやけどな~。
採算が合わんのかどーかは知らんけど、駅前の商店街がちょっと寂しげな所を見てええ起爆剤になると思うやけどな、と思うのは俺だけ?
で、その昔東日本某所出身の元カノが肉じゃがを作ってくれたことがあるんやけど、肉じゃがの「肉」が何と豚肉。

「肉じゃがの肉は牛肉やろ~~!」

「うちじゃ豚だよ~~~!!」

とちょっとした「肉じゃが論争」になり、ある意味カルチャーショックを受けたことがありました。
で、この「論争」の始末は、

「そんなにイヤなら捨てるね・・・(涙」

「あ~わかったわかった、食べますって~。だから食べ物粗末にするな!」

と食欲・・・もとい彼女の愛に負けました(笑


で、遊郭の話に戻ります。

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消えた遊郭・赤線の跡をゆく 舞鶴朝代編

福知山の猪崎遊廓跡で貴重な話を聞きつつ、あまりの暑さに離れた後、一路舞鶴へと向かいました。
福知山編で書いた通り、舞鶴若狭自動車道は期間限定無料やさかい、福知山から舞鶴までの高速代はもちろんタダ。
福知山までの高速料金¥150でウッホホーイと喜んだものの、やっぱりまだ疑心暗鬼。
¥150やったらさっさと信じたらええのに、どこか性格にひねくれた所があるんやろか(笑
ホンマに無料なんやろか・・・と全行程高速で行って舞鶴のICで降りてみたら・・・
やっぱ無料でした。
ETCレーンを通った時に「¥0」が出た瞬間、また万歳三唱してしもた幼稚な俺(笑



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京都府舞鶴市は、京都府の北の方に位置する日本海に面した港町であります。
ピンクの○で囲んである内陸の福知山から来ると、市内に入ったらパッと海が見えて潮の香りがしそうな雰囲気なんやけど、
舞鶴っちゅー所は何面もの顔を持つ多面体な街でもあります。
いちばん有名な「面」は、明治時代から続く「軍港」っちゅー側面。舞鶴は海軍の街であります。
「舞鶴」って聞いてこれを思い浮かべる人が多いと思うけど、ここ舞鶴は海軍が目をつけて軍港として整備し、
明治20(1887)年から14年かけ、年明治34(1901)年に舞鶴鎮守府という海軍の一大本拠地が出来あがります。

「鎮守府」って今じゃ聞き慣れん名前やけど、簡単に言うたら海軍の本拠地のことで軍艦や兵隊などは必ずどこかの鎮守府に属していました。
日本にゃ舞鶴の他にも横須賀・呉・佐世保に鎮守府があったんやけど、そこの長官は海軍の行政や人事などを握っていた偉いさんで、
海軍は士官以上の人事は東京の海軍省人事局ってとこが管理しとったんやけど、水兵とか下士官は鎮守府長官が管理しとりました。
水兵とかは陸軍と違って基本的に志願制で、戦前にあった20歳以上の男子の義務の徴兵で割り当てられる人も少数はおったけど、
戦力としては志願で海軍に入った水兵がメインでした。
せやさかい、タダじゃ海軍にゃ入らせてくれへんかったらしゅーて、いちおう国語や数学の試験があったそうな。
それに合格した人は水兵として日本全国のどっかの鎮守府に集められるわけやけど、
地域ごとに集合する鎮守府は決まっとって、関西やったら舞鶴か呉、九州やったら佐世保と、関東の人間が佐世保に集合せよ!とかいうことはまずあり得ませんでした。
まあ、今みたいに新幹線や飛行機で数時間でバビューン!と移動ちゅーわけにゃいかんかったさかい、
それはそれで合理に叶ってるわけで。

そこから、各鎮守府にある「海兵団」という新兵の教育機関で基本半年間研修を受けて、そこから本人の適性と希望によって各部署に配属されるわけやけど、
うちの爺様いわく、海軍のええ所の一つは出来るだけ本人の配属希望を叶えてくれたというところで、
海兵団での研修が終わる前に全員の希望配置を教官が聞きに回ります。
競争率が激しい上に適性が求められる飛行機関係や、特殊技能が必要な軍楽隊なんかは必ずしも希望通り、ちゅーわけにゃいかへんかったらしいけど、
出来るだけ本人の希望を叶えさせてやろう、という姿勢が海軍にはあったそうで、
本人の希望を無視してとんでもない配置にさせたりする今の日本の会社が海軍に見習うべき所かもしれまへん。
そして、海兵団の研修が終わった新兵は各専門配置に分かれます。これは後に本人の希望がない限りは変わることはないそうです。
士官の場合は将来の提督候補でもあるさかい、今の日本の会社や官公庁でもやっとる、いろんな配置に就かせて様々な経験をさせていってだんだん専門を絞っていく感じになるんやけど、
これは将来軍艦の艦長になった時に、
「艦長!この船をどう動かしましょうか?」
「俺は航海専門やあらへんさかい、そんなもん知らん!」
という漫才するわけにもいかんさかい、まずはゼネラリスト的な視野を磨くことが先決っていう教育方針やけど、
士官は「考査表」というもので上司が部下を評価し、それを海軍省人事局に提出します。
人事局は考査表をファイルにして保管し、次の人事の参考にするんやけど、
その考査表のおもろいところは、「自己申告欄」っちゅー、自分自身で何でも書ける項目があって、
「ただいま独学で中国語を勉強中につき、数年後の中国勤務を希望す」
みたいに自分の希望も書くことが出来ます。
それも無茶なお願いやない限り、人事局が出来るだけ配慮してくれたらしいけど、
ある時のこと、海外駐在勤務のある士官がそろそろ日本に帰りたいなーと思ったのか、
「東京の陸上勤務を熱く希望致します!」
と書いたところ、人事局にユーモアがわかる人がいたのか、
『東京』の『父島』に転勤になり、「東京の陸上勤務」という本人の希望が見事に叶った、という笑い話が実際にあったそうですわ。
また、元海軍士官最後の生き残りとも言える作家の阿川弘之も、戦争で日本国内がひもじくなったさかい、
「上海でいいメシでも食うか」
と思って、
「中国艦隊勤務を希望します!」
と書いたらそれがすぐに叶ったそうです。
「これでいいメシが食える♪」と喜んで赴任したところ、下心を見透かされたのか上海に赴任したらすぐに、
「君、御苦労なんだが」
と中国の奥地に飛ばされた話もあったそうです。


で、今回は初っ端から話が脱線してまいました(笑
戦前の舞鶴には遊廓が3か所あったと言われとります。
舞鶴市は大きく分けて、「西舞鶴」「中舞鶴」「東舞鶴」の3か所に分かれていて、それぞれの場所に遊廓があったりしました。
「西舞鶴」は戦国時代から続く城下町で、歌人武将として有名な細川藤孝が織田信長からここあたりの領地をもらい、本拠にしてからの歴史があります。
天下分け目の関ヶ原の戦いの時、子供の細川忠興は徳川家康と一緒に関ヶ原でドンパチしたんやけど、
親父の細川藤孝はここ舞鶴の田辺城(舞鶴城)に籠城、西軍の軍勢と戦ったんやけど、
陥落寸前で天皇から「細川を殺してはならぬ。和睦せよ」という勅使が到着、
戦いは中止して命拾いした細川藤孝は後の熊本藩の基礎を気付きましたとさ。
で、戦国武将数多けれど何で細川藤孝にわざわざ天皇が勅使を派遣したのか?
細川藤孝は武将というより歌人として名前が知られていた人物で、「細川藤孝」という名前じゃピンと来んでも、
「細川幽斎」って名前を聞いたらピンと来る人もおるはず。
朝廷に伝わる歌道の奥義を知ってる人物やさかい今で言うたら人間国宝のよーなもん、
「そんな文化人を殺すのは朕が許さん。文化の損失になる」と天皇は決断したわけで、
「芸は人を助ける」を地で行った歴史のエピソードでもあります。

対して中舞鶴と東舞鶴は、明治時代に海軍が基地を作ってから発展した所で、
東舞鶴の中心街は碁盤の目のように道が張り巡らされとって、昔は道に軍艦の名前がついとったそうです。
同じ舞鶴でも歴史的背景がちゃうさかい、人の気質もちゃうらしゅーて、
今はそうでもないかもしれへんけど、昔は西舞鶴はいわゆる関西弁に対して、東舞鶴は海軍のスタッフが多かったせいか標準語やったとか。
行政も昔は西舞鶴市と東舞鶴市で分かれとったんやけど、昭和18(1943)年に両舞鶴市が合併して今の舞鶴市が誕生して現在に至っとります。

今回は、西舞鶴地区にあった遊廓の話です。


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