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BEのぶ

  • Author:BEのぶ
  • 自称「ブログエッセイスト」ことBEのぶです。
    昭和史をライフワークにしていますが、平成ももうすぐ30年経ち、昭和が遠い過去になりつつあります。
    昭和も遺産・遺物を探れば立派な「考古学」となります。題して「昭和考古学」。ジャンルは遊郭・赤線跡から鉄道、そしてすっかり忘れ去られた歴史を掘る「昭和の考古学者」として、昭和の名残りを通して考察する旅を続けています。

    基本は標準語で書きますが、エッセイは大阪弁で書いていきます。

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■■■■Doblogアーカイブ■ 台湾の歴史Ⅳ 中国語と台湾語と日本語

~注意~
この日記は2005年3月25日にDoblogで公開したアーカイブ日記です。


台湾特集、お次は言葉編です。

台湾の公用語は、いちおう中国語、それも北京語が公用語になってます。
しかし、台湾で話されている言葉は他にもあります。
福建省南部方言(ビン南語)の一種、台湾語や、広東省から来た客家人によって話される客家語
そして漢民族が来る前から台湾に住んでいた原住民の言葉(マレー系)です。
ここでは北京語と台湾語を主に語っていきます。

台湾では北京語を「国語」と言い、学校ではすべて「国語」を使うようにと指導されています。
昔、というかほんの15年前までは地元方言の台湾語を学校内で使うのは禁止で、
使うと罰金や、
「私は台湾語をしゃべりました。こんな私はバカです」
というプラカードを首から掲げられ、教室の前で立たされたりしてたそうです。
そんなひどいな~と台湾時代に学校の先生(当時は珍しい「本省人」の先生で台湾語がネイティブ)に聞いてみたら、
真っ赤な本当のことらしいです・・・。
ちなみに、今は台湾語を使ってもOKだそうです。

中国で使われてる「普通話」と台湾で使われてる「国語」、
元は同じ北京語なんで特に違いはありません。
両者は十分にコミュニケーションが取れます。
でも、敢えて違うとすれば、
「国語」:北京語そのまんま
「普通話」:北京語はあくまでベースの新しい中国語

という違いがあります。
例えば、ペーパーテストをするとしましょう。
「あんた、どこへ行くの?」
を中国語で書くと、
「イ尓到ロ那儿去?(ニータオナールチュー)」
となります。
でも、南方ではこんな表現は使いません。
「イ尓去ロ那里?(ニーチューナーリ)」
となります。
(「"qu"の発音は日本語じゃ表現しにくいな」←独り言)
スタンダードな「中国語」やと、前者が正解です。
でも、中国でテストをしたら、後者でも先生がよっぽどの北京ナショナリズムに凝り固まってる人でない限り、まず○をもらえます。
でも、台湾でテストをしたら確実に×です。台湾で実際に前者の表現を使ってる人はほとんどいないに関わらずです。
なぜかと言うと、中国の「普通話」は方言も含めていろんな場所の表現をミックスした言葉なんですが、
台湾の「国語」はあくまで「北京語」という縛りがあるからです。
「北京語」で後者の表現を使わない以上、×ってわけです。

また、当たり前ですが、単語もちょっと違ってきます。
例をちょっと。北京語同士で違う単語を説明します。

・自転車:自行車(大陸) / 脚踏車(台湾)
・タクシー:出租汽車・的士(大陸) / 計程車(台湾)
・路線バス:公共汽車・巴士(大陸) / 公車・バス(←日本語)(台湾)
・メートル:米(大陸) / 公尺(台湾)
※中国でも、1980年代まで「公尺」は使われていました。
・オートバイ:摩托車(大陸) / オートバイ(←日本語)・機車(台湾)
・お互いに言葉を教えあうこと(でええんかな?)
互相学習(大陸) / 語言交換(台湾)
・うどん:烏冬面(大陸) / 烏龍麺(台湾)
・おばさん:阿夷(大陸) / おばさん(←日本語 欧巴桑)(台湾)
・ソニー:索尼(大陸) / 新力(台湾)
・ナショナル(松下電器):松下電器(大陸) / 国際牌(台湾)
・インターネット:国際互連網・因特網(大陸) / 国際網路・Inernet(台湾)
・デジカメ:数碼相機(大陸) / 数位相機(台湾)
・カンボジア:柬埔塞(大陸) / 高棉(台湾)



と、挙げればまだまだあります。
また、字は同じやけど、発音や声調が違うものがあります。

・法国(フランス):fa3 guo2(大陸) fa4 guo2(台湾)
※「方法」とかで発音する時は同じくfa3です。
・期:qi1(大陸) / qi2(台湾)
・寂莫(寂しい):ji4 mo4(大陸) / ji2 mo4(台湾)
・[土立][土及](ゴミ):la1 ji1(大陸) / le4 se4(台湾)
・先生(~さん):xian1 sheng(大陸) / xian1 sheng1(台湾)
・過(~したことがある):guo(大陸) / guo4(台湾)
※台湾では、軽声というものはあまりありません



あと、「謝謝」の言い方も少し違います。
大陸やと「シエシエ!」となんかぶっきらぼうというか、気持ちが籠ってないような言い方なんですが、
台湾やと「シエシエ~~♪」みたいな、とてもチャーミングな言い方になります。
「~~♪」←これが重要です。
これは、ある程度中国語をかじってる人なら、
中国と台湾で聞き比べたら一発でわかりますよ。
個人的に、この「シエシエ~~♪」を聞かないと台湾に来た気分がしません(笑
また、「謝謝」と言われた時の「どういたしまして」は、
大陸:不用(謝)、没関係(上海)、不用客気etc...
台湾:不会

と違います。
大陸やと、「謝謝」と言うと「ぷーよん(不用)」って返ってきますが、
台湾やと「ぷーほぇ(不会)」と言います。
一度台湾に行くことがあったら、「謝謝」と言ってみて下さい。
「ぷ~ほぇ~」って返ってくるはずです。

台湾語は厳密に言うと、
上にも書いている通り福建省南部の方言(ビン南語)に属していて、
福建省南部の泉州・アモイ(廈門)方言、潮州語(広東省東部)、
雷州語(広東省雷州半島)、海南語(海南島)の遠縁にあたります。
その中でも泉州・アモイ方言にかなり近く、お互いの言葉で意思疎通ができます。
台湾語は泉州・アモイ方言のチャンポンって言ってもよく、
台湾語の語尾につく疑問助詞に「ベ(漢字はなし)」というのがありますが、
これはアモイ方言で、泉州方言では「ポェ」と言います。
台湾大学の前の本屋で売ってた台湾語研究の本に書いてあったんですが、
台北あたりは泉州から来た人が多いので泉州方言派が多く、
高雄あたりは逆にアモイ方言派が多いということです。
台湾語は意外に昔から研究されていて、戦前の台湾総督府も大掛かりな調査をし、
台湾語の辞典まで作っています。今でも売ってるんで、興味があればどうぞ。
3万円しますが、出来は今でも使えるくらいバッチリです。

台湾語を勉強したければ、できれば南の台南や高雄ですることをおすすめします。
なぜかと言うと、台北あたりは戦後に中国から来た外省人が多く、
彼らに台湾語はわからないんで、あまり使う機会はありません。
逆に台中より南になると台湾語帝国で、みんな台湾語を使っています。
彼らは「台湾人意識」がすごく強く、今はあるかどうかわかりませんが、
俺が台湾におった頃は「北京語お断りタクシー」ってのがありました。
それ故日本人にはメチャクチャ優しいですが、台湾語をしゃべるともっと仲良くしてくれ、勉強する環境としてはいいと思います。
俺も台北で台湾語をやっていましたが、先生しかしゃべる相手がいなくて、台中とかに「武者修行」に行ってたくらい、台北はそれほど台湾語人口はいないと思います。

また、台湾語の面白いところで、「これぞ台湾語!」と思わせるものが、
日本語がふんだんに入ってる
ということです。
台湾のラジオを聴いてると、
「あれ????」
と思うことがあります。よく聞いてみると、
「これ、日本語ちゃう?気のせいかな・・・」
となりますが、気のせいではありません。れっきとした日本語です。
戦前、台湾が日本やったのは台湾の歴史 戦前編で書きましたが、
その名残で今でも日常会話に日本語が使われたりしています。
台湾語に残ってる日本語は、大きく分けて2種類あり、

●日本語の発音がそのまま残ってるもの
・忘年会:ぼうねんかい
※台湾語には、「尾牙(ベエゲ)」という「忘年会」と同じ意味の言葉がありますが、
台湾では「忘年会」が主流です。
・年越し:としこし
・おばさん:おばさん(漢字で「欧巴桑」って書きますが、読みは「おばさん」)
・おじさん:おじさん(これは残念ながら死語になりつつあります)
・奥さん:おくさん(漢字で「欧客桑」と書くと思います)
・寿司:すし
・刺身:さしみ(「生魚片」って書きますが、発音はさしみ)
・オートバイ:オートバイ
・パン:パン(「面包」って書いて発音はパン)
・バス:バス
・おでん:おでん(「黒輪」って書きますが、台湾語で「おりぇん」と言います)
・味噌汁:みそしる(最近は「みそたん」(「たん」はスープという意味)と言います)
・おしぼり:おしぼり
・運ちゃん:(タクシーの)運ちゃん(日本語と違い、台湾では呼びかけにも使います)
・茶碗蒸し:ちゃわんむし
・気持ち:きもち
・あっさり:あっさり(日本人には「あさり」って聞こえます)
・畳:たたみ(漢字では「櫑櫑米」って書きます)
・一番:いちばん
(面白いことに、大陸でも「一級棒(いーちーばん)として使われつつあります)

●日本語の漢字が残ってるもの
・看板:(大陸では「告示板」)
・便所:(大陸では「厠所」「洗手間」)
・先生:(教師という意味で。大陸では「老師」)
・牛丼:(大陸では「牛肉飯」。吉野家の牛丼も同じです)
・弁当:(「便當」と書きますが、日本の弁当です)



などなど、俺が現地で確認したものだけでもこれだけあります。
あと、
「おはよう(ございます)」
「よろしくお願いします」

とかも何気に使われたりしています。
「日本時代」に日本人が遺した日本語以外にも、日本の文化・流行に敏感な台湾なこと、
数々の「新・日本語」が台湾に導入されたりします。

最近の台湾では、北京語に台湾語が混ざった
「台湾国語」
というものが、若い世代を中心に使われています。
大陸(中国)だけで中国語を勉強してきた人は、最近の台湾のラジオを聞いてもわからんと思います。
(テレビにはすべて字幕がつくんで問題はないでしょう)
ラジオでもふんだんに、そして容赦なく「台湾国語」が使われてるので、
すさまじい訛りな上に台湾語まで使われたら、北京で30年勉強してても大まかな内容すらわかりません。

また、台湾で使われる何気ない「日本語」は、

「の」

です。
中国語で「~の」に匹敵するのは、「的」なんですが、
台湾人はそれを「の」って書いたりします。
日本語の「の」とはちょっと違う感じなんですが、台湾人に聞いたら、
どうやら日本語らしいです。
香港、大陸でも見るようになりましたが、台湾では公文書に「の」が使われてることもあって、なかなか面白いです。
台湾におった頃、警察にビザ延長の書類を書くことになって、
学校に書類を書いてもらったんですが、
やっぱり「の」を使ってました。
「おいおい、ええんかいな?」
とは思ったんですが、別に没問題なんだそーな。

言葉でも、日本と大きなつながりがある台湾語、面白いですよ。
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テーマ:雑記
ジャンル:ブログ

■■■■Doblogアーカイブ■ 台湾の歴史Ⅲ 戦後編

~注意~
この日記は2005年3月25日にDoblogで公開したアーカイブ日記です。



日本の敗戦により日本統治時代が終わり、台湾は中国に「返還」されました。
しかし、これが台湾の茨の道の始まりやったとは、当時の人は思わなかったに違いありません。

「犬が去って豚が来る」
という言葉が台湾にあります。
犬とは日本人のこと、豚とは中国人のことですが、
「犬」はワンワンうるさいけど、賢いし守ってくれる。
しかし「豚」は食うだけ食って何もせず、ただ散らかして太っていくだけ、
ということを上手く表現したものです。
今でも、口の悪い台湾人は中国人のことを「豚」と言ったりしますが、
中国の兵隊がやって来た時点で、既に何かしら嫌な予感はあったようです。

終戦後、日本の代わりにやってきたのは、
「中華民国」の軍隊でした。
彼らは日本軍と違い、隊列はバラバラ、手で鼻水を切ったり、裸足の兵隊もいたそうです。
「武士は食わねど高楊枝」の日本軍を見慣れた台湾人は、
このだらしない軍隊を見て幻滅したようです。
「こんな奴らと一緒なんてイヤだ!」
と日本人にまぎれて日本に逃げた人もいたらしく、
祖国復帰の喜びが一気に冷めてしまったそうです。

台湾が中国に「返還」された後、超インフレによって物価は大上昇、
日本時代には夜に戸を開けてても泥棒が入らないようなところでしたが、
治安も急激に悪化し、バスにも警察が乗って警備しないと何が起こるかわからない状態になってしまいました。
また、台湾の要職はすべて中国大陸からやってきた人で占められ、
台湾人はロクに仕事に就けず、失業者も激増しました。
また、大陸からやってきた役人の腐敗、国民党軍兵士の強奪、狼藉も甚だしく、
日本の統治で「先進国」に近い生活をしていた彼らにとっては、地獄に落ちたようなものでした。
台湾人の怒りはますます増大し、ついに「あの時」を迎えます。
「あの時」とは、台湾史最大の闇と言われる、

228事件

です。
1947年2月27日、中年の台湾人女性が、商品の密輸タバコの没収だけでなく、所持金までも取り上げたため、
林はひざまづいて現金の返却を懇願したのですが、返却されないばかりか銃で頭部を殴られ、血を流して倒れてしまいました。
憤慨した群衆が一斉に取締員らを攻撃したため、取締員らは逃げながら発砲、流れ弾が傍観の一市民に当たり即死となりました。
それが一層刺激し、近くの警察局と憲兵隊を包囲して逃げ込んだ取締員らの引渡しを迫ったが拒否された、
というものです。

翌日28日、怒った群衆は専売局台北分局に抗議し、分局長と3名の職員を殴打して、書類などを路上で燃やしました。
午後になると長官公署前広場に終結した群衆は、抗議デモを行い、政治改革を要求したんですが、
長官公署の屋上から憲兵が機関銃を乱射し、数十名の群衆が死亡しました。
それでますます事態は緊迫し、台北市内の商店は閉店、工場は操業を停止、学生も授業をボイコット、数万の市民が抗議の列に加わり市中騒然となりました。
警備総司令部は戒厳令を布告。市民は放送局を占拠し、全島に向けて事件の発生を知らせました。

228事件に関しては話すとキリがないんでこれくらいにしておきますが、
それから台湾人が怒り、ラジオを通して全国民に蜂起を呼びかけ、外省人を襲い始めました。
同じ漢民族やのに、どうやって区別したのか?というと、それが日本語です。
台湾人は初等教育の浸透で8割の人が日本語OKになっていて、
人を捕まえては日本語をしゃべらせたり、君が代を歌わせたりしていました。
歌えない人は「台湾人じゃない」ということでリンチを食らいました。
228事件の悲劇はここから起こりました。
国民党幹部が台湾人をなだめてるうちに、蒋介石は台湾に軍隊を送り込み、
台湾人に対して殺戮と虐殺を繰り返し、
未だにはっきりとした死者の数がわからないという未曾有の悲劇となりました。
228事件は怒れる台湾人が自然発生的に起こしたもので、
元日本軍人(もちろん台湾人のです)が地域的に指導はしてたものの、
これといった指導者もいなかったため、弾圧を容易にしました。
そのどさくさで日本時代の教育で成熟した知識人が多く殺され、
台湾の発展がかなり遅れたといわれています。
また、彼らは「日本語」を通して近代文明を吸収し、台湾の発展に寄与したんですが、
「返還後」に言語が北京語になることによって、近代的なものを吸収できなくなり、台湾の発展を阻害したといわれています。

現在、台湾には、先祖代々から台湾に住んでる「本省人」と、蒋介石と一緒に台湾へ渡ってきた「外省人」、他にマレー・ポリネシア系の「原住民」の3種の人がいますが、
228事件によって、今でも続く「本省人」「外省人」の溝が決定的になりました。
この「本省人と「外省人」の溝は外見的にはなくなってますが、
お年寄りの世代を中心に今でも根強く残っているそうな。
ちなみに、上に挙げた「豚」という表現は、「外省人」に対しても使われます。
「終戦」から228事件直後までを描いた映画が、名作『非情城市』です。
台湾映画ですが、日本語もふんだんに出てきて日本とも密接な関係があるんで、
日本人も見逃してはならない映画やとは思います。
事実、「非情城市」のキャストやスタッフにも日本人が関わっています。
歴史背景がわからないと難しいですが、台湾の歴史を語るには必見の映画、
悲しい台湾の歴史の一面を垣間見ることができます。

そして、1949年に大陸で中華人民共和国が成立、
蒋介石をはじめとした「中華民国」は台湾に亡命という形で逃げ延びました。
それからも、知識人への弾圧や「本省人」への差別など、暗黒の時代が続きました。
意外に知られていないことですが、台湾では、一時的にだけ発令される戒厳令が、1949年より40年間も続き、もちろんこれはダントツのギネス記録となっています。
この「台湾亡命」後、言論や思想の弾圧が強化され、台湾中に「特務」と呼ばれるスパイ(実態はヤクザですが)を張り巡らせ、
要注意人物にいろいろ言いがかりをつけては投獄し、李登輝総統の出現までシャバに出ることはありませんでした。

政治的には暗黒でしたが、経済的には順調に発展し、「経済加工区」が高雄にできてからは、貿易も好調となりました。
ちなみに、中国の「経済特区」は台湾の「経済加工区」の真似です。
中国オリジナルのものではありません。

その経済発展を支えたのが、本省人です。
要職はすべて外省人に取られ、政治的発言を抑えられていた彼らは、
経済力を身につけるにしたがって政治的発言力も増していき、
そして、蒋介石が死に、息子の蒋経国が後を継いでから、台湾は劇的に変化していきました。
1984年10月の「江南殺害事件」をきっかけにアメリカから台湾の暗黒体制に圧力が入り、
蒋経国も、本省人を無視するわけにはいかない、と感じたんでしょう、
戒厳令が解除され、言論の自由が保障され、だんだん自由になっていきました。
その政策を引き継いだのが、皆さん御馴染みの李登輝前総統です。
本省人、生粋の台湾人としては初の総統になった彼は、蒋経国の政策を引き継ぎ、
いわば無血革命に匹敵することを成し遂げました。
李登輝さんの政策に傷をつけるつもりはありませんが、彼の政策は蒋経国の政策の延長であり、
李登輝さんは彼の政策にジェットエンジンをつけたに過ぎません。
でも、二人で成し遂げた「革命」は、当時中国が天安門事件で民主化運動を武力で弾圧したのと全く逆の方向に動いた、という点でもまさに革命でしょうね。
意外に知られていませんが、世界が天安門に集まった民主化を求める学生や民衆に注目してた頃、
台湾でも民主化運動が起き、学生たちが抗議運動をしていました。
中国の方は武力弾圧という形で終わりましたが、
台湾は当時李登輝総統、民主化の意見を受け入れ、台湾の「解放」が更に加速しました。

李登輝前総統はまた、中国4000年の歴史初のことをやらかしました。
それが「総統直接選挙」です。
国のトップを選挙で決める、俺たちにとっては当たり前のことですが、
実は「中国」では4000年間一度も行われたことがありませんでした。
日本のマスコミは台湾報道は小さく扱ってるに過ぎないんで、
(ずっと台湾支局がある産経新聞は除く)
「中国史」から見ればこれも「小さな革命」なんです。

そして、第一回目の総統直接選挙は、李登輝氏の圧倒的勝利で終わり、彼は再選されました。
その時に中国ができる限りの妨害をしたことは、覚えてる人は覚えてるでしょうが、
これが完全に裏目に出て、
「台湾人の団結」
という結果をもたらして、民主化を潰そうとする中国に対して、
李登輝総統の下に台湾人が一致団結しました。

そして、任期が終わったあと、野党である民進党の陳水扁が総統に就任、
前の選挙でも再選し、現在に至っています。

・・・と以前に書いたものの、現在は国民党が政権を奪い返し、大陸系の馬英九氏が総統に就任しています。
馬英九総統は中国との接近を重視していますが、
「中国に媚を売りすぎ!」
という反発も強く、次の総統選挙で台湾住民がどう判断するか、俺はじっくりウォッチングしていきたいと思っています。

テーマ:雑記
ジャンル:ブログ

■■■■Doblogアーカイブ■ 台湾の歴史Ⅱ 戦前(日本時代)編

~注意~
この日記は2005年3月25日にDoblogで公開した日記です。


日本はかねてから台湾を欲しがっていたのでしたが、
1895年4月17日に調印された日清講和条約(下関条約)で、
台湾と澎湖列島が日本に割譲されることになりました。
その時、当時の中国側の代表、李鴻章は、
「台湾なんぞくれてやる。でもあんたらに扱えるかな」
と伊藤博文に言ったといわれています。
清が台湾を日本に渡すことは台湾に住んでる人々には伝えられず、
4/19にやっと通知された始末。
彼らは怒り狂い、台湾独立を考えた人もいました。
そして台湾人や清国の役人たちが組んで台湾民主国が成立、日本に抵抗を示します。
なお、学校の歴史では「中華民国」がアジア最初の共和国となってますが、
この台湾民主国を入れるか否かで議論が分かれています。
こうやって成立した台湾民主国ですが、
いざ日本軍が来ると、台湾民主国の主導者たちはたちまち自己崩壊、
福建省に逃げ帰ってしまいます。
取り残された兵士たちはたちまち無法者と化し、台北は地獄と化したと言われています。
しかし、日本軍が台北に入城すると同時にたちまち退散、
台湾各地でゲリラ的な活動をして抵抗をします。
初代の台湾総督は海軍大将の樺山資紀で、台北陥落後は南進を指示したものの、
南部住民の抵抗は強く、台湾には当時の陸軍兵力の3分の1にあたる5万人を動員しました。
それでも抵抗運動は根強く、更にマラリアなどの伝染病で人がバタバタと倒れ、
全土平定まで5ヶ月、完全に抵抗運動が終わるのは、もうすぐ書く明石元二郎が台湾総督に就任するまで待たされることになります。
この台湾平定、日本側の死者は257人でしたが、病死者はなんと5000人とも言われています。依然、台湾はマラリアなどの伝染病天国でした。

台湾総督は、
初代 樺山資紀
二代目 桂太郎
三代目 乃木希典

と変わっていきましたが、
桂太郎は日本の政治に未練たっぷりで台湾には10日しか滞在せず、
乃木は意気揚々と台湾に乗り込んだものの、
役人の腐敗ぶりとゲリラの執拗な抵抗で思った成果は果たせませんでした。
「皇帝」と呼ばれる権力を持った台湾総督に、元々海千山千の妖怪がいる政治の世界は苦手の乃木には、とうてい重荷すぎました。
司馬遼太郎は乃木希典に対してはかなりボロカスですが、
「街道をゆく 台湾紀行」でも
「教師でもやってればいい先生になれたものの」
と皮肉にも似た評価をしています。
台湾は、まだ若造国家の日本にとってはお荷物同然で、
1億円でフランスに売り飛ばす計画もあったそうです。

その乃木が「台湾を任せられるのは奴しかいない」と思い、
自らお願いしに行った人、それが乃木の親友でもある、

児玉源太郎

です。
児玉が台湾統治の実務の長、民生局長に任命したのが後藤新平です。
児玉と後藤が台湾へ赴任する際、その船の上で、

児玉:「総督就任の演説原稿を作ってくれ」
後藤:「そんなんやらんでいいでしょう。
もし、人に聞かれたら『生物学の原則に従ってやる』と答えてください

児玉:「生物学の原則とな?」
後藤:「台湾の慣習を重んじるということです。
鯛の目は頭の両方に付いているが、ヒラメの目は頭の一方にしか付いていない。
それは生物学上、必要があって付いている。
それを目は頭の両方に付けなければといっても、そうはいきません。政治もこれと同じです」

児玉:「ガハハハハ。わかった。言うとおりにしよう」

と会話した、有名なエピソードがあります。

どういうことかというと、
風俗習慣を無視して本土の法律や制度を押し付けるのは「ヒラメの目を鯛の目にする」ようなもので、人心の反発を招くだけだ、
と後藤新平は見抜いてた、ということです。

ここに、今でも台湾の伝説となってる、児玉&後藤コンビの台湾大改革が始まります。
まずは腐敗していた総督府の役人の3分の2をクビにして総督府を刷新、
そして台湾銀行を設立、インフラ設備に必要な公債は全て台湾銀行を通じて調達されることになりました。
また、領有当時からあったプロジェクトをどんどん着工、
鉄道・道路・港が整備され、農業も灌漑事業により開墾されていきました。
この時、児玉&後藤コンビにストーカー並みに勧誘を受け、半ばイヤイヤ台湾に赴任したのが、旧5000円札の新渡戸稲造です。
彼はサトウキビの品種改良に力を尽くし、新渡戸稲造の努力でサトウキビ生産量は爆発的に増加しました。
まあ、ゲリラに対しては積極的に帰順政策を取り、投降した人は処罰せず、
インフラ整備のための土木工事の責任者として仕事を与え、
これによってどんどん抵抗勢力が帰順、抵抗運動は下火になっていきました。
また、衛生面でも、医者である後藤の積極的な政策により改善、
特にアヘン対策に関しては、いきなり禁止にするのではなく、
アヘンを専売制にして総督府の収入にする一方、中毒者を免許制にして新規の吸引者を禁止、じっくり減らす対策を講じました。
李鴻章が「アヘン撲滅には300年はかかる」と豪語していたアヘン撲滅、
昭和16年には患者がほぼゼロを記録しています。
伝染病であり、当時台湾に住む人を苦しめていたマラリアも、衛生面の強化で昭和18年にゼロを記録しています。

児玉源太郎は日露戦争の参謀次長に就任したものの、
台湾総督の位は誰にも渡さず、後藤に総督の印鑑を預けてすべてを託しました。
実際、数々の政策は後藤が行ったものであり、児玉は責任だけを取るだけのものでした。
しかし、児玉はすべてを後藤に任せることにより、台湾はいい方向に進み、今でも台湾インフラの基本となっています。
この児玉&後藤コンビがどれだけの実務者やったか、
新渡戸稲造が記録に残しています。

「児玉総督はどんな話をしても、どんなに難しい話でも10分で答えを出してくれる。それに比べたら、後藤さんは30分かかる。
でも、同じ話を伊藤公爵(伊藤博文)にしたら1日、山縣(有朋)さんなら1週間はかかるだろう」


児玉源太郎が1906年に日露戦争で精根尽き果てたように急死、
総督は5代目の佐久間左馬太6代目の安東貞美を経て、
7代目の明石元二郎が1918年に就任します。
明石元二郎は日露戦争で謀略を担当、ロシアでレーニンと組んでロシアを内部から煽り、
日露戦争影のMVPと呼ばれている人物です。
明石の在任期間は1年4カ月と極めて短いですが、この間に、
道路や鉄道の整備の他に、日月潭水力発電事業の推進、台湾新教育令の公布施行(日本人と台湾人の教育差別の廃止)などを行いました。
彼は病気になって福岡で亡くなってしまいますが、
「もし自分の身の上に万一のことがあったら、
必ず台湾に葬るよう。死して台湾を守らん」

という遺言を残し、遺言どおり台湾に埋められ、
唯一台湾に眠る台湾総督となりました。

余談ですが、彼の墓はすごく立派なものでしたが、
戦後にそこに中国からの「難民」がスラム街を作り、無残なくらい荒れ果ててしまいました。
今の総統の陳水扁氏が台北市長の時、彼らに立ち退き料を払って整備、
明石総督の墓が掘り起こされ、彼の孫にあたる明石元紹氏が
「祖父を台湾に眠らせてあげたい。よろしくお願いします」
という言葉に台湾の人が動き、
1999年に台湾海峡を望む所に新しい墓ができました。
墓は中国の方向を向き、
「明石閣下が台湾を守ってくれる」
という台湾人の気持ちがこもってるそうです。
なお、明石総督の墓があった場所は、現在は公園になっていて、
棺があった場所には3ヶ国語で書かれた石碑が立っています。

この初代~7代目までの総督はみんな軍人やったので、
「前期武官総督時代」(1895-1919)と言われています。

この頃になると、反乱も治まったので、また大正デモクラシーの影響もあって、
軍人でない文民が総督の座に就くことになりました。
1919年に田健治郎が初の文民総督に就任、
再び「武官総督時代」が来る1936年9月まで、9人の文民総督が就任しました。

8代 田健治郎(1919年10月~1923年9月)
9代 内田嘉吉(1923年9月~1924年9月)
10代 井沢多喜男(1924年9月~1926年7月)
11代 上山満之進(1926年7月~1928年6月)
12代 川村竹治(1928年6月~1929年7月)
13代 石塚英蔵(1929年7月~1931年1月)
14代 太田政宏(1931年1月~1932年3月)
15代 南弘(1932年3月~1932年5月)
16代 中川健蔵 (1932年5月~1936年9月)


文民総督の時も台湾の発展は進み、
台湾も潤って日本政府の援助なしで自立経営できるようになり、
台北は当時の東京にもほとんどなかった下水道が完備され、
東京よりきれいだった、と当時の人々が語っています。
また、1935年10月に「台湾始政40周年記念大博覧会」を開催、
当時福建省主席で、後に語る228事件の元締、陳儀が招かれましたが、
当時の様子を帰国後にまとめた報告書によると、
「日本人にできて中国人になぜできない」
「40年の経営で中国と台湾の格差は驚くばかり」
と日本の台湾統治に最大の絶賛を示していました。

日本が何にいちばん力を入れたというと、やっぱり教育でしょう。
総督府は全国に学校を建設、小学校から中学、最後には国立大学まで作ってしまいます。
台北に台湾大学という大学がありますが、
その前身は1928年に設立された台北帝国大学で、
熱帯科学や医学、農学などを教えていました。

そして、日本が満州事変や日中戦争で日本を取り巻く環境が悪くなっていく一方で、
台湾総督も海岸大将小林躋造が就任、
「後期武官総督時代」が始まります。

17代 小林躋造( 1936年9月~1940年11月)
18代 長谷川清(1940年11月~1944年12月)
18代 安藤利吉(1944年12月~1945年10月)


台湾も日本内地と同じく戦時下体制が始まり、ここに「皇民化政策」が始まります。
特に、
「寺や廟の偶像の撤廃」
「神社参拝の強制」
「台湾の慣習による儀式の禁止」
は台湾人の不評を買いましたが、18代総督の長谷川清が、
「国策に影響ない程度なら、別に何を信仰しようと自由」
という法令を出し、台湾人から絶賛されたといいます。
今でも日本時代を評価する際、歴代総督のうち児玉源太郎の次くらいに評価されているのが長谷川清だったりすると言います。
この長谷川清は海軍大将で、歴史の表舞台にはほとんど出てこなかった軍政型の軍人でしたが、
人望が厚かった人物だったそうです。

そして昭和20年8月15日、日本の終戦、10月25日の正式返還とともに、
台湾の「日本時代」は終わりを告げます。

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■■■■Doblogアーカイブ■ 台湾の歴史Ⅰ 発見~日清戦争編

~注意~
この日記は2005年3月25日にDoblogで公開した日記です。


ここでは、台湾が発見(!?)された時から、日清戦争までを取り上げます。

台湾が文献に出てくるのは、日本では戦国時代のことです。
1544年、ここらへんを通ったポルトガル船だと言われています。
美しい島の風景に、船員は

「Ilha Formosa!」
(何て美しい島だなんだ)

と言ったといいます。
後ろのFormosa(フォルモサ)は、台湾の代名詞にもなっています。
また、これを中国語に訳して「美麗島」と書く時もあります。

当時台湾に住んでたのは、大昔から住んでいた、マレー・ポリネシア系の原住民で、漢民族はほとんど住んでいなかったと言われています。
原住民は、現在は山間部に住んでる部族がほとんどですが、
昔は西部の平地にも住んでいて、のちに「平埔族」と呼ばれますが、
漢民族との混血が進み、今はほとんど残っていません。
台北の中心部、総統府突き当たりとする道の名前は、
凱達格蘭大道
と言いますが、これは台北に残る唯一の平埔族、ケタガラン族からつけられた道でございます。
(以前は「長寿路」と呼ばれ、蒋介石の長寿を祈ってつけられました)

安土桃山時代、豊臣秀吉が台湾にあったとされる「高山国」に使者を送っています。
しかし、台湾には「国」って呼べる存在がなかったため、使者は何もできずに帰ってきました。
当時、台湾は部族ごとに分かれた集合体があるだけで、国と呼べるものはありませんでした。

そこにやってきたのがオランダです。
当時は倭寇や一部の中国・ポルトガル人が「巣」として使ってたにすぎない台湾にやってきて、
1622年に澎湖列島を占領、1624年に今の台南付近に上陸、
城砦の建築に取りかかり、今でも観光名所として残るゼーランジャ城(安平古堡)が出来ました。
何故オランダが台湾に目をつけたかというと、当時の台湾はどこそこの領土ってことはなく、西欧から見たら「空っぽ」やということ。
もう一つは、ジャワのバタビア(今のインドネシアのジャカルタ)に「東インド会社」を設立して日本との貿易を図るためには中継地点が必要やったことです。
また、原住民の抵抗を抑えるためにキリスト教による教化を行い、それでも従わない部族には容赦ない弾圧を加えました。

オランダと当時に台湾に目をつけてたのが、スペインです。
オランダが台湾南部を占領したのに対し、スペインは逆に北部を目指し、
1626年今の基隆から上陸して淡水を占領、そこにサン・ドミンゴ要塞を築きました。
しかし、伝染病やスペイン自体の国力の弱体化、そしてオランダの抵抗により、1642年にオランダが要塞を陥落させ、オランダの影響力は北部にまで及びました。

その頃、大陸の方では満州族による「清」が成立、明を苦しめてました。
1644年に明のラストエンペラー崇禎帝が自害、明王朝は事実上終焉しますが、
福建などで亡命政権を樹立、抵抗を続けました。
その代表的な人物が、歌舞伎にも出てくる鄭成功です。
日本人と中国人のハーフの彼は必死に明王朝を盛り立てますが、
それも叶わず1661年に台湾に逃げ込みます。
その際、オランダの勢力を台湾から追い出し、オランダの台湾支配はこれで幕を閉じます。
しかし、1662年に鄭成功は病に倒れてなくなってしまいます。
その後も息子の鄭経が引き続き台湾の駐留しますが、彼が亡くなった後の鄭氏政権は内紛でボロボロ、
結局1683年に鄭氏政権が崩壊し、清王朝の支配下になります。
しかし、清の領土にはなったものの、清は大陸と離れた台湾にはあまり興味を示さず、いわばほったらかし状態でした。
漢民族の渡航も許可はしたものの、男のみ渡航可のため、
台湾に移住した男は台湾に住んでいた原住民(平埔族)と結婚、混血が進みました。
今、『台湾人』と呼ばれる人たちの直接の祖先は、この時期に台湾へ渡ってきた人たちです。
今、台湾でこんな論争があります。
「台湾人ってホンマに漢民族なの?」
この結果、おもろいことがわかったそうです。
DNA検査をしたところ、漢族というよりマレー・ポリネシア系の血の方が濃く、遺伝子学的にはは漢民族じゃない、ということ。
台湾独立の言いがかりにも聞こえますが、それは原住民との混血が進んで、
昔から台湾に住んでる「漢民族」には純粋な漢民族なんていない、ということでしょう。

また、台湾は反乱が多い地域でもありました。
3年に1回は反乱が起きるとまで言われて、
史料によると、清の領有212年の間に大小100件の反乱が起こったそうです。
また、マラリア・ペストなどの伝染病が蔓延る魔の地域でもあったため、
役人が台湾に赴任するのを嫌がったそうです。

こうして本当に清の領土なのかわからないまま、
日本の明治時代を迎えます。
1871年、琉球の宮古島の住民66人が台湾南部に漂着し、
54名が「牡丹社」という部落民に殺害され、
残る12名が命からがら帰国するという「牡丹社事件」が起こりました。
明治政府は清に抗議をたものの、清の答えは、
「台湾の住民は『化外の民』で『教化の及ばぬところ』」
つまり、
「あんなとこうちの領土じゃねーよ」
と言い放ったということです。
「ほな、勝手にやらしてもらいま」
と日本は台湾に出兵、台湾南部の一部を占領してしまいました。
しかし、この台湾出兵も、核兵器に等しい伝染病にやられ、
戦死者10人くらいに対して、病死者数百人を出す結果になりました。
この事件の結果は、大久保利通が北京と交渉し、賠償金を支払うという結果になり、日本軍は撤退しました。

これをきっかけに、清も「ヤバい」と思ったのか、
ほったらかしの台湾経営に積極的に関わるようになります。
台湾への渡航制限を撤廃して移民を奨励したり、鉄道を建設したり、
今までのほったらかしがウソのように、どんどん開拓していきます。
その背景には、日本だけでなく、欧米列強も台湾をマークし始めたことがあります。
そしてこの時期、役所を台南から台北へと移します。

そして1894年、日清戦争が起こります。

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■■■■Doblogアーカイブ■ 変な日本語in China パート10

090529 6


「千と千尋の神隠し」の紹介なんですが、
かなり強烈な変な日本語のオンパレードです。
もう完全に「日本語」というものが崩壊され尽くされております(笑

そして最後の「スタヅオヅゾリ」に爆笑。
それを書くんやったら「スタジオジブリ」やろがボケ!!(笑

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この日記は2004年12月26日にDoblogで公開したアーカイブ日記です。

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■■■■Doblogアーカイブ■ 変な日本語in China パート9

090529 7


あるホテルで見つけたマッサージ店の広告です。

「耳をつて」って意味不明。
しばらく日本語使ってへんから俺の日本語力が落ちてるんかな?(笑


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■■■新型プリウスの燃費トライアル

新型プリウス(←以下「30型」とします)が発売されてから受注が殺到、
街中でもチラホラと見ることが多くなってきました。
俺はディーラー試乗車以外やとまだ銀色しか見たことあらへんのやけど、
外見もちょっと変わっただけ、機能も「おお、これはすごい!」という、20型プリの時の衝撃もなし、
正直なところ、20型から買い替えたいとまでは思ってまへん。
せやけど、興味があるんは燃費面。
外見が変わってへんでも、内面、特にエンジンとかバッテリー性能とかは変わってるんちゃうか?
と思って、試乗はしてみたいな~とは思うんやけど、
如何せんDラーの試乗車やと燃費測定しよーにも距離が短すぎ。
どないしよーかなーと思ったんやけど、
そこである人の顔が頭に浮かびました。

そこで思い立ったが吉日。
おとついの夜に、30型に買い替えた同じプリウス仲間のドラエもんさんに、
「突然で申し訳ないですが、30型貸して下さい!」
とメールしてまいました。
「突然30型乗らせてって・・・それも明日かい!」
とドラエもんさんはさぞかし迷惑やったことでせう(笑
せやけど、「午前中なら空いてるから乗りなさい」と快くOKしてくれたドラエもんさんのご厚意に甘えさせてもろたんやけど、
ドラエもんさんのヤボ用につき、集合時間が何と8時!
夜ちゃいまっせ、朝でっせ(笑
せっかくの休みやのに、平日やさかい通勤ラッシュの渋滞を考えたら朝5時起き。
辛い、辛すぎる・・・_| ̄|○
せやけど私は負けない、絶対に起きてみせる!

・・・・と起きたのは6時でした(笑

声にならん心の悲鳴をあげながらほとんど着の身着のまま家を出て、
眠気も吹きとんで猛ダッシュで集合場所へ。
1時間遅れやったけど、恐れとった渋滞もそんなになく、何とか集合時間30分前に間に合いました。

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■■■■Doblogアーカイブ■ 変な日本語in China パート8

090529 5


上海のある街角で見つけた美容院の玄関なんですが、

「りぱ・・・びよちし・・・」

お、俺には読めない・・・ _| ̄|●

で、ちょっと他の人に「翻訳」してもらったところ、どーやら

「りっぱなびよういん」
(立派な美容院)

と読めるらしい。←俺にゃ読めんかった・・・
「立派な美容院」にしたかったら、まずはその日本語を「立派」にしてくれ(笑

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■■■BJのぶのiPod経済学!?

もう10年も前になるんやけど、バックパックを担いで世界中を放浪しとった時がありました。
いわゆるバックパッカーってやつなんやけど、1年半の間、
「見れるもんは何でも見てくるぞ~」
をモットーに、色んな世界を見てきました。
履歴書にも書いてる立派な「経歴」やったりもします、露骨に「放浪」とは書いてへんけどね(笑
当時はピチピチの25歳、ということは俺は今年で35・・・。
いや~、そないな意味じゃ年取ったな~と思う今日この頃_| ̄|○

で、その時に各地の国で必ず行っとったとこがありました。
一つは国立博物館
世界の国立博物館はその国の威信をかけた自分の国の歴史を掲示しとる所、
その国を知るにゃもってこいの場所でもあります。
まあ、「政治的ご都合」によるプロパガンダ丸出しのとこもあるにゃあるけどね~、敢えてどこの国とは言わんけど(笑

そしてもう一つはと言うたら、そこはマクドナルド
マクドは世界中を股にかける多国籍企業、ない国ももちろんあるけどたいていの国にゃマクドが存在しとります。
「世界中にあるもの。マクドにコーラにSONYの看板」
ちゅーくらいやったりします。
そして、国によっちゃそこの料理がお口に合わん時もあります。
俺の場合、チーズが大嫌いやさかいヨーロッパ某地域のチーズ三昧の料理の数々は、
それこそ「死んだ方がマシ」ちゅー拷問のようなもんでした(笑
もう何食っても「チーズ」がもれなくついとるさかい、辟易してマクド通いを続けたもんでした。
そういう時に、マクドの「M」のマークの黄色がまばゆいばかりに輝き、神々しく見えたりしました(笑

せやけど、俺が世界各国でマクド通いを続けた理由はそれだけやのーて、
ある時ふと思いついたんが、
「世界中のマクドのメニューの値段を比較したら、何かおもろいことがわかるんちゃうか?」
ちゅーことで、
マクドに行ってはせっせとメニューを手書きで手帳にメモっていました。
何カ国分書いたかわからんけど、たぶん20カ国分くらい、少なくてもヨーロッパのほとんどの国の分は書いとったと思いますわ。
その手帳自体は、エジプトのカイロでカバンごと盗まれて真に残念ながら手元にないんやけど、
エジプトで俺のカバンを盗んだ奴、中の金はやるからその手帳と現像した写真返せ~(涙

ちゅー嘆きはさておき、
当時は好奇心以外何も考えてへんかった「マクド価格メモ行脚」、
後で調べてみたら、マクドにゃまずないとこはほとんどないビックマックの価格で、
その国や地域の物価とか経済情勢とかを調べる
「ビックマック指数」
ちゅーもんが経済学の分野であるとかなんとかで、
俺の観点もまんざらでもないな、と思いました。
と10年たって自画自賛してみる(笑

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■■■■Doblogアーカイブ■ 変な日本語in China パート7

090529 4

これも、客が泊まってるホテルの注意書きです。

上の「ぉ」は許せる範囲ですが、
下の「にほ、で」は激しく意味不明ですな・・・。



~ATTENTION~
この日記は2004年12月20日にDoblogで公開したアーカイブ日記です。

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■■■■Doblogアーカイブ■ 変な日本語in China パート6

090529 3


これも、客が泊まってるホテルでの表示です。

どうやら日本語表示があるってことは、
日本人宿泊客が多いってことやろうけど、
それだけネタも豊富です(笑

~ATTENTION~
この日記は2004年12月18日にDoblogで公開したアーカイブ日記です。

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■■■■Doblogアーカイブ■ 変な日本語in China パート5

090529 2

続いてホテルのルームキーの注意書きより。

チュクァーウドをする際、本カードを必ずフロンドにを渡し下さい

まあ書きたい意味はわかるけど、上の日本語がかなりの出来なだけに、
これでマイナス30点

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■■■■Doblogアーカイブ■ 変な日本語in China パート4

090525 4



客が泊まったホテルのルームキーの裏にある注意書きです。
他の日本語は合ってるのに、
赤線の部分だけは惜しい!

「ドーア」はないやろーー。
他の日本語が完璧なだけに、なんか残念ですなー。

~注意~
この日記は2004年12月16日にDoblogで公開したアーカイブ日記です。

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■■■そうだ、ドライブへ行こう@和歌山編

今日は休み、おまけに暑いながらも晴れの空。
最近、なぁ~~んか悶々とした気分の日が続いとったさかい、
「よっしゃ、家でまったり読書もええけど、天気ええさかいドライブに行くか~♪」
と、思い立ったがなんとかで早速出かけて参りました。
せやけど、俺の悪い癖で、思い立つのはええけど行動力が迅速すぎるんか、
部屋にカギかけてくるのとデジカメ持ってくるの忘れたのに気づいたんは、出発してから数十分後のことでした(笑

さて、ドライブに行くんはええんやけど、はてどこへ行こうか?
と思いながらブラブラしとったら、ふと看板に和歌山の文字が目に入りました。

「そうだ、和歌山へ行こう」

何の根拠もなく和歌山へ向かうことにしました(笑
まずは大阪から葛城山脈(やったっけ?)を越えて和歌山県の岩出まで向かったんやけど、
プリウスを納車した頃は、よくこの峠を越えて和歌山までドライブに向かったもんでした。
せやけど、やっぱ燃費に悪いっちゅーことで数年間避けとった道やったものの、
結果的にゃ燃費はアップ。
避けとった数年間の間に俺のテクがアップしたんか、それか単にタイヤが転がっとっただけなんか?
それは神のみぞ知る!?
そして国道42号線を通って和歌山市まで向かったんやけど、
さすがは平日の国道42号線、道路はガラガラ、道は平坦な2車線、これは燃費が上がらんはずがない♪
最初は燃費度外視で純粋にドライブ&気分転換を楽しもうと思ったものの、
(それゆえ燃費計は一切リセットせずでした。今思ったらもったいない・・・)
なんか妙に調子がよろしい、次第に頭と体が「戦闘モード」になっていく自分を感じました(笑

と思ったら、プリウスはまだたっぷりガソリンあるものの、自分が「ガス欠」になりそーな上に、
夏の黒プリは「走るサウナ」状態になるのです。外の方がはるかに涼しいくらいに(笑
そんなわけで喉もガラガラになってこのままじゃ脱水症状になるさかい、まずはファミレスにて「自分に給油」とあいなりました。
某ファミレスにランチタイムギリギリに駆け込んでランチを注文したものの、
写真の割にゃライスの量が少なすぎる!(怒
おい、大人の男が満足する量ちゃうぞこれ(怒
あかんあかん、今日は「気分転換」のために和歌山まで来たんや、怒ったらあかん♪
と、いつもの如く「まあええか~」と自分で無理矢理納得させて全部平らげていざ再出発!

今度は、SuperMID M-1のSチャンネルを使って、家まで燃費計測を開始しました。

090608 1

今回の燃費計測ルートは、和歌山市から加太を経由して峠を一つ越え、
そのまま国道26号に合流して家に帰るルートを選択。
素直に国道26号を直進したらええんやけど、まあそこはあくまで「気分転換」、
海でも見て気を紛らわせよう、ちゅー主目的はきっちり忘れとりません。
でもないとガソリンもったいないさかいにな(笑
そして、「燃費最優先」やったら臨海線を海沿いに走ったら、今日の気候やったら40km/Lは200%当確やけど、そこは今回は楽しません♪
俺の「木鶏(もっけい)流燃費走行」(←仮名)がどれだけ通用するか、ここは何事もチャレンジ精神だよん。
え?「木鶏流」って何やねんって?まあそれは適当に「木鶏」でググってくれたらなんぼでも出てきますわ。
自然に戻って運転中は心を無にする、4年間の血と涙と汗と金を費やした修行の末たどり着いた「自称」究極の燃費道(たぶん)、
これを一言で言うたら「燃費を気にしない燃費走行」言うことですわ。
「色即是空 空即是色」の禅問答みたいやけど(笑

で、加太を通って、海とのんびり釣りを楽しむ太公望たち、そしてすぐそこに見える淡路島を見ながら、
「海は広いな~大きいな~♪」
と歌ったんかどーかは俺のみぞ知るやけど、
やっぱ気温も高いし渋滞もなし、何より晴れとる条件が幸いしたか、思ったより燃費の伸びがよろしい。
運転すること泰然自若。燃費が上がること順風満帆。イラチ連中に煽られても傍若無人(コラ
そして家に着いた時の燃費は・・・

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■■■日西感情表現の違い!?

時代は21世紀、そして家におりながら世界中の情報をGETできるネット時代、
便利になったなーと改めて思う今日この頃。
20年前とかは、外国のラジオを聞きたい時は、ベランダに短波ラジオを持って行って、
夜にびみょ~~なチューニングをして、ラジオから外国語の放送が聞こえたら
「やった~!」
って喜んだもんですわ。
雑音がひどい中でわずかに聞こえる異国の言葉、
運が良かったら、時差が9時間あるイギリスのBBCの放送も拾ったりして、
日本におりながら幼心に異国情緒を味わったもんでした。
まあこない書くと、昔、小学生時分から海外・外国にゃ興味あったってことなんやろな~。

せやけど、今はそんな苦労せんでも、パソコンとネットがあったらクリック一つで世界中の放送が聞けたりします。

最近、スペインの国営放送のラジオを毎日のよーに聞いとります。
Radio nacional de Espana
(スペイン国営放送のラジオ。クリックしたら全部スペイン語ですよん。
ちなみに、画面右にある"Radio nacional de directo"下の再生ボタンをクリックしたら、リアルタイムの向こうの放送が聴けます)



前の日記で「脳の防腐剤」代わりにスペイン語勉強中ってことを書いたけど、
俺の語学勉強法の一つに、「右脳で覚える外国語」ちゅーのがあります。
詳細は書きだしたら本題から外れるさかい省略するけど、
一言で言うたら「理屈(左脳)やのーて感覚(右脳)で(語学を)勉強する」ちゅーこっちゃですわ♪
その、目下仮名の「右脳勉強法」の手っ取り早い手段が「聞く」ちゅーこと。
もちろん、勉強したてやさかい、ネイティブの容赦ないフルスピードのスペイン語なんかわかるわけない(笑
ここ数日、単語単語は聞き取れるよーにゃなったけど、
「聞く」ちゅー作業を根気よく、聞いてわからんで当然としてずっと聞いとったら、
ある日ふとわかったりするんですわ。
中国語の時もそーやったし、理由はわからんけど耳が慣れてくるんやろなーと思います。
特に、日本人はリスニングが大の苦手やさかい、まずはいちばん苦手なリスニングから始める。
そしてその言語の特徴、リズムを耳で覚える。
日本人は読み書き、特に文法から始めよーとする傾向があるし、学校でもそない教えられとるけど、
それが間違いとは言わんけど、やっぱし耳から入れて右脳で覚えるんが王道やろな、
ちゅーのが俺の持論でもあります。
一度、興味ある国のラジオでも聞いてみたらどないでしょうか?
もちろん、内容は全然わからんでも構いませぬ♪
そんなん聞いて一発でわかったら天才以上やし(笑

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■■■■Doblogアーカイブ■ 変な日本語in China パート3

~注意~
この日記は2004年11月29日にDoblogで公開したアーカイブ日記です。



090525 3


上海市内の中心にある、
日本人も多く訪れるという足マッサージ専門店の看板です。
う~~ん、日本語になってませんが、何か。

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■■■■Doblogアーカイブ■ 変な日本語in China パート2

~ATTENTION~
この日記は2004年11月15日にDoblogで公開したアーカイブ日記です。


今日、「踊る大捜査線 レインボーブリッジを封鎖せよ」のDVDをGETしたんですが、
下の日本語がなんかおかしい・・・。

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