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BEのぶ

  • Author:BEのぶ
  • 自称「ブログエッセイスト」ことBEのぶです。
    昭和史をライフワークにしていますが、平成ももうすぐ30年経ち、昭和が遠い過去になりつつあります。
    昭和も遺産・遺物を探れば立派な「考古学」となります。題して「昭和考古学」。ジャンルは遊郭・赤線跡から鉄道、そしてすっかり忘れ去られた歴史を掘る「昭和の考古学者」として、昭和の名残りを通して考察する旅を続けています。

    基本は標準語で書きますが、エッセイは大阪弁で書いていきます。

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■■■■Doblogアーカイブ■ 変な日本語in China パート1

~ATTENTION~
この日記は2004年11月1日にDoblogで公開したアーカイブ日記です。


街角で見た変な日本語パート1です。


090525 1

これは上海のある書店で見つけた日本語表示なんですが、
日本語で表示してくれるのはいいものの、
「全部過去形」ってなんやねん!?
もう本は売ってないんですか?(笑
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テーマ:雑記
ジャンル:ブログ

■■■中村久子

いつもの、メシの種にもならんことをセコセコ調べる悪癖でググっとったら、
ある人物のことにたどり着きました。

中村久子って聞いて誰かわかりますか?

いやはや、俺も最初は誰のことかわからんかったんですわ。

中村久子は明治~昭和にかけて生きた一人の女性なんやけど、
ある意味普通の女性やなかったんです。
ほな、彼女は他の女性とどこがちゃうかったんかと言うと。

手足がすべてなかった

と言うたらにわかに信じられへんかもしれませんな。
せやけど、彼女にはホンマに手足が全部なかったんですわ。
それも、先天的なもんやなくて、幼い時に凍傷が原因の、手足が腐っていく特発性脱疽(だっそ)になって手足を全部切断せざるを得なかったみたいですわ。
手足を切断せんと、どんどん腐っていくさかい仕方ないことやったけど、
こんな状態になってしもたら普通やったら本人はおろか、家族も絶望の淵に追いやられるんやけど、
中村久子にとってある意味ラッキーやったんが、祖母と母親の存在。
二人は彼女に厳しくしつけ、手足があらへん状態でも自立できるように育てたそうですわ。
20歳の時に自立して「だるま女」と呼ばれて見世物小屋行きになったものの、
持ち前の前向き精神とハングリー精神(?)で数々の困難を切り抜けていきました。

中村久子に転機が訪れたんは、1937年37歳の時にヘレン・ケラーと会った時と、42歳の時に「歎異抄」と出会ったこと。
これによって中村久子の中に悟りみたいなもんが生まれたみたいで、講演活動を通して「生きる力」と身障者の地位向上を唱え続け、
1968年、72歳でこの世を去ります。

この人生、こないして書きながらどっかで聞いたことあるな~と感じたんやけど、
たぶん、昔あった「知ってるつもり」っていうテレビ番組でやっとったような気がしますわ。
記憶があいまいやさかい、知ってる方教えて(笑

で、中村久子の言葉にこんなもんがあります。

「人の命とはつくづく不思議なもの。
確かなことは自分で生きているのではない。
生かされているのだと言うことです。
どんなところにも必ず行かされていく道がある。
すなわち人生に絶望なし。
いかなる人生にも決して絶望はないのだ。」


生きているんやのーて生かされている。
これは何も中村久子だけが言うとることやないんやけど、
この境地に達するにゃかなりの人生経験、更に苦難の道を必要とすると思います。
まあ俺もまだこの境地に至ってへんけど、数年前に脳内出血で倒れた母親には、
「あんたは、病院に担ぎ込まれた時医者に見放されたくらい重症やったけど助かった。
助かったちゅーことは、何か、俺らがわからん存在によって生かされとるんやわ。
これからは『生かされとる』ちゅーことを考えた方がええで」
ってな感じなことを言うたんやけど、母親も何かを悟ったんか、
今は完全やないけどリハビリに励んで、医者もビックリするくらい元気になっとります。

日本人は、どうしても「死」ちゅーことを意識してしもて、
簡単に絶望してまう悪い癖があると思うけど、
まずは絶望する前に、やるべきことをやったんか、それを考えてみるべきやと思いますわ。
この年になって、中村久子の
「人生に絶望なし」
って言葉がわかるような気がします。20代やったら確実にスルーしとる言葉ですわな。
俺も七転び八起き、波乱万丈の人生やなーと自分でも自覚しとるけど、
絶望したい寸前になったら不思議と前に光がやって来て前に進んだということが何回もあります。
口が悪い友達にゃ、
「あんた普通やったら3回くらい死んでるで(笑」
って言われたりするけど、悩んで悩んで、頭抱えて「もうあかん!」って思った時、ふと出口が見えてきて・・・ちゅー感じかな?
残念ながら、うちの昔の同級生とかも自殺したって風のウワサを聞いたりすることがあるけど、
「人生に絶望なし」という言葉を贈りたかったな、と思いますわ。

生きてたら人生の岐路に立たされて悩むこともある。
崖っぷちに追いやられてどうしようもない(と自分で思ってる)こともある。
もう死にたい、と思うこともある。 
↑俺はこれだけはないんですわ。生への執着が強いのか(笑
せやけど、「最後の選択」の前にふと前を向いてみたら、光が見えてくることがあります。
ちゅーか、必ずどっかに出口があるはずですわ。
こんな、心に傷だらけ、まさに心が満身創痍の俺でもまだ元気にがんばってるんやから(笑

テーマ:雑記
ジャンル:ブログ

■■■河内長野をゆく 消えた遊郭・赤線跡を訪ねて7

さて、コツコツと続けとる「遊廊・赤線跡を訪ねる旅」、お次は河内長野編です。
河内長野は大阪の南部、和歌山県とはもう目と鼻の先、かつては爪楊枝の全国的な産地として有名なところでした。
ってこれは現在進行形か?河内長野市民の方ごめんなさい。
まあそれはさておき、その河内長野にかつて遊廊があったことは意外と知られてません。
俺も、どこでどういう風に情報を仕入れたんかわからへんけど、
(はて、マジでどこで仕入れたんやろか?忘れちゃいましたw)
とにかく河内長野に遊廊があったことは事実。
どーやら今はほとんど当時の建物が残ってへんらしいけど、
とりあえず、せっかく同じ大阪府内やさかい行ってみるかー!
と向かってみました。

せやけど・・・「行くぞー!」って決意した日に限って何故か雨(笑
俺は昔から雨男、自称「雨将軍」やけど、ここぞとばかりに雨ばっかし降るってちょっと憂鬱。
とにかく雨天強行突破で行ってみたものの、雨は止むどころか強くなるばかり。
途中、和泉市に出来た道の駅で様子を見たけど、
「こりゃあかん、雨が強すぎるな」
と引き返そうと思った時、雨が少し弱くなったような気がしました。
よし!と気分を入れ替えて河内長野行きを強行した結果、駅に着いた時にゃちょうど雨が止んでまいました。
おお、OH MY GOD♪
やっぱし普段日頃の行いがええと最後にゃ神様が微笑んでくれるみたいで(笑

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旧長野遊廊があったとこは、今の河内長野駅の東口の石川沿いにあったよーでした。
近くに車を止め、河内長野駅東口から旧遊廊へと向かいます。
河内長野駅は南海電鉄と近鉄が合流する駅やけど、よー考えたらこんなとこにまで近鉄が来とるんやな、と妙に感心してまいました。
で、そんなことで感心しとる場合やない、さっさとGO。

テーマ:雑記
ジャンル:ブログ

■■■■Doblogアーカイブ■ 上海租界散歩 日本人の足跡を訪ねて 第六章

~Attention~
この日記は2004年12月27日にDoblogで公開した日記です。
紹介されている建物が現時点で存在しているかは定かではないので、
各自でご確認をお願いします。



第五章はこちら

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(上の画像は現在の四川北路)
内山書店を過ぎ、四川北路をそのまま北上していくと、左手に5階建ての古いマンションが見える。

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このアパートは、現在北川公寓という名前なのだが、戦前はラモスアパートと呼ばれ、
このアパートの3階4号室に、魯迅が1930年5月から1933年4月までここに住み、
隠れるようにここに住んでいた。
その間に上海事変が起き、銃弾が壁を貫いて部屋まで届いたこともあったという。
最上階の5階部分は1978年に建て増しされたものだが、それ以外はほぼ原型を留めている。

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そのラモスアパートより右斜めにある白い建物が、
数々の火種の拠点になったとも言える、日本海軍特別陸戦隊本部である。
陸戦隊とは海軍の中にある陸上部隊のことで、
上海特別陸戦隊は上海に住む日本人保護を目的に上海に駐留した部隊である。
「海」の軍隊である海軍が陸上部隊を持っているとは意外かもしれないが、日本海軍は陸で戦う陸戦隊も臨時で組織することがある。
上海特別陸戦隊は唯一常設された陸戦隊で、1928年より上海に駐留し、日本人が多い虹口地区に拠点を構えていた。
日本陸軍は、海軍との協定上租界内には立ち入ることが許されず、租界内の警備はすべてこの上海特別陸戦隊が行っていた。
その「租界内に立ち入れない陸軍」が租界内に立ち入った時のこと。
日中戦争の最中租界内で私服の日本憲兵が中国人強盗に出会い頭に襲われ怪我を負った。
かねてから租界内の反日分子を一網打尽にしたかっら陸軍は、
それを口実に租界内に立ち入ろうと軍備を整え一個小隊を派遣した。
そこに立ちふさがったのが海軍陸戦隊。
当時の支那派遣艦隊参謀長井上成美の、
「強引に租界に入ろうとする者は日本陸軍でも敵とみなして撃滅せよ」
という厳命を受けた陸戦隊司令官と艦隊参謀が陸軍の前進を阻止、
押し問答の末陸軍を追い返したというエピソードがある。
一見、同じ日本軍の陸軍と海軍の縄張り争いのように見えるが、
イギリスやアメリカ、フランスなどの利権が絡み合った「魔都」上海、ひとつ間違えると無駄な国際紛争の種を一つ増やし日本を窮地に追い込む行為でもある。
国際法規を理解し、外国と無駄な争いの種を増やしたくない海軍艦隊の首脳、特にナンバー2である参謀長の井上成美の「協定と国際法を無視する者は同胞でも敵と見なせ。責任は私が取る」という決断であったエピソードである。
この井上成美は、終戦間際の昭和19年に海軍次官として、海軍大臣の米内光政と共に極秘の終戦工作を行い、本土決戦という愚策を避けるべく奔走する。

現存する本部建物は、第一次上海事変の後に建てられた鉄筋コンクリート造4階建てのもので、
第一次上海事変後に建設されたものである。
第二次上海事変の際はここから陸戦隊が出発し、中国軍と直接の戦闘を行った。
現在は上海交通銀行となっているが、建物はそのまま残っている。

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当時の絵葉書と比較しても、建物がそのまま残っていることがわかる。
画像にわずかに見えるすっかり錆びた物見櫓は、当時のまま残っていて、その錆び具合が年月の流れを感じさせている。
学校の教科書にも出てくる上海事変、その決戦の場がまさに目の前にある気持ちは、文章ではとても書ききれない感慨を覚える。

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戦前は竇楽安路と呼ばれ、住人のほぼ100%が日本人だったという道、
現在は多倫路>と呼ばれ、近年この界隈が整備され、「多倫路文化名人街」という名の観光スポットになった。
道は石畳になり新しくはなったものの、道一本はずれるとそこは未だに濃厚な旧上海の生活の場が残っている。

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上の画像は、知恩院という1924年に建てられたイスラム風建築の寺院である。
所々にイスラムスタイルの装飾が残り、独特の雰囲気を残している。

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多倫路にある、かつての上海海軍倶楽部
海軍倶楽部は海軍士官の憩いの場として建設された、水交社の上海支部である。
上記した井上成美は支那方面艦隊参謀長時代、夏になると暑苦しくなる艦隊の旗艦「出雲」を離れ、ここ上海海軍倶楽部の一室に居を移し、夜はピアノを弾いていたという記述が、阿川弘之の『井上成美』にある。
私が井上成美という海軍軍人を知ったのはほんの数年前のことで、もしここを回った時に井上の存在を知っていれば、
また違った感想を抱いていたことだと思い、少し惜しい感じもする。

多倫路を渡り終え、四川北路と交わる交差点の向かって左側には、
かつて「公琲」と呼ばれたカフェがあった。
日本人経営とも、ユダヤ人経営とも言われたこの喫茶店、
外国人経営という安全さもあってか、共産党革命家や文学者が集まる場所として栄え、隠れた歴史の舞台にもなった所である。
建物は90年代前半まで残されていたのだが、老朽化でついに壊され現在は全くその面影はない。
しかし、「公琲」という名前はそのままで跡地に喫茶店が出来、
せめてここにかつて「公琲」があったという名前は残っている。

多倫路を出て四川北路を横断すると、今は建物の影に隠れて見つけにくいが、
昔ながらの「石庫門建築」が残る余慶坊がある。
現在でも数多くの世帯が軒を並べて住むこの集落、
かつては詩人の金子光晴が、夫人の森三千代の不倫清算旅行の際に上海に立ち寄り、
1928年から1929年までこの余慶坊の一室を借りて住んでいた。
その上海生活は「どくろ杯」に詳しく描かれている。

「私たち三人は、日本人のたまりの虹口、文路を抜けて、北四川路を出ると、北へ、北へ、車を走らせた。
日本書店の内山完造さんの店の筋向いの余慶坊という一角の入口で、車を下りた。
二筋の路地を、表と裏が向かい合って、支那風の漆喰な二階建長屋が続いている。
入口には、雑貨屋と、熱湯を沸かして桶で売る店とが並んでいた」
(どくろ杯より 原文ママ)



彼らが味わったその雰囲気の「おすそ分け」をもらおうと、私も余慶坊に入ってみた。
観光名所でも何でもなく、現在でも人々が普通に住む住宅地なので、
外来者の私などが入ると明らかにその存在が浮いているように思えた。
幅数メートルほどの細い路地で子供が無邪気な声を出して遊び、歴史の渦に巻き込まれ数々の辛苦をなめてきただろう老婆が、椅子に座って外来者の私を値踏みするようにじっと見つめていた。
四川北路の入口より入ってかなり奥の場所に、金子光晴が間借りした家が、
そのままの姿で残っていた。

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余慶路123号
ここが彼が1年間を過ごしていた家である。
時代は変わり、家の主が日本人から中国人に変わっても、その建物は数々の人々の喜怒哀楽を見てきたに違いない。
金子光晴が上海でついた吐息の数々も、この建物に染み付いて残っているかのようである。

余慶坊を出て四川北路に戻り南下すると、すぐにかなり大きい建物を見ることができる。
そこは「上海市第四人民医院」だが、元は「福民病院」と呼ばれていた日本人経営の病院であった。
日本人経営ながら患者は国際的で、国籍分け隔てなく患者を診る当時としては珍しい病院で、
魯迅もよくここを訪ね、彼の長男もここで生まれている。
建物は残念ながら最近壊されてしまったが、その規模は建物が新しくなっても受け継がれ、
当時どれだけ大きい病院だったかが容易に想像ができる。

その横には、当時の上海日本尋常高等小学校が当時の建物のまま残っている。
残念ながら四川北路沿いにビルが建てられてしまったために、四川北路沿いからはその建物は見えなくなってしまったが、
校門から覗いてみると校舎はそのまま残っていることがわかる。
日本の学校は戦前に数多くあり、大学と旧制高校以外はすべて揃い、上海にいながら日本と同等の教育を受けることができた。
今の日本人学校とは規模も生徒数もケタが違い、当時日本人がどれだけの勢力を誇っていたか、その跡を訪ねるだけでもすぐわかる。


以上、日本人の足跡を訪ねる旅は終わる。
すべてを渡り終え、ふと空を見ると、雲ひとつない青空である。
かつて、ここあたりに住んでいた日本人は、この青空を見ながら何を考えていたのであろうか。
時代の嵐に巻き込まれながらもしたたかに生きた彼らの足跡は、
徐々に少なくなってきているものの、まだ確実に残っている。

テーマ:雑記
ジャンル:ブログ

■■■■Doblogアーカイブ■ 上海租界散歩 日本人の足跡を訪ねて 第五章

~Attention~
この日記は2004年11月28にDoblogで公開した日記です。
紹介されている建物が現時点で存在しているかは定かではないので、
各自でご確認をお願いします。



第四章はこちら

塘沽路よりバスに乗って、一気に魯迅公園まで北上し、
かつて日本人が一番固まっていた界隈を歩いてみる。

現在は、作家の魯迅を記念して魯迅公園という名前になり、
老若男女を問わず楽しめる憩いの場となっているが、
その歴史は古く、1905年に外国人専用の公園としてオープンしたのが始まりである。
当時は「虹口公園」という正式名がついていたのだが、上海在住の日本人からは、俗に「新公園」と呼ばれていた。
何故新公園なのか、それはわからないが、その名前は歴史上に出てくる時もある。
上海事変終結後の1932年4月29日、「新公園」で戦勝式典をしている最中、
朝鮮人テロリスト尹奉吉の投げた爆弾で白川義則陸軍大将が死亡、海軍の第三艦隊司令長官として参加した野村吉三郎が右目を失い、第二次世界大戦後の外務大臣を務めた、当時上海公使であった重光葵が足を切断する重症を負った事件が、
この公園で起こった。
(俗に「上海天長節爆弾事件」という)
戦後は中国政府のもとで整備され、昔魯迅がよく散歩した公園ということで、
「魯迅公園」と命名され、毛沢東の筆による魯迅の墓もここにある。
公園にの中には現在、「魯迅記念館」があり、魯迅の原稿や遺品などが収められている。
魯迅公園には、休日には観光客の他に、地元の人が絵を描き、歌を歌い、カップルが愛を語り合う、日本でも一昔前はよく見かけた風景を見ることができるが、
それは、歴史に翻弄されたきな臭い場所ではあるものの、今も昔も変わっていないように思える。


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魯迅公園の北出口を出ると、大連西路の向かいに上海外国語大学の正門を見ることができる。
名前の通り上海唯一の外国語教育専門大学で、国立の重点大学(国家が定めた、国立大学の中でも更に重視された大学)でもあるエリート大学である。
日本人留学生も多く在籍し、多くの学生が在籍しているが、ここも日本人と関わりがある場所である。
元々この場所は、持志大学という私立大学があったが、上海事変で崩壊し廃校した。
その跡に1942年、日本の第二高等女学校が作られ、終戦までその位置にあった。
現在は当時の建物はすべて壊され、全くその面影を見ることはできない。
しかし、学校の建物ではないものの、大連西路の向かいにある東体育会路には、昔のままの洋館が数多く残っており、当時の姿をとどめている。

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さて、そのまま魯迅公園の外側を沿うように歩くと、山陰路という道に出る。
昔は「施高塔(スコット)路」といわれたこの道は、上海の中でいちばん旧日本人居留区の面影を残した場所であり、
そこに残る家の一軒一軒を見ても、何か日本っぽい所が残っている。
それは意識しないと気づかない程度のものだが、意識して見てみると、
我々が日本で見る住宅のそれということが、素人の目でもわかる。

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道の街路樹のトンネルをくぐっていくと、両端に小道が奥へ伸びている。
そこの各小道には、はるか以前に住んでいた日本人の住居が、今でもそのままの
状態で残されている。
山陰路の北から見て左手のいちばん最初の小道が「興業坊」である。
興業坊を入ると、そこは洋風建築の長屋のような住宅が道の両端に建てられ、
道も比較的広めにできている。
そこの左手にあるのが、1930年頃に吉行エイスケが住んだ住宅である。
資料が乏しいため、この興業坊の左手にある長屋のどこに住んでいたかは不明だが、
開いた窓から、今にでも彼がひょっこりと首を出してきそうな雰囲気を色濃く残している。
吉行エイスケは、NHKの連続テレビ小説「あぐり」で有名になった、
主人公「あぐり」の夫なのだが、また作家・エッセイストの吉行淳之介
女優の吉行和子の実父でもある。そう言った方がわかりやすいかもしれない。
1906年に岡山に生まれ、1940年に没するが、死の10年前より上海には少なからず出かけていたという記録が残っている。

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続いての小道は、花園里である。
今も昔もそのままの名前であるこの道には、ゾルゲ事件で死刑になった尾崎秀実が、1930年より2年間住んでいた住居跡が残っている。
1928年から東京朝日新聞社上海特派員として上海に滞在していた尾崎だが、
30年にアグネス・メドレーを通して、アメリカ人記者ジョンソンを名乗っていたリヒャルド・ゾルゲと、パシフィック・ホテル(現和平飯店南楼)で出会う。
彼自身、「宿命的」と語ったこの出会いが、尾崎の人生を決定付けることとなる。
後にスパイ容疑で死刑になる尾崎だが、この引き金は上海で引かれていたとは、
私も初めて知ったことである。

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松本重治というジャーナリストが1930年代に住んでいた、
「東照里」という長屋である。
日本人が固まって住んでいた山陰路あたりなので、
昔は周りの家がすべて畳敷きだったという。
二つ北の長屋に吉行エイスケ、一つ北には尾崎秀実、そして松本重治
全く同じ時期に、偶然ながら、
歴史に名を残す有名人3人がすぐ近くに、それもほぼ同時期に住んでいたということが歴史の面白いところである。

これらの道を山陰路をはさんだ向かい側が、「大陸新邨」の建物である。
大陸新邨とは、1931年に大陸銀行上海信託部が投資して建てた、赤煉瓦3階建てのテラスハウス住宅である。
調度品はもちろんのこと、建材もヨーロッパから輸入された豪華住宅で、
当時はもちろん、現在でも豪華とも言える彫刻が残り、独特の存在感を以って
来る人の目をそちらに向けさせている。

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ここに、近代中国の小説家、魯迅が 1933年4月11日から魯迅が亡くなる1936年10月19日までの約3年半この家で過ごした家が、
「魯迅故居」という名前で整備され、観光名所になって残っている。
魯迅故居の一階は応接室と台所、二階は寝室兼書斎と倉庫、三階は魯迅の息子(海嬰)と手伝いさんの寝室及び来客の寝室になっている。
今魯迅故居の収蔵品は400件余り、魯迅の当時の生活を偲ぶことができる。
その横には、同じ時期を生きた作家・文学者であり、中華人民共和国建国後は文化部長(文化庁長官に相当)にも就いた芽盾が住んでいたこともあり、
近代中国の息吹がこの周りで芽吹いていたのは興味深い。

その理由を解き明かすのに必要なキーワードが、内山完造である。
元々は参天堂の目薬売りとして上海に渡ったのだが、中国中を歩くうちに中国庶民の生活に造詣が深くなり、
その最中に、上海に内山書店をつくる。
元々はキリスト教書籍の専門店であったが、のちに日本語書籍全般を扱うこととなり、そこに日本人だけでなく、日本留学派の中国人も常連になるようになっていた。
その常連の中に、魯迅がいた。
魯迅と内山は親友となり、魯迅は彼のことを尊敬をこめて「老板(ラオパン)」と呼んでいた。
当時は近代文学や哲学などは中国には書籍が乏しく、日本留学派の彼らは、日本の書籍を通して近代概念というものを吸収していたという。
内山書店は、いつの間にかその彼らの絶好のサロンとなり、内山完造も彼らを拒絶せず、書店の片隅に無料のサロンを設けて彼らを歓迎した。
ここを通して、魯迅の紹介で数々の近代中国の文学を支える若者が集まり、また、日本の文学者たちも、内山の紹介で魯迅や彼らを紹介し、日中の文学者が集まった。会合などが開かれたことも、二度や三度ではない。

上海に渡り、内山の紹介で若き中国の文学者と親交を深めた人物に、谷崎潤一郎がいる。
彼は1926年1月に上海へ向かい、内山の仲介で郭沫若や田漢と「顔つなぎの会」を行った。
この時に交わした論議は省略するが、谷崎の「上海交遊記」「上海見聞録」は、当時の中国の知識人の本音を聞きだし、それを記録に残した数少ない人物であり、
当時の中国・上海の紀行文が数多くある中でひときわ輝いている歴史的文献である。

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日中の文学者が一堂に会し、ある意味歴史を築き上げたとも言える内山書店は、
現在は中国工商銀行になっている。
しかし建物は四川北路にそのまま残っており、「内山書店」という中国政府によって掲げられたプレートが、
まさにここが内山書店であったことを証明させている。

090524 7

このプレートには次のように書かれている。

「内山書店は、日本の有名な社会活動家の内山完造が1917年に作った書店である。
当初は四川路魏盛里にあったが1929年に現在の位置に移った。
1930年代、内山書店は左翼出版物の重要な販売店となり、日中の文化人が共に交流するサロンともなった。
魯迅、郭沫若、田漢、郁達夫、塚本助太郎、升屋治三郎、石井政吉などの日中文化人が共に語り合い、また中国共産党の連絡所ともなり彼らを匿い保護した拠点でもあった。
1980年、上海市政府は此処を上海市の記念物に指定した」



ちなみに内山書店は、流れを汲む東京の内山書店に受け継がれ、中国・台湾書の専門店として現在に至っている。

テーマ:雑記
ジャンル:ブログ

■■■久し振りにゲーセンへ

今日は買い物三昧の日々、すっかり主婦ならぬ主夫感覚のBJのぶです(笑

で、ダイソーの100円ショップで買い物をした時、ふと見ると隣にゲーセンがありました。
いつも行っとる100円ショップやけど、隣にゲーセンがあったなんて気づいたんは今日が初めて。
今まで意識すらしてへんかったけど、これは何かの思し召しか!?

昔は中毒並みのゲーム少年やった俺、ゲーセンとのお付き合いも古くからありました。
せやけど、「君子危うきに近寄らず」ですっかりゲームから離れた今、今のゲーセンってどないなっとるんかさっぱりわからん始末。
最近は家庭用ゲームの性能も昔と比べてはるかに上がって、ゲーセンのゲームと遜色なくなってきた上に、PCのネットゲームもあるさかい、
かつては少年の憩いの場やったゲーセンの立場はかなり危ういもんがあると思うけど、
(昔は当たり前のよーにあった、駄菓子屋のゲームもなくなっとるしな・・・)
どないかして生き残りを図って欲しいもんですわ。

今まで気づかんかったゲーセンに気付いたってことは、
「のぶよ、久しぶりにゲームでもヤラナイカ
ちゅー神の啓示かもしれません(笑
よし、いっちょ久し振りにゲーセンのゲームやってみるか♪
っても、今のゲーセンって何のゲームがあるんかさっぱりわからず。
今の俺に出来るゲームなんかあるんかいな?
と思っとったら、隅にふと出来そうなゲームが。

テーマ:雑記
ジャンル:ブログ

■■■■Doblogアーカイブ■ 上海租界散歩 日本人の足跡を訪ねて 第四章

~注意~
この日記は2004年11月17日にDoblogで公開した日記です。
紹介されている建物が現時点で存在しているかは定かではないので、
各自でご確認をお願いします。



第三章はこちら

呉淞路から武進路に入り、「海軍陸戦隊租界部隊本部」の裏を潜り抜けるように海南路へ入ると、
突き当たりに古びた、しかし少し和風っぽい様相の洋館が見える。

0905222 1

ここはかつて「大和ホテル」と呼ばれた和風旅館であったという。
建物の大きさからして、かつて満州で名を馳せた「大和ホテル」とは別物だとは思うが、
今は託児所になっているここには、たくさんの日本人が宿泊していたに違いない。
武進路、海南路、乍浦路あたりの地域は、戦前に多くの日本旅館が立ち並んでいた場所で、
建物が現存しているものだけでも、上述の大和ホテルの他に、

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八千代旅館

0905222 3

新田旅館
(上海市重要建築指定)

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かつて上海三大日本旅館の一つと言われた常盤館

山崎ホテル、豊陽ホテル、井上旅館、などがあり、一大宿屋街を構成していた。
現在はほとんどが一般市民の住む民家になっているが、宿屋がここに集まっていることから見ると、
「虹口」の日本人がここあたりに集まっていたことが容易に伺える。
気のせいと言われるかもしれないが、ここあたりを歩いていると、どこか日本を感じてしまう。
裏道にはかつて多くの婦人が井戸端会議に花を咲かせ、道には子供たちが走り回っていたのだろう。
タイムカプセルのように、かつての先人たちの名残を留めるこの道も、
すぐ横まで再開発の波が押し寄せており、
次に来る時には残っているのか、それはわからない。
残念なことではあるが、建物の老朽化もあり、仕方のないことであろう。

0905222 5

日本の面影は、元ホテルだった建物だけではない。
乍浦路には、インド風の築地本願寺を模したという西本願寺別院が残っている。
道の向かい側に行かないと気づきにくいが、周りの建物と比較しても一目でわかるほど明らかに浮いているこの建物は、1931年に建てられたインド風建築のもので、1944年にはストゥーパ(仏塔)まであったというが、現存はしていない。
戦後は、最近までディスコとして使われていたのだが、今はそのディスコも閉店し、
時代の流れの中、静かに余生を過ごすかのように新しい住人を待っている。
その隣には、日蓮宗の寺院であった「本圀寺」の跡がある。
1899年に妙覚寺として乍浦路に建てられ、1904年に移転するも、
1922年に再び乍浦路に戻り、現在地に立て直された。
本堂の入口が現存し、現在は民家として使われているそうだが、
入口を見ると、素人でも人目でわかる日本式の寺院のたたずまいである。
11年前にもここを通り、かつては信徒がここに集まった寺の面影を伺ったのだが、
嬉しいことにまだそのままの姿で残っていてくれていた。

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虹口の盛り場のシンボルでもあった「ウヰルス劇場」(現勝利大劇院)を横目に、
海寧路を再び越えて南下していく。
乍浦路は、海寧路を越えると現在は「美食街(レストラン街)」として、
レストラン、特に海鮮料理店が立ち並んでいる。
戦前は一大娯楽地帯で、劇場・映画館等が所狭しと並んでいたという。
その建物が、改修ののちに現在のレストランの建物となっているが、
ネオンの華やかさは今も昔も変わらないとは思う。
その乍浦路と塘沽路の交差点、南下すれば右手に、レンガ建築の高層マンションを見ることができる。
戦前は「ピアス・アパート」と呼ばれた高級マンションで、この建物の説明は別項で説明しようと思う。

塘沽路を左に曲がると、左右には租界時代の建物がずらりと、きれいな形で並んでいる。
ここあたりは、1920年代まではロシア娼婦が並ぶ娼館街であったが、上海事変後は日本人にとって変わっていった。
当時、中国・上海に新天地を求めてやってきた日本人は、繁華街で一杯やり、
その後に娼館に駆け込み、日本人娼婦と夜を楽しんだに違いない。

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当時の「トルコ風呂」の建物が現在も残り、かつての男と女の駆け引きの場の名残をとどめている。
その中に、和風の屋根を頂いた建物を見ることができる。

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上海でも老舗であった、料亭「六三亭」である。
香港~上海航路で皿洗いをしていた、長崎生まれの白石六三郎が1898年に「六三庵」を開業し、1900年に現在地に「六三亭」を開業した。
その名は日本人社会で知らぬ者はいないというくらい広まり、1912年には虹口郊外に純日本式庭園、「六三花園」を開園。
六千坪の敷地を日本人には無料で開放し、ここで様々なイベントが行われていたという。
残念ながら、「六三花園」は跡形もなく整理されてしまったが、本家の「六三亭」はかつての日本人居留区の繁栄の証人として、21世紀になってもそこに残っている。

そして、そこから一気に北上し魯迅公園へ向かう。

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■■■■Doblogアーカイブ■ 上海租界散歩 日本人の足跡を訪ねて 第三章

~注意~
この日記は2004年10月29日にDoblogで公開した日記です。
紹介されている建物が現時点で存在しているかは定かではないので、
各自でご確認をお願いします




第二章はこちら


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三角マーケット跡地、元警察官舎を背にして、一路北へ向かう。
道はざわざわした小道を抜け、「呉淞路」という大きな道に入る。

呉淞路は1856年に敷設され、虹口地区のメインロードの一つとして早くから栄えた。
日本人が虹口地区に住むようになったのは明治時代からだが、
大正時代には、呉淞路あたりは日本人街の中心として栄えていた。
呉服屋、お菓子屋、書店、文具屋、薬局・・・、日本にあるものはここにも
すべて揃っていた。
その光景は、まるで日本の下町のようだったという。
1927年の上海日本総領事館の調査によると、
呉淞路近辺の人口は7582人を数えていた。のちに1930年代になり、
その人口は更に増えていくことになる。
後に「日本租界」とまで言われた北四川路(現四川北路)とは、「北虹口」「虹口」と分かれた言い方をされ、二大日本人地区を形成していた。
しかし、現在でも「日本租界」当時の風景をかなりの形で残している四川北路に対し、
呉淞路は再開発の波に呑まれ、かつて道沿いに並んでいた日本家屋は
ほとんど姿を消してしまった。

左手に金富運大酒店・公安局出入国管理局が見え、右手にかつて日本旅館が並んでいたという場所が見える。
今は再開発の最中で、高層ビルの土台が虹口地区に、人工の山のようにそびえ建っている。
ここから200mくらいまでは再開発地区で、特に変わった風景はない。

そのまままっすぐ進むと、左右にこれまた大きな道にぶつかる。
海寧路と呼ばれるその道は、昔の日本人地区を
南北に二つに分けるように横切り、現在は呉淞路とで虹口地区の大交差点を形成している。
その呉淞路と海寧路の交差点に、ひっそりを余生を過ごすように建つ小さい建物がある。

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歩道橋に隠れてその存在すら容易に確認できない建物、
そこが「大阪毎日・東京日日新聞社跡」である。
芥川龍之介の上海滞在記に、『上海游記・江南游記』という本がある。
芥川は、1921(大正10)年に大阪毎日新聞の海外視察員として、4ヶ月の間上海や南京などを回り、中国の現実を目の当たりにしてきた。
上海に来て早々、芥川自身が病気で倒れてしまい出鼻をくじかれたせいか、それとも中国の水が合わなかったのか、紀行文としてはまずまずの内容なのだが、さすが大作家と言える洞察力で当時の中国・上海がどのようなものであったか、
この1冊でよくわかることだろう。

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呉淞路と武進路の交差点、北を向いて右側に、「虹口救火会」の建物が見える。
小さいながら、両手を広げたような、左右に広がる建物に、
物見櫓のような塔がそびえる。建物の知識があれば、すぐに消防署とわかる建物である。
現在でも消防署として使われており、たまにここから消防車が出て行く姿を見ることができる。
その東側隣にあるのが、「中部日本小学校」である。
上海4校目の日本人小学校として1929年4月に設立され、
鉄筋コンクリート造4階建ての校舎が今でもそのままの姿で残っている。

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虹口救火会の向かい側に建つ堂々とした建物がある。
ここは日中戦争以降、「海軍陸戦隊租界部隊本部」として日本軍が占拠し、
終戦まで使われていた。
現在は虹口区政府となっているこの建物は、外から見るとそれほどの大きさではないが、
普段は硬い鉄の扉で閉められている扉の隙間から覗いてみると、
広い中庭があり、面積はかなり広いものに見える。
裏手には工部局病院もあり、当時の病棟と看護婦宿舎が、
高い塀の外からも確認でき、いい形で残っている。

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「海軍陸戦隊租界部隊本部」裏にある看護婦宿泊所跡です。
かなりはっきりと建物が残っています。

第四章へ続く

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■■■ガラシャ

最近、何故かスペイン語をやり出したBJのぶです。
何でいきなりスペイン語なんやって?
いやまあ、ただの

暇つぶし

ですわ。
家に帰ってボケーっとしとるくらいやったら、ちょっと脳に新しい刺激と栄養でも与えるか~♪
ってことやさかい特に意味はございませぬ!?
いや、ホンマに意味ないんやって(笑

まあそりゃさておき、
スペイン語・・・これは俺にとっては長い間禁断の言語でもありました。
時は約30年前、叔父と叔母、そして従兄弟が叔父の仕事の都合でスペインに移り住みました。
その時に我が家族総出で大阪空港まで見送りに行ったことは今でもはっきり記憶に留めとるんやけど、
その従兄弟が一時帰国で日本に帰り、我が家に来た時のこと。
従兄弟と喧嘩した時、いとこがここぞとばかりに

スペイン語

でギャーギャーわめき出し、もちろん俺は向こうが何言っとるかワケワカメ。
「???」マークが頭の上に複数浮遊しとりました(笑
それがきっかけか、はたまたトラウマかわからんけど、
「スペイン語だけは勉強すまい」
と幼心に誓ってしもた俺、
「向こうが西洋なら、こっちは東洋じゃ!」
と妙なライバル意識まで持ってしもて、今や中国語使い。
うーん、人生ちゅーのはどこでどないなるかわからんもんじゃ。

せやけど、人間年齢を重ねたらそんなアホなこだわりもなくなってまうもんで、
「中国語に英語・・・その次はやっぱスペイン語でしょ♪これで30億人くらいとしゃべれるぞ~」
とまあ、見方によっちゃ不純な動機で始めたのであります。
せやけど、あくまで「暇つぶし」やさかいそんなに根詰めてやるつもりはありませぬ。
今はね・・・←意味深


で、スペイン語で「ありがとう」を、

gracias (グラシアス)

と言います。
graciasの原型は"gracia"、「感謝」とか「恵み」という意味なんやけど、
それが複数形になったら"gracias"になります。
そう、スペイン語も英語と同じく、複数形はsをつけるだけでええのです。

で、この「グラシアス」、標準スペイン語じゃこない発音するんやけど、
(更に、cの発音が日本人が苦手な、英語で言う"th"の発音やったりします)
スペイン南部じゃ「ガラシアス」になるそーな。
ほほー、そうなんや~と感心しとる時、俺の頭の中にある人物が思い当たりました。
それは・・・

細川ガラシア

のことです。
それは誰って?
これ?俺が昔付き合ってたスペイン人と日本人のハーフの彼女・・・って違~~~う!(笑
というアホ~なジョークはさておき、
細川ガラシアは「ガラシャ」とも表示されることもあるけど、
戦国時代の武将の細川忠興の妻であり、明智光秀の娘でもあります。
戦国時代の絶世の美人やったとも言われとります。
キリシタンやったさかい、洗礼名が「ガラシア」やったわけやけど、
「グラシア」やのーて「ガラシア」なのに注目。
つまり、当時スペインから日本に来た宣教師はスペイン南部の人が多かったんやろな~
ちゅー想像が出来たりします。
少なくても、細川ガラシアに洗礼名を与えた人はスペイン南部出身やったんちゃうかな?
たかがスペイン語をちょっと勉強しただけで、こんな発見が出来るとは。
スペイン語ってス・テ・キ♪

で、graciaって上に書いた通り「恵み」って意味もあるさかい、
細川ガラシアを「日本名」にしたら・・・


細川めぐみ



細川恵

になってまうわけですわな~。
なんかこない書くと、歴史上の美人が「そこらへんにおる普通の一般人」になってまうよーな(笑

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