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BEのぶ

  • Author:BEのぶ
  • 自称「ブログエッセイスト」ことBEのぶです。
    昭和史をライフワークにしていますが、平成ももうすぐ30年経ち、昭和が遠い過去になりつつあります。
    昭和も遺産・遺物を探れば立派な「考古学」となります。題して「昭和考古学」。ジャンルは遊郭・赤線跡から鉄道、そしてすっかり忘れ去られた歴史を掘る「昭和の考古学者」として、昭和の名残りを通して考察する旅を続けています。

    基本は標準語で書きますが、エッセイは大阪弁で書いていきます。

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■■■消えた遊廓・赤線跡をゆく? 大連編

台風11号が近づいて、週末は家から出るに出られずなBJのぶです。
今は雨は止んだものの、風はけっこう強くて自転車に乗っとったら突然の突風でグラっと倒れそうになります。
せやけど土曜日と日曜の午前はものすごい大雨、家から数百メートルのコンビニへ行くのにも、ある意味命がけです。
俺が住んでる地域のすぐ近くの地域は、土砂崩れの可能性があると市から避難勧告が出てたんやけど(俺が住んでるとこはギリギリ出てません)、確かに近くの川は氾濫しそうなくらいの大量の水が流れとります。
せやけど、台風はある日突然大阪上空に発生したわけちゃうさかい、週末の「ひきこもり」生活に備えて食料を買い込んできとります。おかげさまで「ひきこもり」生活をエンジョイしとります(笑

で、ふと資料収集も兼ねて、久しぶりに国会図書館のデジタルライブラリにアクセスしてみました。
そして何の目的もなく、
「おもろい資料ないかな~?」
と超テキトーに検索して超テキトーに資料を見てたら、昔の大連の写真集みたいなものが出てきました。
大連?日本にそんな街あったっけ?と思う人は少ないと思うけど、そりゃそうや、大連は海外にある街なんやから。
今回の「消えた遊廓・赤線跡をゆく」は突然海を超え、国をも超えてしまいます。

2014081001

大連は中国北部にある、遼東半島というところの端っこにある都市です。
中国の都市の中でも、都市規模は北京や上海とかには及ばないものの、上に書いたよーに日本の租借地やった関係で日本人も多く住んでいました。「大連」ときたらどこか懐かしい、ノスタルジーを感じる人もおるはず。よく考えたら、今でも80歳以上の人やったら大連で生まれ育った人もおるはずやさかい、記憶の中ではまだ「現役」な街でもあります。
せやさかい、日本人の中やと北京・上海などの中国都市の横綱と、十分がっぷり四つに組める知名度であります。
大連は元々ロシア人が作った街で、「ダーリヌィー」(遠い)っちゅー形容詞から来たのが由来です。どこを基準に「遠い」ねん!?というと、当時のロシア帝国の首都、ペトログラード(今のサンクト・ペテルブルク)からなんは言うまでもありません。まあそりゃ遠いけど、名前の付け方がかなり安直すぎる(笑
大連ってどこ?何それおいしいの?と思う人でも、「旅順」言うたらピンとくる人も多いはず。日露戦争の激戦地である203高地がある旅順は大連の隣にある街で、大連とは双子のような街であります。中華人民共和国が出来た時は、この2つがくっついで「旅大市」が出来たんやけど、中国人的には旅順より大連の方が格式があるんか、大連が旅順を呑み込む形で合併し、現在も行政区分的には旅順は大連の一部になっとります。

そんな街を日露戦争のポーツマス条約により、租借権をロシアからGETした日本が本格的に都市開発を開始しました。それと同時に名前も「ダーリヌィー」を漢字に当てはめた「大連」にし、それが現在に至っとるちゅー感じです。
余談やけど、都市の名前で同じよーな変遷で定着しとるところに、台湾の高雄があります。
高雄は元々は原住民の言葉で「ターカオー」か「ダーガオ」と呼ばれとって、それを漢族が「打狗」(ダーゴウ)と漢字にはめとりました。
せやけどこの「打狗」、中国語がわかる人やったらわかるよーに、漢字を直訳したら「犬をぶちのめす」って意味になるんですわ。それを、
「なんじゃそんなお下品な名前は!」
とでも思った日本人が、より雅で街の名前にふさわしい京都の高雄を持ってきて、「高雄」になり現在に至っとります。せやけど、中華民国が台湾にやって来た後も漢字が残って発音が北京語で「カオシオン」(台湾語じゃ「コーヒィオン」ね)になったせいで、元々あった「ターカオ」が消えてしもたという、予想外の(?)展開になってしもたというオチです。ちなみに、日本統治時代を知ってて、もちろん日本語ベラベラの台湾人のおじいちゃんに、
「日本時代は『高雄』ってどう発音しとったの?」
と聞いてみると、
「いや、そのまま『たかお』だよ」
とのことでした。

それはさておき、大連はロシア人が作った土台をベースに日本人によって本格的に開発され、近代的で合理的な町並みが田舎の寒村に出来上がりました。
大連にゃ俺も何回か行ったことがあるけど、今はだいぶ取り壊されたものの、昔は日本時代そのままの町並みがタイムカプセルのように残っとりました。正直、外国いうより「ただいま」という感覚の方が強くて、少なくても空気が全然中国やなかったような感じが残ってました。はじめて大連に行った20年前は、日本統治時代を知ってる人もけっこうおって、日本語で話しかけてきた人も多かったです。住んでるんは今でこそ中国人やけど、日本語で「すんませーん!」と叫んだら、ひょっこり着物を来たご婦人が現れてきそうな空気やったことを、今でも覚えとります。
昔の大連には日本人が数万人単位で住んどりました。大連には日本人街と、中国人街である郊外の「小崗子」に分かれとったけど、厳密に区別されたわけでもなく、実態は雑居みたいな感じでした。
せやさかい、昔からイメージだけやないリアルな日本人と接してる中国人(他満州族等の民族)が多く、戦争中も抗日団体がなんぼ反日を唱えても煽っても、ドラクエ風に書くと「しかしなにもおこらなかった」そうです。また、記憶に新しい近年の「反日暴動」も、大連だけは全く起こらんかった事実もあります。

日本人が住んでたところは、中国でもやっぱし俺に懐かしさを感じさせる空気は残っとるみたいです。もうかなり前になるけど上海に住んでた時に、今の市内北部にあった旧日本人街を訪ね歩いた時も、大連と同じニオイがしました。
そのブログはサイト自体消えてしもたけど、上海の日本人の跡を訪ねる旅はアーカイブとして移転してあるさかい、ヒマやったら読んでみて下さいな。「消えた遊廓・赤線跡をゆく」の原点みたいなもんやさかい。

上海租界散歩 日本人の足跡を訪ねて 第一章
上海租界散歩 日本人の足跡を訪ねて 第ニ章
上海租界散歩 日本人の足跡を訪ねて 第三章
上海租界散歩 日本人の足跡を訪ねて 第四章
上海租界散歩 日本人の足跡を訪ねて 第五章
上海租界散歩 日本人の足跡を訪ねて 第六章

上のブログを書いたんはブログなるツールを知った初年に書いたもんやさかい、ブログを書き始めてもう今年で10年やったんか、と新しい発見がありました。
ブロガーとしての節目の10周年記念やのに、ブログサボってる場合やあらへんな(笑
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■■■夜の飛田散歩

今週末、気分転換にちょっとプチ旅に行ってきました。
それはここ↓


140622-1

なんだ、ただの独房か。
あ、いや、別に警察の留置場で寝泊まりしたわけやありません(笑

ここは大阪屈指の安宿街、あいりん地区(以下「釜ヶ崎」)のとある宿の部屋なんです。

気分転換の仕方は人それぞれやけど、効果的な気分転換は
「毎日のルーチン生活を断ち切る」
ということに尽きると思います。
具体的に言うたら旅行がそれにあたるけど、手っ取り早いルーチン生活の断ち切り方は、

いつもと違う所で寝る
zzz
俺の経験上、いつもと違う環境、いつもと違う布団(ベッド)で寝るだけでも、頭のルーチンスイッチが切り替わって、たとえ家の隣のホテルに泊まってても「擬似旅」になります。脳が「いつもの毎日と違う」と認識させたらこっちのもの、ストレスの根源が断ち切れて、不思議と気分が入れ替わるんですわ。
たまの贅沢に数万円するホテルに泊まってみるのもええけど、「脳のスイッチ」を切り替えるだけやったらビジネスホテルで十分です。かく言う俺がこんな「独房」に泊まってるさかいにな(笑

大阪人以外でも、釜ヶ崎って言うたら知らんかっても、「あいりん地区」って聞いたら日雇い労働者の街として、名前は聞いたことがあるかもしれません。
今でもその性質の根本は変わりないんやけど、今違う意味で注目されとるんが、

「日本屈指の安宿街」

ということ。
日雇い労働者が泊まる、大阪弁でいう「ドヤ」と言われる木賃宿に外国人旅行者が「安っ!」と目をつけたのが始まりで、そこから釜ヶ崎を拠点にする外国人旅行者が急増しました。
日本人的には、釜ヶ崎って前述の日雇い労働者の街の他にも、治安が悪いとかきたないとか、決して良いイメージは持たれへんけど、「旅行」という観点から見たらこんな便利な所はない。
関空からも電車で一本、繁華街の梅田まで地下鉄で一本、同じくミナミはその気があれば歩いていけるし、天王寺なんか余裕の徒歩圏内。「大阪のアキバ」と化してしもた日本橋まで余裕の徒歩圏内。
そして、奈良や高野山、京都までも電車で一本やし(京都は時間帯によるやけど)。
つまり、ここを拠点にすると四方八方、どこでも行ける交通の要衝なんです。うーん、なんでこんなとこに気づかんかったんやろ?
治安は決してええってわけちゃうけど、それでも修羅場くぐり抜けてきた外国人バックパッカーにとっちゃ屁のかっぱのようなもん。なんぼ日本屈指の治安の悪さを誇る(?)あいりん地区言うても、いきなりこめかみに拳銃ぶっ放されたりはせーへんしな(笑

で、外国人が急増してしもたあいりん地区はここ数年でガラリと様変わり。別に街がキレイになったとか、おしゃれになったとか、外国人向けバーが増えて賑やかになったとかやないんやけど、明らかに明るくなっとることは確かやと思います。
同じよーなとこに東京の山谷ってとこがあるけど、そこは外国人旅行者が増えて宿の料金足元見とる感が強いんやけど、大阪はあいも変わらずの格安料金でお泊りできます。
俺が泊まったところはネットでの予約もOKで、ネット予約割引で¥2,100これで「税込み」です。というか、消費税値上げ前と料金変わってへんし。
だいたい、この料金くらいがあいりん地区の安宿の平均くらいかなーと思うけど、探すと¥2000以下やったら今でもなんぼでもあったりします。
まあ、例外的にこんな値段の宿もあったりして。

11092412
(詳しくは消えた遊郭・赤線跡をゆく 大阪一DEEPな所編 探索2回目をどーぞ)

さて、泊まる度胸ありますか?俺はありません。堪忍してくんなはれ(笑

部屋は3畳で、写真の通り部屋の奥に畳まれた布団が、ポツンと宿泊客を出迎えてくれます。3畳っていかにも狭そうに思えるけど、大人の男が一人、ゴロンと足を伸ばして横になるには十分な広さやったりします。
部屋は全体的には殺風景やけど、こんな安い値段できらびやかな部屋を期待する方がわがままやろ(笑
そもそも、こんなところに泊まる人は、豪華さとか、風雅とか、そんなんは求めてません。希望はただひとつ。

「寝れたらええ」

ただそれだけ。シンプルイズベスト。
せやけど、こんな狭い部屋ながら、テレビに冷蔵庫、エアコンまでついてたりします。これだけでも十分十分、十二分。これ以上贅沢言うたら罰が当たりそうですわ。
ただ、埃がひとつもない清潔さとか、それなりの広さとかを求めるんやったら、ちょっと物足りんかもしれません。要するにお値段相応ってやつで、「それ以上」を求めてる人はちゃんとしたビジネスホテルに泊まるべし、というわけです。
さすがにトイレと風呂は共同やけど、決して不潔というわけやないし、風呂は大風呂で昔修学旅行の旅館で入ったような、懐かしささえ感じる古さでした。まあ、ロッカーの鍵が壊れてたのはご愛嬌やけど、「こんなとこに貴重品持ってくるお前が悪い」・・・これが安宿の掟です(笑
そして、上の部屋の写真を見てもわかるよーに、風呂用のバスタオルにフェイスタオル、浴衣までついてたりします。
こんなに安いのに、こんなにサービスつけてくれてええのん?いや、もしかして使ったら別料金とかいうオチはないやろな?
と警戒してまうよーなおもてなしやけど、心配御無用、使用は無料です。
そして安宿すべてやないとは思うけど、外国人旅行者が多く泊まるとこやとWi-fiまで完備やったりします。
Wi-fiって無線で使えるネットのことやけど、これももちろん無料です。つまりiPadとかノートパソコン持って行ったら、ネット使いたい放題ってわけです。パソコン持ってへんかったらどないすんねんて?それも心配ご無用、フロント近くに無料で使えるパソコンがあったりします。さすがに時間制限はあると思うけど、海外旅行やとメールの時間が楽しかったりするさかい、外国人旅行者も遠くの家族、恋人と連絡する時間が嬉しい気持ちは同じなんかもしれません。
こんな安宿でWi-fi完備にパソコン完備とは、やっぱり21世紀恐るべし(笑
ちなみに俺は、部屋でiPadのアプリを開き、Wi-fiを通して世界中のラジオを聞いてたりします。いつもいない環境で、外からの情報を遮断して海外のラジオを聞いてると、自分が一体どこにいるのかわからんよーになりますわ。はて?俺は日本におるんよな?って(笑

■■■山奥に残る遊女の墓 ~消えた遊郭・赤線跡をゆく 特別編~

遊廓・赤線のことを書くのは久しぶりやな~と感じるBJのぶです。
突然やけど、ここ最近運動不足が続いとります。
仕事がえらい忙しくなって、終電に飛び込む・・・もとい駆け込む毎日やさかい、平日はブログとか言うとるヒマもなし、ヒマなんもイヤやけど、忙しすぎるんも精神衛生上良くあらへんのは確か。
ちょっとでもはよ帰れたら、気晴らしにジョギングでも出来たんやけど、平日はそんなヒマがないさかい、運動不足だけやなくてイライラもかなり溜まっとりますわ。

その分、土日はちょっと身体を動かそか~。
とばかりに、以前から気になっとった場所へ、気分転換と運動を兼ねて行ってみようと決意しました。

以前どころか、書いた本人がいつ書いたんか忘れたくらいの以前やけど、
消えた遊郭・赤線跡を訪ねて 大阪府南部編
で、大阪府の南部の貝塚って所にあった遊廓を紹介しました。
書いた日にちをチェックしてみたら、もう8年前の話になるんやなー、こんなこと(?)をもう8年間もやっとるんか、と何だか感慨深げです(笑
その貝塚遊廓で働いてた遊女の墓が、大阪の山奥にあるって話を、どこかで聞いたことがありました。
それを思い出してググってみたら。
あら、自宅とそう遠くないところにあるやないですか!
今まで何でこんなのに気づかんかったんやろか・・・「”自称”遊廓・赤線界のインディー・ジョーンズ」も地に落ちたものよの・・・と嘆きながらもそこはBJのぶ、思い立ったが吉日主義なところは変わってません(笑
思い立ったらすぐ実行!といきたいけれども、さすがに終電で帰ってくる平日の真夜中に行くわけにもいかんさかい、土日の週末に行って参りました。

地図遊女墓

その遊女の墓は、ここにあります。

「一体どこやねんここは??」

と首を傾げたくなるよーな山奥にあります。
正直、大阪府民どころかジモピーな血が半分くらいな俺も、ここがどこなんか説明不能、緯度と経度で説明するしかありまへん。
まあ、どれくらい山奥なんか、写真で見たら一目瞭然!


14041302

こんなとこです。
念の為に言うときますけど、ここも、いや、これでも大阪府内です。大阪府民やなかったら、「大阪にもこんなとこあるんだね〜」と驚くことでしょう。東京に例えたら、奥多摩って感じでしょ。
周りは大いなる自然の宝庫、道幅が意外に広くて舗装道路なんが奇跡なくらい、自然以外に何もありませぬ。
せやけど、周りからは
”ホーホケキョ”
っちゅー鳴き声が聞こえてきました。そう、ウグイスです。
ウグイスは「春告鳥」とも呼ばれとるだけあって、春を告げる使者でもあります。
古今集に、
「鶯の 谷より出ずる 声なくば 春くることを 誰か知るまじ」
ちゅー歌があるくらい、お馴染み”ホーホケキョ”が聞こえたら、
「春やね~」
という合図になっとりました。
この日は、山の中のせいかちょっと肌寒かったけど、ウグイス同士が山を隔てて会話しとるよーな鳴き声を聞きながら、春やね~と俺は山をひたすら上っていきました。
それにしても、野生のウグイスの声を聞いたのって、初めてのような気がする。

ホンマはこんな山奥やと車で行くんがベストなんやけど、今回は運動も兼ねてやさかい、山道をひたすら自転車こいで登りました。それもママチャリで(笑
ここは道の状態もええせいか、絶好のサイクリングコースにもなっとるみたいで、車よりもロードバイクの自転車のライダーさんの方が多かったですわ。歩道をハーハーゼーゼー言いながら必死の形相でこいで行く俺を尻目に、ロードバイクはビュンビュン俺を追い抜いていきます。その姿、まるで特急列車と各駅停車の如く。
「なんでこんなとこをママチャリで走ってんねん!」
という視線をバンバン浴びたけど、彼らから見れば、こんな峠路をママチャリで走る俺は狂気の沙汰としか思えんかったかもしれません(笑

この山道の入り口に、

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こんな看板があります。
目的地の遊女の墓も、地元の貝塚市のHPにも掲載されとるせいか、

14041304

ちゃんと掲載されとりました。
せやけど、この地図が実に曖昧で、実際に行く人を惑わせることになるんです(笑

14041305

どこまでも続く山道と上り坂を、息切れしながら上って行くと、こんな道標がありました。
そう、道沿いにあるんやのーて、道を外れた奥にあったりします。
これは・・・ある意味自転車で行ってよかったと思いますわ。車で行ってたらナビで目的地設定しとっても見逃す率は80%超えそうなくらい、こっそりと表示しとるんです。
更に、車で行こうものなら、駐車場なんて周りにありませぬ。せやさかい、車で行くと路駐確定となります。
もし・・・というか、行くとすれば十中八九車かバイクでってことになると思うけど、目印は

「秬谷(きびたに)トンネルの手前」

と頭に入れておきましょう。
トンネルに入ったら、「あ、行き過ぎた」と引き返すがよろし。引き返すスペースと道幅があるかどうかは別として(笑


さて、自転車を降りて道外れの道をゆくと・・・


14041306

滝っすよ、滝!!

まさか大阪で自然の滝を見るとは思わんかったですわ。
ここまで来ると川の水がめちゃきれいやさかい、ここは夏に、水着と着替え持参で行くんがええんかもしれませんな。どこで着替えるんやって?大丈夫、全く人気がないさかい誰も見てへんわい(笑
夏やと汗だくになってそのまま川へバシャーン!と飛び込んで納涼、人が来なさそうな所やさかい、意外な穴場スポットかもしれません。川辺まで続く道があるかチェックするの忘れてしもたけど、どうもかつては人が住んどった痕跡はあったさかい、川辺へ降りる階段か道くらいはあるかもしれませんな。


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やっとこさ着いた、本命の遊女の墓です。
もう、「やっと」というか「ついに」というか、これは実際に行った人にしか感じられへん感想です(笑
もうしんどくて何度「もう引き返そうや」という声が聞こえて諦めそーになったせいか、「ついに」という言葉の通り、実際に着いてみると達成感でいっぱいですわ。

■■■神社にある遊廓の面影

またしばらく更新が滞ってしもたBJのぶです。
ちとしばらく書いてへんうちに、筆・・・ならぬキーボードさばきがどうもしっくりいかんさかい、まずは「要リハビリ」とばかりに久しぶりに書いてみます。
俺も一介の小市民、まあ許してくんなはれm(_ _)m

で、先日散歩とばかりにあるところへ向かいました。

その散歩場所は。

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奈良県香芝市にある

志都美神社

です。
平凡に読んだら「しとみ」なんやけど、実はこれ「しづみ」と読みます。
「しとみ」って読んだら、別に「志等美神社」がある、またややこしい名前やな(笑

この神社は武烈天皇陵の裏手にあって、それと何らかの関係があると思われる神社なんやけど、詳しいことはよくわかっとりません。


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この神社の本殿は江戸時代中期の建立と伝えられとって、神社内にある奉燈には「宝暦六年」の文字があったさかい、1756年にはこの神社があったってことやと考えられます。
宝暦年間は、ちょうど「暴れん坊将軍」こと8代将軍徳川吉宗が亡くなった時期(宝暦元年)であり、伊能忠敬や「鬼平」こと火付盗賊改方長官の長谷川平蔵がまだ11歳の頃です。というか、この二人って同い年やったのねん。

また、本殿の裏には、

「明治十二年八月虎列拉病流行氏子祈願無一人患者無人歓呼奉納」

という記念碑があります。

「虎列拉病」ってコレラのことで、江戸時代の文政五年(1822)に日本で最初の流行がありました。
有名なところじゃ安政五年(1858)の大流行で、治療法が全然わからんかったのと、ちょうど欧米列強の黒船が相次いで日本にやってきた時期も重なって、大パニックになったそうです。
で、こん時にコレラの治療法を書いた『虎狼痢治準』という本を配布した人物が、適塾の緒方洪庵であります。

幕末のコレラ大流行はいったん収まったんやけど、それでも地震の余震のように明治時代にもコレラは全国で猛威をふるい、多数の死者を発生させました。
どうやら明治12年にも全国で10万人の死者が出た大流行があったようで、この奈良県でも流行したらしいんやけど、この地域では一人も患者が一人も出えへんかったようです。
それを「御祭神のご利益や」と記念碑を建てたというわけですな。
ちなみに、日本のコレラの猛威は明治期にはずっと続き、検疫や予防法、治療法が確立された大正末期になってやっと沈静化しとります。


で、この、どこにでもある神社のどこに、遊廓の面影があるというのでしょうか?
もしかして、ここあたりに隠れた遊廓でもあったのか?

テーマ:消えた遊廓・赤線の跡を訪ねて
ジャンル:ブログ

■■■もの言はぬ娼妓たち 消えた遊郭・赤線跡を歩く特別編

また久しぶりの更新になってしもたBJのぶです。
・・・って言葉を何度聞いたころやら、とそろそろ呆れられそうやけど、数々のコメントをいただいてこんなちっぽけなブログでもファンというか、楽しんでくれとる人がおるんやな・・・と強く反省し、書くエネルギーが湧いてきた次第です。
今回は心から反省しとるさかい、気を取り直して書いていこうと思いますm(_ _)m


以前のブログで敦賀の遊廓についてちょいと調べてみる、と書いて終わったんやけど、その調査にとある所に行ってきました。
全国の図書館の蔵書を調べて、何か琴線というか、インスピレーションに触れるもんをピックアップしていく、ということもある意味研究の一つやと思っとります。
これもけっこう宝探しみたいで面白いんですわ。お前暇人やなーと思わんといて下さい。暇人なんは認めるけど(笑


で、向かった所がここ。


奈良県立図書館

奈良県立図書館でやす。

「敦賀は福井県やのになんで奈良県やねん!?」

ってツッコミを食らいそうやけど、まあまあ、話はちゃんと最後まで聞きましょう。
理由は単に敦賀まで行くんが面倒くさい・・・やなくて、ここにちょいと参考になりそうな資料が、俺の図書館蔵書検索で引っかかったってことなんですわ。
現地という本丸にいきなり突入するのもありやけど、「宝」っちゅーのは本件と関係なさそうな、人の意表を突くようなところに潜んでたりするもんなんですわ。
そして、本丸に突入する前に、外堀からじっくりと埋めていく。焦らず急がず、じっくり弱火でコトコトと煮詰めていきましょう。研究は強火で焦がしてはいけません。


せんとくん

そして、図書館に入ると悪夢・・・もとい夢に出てきそうなマスコットキャラ、せんとくんがお出迎え。
これでも私、ゆるキャラなんです(笑

図書館内はどうも撮影禁止みたいやさかい、写真には撮らんかったんやけど、予想をええ意味で裏切るホテルのような現代的な内観と、広々としてゆったりと余裕のある館内。金かけてますなー感がびっしり詰まった図書館って感じでした。まあこういうのに税金を使うのは全然OK牧場。
まあ、唯一の不満を言わせてもらったら、駐車場が有料なこと。「公営」なんやから3時間くらいは無料にしてくれ~(笑
昔の建物をリフォームしたような感じをイメージしとった俺は、これまたええ意味で拍子抜け。
なんか「県立図書館」とくれば、どうも我らが大阪府の中之島図書館のイメージがこびりついてしもとるみたいで。
(※マニアックな資料てんこ盛り(?)の大阪府立図書館中之島分館は、明治時代の建物やさかい)

そして、さすが県立図書館、蔵書もなかなかのもの。
特に奈良県立図書館の目玉は、太平洋戦争関連の資料・蔵書が集中的に揃っとることです。それも全国的な戦争資料が揃ってるみたいで、陸軍の歩兵操典や、「生きて虜囚の辱めを受けず」で有名な『戦陣訓』の原本までありました。
いちおう「昭和史」もライフワークの一つのせいもあるさかい存在自体はもちろん知ってたけど、「現物」を目の前にして実際に触ったんは初めてのことですわ。
敦賀の遊廓のことも、実はこの戦争資料のどこかに書かれとったことを知って、はるばるここまで来て閲覧となったんやけど、その内容はいつか書くやろう『消えた遊郭・赤線跡をゆく』の敦賀編までお預け(笑


せやけど、わざわざ奈良県立図書館まで来た理由は、実は他にもありました。
県立図書館の蔵書検索をしとった時に、

「おや?」

と興味深いもんを見つけました。
せやけど、インターネットの文字列だけじゃ、その「おや?」がどんなもんかわからん。なかなかレアなもんっぽいことは確かやけど、これはもののついでに現物を拝んでみたい気分になりました。

そして、図書館のおねーさまに「見せて~♪」とお願いして数分。
おねーさまが持ってきたものは、何やら木箱に入った紙。そして大きな油紙。
木箱の中に入っとったもんは、ちょっと息を吹きかけたら破れて穴が開きそうな手紙のようなものでした。言い方変えたら「ボロボロ」ということです。
おねーさまにも「取り扱い要注意につき、くれぐれも乱雑に触らないように」と注意を受け、同じく持ってきた油紙をテーブルの上に敷いて、その上でのみ閲覧可という代物でした。

中身を見てみると、確かにけっこう貴重というかレアもんの資料っぽい。
とりあえずコピー取って、家でじっくり見てみるか・・・と思ってお願いしてみたら、

「取り扱い要注意資料につきコピー不可」

と冷たい返事。つまり、コピーにも耐えられへんくらいボロボロということですわな。
それなら、以前大阪市立図書館でやったことがある、コピー不可もんのボロボロ資料を「デジカメコピー」するという手はどないでしょ?と聞いてみたら、
「ちょっと聞いてみます」
とおねーさまは館内の奥へ。
待つこと数分、

撮影OK

の許可が出て館内の奥へ。
やっぱし公共の閲覧する場所であからさまに「デジカメコピー」はちょっと・・・ということで(そりゃそうやわな)、別室でどうぞというわけで、図書館の大奥・・・もとい奥の作業室らしき所までご案内~。
そこでなら時間制限なしで、あなたの気が済むまで、著作権フリーやさかい何枚でも撮影どうぞ~♪
というお墨付きをもらって写真を撮らせてもらいました。ほな、気が済むまで籠城させていただきます(笑

テーマ:消えた遊廓・赤線の跡を訪ねて
ジャンル:ブログ

■■■東京-立石 消えた遊郭・赤線の跡をゆく42

順番が実は逆になったんやけど、藤沢の前に実はトキオに行ってたりしてました。

お~し、ちょっとリッチに飛行機でトキオに行ったろやんけ。
と意気込んで、

12090602

眠い目をこすりながら関空発のANAの始発飛行機で羽田空港へ。
そして、成田空港行きの電車に乗り換えて成田空港へ・・・まではさすがに行ってへんのやけど、途中で各駅停車に電車を乗り換えて、

12090601

車窓からオープンしたての新しい東京のシンボル、東京スカイツリーを眺めとりました。
電車の中でカメラを出して写真をパシャパシャ撮る俺は完全におのぼりさん。
すまん東京スカイツリーよ、今回お前に出番はない。
別に途中下車して行ってもよかったんやけど、オープンして間もなかったさかい行ったら人ごみで死にそうになるのは目に見えとるし(笑
ちゅーわけで、今回は車窓から眺めるだけ~。


12090603

京成線立石駅。ここが今回の目的地です。
ここに、かつて赤線があったことは、まあ有名と言えば有名ですね。せやけど、かつてそこにそれがあったとは思われへんくらい、現在はのどかな東京の下町の一部分と化しとります。

テーマ:消えた遊廓・赤線の跡を訪ねて
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■■■旧藤沢遊廓をゆく 消えた遊郭・赤線の跡をゆく41

先日、ちょっと野暮用でトキオ・神奈川方面に飛んでたBJのぶです。
久しぶりの関東やったけど、お土産もなしで大阪に帰ってくる・・・わけがないのがわたくしBJのぶ。
スケジュールの合間を縫って回るところをまわってまいりました。

で、ヤボ用会場の交通アクセスを考えて神奈川県の藤沢ってとこに宿を取ったんやけど、

「藤沢に赤線(跡)なんかあったりして♪」

な~んて冗談半分で調べてみました。

そしたら・・・幸か不幸かタイミングよくあったりするんですわな(笑
正直、そんなつもりで藤沢を宿泊先に選んだわけやないんやけど、やっぱし見えない何かの力が働いとったかもしれへん・・・と言うしかあらへん偶然でした。
何せこんな状態やさかい藤沢の遊廓・赤線のことはまったく白紙の状態やったけど、これも何かのご縁やろうと慌ててネットで情報収集して、やりたくない休日の早起きをして(休みの日くらいゆっくり寝させろ)、時間を無理矢理作って探索してまいりました。

藤沢駅北口

藤沢駅の北口です。
「藤沢新地」と言われた藤沢の遊郭は駅前すぐのとこにあったそうです。
八王子の時もそうやったんやけど、こんな駅前を見ると「こんな都会に遊郭・赤線の跡なんか残ってるんかいな!?」と不安な気分に陥ります。まあ空振り上等、あったらラッキーって気持ちでいくのがいちばん。



藤沢駅前にあるさいか屋

その藤沢駅北口に、「さいか屋」ってデパートがありました。
ほう、「さいか」ねー。
と、頭の中にふと浮かんだのが、「雑賀」
雑賀は「さいか」と読んで、実は今の和歌山市と海南市、及びそのあたりの古い地名やったりします。
そして、戦国時代に詳しい人やったら、「さいか」ときたら連想ゲームのように「雑賀」→「雑賀党」とくるはず。
「雑賀党」とは上にも書いたよーに、和歌山北部を拠点に活動しとった戦国時代の豪族連合みたいな組織で、今の政治組織にたとえたら、アメリカやドイツのような連邦制国家が和歌山にあったよーな感じです。
そのすぐ北には貿易で巨万の富を得て栄えた、「香港か、はたまたシンガポールか」の堺もあったさかい、戦国時代の日本は「連邦国家」に「自由貿易港」、加賀の一向宗のあれを含めたら「共和国」まであったバラエティーあふれる個性の時代とも言えますな。
その雑賀党の「連邦大統領」ことヘッドが鈴木重秀という武将でした。鈴木重秀でピンとこえへんかったら、鈴木孫一って名前やったらピンとくるかもしれません。

その雑賀党が戦国の乱世に突然現れ、その名を知られるようになった理由は、当時最新鋭の武器やった鉄砲でした。
鉄砲が種子島に伝来してうんぬんはもう書くまでもない常識やけど、そこに雑賀の隣にあった根来の僧侶がおったそうな。根来は根来寺というお寺で有名なとこやけど、そこの旅の僧侶が鉄砲という得体が知れない武器を見て興味を持ったようです。
「ちょいとその武器ちょーだいな」とばかりに鉄砲の技術が根来に伝わって、彼らとつながりがあった雑賀党にも早くから伝わったことは歴史の事実、彼らは鉄砲の腕をものにして全国に鉄砲の傭兵として派遣されました。いわば「鉄砲屋」として全国各地の会社ならぬ大名から引く手あまた、今日はAという大名に、明日はAと敵対する大名Bに味方して、ということもあったことでしょう。
雑賀党は、最新兵器やった鉄砲を自在に操る技術者を排出した、日本でもかなり特異な集団やったんです。
いわば、鉄砲をかついで全国の戦場を駆け抜けた「戦闘派遣社員」やったってことです。

「連邦国家」どころか「技術職の人材派遣会社」、または「戦闘タレント事務所」も兼ねとった雑賀党、その真骨頂は織田信長と本願寺が対決した石山本願寺の戦い。
この頃には郎党ごと浄土真宗の信者になっとった雑賀党は本願寺側の要請を受けて石山本願寺に籠城、織田軍をかなり手こずらせることになります。
世界史の籠城基準じゃ「日本史唯一の本格籠城戦」になった「石山合戦」は足掛け4年にのぼったんやけど、当時飛ぶ鳥を落とす勢いやった織田信長がここまで苦労したかという理由は色々あるけど、一つは戦国時代のサイヤ人のような雑賀党が本願寺の味方につき、得意の鉄砲で応酬したこともありました。
信長は羽柴秀吉、明智光秀などの、当時の「信長軍団オールスター」精鋭10万を雑賀党の本拠地に差し向けて攻撃するんやけど、そこでもかなり手こずったようです。
せやけど、こんな時に雑賀党が「織田派」と「本願寺側」に内部分裂してしもたみたいで、ゴレンジャーも5人が力を合わせてはじめて敵と戦える力を持つ、5人かバラバラになったら力も5分の1になるのと同じように、彼らの力は弱まっていきました。

そして、雑賀党にとどめを刺したんは豊臣秀吉。
織田信長の雑賀党退治に同行した秀吉は彼らの怖さを肌で知ったのか、それとも小牧・長久手の戦いで徳川家康に味方して散々手こずらせた恨みか、雑賀党は「雑賀」やった地名も「和歌山」に改められたくらい徹底的に潰され、雑賀党は全国に散らばって歴史の埃の下に埋もれてしもたけど、その活躍は確かに歴史の1ページにはっきりと刻まれとります。
ちなみに、和歌山って和歌浦の山側にあるって意味で「和歌山」ね。
で、6~7年前になるんやけど、仕事で和歌山市に行った時に、市の東の方でマンション建設中に雑賀党の時代の遺跡が出てきて、「見ていいですか?」「いいですよ」と仕事そっちのけで発掘調査を見学したことがあるんやけど、壺に入った銅銭とかがザックザク出てきたらしくて、雑賀党の経済力のすごさを垣間見たようなような気がしました。

司馬遼太郎が雑賀党に興味を持って『尻啖え孫市』っていう小説を書いたことがあるけど、そのきっかけは司馬さんの旧制中学時代に「雑賀」というクラスメートがおったことだそうです。そして彼がインパクト強かったんは、敬語を一切使わんかったということで、そもそも和歌山弁には敬語ってのがほとんどないのが特徴、教師にもタメ口でしゃべっとったんが非常に印象に残ってたそうです。
そして、「雑賀」って苗字は、俺が中学の時にも一人おりました。雑賀党の末裔から知らんけど、才色兼備な女の子やったさかい今頃はとんだおばはん・・・失礼、べっぴんさんになっとるやろなー、とこれを書きながらふと思い出してまいましたわ。

まあそれはさておき、延々と語った雑賀党と「さいか屋」って関係あんの?と思うことでしょう。
ここまでダラダラ遊郭・赤線に関係ないこと書いといて「実は関係ありませんでした、テヘ♪」なんてオチはないやろな?と(笑
「遊郭・赤線跡をゆく」をしばし忘れて手元のスマホをピ・ポ・パとググってみたら、どうも「さいか屋」の創業者は自称雑賀党の末裔らしゅーて、その出自を忘れんよーにしたんか、それともかつては全国にその名を知られた雑賀党のプライドか、屋号を「雑賀」にしたってことですわ。
その雑賀党の名前が関東で生きてる・・・なんか不思議な気分ですわ。

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■■■布施新地 消えた遊郭・赤線跡をゆく40

しばらくブログを諸事情で「勝手ながら休業」状態やったんですけど、また諸事情で「勝手ながら開業」したBJのぶです(笑

今回のターゲットは、
いつか行こうと思いつつ、「どうせ近いしええかー」としばらく放置、そして行こう!と思ったその時に限っていつも雨(笑)やった、飛田や松島に隠れて存在感がいまいち薄い赤線、布施新地でやんす。

っちゅーわけで、今回はくどくどしい挨拶なしで、いきなり本題に入ります♪

まあ、単にしばらくブログ書いてへんかったさかいどう切り出してええか忘れただけやったりして(笑

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■■■飛田鯛よし百番 消えた遊郭・赤線の跡をゆく39

今年は何か特別に寒いような気がする。
大阪の寒さが今年は特別堪えるような気がするBJのぶです。
これやったら、マイナス10℃とか20℃のとこに住むことになったらどないなるんやろか!?
これやったら「即死」やな(笑

まあそんな下らん挨拶はさておいて、

永らくの間お待たせしました!?

しばらく飛田遊郭の歴史でジャブをかましとったけど、ついに「本題」の飛田百番編に入ります。
ホンマははよ書こう書こうと思ったんやけど、そう思えば思うほど生来の天邪鬼癖が尾を出してくるんか、それとも単なるズボラなんか、後回しにして数ヶ月、やっと「本丸」に突入でやんす。

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■■■飛田遊郭&山王番外編 消えた遊郭・赤線の跡をゆく38

前回、2回に分けて「飛田遊郭編」を書いたんやけど、
あれからあれこれ調べとったら、ブログに書いてみよーかなー、って言う材料がまた見つかりました。
ホンマは既に書いとるブログにこっそり補足しとこかなーと思ったんやけど、
それももったいないなーと思って別に書くことにしました。
まあ、今回は身の毛もよだつ統計書の数字とかは出てこえへんさかい、気軽な気持ちで読んでくんなはれ(笑

先日、ちょっと天王寺に行く用事があった上に、予定がすんなり終わって時間が余ったさかい、
「飛田&あいりん地区の再再再再再調査(?)」
にでも行ってくることにしました。
今度は、図書館でGETした昭和35年の、飛田新地も含む西成区住宅地図を片手に。

12012901

天王寺に出来た「キューズモール」っちゅーショッピングモールです。
いやー、かなりデカい!いつの間に天王寺にこんなん出来てたんやろ?
天王寺は素通りとは言え毎日通勤で通っとるのに、最近までこんなん出来てたとは知りませんでしたわ。
「大阪府民」と名がついたとんだ田舎者のBJのぶです(笑

で、最近出来たらしいキューズモールの裏手には、再開発されたマンション群が立ち並んどります。
キューズモールの喧騒はどこへやら、マンション群はシーンと静まり返って人もあまり見受けられません。
というか、公園に人一人遊んでへんし。
なんぼ平日の昼間言うても、子供とそれを囲むママくらいはおるんちゃう?と思うんやけど、
静かというよりゴーストタウンやなこれじゃ(汗

とブツブツリアルツイッターしながらマンション群の奥に分け入ると、
そこには一段土地の高さが下がった区画があります。
そこが飛田新地。
前にも書いたけど、飛田新地の東側は「上町断層」という断層の関係で数メートル以上盛り上がっとります。
どれくらい下がってるか言うたら、マンションの地面部分が飛田新地の中の建物の「2階」部分になっとるくらいで、
それが新地東側の「嘆きの壁」になっとります。
つまり、そこは「天然の壁」になっとるわけで、そこが大阪市西成区と阿倍野区との境目ともなっとります。
というか、天王寺駅から飛田新地まで、歩いても全然行ける距離やん。

せやさかい、「嘆きの壁」の上から飛田新地を見たら、視線が2階になるわけで、

12012902

こんな写真やったら「嘆きの壁」の上から余裕で撮れたりします。
さすがに「安全圏」から撮ってるさかい、特に注意されたりはしません、通りすがりからは「何やってんねん?」と変な目で見られるけどそこは気にしたもん負け(笑
せやけど、思いっきり壁の上から覗いてカメラ向けたら怒られるかもしれへんさかい、そこは自己責任でお願いしまーす。

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