のぶログ (THE WEBLOG WITH OSAKA DIALECT)

大阪人の、大阪人による、大阪人のため・・・のブログ!?

ブログランキング

ブログランキングに参加しています。 面白い!と思ったらクリックしてあげて下さいm(_ _)m



にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ

にほんブログ村 歴史ブログ 近代化遺産へ

よろしく!








blogram投票ボタン






ブログ内検索

プロフィール

BEのぶ

  • Author:BEのぶ
  • 自称「ブログエッセイスト」ことBEのぶです。
    昭和史をライフワークにしていますが、平成ももうすぐ30年経ち、昭和が遠い過去になりつつあります。
    昭和も遺産・遺物を探れば立派な「考古学」となります。題して「昭和考古学」。ジャンルは遊郭・赤線跡から鉄道、そしてすっかり忘れ去られた歴史を掘る「昭和の考古学者」として、昭和の名残りを通して考察する旅を続けています。

    基本は標準語で書きますが、エッセイは大阪弁で書いていきます。

質問・お問い合わせはこちら

名前:
メール:
件名:
本文:

人気ブログランキング

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

■■■ブログ移転のお知らせ

ブログを訪問し、読んでいただいてありがとうございます。

しばらくFC2でブログを書き続けてきましたが、ブログをはてなブログに移転し今はそちらで書いています。

移転先

ブログエッセイと昭和考古学の旅へ

(はてなブログ)

ここの記事は随時移転していきます。
「消えた遊郭・赤線跡をゆく」は移転の上文章とデータを全面改訂した上で、はてなの方で再公開します。
再公開次第、FC2での記事は消していきます。

まあ、マニュアルで引っ越し作業をするので、移転にはしばらく時間がかかると思います。
期間は・・・おそらく1年くらいかけて(笑
なので、移転はしてもブログを消すことはしばらくないのでご安心を。

今までありがとう、FC2。拙い記事を楽しんでくれた読者のみなさん、ありがとう。

そして、はてなブログの方でまたお会いしましょう!!



スポンサーサイト

■■■228事件と台湾の限界

ちょっと古い記事やけど、台湾の新聞から。

歷史課本無228元兇 教師怒吼要求轉型正義
(台湾 自由時報より)


タイトルを意訳すると、
「歴史教科書に228事件加害者の記載なし
高校教師・歴史学者が怒りの抗議」
となります。
さて台湾の教師たちは、「228事件」になんでこれだけ怒っとるんでしょうか、

東日本大震災の時、台湾の方々が送ってくれはったたくさんの義援金や気持ちから、台湾に目を向ける日本人が多くなっています。昨年の日本人の海外旅行先トップがダントツ台湾だったことも、その現れの一つと見ていいでしょう。日本と台湾の「相思相愛」の時期は着実に近づいとります。

せやけど、台湾の歴史になると案外知らない人って多いんちゃいますか?
「日本の植民地だった時代があって・・・」くらいしかイメージがないんちゃうかなと。「植民地」というのも、個人的にはちょっとなんかちゃうんやけどな・・・と思うビミョーなワードやけど(台湾じゃ「日本時代」「日治時代」と書きます)、知識がないと「そんなもん」でしょう。
この228事件は、戦後の台湾に起こった最大の悲劇であり、そして謎多き事件でもあり、そして立場が変われば台湾史に歴然と存在する「黒歴史」でもあります。その歴史を大雑把に見ていきましょう。

テーマ:歴史
ジャンル:学問・文化・芸術

■■■【昭和考古学】姫路 高度経済成長の置き土産

姫路といえば、世界遺産にもなっている姫路城です。日本の有名な観光地として、世界的でも知られています。

しかし、姫路駅と姫路城を結ぶ大通りの喧騒から離れたところに、高度経済成長の置き土産と言える遺物が残っています。



姫路には、かつてモノレールが通っていました。地元の人には「姫路(市営)モノレール」と言われていましたが、正式名称は「姫路市交通局モノレール線」というお硬い名前でした。以後は、書くのが面倒くさいので「姫路モノレール」と書くことにします。

昭和41年(1966)に姫路駅前から、市の南にある手柄山まで開通したのですが、客足が伸びずに昭和49年(1974)に休止、その5年後に正式に廃止になりました。
姫路1

開業後のモノレールの姫路駅前を写した、貴重な写真です。今の姫路駅と比べると、なんだか信じられないかもしれませんが、本当に姫路駅前です。



開業当時の航空写真を探してみると、モノレールが走っていることがはっきりわかります。

20170312-2.jpg

1967年(昭和42)の姫路駅前の航空写真を適当に切り抜いたものですが写真上の赤で◯をした部分が、モノレールの姫路駅になります。当時は新幹線はまだ未開業どころか、写真を見ると駅の建設すら始まっていないようで、影も形もありません。

高解像度写真ながら駅前を拡大しようとすると、どうしても画面が粗くなってモノレール駅の輪郭をはっきりつかむことができなかったですが、今の地図に落とし込むと、

20170312-3.jpg

今の「姫路キャスパホール」と姫路駅の間にあったことは確定ですね。明治時代とか戦前の遺物探しに比べたら、落とし込みは非常に楽勝でした(笑



なんで姫路にモノレールが作られたかというと。

当時の姫路市長の石見元秀氏がアメリカ視察の時に、ディズニーランドのモノレールに感銘を受けたらしく、

「我が市にも同じようなモノレールを!」

と作ってしまったことが始まりでした。

開業した昭和41年と言えば、高度経済成長で日本が右肩上がりの経済成長と遂げ、怖いもの知らずの時代でもありました。20年前風に言えば「無敵モード」、今風に言えば「日本無双」という感じでしょうか。
どれだけ「日本無双」だったかという、客観的なデータをどうぞ。

20170402-1.jpg

1958年(昭和33年)をスタートとする「高度経済成長時代」には、経済成長率がグイグイ伸びていっていることがわかります。
1964(昭和39)年の東京オリンピックの後、「40年不況」と言われる、今風に言うなら「オリンピックロス」のような不況が来て数値がドンと下がっていますが、それでも7%くらい。
そのロス不況も何のその、その後もグイグイ上がってきています。
あの1980年代後半のバブルの時でも、1990年までの平均経済成長率は約5.3%だったわけで、高度経済成長時代がいかにイケイケの時代だったか、数字を見るだけでわかります。

しかし、高度経済成長時代はマイカーの数も劇的に増え、交通渋滞や排気ガスによる大気汚染も深刻な社会問題になっていた時代でもありました。

その問題解決の一つとして作られたのがモノレールでした。

1963年に国に建設の申請を出しますが、その時の計画は姫路駅前~手柄山だけではなく、

20170313-1.jpg

赤線が実際に開業した区間。青線が国に出した計画路線)

姫路市を南北に貫く、全長8キロの大規模な計画でした。

当時から姫路市民からの反対もあり、自治省の偉いさんも、

「こんなの採算取れるのか?」

とかなり怪しんでいたそうですが、翌年の東京オリンピックの昭和39年(1964)に建設許可が出ました。

しかし、市長はこれで満足せず、市内の環状線はもちろん、なんと鳥取や舞鶴まで伸ばすぞ!と意気込んでいたそうです。

鳥取とか舞鶴まで伸ばしてどないすんねん?全部各駅停車か?それってどんな罰ゲームやねん?

と、今冷静に考えたらなんとも非現実的極まりないのですが、それだけ当時の日本全体がイケイケドンドンだったわけで、市長が妄想癖に囚われていたわけじゃありません。

ちなみに、今の姫路市長はこの市長の三男の方です。テレビで現市長が言ってましたが、さすがにオヤジのモノレール鳥取・舞鶴延伸計画には、

「無理やろ!」

と苦笑いしていたそうです。



しかし、市長のワクテカな妄想・・・じゃなかった、構想とは裏腹に、このモノレールは失敗に終わりました。

その原因は、山陽電鉄や市バスどころかタクシーより高かった料金設定です。
モノレールの料金は姫路~手柄山が100円。山陽電鉄の姫路~手柄間は20円。タクシー初乗りが30円の時の100円です。いくらなんでも高すぎで、マーケティングを全くやってない武士の商法、ならぬ役所の商法の典型です。そりゃあかんわ。
でも、やっぱり採算が取れないようなところに路線を敷いたのがいちばんの原因でしょう。何せ高度経済成長の勢いがあったので、

「とりあえず作ってしまえ!」

というノリだったんでしょう。ある意味とんだ税金の無駄遣い、姫路市の黒歴史に終わった乗り物、それがモノレールでした。



廃止になった後は、地元の人以外からは忘れられつつありました。実働8年なのでさもありなん。しかし、廃止になっても撤去費用はかかる。それをケチった姫路市は跡と完全放置プレイとなりました。

しかし、行政が放置プレイをかましてくれたおかげで、モノレールの遺物は一部を除いてそのまま残ったため、廃線跡専門の鉄道マニアから熱い視線を受けていました。保存状態はさておき、けっこうな数が残っているので、ある社会学者をして「現代遺跡」と言わしめたほどでした。

■■■BJのぶの禁煙ラプソディー 前編

まためちゃ久しぶりにブログになってまいました。
いったん筆・・・やなくてキーボードを置くと、再び書き出すのにはかなりの時間と勇気が必要になるみたいです。自分で自分に意味不明なプレッシャーもかけとったせいか、ますます自分のブログから遠ざかるばかり。
まあ、一言で言うたら心に余裕がなかったんですやろな(笑
ずっと書いていけへんかって急に書き出しても、胃を切った人にいきなりステーキ食べさせるようなもんになるさかい、大阪弁で言う「ぼちぼち」で行こうと思います。
そうやん、一気に書こうとするからしんどいんやん、ちゅーことに気づきました。一つのことを一気に書こうとしたら誰でもしんどい。しんどいと書く気を失う。それやったら短い文でいくつかに分けたらええんやん!と。気づくのが遅いって?(笑

で、ブログをいきなり再開していきなりなんですけど、ただいま禁煙しとります。いちおう禁煙歴は2ヶ月、6月初めから開始したけど、やってる本人としてはけっこう長かった。
それがどないした?それで?と言われたらそれまでなんやけど、そんな冷たい反応せんといて下さい(笑
禁煙・・・それはタバコ吸ってへん人にはもちろん未知の世界やけど、これがかなり辛いんです。正直、禁煙が辛くなかったらとっくにタバコとなんておさらばしとります。
縁を切りたくてもどうしても切れず、そのままずるずると数十年・・・いやそこまで行ってないか、とにかく人生の半分くらいは酸いも甘いもタバコと共に過ごしておりました。
せやけど、突然のお別れがやってきました。というても、縁を切ったんはあくまで自分からです。
理由は簡単、金です。 マネーの金です。
ご存知の通り、タバコは税金がどうたらの理由でどんどん値上がり、10年前は200円ちょっとやったのが今や500円に迫る勢いです。スモーカーは平均ペースで一日一箱吸うさかい、だいたい400円から450円使います。
400円ちょっとやったらそれほどと思わんかっても、それが1ヶ月、1年ペースになるとけっこうな金額になります。俺の場合、現在430円/箱のタバコを1日1箱ペース、休みの日やストレスが溜まった日は2~3箱いくこともあるさかい、1年スパンでのタバコ代を計算してみたら・・・

¥165,000

くらいと出ました。
拾七萬圓とくると、思わず手と思考回路がストップします。
そして、タバコを吸う方ならおわかりでしょうが、タバコにはたいてい「コーヒー」なるものもついてきます。タバコとコーヒー、この組み合わせはある意味最強、このコラボアタックを味わうとタバコがやめられへん状態になります。せやけどこのコラボ、胃にとっちゃ「最凶」で、胃潰瘍の原因にもなるそーやさかい、気をつけて下さい。 ・・・って書いても頭じゃ「最凶」ってわかっとるんです。身体に悪いなんて周りからしょっちゅう言われるけど、そんなもん言われんでもわかってるんですって~。せやけどやめられない・・・周りから当たり前のこと言われたらイライラしてまた吸ってまう。これがタバコの恐ろしいとこです。

せやさかい、上に書いた¥165,000にタバコ吸うための喫茶店代とかを入れたら、少なく見積もってプラス¥10,000くらいかなーと。
つまり、1年間のタバコに使う「総費用」は¥175,000くらいになるっちゅーことやけど、さて、この金額をまるまる貯金したとして、一体何が買えますか?海外旅行くらいは余裕でしょ。2年間やったら、中古の軽自動車買えるんちゃう?
そう考えたら、タバコを吸ってるんがホンマにアホらしくなりました。お金を燃やしてるだけやんと。
これが禁煙しようと決意した理由その1です。

そしてもう一つの理由は、やっぱり健康面です。
ブログで何回か書いた記憶があるけど、DNA的に高血圧を母親の家系から引き継いでしもたみたいです。おまけにハゲと白髪の遺伝子も・・・(汗)兄弟でこの3コンボを持ってるんは俺だけ。オヤジは70超えても全くハゲ+白髪なし、オヤジの血が濃い2つ上の兄貴は髪の毛フサフサ+白髪なし、高血圧なにそれ美味しいの?やのに、俺はその逆。顔はヘタな二卵性双生児より似てると言われるくらいそっくりらしいけど、額から上がつまり真逆。兄貴を見る度に遺伝子の怖さをつくづく感じます。
で、その血圧がついに160超え、献血に行った時も「ヤバイですねこれ」と注意を食らったくらいなので、改善と運動を始めました。せやけど思ったより下がらず、やっぱ禁煙かな?と思い始めたところに!
実は偏頭痛持ちでもあるんやけど、それが1年に1回か2回ほど悪化して、病院に駆け込むことがあります。ある日、またもや偏頭痛が悪化しました。今回はちと白黒つけようかと、レントゲンやCTスキャンも撮って原因を調べてみたんやけど、それらしい原因はありませんでした。
せやけど、CTスキャン見た医者いわく、
「脳は至ってきれいですね~♪全く異常な~~し」
タバコ吸ってるさかい、血管にダメージがきたりして脳にも影響きとるやろと勝手に思っとったさかい、「脳はきれい」発言には少し驚きました。そして、思わず「ホンマですか?」と聞いてまいました(笑
医師は笑っていわく。
「わしの専門脳外科やで。いちばん得意分野の人が見てるから間違いなし!」
あまりに胸を張って言うてくれるさかい、こっちまで「よ~っしゃ大丈夫!」と自信持ってきましたわ。

せやけど、この時ふと頭のなかをよぎったんは、

「これで心置きなくタバコ吸える!」

やなくて、

「そうや、『脳がきれい』なうちに禁煙しよ!」

それを医者に言うたら、血圧高いから、タバコが(偏頭痛の)原因という可能性あるで。禁煙するんやったら禁煙外来紹介するわ。とのこと。

せやけど、俺は既に決意しとりました。

「禁煙するんやったら、まずは自分の意思だけでやってみる。薬は最後の手段にしよう」

禁煙は今は保険が適用されることは周知の通りやけど、今は「禁煙できる飲み薬」があったりします。そのメカイズムは飲んだことないさかいわからんけど、けっこう効くらしいです。薬で禁煙したらのちに書く禁断症状が楽になるそうやけど、俺は男や、そんなチンケなもんは使わん。まずは気合と根性だけでやってみることにしました。

そして、記念すべき平成27年6月1日、0:00をもってタバコをすべて吸い終わり、ライターなどの喫煙器具はすべて捨て、本格禁煙にチャレンジしました。でも、5月31日の23:58まで吸ってたんやけどね(笑
それはさておき、6月からの「新しい自分、デビュー」は果たして成功するのか?いや、必ず成功する!開始の時には不安は全くありませんでした。必ずやり遂げるというプラス思考だけが自分を支配しとりました。

・・・と、まずは前編。今回はリハビリ代わりやさかい、後半は早めに書きますさかい、少し待ってて下さいねm(_ _)m

■■■海軍提督の語学勉強法 前編

このブログは2008年5月に書いたもんやけど、文章を大幅に編集、加筆し、更に「前編」「後編」に分けて「再age」したものです。



その昔の日本海軍の提督に、井上成美という人がおりました。
井上成美って聞いても、軍艦や海戦しか興味ない人は「誰その人?」って聞く人がほとんどやと思います。
「ああ、あの人ね」ときたらかなりの通、褒めてあげましょう(笑
「ああ、最後の海軍大将でしょ?」
って思った方は俺と話が合います。って合いたくない?(笑

井上成美ちゅー人物は剛直にして自分が正しいと思ったことは、誰が何と言おうと筋を通す、反対する者はコテンパンに論破してぐうの音も言わせず、「カミソリ井上」と言われて意見を反する人からは畏怖されとった人物です。

井上成美
これが当人の写真やけど、顔見ただけでもかなり頭が切れそうやなーって感じがします。
井上成美の伝記を書き実際に会ったことがある作家の阿川弘之さんは、井上の経歴はちゃんと評価しつつも、
「井上さんとは一緒に酒を飲みたくない」
という迷言(?)を残しとります。
まあ確かに雰囲気的にゃ、
「ちょっと一緒に飲みまへんか?」
って気軽には言えそうにないわ(笑

で、当時の海軍では「リベラル」な立場やったけど、
「リベラルはリベラルでも、前に『ラジカル』(過激派)がつきますけどね」
と自分で言うとるくらい、言うことやること当時としてはかなり「過激」でした。過激というより、他の人よりかなり先が読めた人、と言うた方がええかもしれません。
どれくらい「過激」かというと。
昭和初期の頃、まだまだ戦艦同士の殴り合い、つまり大艦巨砲主義が世界中で主流やった頃、航空機という新しい兵器に注目した一人やったりします。
そんなん同じ考えやったら、かの説明不要な山本五十六、今はアメリカの専売特許になっとる空母機動艦隊という独創的な思想を、世界で初めて編み出した小澤治三郎、そして最近出てきた資料により、彼ら二人より航空機の将来性を見越し、連合艦隊に単身殴りこんで参謀を捕まえて航空機の優位性を説いた大西瀧治郎の方が有名ですわな。
まあ、井上はここまでは彼らと同じなんやけど、そこは「カミソリ井上」、主張はより過激かつ斜め上。彼の思想は平たく言うと、
「海軍自体をなくしてしまえ」
ってことでした(笑 
昭和15年10月、真珠湾攻撃の約1年前に井上は航空本部長に就任します。航空本部とは海軍の航空の総元締めで、井上はそこのトップやったちゅーことです。山本五十六も部長の経験があって、そこで兵器としての航空機のレベルアップに努めました。
せやけど、井上の先を進めすぎた考えに部下が全くついていかれへんかって、
「いったい、あなたは海軍をどうしたいんですか!?」
と喰い付きました。
わからんか?じゃあ答えてやろう、と前置きして井上が答えたのは一言。
「海軍の空軍化だよ」

他に、
「将来の連合艦隊は雲の上」
「『軍艦マーチ』なんかもう古い。今のうちに『航空マーチ』を作っておけ」
という発言もあるさかい、本気で「海軍の空軍化」を考えとったんでしょう。さすがにここまで組織をぶっ壊すくらいスケールが大きいと、理解できる人はほとんどおらんかったでしょう。
そして、空母機動艦隊を編み出した小澤治三郎とは海軍兵学校の同期(卒業時成績は井上2番、小澤が45番)やったりするさかい、小澤とは航空機という面では思想が一致しとりました。
せやけど、井上と小澤が直に話し合ったちゅー確定な記録は、昭和20年の戦艦『大和』の沖縄特攻の時、軍令部ナンバー2の次長として命令を出した小澤に対して、海軍省ナンバー2の次官やった井上が激怒、
「特攻で死んでいく『大和』の若い者たちが可哀想だとは思わんのか!」
と詰め寄ったということだけです。目撃者によると井上が小澤の胸ぐらをつかんだとも言われとるけど、両人ともこれに関しては一切ノーコメントのまま墓場まで持って行ってしもたさかい、実際はわかりません。
井上と小澤の仲はどうやったんやろ?と個人的には気になります。せやけど、数ある二人の伝記の中のどこにも二人が絡むシーンがないさかい、たぶん仲が良かったってことはなかったんかもしれません。
また、小澤の前の軍令部次長は伊藤整一という、戦艦『大和』特攻のトップの司令長官やった人でした。彼は残念ながら航空機の時代になってもいわゆる「大艦巨砲主義」に囚われた一人で、終戦前になっても艦隊決戦を目指して戦艦を中心
に修理しようとしました。
しかし、それで井上は軍令部に殴りこみ、
「戦艦の時代は終わったことは、あんたら(軍令部)の作戦であんたら自身が証明したではないか。航空機によって戦艦や巡洋艦がどんどん沈んでいってるじゃないか。あんたらはそれでもまだ目が覚めないか!」
と伊藤に詰め寄ります。伊藤はほとんど言い返せなかったそうです。ちなみに、伊藤は井上よりはるかに先輩なのですが、先輩だろうがなんだろうが、間違ってることは間違ってるとはっきり言う。これが井上の真骨頂でした。
それでも、呉鎮守府司令長官の某提督は戦艦『大和』を優先的に入渠させようとします。あのー、うちの長官頭が古臭いんですけどどうにかなりませんか?と元部下からの報告を聞いた井上次官、
「戦艦なんて後回し。それより対空装備が充実した駆逐艦を優先的に修理せよ。それより長官の頭の古さを修理せよ」
と長官に対して「警告」を出します。これは越権行為に見えるけど、鎮守府は海軍省の管理なので鎮守府長官といえども次官の指示に従わないといけません、たとえ次官が自分より「後輩」であっても。

井上の名前が知れ渡るのは、日本が戦争に向かいつつある時期のこと。
陸軍やマスコミに煽られた右翼や国民が戦争まっしぐらに進んで行く中で、海軍省トップ3の軍務局長として、海軍大臣の米内光政、海軍次官の山本五十六と共に日独伊三国同盟に猛反対しました。
米内・山本・そして井上は記者から『海軍三羽烏』と呼ばれ、今でも昭和海軍最強トリオとして語り継がれとります。せやけど、トップで三国同盟を食い止めたんは他にも軍令部次長の古賀峯一もおって『三羽烏』とタッグを組んでたさかい、『四羽烏』って表現した方が実際は正解です。

「日独伊三国同盟締結→アメリカ・イギリスにケンカ売る→戦争」
ちゅーのが主な反対理由わけなんやけど、井上が何で猛反対したんか。
どこをどう考えてもアメリカと戦争しても勝てるわけあらへんやん!
ちゅーのもあるけど、彼はドイツ・イタリア(+スイス、パリ)に駐在経験があって、ドイツとイタリアの国民性っちゅーのを知り尽くして、信用に値しないと結論、
「こんな奴らと手を握っても損なだけやん」
っちゅー観点からも徹底的に反対しとりました。

その例が、ヒトラーが書いた「我が闘争(マイン・ガンプ)」でした。
井上は「我が闘争」を、日本人を差別している表現がある、と読むのを禁止させました。
「そんなもんどこにも書いてないじゃないか」
といぶかしんだ海軍士官に、同僚が
「貴様バカだな。日本語訳には書いてない。井上さんはドイツ語の原書を読んでるんだよ
と返したという話が残っとります。
事実、ドイツ語の原書にゃ、
「日本人は想像力に乏しいバカな奴らだが、手先が器用なのでドイツ人の小間使いにはピッタシだ」
と書かれとるんやけど、当時の日本語訳にゃご丁寧に削除されとりました。
今の『わが闘争』の日本語訳版には、そこはちゃんと訳されて掲載されとるんやろか?

米内・山本・井上のコンビは三国同盟締結阻止ばかりがクローズアップされるけど、別の面でもこのコンビの伝説ぶりが伺えます。

ある課長が自身で説明に行かねばならぬような重要書類を、まず井上局長の部屋に持って行き、説明する。井上局長は納得し、頷き、判を押す。
次に山本次官に持ち上げる。次官は「局長見たか」と聞く。「ハイ」と答えると黙って判を押す。
さらに米内大臣のところに持参する。すると、「山本次官見たか」と聞く。「ハイ」と答えると、すぐに判を押す。五分とかからない。
いやもう、ピッタリ呼吸が合って、寸分の隙もない。こんな鮮やかなチームワークが海軍にあったのかと、みな舌を巻く。手抜きではなく信頼なのだ。そうでなければ、こんなこと、出来るわけがない。

吉田俊雄(元海軍中佐)



これは、ふつうの大臣・次官なら決裁に1日2日、いや1週間かかるようなことを「五分」で済ませてたそうです。そのせいか、それまでの軍務局長なら山積みになってた未決書類の山が、井上軍務局長になると定時にはすべてなくなっていたそうです。おそらく上のエピソードは、米内・山本は性格も考えたら100%めくら判やろうけど、軍務局長の井上がトップ決裁の関門になってOK出せば大丈夫、という信頼関係があったからこそ出来たことやろうと思います。

彼らは結果的には三国同盟を流産させることに成功したものの、一枚岩の団結を誇っとった海軍はこれ以前にあったロンドン軍縮条約調印の「統帥権干犯問題」、そして軍令部による「内部クーデター」によって、先が読める良識的提督はほとんど海軍を追放され、中は空中分解状態でした。
その良識派の中に堀悌吉という、山本五十六と同期の人がおったんやけど、「堀の頭脳は神様が創りたもうた」と言われたくらい優秀で、将来の海軍を背負う人材として将来が保証されとりました。そして、山本五十六も堀の頭脳には敬服して親友の間柄でした。
せやけど、その優秀さと良識的な戦略思想が逆に仇となり、「米英強硬派」に睨まれてクビになってしまいます。
その知らせを軍縮会議の予備交渉でロンドンに出張中やった山本五十六は、
「巡洋艦と堀の頭脳、どっちが海軍にとって大切なのかわかってるのか!」
と机を叩いて激怒したと言われています。
そして、こんなバカバカしい海軍なんて辞めてやる!と自分も辞めて博打打ちになろうとしたのですが、
「貴様までいなくなったらどうなるんだ。貴様は残って海軍を立て直せ」
と堀がたしなめて山本は海軍に残ることとなります。
その中でも、米内・山本・井上ライン+古賀は良識派の最後の生き残りでした。
せやけど、米英と戦争じゃ!という勢力が既に海軍省・軍令部の主流を占めとって、「海軍三羽烏」みたいな戦争回避派の方が少数派でした。
そして、このラインの3人が全員海軍省からおらんよーになってから、結局海軍も「陸軍化」してしもて結果は学校で習った歴史のとーりです。
井上も、のちに、

「海軍が陸軍と手を組んで良くなった例はない。海軍は海軍の主張を貫くべきだ。
二・二六事件を起こした陸軍なんかと手を組むのは、強盗と手を組むようなものだ。
陸軍を止めるものは海軍しかない。その海軍が陸軍と歩調を合わせたら、止めるものがない。
国を救うなら、内閣なんて何回でも倒れたらいいじゃないか」



と、かなり過激な発言を戦争前に言っとります。
実際、「海軍三羽烏」があまりに頑固に反対するさかい、陸軍がしびれを切らして
「海軍なんてクーデターでやっちまえ!」
って計画が実際にあったそーです。
これは当時の平沼騏一郎内閣が独ソ不可侵条約で崩壊、三国同盟の話も一旦おじゃんになったさかい計画倒れにはなりました。せやけど、それを独自の情報網で探知した井上は、
「おう、陸軍と戦争や!米英と戦争して国を滅ぼすよりは全然マシ」
と、大臣と次官の許可をもらって海軍内に緊急非常事態宣言を出し海軍省+軍令部を一時要塞化したくらい、陸海軍は一線触発でした。
これは数年前に公開された映画の『山本五十六』のオープニングに出てくるシーンでもあります。ちなみに井上は柳葉敏郎が演じてましたね。

こないな風に、考えに考えた結果の自分の意見は絶対に曲げへん性格のせいか敵も多く、頑固に対米戦争に反対しとった井上は、真珠湾攻撃の前に南方の第四艦隊司令長官に就任します。
海軍軍人はやった海に出てなんぼやさかい、「艦隊の司令長官」ったら聞こえはいいものの、事実上の東京(海軍省)からの追放、つまり栄転って名前の左遷を意味しとって、井上に理解がある人は、
「井上さん、(中央から)追い出されましたね」
と同情する人もおりました。
そして第四艦隊司令長官として真珠湾攻撃の報告を聞くことになります。
その時、攻撃成功の第一報を報告に来た参謀が最後に、
「おめでとうございます!」
と付け加えたら井上は激おこ、
「何がおめでたいんだバカヤロー!」
参謀はこの怒りが意味不明やったそうですが、焼け野原になった東京を見てやっと井上が発した「バカヤロー!」の意味を悟ったそうです。
それから数年後、井上が「伝説」として海軍史はもちろん、今の自衛隊の教育にもその名を残す「その時」がやってきます。

・・・というわけで、前編はここで終わり。
「『海軍提督の語学勉強法』なんてどこにも書いてへんやん」
とせっかく読んでくれた読者を裏切ることになるけど、ちゃんと後編で書くさかいちょっと待ってね。
そして、これくらいの分量やと読む量としたらちょうどええくらいやと思うさかい、読むにも疲れへんと思います(笑

テーマ:日記
ジャンル:日記

■■■消えた遊廓・赤線跡をゆく? 大連編

台風11号が近づいて、週末は家から出るに出られずなBJのぶです。
今は雨は止んだものの、風はけっこう強くて自転車に乗っとったら突然の突風でグラっと倒れそうになります。
せやけど土曜日と日曜の午前はものすごい大雨、家から数百メートルのコンビニへ行くのにも、ある意味命がけです。
俺が住んでる地域のすぐ近くの地域は、土砂崩れの可能性があると市から避難勧告が出てたんやけど(俺が住んでるとこはギリギリ出てません)、確かに近くの川は氾濫しそうなくらいの大量の水が流れとります。
せやけど、台風はある日突然大阪上空に発生したわけちゃうさかい、週末の「ひきこもり」生活に備えて食料を買い込んできとります。おかげさまで「ひきこもり」生活をエンジョイしとります(笑

で、ふと資料収集も兼ねて、久しぶりに国会図書館のデジタルライブラリにアクセスしてみました。
そして何の目的もなく、
「おもろい資料ないかな~?」
と超テキトーに検索して超テキトーに資料を見てたら、昔の大連の写真集みたいなものが出てきました。
大連?日本にそんな街あったっけ?と思う人は少ないと思うけど、そりゃそうや、大連は海外にある街なんやから。
今回の「消えた遊廓・赤線跡をゆく」は突然海を超え、国をも超えてしまいます。

2014081001

大連は中国北部にある、遼東半島というところの端っこにある都市です。
中国の都市の中でも、都市規模は北京や上海とかには及ばないものの、上に書いたよーに日本の租借地やった関係で日本人も多く住んでいました。「大連」ときたらどこか懐かしい、ノスタルジーを感じる人もおるはず。よく考えたら、今でも80歳以上の人やったら大連で生まれ育った人もおるはずやさかい、記憶の中ではまだ「現役」な街でもあります。
せやさかい、日本人の中やと北京・上海などの中国都市の横綱と、十分がっぷり四つに組める知名度であります。
大連は元々ロシア人が作った街で、「ダーリヌィー」(遠い)っちゅー形容詞から来たのが由来です。どこを基準に「遠い」ねん!?というと、当時のロシア帝国の首都、ペトログラード(今のサンクト・ペテルブルク)からなんは言うまでもありません。まあそりゃ遠いけど、名前の付け方がかなり安直すぎる(笑
大連ってどこ?何それおいしいの?と思う人でも、「旅順」言うたらピンとくる人も多いはず。日露戦争の激戦地である203高地がある旅順は大連の隣にある街で、大連とは双子のような街であります。中華人民共和国が出来た時は、この2つがくっついで「旅大市」が出来たんやけど、中国人的には旅順より大連の方が格式があるんか、大連が旅順を呑み込む形で合併し、現在も行政区分的には旅順は大連の一部になっとります。

そんな街を日露戦争のポーツマス条約により、租借権をロシアからGETした日本が本格的に都市開発を開始しました。それと同時に名前も「ダーリヌィー」を漢字に当てはめた「大連」にし、それが現在に至っとるちゅー感じです。
余談やけど、都市の名前で同じよーな変遷で定着しとるところに、台湾の高雄があります。
高雄は元々は原住民の言葉で「ターカオー」か「ダーガオ」と呼ばれとって、それを漢族が「打狗」(ダーゴウ)と漢字にはめとりました。
せやけどこの「打狗」、中国語がわかる人やったらわかるよーに、漢字を直訳したら「犬をぶちのめす」って意味になるんですわ。それを、
「なんじゃそんなお下品な名前は!」
とでも思った日本人が、より雅で街の名前にふさわしい京都の高雄を持ってきて、「高雄」になり現在に至っとります。せやけど、中華民国が台湾にやって来た後も漢字が残って発音が北京語で「カオシオン」(台湾語じゃ「コーヒィオン」ね)になったせいで、元々あった「ターカオ」が消えてしもたという、予想外の(?)展開になってしもたというオチです。ちなみに、日本統治時代を知ってて、もちろん日本語ベラベラの台湾人のおじいちゃんに、
「日本時代は『高雄』ってどう発音しとったの?」
と聞いてみると、
「いや、そのまま『たかお』だよ」
とのことでした。

それはさておき、大連はロシア人が作った土台をベースに日本人によって本格的に開発され、近代的で合理的な町並みが田舎の寒村に出来上がりました。
大連にゃ俺も何回か行ったことがあるけど、今はだいぶ取り壊されたものの、昔は日本時代そのままの町並みがタイムカプセルのように残っとりました。正直、外国いうより「ただいま」という感覚の方が強くて、少なくても空気が全然中国やなかったような感じが残ってました。はじめて大連に行った20年前は、日本統治時代を知ってる人もけっこうおって、日本語で話しかけてきた人も多かったです。住んでるんは今でこそ中国人やけど、日本語で「すんませーん!」と叫んだら、ひょっこり着物を来たご婦人が現れてきそうな空気やったことを、今でも覚えとります。
昔の大連には日本人が数万人単位で住んどりました。大連には日本人街と、中国人街である郊外の「小崗子」に分かれとったけど、厳密に区別されたわけでもなく、実態は雑居みたいな感じでした。
せやさかい、昔からイメージだけやないリアルな日本人と接してる中国人(他満州族等の民族)が多く、戦争中も抗日団体がなんぼ反日を唱えても煽っても、ドラクエ風に書くと「しかしなにもおこらなかった」そうです。また、記憶に新しい近年の「反日暴動」も、大連だけは全く起こらんかった事実もあります。

日本人が住んでたところは、中国でもやっぱし俺に懐かしさを感じさせる空気は残っとるみたいです。もうかなり前になるけど上海に住んでた時に、今の市内北部にあった旧日本人街を訪ね歩いた時も、大連と同じニオイがしました。
そのブログはサイト自体消えてしもたけど、上海の日本人の跡を訪ねる旅はアーカイブとして移転してあるさかい、ヒマやったら読んでみて下さいな。「消えた遊廓・赤線跡をゆく」の原点みたいなもんやさかい。

上海租界散歩 日本人の足跡を訪ねて 第一章
上海租界散歩 日本人の足跡を訪ねて 第ニ章
上海租界散歩 日本人の足跡を訪ねて 第三章
上海租界散歩 日本人の足跡を訪ねて 第四章
上海租界散歩 日本人の足跡を訪ねて 第五章
上海租界散歩 日本人の足跡を訪ねて 第六章

上のブログを書いたんはブログなるツールを知った初年に書いたもんやさかい、ブログを書き始めてもう今年で10年やったんか、と新しい発見がありました。
ブロガーとしての節目の10周年記念やのに、ブログサボってる場合やあらへんな(笑

■■■なぜ台湾人は親日なのか?

今日まで華の3連休やったけど、どこにも出かけてへんBJのぶです。
だって、3連休は雨って聞いてたさかい、こりゃ「晴耕雨読」やなと思ってひきこもりの予定やったからです(笑
で、一泊だけやけどホテルに引きこもって「お勉強」をしとったんやけど、それは何か。
中国語と中国でメシ食ってる人間でも、現代中国史でわけがわからん部分があります。
それが、「文化大革命」という中国の国内大混乱イベント。これは中華人民共和国の一大汚点でもあるし、ほとんど内戦状態で国内メチャクチャ、何もしてへんのに意味不明な罪を突きつけられて辛酸を嘗めた人も多かったんです。
そのせいか、15~20年前に中国に留学しとった時に、明らかに文革を経験した世代に聞こうとしても、誰一人口を割ってくれませんでした。まるで国中に緘口令でも敷かれとるように。まあ、文革で人間性すら否定され言語に絶する屈辱を味わった人も多い上、当時はまだ傷が癒えてへんかったんやろなーと、今になったら気持ちはわかるよーな気がします。
これに関しては、中国でこれやさかい日本とかの方が情報が多いし研究も進んでるんやけど、本とかを読んでも実にわけがわからん(笑 社会主義の理論とか当時の政治闘争も複雑に絡み合うさかい、知れば知るほどよくわかんない・・・ってのが本音です。

せやけど、さすがに40年も経ったらだんだんと傷も癒えてきたんか、それとも「緘口令」が解除されたんか、徐々に当時を語る人たちが出てきたみたいです。
いちおう、「チャイナウォッチャー」でもあるさかい、「文革って何?」って質問にも答えんとあきません。答えられへんのはこっちの勉強不足やし恥でもあるさかい。それで色んな方面からアプローチして3連休で「夏休みの宿題」を片付けとったわけであります。
以上、言い訳を終わります(笑



日本人は、やけに「親日」「反日」で国を分けようとするのが好きです(笑
人の目をすごく気にする日本人の性格と言いましょうか、それで一喜一憂するのもある意味日本文化の一つやと思いますわ。そりゃ良い悪いとかの問題やありません。

で、もし「親日メーター」ってのがあったら、時にはメーターが振りきれて「測定不能」になるくらいの親日度を誇る国が台湾です。
俺もちょっとの間ながら、中国だけやなくて台湾にも住んでたことがあるんやけど、15年くらい前とは言え当時は日本統治時代を経験したいわゆる「日本語世代」がウヨウヨしとりました。住んでたんは台北やさかいまだ少なかった方やけど、南へ行けば行くほど、日本語世代の人たちの割合が高くなっていきました。
おばあちゃんに台湾語で話しかけられて、「ごめん、俺日本人やから台湾語わかんね」と北京語で謝ると、
「あらやだ!日本人に台湾語で声かけるなんて、あたしももうろくしたわね~」
といきなり日本語にチェンジ、俺呆然、というくらいのことなら日常茶飯事な時代でした。
何より、台湾に住んでた頃の家の家主さんが「元特攻隊員(学徒出陣組)」という濃さで、「特攻隊員として志願した時点で、自分は死んだと思ってるから、死なんて怖くも何ともないよ。いつでも来い!って感じだね」と言っては笑ってる豪傑やったさかい。俺が小さいころには近所にもよくおった、威厳があるおじいちゃんって感じで、当時一緒に台湾におった彼女は怖がってたけど、俺はむしろ昭和の男の懐かしさというものを感じてました。
それ故、「今の日本はどうなってるんだ!もっとしっかりしなさい!」と毎日のように・・・いや、毎日叱られてたような記憶があるけど、それは怖いというより、ふがいない孫をおじいちゃんが心配して叱咤激励してる、という「愛」がありました。日本人がどっかで忘れてしもた、日本人とは何かちゅーことをまさか台湾で気付かされるとは思いもしませんでしたわ。
これに関しては、別にブログでも書きましょうか。書き出したらこれまたキリあらへんさかい。

台湾の日本LOVEぶりはなぜなのか?
それは、日本統治時代にうんぬんかんぬん・・・。ということもあるにはあります。
日本統治時代は50年続いたんやけど、50年は短かそーで長いみたいで、そこでしっかり「日本」が染み付いて台湾人の中に浸透している、という期間としては十分でした。
で、日本人が台湾人に遺したもの。それは建物とか食事や言葉などの、目や耳など五感で感じられるものばかりではありません。「考え方」まで遺したことに目を向ける人はなかなかおらんと思います。

その一つが、「コツコツ型志向」。
台湾人は、人類学的には東南アジア系の血が濃いものの、分類すれば漢民族ではあります。でも、大陸の漢民族とはハードやなくて中のソフトウェアが全然ちゃうところがあるんです。その違いは、WindowsとiOSの違いくらいはあるかな~と。
大陸型漢民族は、金稼ぎに関しては一攫千金型で、株とか不動産投資とかに熱を上げて、あわよくば「濡れ手で粟」を狙う傾向があります。それと、「自分の手を汚すのは下賎の人間がやること」という儒教的な考えがあるせいで、エンジニアがなかなか育たへん、地位もそれほど高くない(これはちょっとは改善されとるかな)という文化的要因もあります。簡単に言うたら、中国(韓国もそう)は「文系国」、日本は「理系国」とも言えます。せやさかい、日本人が大の得意にしとる「コツコツ積み重ねる」というのが大の苦手やったりします。
俺は中国に留学・仕事で住んで、生でこの中国人気質に触れてたさかい、「中国が技術大国になるなんてあり得んわ」と私的にゃ言うとりました。
せやけど、「中国は日本を抜く、いやもう抜いた」という声にかき消され、やっと市民権を得たんは去年くらいの話やったりします。やっと俺に追いつきましたか(笑

反面、台湾型漢民族はコツコツ大好きであります。台湾に世界的な製造業が多いんも、その気質の違いですわな。シンガポール人も一時は製造業を重視しとった時期もあったけど、やっぱ生理的にあかんかったみたいです(笑 
その点、台湾人は製造業が肌にあってるんか、世界的なメーカーを多く生み出しとります。
台湾の製造業言うたら、パソコンのメモリとかを思いつく人が多いけど、台湾が誇る「世界一」がまだやったりします。
それが自転車。
マウンテンバイクやロードバイクなどのスポーツ系自転車乗りなら誰でも知ってる・・・いや、知らんのはどうかと思うぞ、というくらい有名なGIANTやMERIDAも純台湾メーカーです。仮に、いや万が一MERIDAを知らんかったら、SPECIALIZEDなら必ず聞いたことがあるし、乗ってる人も多いです。SPECIALIZEDは登記上は「アメリカ」なんやけど、MERIDAの子会社です。自動車に例えたら、MERIDAがトヨタならSPECIALIZEDはLEXUSみたいなもんですわ。
彼らはヨーロッパの自転車メーカーの下請けをコツコツやっとるうちにメキメキと実力をつけ、今や世界のGIANTにMERIDA。「自転車界のトヨタとホンダ」ですわな。ヨーロッパメーカーのスポーツ系自転車も、ブランドだけ貸してほとんどがMADE IN TAIWANなのが現状です。
正直なところ、ものづくりが得意な日本は、スポーツ自転車業界ではかなりマイナーです。ブリジストン(ブランド名は"ANCHOR")が頑張ってるかな・・・という程度。「日本ダメじゃん」と思いきや、しかし自転車のパーツはほとんどが日本製。同じく、自転車に乗ってて”SHIMANO”を知らん人は、世界には100%おりません。知らんという人は間違いなくニセモノです(笑
"SHIMANO"は釣り好きな太公望のみなさんでもお馴染みのブランドやけど、自転車用パーツでも世界的なメーカー、それも我が(元)地元の堺が産み、そして今でも本社が堺にある世界メーカーです。

堺自慢はさておいて(笑)、この台湾人のコツコツ志向は「日本の置き土産」と言われとって、それを文化的に解説したんが、最近亡くなられた作家の邱永漢氏でした。邱さんは旧制台北高校を卒業した純台湾人ながら、大陸型漢民族的要素があった人やけど、「見えない日本の置き土産」を指摘するところは、さすが目の付け所がちゃうなと感心しましたわ。中国人気質にかんしては、邱さんの『中国人と日本人』が白眉やさかい、興味ある方は読んでみてくんなはれ。中国人だけやなくて、日本人が気づいてへん日本人気質も、批判も含めて気付かされます。今ちまたに溢れてる『嫌中本』はこの本を読んでからでも遅くない、特に中国と中国人に直に、濃~~く触れてへんかったら。

話がまた脱線しそうやさかい、何で台湾人が親日なんか?っちゅー原点に戻りましょう。
上にも書いた通り台湾は、お隣の某国風の言い方をしたら「日帝50年」を経験しとるさかい、歴史的に日本とのかかわりが深いこともあるし、ほとんどの本はそこをえらい強調しとります。
せやけど、それだけやない、というのが俺の意見です。
歴史っちゅー「過去」だけやのーて、今我々が生きてる現代、国際政治的に台湾の親日に目を向けてみましょう。


■■■天王寺駅の怪 後編

もう7月になりますが、まだまだ梅雨明けとはほど遠く、どんよりとした天気の中気分もどんよりしそうなBJのぶです。

さて前回、天王寺駅の怪 前編というブログを書きました。
すぐ後編を書こうと思ったものの、もっと資料を集めたりして・・・ってただの言い訳になるけど、なんだかんだで先延ばしにしてしもて、ようやく書ける見込みが来ました。
待ちくたびれて、「もうええわ」と思う人も多いと思うけど(笑

さて、俺をはじめ普段から使っとる人には普段すぎて何の不思議も感じなさそーな駅にも、さりげなくミステリアスな歴史が詰まっとることがあります。今回は、そんな歴史の異物・・・もとい、遺物を解いてみようと思います。

まずその前に、阪和線が「阪和電気鉄道」やった頃の、天王寺駅のホーム配置から説明せんとあきません。

テーマ:雑記
ジャンル:ブログ

■■■やるべきことをやる

今回は、リアルタイムな国際政治の話を。
このブログじゃ政治的な話はあんまし出てきません。せやけど興味がないわけやありません。
むしろ中国語がメシの種やさかい「大いに興味あり」どころか、かかわっていかんとあきません。場合によっては商売あがったりなこともあるし(笑
せやけど、せっかくブログ書いてるし、間接的に東アジア情勢でメシ食ってるってのもあるさかい、主張しておくとこはちゃんと書いとかんとあかんなという考えに至って、たまには書いていこうかな~と思った次第です。
大阪弁で書くさかい何か説得力ないよな~と、自分でも書いてて思うんやけど、まあ一人の市井の人間の、なまくらな剣で斬る与太話と思って気軽に読んでくれたら幸いです。

そして、あんまし長文にならんよう、努力致します(笑

■■■夜の飛田散歩

今週末、気分転換にちょっとプチ旅に行ってきました。
それはここ↓


140622-1

なんだ、ただの独房か。
あ、いや、別に警察の留置場で寝泊まりしたわけやありません(笑

ここは大阪屈指の安宿街、あいりん地区(以下「釜ヶ崎」)のとある宿の部屋なんです。

気分転換の仕方は人それぞれやけど、効果的な気分転換は
「毎日のルーチン生活を断ち切る」
ということに尽きると思います。
具体的に言うたら旅行がそれにあたるけど、手っ取り早いルーチン生活の断ち切り方は、

いつもと違う所で寝る
zzz
俺の経験上、いつもと違う環境、いつもと違う布団(ベッド)で寝るだけでも、頭のルーチンスイッチが切り替わって、たとえ家の隣のホテルに泊まってても「擬似旅」になります。脳が「いつもの毎日と違う」と認識させたらこっちのもの、ストレスの根源が断ち切れて、不思議と気分が入れ替わるんですわ。
たまの贅沢に数万円するホテルに泊まってみるのもええけど、「脳のスイッチ」を切り替えるだけやったらビジネスホテルで十分です。かく言う俺がこんな「独房」に泊まってるさかいにな(笑

大阪人以外でも、釜ヶ崎って言うたら知らんかっても、「あいりん地区」って聞いたら日雇い労働者の街として、名前は聞いたことがあるかもしれません。
今でもその性質の根本は変わりないんやけど、今違う意味で注目されとるんが、

「日本屈指の安宿街」

ということ。
日雇い労働者が泊まる、大阪弁でいう「ドヤ」と言われる木賃宿に外国人旅行者が「安っ!」と目をつけたのが始まりで、そこから釜ヶ崎を拠点にする外国人旅行者が急増しました。
日本人的には、釜ヶ崎って前述の日雇い労働者の街の他にも、治安が悪いとかきたないとか、決して良いイメージは持たれへんけど、「旅行」という観点から見たらこんな便利な所はない。
関空からも電車で一本、繁華街の梅田まで地下鉄で一本、同じくミナミはその気があれば歩いていけるし、天王寺なんか余裕の徒歩圏内。「大阪のアキバ」と化してしもた日本橋まで余裕の徒歩圏内。
そして、奈良や高野山、京都までも電車で一本やし(京都は時間帯によるやけど)。
つまり、ここを拠点にすると四方八方、どこでも行ける交通の要衝なんです。うーん、なんでこんなとこに気づかんかったんやろ?
治安は決してええってわけちゃうけど、それでも修羅場くぐり抜けてきた外国人バックパッカーにとっちゃ屁のかっぱのようなもん。なんぼ日本屈指の治安の悪さを誇る(?)あいりん地区言うても、いきなりこめかみに拳銃ぶっ放されたりはせーへんしな(笑

で、外国人が急増してしもたあいりん地区はここ数年でガラリと様変わり。別に街がキレイになったとか、おしゃれになったとか、外国人向けバーが増えて賑やかになったとかやないんやけど、明らかに明るくなっとることは確かやと思います。
同じよーなとこに東京の山谷ってとこがあるけど、そこは外国人旅行者が増えて宿の料金足元見とる感が強いんやけど、大阪はあいも変わらずの格安料金でお泊りできます。
俺が泊まったところはネットでの予約もOKで、ネット予約割引で¥2,100これで「税込み」です。というか、消費税値上げ前と料金変わってへんし。
だいたい、この料金くらいがあいりん地区の安宿の平均くらいかなーと思うけど、探すと¥2000以下やったら今でもなんぼでもあったりします。
まあ、例外的にこんな値段の宿もあったりして。

11092412
(詳しくは消えた遊郭・赤線跡をゆく 大阪一DEEPな所編 探索2回目をどーぞ)

さて、泊まる度胸ありますか?俺はありません。堪忍してくんなはれ(笑

部屋は3畳で、写真の通り部屋の奥に畳まれた布団が、ポツンと宿泊客を出迎えてくれます。3畳っていかにも狭そうに思えるけど、大人の男が一人、ゴロンと足を伸ばして横になるには十分な広さやったりします。
部屋は全体的には殺風景やけど、こんな安い値段できらびやかな部屋を期待する方がわがままやろ(笑
そもそも、こんなところに泊まる人は、豪華さとか、風雅とか、そんなんは求めてません。希望はただひとつ。

「寝れたらええ」

ただそれだけ。シンプルイズベスト。
せやけど、こんな狭い部屋ながら、テレビに冷蔵庫、エアコンまでついてたりします。これだけでも十分十分、十二分。これ以上贅沢言うたら罰が当たりそうですわ。
ただ、埃がひとつもない清潔さとか、それなりの広さとかを求めるんやったら、ちょっと物足りんかもしれません。要するにお値段相応ってやつで、「それ以上」を求めてる人はちゃんとしたビジネスホテルに泊まるべし、というわけです。
さすがにトイレと風呂は共同やけど、決して不潔というわけやないし、風呂は大風呂で昔修学旅行の旅館で入ったような、懐かしささえ感じる古さでした。まあ、ロッカーの鍵が壊れてたのはご愛嬌やけど、「こんなとこに貴重品持ってくるお前が悪い」・・・これが安宿の掟です(笑
そして、上の部屋の写真を見てもわかるよーに、風呂用のバスタオルにフェイスタオル、浴衣までついてたりします。
こんなに安いのに、こんなにサービスつけてくれてええのん?いや、もしかして使ったら別料金とかいうオチはないやろな?
と警戒してまうよーなおもてなしやけど、心配御無用、使用は無料です。
そして安宿すべてやないとは思うけど、外国人旅行者が多く泊まるとこやとWi-fiまで完備やったりします。
Wi-fiって無線で使えるネットのことやけど、これももちろん無料です。つまりiPadとかノートパソコン持って行ったら、ネット使いたい放題ってわけです。パソコン持ってへんかったらどないすんねんて?それも心配ご無用、フロント近くに無料で使えるパソコンがあったりします。さすがに時間制限はあると思うけど、海外旅行やとメールの時間が楽しかったりするさかい、外国人旅行者も遠くの家族、恋人と連絡する時間が嬉しい気持ちは同じなんかもしれません。
こんな安宿でWi-fi完備にパソコン完備とは、やっぱり21世紀恐るべし(笑
ちなみに俺は、部屋でiPadのアプリを開き、Wi-fiを通して世界中のラジオを聞いてたりします。いつもいない環境で、外からの情報を遮断して海外のラジオを聞いてると、自分が一体どこにいるのかわからんよーになりますわ。はて?俺は日本におるんよな?って(笑